その瞬間、世界がぷかぷかと浮遊する感覚がわたしを包み込む。
それは単に水中を浮かぶ浮き輪のそれでもないし、ましてや真空空間を遊泳する宇宙飛行士のそれでもなく――ありていに言えば、それはわたしが浮いているというよりは、わたし以外が浮いている――そう表現した方が近しいかもしれない。
教室の前方には、さも当たり前のように大型の黒板が存在感を示している。そこに殴り書かれた無数の白チョークの線が意味する数式なんかおかまいなしに、わたしはノートのすみっこ、わずかなマージンに、もう周りに誰もいなくなったのを確認してから、その数式を書き込んでいた。
『〇→←△』
たったそれだけ。誰の目にも留まらない、誰にも意味を解せない不可解な数式――それなのにわたしは、たったそれだけで、この不思議な数式に魅せられている。
これが、恐らくはわたしの願望なのだろう。隠せども隠れない、自分だけには騙せない。きっとわたしは、こうなることを切望しているのだ。そしてそのことを考えれば考えるほど、世界はまた奔放に揺きはじめる。
たくさんの教室の備品が空中で揺曳する、そのさまをわたしは夢見心地で見つめていると、ポケットの中の携帯電話が唐突に振動を伝えてくる。
『ゴメンm(__)m 今日ちょっと用事あるから、先に帰ってて(-_-メ)』
友達からの、用件のみを伝える短い文面。
用事ね。そうなんだ。誰に返すでもなく、わたしはそんな言葉を心の中でつぶやく。
先に帰ってと言われれば帰るほかはない。わたしは携帯を閉じた。
ふと、カレの背姿が目に入る。カレの席はわたしの数列前、教卓からみれば最前列に位置している。いつもは帰るのが早いクセに、今日は珍しく放課後まで残っていた。
いつも一緒に帰る友達と、いつも早足で教室を去るカレが今日はあべこべになっている――別段不思議なことではないかもしれないけれど、なんとなく偶然じゃない、そんな気がないわけではなかった。
そんなことを考えながらぼんやりと青いパーカーを眺めていると、カレがこちらを振り返った。まるでわたしの視線に応えたかのように。
「どうかしたの?」
「ひゃ⁉」
突拍子もないできごとに、わたしは思わず驚いて起立してしまう。次の瞬間には己のあり得ないほど高鳴る鼓動が全身にこだまし、わたしはいっそう紅潮した。
結局、何を口にする間もないまま、わたしは一人で教室を後にした。
後悔が後を絶たなかった。なぜって、あんなチャンスはこれまで一度も遭遇したことがなかったから。
わたしがカレに告白するチャンスなんて、あの一刻を逃してしまえば、もうどこにもなかった。これまでもないのなら、これからもないのだろう。
何せわたしは極度の人見知り。他人に向かって「あなた」と呼んだことがない。本当は、カレになら、いくらだって呼んであげたいのに――それすら心が許さない。
それでもやっぱり逃げてしまったのは、わたしが怖がりなせいだ。
『いつもじゃないことが起こった』
たったそれだけなのに、わたしはその機会をみすみす捨てた。でも、わたしのお腹の虫は、それが間違いだったなんて言っていない。
それでも、わたしはこれ以上ないくらいに後悔した。
「……わたしの嫌いなものって、なんだろう」
グラウンドを小さく踏みしめた足跡ぐらいにか細い声で、わたしは自問した。
自らの意に反した行為に納得する自分がいる。
無秩序な心境の中で、わたしは多分、意味もなくそんな言葉を口にした。
わたしがわたし、わたしもわたし。相対する二者が混在して一つのモノとしてここにいるわたし。カオスすぎてお話にならない。
「……こんなことなら」
みんな浮いちゃえ。世界ごと、何もかも。
わたしはそう念じて、またあの数式を思い出す。そうすれば、周囲のすべては摂理に抗い自由を手に入れる。
何もかもが揺らぐ世界の中に取り残された孤独を、わたしはしばしの間陶然として、ある意味楽しんでいた。
世界が無秩序に浮かび続けることで、わたしの無秩序は息をひそめるように、その存在感を消失させる。そうすれば、不思議とラクな気持ちになるのだ。
世界は一変した。
気付けば、全てが逆さになっていた。
車も、人も、建物も、星空さえも。
どうして真下に落下してくれないのかと、わたしは少しむっとする。
当然ながら、それは重力のおかげ――いや重力のせい、と言い直した方がよさそうだ。わたしたちは重力のせいで、今日も落下できずにいる。
重力から永久に拘束された人類は、なすすべもなくその運命に従っている。わたしもその一人にすぎない。死ぬまでこの世界を創生した神へと、人生というハードゲームによって懺悔することを強いられるのだ。
わたしはきょうも生きていく。たとえ何かが起こって、世界が逆さまになっても、何事もなかったように歩み続ける。
一人ぼっちで、わたしは夜のホームへと駆け込んだ。
帰宅ラッシュということもあり、あたりは次の電車を待つ大勢の人間で混雑している。中には高校生、それにカップルらしき姿もちらほらだ。「今日のご飯何にする?」「ドラマ予約した?」「明日、学校でマーチングの選考会があってさ――」
まるで掃除機のように、いろんな話題がわたしの耳へと吸い寄せられては、すぐに弾けた。
誰それが何を話していようが、それはわたしにとってただの意味を成す言葉の羅列に過ぎなかった。
わたしが思うことなんて、ただ一つぐらいのものだ。
「世界が逆さになっているのに、よくもそんな呑気な話ができますね」
誰にも聞こえない声で囁く。
構わない。どうせ他の誰にとっても、わたしの言葉なんて、ただの文字列。
どうでも善いんだ。
耳に障るブレーキ音がつんざき、そしてわたしたちの目の前に車両が停止。巨人の鼻息みたいな音を立てて、自動ドアが開く。溢れ出す人ごみが過ぎ、そしてなだれ込む人ごみ。その中に、わたしはひそかに紛れ込んだ。
列車が動き出す。それにつられて、全ての人が進行方向と反対に、一瞬、よろめいた。わたしは、わたし自身もそのようになった身でありながら、周囲をどこか冷ややかな目で見渡していた。
すると、
「世界が回っているのって、どうしてだと思う?」
わたしは黙っていた。
「えー? うーんと……資本主義、だから……?」
「……リアリストだね、キミ……」
「え? 違うの⁉」
「そういう答えじゃなくて! これはね、ある偉い人が言っていたらしいんだけど――『世界が回るのは、人類による万有引力への憧憬だ』だって」
「へぇ。なんだかロマンチストね」
何がロマンチストなのか。
そんなウワサ、わたしにとってはどうでも善い。
どうでも善くないのなんて、たった一つしかない。ただ一つだけ、一つだけ――。
「今日はごめんね。わざわざ遅くまで残ってもらっちゃって。バイトのシフト、急に入ることになって」
「いいよ、別に。……それより、降りてから何食べる? 食べたいものあるなら教えてもらえると助かるな」
「え、奢ってくれるの?」
雑駁とした声音の中に、何故か唯一、はっきりとわたしの耳に届く二つの声。
その声は、きっとそれほど遠くない。仲良しの、男女の声。
カレらはわたしに背を向けていた。わたしはその背姿を、何をつぶやくこともなく、ただひたすらにぼうっと見つめていた。
あの時から、薄々感づいていた。
『いつもじゃないこと』が起こったのは、それなりの理由があるはずだから、と。
それなりの理由は何かなんて、考えてみれば瞭然であって、そのためにわたしは告白を避けたのだろう。わたしは既にあの時から、気付いていたも同然だったのだ。
本来降りる一駅手前で、わたしは足早にホームへと躍り出た。カレらは降りる駅さえもわたしと一緒のはずだ。ここでわたしが下りるのが道理なのだろう。
先ほどとは打って変わり、ホームには閑散とした雰囲気が充満していた。
いいね。ひそかにひとりごちる。わたしはこういう所、嫌いじゃない。むしろこんな孤独な場所の方が、今のわたしにお似合いなのだから。
『〇→←△』
誰にも解けないその数式は、こういうときに使うためのもの。
その刹那、世界は一斉に浮き上がる。わたし以外の全てがこの世界の規則に抗い、秩序から逸脱し、空間に漂う自由を獲得する。
わたしはいつものように、そんな世界を眺めた。
眺めて、違和感に気付いた。
胸が締め付けられるように苦しい。何かがわたしのなかから堰を切るように流れでて、心の中の全部を掻っ攫っていく気がした。何も残らない心はさらに強く、きつく、圧搾される。何のエキスも残らない程に絞り出される。
胸が苦しい、苦しい、苦しい。胸を押さえて冷たいコンクリートへしゃがみ込む。
苦悶の表情のまま、世界を見上げる。手をついた地面は冷たい。視界に入るペンキの禿げたベンチに、うっすらと埃がかぶった時計が、わずかに明滅する蛍光灯にチカチカと照らされている。首輪の付いていない黒猫が、みゃんと鳴いて走り去る。
わたしは確信した。
この世界は、何も変わっちゃいない。
この気持ちは、何も変わっちゃいない。
世界が浮くことはなく、つまりわたしの心が均衡を保つための支えもない。
また今日が来て、明日が来て――それがわたしに何の解決をもたらしてくれるはずもない。ただ世界は周り、またいつものように、人は日々を歩み続けるだけだ。
ふと布団から顔を出す。
自室のインテリアは軒並み配置されたどうりに自分の持ち場に佇んでいた。抗うことなく、ましてや浮くことなどなく――重力に拘束され、秩序の中へと幽閉されている。こんな世界じゃ、ろくに浮いた妄想話もできないだろう。何と居心地の悪いことかと、わたしは溜息を吐いた。
からっぽになったような身体を起こす。カーテンを開ける。長い前髪が、朝日をほんの少し遮った。
また、一日が始まる。
教室の自席で、わたしは一人ぼんやりと窓の外を眺めていた。
確かにそこには、外見上はいつも通りの日常がある。トモダチはいつもの調子でわたしに笑い話をして、青いパーカーのカレはいつものように、遅刻ギリギリでやって来る。
わたしは、わたし自身にも、そしてカレらにも、負けてしまった。
どうしようもなかった――そう思わせてくれる何か、それだけが、わたしの心の拠り所。
「抗いたかったのは重力なの?」
わたしはつぶやく。違う、重力なんかじゃない。
重力が嫌いだった――わけじゃなくて、本当はずっと。
躊躇するだけで何もできずに、世界を反重力にして自分の気持ちをごまかした、そんな自分が嫌だっただけだ。