【黒い鳥】の羽休め 作:\°∪゜/
何故か急にやる気が出たので執筆。慣れない3人称視点で書いているので要注意。
一休み 産み落ちたおさな鳥
———その世界は、無数の汚染兵器で溢れていた
深い緑の濃霧に包まれた世界にはもう何も、希望は無かった。
地上の緑は汚染によって穢され、阻害され、ただただ灰色のみが広がっている。
青く、野鳥が飛んでいた空も今では見る影も無い。あるのは雲に覆われ黒く濁って見える太陽と、地上を蹂躙する巨大航空機。弾道ミサイルすら飛ばされている。
兵器で埋まっているのは、空だけでは無い。地上は空以上に、無数の兵器が汚染を広げる戦いを繰り返していた。
巨大な目玉のような浮遊兵器や、空を飛び回る鳥獣兵器。
そして今最も地上に溢れかえっている兵器とはヒトの形を模した巨大兵器………『
3つの勢力に分かれて互いを潰し合うそのパイロット達は、未だに戦いを辞める事が出来ていない。平和を望む会談を設けても、理解し合おうとは思わない。
無数の無人兵器が地上に侵攻して来ている……それなのに何故、人は同族ばかりを消そうと考えるのか。
いつからだろう、こんな世界になってしまったのは。
それはきっと、『人間』という種族が出来上がってからなのだろう。人間は生まれ持って、知能が高かった。中途半端に、高かった。
モノは測れるが、己の物差しでしか測れない。半端な力を持って人類は今まで過信し過ぎていたのだ。
生物は多種族と共存して生きて行かなければならない……人間はそれを斬り捨てた。
生物は他者に深刻な被害を出す行動をしてはいけない……人間はそれを無視し続けた。
生物は………優しくなくてはならない。ヒトはそれを知って——それの大切さを知っておきながら、今でも他者を傷付けいる。
——人間は愚かだ。
そんな事は誰もが初めから知っていた。
——人間は、過ちを繰り返す。
自分の物差しでしか測って無いのだから、それは当然の結果だ。
誰もが、過ちを繰り返す。繰り返して、世界を壊す。この汚染され尽くした世界も、ある意味一つの結末なのだろう。
しかし……ある人形は、言った。
ヒトには、無限の可能性が秘められていると。
ヒトには、何かを生み出す力があると。
ヒトはいつか……答えを見いだす、と。
それは側から見ればただの妄言に過ぎないのかも知れない。過去に前例の無い事が、今後も起こり得るはずない。そうヒトはそして、機械達は自らの事を過小評価している。
だが、人形は違った。ある人間を切っ掛けに人類に希望を見出した。
それが………【黒い鳥】
何もかも焼き尽くし、如何なる巨悪をぶつけても平然とした姿勢で捩じ伏せた最悪の存在。
それは言うなれば危険過ぎる異分子だ。社会のルールを一本の強力な杭でズタズタに引き裂く、オーバーテクロノジー。
だが人形は言った。それこそが、人間の生まれ持って手に持っている、可能性だと。先天的後天的に習得した、希望の終着点だと。
人間の可能性。
それは誰しもが持ちえし希望だ。希望の光は、暗い闇の中では消えないのだ。
希望の光は紡がれる。幾つもの希望に繋がれて、強くなる。それはきっと廃墟した世界とは違う、素晴らしい世界なのだろう。
希望は希望に惹かれていく。それは摂理であり、奇跡なのだ。奇跡は、無限の可能性すらも可能とさせる。
これは一つの、希望の物語。荒れ果て焼け焦げた【可能性】の、優しさに触れる物語。
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暗い世界を、走っていた。
ただただ暗いだけの、不気味な深淵の中。誰も存在せず、自分が何者なのかも分からない。何かをする、気すら出てこない。
ああ、なんて不安なのだろう。そう思い続けながら見えない光を求めて歩いていると、ふと自分の胸元が発光しだした。
儚い光だ。消えいったロウソクのようにフラフラとしていて、今にでも消えそうだ。
それに手を伸ばす。
明るい光は、自分の身体にある。何故かは知らないが、自分が光っているのだ。
光は徐々に明るくなっていく。ロウソクから懐中電灯へと、懐中電灯から蛍光灯へと、蛍光灯から、サーチライトへと。
やがて光は自分だけでは収まらなくなり、自分を飲み込んだ。何も見えなくなって自分の意識はそのまま溶けていく
……ことはなく、逆に覚醒した。
垂れ下がった目蓋を撫りながら周りをキョロキョロと見回す黒髪の青年。彼の目には美しいレンガ造りの街並みが広がっていた。
はて、此処は何処だろうか。
青年は目の前の風景を眺めて首をかしげた。彼の目には以前まで、こんな景色は映っていなかった筈なのだが。
青年は次に、何故自分はこんな所に……? と思考する。確か自分は先ほどまで……。
そこまで考えて青年は、ハッとなって気付く。
背後に展開している人の気配に。
いつの間にか、囲まれていたらしい。その主要構成としては全て、刀剣を腰に携えた少女のようだ。
しかし生憎と自分は、人様の邪魔になるような事はやっていないのだが。青年は現実と思考との差異にモヤモヤを感じながら、両手を軽く上げて180°回転する。
「……his)72kkw'!?"/@2!!!」
謎の言語で話しかけられた。
青年は物凄い剣幕で怒鳴り付けてくる少女に苦笑いを浮かべる。彼女が何に対してかは分からないが、少なくとも非友好的だという事は分かった。
が、言葉が通じないせいでコミュニケーションが取りづらい今、何をすれば良いのか、検討が付かない。
とりあえず、万能の受け答えが出来るサムズアップで返す事にした青年は、笑顔を浮かべて親指を立てた。
それは笑顔さえ浮かべれば友好的になるのではという考えからであった。しかし、現実は非情である。
周りを囲む無数の少女達はそれを切っ掛けに抜刀。パカっと開いた鞘の収納器具から外れて刀身は輝かしい煌めきを主張する。
すると次の瞬間見えたのは、無数のロボット兵士。中には先ほどの少女が載っている事から恐らく、先ほどの抜刀が原因だと思われる。
青年はこの結果を見て、冷や汗を流した。何故友好的な笑顔を見せて敵対されるのか、意味が分からない。と言うよりも目の前の機械化兵達は明らかに、生身では立ち向かえないだろう。向かった所でミンチにされるのがオチだ。
さて、どうしたものか。
相手側は怒っており、何故か自分のサムズアップでそれを膨張させてしまったと言う事は納得はいかないが確かに、こちらに非があるのだろう。
しかし、だとすればどう弁解したものか。生憎と言葉は通じないようだし、万能の挨拶をすれば結果は身に染みて分かった。
立ち向かってもアウト。交渉もアウト。だとすれば残された選択肢はたった一つしかない。
挙げていた両手を下ろして、表情を変える。その行動を疑問に思ったのか少女達の目は鋭くなり、構えも力んでいく。
そして青年は右足を支点にクルリと180度回転。気を付けからの前のめりになりそして。
全力ダッシュで逃走したのだった。
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——一生独房にでも入ってろ!
そんなニュアンスで放たれた理解不能の言葉と共に、青年は井戸の底に扉をつけたような監獄に縛り付けられた。
両手を木版の手枷で嵌められ、更にそれは頭より上の壁に繋がれている為、非情に肩が痛い。
結局あの後逃走した青年だったが結果は一目瞭然。ブースト移動する兵器相手に非戦闘型歩兵(一般人)が勝てる筈もない。
相手は二手に分かれて此方の退路を防いであえなく青年を拘束したと言うわけだ。
しかし、だからと言って納得がいかないのも確かだ。
自分はただ、目が覚めたから周りを見渡していただけなのに。ただそれだけなのに。
青年の心の中にこの世の理不尽さへの憎悪が生まれた。
世界は残酷なのだ。
その日は結局、解放される事は無かった。
昼から夜に掛けてはずっと手枷に掛けられたまま過ごし、特に何もやる事のないまま過ぎ。
夜に食事係と思われる生徒が牢の中に入り自分の口の中に生暖かいスープを飲ませ。
結局ずぅっと立ちながら夜を過ごし、華麗なる太陽を迎える事となった。因みに閉鎖空間であるせいで天道様の姿は見れていない。
そして今日も朝から昼に掛けては生暖かいスープを流し込まれる以外は何もなく。
そのまま筋肉痛の夜を迎える……前に、アクションが起こった。
何やら珍しい藍色の髪の少女が此処を訪ね、牢の拘束を解放したのだ。しかし流石に手枷までは解放されず、頭上に括り付けられたロープは彼女に取られてしまった。
少女はロープを引っ張りさあ行くぞと行動で示す。青年を何処かへと連れていくつもりらしい。
勿論青年も、こんな所に一生留まるつもりはない。行き先が分からない以上嬉々とは出来ないが、少なくとも自由になれるチャンスはある筈だ。
彼は丸一日動かして居なかった重い足を進めて、自由への道のりを歩む。多少痛んだのかその目は少しだけ、歪んでいた。
少女は青年の彼の姿を不憫に思いつつも、ロープを引っ張ってエスコートした。
ゆったりと地を踏みしめて歩く男と、軽快な足取りで歩む少女。その姿はまるで……
なんとなく、飼い犬と主人のようにも見えた。
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ちょっとばかし豪勢なとある洋室の一角。
少し大き目の窓から見える街並みの風景は絶景と言うに素晴らしく、文明の安心さを与えてくれる。
しかし、その部屋の主にはそれを与える事は出来ないらしい。
頭を抱えながら狼狽えるピンク色の長髪美人は目の前の書類を見つめて、更に頭を痛めた。
「この学園に侵入者なんてね、命知らずもいい所よ。オマケにマトモに話を聞こうとしない………とりあえず私の所に連れて来るように指示したけれども、どうしようかしら」
彼女の名前はレリィ・アイングラム。
【
当学園はその中でも一般的に装甲機竜に高い適正を持つとされる女性のみを教育する、女学校である。因みに高い戦闘力を持つ装甲機竜を扱うに当たって警備レベルは上位のものである。
そんな高い警備力を所持する学園に、侵入者が現れた。
今までにも女生徒や装甲機竜に何かしようと侵入を目論む者はいたが、実際に侵入出来たものは一人もいない。
学園を守護する生徒の集団である『騎士団』の存在もあって、侵入しようなんて勇気のある者はなかなかいないのだ。
しかし、今回の侵入者はその警備部隊や騎士団に発見、感知されずに学園内にいつの間にかいたと言う。
しかもそれは男であり、丸腰。もっと言うならば発見当時は芝生の上でグッスリと寝ていたとの事。もはや、彼の思考は読み解けない。
学園の警備をすり抜けて侵入した癖に自衛手段を持たず、更に見つけて下さいと言わんばかりの気の緩みさ。彼が何をしたいのか、全く読めない。
だから彼女は、直接聞く事にしたのだ。回りくどい事はせずに直接言った方が、彼女の胃には優しい。
報告書には話を聞かない人間だと言うが、この部屋を訪れさえすれば完全にアウェイの筈だ。学園長の権限で独房に入れるなどと揺らせば何かしらの情報は得られるはず。
まあ、何にしても事情は聞かなくてはならないのだ。
暫くレリィが書類整理をしていると、コンコン、というノックと失礼しますという挨拶が扉を超えて届いた。
どうやら犯人が護送されて来たらしい。レリィはお使いを頼んだ騎士団の少女に入室を許可した。
「学園長、例の男を連れて来ました。彼がそうです」
少女、シャリス・バルトシフトが指す方向には確かに、男がいた。
報告書通りの外見だ。耳が掛かる位にまで伸びた不作法に切り揃えられた黒髪に、疲れたような黒い瞳。
顔はずば抜けてイケメンとは行かないが、あくまで平均的である。
「彼がそうなのね、分かったわ。それじゃまずは自己紹介からしなきゃね。
私の名前はレリィ・アイングラム。ここの学園長をやっているわ。貴方の名前は?」
「……?」
手枷を付けられた青年は彼女の言葉に気付きはしたものの、無言。何も答えないどころか、口さえ開かなかった。
しかし、それは返さなかった訳ではない。返せなかったのだ。彼女も彼のその違和感に薄々気付いた。
「(まさか、言葉が通じないの? どう言うこと? ここら辺一帯の国の言語は共通であるはず……もしかして遠方から来たのかしら?)」
レリィの中で仮説が立てられ始める。
しかし、だとしたら彼が此処に来た理由とはなんだろうか。言語も知らず武装もしていないくせに、侵入困難である学園に侵入出来るような人物。
全くもって意味不明である。レリィは若干困惑しつつも言葉を繋げる。
「うーん、困ったわね……よし、それじゃあ私の言葉が分かるのならば首を縦に振って。分からないなら横に振ってね」
これはある種の、テストである。実はここで首を縦に振っても横にふっても、言葉が通じることが証明されるのだ。
言葉が分からない癖に横に振れという指示は分かる。
これは「日本語分かる?」という質問に日本語で「ワタシ ニホンゴ ワカリマセーン♪」と答えるのと同じくらいに阿呆である。
しかし、結局このテストで分かったのは、彼は本当に言語が分からないという事。結局彼は首を振る事はなかった。
ただただ頭に疑問符を浮かべて、此方の様子を伺っているようである。
「ええと、本当にどうしようかしら……。貴方はどう思う、バルトシフトさん?」
「私、ですか? そうですね、私は出来れば彼の事は解放するべきだと思います」
「へえ、どうしてかしら?」
レリィはわざと驚いたように見せてみる。
とは言っても彼女もシャリスと同意見である。彼には悪人が纏うような、黒いオーラが感じられない。
オーラとは言うが、それは言うなれば仕草である。泥棒する者は周りを極端に気にする傾向にあり、殺人を行う者は他者の身体を部位単位で品定めするように眺める。
長い年月によってそれは養われ、パターン化されるのだ。学園長と騎士団という職種がら、彼女たちもこう言った傾向を見つけるのは不得意では無い。
「彼はなんだか、何も考えていないように感じます。牢に入っていた時は度々様子を見に行来ましたが、彼は俯き落ち着いたままずっと目を閉じていました。
此方が彼を発見した際に逃げ出した時も、此方へ危害を加えようと素ぶりも見えなかった。少なくとも害はない筈です」
それを聞いて、レリィは考える。
確かに害がないと言うのなら解放するべきなのだろう。しかし、生憎とここは男性禁止の女天国。ある程度の罰は与えなければ世間体的にも悪いだろう。
だとすれば、何が良いのか。
「本来ならば然るべき施設へ送るべきなんでしょうけどね。ただ、何もしていないのにそこまでの罰を与えたら、大変よねぇ?」
「確かにそうですね、無実の人間を独房に入れたとなれば学園の信頼は恐らく………まさか学園長?」
「ふふふ、詮索はダメよ? 大人の世界も色々と面倒なんだからっ」
レリィの考えとしては、別に話を大きく広げる事もないだろう、というものである。それは彼の為であり、自分の為である。
確かに無実の人間を独房に入れれば大変な事になるだろう。しかし、本当に面倒なのはそれではないのだ。
もし公にこの男を明かして仕舞えば、学園に男が侵入出来たという事実が残されてしまう。となれば、学園の警備性を疑われてしまうことだろう。
そうなればいろいろと面倒だ。厄介な書類仕事や事情聴取と、仕事量が増えてしまう。
「じゃあ彼は学園が雑用係として雇った人間、という事で処理しておきましょう。これが通れば彼は公の人間として穏便に済ませられるわね」
「……はぁ、了解です。私の方からも学生全体に呼び掛けておきます」
「お願いね。あ、勿論だけど申請が通ってからよ?」
「分かっています」
学園長と騎士団員の二人でトントン拍子に事が進んで行ってしまう。話にどうやっても入れない青年は今もずっと、頭に?を浮かべたままだ。
暫く彼女らは話し込んでいたが、暫くすると青年に向かっていった。
「それじゃあ貴方にはもう少し、じっとして貰う事になるわね。私の部屋の隣が空いていた筈だから、暫くはそこにいると良いわ」
「………」
青年は無言で彼女の話を聞く。が、理解はしていない。精々、何を言っているんだろうぐらいにしか思っていないのだ。
しばし、見つめ合う二人。青年に何故か見つめられている彼女は何処か、恥ずかしげだ。
「え、ええっと……ああ! それじゃバルトシフトさん、彼の事、よろしくねっ?」
「分かりました」
「……」
手枷を外された青年は無言でシャリスを見つめるが、シャリスはそれを意識しないよう先に部屋を出て、手招きで青年を誘導する。
青年はぼうっとした様子で、トコトコと彼女の後ろ姿を追っていった。
ガチャリ、と学園長室の扉がしまる。それと同時にレリィの緊張は切れ、机にダラんと垂れ下がる。
彼女は暫くして、ふとある事を思った。
「……ホント、なんだったのかしらね。彼」
目的も、手段も、思想も謎の青年。何を考えているのか、それすらも分からない。
だがなんとなく、彼には柔らかいものを感じ取っていた。これはあくまでレリィの主観でしかないが彼はきっと、優しい人間なのだ。
「面倒な事に、ならなければ良いわね」
彼女はそっと一息、ため息をはいた。
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掃除が行き届いた比較的広い一室に青年は辿り着いた。藍色の髪の少女に連れられた結果である。此処にわざわざ連れて来たという事は掃除しろという事なのか、住めという事なのか。
出来れば後者であってほしいが、前者も結構ありえる射程内だ。
——どうやら、後者で合っているらしい。
彼女はこの部屋をいろ、みたいな仕草をして青年を残して出ていった。先ほどまで手枷ロープで拘束していた相手を視界から消すような人間ではなさそうな所をみるに、監視の必要な前者ではなさそうだ。前者だった場合逃げ出す可能性があるから。
しかし、本当に意味が分からないと困惑する。彼女たちは最初こちらを見つけると見つけるで自分を拘束しようと取り囲んで、逃げるとロボット兵器で追いかけ、牢屋に入れて出したと思ったら今度は女性二人のみのトークで終わり、最終的に小部屋に案内される。
このプロセスの中に何がったのか、是非とも詳しく聞いてみたものだ。自分が何をして何故解放されたのか。
はぁ、と肩の息を吐いてダラんと備え付けのベットに横になる。ふかふかの気持ちいいベッドだ。相当の高級品に違いない。
なんとなく、こんな物に触れたのは初めてのような気がしてならない。いや確かに高級品には触れた事は無いと思うのだが、そういう事ではないのだ。
『ベッド』という存在に初めて触れたかのような、高揚感。いままで踏み入れることの出来なかった未知のエリアに片足を突っ込んだような満足感。この二つが青年の中ではかなり大きい。
何故だろう、こんな気持ちになるのは。
青年は首を傾げて……ふと、涙を流している事に気が付いた。
何が悲しいのだろうか。自分で自分が分からない。何も分からない。記憶も、名前も、感情も全てが分からない。
——私は一体、何なんだ……?
青年は再度静かに涙を零した。
あれから数日。
青年は与えられた個室の中で特に何もする事もなく、のうのうとした日々を送っていた。
理由は、部屋を出る事は許されないからだ。出ようとすると必ずそこには例の藍髪少女が陣取っており、退出を許さなかった。
何やら自分を外の世界に出してはいけないと言う制約があるらしい。何も覚えていない、記憶喪失だと言う事にさえ目を瞑ればただの一般人の筈なのだが。
なのでここ数日青年は外に出る事は出来ずダラダラと窓の奥の世界を眺めるのみに終わっていたのだが。
なんと今日は彼女らの方から自分を外の世界へと連れ出してきた。彼女が連れ回した箇所は舎内各所に配置されたトイレ(らしき施設)と、分厚い紙の束が大量に格納されている大広間。
トイレの方では先端に何かついた棒のようなもので擦れと指図で指示され、紙束広間ではふさふさ付きの柔らかい棒で紙束周りをポンポンしろと指示された。
恐らく、雑事をしろと言う事なのだろう。
今日一日やっていた事と言えば、掃除ばかりだったと言える。まあそのどれもが自分の知らない方法だったと驚いたが、そもそも記憶がない自分に掃除やトイレという概念が分かるという事に結構驚いた。
しかし、それでも自由になれた事は良いことだ。
自分の立場は今囚われの身ではなく、空間を歩いて回れるまでに改善された。雑用をするのは好きではないが、これはあのダラダラとした日々を返上するのに良い機会では無いか。
そう考える事で、青年の方は少しだけ軽くなった。自己暗示のようなものだ。
青年はチラリと藍紙少女に目を向けた。
言葉は相変わらず通じないが、あちら側は何か察したらしい。その証拠に青年は身柄を解放され、監視付きで雑事を任されてはいるが食事だって与えて貰っている。
叶うならば室内だけでなく、あの美しい外の風景に踏み込みたいが、それはあの少女の監視が甘くなった時のみだろう。
どうせならば実際に言葉を交わしてみたいが、言語体系が違うせいか互いに言っている意味が分からない。いつかちゃんと話してみたいものである。
それから青年は、雑事を淡々と、効率的に行っていった。
ある程度やれば慣れるのか、説明を聞かずにトイレの構造を理解して重点部位をピックアップ、使用人が掃除する以上の綺麗さになるまで進歩した。
となると青年の評価が上がるのは必然で、任せられる仕事も多くなっていった。トイレ掃除から各部屋のゴミ集め、ゴミ集めから食器洗い、食器洗いから料理手伝いへ。
次第に青年の事を噂する者も現れ始め、青年の存在は確立されつつあった。
世の中、何があるか分かったもんじゃないとはよく言ったものだ。神や仏といった超常的存在は気まぐれで、偏屈らしい。
それこそ、規格外の暴力を振るった野鳥を気まぐれで異界へと導くくらいには。
それこそ、頂点を雑用係として起用するくらいには。
……なんだか、新しい生活にも慣れつつあった青年であった。
※ ※ ※ ※
紙束広間:図書室
ふさふさ棒:ハンドモップ