どれだけ時が過ぎたかはわからない。しかし、呼ばれることのない自分の名前が呼ばれていた。
名前など、ただの記号でしかない。ただ個人を区別するために付けられたもので、そこに意味など求めてはならない。求められなかったものを、どうして今更求めるのだ。
しかしそれでも、青年の名を呼ぶ声があった。自身を呼ぶ声をほとんど耳に残したことがない、だが一人の少女の声だけは鮮明に覚えている。
呼ばれたから応えるわけではない。少女の声だったから、というわけでもない。
懐かしい記憶の中に眠る声に、ただ誠実に応えようと――。
「――――い。カミツレさん、起きてください!」
「……え、は、はい?」
いつの間に気を失っていたのかはわからない。が、滅多に呼ばれることのない自分の名前が呼ばれた珍しさから、青年は目を開く。
どうやら鳥居の前で倒れていたらしい。早苗が肩をゆすられていたが、目を覚ますと同時にそれを制する。
「えっと、もしかして寝てた?」
「気絶です」
「あ、はい」
確かに、神社の入口で眠るようなはた迷惑極まりない癖を持っていた覚えはない。と思いつつ、青年は体を起こして立ち上がる。
「ここは……さっきの神社?」
「そうなんですけど、そうじゃないんです! こっちに来てください!」
鼻息荒く、早苗が青年の腕を引く。腕を突然掴まれたことにも驚いたが、それどころではない現象が直後に起きる。
「あれ……地面」
腕を支えられながら、青年は早苗と共に本殿の上空に浮いていた。足が地面につかないという不安、体に襲いかかる体験したことのない浮遊感、それらは青年が冷や汗を垂らすに十分な恐怖であった。
しかし、そんな恐怖も吹き飛ぶ景色が目の前に広がる。
「これ、海……? こんなに綺麗な海があるんだ……」
「やっぱり、これが海なんですね! 私、初めて見ました」
山の中にある神社。当然見える景色も緑ばかり、であるはず。
だがそこに広がっていたのは目を見張るほどに澄んだ青。少し離れた位置にある、広大な海であった。
(綺麗だ、本当に。こんなの今まで見たことない……)
「あれ? あそこで誰か空を飛んでいませんか?」
「え?」
「ほら、あれです。何か、空の中で座っているような人です」
なぜ山の中にいたのに海が見えるような位置にいるのか、という疑問も解けないまま早苗が話した。
人間はそんなにポンポン空を飛べたものだろうか、と青年は割と本気で首をひねる。だがやはりそんなこともなく、理解が追いつかないままに早苗の示す方向を見た。
「……確かに何か浮いてる、かな?」
「うーん、何かがその周りにも浮いていますね。というより、あの人が何もないところから色々引っ張り出しているような……」
海岸線ギリギリの位置の上空に、確かにその人は浮いていた。そしてその周囲には、キラキラと何かが光り輝いている。青年も視力には自信があったが、そこまで細かくは見えない。精々、その人の周りで何かが光っていることぐらいである。
「どうやら何かと戦っているようですね。なるほど、あれが幻想郷の弾幕ですか」
「あ、う、うん? そうみたいだね」
「でも、相手は一体……。海の上にいるみたいですね。あれは生物でしょうか? 随分と真っ黒で、グロテスクな形をしているようですが……」
「えっと……うん、そうだね。いやお見事、全くもってその通りだよ」
「ちょ、流石に適当すぎですよ!」
容赦なく突っ込まれ、、ばつが悪そうに青年は押し黙る。そんな青年を見て、やれやれといった風に早苗は苦笑した。
「その何に対してもどうでも良さそうなところ、変わっていませんね」
「……さなちゃんこそ、昔と何も変わってないじゃん」
「あは、久しぶりにそう呼ばれました。あ、私がそう呼ぶようにお願いしたんでしたっけ?」
青年も苦笑し、頬をポリポリと掻く。青年自身、中学までは早苗のことをそう呼んでいたが、大人になった今では少々気恥ずかしい。嫌がられるのではないかという思いは、どうやら杞憂に終わったらしい。
しかし、二人がそうして海を眺めて昔の話を持ち出したところで。
「動かないで下さい! あなたたちは何者ですか!」
空を飛んで、獣耳と尻尾のついた白い髪の少女が現れた。その尻尾の毛が逆立っていることもそうだが、その少女の強面な形相を見る限りでも、あまり友好的な出会いではないようであった。
(え、剣? 本物? 尻尾も生えてるけど……)
この少女も空を飛ぶのか、と青年は複雑な気持ちになるも、剣と紅葉の模様が描かれた盾を持っているのを見ると、そうも言っていられない。
「ここを妖怪の山と知っての行動ですか? 警告します、今すぐ立ち退いてください!」
険しい顔つきの少女。何が起きたのか、何が起きているのかわからない青年にとしては、最早状況に流されるしか選択肢はなかった。そもそも動いたところで空の上である。
「随分と物騒な挨拶ですね。それが幻想郷のやり方ですか?」
「無礼なのはそちらです。勝手に我々の山に入った挙句建物まで持ち込むなんて……!」
「それは失礼しました。では、あの敷地は我々守矢神社がいただきます。で、いいですよね?」
「ふざけているんですか?」
「大真面目ですよ」
軋む音と共に、白い髪の少女はその剣を握り直す。
「引く気はない、と?」
「私たちも生き延びるためにここへ来てますから」
それに応えるかのように、早苗は自身の周りに光り輝く球体を浮かべた。あら綺麗、なんて呑気な感想を浮かべていたのも束の間。
「では、実力行使と行きましょう――!」
瞬間、青年の視界がぶれる。白い髪の少女が勢いよく迫ってきたかと思えば、早苗が空中を高速で飛翔し始めた。
――青年の腕を掴んだまま。
「痛い痛い痛い! 腕ちぎれるって!」
「カミツレさんも男の子でしょう! 我慢してください!」
「無茶言わない! 降ろして!」
急制動、急加速、三次元空間を余すことなく変幻自在に移動する早苗。移動する傍ら、青年にGがかからないように細かく調整しているようだが、青年としては地に足がつかない状態で高速で空中を振り回されているのだ。たまったものではない。
目を覚ましたら山の中にいると思っていたのに海が近くにあって、人間が空を飛んで、ほかの人も空を飛んで。挙句の果てにはジェットコースターもびっくりの空中機動。
あえなく、青年は頭と一緒に目を回す。
「ごめ、吐きそ……」
「ちょ、カミツレさん! わかりました、降ろしますから吐かないで!」
慌てる早苗の声が聞こえたかと思えば、頭を叩かれた。
(え、なんで叩かれたの!? ていうか叩いた瞬間さなちゃんの手が光ったけど!? なんで僕ドキドキしてるんだろ……もしかしてこれって……!)
ただの動揺である。
何をするんだと問い正そうとしたその瞬間、再び青年は浮遊感を味わった。
――自由落下という名の絶望が、全身にまとわりついて。
「うわあああああああああああぁ!」
高度にしておよそ15m。何ができるわけでもなく、青年はそのまま落下していく。
(あ、ダメかも……)
高速移動中に突如放り出された青年は、体中に伝わる空気の圧力にさらされ、そして死んだという確信を伴って落ちていく。
――深い滝壺の中へ。
衝撃音と共に高い水しぶきが上がり、青年は滝壺に吸い込まれる。
仕事柄というべきか職業病というべきか。青年は目まぐるしく転換する状況の中でも、水面が近づいた時には既に着水する姿勢を取っていた。
滝壺に潜った青年は水中でその眼を開き、滝の底にぶつからないように動き、流れ込む水に身体を持っていかれないよう泳ぎ、体勢を立て直す。
(し、死ぬかと思った)
水中で辺りを確認したが、どうやらそこそこ大きな滝壺らしい。落ちた先に水がなければ、そしてそこに深さがなければ――。
もしくは、早苗はわざとここに落としたのだろうか、とも考えるが。
(おや……?)
ふと視線を向けたところで、青年は滝壺の中に怪しげな影を見つける。
青緑色の物体、ギラギラと光る眼。不思議な姿勢で青年を見つめているそれについて、青年は見覚えがあった。
(やばいやばいやばい、逃げないと!)
かつて故郷の河で遊んでいた際に青年だけが見たことのある影。
足を引っ張られて水中に引きずり込まれかけたこともある。その泳ぎは速く、河から出るまで追いかけられ、凶暴な声をあげていた河の主。
(なんでこんなところに“河童”がいるんだよ!)
青年は急いで方向を変え、水の流れる方向へと全速力で泳ぎ始めた。
(冗談じゃない、最悪だ! 何なんだよ次から次へと!)
脳の情報処理など追いつくはずもない。人生で大一番の山場であるとしか判断できない頭の出来の悪さが嘆かわしい。
ならば、体だけは動かすしかないだろう。と、無意識に思った青年は、川の流れも相まっておそらく人生で最高速のクロールを体現していた。
(追ってきてるのか? いつ追いつかれる?)
息継ぎなど忘れてひたすらに脚を、腕を動かす。肺が酸素を求めている。脳がもう動かないと叫んでいる。
それでも、恐怖の対象としかなりえない河童に捕まるよりはマシだと、必死に水の先を求めてもがく。
しかし、その速度にも終わりは来る。
体はまだ動くというのに、河の流れが弱くなる。水の後押しは徐々になくなり、最後には青年が自身の力のみで泳いでいた。
「っはあ、は! あれ、海に、河口に出てる……?」
そろそろ限界だと感じ、青年は顔を上げて呼吸を整える。立ち泳ぎに移行して気づくが、水は海水に、周囲は一面の青景色に変わっていた。
そして、海にたどり着いてから、先ほど早苗と話題にしていた人物がすぐ近くの空中に浮いている。
「人間? まだ海には立ち入らないように警告がなかった?」
年の頃は青年より上だろう。フリフリとした帽子とスカートを着用し、彫像のように整った美しい顔立ち。
その視線は鋭かったが、青年を見るとわずかにその雰囲気が柔らかくなる。
「コ、コスプレか何かですか?」
「違うわよ……ん? あなた、あの神社の関係者なのかしら」
「え……は、はあ。神社にいましたけど」
「何しに来たの? 幻想郷の支配? それとも私の力が目的?」
「いや、実は僕もよくわからないんです」
「おかしなことを言うのね」
一人で勝手に納得したように不敵に微笑むその女性。近づいてみてわかったことだが、早苗と同じように体の周辺に光の玉が浮いていた。
そしてひときわ目立つのは、女性の周囲に複数存在する空間の裂け目。更に、そこから覗く幾百の目玉。
「事情は後で聞くとして、人間さん? 何もできないなら、危ないから早く陸に上がった方がいいわ」
「え?」
女性がそう言うと、突如女性の目の前に現れたのは謎の黒い塊。
――否、鯨のようなイルカのような、黒い生物。
口を大きく開き、眼光は怪しく光り、海を割って移動する。人間の数倍の大きさがあり、口の中には大きな筒のような物も見える。
驚きの声を上げる間もなく、女性の周囲に浮かべていた光球がその怪物へと向かった。
「あら、おカタいのね」
刹那――耳をつんざくような轟音と、体中をビリビリと伝う衝撃波。
光の玉はその3分の1ほどが怪物の甲殻に弾かれてあらぬ方向へと飛んで行くが、残りはその甲殻の表面にぶつかった瞬間、爆発した。そして、怪物は生気を失ったように海に崩れ落ちる。
光球によるダメージを負った部分から謎の液体を噴出させた怪物。偶然にも、あんぐりと口を開けていた青年の口の中にその液体の一部が入ってしまう。
「ちょ、何が――おえっ、なんだこれ……って、海水?」
何度も味わったことのある味。仕事が仕事であるだけに、間違えようもない。
「なんなんだ、一体何が――っ」
悩む暇など与えてはくれない。その怪物と同じ形の別の個体が、次は青年のすぐ目の前に現れる。
女性を振り返ったが、先ほどの個体を興味深く眺めており気づいていない。
口を開けている怪物。その勢いは止まらない。その大きな体ごと海面から跳ね上がり、青年を海中に引きずり込むように飛びかかる。
今度こそ、青年も命を諦めた。泳げば済むとか、陸に上がれば問題ないとか、そういう話ではない。
恐怖で足が動かないのだ。理解不能な出来事に、頭どころか体すら反応しないのだ。
(ああ。最後までもう……ついてないな)
もう少しマシな人生だったら、何か変わっていただろうか。
心より望んだ普遍的な生活は、得られていただろうか。
孤独に生きた青年の声に、応える者など在りはしなかった。
なかった――はずなのに。
「司令官、危ない!」
突如、青年のポケットが輝き出す。それとほぼ同時に、叫ぶような声と鳴り響く爆音。耳をふさぐ暇もなく、メラメラと大気を揺らす火炎が目の前に広がった。
怪物は空中で停止したかと思えば、そのまま海中に落下。青年に向かってその大きな体が襲って来ることはなかった。
そして、突然目の前に現れた、背を向けているこの少女。
歳はまだ若く、小学生か中学生だろう。セーラー服を着ているために中学生かも知れない。顔立ちも幼く、体も華奢で小さい。
しかしその小さな体で、煙突のようなものが立ったエンジンと思しき機械を背負い、腕には小さな大砲のようなものを、脚には何かが装填されているらしい機械を装備している。
「たす……かっ、た?」
風になびくセーラー服とショートカットの髪、その全身を浮かび上がらせている謎の靴。
チラチラと白い下着のような物が見え隠れしていたが、この状況でそのようなことを気にするほど青年の神経は図太くない。
火薬の匂いが混じる潮風が、青年の頬を撫でていく。
少女はやがて振り返ると青年の顔を見て、怪我をしているかどうかだけ確認してから、安心したかのように息を吐いた。
「お怪我がなくて何よりです!」
「あ、ああ……ぁあ?」
「あ、自己紹介が遅れました!」
少女はその場で姿勢をただし、直立する。
慣れ親しんだような仕草、あたかも呼吸をするかのように右腕を曲げ、手のひらを伸ばし、顔の横に据える。
命の危機を脱した青年。落ち着く暇などなく、瞳を見開いたまま少女を見上げていた。
光球を浮かばせていた女性は宙に浮きながら、遠目に青年と少女を見て扇子を開き、目を細める。
敬礼をした少女は唇を震わせていた。しかし、ギュッと唇を結んだ後、緊張した面持ちで青年を見て、意を決したように口を開く。
「初めまして、吹雪です! よろしくお願いいたします!」
着任
特Ⅰ型駆逐艦一番艦『吹雪』