むかし、むかしの話です。
西欧の一国、その首都から遠く離れた誰も知らない森の奥地に、一軒の家がありました。
そこには、小さな女の子とそのお母さんが暮らしていました。
女の子が物心ついたころには、もう彼女のお父さんにあたる人はいませんでした。なので女の子は、お父さんの顔を知りません。
お母さんも、あえてお父さんの話をするようなことはありませんでした。実際のところ、お父さんとお母さんは喧嘩したわけでもないし、もちろん亡くなってしまったわけでもありません。お父さんが、女の子が生まれて早々に家を出て行ったのは、両親二人で話し合ってのことなのでした。
家の周りにはたくさんの植物が植えられています。「これなあに?」女の子がお母さんに尋ねると、お母さんはいつもにっこりと笑って答えてくれます。セイヨウノコギリソウ、ハナトリカブト、サントリソウ、イヌサフラン、ヨモギギク……不思議な名前ばかりです。女の子は新しい薬草の名前を聞くたびに目を輝かせ、そして一つずつ覚えていきました。
家の台所では、いつも独特の芳香が漂っていました。どことなくスーッとするような香りです。女の子が今日も台所を覗くと、お母さんは薬草を潰していました。
「今日は、喉によく効くお薬を作っているのよ」
お母さんの作る薬は、どれも凄まじい効能を発揮し、かつ副作用の起こりにくいものでした。たまに女の子が風邪をひいてしまっても、お母さんの薬を飲めばすぐに元気になれるのでした。
お昼になると、女の子とお母さんは揃って庭へと出かけます。お母さんがすう、と指先で空中に弧を描くと、辺りにたちまち小さな雨雲ができました。栽培されている薬草たちも、からだじゅうに水を浴びられて、悦んでいるようです。
「お母さん! 薬草さんたち、嬉しいかなぁ?」
「ええ、きっとにっこり笑っているわ」
お母さんは薬草畑を見て回ります。栄養が足らない土壌には、不思議な力で肥料を蓄えさせて肥沃にします。弱った薬草には、不思議な力を与えて元気にさせます。
「お母さん、私も薬草さん、いっぱい元気にさせたい! 私にもできるんだよね!」
「……ええ、きっと――」
女の子は、お母さんのようになるのが夢でした。お母さんみたいに薬草さんをたくさん作って、すごいお薬をたくさん作るんだ――いつもそう思います。だから、お母さんがいつも使っている不思議な力を、女の子は欲しがりました。
でも、お母さんはそのことに限って、いい顔をしません。いくらせがんでも、あしらわれるだけなのでした。
*
女の子はすくすくと成長し、少女と呼べる年齢になっていました。
少女には、もはや幼い頃のような探究心はありません。あれだけ好きだった薬草のことなんか忘れて、施設で平凡な生活を送っていました。
……お母さんは少女を施設へと預けたのです。突然のことに少女は動揺し、お母さんを問い詰めました。私のことが嫌なら、施設に送ってもいい。だけど最後に一つだけ、薬草を育てる技術だけは教えてほしい。お母さんは泣きながらかぶりを振りました。少女はなすすべもなく、街の教会の孤児院へと預けられました。
孤児院での生活は、あまりいいものではありませんでした。施設にはたくさんの子供たちがいるので、食べものも限られています。そのうえ日に日に子供の数は増えていくばかり。日にちが増すにつれ、食事の量も減らされていきます。
施設では本を読むか、親友のエリーとおしゃべりをするのが少女の孤児院での暮らし方です。エリーは街の子供でした。生まれつきからだが弱く、あまり衛生環境がよくない街のせいですぐにからだを壊していました。孤児院に預けられてからもたびたび病気にかかっては、部屋で寝ていることが多かったのです。
本をたくさん読む二人は、すぐに仲良しになりました。気の合う二人はいつも、楽しげに談笑をします。ときには、二人で物語を書いてみたりすることもありました。エリーがいたから、少女は心細さを紛らわすことができたのでした。
ある日を境にして、子供たちが少しずつ亡くなっていくようになりました。原因は、街で流行していた疫病です。不衛生な市井の中心に位置していた教会の孤児院では、しばしば疫病の感染者があらわれます。感染した者はすぐに隔離されますが、疫病に犯される子供の数は一人、また一人と増えていくばかりです。
隔離された子供たちは、ただ死を待つことしかできませんでした。誰も手当てをしなかったからです。看病すれば、自分も疫病に感染してしまう恐れがあるのでした。
エリーは疫病のことを知るやいなや蒼白になり、狼狽しました。罹患して隔離されれば、すなわち見殺しにされてしまうのです。自分は他人より病弱だと誰よりも知っているエリーは、目の前に迫った死神に怯えます。そんなエリーに、少女は一つの約束をしました。
「私が病気を治す薬を持ってきます。エリー、恐怖に負けてはだめよ。私が帰ってくるまでは」
少女はその夜、こっそり孤児院を後にしました。
少女が夜の街を抜けようとすると、大広場で何かが催されているようです。大勢の観衆は熱狂し、お祭り騒ぎで何かを見ています。
不意に、掛け声が聞こえます。もうもうとした煙と共に、群衆の隙間から炎が見えました。人々の盛り上がりは頂点に達しているようでした。同時に肉が焼ける、形容しがたい悪臭が少女の鼻をつきます。何を焼いているのか察した少女は、気分が悪くなって口を押さえました。少しでもこの場から早く離れようと、一目散に駆けだします。
少女は数年ぶりに、生まれた地の土を踏むことになりました。家のまわりの薬草畑は、すでにほとんどが枯れかけていました。心なしか、あの頃にあった空間としての豊かさは、今ではすっかり失われているようでした。
家のドアを開けると、以前としてあの香りが鼻孔をくすぐります。とても懐かしい匂いでした。すぐそばにいる気がして、「お母さん」と口に出す少女。応える返事はありません。
お母さんはきっと、街に出稼ぎに行っているのでしょう。少女はそう思い込んでいました。少女を孤児院へ預ける前、やたらと疲れたような顔を見せていたのです。きっと家計が苦しかったのでしょう。お金を工面するために、私を施設へ預けてなるだけの生活費を浮かそうとしていたに違いありません。
懐かしい台所を眼前にして、少女は挑戦することにしました。再び庭へ出て、お母さんの見よう見まねで空中にだ円形を描きます。するとどうでしょう、雨雲が薬草畑の上にぽつんとできあがりました。
「……できた、できた! 私にもやっぱりできるんだ!」
少女は嬉しくなりました。調子づいて、あっちの薬草畑も、今度はこっちも、といった具合に以前の緑の輝きを取りもどしていきます。枯れていた薬草たちは嘘のように元気になり、庭からはあの頃の活気を感じさせます。
次は、薬草の採取です。お母さんが作っていた、どんな病気にも効く薬の配合方法を、少女はきちんと覚えています。適量を摘んできて、混ぜ合わせます。すり潰して粉にし、乾燥させて葉でくるみ、一晩寝かせたら完成です。
少し青みがかった万能粉薬は、お母さんが前作っていたそれとそっくりです。夜更かしして疲労がたまっていた少女は、作ったばかりの粉薬をぺろりと舐めました。みるみるうちに疲れが引いていきます。上手くできた、と少女は拳を握りしめました。
「よし、これでみんなを助けられる……!」
少女は粉薬を瓶に詰めて、家を出ます。そこには幼い頃に見た、きらきらした世界が広がっていました。薬草たちも元気そうに背丈を伸ばしています。
この力はなんて素晴らしいんだろう。少女はそう思いました。単に便利だとか、そういうものではありません。困っている人を助けることができる力です。失われていたものを取り戻すことができる力です。これほど素晴らしい力は、私だけが持っていてももったいない。できるならみんなに分けてあげたいと、少女はそう思いました。
*
少女が自作の薬を持って孤児院へともどってきたとき、エリーは、隔離されていました。
孤児院を留守にしていた数日間の間に、エリーは感染してしまっていたのです。共用スペースにも、個々の部屋にもその姿はありません。
少女は院長に、自分を隔離部屋に入れるよう直訴しました。当然のように断られましたが、少女は折れません。数十分の押し問答の末、「そんなに死にたいなら勝手にしろ、ただし出てくるな」と院長は吐き捨てて、少女の元を去っていきました。
隔離部屋は、孤児院のものおきとして使われていた屋根裏部屋です。少女は息を整え、その扉をゆっくりと開きました。
少女は息が詰まるような感覚を覚えます。暗くて埃が舞っているその空間には、いくつもの遺体が無残に取り残されていました。まだ息のある子供たちも、苦痛でろくに立つこともできません。うつろな目で腐敗臭のする遺体を見つめながら、自分もこうなるのか、ともはや悟ったような様子でした。
少女は息のある子供たちに、自前の薬を少しずつ与えました。一番奥の窓際でうずくまっているエリーには、大目に与えます。エリーはまわりと比べて病弱なので、通常より多く与える必要があったのでした。
少女の薬はとてもよく効きました。薬を飲んだ子供たちは、そのほとんどが快方に向かいました。院長も信じられないといった様子で、元気になった子供たちを茫然と見つめています。
「ぼく、お姉ちゃんから薬をもらったの。それをなめたら治っちゃった」
自慢げに話す子供たちもいました。少女はすっかり得意です。この調子で、街にも薬をただで配ろう。そうすれば感染拡大も、死人も抑えられるはずだ。少女はそう考えて、院長に相談することにしました。
「私が作った薬、とても効きました。今度はこれを、街の皆さんにも配ろうと思うのですが……」
「……作った、だと?」
少女は戦慄しました。院長の呆けたような顔が、刹那的に怒りのこもる形相へと変化したのです。院長はすぐさま少女の手首を掴み、叫びました。
「魔女だッ‼ この院に魔女が紛れ込んでいたぞっ! 早くこいつを縛り上げろ‼」
魔女――少女にはその単語が何を意味するのか、さっぱり分かりませんでした。それもそのはず、少女は隠されていたのです。……自らは魔女の娘であることを。
当時、魔女は忌み嫌われる存在でした。毒薬をこしらえては民を殺し、ときには疫病を蔓延させ、魔法という悪魔の手を借りた下劣な妖術で人を襲う、そう信じられていました。もっぱらそのような思い込みは、教養のない民衆たちによるものでした。
人々の怒りの矛先は魔女へと向けられ、魔法を使った、または使ったと疑われる者は次々に捉えられ、火炙りの刑に処されました。いわゆる魔女狩りです。魔女の子も例外ではなく、有無を言わさず残虐に殺されました。
我が子はそうならないようにと、少女のお父さんとお母さんは考えました。
お父さんは教会の人間でした。お母さんが魔女だとは知らず結婚し、子供を賜ったとき初めて、お母さんは自分が魔女であることをカミングアウトしました。
教会は魔女の第一の敵です。教会が民を扇動することで、魔女狩りが一気に広まったと言っても過言ではありません。それに教会にとっても、魔女は真っ先に倒すべき敵として定められていたのです。魔女を嫌う民たちを味方につけるための、一種の企みとも言えるでしょう。
しかし二人は愛し合っていました。けれども、このまま同居するのは危険でした。もしこのことが教会に明らかになれば、お父さんは自らの手で、魔女である妻と娘を殺さなくてはならないのでした。
そんな事情もあり、お父さんは泣く泣く最愛の妻と離れ離れになる選択をしたのです。
残されたお母さんは、今度は自分よりも娘を守るにはどうすればいいのかを考えました。この子が、自身が魔法を使えることを知らなければいい。そして孤児院にでも預けておけば、普通の人間の女の子として生きながらえるだろう、との思惑だったのです。そして実際、娘を孤児院に預けるところまでは、計画通りにいっていたのでした。
しかし、少女は自発的に魔法を使い、そこで初めて自らが魔法を使えることに気付きました。これはお母さんの思惑とは外れていました。
お母さんは娘に対して、魔女に関する一切の教育をしていませんでした。それは彼女に、魔女でない普通の女の子として生きて欲しかったからに相違ありません。それが凶と出て、少女は自ら魔女だとひけらかすような行動をとってしまったのでした。
*
少女は多くの民を目の前にして、ただ涙を流すことしかできませんでした。
大広場の中心で、ぼろぼろにされた服を着たまま、少女は縛り上げられています。
疫病も、近ごろの不景気も、全て少女のせいにされました。この前同じ場所で処刑された魔女と顔立ちが似ているということで、恐らくはあの魔女の娘だ、と誰かが囁きます。教会から、先の魔女狩りでこの世の魔女は消滅したと言われていたので、群衆は見当違いの発表をした教会を野次っています。ざわざわとした大広場に、少女の無罪を乞う声は一つとしてありません。
少女は分かりません。私が何をしたというの? ただ私は、いい薬を調合して人々を助けただけなのに。不思議な力――魔法は、あんなに素晴らしいものだというのに。
少女が知る限り、魔法に悪いものなどありません。雨雲を作り、土を肥やし、薬を作る。それが少女が使った魔法です。人間に悪影響など、何もありません。
泣き腫らした目が、ある人影を捉えます。少女が治した、孤児院の子供たちでした。エリーの姿もあります。魔女だと分かった時点で、少女を見る目という目には全てに敵意が込められていました。
「そんな……どうして? エリー、あなたまでもが……!」
大広場にコールが響きます。
人間に害をもたらす魔女に制裁を。
悪魔の力を借りた魔女に鉄槌を。
皆が口を揃えて言います。目の前の観衆の中に、例外は一人もいません。誰もが口を揃えて、少女の処刑を待ち望んでいます。
少女は絶望しました。それと同時に、虚無感が少女の全てを支配します。全てはなされるがまま、自分の力ではどうすることもできません。強いのは多数、すなわち民衆でした。
「その罪、汝の死をもって悔い改めよ――っ」
その声はとても悲痛でした。意識が遠のいていた少女は、その声を聞いてふと我に返ります。
号令をかけたのは執行人、彼は教会の人間でした。十字架を手に持ち、今にも泣きそうな表情で少女を見つめていました。
ああ――。
どこかで見たことがあるような、そんな気がする顔でした。からだに火がくべられて、激しい痛みと息苦しさが少女を襲います。
それでも少女は少し、安らかな気持ちになれることができました。たった一人だけ、こんな近くに、味方がいてくれたから――。
「……お父、さん?」
自らが焼かれる臭気で呼吸が詰まり、かぼそい声ではありながらも、少女はそう問いかけました。執行人は歯を食いしばり、焼けただれていく惨めな少女の姿をただ見つめていました。
*
いまの世界の話です。
世界から魔法という技術は完全に消失し、代わりに科学が文明を大きく発達させました。
人々は便利だと口々に言います。難しい病気も医療の発達により、治せるようになりました。しかし更に欲を求める人々は、かつて存在していたとされる不思議な力を求めて研究しています。
その名も魔法、ある魔女が魔法で作った薬は、不治とも言われた疫病の患者を次々と回復させたと言われています。そんな夢のような技術があれば、もっと便利になることでしょう。
――しかし、魔法がこの世界に姿を現すことは二度とありません。
かつて便利な魔法を広めようとした魔女は、民衆によって殺されました。魔女は悪だ、魔法は悪だと、民衆はそう叫んだのでした。
数百年経った今ではむしろ、魔法を欲している人々がいるなど少女が知る由もありません。
魔女の魂はある森の奥地に還り、そこにある魔法の技術を守っています。民衆が少女に放った言葉通り、二度と魔法を表にひけらかさないように、と。