「私が永遠亭の診療所を開いている、八意永琳よ」
「あ、えっと、か、茅野守連といいます。よろしくお願いします」
畳の部屋に通された青年は、5分ほど正座して待っていた。が、早々に足を痺れさせてしまったためにその場に崩れ、咲夜に面白半分に足をツンツンといじられていた。
そんな所へ、永琳と呼ばれる医者が鈴仙を伴ってやってくる。そのままお互いに自己紹介をしてしまった青年の心境は推して測るべし。
姿勢を正し、お互いに対面して座る。再び正座しようとしたのだが、崩して構わないと永琳は話す。
鈴仙は掃除の続きをする為にその場から離れた。よってこの場には、対面して座る青年と永琳、壁に寄りかかる咲夜の3人となる。
が、この永琳という女性、青年の目には眩しすぎた。しめ縄のように太く結わえた銀髪に、女性ながらも精悍な顔つき。赤と紺のツートンカラーの服をまとっているが、小さくはない胸元がその存在を主張していた。ぷるんとした唇も、整えられた長い睫毛も、光り輝いてすら見える白い肌も、全てが全てこの世のものではない様な美しさを備えている。
この凛々しくも美しい女性と正面から向き合うというのに、青年はまだまだ貧弱な精神しか持ち合わせていない。
「噂はかねがね。聞きたいことは色々あるけれど、先に茅野さんの用件から聞かせて頂戴」
「わ、わかりました。では、単刀直入に伺います」
意を決して永琳の瞳を見つめ、青年は口を開く。
「肉体を持つ幽霊の傷を癒す薬を探しています……できれば沢山」
「……不思議な薬ね」
永琳はスッと視線を鋭くさせたかと思うと、一度瞼を閉じる。そして、静かに瞳を開いては、その口から言葉を連ねていく。
「とりあえず答えとしては、薬はあるわ」
「ほ、本当ですか!?」
「ただし、3つ条件がある」
立ち上がりかける青年を、永琳は手で制した。そしてその手を握り、人差し指を立てる。
「一つ。そもそもそんな薬を使う人がいないから、試作として作っただけのものしか在庫がないわ。今回渡せるのは5回分、5つよ」
「5つ……いえ、十分です。是非とも頂きたいです」
その返答に、永琳は僅かに薄目になるも、中指を続けて立てる。
「二つ。材料は珍しいものが多いから、これから作るにしても一日に作ることのできる量は限られるわ。一日に一つがいいところでしょうね」
「……万が一の事態もあるので、作って頂けるなら非常に助かります」
「わかったわ」と、小さく頷く永琳。
この永琳という女性。先程から青年が持ちかけようとしていた話を全て先読みしているかのように話す。まるで、青年に積極的に協力しようとしているかのように、である。
だが、最後の発言で、青年もその理由がわかったような気がした。
「三つ。経過観察の必要があるから、あなたたちには永遠亭に住んでもらうことになるわ。軍艦の魂の具現化――これを危険と思わないわけがないでしょう?」
その真意――いや、隠そうともしていない。つまり永琳は、艦娘たちを自分たちの手中に収めたいのだろう。
軍隊のない幻想郷。幻想郷においては弾幕ごっこで勝負を決めるとは言え、統率のとれた集団は善し悪しを別として危険なものと判断されてもおかしくはない。
だから、自分たちの監視下に置く。紅魔館の異変も、形が違えば単純に紅魔館対艦娘という戦争になっていたのだから。
だが、軍艦、それ以前に軍という概念は幻想郷においてほとんど存在しないはずである。この永琳という医者は、どこでそのような知識を手に入れたのだろうか。
考えるも考えるも、青年の頭にはアタリがつくような答えは見つからなかった。
「それは……お断りしたいです」
しかし、受け入れることもできなかった。青年は拳を握り締め、生唾を飲み込みながら答える。
答えた瞬間、青年は冷や汗を垂らす。表情こそ変わりはしないのだが、永琳の雰囲気が目に見えて攻撃的なものへと変貌したのだ。
まるで空気が揺れているようで。
(ああ……今更だけど、改めて思い知らされたっていうか……)
自分は、艦娘は――この幻想郷において和を乱すファクターであるらしい。
「薬、『高速修復材』というのだけれど、3つ目の条件を飲み込めないようなら渡すことはできないわ」
「そこは……どうにかできませんか?」
「力を持った新参の神社と、特殊な干渉力を持つ海軍。どこを信用しろというのかしら? 幻想郷の支配でもするつもり?」
更に視線を鋭く尖らせる永琳。
「軍というのは、世界を変えてしまうぐらい大きな力よ。しかもあなたたちは、幻想郷で扱いきれない、不思議に包まれたままの海に対する唯一の手段。既にどれだけ揺るぎない立場に置かれているのか理解していて?」
「……僕は」
幻想郷に来て、守矢神社はまだ数日の新参もいいところである。ところが、その新参勢力が擁する個人と付随する力が、発生した異変を半日で解決したとなればどうだろうか。
そして、誰もが手出しできない海にすら対応できるとなればどうだろうか。
頼もしい、面白くない、様々な感情が生まれるだろう。しかし、最も考慮すべきは、危険だ、あるいはその個人を引き入れれば幻想郷において大きな力になる、といった思考に至ることではないだろうか。
少なくとも、八意永琳という永遠亭の主は、それに近い懸念を抱えているようだ。
「八雲紫さんにも信用を頂いています。それではダメですか?」
「あの妖怪は信用するには人柄がダメね」
「……ですよね」
「名前を出した貴方が納得してどうするの……」
紫の名前ならどうにかなる、と思っていた。しかし、どうにも紫の評価は人によって意見が分かれるらしい。
どうすればいいのだろうか。『高速修復材』という薬を手に入れた上で、守矢神社で暮らし続ける方法はないのだろうか。
信用が足りないのだ。永琳を納得させるだけの、艦娘と自分に対する信用が。
ないものは――築くしかない。
「八意先生。あなたが僕らの存在を危うく考えていることはよくわかりました。でも、僕にも守矢神社を離れたくない理由があります」
「永遠亭に住まなければ薬は渡さない」
おそらくこれは殺気。先程から全身が凍りつきそうなほどに萎縮しているのは、目前に座る永琳が睨みつけているから。
少しでも気に入らない返事をすれば、殺されるまではなくとも痛い思いぐらいはするだろう。
「聞いてください。僕は艦娘を統括する立場にあります。命令は僕が出します。僕を抑えれば、艦娘は無効化できるも同然です」
「あなたを拘束すれば手っ取り早いってことかしら?」
「それは待ってください。仮に艦娘が何か幻想郷にとって良からぬことをしてしまった場合は、僕を殺してもらって構いません。僕を殺せば、少なくとも命令系統はなくなります。それで納得してもらえませんか?」
瞬き一つせず、青年を睨みつける永琳。咲夜が何か言おうとしていたようだが、永琳はそれすらも制して青年から目を逸らそうとしない。
「確かに、軍では指揮官を潰すのは有効な手段ね。でも、実際に戦闘能力を有するのは艦娘でしょう? その約束に意味はないわ」
「しかし、僕らに幻想郷を乱すつもりはありません。守矢神社もです。信用できないのは分かっていますが、僕らの意思を無視するのは――」
「だから、原因のあなたに話を持ちかけているのよ、提督さん」
全く表情の変わらない永琳。これほどの恐怖、人生の中でも感じることはそう多くはないだろう。
的確に意見を潰す。それでいて何を考えているかを読み取らせない。
青年にとって、あまり相手にしたくはない性格である。
「霊夢さんを探す手がかりが、海にあるかもしれないんです。そして、それができるのは僕らだけ」
「永遠亭に住みながらでも出来ることよ」
「……守矢神社を離れたくありません」
「危険だから永遠亭で管理すると言っているの」
「なら、僕をすぐに殺せるような対処をするだけで簡単です。何かあれば、僕を殺せば艦娘の戦力は無効化できるも同然ですから」
「殺したら無効化できるって、いつ確認したのかしら?」
「……っ、それは……」
永琳から瞳を逸らし、青年はその場に俯く。
(……わからない。信用って難しいな)
今まで人との接触を拒み続けてきた罰、だろう。そして、立場を理解せず流されることに甘え続けてきた罰。
誇れるものなど何もない。そんな自分が信用を得るために、できることはただ一つ――。
立ち上がって咲夜に向き直り、僅かに逡巡した後に青年は話す。
「咲夜さん。ナイフ、貸してください」
少しばかり瞳が鋭くなっている咲夜。が、何かをいう訳でもなく、太ももからナイフを一本取り出すと、無言で青年に渡した。
その刃を眺めれば、自身の顔が映る。
(……まだこんな顔してたのか)
そして、ナイフの柄を右手で握り直す青年。立ち上がったまま座った永琳に向き合うと、表情こそ崩さないものの永琳はその殺気を強める。
「八意先生。ひとまず、僕がどれだけ本気かはお見せしたいと思います」
「ふうん……どうするのかしら?」
「こう、するんです――!」
言葉とともに、青年はナイフを逆手に持ち替え勢いよく振り下ろした。ナイフの目指す先は、青年の左の肩口――。
(惜しくは……ない!)
腕一本をもって、信用を形にしようとした青年。そして、そのナイフは服を破り皮膚を抉って骨に到達――。
するより先に、青年は畳の上に投げ出されていた。
気が付けば視界の先には天井。打ち付けたらしい背中には鈍痛が走り、気がついてから痛みが襲ってくる。
何が起きたのだろうか。視線を動かせば、傍には咲夜が静かに立つ。
「私のナイフに何をするのかしら? あなたの汚い血で汚さないで欲しいわ。永琳に襲いかかりでもすればまだ面白かったのに」
「な、投げ飛ばされた……? というより、八意先生に襲いかかるわけないじゃないですか。皆の薬を作ってくれるっていうのに……」
仰向けに投げ出されたまま、青年は大きなため息を一つ。ナイフは既に咲夜が回収したようで、その手には青年が握っていたはずのナイフがあった。
起き上がれば永琳の顔。ふと気づけば、その顔は優しい微笑みに変わっており、慈愛にあふれたその表情は形容するに女神のようであると青年は胸を鳴らす。
永琳は、起き上がった青年の左手を両手でゆっくりと包み込み、笑顔はそのままに真剣な眼差しで唇を震わせる。
「朝方に魔理沙が来たけれど……彼女の言った通りの人なのね、あなた。まるで人を信用していないわ。人を信じることのできない人を、どうして信じられると思うの?」
「……え、えっと、魔理沙ちゃんそんなことを?」
「“信じてください”、“手伝ってください”、“助けてください”。どうしてこんな簡単な言葉を言えないのかしら」
「そ、それは、少しでも状況をよく知ってもらおうと思って……」
「知ってもらうためなら、茅野さんは腕を切り落とすのね。でも、あんなナイフじゃ腕なんか落ちないわよ?」
言葉に詰まる青年。何とか言い訳を考えようとしたものの、呆れたような表情をもって永琳はため息をつく。
そして、咲夜からも口撃される。
「紅魔館の異変が終わったとき、早苗がなんて言ったか私は覚えているわよ? 『二度と同じ真似をしないでください』って言葉に、貴方頷いていたわよね?」
「うぐっ……はい。あ、あの、黙っていてもらえません……?」
「あら? なら貸し一つにしておくわね。それで、あなたはまた早苗を悲しませるのかしら?」
「死なないならセーフかな、と思――」
「とんでもない阿呆なのねあなた。今のは私でも怒るわよ?」
酷くイライラした様子の咲夜。そして、何か琴線にふれる部分があったのだろう。永琳もまた、青年に対して女神のような表情から鬼の様な微笑みに変わっていた。
その顔は、先程までよりよっぽど恐怖を感じさせるものである。
「自分の体を大事にできない人が他人の心配? 私は茅野さんに座布団を何枚差し上げればいいのかしら?」
「い、いえ、僕は至極真面目に……」
「あなただけ永遠亭で預かって、専用の精神矯正プログラムを組んでもいいのよ?」
「ひえー!? そ、それはちょっと……え、ということは?」
永琳はもう一つため息をつき、青年に対して向き直る。
「別に神社にいればいいじゃない。というより、ウチみたいな小さな診療所じゃ、艦娘さんたちを全員収容なんてできる訳ないわ」
頬に手をあて、ニコニコと笑みを浮かべる永琳。先程までの雰囲気はどこへ行ったのか、今はもう完全にただの優しそうな女医である。
「魔理沙からどういう人か聞いていたから、少しだけからかっちゃったわ。どういう考え方なのかわかったから面白かったわよ」
「な、なるほど?」
「安心して。高速修復材は渡すし、一日一つだけど作ってあげる」
「た、助かりますが……」
「怖かったかしら? 意外とお茶目でしょう?」
人の肩を切り落とす寸前まで追い詰めてそれをお茶目の一言で済ませる精神力は、見習うべきなのかもしれない。
「お値段の方だけれど、今回は茅野さんの大立ち回りに免じてツケにしておいてあげるわ。まあ、それほど貰う気もないから、気が向いたときにでも払って頂戴」
「え、ええ、ありがとうございます……」
「今日は神社を一日追い出されたそうね? 良かったら泊まっていってもいいのよ?」
「本当ですか!? あれ、追い出されたって僕言いまし――」
笑顔で矢継ぎ早に言葉を連ねる永琳。だが、その話が出たときには、咲夜が青年の襟を掴んで引きずっていた。
「ちょ、苦し!」
「さあ、用事も終わったんだから早く帰りましょう」
そのまま襟を引っ張られ、青年は部屋の外へと出て行く。咲夜に無理矢理連れられるが、青年は一言だけ永琳に向かって口を開く。
「あ、あの、高速修復材のこと、ありがとうございます!」
「ふふ、いい子ね。よく出来ました。薬はうどんげが準備しているから、あの子から受け取りなさい」
そして、青年は部屋を後にした。部屋を出るその際、
「失敗したわねえ。まあ、組み入れるのはまた今度にしましょうか」
と、聞こえたのは、おそらく気のせいだったのだろうと信じて。
「では、こちらが高速修復材です」
「……バケツ?」
「ええ、容器はバケツです。フタもあるのでこぼれる心配はありません」
「あ、そ、そう……」
薬と聞くからにはもっと怪しげな瓶に入っているものかと思っていた青年。如何せん医者にかかった経験も皆無と言っていい為、この薬の出され方は予想外であった。
もしかしたら、幻想郷の薬はバケツで出すのが普通なのだろうか。
「ちょっとおうどん、バケツで出すなんてどういうつもり?」
「仕方ないんですよお。一定量ないと効果が出ませんし、保存する容器にもいいサイズのがないですし……」
「全く、仕方ないわね……」
「使用方法としては、身体にぶっかければいいみたいです。ただ、バケツ一つにつき一人分しか効果はないそうですのでご注意を」
ブツブツと文句を言う咲夜と、それをなだめる鈴仙。
そんなところへ、飛び跳ねるようにしてもう一人、こちらも兎耳を生やした小さな少女がやってきた。
「あれ、鈴仙。お客さんかい? 紅魔館のメイドと……誰かな?」
幼い体躯を包む薄桃色のワンピースに、兎の垂れ耳。黒のショートカットの短髪にキョトンとしたその幼っぽさは、鈴仙に比べてより小動物らしさ、兎らしさが表れているといえるかもしれない。
「こんにちは。妖怪の山に越してきた守矢神社の茅野守連です」
「因幡てゐだよ。そういえば耳にしたねー。へー、ふーん、ほーん?」
「え、ど、どうしました?」
「いやいや、何でもないよ」
と、てゐは青年をジロジロとその姿を全身眺めたかと思うと口元に手を当てて小さく笑い、くるりと回って鈴仙の方を向いた。
「鈴仙、彼らはこの後どこへ行くつもりだい?」
「人里に行くらしいわよ?」
と、いう鈴仙からの返答に、てゐは大きく頷き、青年の方へ振り返って瞳を輝かせた。
「ならお兄さん、竹林の外、うんにゃ人里まで案内してあげるよ」
「え、本当ですか? 助かります」
「なあに、30分もあれば抜けられるからね、お安い御用さ」
「30分……?」
と、青年は咲夜の方を振り向くも、咲夜はあさっての方角を向いて地面の石ころを蹴り飛ばしていた。
「と、とりあえずお願いします」
「日も暮れてくるから、早め早めに連れて行ってあげるよ。じゃあ、行こうか」
突如現れたてゐという少女に青年は流されるままであったが、バケツを持って先を歩く彼女についていく。咲夜も一つだけバケツを持って、それに続いた。
道行く道の中で、てゐが時々青年に向き直りカラカラと笑っていた。しかしその理由がよくわからないままに、青年はあとに続くしかなかったのであった。
「じゃあ、ここまでくればいいよね?」
「ええ、助かりました。ここまですんなりと竹林を抜けられるなんて」
「…………」
「咲夜さん、そんなに拗ねなくても……」
竹林を抜け、更には人里にまで案内してもらった青年と咲夜。てゐは飄々としながら元気に駆け回って案内を進めていたが、対する咲夜は不機嫌そうに唇を尖らせていた。
「なら、帰るとするかね。ああそうだ、君に一つプレゼント」
「はい? 僕、ですか?」
「うん。ほら、ぎゅーっと」
「ファッ!?」
てゐはニヤリとした表情で目の前に立ち、上目遣いでいたずらっぽい笑みを浮かべたかと思えば、なんと青年に抱きついてきたのである。
突然の行為に慌てに慌てる青年。が、てゐは飄々とした様子ですぐに身体を離し、小首を傾げながら口角を上げる。
「ちょっと見てられなかったからね。君、これから数時間以内に、ささやかだけどちょっとした幸運が訪れるよ」
「へ? こ、幸運? 一体何を――」
「それだけ。じゃあ、また機会があれば会おうじゃないか」
そして、てゐは青年と咲夜の間をすり抜けるようにし、その足を迷いの竹林へと向けた。投げかけられた言葉に対して困惑するしかない青年は、首を捻りながらその背中を見送ったのである。
「慌ただしい兎ね」
「でも助かったじゃないですか。もう夕方ですし、遅くならずにすみました」
「皮肉のつもり?」
「あ、いえ。さ、咲夜さんが帰るときに明るい方がいいと思って……」
「ふうん……?」
少しばかり顔をしかめる咲夜。青年としても竹林で迷った咲夜を責めるつもりは毛頭ないのだが、顔をほんのりと赤くしているところを見るに、怒っているのかもしれない。
しかしともかく、これで人里には到着した。今後の予定を決めなければならない。
「とりあえず、一度ここでお別れです。野宿するにしても、とりあえず人里の周辺にはいようと思います」
「そうね。ここには妖怪退治のできる人間もいるから、何かあれば頼るといいわ。で、お金を渡したのに本当に野宿するの?」
「今すぐにでもお金を返したいぐらい、お金の貸し借りは嫌ですからね……。それに、現状僕にはお金を稼ぐ手段がありませんし」
「……まあ、その考えに口を挟むつもりはないわ。なら、とりあえず明日の朝に守矢神社から迎えに来るけれど、合流場所は人里でいいのね?」
「はい、お願いします。高速修復材は必ず届けてください」
「もちろんよ。それじゃあ、ちゃんと生きていなさいよ?」
「お腹がすいたら虫でもとって食べますよ。お気をつけて」
何度か振り返りながら、咲夜は体を浮かせてバケツを持ち、守矢神社の方角へと飛んでいった。
ちなみに、咲夜は飛べるが、青年と一緒に飛ぶのは嫌であると断られている。が、その感覚は当然である。早苗がすんなりとお姫様抱っこをしたことの方が余程驚くべきことなのだから。
(さて、それじゃあ一応宿を探してみようかな)
古めかしく感じられる木造の家屋が立て並ぶ人里。小さな子供が駆け回り、往き交う人々は笑顔を浮かべて暮らす町。
笑顔のようでいて少しばかり寂しそうに、青年は歩き出した。
一時間ばかり歩いた頃。宿はいくつか見つけたのだが、足を踏み入れることをためらっていた青年。やはり野宿をするしかないか、と思っていたのだが、ふとある人物に視線を奪われる。
(泣いてる……子供?)
「おかあさああああああああん!」
小さな女の子であった。道端で叫んでは涙を流し、嗚咽を漏らしながら目元を何度もこすっている少女。
(母親、か……)
物思いに耽りたい気分は自身でも重々に承知していた。母親という単語に、何も感じないほど青年は不感症なわけではないし、そんな環境で暮らしてもいない。
だが今はそんなことより、少女を泣き止ませることの方が先だろう。
少女に近づき、青年は目線を合わせるためにその場に膝をつく。
「お母さんとはぐれちゃった? お兄さんも一緒に探してあげよっか?」
「ひぐっ、うっく……おかあさん……」
「お母さんも君のこと探してるよ。だから泣きやもう、ね?」
「……うん」
「いい子だね」と微笑み、青年は少女を肩車した。突然抱き上げられたことに少女は驚いたようだが、目元をこすると辺りを見回し始める。
「どう、高いでしょ? そこから君のお母さんは見えるかな?」
「ううん、いない……」
「そっか。じゃあ、お母さんに聞こえるように、力いっぱい叫ぼうね」
「うん!」
青年は足を進め、人里の中を歩き回る。少女は青年の頭の上で、必死に母親を求め叫んでいた。
5分ほど経った頃だろう。人波をかき分けて、一人の女性が現れた。
「お、おい! ちよ! ちよじゃないか! どうしたんだ一体?」
「この子のお母さんですか?」
「誰がお母さんだ! 私はまだ独身だ! ちよは私の教え子だよ!」
腰まで届く青のメッシュの入った銀髪の上に、リボンが結ばれた帽子を載せている。胸元の大きく開いた青いドレスのような服を着ており、女性らしい体つきがその服装からも見て取れた。
「それで、お前は一体何をしているんだ?」
「この子が母親を探しているので、手伝っているんですよ」
「そう……か。いや、すまない。幼女を誘拐する不審者もいるものだから」
胸を撫で下ろし、女性は一つ息をつく。一方で、幻想郷でも不審者はいるんだなーと、青年はよくわからない納得をするのであった。
「けーねせんせー、こんばんはー!」
「ああ、ちよ。もう大丈夫だ。お前の母親は先ほど見かけたからな。お前を探していたぞ」
「ホントー!? よかったー……」
青年の頭の上で、少女は花開くように笑みを浮かべた。
10分後、女性も一緒になって探していると、少女が母親に気づく。無事に合流し、母親には何度もお礼を言われる中で、青年は照れながらも少女に別れを告げた。
一つ息をついたところで、女性は青年に対して振り返る。
「君のおかげで助かった。あの子の教師として、礼を言わせてくれ」
「僕は……見ていられなかっただけですよ」
「そうか。そういえば、挨拶が遅れたな。私は上白沢慧音。この人里で、寺子屋の先生をしている」
「茅野守連です。妖怪の山に引っ越してきた守矢神社に住んでいます」
「ほほうお前が……? 知っているぞ。少しばかり有名だからな」
と、慧音という女性は目を光らせ、何かを探るように青年をジロジロと見つめる。その視線は少しばかりこそばゆかったが、青年も苦笑しながら言葉を返した。
「まあ、来て早々に色々やってしまっていますからね……」
「妖怪の山との同盟、塩の製造の護衛、紅魔館の粉砕。あの鴉天狗じゃなくても知りたがるような話ばかりだ」
「ははは……お恥ずかしい」
「恥ずべき話ばかりではないさ。それで、今日はどうして人里に?」
「実は、今日だけ追い出されてしまって、人里で宿をとるか周辺で野宿をするか悩んでいたところだったんです。それであの子を見かけて」
「ふむ……? そういうことならわかった」
と、慧音は自身の胸をドンと叩いた。そのたわわな果実が一緒に揺れるも、そんなことを気にせずに青年は慧音の発言に首をひねる。
「え、どうかしましたか?」
「いや、教え子を助けてくれたお礼だ。私の所に泊まるといい。私以外は誰もいないから気にするな」
「い、いやいや、ちょっと待ってください。たかだかその程度でお世話になるわけにはいかないですよ!」
「待てよ、今夜は満月か……まあいいだろう。よしカミツレ、私の家に来い」
「おかしいですよそんなの! もし僕があなたを襲う暴漢だったらどうするんですか!」
「男だというだけじゃあ私は倒せないさ。それに――」
君“たち”の歴史は非常に面白そうだ、と。
瞬きを繰り返し、発言の意味を飲み込もうとするのだが。
「歴……史? ……何を知っているんですか?」
「いや、今は断片的にしかわからないよ。だが、今夜は満月。君たちの歴史、それにあの海の歴史もわかるかもしれない。面白そうだと思ってね」
「……何を」
「まあ、付いてくるといい。私なら妖怪が襲ってきても守ってやれるからな。何を迷うことがあるんだ?」
その意味は、やはりわからない。
確かに、青年にとってはお金を使わなくて済むし、宿も確保できるし、その上妖怪に襲われる可能性も減る。悪いことなどない。
だが、青年の持つ倫理感、そして慧音の語る謎への疑問が、それを押し止めようとする。
「無理にとは言わないさ。ただし、一つ。カミツレ、君は幻想郷に来て日が浅いと思うが、この幻想郷の人里の暮らしを知っているか?」
「……いえ、知りません」
「神社の者だと言ったな? 人間の信者を獲得するなら、この人里が最も適しているだろう。ここの人の暮らしを知っておくのも悪くはないと思うぞ」
なるほど、と青年は関心した。慧音が何を企んでいるかはともかくとして、確かに守矢神社はまだ幻想郷にとって新興宗教もいいところ。あらかじめどのような人が居るかを観察しておくことは、守矢神社にとって悪いことではない。
青年は与えられてばかり。ならば、神社のためにできることは、積極的にやっていかなければ申し訳が多々ないだろう。
(てゐさんの言ってた幸運って……このことなのかな?)
「……わかりました。今回はお言葉に甘えさせてもらいます。本当にありがとうございます」
「気持ち悪いぐらい綺麗な手のひら返しだな。まあいいさ」
慧音は苦笑し、歩き始めた。青年もそれを追い、隣を歩く。
咲夜は無事に神社についただろうか、高速修復材は届けられただろうか、艦娘の皆はまだ耐えられるだろうか。様々な思考が、頭に浮かび上がっては消えていく。
諏訪子の真意、永琳の真意、慧音の真意。疑問は疑問のまま心に留まり、解決されることはなく。
幻想郷に来て初めて、守矢神社で過ごさない夜がやってくる。