荘厳なパイプオルガンの演奏が響いている。
天窓から差し込む日差しが影を強く焦がす。
ヒトに使われなくなった礼拝堂。
そこに、慈愛を奮う、一人の修道女の姿があった。
礼拝堂にいるのは三人。
心地の良いその音色を聞いているオレと、居心地の悪そうに顔を顰めているヤツ。
そして、淡々と、日々の労働となんら変わらないソレを捧げている彼女。
天井へと伸びるオルガンのパイプは、絶えず神へと音を届ける。
いつかロシアの作曲家が「呼吸をしない怪物」とパイプオルガンをして言ったが、確かに、これは怪物だ。
ありもしないソレを、これほどまでにしっかり見せるなど、怪物の所業だろう。
骨董としてオルガンが回ってくることはあれど、オルガンの専門家というわけではない。
彼女の見せている祈りのオルガンが、どういったものなのかを判別する術はもっていない。
特筆すべき才能があるわけではない。讃美歌も至って普通の物だ。
技巧に優れているわけでもないし、ダイレクトに感情が伝わってくるわけでもない。
ただ、これが、彼女の日常なのだろう。
日々を祈るように、祈る為に、祈るような、演奏。
難儀な物である。
完璧ではいけない。完璧は手の届かぬ、手を差し伸べてもらう事の出来ぬ存在になってしまうから。
粗があってはいけない。粗があるならば手が届く、人々と肩を並べる存在になってしまうから。
だから、「なんでもない」事こそが、
普通の人間などいない。誰かしら、何かしら異端を持っている。
だからこそ、
上でも下でもない存在に、罪を告解したくなるのだろう。
もっとも。
残念ながら、オレに懺悔をするような気持ちが湧いてくることはなかった。
頭を占めるのは廃墟のイメージ。
どこまでも空っぽな洞穴のよう。言葉を解すオランウータンの言っていた、暗く、深く、暖かい穴。
「あー、吐きそう」
「そうかい? オレは泣きそうだよ」
……神様と廃墟か。
まぁ、どちらも伽藍の洞である事に変わりはない。
心地の良い演奏が終わった。
彼女は席を立ち、初めからなかったパイプオルガンは見えなくなる。
彼女は左右の長椅子の両端に座ったオレ達に驚きもせず、つかつかと歩み寄ってくる。
気付かれていないと思ったが、欺く事はできなかったらしい。
「ようこそ衛宮士郎、野場飛鳥。見ての通り廃屋ですが、出来る限り歓迎します。
たしか……そう、喉が渇いているのなら、何か用意してあげますが」
「結構。別にお茶を飲みに来たわけじゃない」
「オレ水筒あるんで」
「……そうですか。他に歓迎の作法を知らないので、必要な物があれば言ってください」
気分を害してしまったらしい。
ヒトでないものを歓迎する事はあれど、人を歓迎するのは初めてなのだろう。
ちょっとやってみたかった、というような機敏を感じ取れる。
「では、挨拶からはじめましょう。貴方がセイバーのマスターである事は承知していますから、貴方の素性を語る必要はありません。
貴方はどうですか。私が名乗る必要はありますか?」
「いや、それも結構。名前ならもう知ってる。
訊きたい事を訊いたら帰るつもりだけど、まず一つ。
ソッチの奴はなんなんだ。セイバーのマスターとか、話していいのか?」
二対の瞳がこちらを向く。
よせやい、照れるだろ。
「問題ありません。彼女は私を知っていました。ならば、貴方の事も知っているでしょう」
「それはその通りだけど、その理屈はおかしい」
しかし黙殺されてしまった。
「まぁいいや。それじゃ一つ目の質問。
カレンって言ったな。アンタは何者なんだ。何処から、何の目的で冬木にやってきたんだよ。ただの観光客だ、なんて言い訳は通らないぜ」
そこから二人の問答が始まる。
アイツの質問に、彼女は自らが後任代理となった話をした。
聖杯らしきものは見つけたが、確保は彼女の領分を超えるとも。
そして、派遣された任務は果たしたものの、後任代理としての”街の異常の解決”という役職としての為すべき事をしなければいけないということ。
二つ目の質問は怪物の話。
あの化け物と街の異状、彼女の関係。
彼女は言えないと答える。
悪魔憑き、彼女の特異体質。
ちなみにPorca miseriaは直訳するなら「惨めなメス豚ね!」、もうちょっと直すと「こん畜生めが!」である。
そして、街の異状に付いての質問。
これで終わりかと思ったが、やっぱり、案の定、思った通り、
「――なら、だったら、ソイツはなんなんだ」
彼女の言った偽物は一人だけという言葉に、奴が言う。
無礼にも人を人差し指で指して、死にそうになりながら言う。
「彼女は偽物ではなく嘘つきよ。この日々は真実で、貴方の日常はこの四日間が終わっても正しく続いていく。衛宮士郎が失うものは何もない」
「それは本当だ。オレは嘘吐きだが、そこは本当だと保証してやるよ。例えこの四日間を終わらせても、衛宮士郎が失うものは何一つない」
「――」
ヤツは安堵する。
いや、奴ではなく――衛宮士郎が。
「そうか、よかった。これが続くなら、後はこの四日間をなんとかするだけだ。
――それで。
アンタらは、聖杯戦争の再現とは関わりないんだな?」
「主に誓って。
話は前後しましたが、私の目的は貴方と同じです。
聖杯の調査と、冬木の街の平穏。
この二つを果たす為、貴方に協力してあげます」
「店に誓って。
なんだったらむしろオレは迷惑を
せっかく、ようやく平穏になった日常の古傷を開かれた。
納得なんてサラサラしてないが、仕方がないから協力してやんよ」
立ち止まる事、大いに結構。
だが、立ち止まることが死に繋がるというのなら、無理矢理にでも背中を押しだしてやらねばならない。
「ですが、私達にできる事は情報の提供だけですが。
ここでは私達は物事を変えられない。解決できるのは第五次聖杯戦争に参加した貴方だけです」
「お前は勝者だからな。終わらせた奴が終わらせるのが正しい道筋だ。何、安心しろ。あっちの聖杯には綻びがある。
こっちがしっかり整っていりゃあ、必ずこっちが勝てる」
そう言い切ると、一気に奴からの疑いの目が強くなった。
そりゃあそうだ。今まで言うまい言うまいとしていた聖杯やら勝者というワードを惜しげもなく使い始めたのだから。
「……ふーん。納得いった。とりあえず礼は言っとくぜ。何をすればいいかわかったからな」
奴が席を立つ。
オレは立たない。
「もう行くのですか……? まだ訊くべき事はあるでしょうに」
「もう行くのか? まだ訊きたい事はあるだろうに」
「あるけど、アンタは知らないだろ。そっちのアンタは言わないだろうしな。
そっちは自分で探すからいいよ、小難しい話は犯人を見つけて直接聞き出せばいい。もう、アンタらにも教会にも用はない」
じゃあ、と手を振って歩き出す奴に、オレもぶらぶらと手を振りかえした。
そして彼女は、
「待って。一つだけ質問があります。
貴方の問いには答えたのですから、一つぐらいは付き合ってください」
「む」
奴が止まる。
「じゃあ、出来るだけ手短にな」
しかし彼女は黙ってしまう。
「おい、質問があるんだろ。言えよ」
「なんでお前がそんなに乱暴なのか聞きたいんだってよ。他のトコで会った時はもっと紳士的だったのにさ」
素っ頓狂な顔をする奴。
純情純情、青春だぁね。そんな爽やかなもんじゃあないが。
「……今日は気が立ってたんだ。場所が悪いんだよ場所が。
教会以外でならもう少しマシになる。これでいいか?」
「……そうですか。日中、私はここにしかいられません。
夜に出会えるのは四日目の終わりだけですから、貴方との関係はこのままというコトですね」
「そうなんだ。けど、心配するな。どの道、もうここには寄りつかない」
そう言って、今度こそ教会を後にする奴。
その境界を跨げば、奴は衛宮士郎になるのだろう。
その後ろ姿に、勝手に無事を祈る彼女と共に、オレも手を振って見送った。
見ちゃあ、いないが。
「それで、貴女はいつ帰るのですか」
「えー、どうせ今日学校だからなぁ。授業の内容もおんなじだし、だったら午後五時までいようかなー」
「では、私から貴女にいくつか質問してもよろしいですか?」
「居座り代って? いーよいーよ、何でも聞いて。答えるかどうかは別だけど」
今度はオレに歩み寄る彼女。
整った顔がオレを睨みつける。
「ではまず一つ。先程貴女は聖杯という秩序に対抗しうる手段を持っているような事を発言しました。そのような魔術や道具を持っているのですか?」
「うんにゃ、オレには魔術回路なんて大層なもんはないよ。魔眼とか体質みたいに特異なもんを持ってるわけでもない。店にある骨董にそういう力がある子もいるかもしれないが、オレにそれを使う力も知識も無いし、なにより道具を自分で使う気が無い」
「では何故、あそこまで確信的に? それとも嘘ですか?」
「いやいや、本当だよ。神の家で嘘を吐くほど肝は据わっちゃいないさ。まぁ、教会の神様なんて崇めちゃいないけど。
オレが知ってるのは、あっちの聖杯が傷ついてるってことさ。なんせ傷付けた張本人だ、知らない方がおかしい」
そういうと、彼女は驚いたような顔をする。
まぁ、そうだろう。
聖杯とは至高の魔術。美しき願望器。
それに傷をつけるなど、たかだか一般人にできる事ではない。
「それは、どのようにしてですか?」
「高いとこから物を落とせば傷が付くだろ? そして、傷がつけば価値もさがる。玉に瑕って文字の通りさ」
だから、こちらを完璧にすればあちらが負ける。
綺麗な物ほど粗が目立つのは、どの世界でも一緒である。
「……Chi è causa del suo mal pianga se stesso.」
「まぁ確かに自分で蒔いた種に見えるかもしんないけど、違うんだって。あんなとこに置いておく方が悪い。大切なら、誰の手にも届かない場所においておけばいいのに」
「責任転嫁ですか。見下げ果てた根性ですね」
「Chi fa da sé fa per tre、って感じ? オレには到底出来ないからな。出来るヤツに任せるしかないのさ。それがどれほど効率悪くても、ね」
オレはわるくぬぇ! 全部師匠が言ったんだ!!
しかしことわざって凄い。どんな状況にも対応できそう。
「最後に。
――あなた、男性? 女性?」
「美少女」
ふんぞり返って言い切る。
呆気にとられる彼女。
「こちとら2ドット潰してるんだ。胸を張らなきゃあいつらに失礼だろ」
だからこそ、感謝の念しかない。
悲しいなんて思わない。
「……Molto fumo e poco arrosto.」
「違う、虚勢を張っていると言えよ。決して、オレはそんなにすごい人間じゃないのさ」
さて、と身体を起こす。
ダメだね、ここにいると言わなくていい事まで喋っちまいそうだ。
言いたくも無い事を、言わされてしまいそうである。
「十七時までいるのではなかったのですか」
「お茶も昼飯も出ない場所にそんな長時間いられるわけないだろ。長居してほしかったらお茶請けでも用意するんだな。
ま、アイツは食わないだろうけど」
「貴女もお茶を断ったと記憶していますが」
「オレは水筒があるって言っただけさ。お茶がいらないなんて一言も言ってない」
詭弁だが。
よっこいしょっと立ち上がって、んーっ、と伸びをする。
っはぁ、と軽いため息を吐いて、彼女に向き直る。
「まぁ、目障りかもしんないけど、我慢してくれや。要はアイツを飽きさせりゃいいんだろ? 大丈夫大丈夫。アイツ飽きっぽいし」
「……それは、自分からは行動しない、という解釈でよろしいのでしょうか」
「あれ、わかった?」
しかし、なんだ。
ダメだな。
ここに来ると、どうにも昔の性格に近づくらしい。
「……あー、そうだ。
最後にオレからも質問していい?」
「どうぞ」
少し、鼓動が大きくなる。
「――そっちにオレ、ちゃんといる?」
「知りません。私が貴女に会った事はありませんので」
「そっか。ならいいや」
ま、日本に来たばっかだろうし。
仕方ないか。
「そんじゃま、ち・べでぃあーも」
「ええ、どの道、すぐにまた会うでしょう」
教会を後にする。
彼女はオレのためさえも、祈ってくれた。
いやぁ、やっぱオレついてるなぁ。
「ただいまー」
「おかえりなさい、アスカ」
教会を出た後、新都を適当にぶらついて、特に何をするワケでもなく家に帰ってきた。
相も変わらず、真経津鏡は外を向き。
その鏡に、オレはしっかり映っている。
「傷だらけの雨傘は、ミスリードになっちゃったかね」
「はい?」
「大事なのは、雨傘についた傷の方だってことさ」
「はぁ……?」
さぁ、もうオレに夜を恐れる意味はない。
夜更かしをする気はないが、焦って家に帰る必要もなくなった。
後はアイツが、どれほど早く隙間を埋められるか、である。
「んー、肩の荷が下りたってこういう事を言うんだろうなぁ。久しぶりに気が楽だぜ」
「よくわかりませんが、よかったですね」
「あぁ、本当に」
大丈夫な、はずだ。