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序章 一人の青年と一人の少年のお話
「つまんねぇ……やっぱお前死んでいいよ」
そんな声と一緒に、腹に衝撃がやってくる。ちょうど鳩尾にスニーカーのつま先が突き刺さり、途端に痛みで息が詰まった。こみ上げる吐き気。ポタタと、口から漏れた唾がコンクリートに染みを作る。ヒューヒューと壊れたリコーダーみたいな音が喉から出るばかりで、呼吸はできていない。地面に這いつくばりながら、その場で小さくうずくまると、今度は背中やわき腹に蹴りが飛んでくる。遠慮や手加減なんて微塵も感じられない、道端にポイ捨てされた空き缶をストレスの吐き口に蹴っ飛ばすような気軽さで、■■■■は袋叩きにされていた。
「何もできねえ、生きてる意味のないお前を、っさあ! こうやって! 遊び相手にしてやってんだからっ! マジ感謝しろよっ!」
「ほらほら、さっさと逃げたり歯向かったりしてこないと! ゲームが楽しくなんないじゃん!」
最初の一発を放ったリーダー格の男に加えて、取り巻き達も攻撃に加わってきた。同じクラスで屯しているこの三人グループは、なにかの気まぐれにこうやって■■■■に暴行を加えることで快楽を覚えているようだった。手をあげる以外に、SNSを通じて学校における集団から孤立させられ、頻繁に物が無くなってはゴミ捨て場にぐしゃぐしゃに汚されて放り込まれていたなんて陰湿なこともある。
特に彼らに何かした記憶はない。
ふと気が付くと、いつのまにかこうなってしまっていたのだ。
「おら、立てよゴミ。逃げないと死んじまうぞぉ」
雑な手つきで髪の毛をつかみ取られ、上体を引き起こされる。リーダー格の不良が顔を引き寄せながらヤニ臭い口を不適にゆがめながらそう言って、そのままズルズルと部屋の中を引きずられ、廊下へと出る。頭皮からぶちぶちと音が聞こえるが痛みは感じない。
廊下の突き当りに向かって無造作に放り出される。向こうに行けということだろう。
今日は殴る蹴るが中心だが、少し前に裸に剥かれて電動エアガンの的にされて以来、少しだけ痛みに鈍くなったようで、まだ■■の意識は飛んでいない。早く楽になりたいのだが、気持ちに反して、身体は日増しに打たれ強くなっていく。
ゲームは、■■が気を失うまで続く。その日だれがとどめを刺すかで、ゲーム終了後のファミレス代の支払い主が決まるらしい。どうやら今日は、もう少し彼らの鬼ごっこに付き合う必要があるようだ。
よろよろと壁に寄りかかりながら歩き始める。手入れもなにもされていないからか、肩で壁を引きずるたびに、ひび割れたコンクリートがボロボロ崩れていく。
人が使わなくなってかなり経つオンボロの雑居ビルだ。今さっき出た不良たちのアジトに使っている五階の元麻雀荘以外のテナントは、もともと何の店が入っていたのか判別できないくらいに荒れ果てている。
ヒビ割れた窓ガラスに顔が映る。
酷い有様だった。普段は周囲の人間にバレないよう、服で隠れる範囲を狙って攻撃されるのだが、今日は一段と苛烈で、きっちり顔にまで拳や蹴りが飛んできた。おかげで、内出血によって頬はすっかり青紫にはれ上がり、鼻と唇からの出血で顎の先端まで赤い筋が通っていた。見慣れた自分の顔は、もはやその面影を失くしていた。
不良たち三人の下卑た笑い声を背に、■■は廊下の突き当りまで進み、金属製の扉を押し開くと屋外階段が現れた。一階まで下っていける非常階段は反対側の廊下の端にあるのみで、こっちは給水塔や配電設備などの施設整備用だからなのか、上にしか進めないらしい。
白い塗装が剥げあがって、赤茶色の錆びがほぼむき出しになっている手摺りを掴み、上へ上へと登っていく。ふと見上げると空にはすっかり夜の帳が下りていた。今日ここに来た時にはまだ茜色だったはずだが、いつの間にかかなり時間がたっていたようだ。
ついに最上段まで足をかけたところで、後ろから声がかかる。
「あーあ、天国への階段のぼりきっちまったなぁ……ざーんねん。ファーストステージはゲームオーバーになってしまいましたー」
やけに間延びした、そして妙に愉悦を含んだようなリーダー格の芝居がかった台詞。
ゲームオーバー。
なんだそれはと■■は疑問に思ったが、これまでのダメージの蓄積からか、頭の中が霞が買ったようにぼんやりしていて、うまく思考が働かない。
「かっわいそ。自分でのぼらしといて」
「まあまあとりあえずさ、はやくやることやっちまおうぜ。俺カメラ準備すっから、お前あいつの靴ぬがせよ。あ、指紋つかないようにな。あとでめんどくせぇから」
「はいはい。言われなくたってわぁってるよ」
取り巻きの不良二人がそう言って、それぞれ動き出す。一人はポケットからスマホを取り出して、何やら設定をし始め、もう一人は■■に近づいてきて足払いをかけた。
コンクリート製の床に頭を打ち付け、目の前がぐわんと揺れる。そのまま視界が歪んで、同時に耳が詰まったように外の音が遠くなる。キーンという耳鳴りだけが脳を支配する。痛みは感じないもののどうも脳震盪を起こしているようだ。
揺らめく視界の端で、靴をぶら下げてもてあそぶ取り巻きの一人が見える。何かしゃべっているが聞こえにくい。このまま目を閉じて眠ってしまったら今日はもう終わるのだろうか。楽になれるのだろうか。
そうして、一瞬。■■が意識を手放した瞬間に、あたりの状況は一変していた。
「ハロー。よく眠れたかいゴミカスくん。気持ち良さそうにおねんねしてたけど、十分体力回復できたかなぁ? ……さあ、ラストチャンスだ。最後のひと踏ん張りだぜ?」
覚醒と同時に、足元から吹き抜ける風を感じた。
刹那、ブワッと全身に寒気が走った。
足元に全てを飲み込む暗闇が広がっている。いや、よくよく目を凝らすと、眼下に壊れかけの街灯の瞬きが小さく見える。
だが、それがどうしたというのだ。今最も気にかけねばならないことは、屋上の淵、すなわち生と死の狭間に■■が立たされているというただ一点ではないのか。
噛み合わない歯がカチカチ音を立てた。
震えが止まらない。
一瞬でも気を抜けば、足を滑らせれば、死ぬ。本当に死ぬ。そう分かっているのに、足の踏ん張りがきかず、そのまま腰砕けになってしまいそうだった。
「ぅぁ」
様々な感情が爆発したように胸中からあふれ、口からはただ喘ぐような音が出るばかりで、■■はその瞬間何も喋ることができなかった。
何秒か経って、なんとか落ちずにいられる状況への疑問に至り、両手足と、学生服の襟を誰かに掴まれて、ぎりぎり支えられているのだと理解した。
「なあんだ。ちゃんとビビるんじゃん。これなら心配無用だったねぇ」
耳元でささやくのは、不良たちのリーダー格である男だった。
「――ど、どうして?」
やっとのことで絞り出した声は、酷く掠れていた。
立ちすくんでしまい振り返ることは儘ならない。不良たちの表情を見られないことが、眼前に広がる死の恐怖を余計に煽った。果たして彼らは、なんの意図でこんなことをしでかすのだろうか。殺すつもりなら、いっそさっきまで意識を失っていたのだから、その時に一思いにやってくれればよかったものを。
「あん?」
「どうしてこんなこと……今まで言うこと聞いてきたのに」
「んーなんとなく? ほら最近■■くんってばあんまり泣かないしさ、前みたいな良いリアクションもないし、つまんないよなって話になってさぁ。いっそガチで死ぬ一歩手前までいったら昔みたいに戻るかなーって」
笑っている。
振り返ることは叶わない。だが分かる。背後に立つ男の顔は、今ひどく歪んでいることだろう。夜空を切り抜く三日月のように、まるで悪鬼のごとき笑みを浮かべているに違いないのだ。そして同時に、最上級の快楽と陶酔を味わっているのだ。
「こんな、殺人未遂で捕まるんじゃ……」
「ダイジョブダイジョブ! ■■くんが頑張って足に力入れてくれればなんにも危険なことなんてないし、俺もこうやって抑えてあげてるし」
そう言って、リーダー格の男は■■の襟をぐっと後ろに引っ張った。嘔吐感と呼吸苦が一緒になって襲ってくる。
「それに、万が一足を滑らせちゃても、ちゃあんと自殺に見えるように色々用意してあるからさ。なんにも心配いらないぜっ」
自殺。
そうか。さっき意識を失う前、取り巻きが靴を奪い取っていったのは、自殺に見せかけるための下準備だったのだろう。
■■が生きようが死のうが、彼らにとってはどっちだって構わないのだ。ただ面白ければそれでいい。なぜなら、どっちらの結果に転んだとしても、何一つ傷つけられるものがないのだから。
これはゲームなのだから。
彼らはキャラクターの生殺与奪の権利を握る、画面の外のプレイヤーなのだから。
「さぁ、セカンドステージスタートね。ルールは簡単。今から一分数えるからその間■■くんがここで立ってられたらクリアね。分かりやすくていいだろ?」
「ま、まって」
「はい、ゲームスタートォ!」
開始の合図とともに、両足と両手を掴んでいた力が消失する。一気に前に倒れ込みそうになるのを足で必死に踏みとどまる。
何か、掴むものを。
そう思って後ろに伸ばした手はなんども空を切り、果ては、やっとのことで屋上の手摺りに触れた指先を無残にも払いのけられてしまう。
どうやら足の力と、締め付けるように支えられている首だけで、このまま一分耐えなくてはならないようだ。
二十秒。何とか落ちずにいられている。しかし、次第に呼吸が苦しくなってきた。宙にさ迷わせていた手を首筋にもってきて、何とか気道を確保できないかと試みる。服の襟が首に食い込んでいて、指を突っ込もうにも隙間がない。ただ無意味に皮膚をガリガリひっかくだけに終わる。その光景があまりにも滑稽だったのか、背後から嘲るような笑い声が聞こえてくる。
四十秒。苦しい。早く終われ。
五十秒。カウントダウンが始まる。
そして、一分が経った。
――ゲームが、終らない。助けが、来ない。
「はやっ……たす…けて……」
「んーやっぱ気が変わったわ。あと五分追加にするね」
それは、もはや死刑宣告に等しかった。
死ぬ。今から■■はこの世で最も醜い鬼たちによって無惨に殺されるのだ。
ああ、なんて悲しいのだろう。悔しいのだろう。切ないのだろう。
生きたい。まだ生きていたい。死にたくない。
「だって、お前余裕そうなんだもん。代わりなんていくらでもいるんだからさ、もっと頑張ってよ。俺らを楽しませる以外にお前の価値なんてないんだからさ」
――。
「はい、サードステージスタート。せいぜい笑わせてくれよ」
――ね。
「は? なんか言った?」
掴まれた首を支点に、屋上の淵でぐるりと半周する。それはまるで、ダンスを踊るかのようだった。まさしく地獄へといざなう死の輪舞であった。
不良(おに)たちと目が合った。さあ、ゲームを始めよう。
プレイヤーとキャラクターは、只今をもって立場が逆転する。
「――死ね」
空間が歪んだ。
繋がる。別の世界と。もう一人の■■(じぶん)と。
視界にノイズが奔る。場面が切り替わる。こっちでも首を絞められている。場面が切り替わる。どっちでも首を絞められている。場面が切り替わる。給水塔がガラス片がコンクリートの塊が車が街灯が周囲のあらゆるものが宙に浮かんでは消え現れる。場面が切り替わる。暴走。場面が切り替わる。慌てふためく三人の人影。場面が切り替わる。個性の暴走。場面が切り替わる。場面が場面が場面が――
「お前らみんな、ゲームオーバーだ」
一人目は、給水塔を頭上に落とされて下敷きになって死んだ。
二人目は、身体を逆さまにして床に埋め込まれて街灯が突き刺さって死んだ。
「なんだよ、なんだよこれ……どうなっ――」
三人目は、ガラスが埋め込むように身体のあちこちを切断してバラバラになって死んだ。
瞬間、首を掴んでいた力がなくなる。当然の結末だった。なぜなら、不良のリーダー格の男を解体して殺したのだから。浮遊感がおとずれる。
正真正銘のゲームオーバー。
■■は落ちた。奈落へ。果てのない闇へ。別の次元へ。
そして、命が完全に途絶えた。
「大丈夫だ。敵はもうやっつけた」
それは紛れもなく、人のぬくもりだった。優しい声だった。瞼を開くと、そこには若い女の顔があった。目があった瞬間、ひどく泣きそうな顔をして、そのすぐ後に本当にうれしそうに微笑んだ。この笑顔は、きっとこの世の何より美しいのだろうと、その時思った。
「私がお前を守ってやる。だからもう安心していいんだ」
そっと抱きしめられる。全身を包むその温かさに、ふっと力が抜けて身体が溶けていくような安堵感を抱いて、そこで再び意識を手放した。
純白のベッドの上で少年が眠っている。
年の頃はおよそ八歳くらいだろうか。赤みがかった癖毛が特徴のあどけないただの子ども。清潔そうなパジャマを着こみ、寝息を立てては布団を上下させている。
やがて長い睫毛がフルフルと震えだした。
しばらくして少年が目を覚ますと、彼の赤い瞳には白い天井が映し出された。すーっと深呼吸すると少し薬品臭い独特の匂い。背筋には少し硬めのベッドの感触。目線を下に向けると、白いカーテンで周りを囲まれていることが分かる。
どうやら病院にいるらしい。だが、なぜ今そんなところで寝ているのだろう。というか、なにも、まったく何も思い出せない。自分の名前も顔もなにも思い出せない。はて、いったい自分は誰なのだろうか。
存在のすべてを失ってしまった透明な少年は、そんな自分に対しての疑問を抱いたものの、やがて見つからない答えを探すのをあきらめて、ぼーっと天井の染みを数え始めた。
数えた染みが五十を超えたあたりで、ガラガラと扉を開く音が聞こえた。部屋に誰か入ってきたようだ。看護師だろうか、と考えたあたりで、そういえば病院やら看護師やらそのへんにある物の名前はわかるんだなーと少年は新たな発見をぼんやりと喜んだ。
カーテンが開く。瞬間、薄暗かったベッド上の空間に光が飛び込んできた。眩しさに赤い瞳を細め、明るさに慣れるまでに少々の時間を要した。
「よお、ちょうど目ぇさましたみたいだな」
女の声だった。どことなく聞いたことがある気がする、と少年は思った。ようやくホワイトアウトしていた視界が輪郭を取り戻し、ただの人影が妙齢の女性の姿へと形を変えた。
整った顔立ちと均整の取れた引き締まった身体。すらりと伸びた足の長さもあって、かなり身長が高く見える。いや、実際に同性の平均身長と比べればかなり大きいのだろう。そして、肩より少し長い黒髪が、窓から注ぎ込む日光によってキラキラと光っていて、その立ち姿はまるで名匠の描いた一枚の絵画のようだった。
すごく綺麗な人だなと、少年はまず素直に思った。
ただ、恰好は少し男っぽい。
紺色のカーゴパンツに黒のインナー、その上に男性物らしき藍色のミリタリージャケットを羽織っており、高い背丈とスタイルの良さが相まって非常に似合っているのだが、その服装や口調のせいか、なんとも男らしい雰囲気が醸し出されていた。
初めて会った人だった。もしかしたら自分のことについてなにか知っているかもしれないという考えに至り、とりあえず上半身だけ起き上がって、女性の様子を観察してみることにした。
「なぁお前、私のこと覚えてるか?」
まじまじと見つめる少年の視線にはまったく気にもとめず、女性は片手を腰にあてながらそんなことを尋ねた。
覚えているか? と聞いてくるということは、どうも面識があるようだが、残念ながら全く記憶にない。というか彼女のことどころか、ありとあらゆる記憶が欠落しているのだから、当たり前なのだが。ただなんとなくではあるものの、声を聴いたり目が合うたびに、胸の中にじんわりと温かい何かが広がっていくような気がするのは確かだった。思い出せないだけで、おそらく会ったことはあるのだろう。
なんとももどかしい気持ちになって少年は俯くように視線を落とし、問いに対して首を横に振った。
片や女性の方はその答えを想定していたのかあっさりとした反応で、続けざまに新しい情報をぶち込んできた。
「そうか、まあいいや。おいガキ。お前どうも身寄りがないみたいだからさ、今日から私が引き取ることにしたから」
何気なくサラッと告げられた言葉に、少年は目を見開いた。どうも自分には家族がいないらしく、さらにこれからこの女性が自分の面倒をみてくれるらしい。天涯孤独の身というわけにはならなそうだが、果たしてその申し出にどう応えるべきなのか。自分と彼女にどんな関係があってそんな話になったのか。などとほかにも様々な思考が脳内を一気に錯綜する。
そんな爆弾投下のせいで頭がパンクし、なんとも良くわからない表情を浮かべて口をパクパクさせている少年の様子を見て、はっはっはとおかしそうに女性は軽快な笑い声をあげる。そして、少年の頭の上に空いた方の手をのせて、こう付け加えた。
「標継子(しめきけいこ)だ。なんとでも、好きに呼んでくれていい」
これが、継子との出会いの記憶。そして少年、標結間(しめきゆうま)の始まりの記憶だった。