寝坊した。
昨日、夜遅くまで外を歩いていたからだろう、寒さが堪えたのかもしれない。
朝5時きっかりに起床するルーチンが崩れたからだろうか、どうにも思考がおぼつかない。ふらふらする。熱は……ないな。
「うぬぅ……」
ロフトから降りようとして、ようやく気付いた。
あ、オレ外着のまま寝たんだ。だから身体硬くて……なるほどね。
お風呂に入ろう。
「ふぅ、やっと一息――」
一日の始まりに、冷たくなった身体を暖める。
この四日間が始まってから、明日でちょうど一年。
代わり映えの無い日々に飽きてきた……という時に限って些細な変化が起こるからだろう、未だに世界が終わる気配はない。履いていないさんがあまり焦っていなかった事をみるに、まだ大丈夫なのか。それとも、然程興味が無いが故のあの態度なのか。
判別の付かない悩み事だが、今は、今だけはそれをスィーとカウンターに滑らせて、温かい湯に浸かる。
ちゃぷ……と、入浴剤によって緑色に染まったお湯を手ですくい上げる。
片手ではすぐに零れてしまうので、両手で。
「……ふぅ」
その杯に傷をつけるように隙間を開けようものなら、緑色の液体はすぐにその穴を伝って浴槽へと落ちていった。
今度はそれを逆さにして、空気を抑え込みながら湯船の中へと沈める。同じように穴を開ければ、小さな気泡がぷく、ぷくと出ていく。
「イリヤスフィール・フォン・アインツベルン……か」
彼女はオレを見る事が出来ない。
その存在を認知する事は出来るだろうが、オレ自身を視認する事は出来ない。
誰だって、自分の頭の上なんか見えないのだから。
だからこそ、零れ落ちていく彼らがオレに気付くのは道理、か……。
ザバッ、と音を立てて立ち上がる。
大きな鏡に超絶美少女飛鳥ちゃんの肢体が映る。
意味も無くセクシーポーズ。
「馬鹿ですねー……」
そんな自分を罵倒して、オレは風呂からあがるのだった。
骨董達と触れ合っていても何故か調子が出ず、急かされるように外に出た。
チャリを漕いで、気の向くままに気の向く場所へ。
冬木大橋。新都。ヴェルデ。
ゆっくりとしたスピードでそれらを見て回るが、特に立ち止まったり立ち寄ったりしようとは思えず、そのまま通り過ぎていく。
なんだろう、この……疎外感?
なんとなく、新都からも深山町からも追い出されるような、そんな感覚と共に……オレは、冬木市の郊外へとやってきた。
アインツベルン城のある方ではなく――新都の双子館のある方へ。
「……第三次、か……」
彼がこの世に呼び出されたきっかけ。
彼女が辿っている、記録の聖杯戦争。
オレには一切の関係を持たない記憶。
自転車で走るには流石に悪路が過ぎるので、手で押してその洋館へ近づいていく。
玄関に自転車を止めてカギをかけ、躊躇う事無く玄関の扉を押す。簡単に開いた。
長年使われていない廊下に足跡を付ける事は憚れたが、仕方がない。
ただ、
扉を開けた。
「……いいセンスだな」
差し込む日差しは暖かく、まるでついさっきまで誰かが座っていたかのような椅子とソファにはクッションが置かれ、暖炉にも薪がそのままにおいてある。
白い、このなにも無い空間。
そこへ異物がやってきた。
「――あれ? オマエ……野場、か?」
振り返らない。
だってソイツの声には、喜色が乗っていたから。
誰かの微睡のような暖かな空間が、誰かの死に際のような静かな空間へと様変わりを始める。覚醒と就寝の境である事に、どちらも変わりは無い。
「……楽しいのか?」
「ん? ……あぁ、
見えないが、ソイツの口角が上がったのを感じる。
窓から差し込む太陽光が、まるでオレ自身を刺し貫くかのように強く照りつける。
「もう一年だぞ」
「どんなに穴を埋めたって、傷は塞がらないだろ?」
振り返らずに会話を続ける。
ここには何もないが、オレがいてしまった。
何かに誘われるようにここにきたのはコイツのためか。
何かに弾かれるように追い出されたのは彼女のためか。
「ここには誰もいないぞ」
「でもオマエがいただろ」
「オレはもうここには来ない」
「その時はもう一度ここに来ればいい」
そう。
オレがいた、というピースと、オレがいなかった、というピース。
そんな些細で
まるでシーンのコンプを狙うゲーマーだ。
「……なら、お前の目指す場所はここじゃない。
それだけ言って、奴を視界に収めないように極力顔を逸らしながら、部屋を出る。
飽きさせる。その最たる方法の一番に、ネタバレを食らわせる事がある。
恐らくもう一つの方の存在すら知らなかった――殻である奴は、だが――だろうアイツにとびきりのネタバレを食らわせて、その場を後にした。
「……手癖悪いなオイ」
自転車のカギは外されていた。
「それで、何用だ、野場。今日は確か、お前の店の休業日ではなかったと記憶しているが?」
「人ん家の休業日なんか良く覚えてるなお前。もしかしてウチのファン?」
「戯け、穂群原学園の生徒の事情を俺が憶えていないはずがないだろう……と、言いたいところだが、これがお山の蔵から出てきたと、今朝零観兄から渡されてな。都合がいい、お前に渡しておくぞ、野場」
「何だそれ、ビラ……?」
穂群原学園。
日曜日だというのに穂群原学園の生徒会室に居座っていた柳洞が、同じく日曜日だというのに穂群原学園の生徒会室を尋ねたオレに渡してきた物。
それは、朝刊なんかによく挟まっている、地域のスーパーなんかのおすすめ商品を紹介するような、一枚のビラだった。
色合いは質素で、写真はとても見覚えのあるものばかり。
「……へぇ! ウチのビラか!」
「うむ。それを取っておいた零観兄のマメさにも感服だが、野場骨董品店がそういったものを打っていた事も意外だったぞ」
「あぁ、だろうな。今は出してねーもん。これは前代店主の頃の奴だよ。へー、こんなもん出してたとは……」
辰巳と縁。
表向きには十年前の災禍に巻き込まれて死んでしまったとされている、オレの両親。
だが、実は少しだけ――彼らの死んだ時期は、冬木大災害と前後する。
冬木大災害が起きる前に、辰巳も縁も死んでしまっていた。
「で、なんでコレをオレに?」
「む、……なんだ、お前は夜になると寂しさに枕を濡らしていると聞いたのでな。両親の匂いのあるものが欲しいのではないかと思ったわけだ」
「誰から聞いた……って、衛宮しかいないよな。さらに言うとライダーさんだな……?」
あんにゃろう。
あと、別に両親がいなくて泣いてたわけじゃないし、そもそもいつの話をしてんだよ。
半年くらい前じゃないか?
「それで、結局何用だったのだ、野場」
「え? ……あぁ! 特に用向きは無いよ」
「無いのか」
「無いね。逆に聞くけど、オレが柳洞に用事あるような奴に見えるか?」
「見えんな」
「だろ?」
とりあえず貰ったビラを丁重に折りたたみ、改造制服のポッケの中でも一番大きい所に突っ込む。
生徒会長の目の前で。
まぁ、何も言って来ない辺りは、業務時間外だ、という所かな。
「んじゃ、オレは帰るから――」
「――あれ、野場?」
全身に怖気が走る。
今度は、面と向かって。
「おぉ、衛宮か。待っていたぞ」
あぁ、そうか。
そんなこと、考えればわかるのに。
オレがここに誘われるようにしてきたのも。
「安寧の地は無いのか」
「?」
きょとん、と。
まるで人畜無害そうな呆け顔を晒す衛宮。
その奥にいる彼が、また一つピースを見つけてしまった。
手に入れたのは今のピース。見つけてしまったのが、今ではないピースだ。
「どうした、野場?」
「俺の顔になんかついてるか?」
前後からかかる声に溜息を吐きたくなる。
この場においてシリアスをしているのが自分だけ、という事実に、脱力した。
「……なんでもないよ。そんじゃ、オレは帰るから」
「?」
二人を置いてすたこらさっさ。
履いてないさんの言った「出来る事ならこれ以上空白を創り出す事はやめてほしい」という言葉が深く突き刺さる。
オレが行動すれば、必ず空白が生まれる。
しかし行動しなければ、また前のような何も起こらない日々が何周も続くかもしれない。
衛宮一人にその行く末を任せるなんて、残念ながら出来ないのだ。怖いから。
「響かず……か」
どうしてこう……上手くいかないかなぁ。