誰もいない教室の隅っこ。
どこか耳に障るようなノートパソコンの排気音だけが、継続的に響き渡っている。私の顔を煌々と照らす白い画面にぽつりと浮かぶカーソルは、まるで早く文章を打てと催促するかのように明滅していた。
冬がまだ抜けきっていない空気はとてもひんやりしていて、時折キーボードに置いている私の指先をぷすぷす刺すかのようにそっと流れくる。冷気に貫かれてマヒした指は文字を打ち込むことすらままならず、私は急いで手に呼気を吹きかけ、しばしの指先の回復を促した。
寒いなあ、こんな時に部室で執筆できたならなあと一瞬思いかけて、私は即座にぶんぶんとかぶりを振る。確かにあそこは空調も効いているし、肉体的には快適な空間かもしれない。それでもこの状況で部室になんて、行けるはずもなかった。
それだから私はわざわざこうして、教室で部の活動をやっているんじゃないか。
せっかくパソコンも持ってきたんだ、早く作業を進めよう。私はあまり動かない指で、無理やりにキーボードを叩いていく。
私が文芸部に入部してから、もうそろそろ三年目を迎える。
一緒に入った同級生はおらず、また一つ下の学年にも入部者はいなかったから、私はこの二年間ずっと唯一の文芸部員だった。
ライバルも友達もいない。そんな中でも、私は意欲的に作品作りに取り組んだ。二年間で作った作品は、恐らく十は下らない。その内のほとんどは顧問の福原先生に酷評されてしまったけれど、それでも新作を完成させるたびにレベルアップしている自覚はある。
添削時に福原先生からぶつけられる言葉はそれなりに厳しいものばかりだったが、その指摘に異議を唱えたことは一度もない。欠点をいくつも見出されるのは気分のいいことではなかったけれど、いやだからこそと言うべきか、原稿に記された訂正箇所が増えれば増えるほど、先生に対する信頼へと繋がっていった。
そんな手厳しい福原先生にたった一度だけ、失恋の悲愴に沈む少女の心情描写を褒められたことがあった。何気なく書いた一文だったけれど、先生曰くこの文だけは「余計な力が抜けている」ということらしかった。
私はその日、そんな先生の言葉を寝る前に何度も反芻した――それだけ福原先生からのその言葉は、私にとって快感であったに違いなかった。
自分の小説の文章は、基本的には小汚く見える。けれども福原先生に称賛された一文だけは、そこだけ全く別次元の、違うものに見えた。自分で言うのも何だが、それはもう文豪が書き下ろしたようなオーラがあった。……いよいよ私は、自分に文才が秘められているのではないかとも考え始めた。それくらい私は、たった一度だけ褒められた自分に酔いしれていたのだ。
――春の大会が視野に入ってきた頃、遂に文芸部に新入部員がやってきた。
岩野くんという気弱そうな小柄の男子生徒で、入学してきたばかりの新一年生だった。
たった一人の先輩部員である私は、岩野くんを部室の椅子に座らせた。
「岩野くんって言うのね。えっと、文芸……小説とか俳句とか、作ってみたことある?」
岩野くんは少しはにかみながらも、はきはきと答えてくれた。
「実は、ないんです。本はよく読むんですが、高校生になったので今度は作ってみたりもしたいなと」
私はほっと一安心して、張り巡らせていた緊張の糸をほどく。同時にこの新入部員が後輩として、一際可愛らしく見えたような気がした。
「じゃあ、私が手取り足取り教えてあげる。こう見えて、文章には結構自信があるの」
「とても頼りになります。早速、教えてもらいたいです」
思わず吐息を漏らしたくなるほどの愉悦が全身を襲う。私のこれまで培ってきた技術を今ここで披露することができる。胸を張って後輩に見せびらかせる。そのことが嬉しくて楽しくて、堪らなかった。
「じゃあ、基本的な構造と一緒に、『良い文』を書いてみるね。ちょっと見本を書いてみるから――」
「凄い……即席で書けるんですか」
「あはは、大したものじゃないわよ。でも私、一応文芸部員を二年間やっているしね」
「流石ですね、先輩」
恍惚と瞳を輝かせる後輩を前に、私は自信満々に恋愛シーンの一節を書き上げる。
少しの焦りも緊張もなかった。右も左もわからない相手になら、どうにだって振る舞えてしまうのだから。
私はその日中、とくとくと小説に関する知識を岩野くんにひけらかし続けていた。
――岩野くんが入部してほどなく、春季大会の告知が行われた。締め切りは五月いっぱい。そう長く時間がある訳ではなかったので、早速作品作りに取りかかった。
部室に赴くと、自分のノートパソコンを持ち込んでいる岩野くんの姿を見つけた。話を聞けば、どうやら彼も私と共に、春の大会に参加するつもりのようだった。空席に腰を据え、自分のパソコンを立ち上げたところでそうだそうだと思い当たり、作業中の岩野くんの耳に向け、私はぼそりと囁く。
「うちの顧問の福原先生ね。とってもツッコミが厳しいから、覚悟しておいてね?」
「えっ、そうなんですか……? まあ確かに、あんまり優しそうでは……」
事実、福原先生はかなりのベテラン教諭で、突き刺さるような鋭い眼光に定評がある。
「とっても厳しいのよ、私でさえボロボロに言われちゃうくらい。最初なんてぎったんぎったんなんだから」
そこで岩野くんは何故か一瞬だけ、言葉を選ぶための間を要したように見えた。どこか歯車がかみ合わないような調子で、こくりと頷く。
「ああ……そうなんですね」
「まあ、岩野くんは文芸部の希望だしね? 私からあんまり厳しく言わないで下さいって、先生にお願いしておくわ」
「……えっと。どうも、ありがとうございます」
彼がたどたどしくそう言った理由を知る由など、当時の私にあるはずもなかった。
――さらに数日後。その日は、提出する作品の仮締切日に設定されていた。
新入部員が入ってきたこともあり、私はこの日にあることをしようと福原先生に提案していた。部員同士で(つまり私と岩野くんで)作品を批評し合おう、というものだ。私は玄人らしくもっともそうな言葉を言ってやれるし、素人同然の岩野くんに、私の小説の瑕疵を見つけ出すなんて芸当ができるとも思えない。私による(あるいは私のための)一種の洗礼のようなものだ。私は先輩としての自尊心を満たす一つの手立てとして、そんなイベントを企画していたのだった。
私は完成原稿を手に、意気揚々と部室に向かった――が、しかし先客はいない。
十分、二十分……集合時刻になっても集まらないので、しびれを切らした私は部室を飛び出して、福原先生の元へと向かう。
廊下と職員室を隔てる窓から中を覗いてみると、談笑する福原先生と岩野くんの姿が確認できた。出会ったばかりのはずの二人がもうあそこまで話すようになっていたのは驚くべきことで、私はどことなく不安を覚える。
職員室に入り、彼らの元へと忍び寄った。福原先生と岩野くんはこちらに背を向けていた。私は悟られないように、何気なく、そしてそっと近づいてみる。
「――本当? 岩野くんは何か書いたりとか、してなかったの?」
「はい、自分はずっと読む専門だったので――」
なんてことのない、日常の会話。ここらで止めればよかったものを、私はのめり込むように、二人の会話に耳を澄ます。
「それにしても、良い文章を書くのね。高校生でこれだけ書ける子、そういないわよ。しかもまだ一年生って……」
急激に身体が強張っていくのを感じた。
「いやいや、滅相もないですよ」
岩野くんのそんな一言が妙に不相応で、どこか背伸びをしているように感じられる。
「粗も多少は目立つけど、各所の光る表現がそれを打ち消してるのよね。文章もコクがあるし。伝えたいことをあなたの言葉でよく表現できてる。鼻につくような言い回しもない訳じゃないけど、あまり気にならないわ」
(…………何なのよ)
私は黙って彼らに背を向けて、職員室を後にした。どこか裏切られたような空虚感が、私の心の中をいっぱいに満たしていた。
(何よあれ、褒められまくってたじゃない。先生はどうしちゃったの? 急に見る目がなくなっちゃったのかしら?)
(岩野くんも、あれくらい褒められたからって浮かれすぎよ。どうせ、別にどうってことないはずだわ。私の文章に敵う訳ないじゃない)
もやもやが止まらない。それどころか増幅している。負の感情が一堂に会し、ぐちゃぐちゃと複雑に気味悪く絡み合い、気色の悪い結合の中に私の心が飲み込まれていく。
鼓動が早まる。冷や汗が滲む。意識が刹那的にふわりと飛びそうになる。
職員室を出て、急いでトイレの中に駆け込む。ドアを閉め鍵をかけた瞬間、私は大粒の涙を零してしまった。
(何をカン違いしてるの、私?)
(私なんて、全然上手くない。むしろ下手くそなんだ。何万文字と文章を書いてなお、先生から褒められたのはたったの一回きりしかないじゃない。それのどこが凄い訳? 文才とか、笑えるんだけど)
無論、自分のことだ。これは他人事じゃない……笑えるはずがなかった。
(バカみたい。偉そうに先輩ぶって、鼻を高くして語っちゃって。自分の文章を見せつけてあげていたつもりが、相手が自分より数段上手だったなんて)
岩野くんの顔が、突然脳裏に浮かび上がる。私はまとわりつく思考を振りほどくように、頭を掻きむしった。
(どうしてなのよ。どうして私はこうで、岩野くんは)
自惚れていた恥ずかしさと、福原先生への不信と、岩野くんへの嫉妬。あるいはそれらを全てまとめた悔しさという感情が、その姿を涙の粒へと変えて、頬を伝っていく。
私はそのとき、生まれて初めて本物の挫折を味わい、本物の才能の差、というのを目の当たりにした。加えて、自分などただの凡人でしかないうえ、とてつもなく愚かだったことも知ったのだ。
取るに足らない、わざわざ目を向けるまでもないと軽視していた――石ころみたいな存在が、知らないうちに急激に崖へと成り代わったような感覚。
そんなものを見せられたら、私は何もできずに立ちすくむことしかできない。岩野くんという切り立つ崖に対して、凡人の私にはその絶壁に一歩を踏みだすことすら、難しかったのだ。
足を踏み入れることすらままならないなら、凡人にできることは一つだけ。
私という凡人は、そこで踵を返すしかなかった――その日の批評会から「逃げた」のだった。
――あれから、私はまだ一度も部室に顔を出していない。
数行分ぐらいタイプしたところで、私はノートパソコンをぱたりと閉じ、帰宅の準備を始めた。例の出来事の後遺症なのかどうかは定かではないが、私は文章がすらすらと書けない症状に陥っていた。どうせこのまま教室で執筆を続けても、筆が進まないのは明らかだった。
教室の施錠をして、下駄箱に向かう。
通り慣れたルートを歩いてしまいそうになり、私は足を止めた。そのまま行けば、途中で部室の前を通ることになってしまうのだ。
(危ない危ない……それだけは避けないと)
慌てて方向を変え、近頃よく使う隣接の校舎を通るルートで下駄箱へと向かった。
これでいい。このままでいいんだ。私はもう、文芸部に関わる必要はない。福原先生とも、岩野くんとも、よほど何かがない限り会話を交わすことはないだろう。
それでいいんだ――私はそんな甘い言葉を、自分のために考えついた。
渡り廊下から空を見上げる。既に星がちらちらと、その姿を現していた。
部活動に勤しむ生徒たちを除き、校舎にはもうほとんど人の姿がない。しんとした廊下に、蛍光灯の細かな通電音だけが聞こえている。私は心のどこかで安心していた。
革靴を無造作に放り投げ、ハイソックスのつま先を滑りこませる。
「先輩」
聞き覚えのある声が、不意に私の背中を襲った。私は驚いて、すぐさま振り返る。どこで待ち伏せしていたのか、そこにあるのは岩野くんの姿だった。
私はすぐ、何か言葉を口にしようとした。皮肉か、それとも言い訳か。自分でも分からない。結局言葉に詰まり、開きかけた口は何も発さなかった。
その代わりに、岩野くんが静寂を打ち破る。
「先輩は……こんなで、いいんですか」
私は押し黙った。誰も本心では、これでいいなどとは思っていない。だがどうしても、私には才能に立ち向かえるだけの勇気を、持っていなかった。
「いいじゃない、私の勝手なんだから。大体、私は創作なんて無理だったのよ。こういうのは、才能のある人間だけがやっていればいいんだわ。私は大人しく引き下がるから」
だから、もう構わないでくれ。
私は暗にそう示すため、半ば吐き捨てるように口にしてから、彼に背を向けた。
「待ってください、先輩」
このまま走り出してもよかったはずだ。それなのに私の身体は、まるでぴんと糸が張られたように動かない。仕方なく、私は応答した。
「……何かしら」
「先生がどんな評価を下そうと、僕は先輩の作品、大好きですよ」
その刹那、胸の中が急激に熱くなっていくのを感じる。私はその言葉をずっと、心のどこかで欲していたに違いない。
しかし、それも私に満足感を与えるまでには至らなかった。
そればかりか、苛立ちの方が余計に沸き立っていくように思える。どうして私は、この才能の持ち主から褒められなければならないのか――そう思い当たった時、目の前の岩野くんが一際憎たらしく感じた。
「大好きですって? あんな駄文を読んで、よくそんなことが思えたわね」
「そんな、駄文だなんて……変な自虐は止めてくださいよ。僕は本気で――」
「いいわね。あなたはその認められた才能を生かして、自分の作品にだけ向き合っていればいいの。私みたいな格下の凡人のことなんて、目をくれるだけ時間の無駄だから。せいぜいその才能を生かしてスキルを磨くことね」
捨て台詞を吐いて、私は今度こそ背中を向けた。
傍から見れば、いや、言っている自分でもはっきりと分かる。これはただの負け犬の遠吠えに過ぎなかった。負け惜しみだ。こんなものが凡人の私にできる、やっとのことだった。
「――そんなに悔しいなら、なおさら書いてみたらどうですか」
私を引き留めんとして、そんな言葉が耳に刺さる。煮えたぎる嫉妬が、一段と勢いを増すようだった。私は目を見開き、岩野くんを睨みつける。
「……何ですって?」
「そんなに悔しかったら、大会で僕に勝てばいいんですよ。そこで審査するのは福原先生じゃない。誰がどう評価を下すのかは、神のみぞ知ることです」
きっと私はこの時、顔を真っ赤にさせていたことだろう。頭の天辺から湯気でも出ているんじゃないかと疑うくらい、頬に熱を感じていた。
「あなた、挑発もいい加減に――!」
「僕はこんなことで、先輩に逃げて欲しくありません。……何故だか分かりますか」
ゆっくりと、しかし語調を強め、わがままな子供を諭すような口調で岩野くんは問いかける。
「それだけ僕が、先輩の作品を好きでいるからです。もっともっと、先輩の作品を読んでみたい。たかが一人の評価で、執筆者としての優劣が決まるなんてことはありません。もっと自信を持ってください。……先輩には少なくとも、僕を引き付ける才能が眠っているんですから」
岩野くんはそう言った後、目のやりどころがないというように視線を逸らし「では、僕はまだ推敲途中ですので」とだけ言い残して、ぱたぱたと階段を上がっていく。
私は結局何を言い返すこともできずに、そんな一年生の小さな背姿を茫然と見つめた。
先ほどまで最高潮だった私の怒りは、嘘のように急激に静まってしまう。
上手い具合に丸め込まれてしまった。溜息と共に、私は口元を少しだけ歪ませる。
(……あの子には敵いっこない、ってことね)
不思議なことに、澄んだ気持ちだった。先輩だから勝たなければならないとか、経験が多いから上手くなければならないとか、今までそんなことを本気で考えていた自分が、少し可笑しく思えた。
結局、同じ土俵で考えていた自分が悪かったのだ。
最初から凡人代表の挑戦者というくらいの心持ちでいれば、このような勘違いを引き起こすこともなかったのかもしれない。
(岩野くんを引き付ける才能、か……見てなさいよ。凡人は凡人らしく、対抗させてもらうわ)
私は静かな下駄箱の前で、才能の壁に立ち向かう決意をした――すなわち、彼と共に大会で競い合うための小説を書き上げる、という決意を。