僕のヒーローアカデミアβ   作:へあぴん

3 / 5
1-1-2

                    2

 

 

「あーあ。結間ってば、なんでこう捻くれちゃったかなぁ……小さい頃はあんなに素直でいい子だったのに」

「育ての親がアレだからなぁ」

「なんだか性格がどんどん継ちゃんに似てきちゃったわねー、最悪なことに」

「うれしくないが、やっぱりか、と言っておく」

「ホントそっくりよ。ハチャメチャなとことか。あとなぜか、私を振り回すとことか」

「よーし、今度継子の墓参りに行ったら、一緒に文句を言ってやろう。な?」

「話逸らそうとしてるけど、いま私が怒ってるのはあなたにだからね」

「な?」

「いや、な? じゃない。けど、これ以上はめんどくさいからもういいわ」

 なんとか煙に巻くことに成功した標があー今日も遊んだ遊んだと内心ほくそ笑んでいると海馬は疲れ切った顔でデスク上の書類の束を脇によけ始めた。そして、十分なスペースを確保すると、うあーとゾンビの様にうめきながら上体を投げ出すように突っ伏した。よくやる彼女なりのリフレッシュ法のようなものだった。

 その際、デスクの端にギリギリ乗っかっていたペンやフォトフレームがついに堪えきれなくなって音を立てて落ちたが、落とした本人に拾う気はないらしく、そのままうーあー唸っている。

 しょうがないと、標は腰をかがめ、床に転がったいくつかの小物を拾い上げ、いざ元の場所に戻そうとしたところで、その手を止めた。

 手にした木製のフォトフレームには、一枚の写真。

 

 右端に立っておずおずとピースしているのが海馬捏覗。

 真ん中で不愛想にしている色白のモヤシっ子が標結間。

 左端で口をへの字に曲げてそっぽを向いているデカ女が標継子。

 

 遊園地の広場を背景に、三人が並んで突っ立っているだけの、何の変哲もないありきたりな記念写真が収められていた。

 それだけのこと。

 本当にただそれだけだが。

 胸の中に懐かしさがこみあげてきて、標は思わず感慨にふけってしまう。

「懐かしいでしょ、それ」

 写真から横に視線を移すと、机に伏せたまま顔だけこちらに向けて海馬が微笑んでいた。

「継子が一回だけ、俺を遊園地に連れてってくれた時のやつだ」

 数年前のある夏のことだ。

 引き受けたのが大きな仕事だったこともあり、その時は長期にわたって日本に滞在していたのだが、なぜか養母が突然休みを取ってきて、二人で出かけるぞと言い出したのだ。しかしながら、当時九歳だった標結間があまりに内向的で、観光や遊びに関心を示さなかったのがいけなかった。外あつい。行きたくない。めんどくさい。と、あれやこれやと提案されたものすべてを没にしてしまったがために、「んだコラ! テメエ、もっとガキらしくしやがれ!」と継子がブチキレて、どういう思考回路でそうなったのか無理やり遊園地へと連れ出されたのだ。

 記憶を失っていた標結間にとって、当然それは初めての経験だった。

 ただ一つ問題だったのは、連れて行こうと考えた標継子にとっても、遊園地は未踏の地であったことだ。そこでの勝手も、どう過ごすべきかも、何もわからない。そのため、大学の図書館で、医師免許取得を目指して国家試験の勉強に励んでいた姪っ子にかなり強引に緊急招集をかけ、ばりばりインドア派の理系女(リケジョ)だった海馬が、柄にもなくファミリー向けレジャー施設の案内役をさせられる羽目になったのだ。

 この時初めて行った三人での遊園地は、語るべくもないだろうが、メンツがメンツだけにそれはもう酷い体験になった。子どもの時分の標が楽しめたものでは決してなかったように思う。   

 だが海馬の携帯カメラで、記念に一枚だけ撮影してもらったこの写真を見ていると、単につまらなかったという思い出だけではない、もっとずっと感慨深い何かを思い起こさせる魔力を感じるのだ。

「どうしたんだ、これ?」

 起き上がって背伸びをする海馬にフォトフレームを手渡しつつ尋ねてみた。するとスーツの内ポケットから、百円ショップで売っていそうな、掌に丁度収まるくらいのアクリル製ケースを取り出し、蓋を開いて標に中身を見せてくる。収納されていたのは、数ミリほどの小さな黒い記憶媒体であった。

「この前一緒に家の大掃除したじゃない。そのときたまたま出てきたマイクロメモリに入ってたのよ。せっかくだから写真屋さんで現像してもらって、こことマンション、あと大学の研究室にそれぞれ飾ってるの」

「わざわざよくやるな」

「だって、あなたたちが二人一緒にカメラに映ったのは、後にも先にもこの時だけだったんだもん。これが見つかった時に他にもこういうのないかなって探したけれど、じつは全然なくてね。だから結構貴重なのよ」

 ケースをスーツの内側にしまいながら、偶然見つけたことを誇らしげに語る海馬の表情は、いかにも嬉しそうであった。

 実のところ、影ながら標も喜んでいたのだが。

「継子は写真撮られるの嫌いだったからな」

「カメラ向けた途端にどこかに消えちゃったわよね。で、しばらくして戻ってくると、ムスッとした顔でぐちぐち文句言うのよ」

 標継子は被写体になるのをとにかく嫌う女だった。本人曰く、「カメラはガワだけ見られてるみたいでムカつく」んだそうだ。おそらく、あれだけの美貌を持っていたからこそ、昔なにか撮影行為関連で、嫌な思いをした経験があったのかもしれない。盗撮とか。スキャンダルとか。

 あとはやはり、外見ではなく本質にこそ人間の美しさは宿る、と彼女は考えていたから、中身を映さない像だけの世界は、おそらくまったく魅力を感じなかったに違いない。

 でも、

「この時だけは、渋々だったが一緒に撮ってくれたんだな」

「ホントに珍しくね」

 この遊園地での記念撮影だけは、一緒に写真に入っている。

 気持ちを曲げ、主義を曲げ、ついでに口角もひん曲げて、三人で写ることを許している。

 きっと、継子がそうしたのにはなにか理由があるのだろうが、今となっては確かめようもない。想像はいくらでもできる。もしかしたら、標結間の思い出づくりのために、仕方なく骨を折ってくれたのかもしれない。あるいはもしかしたら、誰かが上手く説得して、丸め込んだのかもしれない。

 だが、確かめられない。

 もうこの世にいない故人の気持ちを確認する術は、二人にはないのだ。

「いい写真だな」と標は小さく呟いた。誰に言うでもない独り言だった。

 みんな表情はぎこちなく、ポーズもほとんどない。何一つ面白い絵ではない。でも、とてもいい写真だと、標は素直にそう思った。

 その呟きを聞いてか聞かないでか、海馬が「そういえば」と話を振ってくる。

「あなたを私が引き取って、もうすぐ半年経つのね。長かったような短かったような、不思議な感じだわ」

「つくしが居なかったら俺はそこらでのたれ死んでいただろうからな。いつも感謝してるよ」

「なあに、改まって。ていうか、そういう気持ちがあるなら私をからかって遊ぶの辞めてほしいんだけど」

 感謝の気持ちを逆手に、悪戯を自粛するようにと要請されてしまった。

「継子から受け継いだ悪い癖だ。そこに関しては諦めてくれ」

 せっかくの楽しみを奪われるわけにはいかないので、苦笑いでお断りしておく。

 すると、標の答えは想定済みだったのか、「やっぱ師弟そろって私の頼みは聞かないわよねー」とオフィスチェアの背もたれに倒れ込む海馬。

 ゆらゆらと小さく椅子を左右に振って嘆息する彼女を見下ろし、標は考えを巡らせる。

 約六ヶ月前に継子がこの世を去って、再び身寄りを失くした標に一緒に暮らさないかと手を差し伸べてくれたのが海馬だった。以来、彼女の住まいに居候させてもらっているが、本当にいくら頭を下げても足りないほど、心の底から感謝している。彼女には昔から世話になりっぱなしだった。

 何もかもを失くした透明な少年に、標結間という器を与えたのが標継子ならば、器が割れないように暖かく包んでくれたのが海馬捏覗である。

 今更ながら、標継子という女性は、記憶喪失の子どもを親代わりに育てていくには、破天荒過ぎて向いていなかったと評価させてもらう。与えられた教訓や知識は、時になるほどと思わせるものが数多く有りはしたものの、内容にはかなり偏りがあった。加えて“強い男になるため”という名目で戦闘訓練をさせられていたのだが、その瞬間は鬼のように厳しく、ゴリラのように、いや、ゴリラ以上に化け物じみて強かった。だから標結間の認識では、養親というよりかは、ゴリ―――――――――――――――――そう、人生の師匠といった存在だったのだ。

 そして、そんな人間として穴だらけなスポンジ女をカバーし、世の一般常識とまともな生活を送れるだけの環境を提供してくれた真の親代わりの存在こそ、他ならぬ海馬であった。

 仕事の関係もあって世界中を放浪していた継子は、当初定住するような家を持っていなかった。透明な少年が標結間の名前を得て病院を出てから数か月間は、各地のホテルや簡易宿泊施設を転々とし、近場に街がないときはその辺で野宿というライフスタイルだった。

 状況が変わったのは、日本で海馬に引き合わされてからだった。

 八歳の子どもを、海外で好き勝手に引きずり回す常識はずれな行動が目に余ったのか、姪として紹介された金髪の大学生は、その場で養母を正座させると、くどくど説教をかまし始めたのだ。時計の長い針が二周も回ってようやく終わったのだが、今度は、住むところを何とかしなくちゃねと車で海馬の実家に連行され、なんやかんやあって、埼玉の山奥にある一軒の平屋が、標結間の実家になった。

 その後は、時間の合間を縫っては様子を見にやってきて、時に料理をふるまってくれたり、継子のかなり独創的な教育方針に文句をつけたり、訓練で怪我だらけになったところを手当てしてくれたり、同じ布団に川の字になって三人で寝たりと、ずっと傍らで見守ってくれていた。

 継子が死んだ後、紆余曲折あって、標が学校に行きたいと言い出した時にも、様々なツテを使って望みを叶えてくれた。

 また、遺産の相続先を標結間にして手続きを済ませた上で、それには一切手を付けずに、学費や生活費といった掛かるすべての費用を自らの給料から捻出しながら、同居を許してくれている。標がせめて継子の遺産を使わせて欲しいと言っても頑として譲らなかった。「子どものうちはこれでいいの。でも人として一人前になったなら、それまでに誰かから貰った分をまた別の誰かに与えられるように努めなさい。そうやって頼って頼られて、世界は回っているのよ」そう言われてその話は打ち切られたのだった。

 なんというか、本当に、ありがたいことだった。

 標は受けたものは利子付きで必ず返す。愛も、恩も、嫌がらせも、なんでもだ。それはつまり義理堅く執着心が強いことを意味していた。

 とりあえず愛に関しては、貰った分以上に捧げているので問題あるまい。

 なので、今の夢というか、標の生きる目標は、海馬に恩返しをすることに設定されている。もちろん他にやりたいことができても、きっちりかっちり絶対に達成するが、とりあえずどうやって受けた恩を返していくか、目下検討中なのである。

 ああ、夢と言えば。

「そうだ。さっき診てもらっていた時、継子と初めて会った時の夢を見たんだけどな、久しぶりに直に顔をつき合わせた気分だったよ」

 つい一時間ほど前まで行われていた診察中に、脳裏へ浮かび上がったビジョンの話をネタにする。理科準備室で診察されていたというのは、いささか違和感が付きまとうが、別に治療目的ではないので、場所はあまり関係ない。医者(ドクター)と患者(ペイシェント)の役がいればどこでもお医者さんごっこができるのとなんら変わらない。

 実のところ、標結間の家族でありながら、別に主治医(せんせい)としての貌も海馬は持っているのだ。そして自らの記憶操作の個性を使って、標の記憶喪失の原因特定とサルベージを試みてくれている。この関係は二人で住み始めるよりもずっと前から続いているものだった。

 三月十三日、木曜日。今日は定期的な診察が行われていた。

 記憶操作の個性で脳に干渉されている間は、患者側の意識は眠っているのとほぼ同じ状態になってしまうので、普段は安全を配慮して家で行なわれている。しかし最近、海馬の仕事が立て込んでいるらしく、なんとか時間を作れたが家に帰る暇はないということで、放課後の理科準備室が本日の診察室と相成ったのだ。

「個性の影響でたまに覗かれた記憶を追体験することがあるらしいから、きっとそれね。って、本騒ぎのせいで忘れてたけど、まだ今日の診察内容について話してなかったわね」

 しまったと口を手に当てて、ずり落ちたような態勢でだらけていた海馬が背筋を正す。そのままこちらに向き直り、まずソファを指さして直後に指先を真下に向けた。座れというジェスチャーだ。

 配置的に完全な対面にはならなかったので、やや斜めに浅く腰かけて、なるべく顔を向かい合わせる。木組みの長テーブルを挟んで、お互いポジションの微調節を終えると、海馬がカウンセリングの口火を切った。

「どう? 相変わらず家族のこと以外はなにも思い出せない?」

「ああ」

「そう。私の方も一緒よ。さっき頭の中覗かせてもらったけれど、前の結果と変わらず」

 短く返答すると、やっぱりという顔で肩をすくめられる。今まで幾度となく頭の中を覗かれてきたが、結果は大体いつも一緒。八歳より以前の記憶は、大部分が戻ってきていない。

「私の解析では、継ちゃんに拾われるより以前の記憶の残滓が、小さく断片的にだけれど観測できている。でも、それだけよ」

 お手上げ、と言わんばかりに両手を持ち上げてそのまま続ける。

「他にも記憶喪失になっている人を診たことがあるけど、大抵は何かのはずみで思い起こすことができたり、私の個性でバックアップが取れるものだったわ」そこまで海馬は言うと、でもと一度区切った。「あなたの場合は違う。継ちゃんに引き取られるより前の記憶は、ほとんどが物理的に“消えてしまっている”」

 スーツの内側に手を突っ込み、海馬は再び記憶媒体が収められたアクリルケースを取り出した。そして一度掲げたそれを宙に放り投げ、両手で掴み取り、すぐさま掌を開いた。

 

 掴んだはずのケースは跡形もなくその姿を消してしまっていた。

 

「封印でも破壊でもなく、“消失”。まるで、記憶その物が、丸ごとどこか別の次元に吹き飛んでしまったみたいに」

 言いながら、左の手を皿の形にしたところに右腕を軽く振る。すると、白衣の袖からアクリル製の容器がコロンと飛び出した。

 まあ、きっちり目で追えていたから驚きはしないが。「ちょっとは反応してくれても良くない?」と手品をシカトされたのが少しショックだったのかリアクションを伺ってきたので、「オオーカッコイイカッコイイ」と拍手を送る。流石に棒読み過ぎたのか、蛇のように睨まれた。

 さて、視えないどこか別の次元。というと、標は自らの個性をまず思い浮かべた。発動型個性ではあるが使用するには、三次元を十一次元に変換する演算を行わなくてはならないという特殊な性質があるのだ。

 通常人間は、空間次元三つと時間次元一つまでしか知覚できないわけだが、物理学における超弦理論をベースとして、個性の発動によって拡張された独自の空間認識能力上では、肉眼では視えないはずの余剰次元七つと合わせて、十一次元まですべて“観測(み)る”ことができる。

 実は既に、個性と記憶喪失との関連については真っ先に疑い、色々と仮説は立てている。しかしながら、一向に実証もできていなければ、他になんの手がかりも発見できていない。現状、完全に手詰まりになっていた。

「まぁ今のは種も仕掛けもあるけど、あなたの場合は記憶が消し飛んだ原因は不明。で、私の個性をもってしても、ほんの僅かな記憶の残滓が見えるだけ。すっごく珍しいケースよ。ホントなにがあったらこうなるのやら」

 まさに五里霧中といった状態に嫌気がさしたのか、海馬はガシガシと頭を掻く。

「しかもその残りカスが異様なのよね。それまで影も形もなかったのに、“あの事件”の時、なぜか不意に二つの記憶が蘇ったってことみたいだけど」

「“あの事件”……か」

「あー……あれからまだ気持ちの整理がついてないのは、結間も私もおんなじ……か」

 そう言って、海馬捏覗ははにかんだ。

 それはあまりにも辛そうな、悲しい笑顔だった。

 アメリカで起こった“あの事件”で継子が命を落とし、きっと一番傷つけられたのはまぎれもなく彼女なのだと標は思う。

 標継子と海馬捏覗は、血縁上叔母と姪という間柄ではあったが、傍目にはまるで年の離れた姉妹か、親友のようだった。遠慮なくズバズバ言い合って、時には喧嘩して、でも最後には必ず笑い合えるような、固い絆で結ばれた関係だった。

 標もまだ尾を引きずっている出来事ではあるが、海馬ほどではないだろう。もちろん、同じように家族として、同じくらい強い繋がりが継子との間にはあったのだという自負はある。

 ただ両者が決定的に違うのは、標は死に目に会えたが、海馬はその瞬間日本にいたため、しばらく後になって事実を知らされたということ。

 継子の死という現実を彼女が飲み込むまでにかなりの時間を要したし、半年経った今でも、居もしない虚像を目で追いかけて、不意に継子の名前を呼んでは涙ぐむ姿を知っている。

 実際に死体を目の当たりにしていないからこそ、まだ本当の意味で現実を受け入れることが出来てはいないのだろう。

 海馬捏覗が私物の整理をできなくなったのは、いや、正確に表現をすると“整理しなくなった”のは標継子が死んでからのことだ。もともとこの悪癖は継子の特徴で、片付け役が海馬だったのだ。

 標たち親子が二人で住んでいた埼玉の家には、大抵床にお酒の空き缶とゴミ袋が転がっていて、テーブルの上に乗っかった灰皿にはタバコの吸い殻がこんもり山になっていたものだ。それを、めんどくさがる継子をド突きつつ、みんなで協力して掃除するのが定番の流れだった。 

 海馬はただその光景を再現しているに過ぎないのだ。

 未練だ。

 だがあえてそうすることで、胸に空いた穴をなんとか埋めようとしているのを知っているから、標は片づけようとたしなめはしても、散らかすなとは言わないのだ。

 同じように継子の行動を真似て、海馬をからかってしまっている自覚がある故に、止めることなどできるはずもない。

「……で、その二つってのは、家族の記憶と――別の人間の記憶ってやつだろ?」

 いつまでも感傷に浸っていては話が進まないなと、いったん思考を切り上げ本題へと戻る。

「……ええ、そう。前者の方は、あの時思い起こせたようだけど、問題は後者ね」

 微かに瞳を潤ませた海馬は、数秒間だけ目をつむると、その後はいつもどおりの落ち着いた口調で、再び静かに話し始めた。

「いうなれば前世の記憶とでもいうのかしらね。そっちはまだ思い出せていないのよね」

「……」

「信じられない? 生憎ね、私もよ」

 さすが付き合いが長いというべきか、表情から標の感情を察した海馬は自虐っぽく笑う。

「何度記憶を覗いて、実際目にしても信じがたいわ。私だって一応科学者の端くれだし、オカルトは全く信じていない。ただホントに不思議なことに、あなたの脳には別の人間の因子が微かに入っている」

 と、海馬に頭を指されながら言われはするが、まったくイメージがつかない。別の人間だとか前世だとか、はっきりいって頭の中に異物が混入しているようなモンじゃないのかと思う。食いものなら大問題だ。いや人間でも大問題か? でも違和感もなにも感じられないし。

 なんか得体のしれないものが身体に入っていますよと指摘されたところで、言葉の説明だけでは、あるという確証も自覚も得られない。

 なので、もう興味もないし放置でいいや、と標は思っているのだが、海馬の方は実際に頭に潜って記憶を見ている分、そう単純に割り切ってはいないようだ。やはり科学者。謎は解明せねば気が済まない性分らしい。

 ちょっと思い当たる節もあるのよねーと、海馬は顎に手を添えて考えるポーズをとった。

「あなたと私が初めて会った時の事、憶えてる?」 

「そりゃあもちろん。あの頃からあんたは美人だった」

「そ、そう? って茶化さないで。誰もそんなこと聞いてないから。とにかく、最初にあなたと言葉を交わしてホントびっくりしたのよ。だって、見た目よりも十歳ぐらい年上の子と喋っているみたいだったんだもの」

 どうも真面目な話モードらしく、軽口はシャットアウトされてしまった。もちろんジョークのつもりは欠片もない。若かりし二十三歳の海馬捏覗は冗談抜きでまさしく超美女だった。現在はよりグラマラスな身体つきとコスメという魔法の変身アイテムにより艶っぽい美しさとなっているが、当時は当時の女子大学生らしいあどけない可憐さという魅力があった。

 とはいえ医大生時代の属性テンコ盛り海馬(金髪ポニーテールwith黒縁メガネ+ミニスカon白衣ver)のイメージに現を抜かしている場合ではない。きちんと耳を傾けねば後が恐ろしいのだ。さすがにかつて養母がくらった二時間正座でお説教コースは勘弁願いたいし、そもそもせっかく標の頭の中身についてあれやこれやと思考を巡らしてくれている彼女をおざなりにしてしまうのは、いただけないだろう。渋々だが、現実に帰ってくるとしよう。

 幸い、話を全く頭に入れていなかったことは感づかれていないようなので、素知らぬ顔で標は、へーそうなのか、といかにもちゃんと聞いてました的リアクションでその場を誤魔化した。

 一方聞き流されていたなど、露ほどにも思っていない海馬は、至って真剣な表情で自らの考察語りをどんどん進めていく。

「おそらく私が、あなたを大人びているように錯覚してしまったのは、言葉と知識を司る《意味記憶》と、運動機能を司る《手続記憶》のそれぞれが、前世におけるソレと混ざっていたからでしょう。結間は自覚なかったでしょうけど、細かな所作とか会話時の雰囲気とかがまるで年齢不相応だったしね」

 言われてみると、確かになんとなくそんな気もする。普段使うような日用品の名称や使用方法が分からなくて支障をきたした、なんてことは思えば一度もなかったが、理由が前世の記憶とやらにあるのだとすれば、納得もいく。

 なるほどなーと、神妙に頷いていた標だったが、次の海馬の一言には思わず口をはさんだ。

「だから正直に言うと、会ってすぐはあなたが気味悪かった」

「おい、ひどい言い草だな」

「あくまで第一印象の話だから。あとその時は、あなたが記憶を失っているってあらかじめ聞かされていたから、どんな子かなーって色々イメージ膨らませててね。顔を合わせる直前までドキドキしてたのよ。だからこう、予想外な感じでね……変に傷つかないでよ?」

 予想外ってなんだ。というかこの女は、記憶喪失状態のいたいけな少年に、どんな子ども像を期待していやがったのか。

 気になる。気になるが、聞いてしまうと自分のキャラクターを見失いそうだ。やめておこう。

「ちょっと複雑だが……まあいい。でも会う前にドキドキしてたってのは俺もおんなじだよ」

「えっ、意外。全然そうは見えなかったけど」

「それまでまともに接してきた大人なんて継子だけだったからな。姪に引き合わせるって言われていきなり日本に連れてかれた時は、正直結構動揺させられた」

 なにせ、あまりに唐突だったのだ。

 早朝。なんだか地面が揺れているような気がして、地震か何か? と目を覚ました場所は、なぜか宿泊していたホテルのベッドじゃなくてタクシーの後部座席で、そのまま空港へと連行された。そしてターミナルでブランチを済ませながら、「私のカワイイ姪っ子に合わせてやるぞ」と養母からあり得ないくらい雑な説明だけされて、あれよあれよという間に日本行きの大型旅客機に乗せられ、その後どうにかこうにかして、海馬捏覗のアパートに辿り着いたのだ。

 正直移動が目まぐるしすぎて最終的に足が棒になるくらい疲れさせられたのだが、飛行機というものに乗って空を飛んだのは初めての体験だったし、日本の景色になんとなく懐かしさを感じて終始あたりをキョロキョロして、なにより見ず知らずの他人に会いに行くということで緊張もしていて、

 一日通してずっと胸が高鳴っていたことをはっきり憶えている。

「なあんだ。案外ちゃんと子供っぽいとこもあったのね。私が判らなかっただけで」

「あの時は正真正銘ガキだったよ」

 海馬が安堵したように笑う。標も冗談めかして笑った。

 図らずも心配をかけていた、ということなのだろう。継子も言っていたが、標には子どもっぽさが足りていなかった。今でこそこうして自然に感情表出が出来てはいるが、記憶を失って間もない頃は、思ったことを顔に出したり言葉にするのが苦手だった。

 年齢は紛れもなく子どもだったが、違うモノだった。異質な何かだったのだ。

 それでも、標結間がなんとなく普通でないことを察していても、関係なんてないと二人の女性は愛してくれた。

「何よ生意気ね。今も立派なガキよ」

 皮肉とありのままの思い半々で言うと、海馬ははっと気が付いた。

「そう、まだ守らなきゃいけない子どもなのよね。だから、たとえ――」

 そして自らに言い聞かせるように言葉の先を紡ごうとして、しかし、躊躇うように唇を結んだ。きっと気持ちの上で迷っているのだ。標には何を言おうとしたか分かった気がしたが、追及はしないことにした。

 しばしお互い押し黙った。静寂がおとずれる。

 やがて意を決した面持ちで海馬が口を開くまで、たっぷり二十秒ほどかかった。

「ねえ結間。私、あなたにはまだ前世の記憶の中身について話せていないけれど……本音を話すと、それは私の心が弱いからなのよね……」教会で懺悔をする罪人のように、海馬は精一杯声を振り絞る。「別に今のあなたに必要だとも思えないっていうのはある。けどそんなのは建前。本当はそれを教えたことで、今のあなたがいきなり別人になっちゃうかもしれないのが、堪らなく怖いのよ」

 海馬捏覗にとって、標結間という少年は特別な繋がりだった。

 弟であり、息子であり、標継子の忘れ形見であった。

 血は繋がっていない。しかし血が繋がらないからこそ、血の繋がり以上に、互いの絆を大切にしてきた。

 かつて最愛の家族がこの世からいなくなった時、大切な誰かを失う恐怖を植え付けられた。あの絶望感は容易く拭い去れなかった。いや、未だに海馬の身に取りつき、雁字搦めに縛り付けている。どれだけ必死に足掻いても抜け出せない、底なしの沼に捕らわれたままなのだ。

 言葉が通じない異国で置引きにあって、パスポートも財布も失くしてしまったような、絶望的な孤独と不安。

 もうあんなのは御免だ。

 だから標結間という少年だけは、彼だけは絶対に失いたくない。そう思って、これまで以上に愛し、守っていこうと一人誓いを立てた。神にではない。自分に。あるいは亡きあの人に。

 しかし“あの事件”の後、なぜか標結間の脳内に、二種類の記憶が蘇ってしまった。

 本当の家族の記憶と、別の人間の記憶。

 何がきっかけであれ、喜ばしいことなのだと理解はしている。だが、気持ちがついていかないのだ。

 忘れていたってよかったのにと思った。むしろ今の状況を搔き乱す邪魔なモノだとさえ思っていた。

 本当の家族の記憶は、既に標自身が思い出してしまっている。今のところ大きく変化しているところは見られないが、この先どうかまでは分からない。

 まして、前世の記憶なんて知ってしまえば、どんな風に人格が変わるのか想像もつかない。

 人格(なかみ)が変わるということは、その人(すべて)が失われるということと何が違うのだろう。

「……、」

 怖い。たまらなく怖い。今まで家族として接してきた標結間が、別の人間に置き換わる。

 そんなのは絶対に嫌だ。嫌なのだ。

 

 だがその感情を押し殺してでも、海馬は選択を委ねる覚悟を決めた。

 

 やはり、本人の記憶をどう取り扱うかは、本人の意志で決定されるべきだと、医者としての海馬捏覗がそう囁くが故に。

 それに、標結間の家族としての自分もまた、本当はそうすべきだと思っているのだ。

 ――たとえ、前世の記憶があっても、私が結間を大事に思う気持ちは変わらない。

 言えずに飲み込んでしまったが、思いは変わらない。どういう結果になろうとも、この子を守ろうと、愛し続けようと、今宵彼女は誓いを立て直したのだから。

「あのね、もしも結間が望むなら――」

 

「いいんだ」

 標結間は、言葉を被せるようにその先を打ち消した。

 

「思い出せないんだ。なら俺の人生には必要のない記憶ってことだ。だからわざわざそれを尋ねたりはしないし、あんたが気に病むことなんて一つもない」

 静かに言葉を紡いでいく。安心させるように、そう不安がるなと。

「それにな、仮にいつかその前世の記憶とやらを思い出したとして、俺ならそんなものいとも簡単に飲み込める」

 単純なことだ。異物が混入していようが構うものか。全部喰らいつくしてしまえば良いだけだ。前世だと。笑わせるな。そんなモノでは、“標結間”の器は壊せない。

 自身の原点は透明なのだから。透明に果てはない。何物にも染められず、何者にもなれるのが自分なのだから。

「世界は俺の物だ。前世だろうが何だろうが、俺の世界を破壊するだけのものになりはしない。俺は俺の世界にあるものすべてを抱えても、余裕で生きていける確証がある」

 標の瞳は、自信の光に満ち溢れていた。根拠はそう。

「なぜなら俺はこの世で最も強いからだ」

 強さ。

 標結間は強さを追い求めている。

 師匠の継子は、“強い男”になれと、かつてそう言った。今は自らの意志で、その道を歩んでいる。

 そして強さとは、単純な力ではない。鍛え上げられた精神力と、鍛錬に鍛錬を重ねたこれまでの努力に裏打ちされたモノこそが、真なる“強さ”。

 今でさえ、自らが最強であることを疑っていない。しかし、頂点には果てがない。果てがない世界こそ、透明(しめぎゆうま)が活きる世界。故に、強さをひたすらに追い求める。

「だから、たとえなにがあったって、俺がつくしを大事に思う気持ちは変わったりしない」

 飲み込まれた海馬の言葉を借りて、標は親愛の気持ちを囁いた。

 疑うべくもない。愛はこの世のあらゆるものを凌駕するのだ。前世の記憶などといったものは、愛の前では無粋なだけだ。そもそも端から興味もない。

 思い出せなくとも。語られずとも。

 海馬捏覗との絆があるならば、なんの障害にもなりはしない。

 

「――キザね。すっごく歯が浮くような台詞。あとめちゃくちゃエラそうだし、完全に厨二病拗らせちゃってるけど」

 

 ふいっ、と顔を横に向けて。

「でもうれしいわ。ありがとう」

 呟く海馬は、頬を仄かに紅潮させた。

「ただ、つくしじゃなくて、海馬先生ね」

「こだわるなあ。俺は名前で呼ぶ方がしっくりくるんだが」

「だーめ! 万が一、他の先生方や生徒に聞かれたらどうするのよ。絶対怪しまれちゃうわ。ただでさえ一緒に住んでいること周りに隠しているんだから、バレたらあなたのこと家においておけなくなっちゃう」

「それは困る。だけどなぁ……」

 一先ずのケリはついたものの、シリアスな雰囲気に耐え切れなくなったのか、誤魔化すように始まる言葉の応酬。

 とはいえ無論お互いに真面目なやり取りである。むしろ標は今日一番の真剣さを見せており、呼び方に関する自らのこだわりぶりを朗々と語った。

 十分ほど続いた討論において、先に妥協したのは海馬の方だった。まあこういう展開になると大体彼女の方が先に折れるのがパターン化している。

「んーもう、仕方ないわね。二人きりの時だけよ。それ以外はちゃんと先生と生徒の関係で接すること。いいわね?」

 指を上につきたてながら念を押し、海馬は我ながら甘いなとため息をついた。だが標の名を冠する親子共ども、振りかざした自分理論を他人の意見では絶対に曲げないため、こっちが折れなくては話が終わらないのだ。

 しかもなにより厄介なのは、一度口に出した理論をそのまま自分で守っていてくれれば扱いやすいものを、自己判断とその場のノリで二転三転させる身勝手さだ。

 人を困惑させることにかけて、この親子にかなう人間はいないだろうとさえ思う。

 だが、海馬自身、こうして困らせられることに楽しみを覚えているという自覚はある。破天荒な人間の世話ほどやりがいがあるというか。いざとなった時に頼ってもらえる喜びもひとしおというか。

 あるいは、見たこともない光景を魅せてくれるという期待の感情もある。

 自らの人間性が平凡であると認識している分、自分には真似できないことや、想像も及ばないことを容易くやってのける人間に憧れているのかもしれない。

 途中でその道を諦めてしまっただけに、余計に憧憬の思いは強い。

 傍らの少年を見つめる。彼は間違いなく輝きを放つ側の人間だ。自分はそれを見ているだけでいい。その場所が一番楽しいと知っているのだ。同じように輝くよりも、下から光を支えて覗き込む方がずっとずっと楽しい。

 身勝手だって、破天荒だっていいじゃないかと、海馬は思う。

「分かっている。大好きだぞ、つくし。結婚しよう」

 だが、こうやっていきなりプロポーズをぶちかましてくるのは、流石にどうかしているとも思う。まったく調子に乗りすぎだ。

「はいはい、寝言は寝て言いなさい」

「俺は至って本気なんだが」

「本気なら猶のことまずいわよ」

 手をヒラヒラ振って妄言をさっさと流そうとしたところ、標は堂々とそんなことをのたまった。海馬の眉間にビキッとしわが寄る。

「あのねえ、私今年で二十九よ。言いたくないけど、恐ろしいことに来年にはついに三十路になっちゃうの。何歳離れていると思っているのよ。それにあなたまだ日本じゃ結婚できないでしょ」

 海馬は理路整然と、しかし苛立ちから声のトーンを上げながらツッコんだ。対し、飄々とした様子で標は口角をにやりと上げる。

「さあて、俺はさっき愛の前ではどんな高い壁でも乗り越えられるって学んだところだからな。何歳離れていようが、民法だろうが関係ないさ」

「BL本で得た教訓を持ち出さないでよ。ていうか、私には十五歳差はそんな簡単に無視できないのよ! だって倍よ、倍。壁は一人で勝手に乗り越えてちょうだい。あと、法律はちゃんと守って」

 言って、バン! と海馬は標との間に置かれたテーブルを片手で叩いた。しかしその行動は大いなる過ちだった。

 その手をすかさず掴んだ標によって、オフィスチェアごと彼の方に引き寄せられてしまった。ガラガラとキャスターの音が鳴った。

 お互いの鼻先が三十センチくらいにまで近づく。吐息がかかる距離。かすかに聞こえる呼吸音が耳にこそばゆい。

 ドクン! と、海馬の心臓が大きく跳ねた。顔が近い。近すぎる。

 標はテーブルの上に大きく上半身を乗り出した態勢で、なあ、とまず一声かけた。

「つくしは俺に愛を囁かれて何とも思わないのか? うれしいとか。私も好きとか」

「……そりゃあ、うれしいかうれしくないかで言ったら、もちろんうれしいけど。性格はアレでも、顔もスタイルもなかなか良いし。でもほら、世間体だってあるし……」

 胸の高鳴りに合わせて、火の燃え盛る暖炉に飛び込んでしまったかのように、全身がカッと熱くなった。

 きっと頬だけでなく顔全体が真っ赤に染まっているだろうと海馬は思った。

 じっと、心のうちを見透かすように見つめられる。自然、標の吸い込まれるような赤い瞳に釘付けになる。

 心臓の鼓動がどんどん早くなっていく。呼吸は荒く。ぼやけたように視界のピントがズレていく。もう、海馬の目には標の真剣な表情しか映っていない。

「好きならなんだっていいじゃないか」

 距離がさらに狭まる。二十センチ。相手の体臭まで分かってしまう。今日は体育があったのか、仄かに香る男の汗の匂い。不思議と臭くはなく、なんだかクセになりそうだった。

 ダメ、だって私たち家族じゃない。

 という言葉が、喉まで出かかっているのに何も言えない。もどかしい。ああどうして。

 ぼんやりと霞がかっていく思考。

「結婚しよう。さあ、今すぐ!」

 限界。

 もう限界だ。

 

「……ぅ、……ぅ、……ぅうううううううウウウアアアアアアア! そのうるさい口を閉じろォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!!!!!!!」

 

 もはや我慢ならんと、

 ありったけの声を腹から絞り出し、儘ならない感情をすべて注ぎ込んだ海馬捏覗(二十九歳独身)の渾身の鉄拳が、標結間の顔面に突き刺さった。

 




次話の3は短めです。
4で、原作キャラ一人目が登場する予定です。
3は近日投稿。4は投稿まで少し間隔空きます
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。