白い息の美しい――訂正、喉まで痛い朝だった。
もう二月だというのに、どうしてこう。
シャッターを持ち上げる指先がかじかんでいて痛いし、結露が触れてさらに冷たい。ちべたい。
はふ、と手に息を吐きかけながら、正面をちらり。
うん。
今日もワイン店のオーナーさんは元気だ。一日一回サムズアップ。冷たい空にはサムズダーウン。
「……そういえば今日、セールだったっけ」
そういう時程、余計な思い付きをするものである。
シャー、と音を立てながら未だ肌寒い朝の冬木市を通り抜ける。自転車でだよ? 口で言っているわけではない。
走ったりなんだりと体力づくりは多少しているけれど、そんなにスタミナがあるわけでもなく、ただ、最近は起きている事が多い――相手にネックウォーマーの中でもごもご独り言タイムをしながらタラタラと自転車を漕いでいる次第である。であるから、肺活量は上がるよね。
さて、そんな私ではあるが……ここ、冬木大橋でのみ、別人となる。
前輪が冬木大橋へと触れた、その瞬間ッ!
私は風!! そう! アイアムウィンド! ゲットウィンド!
「ハハハハハ! ハーッハッハッハっとあれは遠さあぁっ!」
今起きたことを簡潔に且つ懇切丁寧に説明しよう。
まず、私が高笑いをして体を後ろへ仰け反らせる。いつものことだからそれはいいとして、今朝、いい天気だなー、日差しきっついなー、なんて思ってかぶってきた帽子が風を受けて今にも飛んでいきそうなことにも気を留めずにいたところ大橋の上にいる遠坂を見つけたと思った瞬間帽子が吹き飛んでしまったという次第である。
散々――が注意していたにも関わらず、なんという失態か。
つらい。割とお気に入りの帽子だったからつらい。3900円もしたのに……。
あぁ、さらば私のマイキャップ。頭痛が痛い。
冬の未遠川に落ちて魚のエサとなるのだ……。
「これは、キミのかね?」
「んぬぁにぇ?」
さすがに自転車を止めてえぐえぐと咽び泣く(別に涙は出ていないけど)私の上に、影が差した。
そして低音のいい声。若干未熟さアリ。
顔を上げると、そこには……。
「……あれ、ちょっと待って。ちょおっと待ってくれたまえ。見覚えあるぅ……あるぅけどこんな外国人私の知り合いにいるわけない、あ、いや、いるけど、いるけど、そうじゃなくて……ん、んん~?
面影は……見覚えあるんだけど、喉から出てこないッ! だ、誰ですか!」
「最終的に聞くことに落ち着くのか。それと、そういう葛藤は心の中でやるべきだろうな」
「おっと華麗に諭されてしまった……それはそれとして、その帽子は私のです」
「それはそれとしてしまうのかね? まぁ、いいのだが」
褐色、
赤い外套を身にまとった偉丈夫。どこか見覚えがあるような、無いような。
そんな男性が、私の帽子をこちらに差し出して、立っていた。
「拾ってくれてありがとうございます。ええと……」
「なに、名乗る程の者ではない。次からは気を付けるといい。それでは、私はこれ」
「アーチャー!? 何してるのー!? いくわよー!?」
「……帽子、拾ってくれてありがとうございます。アーチャーさん。あ、私は野場飛鳥といいます」
「……まぁよいのだが」
どうやら彼は遠坂の知り合いらしい。
まぁ、遠坂の家って洋風だし、そういう付き合いがあるんだろう。最近行けてないけど。
「呼ばれてしまったのでね、これで失礼するよ」
振り返り、去っていくアーチャーさんの背中。
その背中にこそ、見覚えはなかったけど。
「……さっきは、言わなかったけど」
なんか、あの人苦手だな。
そう思ってしまうのは、何故なのだろう。
「贋作屋? ……そう、なんだ」
なるほど。
それは――私たちにとってはあんまり近づきたくない存在だなぁ。
「さっき、何をしていたの?」
「なに、大した事ではない。人助け、というヤツだ」
「へぇ、殊勝な事ね。それで?
助けた女の子に、何か思う所でも?」
冬木大橋。その橋の上。
特に上る必要はないが、なんとかとケムリは高いところが好き。そんな言葉を思い浮かべながら、白髪の偉丈夫――アーチャーは、主人である遠坂凛の隣に立っていた。霊体化はしていない。
「……いや、なに。
なんでもないさ」
「なんだ。面影が似てる人がいて、記憶が戻ったとかだったらよかったのに」
「むしろ逆だろうな。
「いつまでも同じ事をネチネチと……ほんと、陰湿なサーヴァントを引き当てたものだわ」
主人の愚痴を聞きながら、アーチャーは少女が爆走していった方向を見遣る。
野場飛鳥。
彼女はアーチャーの顔に見覚えがあると言っていた――それは、アーチャーの出自を考えればあり得ることではあるのかもしれない。少なくともこの町の人間であれば、多少は。
だが、アーチャー側に少女の記憶がないのが不思議だった。
摩耗した記憶……それでも、覚えているものは、ある。
そのかすかな思い出の中に、少女は僅かでさえも該当しない。
ただ、野場、という苗字には覚えがあった。
深山町商店街の一角に居を構える、野場骨董品店。
そこで働く夫婦の姓が、野場だった。一般の店でありながら多くの神秘を扱う店だけに、幾度か、訪れたことがあったのだ。
そこの夫婦は子に恵まれず――。
ただ、外に出ることが叶わずに死んでしまった赤子が、いたような。
それ以上は覚えていない。
記憶に強く残っている事柄ではあるのは確かだが、覚えていない。
それは既に、アーチャー自身がセイギノミカタではないから、なのかもしれない。
「そろそろ、新都の方へ行くわ」
「何をしに行くんだ、凛」
「買い物よ? 荷物持ち、お願いね」
「……」
セイギノミカタでないのは重々承知だが――私は、給仕を行う使い魔ではないのだがな。
そんな思いは、ギリギリのところで飲み込めた。
言っても特に効果はないからだ。
「……地獄に落ちろ、マスター」
「え? ご主人様のお役に立てて嬉しい?」
大きくため息を吐いて、霊体化するアーチャー。
彼の心中に渦巻いていた疑問は、すぐ隣のあかいあくまによってかき消されていた。
落ちていく。
くるくる回って、落ちていく。
黒い、暗い――何も見えない中空を、風に揺れるように、煌めく様に、砕けるように。
オレの意識が消える事はない。
終わりはまだ訪れない。
カラダはないのに、イシキだけが落ち続けている。
「……大体、ここがどこなのかわかってきたよ」
虚ろの蔵。
狭間ではなく、境目。
夢を見ていたオレの、最後に行きつく場所の、真上。
「ライダーさん、ランサーさん、アーチャーさん。野場飛鳥が出会えたのはアサシンさんを除く七騎。あとは、キャスターさんとセイバーさんとバーサーカーさんと……金髪君か」
本来。
野場飛鳥が出会うはずのなかった――その全てにおける、最大の歴史。
それは多分、オレが起きていられた時間なんだ。
野場飛鳥とオレが、会話をしていた……その時間を切り取っている。
切り取っている、ってことは。
「もう、いらないものだもんな……」
キラキラ、シャラシャラ。
音を立てて、落ちていく。
末端が崩れていくのを、どこか他人事のように眺めていた。
「落ちて、崩れていく夢、でござるか? にんにん」
「うん。最近よく見るんだよなー。あと、忍者はニンニンって言わないと思うぞ」
「忍者ではなくシノビにつき。しかし、一般的な夢占い――卜占で言わせてもらえば、崩れる夢は運気低迷、落ちていく夢は不安の表れ。でござろうなぁ」
「卜占は夢占いと関係ないぞー。
しかし、運気低迷ねぇ。私の運気、もとからバリ高だから、下がったら普通くらいになるのかね」
「野場氏の豪運は異常でござるからなぁ。まぁ、憑き物が落ちる、ともいうでござろう? 野場氏には豪運のナニカが憑いていて、それが離れてしまうからそんな夢を見ているのであろうよ。ニンニン」
「ナニカってなんだよ。
……いやホントに何? 怖いんだけど」
「さて、シノビにはなんとも。ところで野場骨董品店ばスリケンやクナイは置いていないのでござるか?」
「置いてるよー。買う?」
「……流石冬木一の不思議骨董品店。骨董とはなんだったのか。そしてどうせ恐ろしい値段がついているのでござろうなぁ!」
「なんなら忍術っぽいもんが書かれた巻物もあるぞー」
「欲しい!」
「何億まで出せるぅ?」
「出せぬ!」
うん。
今日も快晴――後藤くんも絶好調。
運気低迷だとか、不安だとか……一切ナシ!
私は私。
夢占いなんかに惑わされないぞー!