「おろ、いらっしゃい。キャスターさん」
まだ朝のかなり早い時間に、彼女はやってきた。
キョロキョロと周りを気にする素振りを見せながら、まるで盗人かなにかのようにスルリと店に入ってきたのだ。オレも丁度真経津鏡を拭いている時でなければ気付けなかっただろう。
オレが振り向かずに声をかけると、キャスターさんはビクッと肩を震わせた。
……どうしたんだろう。なんか、らしくない。
キャスターさんといえば、もっと毅然とした態度に妖艶さが相乗されたような、そんな雰囲気を持つ女性だと思ったのだが、今の彼女は初めてビデオ屋の暖簾の向こうへ行く初心な男子のソレとよく似ている。
「……のよ」
「ふぁい?」
キャスターさんが何かを呟くも、聞こえない。
朴念仁スキルが発動したワケではなく、あんまりにも小さな、しかも口の中でもごもごと発された声であったために聞き取れなかっただけだ。
「……だから、聞いたのよ」
「へい、そりゃあ何を。誰から」
「貴女がお料理をするって、セイバーの所の坊やから」
――アイツ、押しつけやがったな!!
なんて心中はおくびにも出さない。
「まぁ独り暮らしですからね。多少は出来ますよ」
「……あの坊やにも、その、一応教わってはいるのだけれど……ね?」
(わかるわよ)ね?
()の中は意訳である。これは押し付けられたというよりは、アイツが不意にぽろっと零して、それを目敏くキャスターさんが拾い上げたという所か。
しかし衛宮に習っているというのなら、オレの所に来る意味が解らない。
日本食ならアイツが一番だろうに。
「ええ、だから、それ以外を教わりに来たのよ。残された短い時間、宗一郎様がもし他の物を食べたくなった時に、答えられないと困るでしょう?」
「葛木先生がキャスターさんにリクエストすることなんてないんじゃ? キャスターさんの作った料理ならなんでも美味しいって言ってくれるんでしょ?」
「……なんでそんな事知っているのか、と問い詰めたい気持ちもあるけれど……だからこそ、よ。なんでも美味しいと言ってくれるからこそ、私の上手くいかなかった料理でも美味しいと言ってくれるからこそ、本当に美味しい料理を食べさせてあげたいの。
……ほら、
「ハハーハ、そっすね。もうそんなに経つ事になるのか……。まぁいくら好物つったって好物ばっかじゃ飽きますし。葛木先生の苦手な食べモンを知ることが出来れば、今後――……残された時間、嫌な思いをさせずに済みますしね」
あの道具然とした人に、味覚の好悪の概念があるかどうかはおいておく。
そうかー……そうだな、丁度この一週間で、一年か……。
「しかしどうします? 明日明後日はライダーさん来るんで、日にち的にゃ今日しかフリーじゃないですよ。まぁお時間あるなら今日は早いとこ店仕舞いして、一緒にお料理しますけど」
「ええ、それでお願いするわ。そもそも、坊やに今日だけはあの女が休みだと聞いて来たのだし」
「ワーオ、リサーチ済みィ!」
まぁ、犬猿の中と言えるこの二人がかち合わないように、という配慮は流石である。
自分の事以外になるとホントタイミングイイよなぁアイツ。
「まぁくつろいでくださいな。アイツの家と比べりゃ、居心地もいいだろうし」
「……まぁ、そうね。それで、詳しくは知らないのだけれど、貴女は何処の料理を知っているのかしら? 坊やは『野場に直接聞いた方がいい』と言っていたのだけど……」
「古今東西なんでもござれ……と、言いたいとこだけど、そりゃどっちかといえばアーチャーさん辺りの領分でしょう。オレのレパートリーにジャンルはないですよ。お酒に合いそうなものから軽食、各国の家庭料理なんかが多いですけど」
むしろオレが古代グルジアの料理なんかを学びたいところだが、コルキスの王女と料理の組み合わせはあんまりよろしい響きではない。特に大なべの
というかオレ、説明するって行為にゃ慣れているんだが、教えるってなると……記憶を掘っ返しても数度しかやったことが無いように思える。ライダーさんがこの店に来た時だって、割合見て覚えてくれ方針だったような……。
「もう、始められるのかしら」
「オレはまぁ構わないっすけど……食材はおろか、何を作るのかだって決めてないじゃないですか。オレ、アドリブ力は低いですよ?」
「何を……存在自体がアドリブのようなものじゃない」
「わぁお図星。じゃああんまりクセのないベトナム料理でも如何?」
ベトナム料理は多岐にわたるし、ナンプラーとパクチーさえ使わなければ苦手という人も少ない。お野菜たっぷり薄味ヘルシーなベトナム料理は、海外のご飯に手を出してみよう、という時にはぴったりなのだ。
勿論食材もそれだけ多くの物を扱うので、ベトナム市場は目移りが激しくなる。買うものを決めていないと危ない。
「じゃあちょっと店の方シャッター下ろして来るんで、テキトーな……つっても椅子とかないからなぁウチ。あー、じゃあこっち土間なんで、そこにある椅子に座っててください」
たまに、「骨董を眺めているだけでいい」という人がいる。
そう言う人は買わずに店内でじーぃっとしているので、店内に椅子があると居座られてしまうのだ。椅子だけに。ずっと立ってると腰がイーツーツーってな。
お客様には親切にするが、優しくないのがウチだ。申し訳ないのだが、うちの芸風に合わないのならばオサラバ、サラダバーである。サラダ婆である。
閉店ガラガラとシャッターを閉めて、臨時休業の貼り紙をぺたり。
そろそろこの紙はっつけてるガムテも代えないとなぁ。
そそっと土間へ戻れば……って、あれ?
いない。
「キャスターさん?」
「こっちよ。まったく、さっきは気付いたから効かないのかと思ったけれど、しっかり効いているじゃない」
「うぇ」
声のした方を向けば、そこにはキャスターさんが。
……いやいや、見逃すはずがないって。シャッターから土間へ視線を移すのに、必ず店内をぐるりと見渡す事になる。だから、キャスターさんがいま居る陶磁器売り場もオレは見ていたはずなのだ。
しかし、見逃していた。
「えーっと……」
「原因は……この鏡ね。相も変わらず、意味の解らない品揃えだこと」
多分、今のが認識阻害という奴なのだろう。
視界にはしっかり入っていた。だけど、気付かなかった。
オレの意識は土間を向く事に集中していたから、そこに空白を作った……とかそんなんなのだろう。オレはタレより塩が好きだ。何の話って? ネギマの話。
「とりあえず買い物行きますけど……ついてきます?」
「勿論。次、宗一郎様に振る舞う時、貴女に声をかけるというわけにもいかないもの」
「へい」
ということで、やってきましたマウント深山。まぁ、やってきたと言っても店から一歩出ただけなのだが。
休日の商店街はそれなりの人混みで、いっそうのにぎわいを見せていた。
「えーっと、まず人参ともやしと……」
「あれ? 野場じゃないか。この時間に店から出ているなんて珍しいな」
「……エビ、さんま……きのこは家にあるからいいとして」
「無視!?」
なるほど、間桐が言っていたのはこれか。
お前ら人に話し掛け過ぎなんだよ、という言葉、そっくりそのままコイツへ受け流そう。
「ってアレ、キャスターも……ああ」
何かに勘付いたように衛宮が手を打つ。
ちなみにキャスターさんは(顔だけ)ニコニコとしたまま、オレの言う食材を聞いていた。コイツと話す気は無いのだろう。
だが、まぁ。
無碍にするべくもなし。
「理解したんならどっかいってくれたまえブラウニー。とっととイリヤスフィール嬢のトコへ行って、せいぜいロリコーンな事をしてきたまえ」
「イリヤ? なんでここでイリヤが出てくるんだ? っていうか、野場。お前イリヤの事知ってたのか?」
「セラさんは良くウチに陶器を買いに来るし、リーゼリットは遊びに来る。これでも結構仲は良い方だぞ」
「セラまで? ……へぇ、なんだか意外だな」
案の定立ち話になってしまったが、キャスターさんは流石、オレが先程呟いた食材をどんどん購入していく。
買うものがわかっていればそう言う所は手馴れているんだな。
「とりあえず当面の目的地はアインツベルン城だぜ、衛宮」
「?」
何の事かわからない、といった顔をする衛宮。
だが、その瞳の奥にいる猜疑心は、いや、好奇心は、確実にそちらに動いた。
そうさ、こういうのは未知があるからこそ楽しいのだ。
ネタバレを早々にくらってしまえば、すぐに飽きも来る。
「オレは識っているだけさ。イリヤスフィール嬢に会った事はない。これからも会う事はないだろう。オレは識っているが、イリヤスフィール嬢はオレの事を知らないはずだ。
だが、お前に預けたアレなら認識できるはずだ。その為に渡したんだ、有効活用してくれよ?」
「アレって……あのボロボロの傘のことか?」
「あぁ、傷だらけの雨傘の話だ。いいか、アレは単なる傘や日傘じゃあない。雨傘だ。覚えておけよ、衛宮」
それが重要なんだ。
日傘や傘じゃあ、意味が無い。
「四は然程重要じゃあない。五と三が重要なんだ。空と地面、建物から伸びる階梯は五にしかない」
恐ろしい話だ。
五という字は、まさにこの世界を現しているようじゃあないか。
天へと辿り着けなかった三には、階梯がかかっていないのだから。
「じゃ、オレはこれで。キャスターさんに料理を教えるってぇ目的があるんでね。あ、オレに奨められたとか言うなよ? ややこしくなる」
返事を待たずに背を向ける。
キャスターさんは既に買い物を終えたようで、オレも合流する。
いくつかの必要材料を買って、店へと戻る。
見上げれば、いつしか曇天が広がっていた。
「また、お願いしてもいいかしら?」
「ええ、はい。また土曜日に来てくだされば」
「勿論、私もあの女と鉢合わせるつもりはないもの」
お料理教室はスムーズに終わった。
衛宮邸のように邪魔が入る事はない。
今回作った料理……パインコアイとパインセオは中々気に入ってくれたようで、最後には新しい具材を考えるなどのアレンジ力も見せるほど上達(?)し、来た時よりも幾分か上機嫌になって彼女は帰って行った。
時刻は昼、十四時半。
まだまだ時間はある。
ピーン、とコインを弾いてはキャッチし、弾いてはキャッチする。
「……ネタバレ上等、か」
オレの食わず嫌いは、何も食べ物だけに始まった事ではないのだ。
新しい事に踏み出すのだって、周りの一歩以上の躊躇がある。
新しい事に臨む勇気は限りなく小さい。
でも、そんなことは言っていられない。
「……何回決意表明する気だよ」
吐き捨てるように言う。
何度も何度も心中で「仕方がない」とか「言っていられない」とか呟いて、ソレを自己暗示にしているが、それでも臆病になる自分がいる。
踏みしめる度、決意が砕け散って行く。
あぁ、全く。
女々しいったらありゃあしない。
「――裏か、表か……だってさ」
キャッチ。
インチキが使えるんだ、こんな運試しに意味はない。
かっこつけただけのまやかしだ。
今だって、裏に成るように弾いたんだから――、
「……あれ、失敗してる?」
コインは表だった。
天運即ち天啓来たり。
「よーっし! いっちょ行きますかね!」
背中を押された気分だ。
やる気が出た。
目指すは、新都!
ヒュォォォォオオ……と、吹き荒ぶ風を肌で感じる。
見下ろす新都は手頃に都会で、手頃に田舎だ。
東京の街には遠く及ばないが、かといってオレが昔住んでいた田舎とは似ても似つかない都会。
その高度ゆえに風は強く、その高度ゆえに太陽も近い。
このビルは、冬木で最も高いビル。
新都の全てが一望出来、新都の全てに見られているビルだ。
オレの店に骨董を仕入れてくれる奴の住まう場所も、ここから見下ろせる。
「……」
輝く太陽を見る。
夕暮れ時間帯の太陽は世界を緋色に染め、まるで世界が血みどろになったような錯覚を覚える。
一歩、前に進む。
太陽が沈むにつれ、せり上がってくるのは月。
未だ太陽の輝きが強い故に薄く、小さな月はしかし、その黒々しさをありありとオレに見せつけていた。
一歩、前に進む。
たったそれだけで、足は新都のセンタービルの縁へと……淵へと、辿り着いた。
陽光の当たらぬセンタービルの側面は暗く、深く、黒く。
センタービル・オルタだな、なんて嘯いてみる。
真正面に月。
だから、そこへ向かって、一歩足を――、
「っ」
ガシ、と腕を掴まれ、ぐいと引き戻された。
足が何かを踏みしめた感触はない。
今更、遅れて――バクバクと心臓が恐怖を叩き起こした。
「――何をしている」
「……助かりました、アーチャーさん」
センタービルの屋上へと引き戻され、そのままへたり込む。
だが、まだ腕は離してくれていない。
冷や汗が止まらない。
だが、無理矢理深呼吸で落ち着ける。
「……君は、命を投げ出すほど愚かな存在には見えなかったのだがね」
「……ちゃんと命綱はありましたよ。オレには自殺を決行するような勇気はないんで」
そう言って腰のベルトと、それにくくりつけられた登山用ロープを見せる。
登山用ロープはセンタービルの貯水槽の梯子へ繋がっている。
とはいえ、あのまま落ちれば怪我は免れなかっただろう。
このロープが、切れなかったとも限らないし。
「時間が早すぎるのか、そもそもオレには無理なのか……」
もしくは、どちらもか。
未だ掴まれている腕を起点に、立ち上がる。
「何をしようとしていたのか、聞いてもいいかね?」
「ヤーチャイカ。……嘘です。
ただ、アイツも彼女もいない内に、もしかしたら辿り着けるんじゃないかって……そう思っただけですから」
私はカモメ、なんて。
この人の眼力の前には、どうにも嘘は吐けそうにない。
いや、違うか。
この人は世界の道具だから、嘘を吐きたくないんだ。
「……君は」
「んーっ、見えますかねぇ。ほら、月の……あの辺。あの辺に傷があるんですわ」
指を指す。指し示す。
この人の眼なら、見えるんじゃないかと。
「――アレね、オレがつけた傷なんですよ。で、あんな高い所から落ちたら死んじゃうんで、メリー・ホ○ヒ○ンズよろしく傘でふわりふわりと降り立ったわけです。
そんなオレの出生秘話、信じます?」
「……」
アーチャーさんは何も言わない。
あの場所へは元から、あの場所に元から居た者しか辿り着けない。
そもそもあの階梯の一段目は、ビルの屋上にしっかりついていたはずだ。
それでも、それさえも無視して、確認がしたかった。
幸せは大きければ大きい程、残酷だから。
「……そろそろ、ですかね」
深山町の方に目をやる。
そこには、町全体を覆い尽くすほどの――赤が、赤い海が、広がっていない。
四日目に現れるものだ。今いるわけがない。
既にデッドブリッヂは越えられている。
「……あれ? じゃあ、なんでアーチャーさんはここに?」
「偶然君を見かけ、不審な様子に尾けてきただけだ。まさか杞憂に終わらないとは思わなかったがね」
「ハッハ、そりゃご迷惑をおかけしました。ついでに申し訳ないんですけど、オレを負ぶってウチの店まで連れて言ってくれたりしません? こんな夜更けに一人で帰るってな、か弱き少女としては何かと辛い物がありましてね」
「無論、付いて行こう。本当に背負って欲しいのなら、姫抱きでも構わないが?」
「ああいや、一緒に
ようやく離してくれた腕をぐるりと回して、貯水槽の梯子にかけられた登山用ロープのフックを取り、自らのベルトのソレも取る。
マフラーの裏側へそれを収納し、マフラーを掛ければ証拠隠滅である。クソ重いけど。
「ふ、君も初心だな」
「いやぁ、野郎に抱っこされるなんて血の気が引くってだけですよ」
「む……」
いくらイケメンでも、だ。
オレは女の子が好きだからな!
どこぞのあかいあくまよろしく抱えられて飛び降りるのも一興ではあるが、今はそんなことをする気分でもない。
普通にセンタービルの屋上の階段からビルへ入り、長い永い階段を下って行く。
後ろにはしっかりアーチャーさんが付いてきている。
暗いが、特に気にする事でもない。
「……時に、施錠等はどうする気かね?」
「あぁ、関係者用の裏口使いますよ。キーあるんで」
「何故そんなものを君が?」
「コネって奴です。このセンタービルには新都開発のための企業のオフィスが詰め込まれています。今回はそんな一企業の知り合いに、キーを一本借りました。名目は特にありませんよ? ただ貸してー、って言って、いいよーっていうやりとりです」
「……その危機管理はどうなのかね」
「まぁ危ない事極まりないですね。オレが悪い奴なら簡単にデータ盗んで世界中にバラ撒けちゃいます。そうでなくとも、女子校生に施錠管理任せること自体危険ですね。ま、その辺含めての人徳ですよ。徳望が高いんです、オレ」
後ろで溜息が聞こえる。
まぁ、正義の味方さんには目に余るのかもしれない。
関係者用出入口に辿り着き、内側からカギを開けて外に出る。
肌寒く、肺を冷たい空気が刺す。
アーチャーさんが出た事を確認して、カギを閉めた。
「うし、そんじゃあ護衛宜しくお願いします、アーチャーさん」
「あぁ、了解した。一時の間、君を守ろう」
護衛という言葉になんの疑問も無い。
これほど頼りになる存在も珍しい。正義の味方の成りそこないが守ってくれるのだ、心配はない。
「ダウト」
「何がかね?」
「なんでもないです」
なんでもない。
この人、かっこいいけどそこまで勝率高くないよな、とか考えていたワケではない。
本当だよ。
スパイラル・ラダーの凛の呟きのトコ、本当に五に見えて面白い。