仕事に疲れて腹が減る。
そんな時、あったらいいのがこんな店。
こじんまりとして、でも落ち着いて。
料理が美味くて、店主が美人。
ただしここは屋号の通りに鬼の店。
喰われぬように、ご用心。

酒呑が小料理屋とかやってたら毎日でも通いたいって、思いません?


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書いたら出るを信じよう(ゲイ・)としたら書く前に出ました(ボルク)!!


第1話

 鞄が重い。指に食い込む。ため息はもっと重く、冬の寒気が煙のように白く染め上げ、胃の底が地に落ちるようだった。

 

「……はあぁ」

 

 サラリーマンならよくあること、などと言わないで欲しい。

 せっかくの金曜日に残業する羽目になり、日はとっぷりとくれた帰路を一人とぼとぼ歩けば誰だって気が沈む。

 

「夕飯、どうしようかなぁ」

 

 誰に聞かせる気もない言葉がこぼれてしまう。

 予測不能な残業が襲来するサラリーマン稼業の一人暮らしで毎日の自炊など夢のまた夢。そうなれば必然的に帰りの道すがらにあるチェーン店の料理は食べ飽きて、かといって常連がたむろするだろう地域密着な店を開拓する勇気もなかなか湧かない。

 

 結果、空きっ腹を抱えて長くもない家路をフラフラさまよう俺の出来上がりだった。

 腹は減っているのに、食べたいものが見当たらない。食べ物の店はいくつもあるのに、足を踏み入れようという気分がどこかへ迷子。

 家にカップ麺の類は買い置きがあっただろうか、と最悪の事態の想像すら脳裏をよぎる。だけど今の気分的に備蓄のお世話にだけはなりたくない。お湯を注いでから待つ3分間が、とてつもない虚しさというスパイスになってくれそうだった。

 絶望と諦観の崖っぷちにあった、そのとき。

 

――ふと、顔を上げた。なにか、とてもいい匂いに釣られて。

 

 さっきまでアスファルトと自分の靴しか見えていなかった視界に、鮮やかな紅が映える。顔を上げたせいだが、その行動は完全に無意識のもの。何が起きたかわからない混乱が足を止め、しかし目は釘付けになったようにそこを見る。

 

「小料理屋、酒呑……?」

 

 掲げられたのれんにはそう書かれていた。

 その屋号を裏切らず、木枠の引き戸に植木の店構え。落ち着いた佇まいながらしっとりと落ち着いた清潔感を感じさせる店が鎮座している。

 いい店かもしれないと直感的に思ったが、変わったところはどこにもなかった。

 特徴と言えば、最初に目に留まった赤提灯に「酒」ではなく「酔」と書かれていることだろうか。

 お酒が好きです。でもお酒で酔うことはもっと好きです。たとえこの首が落ちようと。

 そんな店主の強い意志が伝わってくるようだった。

 

「まあ、入ってみるか」

 

 さっきまで店選びにためらっていた己はどこに行ったのか。不思議とその店の戸に手をかけることに、迷いはなかった。

 

 

◇◆◇

 

 

 カラリ、と軽く戸が開く。しっかりと手入れがされているのだろう、気安い感触だ。

 店の中は、カウンターが数席に座敷が1卓。外観通りこじんまりとした店だ。

 カウンターの椅子はぴしりと綺麗に並んでいて、店の人が丁寧な仕事をすることと、ひょっとしたら自分が今日の最初の客であることをうかがわせた。

 初めて入る店に、客は自分一人だけ。少し尻込みするようなところだが……店の人間すら見当たらないとはどういうことか。

 

 人の気配がないわけではない。

 灯りもついているし、厨房でコトコトしゅうしゅうと音がして、煮物か何かが火にかけられているようで、店に漂ういい匂いは俺の足をここに運んだものと同じだった。

 

 が、事実として誰もいない。さてどうしたものか。

 一声かけてみるか、いっそこのまま立ち去るか。

 

 

 なぜか、その選択がとても重要なものであるような気がする。

 昼食をラーメンにしようとそばにしようとその後の半日もその先の人生も大した影響を受けないが、ここで一歩進むか戻るかで俺の人生は全く別物になるような、そんな予感が。

 

「……」

 

 店の戸に手をかけたまま考え込んだのは数秒。

 

 ――そして、後年俺はその数秒の迷いに心からの感謝を抱くことになる。

 

 

「……あらぁ?」

「……!」

 

 声がした。

 厨房の向こうから、ひょっこりと顔が出てきた。

 誰もいないと思ったのは勘違いで、実は厨房でかがみこんで何かしていただけだったのだろう。

 そして俺が店に入ってきたことに気付き、顔を上げた。

 

 ただそれだけだったに違いない。

 何もおかしなことは、不思議なことは、特別なことはない。

 

「お客さんやね」

 

 ただ、一つ。

 

 

 

 

「どうも、おこしやす」

 

 

 

 

 その声をかけてくれた店主――酒呑さんと呼んでくれ、と後に言われた――が、はんなりとした京言葉を話すあまりにも可愛すぎる人であったことを除いて。

 

 

◇◆◇

 

 

「はい、おしぼりどうぞ。寒かったやろ」

「あ、はい。……あったかい」

 

 カウンターの向こうから直接手渡されたおしぼり。

 真っ白で、あたたかくて、少しだけ触れた指が柔らかくて、それだけでなんかもうこの店に来てよかったと思えてきた。

 

 腰を下ろして落ち着いて、改めて店内の様子を見渡してみる。

 チリ一つない床とテーブル。まぶし過ぎない、温かい色の照明。くつくつと出汁の香りを立てる鍋と、小さな黒板に書かれた本日の品書き。枝豆、ひややっこ、刺身、おでん。ありふれた料理やつまみと、今日のおすすめとだけ書かれた一角。サービスがいいのかメニューを書くのが面倒になったのか、いずれにせよ書かれている字すらもたおやかで、なんだかすでに店主の掌に包み込まれているような気分だった。

 

「ご注文、決まりはった?」

「え、あー……そう、ですね」

 

 声のする方に目を向ける。店の様子を見るのに夢中で、正直何も考えていなかった。

 

「あー、店主さん」

「逆や」

「え?」

「店主やのうて、しゅてん。酒呑さんて呼んで欲しいわぁ。その方が、かいらしいやろ?」

 

 そうですね酒呑さん超可愛いです、という本音は口から出なかった。

 カウンターに身を乗り出すようにしてにっこり笑う酒呑さんが可愛すぎて声すら出せなかったせいなので、完全に偶然だが。

 

 酒呑さん。

 そう呼んで欲しいと言ったこの店の店主は、本当にかわいらしい。

 カウンター越しなので胸から上の辺りくらいしか見えていないが、その点を差し引いても小柄だ。しかも若い。こういった店を営んでいることが信じられないほどで、どうがんばっても飛び切り小柄な成人女性か、とても大人びた中学生くらいに見える。

 

 髪はすぱっとまっすぐに切り揃えられたショートカット。着物の上に白い割烹着と三角巾という清潔感のある和装で、ひときわ目を引く……アイシャドウ、というのだろうか。目元に惹かれた朱色の彩りが大人びても見えて、アンバランスでミステリアスな魅力が漂っている。

 

「えーと、酒呑さん」

「はぁい」

 

 改めて名前を呼んだら、返事をしてくれた。かわいい。

 

「実はその、何を食べようか決まってなくて。オススメはありますか?」

「んー、せやねえ」

 

 相談を投げかけると、指を頬に当てて小首をかしげる。かわいい。

 くりん、くりんと二、三度左右に首を傾げ、そのたびに髪が揺れる。ああ、さらさらなんだなあ、触ってみたいなあと思っていると待つ時間が全く苦ではない。むしろこのままずっと眺めていたい。そんな風にさえ思っていたが、実際はほんの数秒のこと。

 

「そや、鮭なんてどない?」

「鮭、ですか」

「今日、魚屋のバイトさんが勧めてくれたイイのがあるんや。その兄さんが美味しい言うとったホイル焼きなんて、ええと思うんやけど。細く切った玉ねぎと人参の上に鮭を乗せて、バターを落として包み焼き」

 

 両手で包む仕草をしながら説明してくれる酒呑さん。

 それだけで、口の中には鮭の香りとバターのコクが広がった。

 

「そ、それでお願いします」

「はいな。ちょぉ待っとってね」

 

 その想像を現実のものとするべく、酒呑さんに注文する。

 支度を始めた酒呑さんは、厨房の中をくるくると動き回る。

 まな板でトントンと音を立てて野菜か何かを切る仕草。

 がさがさとホイルを広げてオーブンに入れる様子。

 音も楽しい、酒呑さんを見ているだけでほっとする。

 なんだかまるで、ずっと前からこの店が俺の居場所であったみたいにさえ思える居心地の良さだった。

 

「あ、そや。飲み物、なんにしはる? 今日みたいな日は熱燗なんてええと思うけど」

「いいですね。銘柄もお任せしていいですか?」

「もちろんえぇよ。鮭に合うヤツ選んであげんとね」

 

 そう言って、酒呑さんは嬉しそうに酒瓶を収めたケースの扉を開ける。

 その時初めて気付いたが、なんか日本酒の品揃えがすさまじい。壁の一角を占拠するガラス張りのケースの中にずらりと並ぶ瓶、瓶、瓶。おそらく適切に温度管理もされているだろう、酒呑さんのお酒に対する愛情というか執着が形を成したようで、この店の傾向がまた一つ分かったような気がする。

 

 せっかくだ、料理が来る前に突き出しに手を付ける。

 小鉢にちょっと盛られた卯の花。口に含むと出汁が染み出て舌に馴染む。一緒に煮付けられたシイタケからも濃厚な汁が、ニンジンからは甘みがあふれてくる。

 ……すごく、美味しい。

 

「はい、熱燗お待たせしてもうて、堪忍え?」

「ありがとうございます」

 

 これはいけない。すぐにも酒が必要だ、と思ったのと同時に酒呑さんが徳利とお猪口をくれる。タイミングの良さに早口気味の感謝を述べて、ほっかりと香りが立つ酒を注ぎ、むせないように軽く一口。

 

「……あぁ、美味しい」

「あら、嬉しいわぁ。おおきに」

 

 それ以外、何を言えるはずもなかった。

 温かい、美味しい、嬉しい、気持ちいい。

 この世で味わえるすべての幸せがそこにあった。

 大袈裟ではなく、少なくともこの時の俺は心からそう思っていた。

 

「幸せそうな顔やねぇ。鮭も出来たさかい、味わってや」

「……おぉ」

 

 キラキラと輝くホイルの中に、宝石が詰まっていた。

 ホイルの中に閉じ込められていた鮭独特の香りが立ち上る。

 溶けたバターに包まれた身は店の照明を受けてつやつやとうっとりするほど綺麗で、気付けばすでに箸をとっていた。これは我慢できない。

 

 突き出しのときから思っていたが漆塗りの箸は手触りもよく、鮭の身を一口分するりとほぐして取れた。

 火加減もいいのだろう。箸先からさえふっくらとした感触が伝わってくるようだ。

 口元に近づけて、ますます強まる鮭の、バターの、そしてここで初めて感じる野菜の風味。ぱくり。

 

「……~~~~~!!」

 

 その後、俺が人間の言葉を取り戻すためには熱燗と鮭、玉ねぎ人参しめじの2セットを必要とした。

 

「……んふふ」

 

 そして、その間酒呑さんはずっと楽しそうに俺の顔を見ていたことに、この時全く気付いていなかった。

 

 

「はぁ、美味しかった」

「ほんに? そう言ってもらえると冥利に尽きるわぁ」

 

 腹がくちく、温かくなって酒も回れば口は軽くなるのが道理。

 最初に店に入るか迷っていたことなどすっかり忘れて、俺は酒呑さんとの話を楽しみながら料理を味わっていた。追加で注文したのは、里芋の煮っ転がし。実によく味が染みていて、もはや幸せしか感じない。

 

「いや、本当に。こんなに『美味しい』って思ったのは久しぶりです」

「そうなんや。うちの料理でお客さんが満足してくれはったなら、ぜひまた来ておくれやす」

「はい。これからも来させてもらいます。このお店、大好きになりましたから」

 

 酒呑さんはよく動く。

 洗い物に料理の下ごしらえはもちろんのこと、表情もくるくる変わる。

 嬉しそうに、悲しそうに、俺の話すことに合わせて一瞬ごとに全く違った表情を見せてくれる。

 それでも言葉遣いと佇まいのせいかどこか上品で、とてもとてもいい時間だった。

 こんな気分になれたのは、いつ以来だろうか。

 

 

「毎度あり。また来てな」

「はい、必ず」

 

 いい店だけど、だからこそ長居は野暮だと思った。

 腹が膨れすぎない程度に収めて、店を出る。

 

 酒呑さんは、そのとき厨房を出て店の外まで見送りに来てくれた。

 結局俺が店に入ってから出るまで他の客は来なかったけれど、きっとそれは偶然だろう。こんなにいい店なのに人気がないなんてありえない。俺は稀に見る贅沢な時間を過ごせたのだと確信する。

 

 また来よう。

 割烹着姿の酒呑さんの笑顔を心に刻み、そう強く思った。

 

 

◇◆◇

 

 

 その後、このときの決意の通り、俺は足繁く酒呑さんの店に通うことになる。

 

 

「こんばんは」

「あら、おこしやす。いつもありがとさん。今日はねぇ、ローストビーフなんて焼いてみたんやけど、どうやろ」

「ぜひいただきます」

 

 

 

 

「酒呑さん、これ。出張のお土産です。よかったら食べてください」

「そんな気を遣わんでええのに……って、極上の酒やないの!」

 

 

 

 

「どうもー……って、あれ?」

「酒呑! 緑のあやつがチョコをくれたぞ! 一緒に食べよう! ……む、なんだ。客か?」

「そうやよ、茨木。チョコはまた今度食べよな。旦那はん、おこしやす」

「ふん! 今日のところは酒呑の顔を立てて帰ってやるが! 勝ったと思うなよ!?」

「……酒呑さん、あの子は?」

「近所の子で、茨木いうんよ。なんか妙にうちに懐いてて、かいらしいやろ?」

 

 

 

 

「こんばんはー」

「おぉ、常連のお出ましだよ、酒呑!」

「やあ久しぶり。君とまた酒を飲みたいと思っていたんだ。ちょうどいい」

「ドレイクさん、荊軻さん。……あの、お手柔らかにお願いします」

「あら、美人二人のお誘いを断るなんて、いけずな旦那はんやね。……それじゃあ、うちも合わせて三人で誘ったらどうやろ」

「是非に」

「あっはっはっは! 酒呑には負けるねぇ!」

「やれやれだ」

 

 

 通い詰めること、週に数度。

 さすがに毎日というのもしつこいとは思うものの、酒呑さんの顔を三日も見られなければ禁断症状が出るようになったので、必然的に常連となり、他の常連さんとも顔見知りになった。

 なんかやたらと酒豪や酒好きの人が集まるような気もするけど、それはそれで楽しいからいいかな、と思っている。

 

 そんな風に、俺は酒呑さんから幸せを貰っていた。

 

 

◇◆◇

 

 

「旦那はん」

「はい、なんですか酒呑さん」

 

 その日も、俺は酒呑さんの店で酒を飲んでいた。

 金曜の夜、カウンターのいつもの席。厨房で働く酒呑さんがとてもよく見える、幸せな場所。

 つまみはおでん。味がよく染みた大根も、何が入っているかお楽しみの巾着も、ちくわ、はんぺん、がんもどきも一揃い。それだけで熱燗がくいくい進む。

 そんなホッとする味を楽しんでいた時、酒呑さんから話しかけてきてくれた。

 

 ただ、その内容は。

 

「なんか、ヤなことあったやろ」

「……バレちゃいましたか」

 

 あまり気付かれたくない類の図星だった。

 

 

 

 

「会社で、ミスをしまして」

「それで大ごとになってもうたの?」

「いえ、そこまででは。……ただ、新人でもないのにやらかすなんて恥ずかしいタイプのミスだったんです」

 

 酒呑さんに言われて思い出す、やらかしを自覚した瞬間。

 致命的なものではなかった。リカバーの仕方も知っている。ただ納期が近く、失った時間を取り戻すには人手が必要で、上司に報告したうえでいろんな人の手を煩わせてしまったことが、恥ずかしかった。

 

「その割にやけ酒ってわけでもないみたいやね」

「はい。うちの婦長……じゃなかった部長は自分が弁解しないかわりに部下にも上司にも弁解させてくれない人で。ミスは忘れず、引きずらず、必ず来週までに切り替えて来いって言われちゃいました。でも、後輩にまで手伝わせちゃったんで結構ヘコんで……。だから、酒呑さんの料理とお酒で元気を出そうかなって」

「あらまぁ、そういうことやったん」

 

 そういうことです、と笑って酒を呷る。

 この店で飲む酒は本当に美味しい。たとえ、心がヘコんでいても。

 元気を出そう。こんな俺のことを慕ってくれて、今日も笑顔で励まして手を貸してくれた後輩にとって少しでもいい先輩になるためにも。

 

「……あれ、酒呑さん?」

 

 そして新しい一杯を注ごうとして、徳利が空になっていることに気付く。

 とはいえこれで引き上げるなんてとんでもない。もう一杯を頼もうとしたのに、酒呑さんが見当たらない。

 呼びかけに応えてくれる声はなく、しかし入り口がカラリと開く音。

 

 誰かが来たのかと顔を向ければ、しかしそこに店をのぞき込む人の姿はなく、ピンと背伸びをする酒呑さんの姿があった。

 

「ん……しょ。ふう、取れた。のれんの位置がうちには高すぎて大変や」

「あー、お店閉めるんですか。……じゃあ、長居しない方がいいですよね」

 

 のれんを下げるということは、すなわち閉店。

 名残惜しくはあるが酒呑さんに迷惑をかけたくない。しかし当然酒呑さんの料理を残すなんてことはもっとありえないので、とにかくささっと食べて急ぎお暇しなくては。

 ゆっくり味わえないことを少し残念に思いつつ、でもまた後日来ればいいかとさらに箸を伸ばし。

 

 ……いや、伸ばそうとして、手が止まった。

 止められた。

 

 

「……いけず」

「しゅ、酒呑さん!?」

 

 俺の隣の席に座り、こちらの腕を抱えるようにしてもたれかかって来る、酒呑さんによって。

 

「いけずいけずー」

「あ、あああああの、どうしたんですか?」

 

 不満げに膨らませた頬を擦りつけてくる酒呑さん。袖越しに感じる酒呑さんの温かさと柔らかさが幸せ過ぎて、右腕が全く言うことを聞いてくれない。振り払うなんてもってのほか、少しでも長くこの幸せを味わうのだ、と腕が頭より上位の命令権を発しているらしい。

 まあ、その命令に逆らう気は全くないがね!

 

「うち、店を閉めたんよ?」

「はい」

「つまり……うちも旦那はんと一緒に飲んでもええってことやない?」

 

 そんなお茶目な酒呑さんは、どこからともなく一升瓶と朱塗りの盃を取り出して、心底嬉しそうにそう言った。

 

 

「はい、どうぞ」

「ありがとうございます酒呑さん。……それじゃあ、俺からも注ぎますね」

「うふふ、旦那はんのお酌で飲めるなんて、嬉しいわぁ」

 

 綺麗な朱色の器を満たす香しい酒。

 うっすらと金色がかってさえ見えるこの酒が極上のものであることに疑いを挟む余地はなく、まして酒呑さんと一緒に、なんて考えただけですでに酔いが回りそうだった。

 

 酒呑さんは、既に割烹着を脱いでいる。

 ぴょこんと椅子から降りて、首元の紐をほどいてするりと割烹着を下ろすさまは妙に色っぽく、割烹着の下から現れた着物の柄も鮮やかに彩りを取り戻し、酒呑さんが当社比3倍増しくらいで綺麗になった。

 

「じゃ、かんぱーい」

「はい、乾杯」

 

 そんな酒呑さんと軽く乾杯して、酒を口へ。

 それだけで漂う香気にうっとりとして、一口。

 唇に触れるだけで快感で、舌を潤すときには幸せで、口いっぱいに広がった香りと一緒に飲み込めば、体の中身が酒と入れ替わったようにさえ思えるほど、全身を染め上げた。

 

「んっ、んっ……ぷはぁ。やっぱこの酒は最高やね」

 

 まずは舐める程度に口をつけただけの俺と違い、酒呑さんは一気に飲んでいた。

 慎ましく両手の指先で支えるように持った盃。

 反らした喉がこくこくと動き、飲み干した後の唇はしっとり酒に濡れていて、紅を引いたときより艶やかだった。

 

「あら、旦那はんほとんど飲んでないみたいやね? これ、気に入らんかった?」

「っ! い、いえそんなことは! いただきます!」

 

 あなたに見惚れて、あなたに酔って、酒を忘れてしまっていました。

 そんな風に言えたらよかったのにという弱気は酒と一緒に飲み込んでしまえ。

 酒呑さんが一緒に飲んでくれるこの幸福、少しだって悲観で無駄にはできないのだから。

 

 

 いつもはカウンター越しに見ていた酒呑さんの笑顔。

 それがいまは隣にあって、酒を酌み交わしているこの幸せ。

 

 ああ、と俺は思う。

 

 

 もう、死んでもいいかもしれない。

 

 

◇◆◇

 

 

「ん……?」

「旦那はん、起きはった?」

 

 うっすらと、まどろみの中で目を開ける。

 あまりにも気持ちがよくて、状況がさっぱりわからない。指一本動かす気にならないほどの酩酊感。もしかして自分は酔っているのだろうか、と気付けただけでも褒めて欲しい。

 

「寝とったのは、ほんのちょっとの間だけや。大分お疲れみたいやし、もうちょっと寝ててええよ?」

 

 視界には、酒呑さんの顔。上下逆さになっていて、その向こうには天井が見えて、しかし後頭部に感じる柔らかさ。これはひょっとして、いわゆる膝枕というものなのでは。いかんもっと堪能しなければごろごろ。

 

「んっ、やぁん。いたずらはあかんよ」

 

 ぺち、と指を乗せる程度に額を叩かれて、ごそごそと動くのをやめる。これはこれで幸せだからしかたないよね。

 酒呑さんの指、細くてひんやりしてるなあ。

 

「……ちょっと、飲ませ過ぎたみたいやね。あの酒はうちでも飲み過ぎると動けんようなってまうし」

 

 酒呑さんが囁くように言った独り言は、言葉の意味の半分も理解できない。今の俺の知能指数は多分一桁くらいだろう。

 ああ、それにしても喉が渇いた。

 

「ぁ……ぅ……」

「ん? 旦那はん、お水飲みたいん? ちょぉ、待ってな」

 

 その声とともに、何か酒呑さんが動く気配。そして水音が少々。

 それでも後頭部の幸せが消えないことをただ幸せに思っていたが、ようするにこうなることを見越して、俺を座敷に移して近くに水差しも用意しておいてくれたのだと、後日気付いた。

 

 

――もっとも、どうしてあんなに小さくてかわいい酒呑さんが、大の大人である俺を一人で座敷まで運んだのかについては、ついぞ気付かぬまま。

 

 

 ぽたり、ぱたり。

 

「……冷たい?」

 

 深く酔っていたせいだろう。

 そこからの記憶はひどく曖昧だ。

 

 頬に落ちる水滴の感触。

 薄目を開けて見えた酒呑さんの喉の白さ。

 

 艶然と微笑んで迫る酒呑さんの顔。

 

 

「んっ……ちゅ」

「んん……こく、こく」

 

 

 そして唇に触れた熱と、口内を滑る水の冷たさ。

 

 

「もう大丈夫やね。……それじゃあ」

 

 

 最後に、紅い舌でぺろりと唇を舐める酒呑さんの微笑みは本当に、本当に……。

 

 

――いただきます

 

 

 美しく見えた。

 前髪を貫くように伸びたどこか艶めかしい色の角さえも。

 

 あれ? 酒呑さんに角なんて生えてたっけ?

 まあきっと夢と現実がごっちゃになっているのだろう。

 酒に酔ってふわふわした気分に逆らうことなど思いつきもせず、俺はゆっくり近づいてくる酒呑さんの目だけを見て、瞼を閉じた。

 

 

◇◆◇

 

 

「うぅ……頭痛い。体も痛い」

 

 翌朝。

 どう考えても二日酔いによる頭痛と、控えめに言って畳の上で寝ただけでは説明がつかない体中の痛みを抱えて目を覚まし。

 

「んん……なぁに、もう朝やの? ついさっき寝たばっかりやのにぃ……」

 

 

「………………………………………………………………………………………………ん?」

 

 

 すぐそばから聞き慣れた酒呑さんの、全く聞き慣れない気だるげな声を耳にして。

 

 

 

 

「うふ。おはようさん、旦那はん」

 

 

 着物を着ずに羽織っただけの酒呑さんのつやつやした顔を朝一番で目にするという最高の栄誉と、どうしてこうなったのかさっぱりわからないようなうっすらわかるようなという目覚めを迎え。

 

 どうしようもなく、気付かされた。

 

 

「ゆうべは、ごちそうさん」

 

 

 昨夜の酒。

 その肴は俺だったのだ、と。

 

 




羅生門イベントのショップボイスその他で聞いた酒呑の声に脳みそくちゅくちゅされて、書かずにいられませんでした。
割烹着姿の酒呑がやってる店に通いたい・・・。

ちなみに、最初に浮かんだオチは「街中で買い物中らしき酒呑を見つけて声をかけようとしたら、金髪グラサン筋肉なイケメンにめっちゃ嬉しそうに抱き着いてるのを目撃してハートブレイクする」だったので、なんとかこういう形に持って行った私を褒めてくれてもいいんですよ?
このルートだった場合、「そんな二人を後方から火サスの嫉妬に狂った女の顔でストーキングしているおっぱい大きい美人」も出さなきゃならなかったでしょうが。

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