僕のヒーローアカデミアβ   作:へあぴん

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 理科準備室から学校の廊下へと“現れた”標が、そのまま階段を降りて昇降口へと向かっていた時だった。

 学生ズボンのポケットが震え、デフォルトのままにしている着信音が、トンネルのように暗く冷え切った廊下に響き渡った。

「……ん? 電話?」

 立ち止まって一人呟く。それから、購入してまだ半年もたっていないタッチ式の携帯端末を取り出して、発信者の名前を確認する。

 

 電話のアイコンと一緒に表示されていたのは、服の修繕を依頼した業者の名前だった。

 

 パネルを指先でフリックすると、けたたましかったバイブレーションが止まる。耳に翳して、発信相手に声をかけた。

「もしもし」

「……、できたぞ」

 少し間をおいて、

 ボソリと、掠れた低い声が鼓膜をなでた。

 名乗りもせずに、本題だけ伝えてくる端的さ。表示されていた名前の主に間違いない。

 それにしても流石の腕前だ。養母がその腕を買っていたという前情報があったので、わざわざ店を探すために都内を駆けずり回ったのだが、その選択は正解だったようだ。宣言通り、依頼をしてからわずか一週間で仕上げてくれるとは。

「凄い。仕事が早いですね」

「……、いつでも取りに来い」

「分かりました。今空いてるので、これからそっち向かいます。いいですよね?」

「……、待っている。要件は以上だ」

 途切れ途切れの特徴的な喋り方。必要な内容はすべて話し終えたようで、徐にプツッと電話を切られた。

 ツーツー、と鳴っているスピーカーを耳から離し、標は再び足を動かし始める。

 さて、今から“店”に向かうには、時間と場所的に制服のままは不味いだろう。あの辺りはかなり治安が悪い。学生服姿の子どもがあんなエリアに入っていこうとしていたら、たとえ警察じゃなくても、誰かに声をかけられるだろう。

 もちろん止めようとする者に、という意味ではない。

 薄暗い夜の闇へと誘う者に、という意味だ。

 仕方ない一度家に帰って着替えるかー、と昇降口に辿り着いた標は、靴箱から愛用のスポーツタイプのスニーカーを取って、上履きと履き替えた。

 店の場所は、東京都豊島区池袋駅のすぐそばだ。今いる学校が、埼玉県の所沢駅からおよそ徒歩十五分の距離にある郊外なので、現在地から目的地までは電車で大体一時間かからないくらいで行けるはずである。

 到着は夜七時くらいか、と考えながら昇降口を出て、校門方向へ伸びる校舎脇の遊歩道をいざ歩き始めようとした、そんな瞬間だった。

 

「……、ねェ唯、危ないよ! やめた方がいいって!」

 

 なんだろう、という感じで振り返る。

 音の発生源は、遊歩道の反対側。校舎の裏側に広がる中庭の方から聞こえてきた。位置が離れているため常人なら聞き逃していただろう微かな音。しかし、“普通ではない”標には分かった。

 あれは、女の子の叫び声だと。

 しかも、状況が切迫しているのか、かなり焦っているような印象を受けた。

「……、」

 さてどうしたものか。今は池袋の店に行くという予定があるわけだが、特に時間の指定はしていない。つまり多少先方を待たせたところで問題はないはずだ。

 そして、最も重要なことに、女の子が絡んでいる事案ときた。

 ならば行動の選択肢は一つじゃないか?

「とりあえず、行って様子を確かめるか」

 女の子が可愛いかだけでも見てこよう、とそんな邪な気持ちを抱きつつ、標は当初向けていたのとは逆の方へ歩き出す。

 ほどなく校舎の裏側へと回り込む。辺りに照明はほとんどなく、インクをぶちまけたような闇が中庭一帯を支配しているが……、

 ――ほう。面白そうなことをしている。

 百メートルほど先。標には十分“視える”距離だ。

 中庭と校舎に挟まれたスペース。コンクリートの外壁に沿う形で等間隔に植えられた背の高いカエデの樹、その内一本の根本で、

「危ないから降りてきてよ!! もう諦めてッ!! 唯ってばッ!!!」

 一人の女子生徒が、空を見上げて何度も何度も声を荒げている。いや実際には、星が瞬く夜空なんか彼女は見ていないが。

 視線の先には、そこにも一人の少女の姿。

 十五メートルはある高木の先端に近いところ。何かを探しているのか、上体を樹に向かって伸ばすように傾けながら、片手で携帯端末を懐中電灯代わりに使って、もう一方の手で懸命にカエデの葉っぱをガサガサ漁っている。

 もちろん彼女は宙に浮いているわけではなく、しっかりと足場に乗っている。

 しかしながら、その足場になっているものがかなり異様だ。

 

 脚立。

 

 パッと見はどこにでもあるような、踏桟(ふみざん)が九つあるアルミ製の脚立が、カエデの手前にガニ股で立っている。

 だが、その“サイズ”がおかしい。

 通常そのタイプの脚立は、全高三メートルくらいが精々のはず。だが、少女が跨っているソレは間違いなく十二メートル以上はあった。

 約四倍。

 この異様な光景を前にして、標は最初に目のピントがおかしくなってしまったのかと疑った。しかし、いつも通り夜に塗りつぶされた世界でも問題なく視えていることから、どうやらおかしくなっているのは自分の目ではなく、あの脚立の“サイズ”の方なのだと気が付いた。

 とはいえ、あんな馬鹿デカイ脚立が普通に存在するわけがない。

 足を掛けるステップは幅が離れすぎていて、昇るだけで一苦労に違いないし、なにより途中で落ちる危険性が高い。

 つまり常識に沿って作られたモノではないということ。

 アレは一種の超常現象だ。

 ならば原因は明白。なんらかの個性によるものなのだろう。

 その正体は不明だが、でなければあんな光景の説明がつかない。

 さあて面白くなってきたと、ひどく楽しそうにニヤリと口を歪め、さらに近寄って詳しく状況を把握することを標は決める。

 駆け足で一気に近づく。

 

 瞬間、樹の根本に立っていた少女は、背後から突風が吹いたと勘違いした。そして、自らの脇にいつの間にか立っていた大きな人影に、うわっ! と目を丸くした。

「ああ、驚かせて悪かったな」

「……、えっ? ……はあ、こちらこそすみません……」

 セリフの割に人影はあまり悪びれた様子もなく、呆気にとられた少女は、何も悪いことをしていないにも関わらず、なぜか頭を下げて謝ってしまった。

 辺りが暗いせいで、彼女がその人影は同じ中学のブレザーを着た男の子なのだと気付くまで、およそ十秒ちょっとの時間を要した。

 よくよく見ると、この男子生徒はかなり大きい。彼女自身が同年代に比べるとかなり背が低い方なので、大抵の人間は見上げて接する形になるのだが、顔は暗くて良く分からないものの、人影の身長はどうも百七十センチ後半くらいはありそうだ。そこで、一つ上の三年生にもこんなに大きい人はなかなかいないぞと思い至り、ひょっとして中学生に成りすました不審者なんじゃ!? と途端に怖くなって少女は思わず身を引いた。

 さっさとどっか行ってー! と涙目で念じるが、思い通じず。なぜか大男はそのまま居座ってしまった。

 しかも傍らで、友人が個性で“巨大化”させた脚立を、マジでデッカイなーと興味津々に見つめており、今それに触られたりしたら困る! と思った彼女は、これは私がどうにかするしかないぞ、と覚悟を決め、勇気を振り絞って声をかけてみることにした。

「あ……あの、……、あなた……、不審者さん……ですか?」

 と少女が恐る恐るした質問に対し、

 

「へ?」

 

 と、まさか自分が少女に不審者疑惑を掛けられているなど、露ほどにも考えていなかった標結間は、かなり間抜けな声を上げた。

 一瞬の硬直の後、隣の少女から向けられている、まるで怪しいものを見つめるような痛々しい視線と、まるで怪しいものに出くわしたように身体を小さくする姿勢を見て、

 あれ、なんか俺引かれてね? とようやく気が付いた。

「……、あ、いや違うぞ。俺はここの生徒で。ほら、帰る途中になんか叫んでる声が聞こえたから何事かと思ってな。しかも、なんかやたらデカイ脚立とかあるし。だからほら……、とにかく俺は不審者じゃない! 安心してくれていいからな!」

 必死の、そりゃあもう全力の弁明だった。

 単に面白そうだったから近づいて見ていただけで、なのにいつのまにか女の子にドン引きされているなんてショックすぎる。しかも、それがかわいい子なら猶のことだ。

 彼女を一言で言い表すなら、“可憐”という感じである。

 丸い輪郭に伏し目がちなグレーの瞳が乗っており、一部だけ後ろに結い上げられた濡羽色の髪は、暗さもあってやや青みがかって見える。

 根が臆病なのか、出会い頭からおどおどとこちらの様子を伺っており、醸し出される雰囲気はまさに小動物的で、

 そして何よりも特筆すべきは、その身長の低さだ。

 百三十三センチといったところだろうか。大柄な標と並ぶとかなり小さく感じる。傍から見たら親子と間違われても不思議じゃなさそうだ。

 あんまり小さいので、ちょうど合った大きさの制服がなかったのか、袖で指先が隠れてしまっているほどだ。うん、可愛い。

 胸よりも低い位置にある頭頂部を見下ろしながら、うんうんと満足げに頷いていたら、もともと伏し目がちな目を更に細くして睨まれてしまった。

 一瞬しまった、と冷や汗を流したが、先ほど死ぬ気で訴えた弁明については聞き届けられたのか、「ソ、ソーデスカ。それならいいんですが……」とややカタコト気味かつおどおどされっぱなしではあったが、なんとか不審者疑惑を晴らすことに成功したようだった。そうして標が安堵していると、

「……、って、そんなことよりも今は唯です! ゆぅぅうういぃぃいい!! もういいから降りてきてぇええええ!!!」

 ハッと、ミニマム女子生徒は我に返り、あなたに構っている暇なんてありません、といわんばかりに標を眼中から追いやって、上で探し物をしている少女に、これまで以上の大声で再び呼びかけ始めた。

 標もつられて視線を上に向けつつ、気になっていたことを尋ねてみた。

「聞きたかったんだが、彼女はどうしてあんな所にいるんだ?」

「あなたには関係ないことです」

 きっぱりと、関わりを拒否されてしまった。

「そりゃあそうなんだが、もしかしたら力になってやれるかもしれないだろ?」

 しかしなおも詮索を辞めない。

 すると少女は、

「……、でも……巻き込んじゃうのは申し訳ないです。私なんかの問題に……」

 と、まだ標が何もしていないのに、妙に自らを卑下したようなことを呟いた。

 そして再び彼を無視して、早く友人に降りるよう説得せねばと口を大きく開け………………ようとしたところで、

「別に助けて恩を着せようなんて話はしていない」

 標の言葉にインターセプトされた。

「単にどうしてこんな面白い状況になっているのか気になってね。野次馬根性さ。だから遠慮なく困っていることでも何でも言えばいい。相談だけならタダだ」

「……、」

 あまりにも気安くそんなことを言うので、少女は友人に呼びかけるための声を瞬間失った。彼の言によると、どうも手助けしてくれるのではなく、冷やかしに来ただけということらしい。

 無論今はかなり切羽詰まった状況。少女には標の戯言に付き合っているような暇はない。

 しかし、妙に落ち着き払っている傍らの人影(少年?) に、少しだけ緊迫した空気を緩めてもらったような気もする。

 相談。

 相談だけならタダ、と彼は言った。

 少女は、

「……、今唯は、……上にいる子は、私の宝物を探してくれているんです」

 見ず知らずの人影に、訥々と相談をし始めた。

「宝物?」

「そうです。お揃いのストラップで二人の友情の証なんです」

「で、その友情の証とやらを、なんであんなところで探してるんだ」

 当然の疑問だった。少女は少し言いにくそうに声を小さくした。

「……クラスで私をからかってくる子がいて、朝その子に投げ捨てられちゃったんです」

 からかってくる。

 というのは大分言葉を濁した表現だろう、と標は思った。

 彼女は上手く隠しているつもりだろうが、細かい仕草から痛みを庇っていることが分かる。服の下、外から見えない部分は、たぶん怪我だらけのはずだ。

 おそらくこの少女はクラスでイジメを受けているのだ、と標は冷静に分析した。

「休み時間全部使っても見つけられなくって、もう諦めようと思ってたんですけど……。放課後唯が一緒に探してくれて」

 スッと、少女は校舎の五階のとある教室を指さした。

「あそこが私のクラスで、投げ捨てられた窓から一番近いのがこの樹なんです。下には全然なかったので、もうあそこしかないって唯が……」

 そこまでで一度区切り、小さな手をギュッと握りしめながら、少女は辛そうに眉を寄せる。

「……さすがにもう諦めようって言ったら、目を離した隙にあそこまで行っちゃってて……。唯が怪我しちゃったら元も子もないのに」

「なるほどなあ。……、このデカイ脚立は?」

「…あの子の個性で、物の大きさを操作できるんです。たぶん昇降口にあったやつを持ってきたんだと思います」

 物体の大きさを操る個性か。

 なるほど、ならばこの脚立の違和感も納得がいく。形は元のまま、“大きさ”だけ四倍に変えているのだから、こんなに使い辛そうなのだ。

 モノが四倍サイズなのに、人間は通常のまま。だから変に感じる。

 そして、そんなアンバランスな状態でも気にせず作業を強行しているところを見るに、おそらく“唯”と呼ばれているあの少女は、自分の大きさまでは変えられないのだろう。あんな高所で小さいものを探すとなれば、自分を巨大化させて臨んだ方が遥かに安全のはずだ。それをせずにこんなまどろっこしい方法を選択しているということは、能力上の制限があるとしか思えない。たぶん大きさを操作できるのは自分以外の物体だけなのだ。

 会話と観察した状況から推測を立てつつ、標は上にいる少女の成り行きを見守っていた。直後、動きに変化があったのに気が付く。

「ちなみにその宝物ってのは、“小さいうさぎのぬいぐるみが付いているやつ”のことか?」

 ふとそんなことを、傍らで同じように見上げているミニマム少女に訊く。

 そうです、と彼女は頷いて、一拍後、ぎょっと標の方を向いて、

「…ってなんで知ってるんですか! あなた初対面ですよね!?」

 もしかしてストーカーさんですか!!!? とまたもドン引きしながら捲し立てた。

 一方あらぬ疑いを掛けられてしまった標は、半ば呆れ混じりに首を横に振る。

「勝手に誤解するな。ちょうど今あの子が手を伸ばしてる先にチラッと視えたんだ。どうも彼女は、お前の宝物を見つけたみたいだぞ」

「え?」

 と少女は思考が一瞬止まった。そして、次々に疑問がわいてくる。

 今この人は視えたと言ったのか? 

 こんなに暗いのに?

 十二メートルも離れた葉っぱだらけの中で?

 指で摘まめるくらいの小さいストラップが?

 

 “視えた?”

 

「……、視力強化の個性なんですか?」

「いいや。……おい、そんなことより上。ちゃんと見守ってた方が良さそうだ」

 少女の質問に否定で返した標は、話題を切り替えるように、上方への注意を促した。

 確かに友人の安否の方が今は重要と判断し、なんだか有耶無耶にされたような……と思考していたのを即座に切り上げて、少女も顔を上げる。

 頭上十二メートル。

 親友の女の子は、脚立の一番上に跨って、かなり前のめりで新緑の中へと手を伸ばしている。幅が空きすぎているせいで踏桟には足は届かないらしく、折りたたむように最上段に絡めて、なんとか踏ん張っているようだった。

 いつ落ちてもおかしくない、非常に危険な体勢だった。

 カ…………ッ、と少女は息が詰まった。本当は、危ない! と叫ぼうとしたのに声は出ない。

 早く辞めさせたい。もう頑張らなくていいと叫びたい。

 しかし、何かたとえば、

 虫や、風や、もはや少女の声掛けでさえ、

 何か一つでもはずみとなれば、親友は落ちてしまうだろう。そんな予感があった。故に少女の喉は、かすかに呼吸できるだけの器官に成り下がってしまう。

 静寂。

 黙りこくった少女の隣で、標結間もまた状況を静観していた。

 “唯”という少女は、既に目的の物を発見している。あとは回収するだけと、片手を足場に引っ掛けて倒れ込みそうになる上体を支えながら、懸命にもう一方の手を伸ばしている。

 だが、指先が届かない。

 顔が紫になるほど力を入れても、腕を枝で擦り傷だらけにしても、届かない。

 十センチ。

 ほんの僅か、たったそれだけの距離が、永遠と同じくらい遠い。

 ――きっと彼女はそう思っているはずだ。心境が手に取るように分かる。

 しかも、それでも諦める気配が、微塵も感じられないのだから驚きだ。ならば、次に取るであろう行動も標にはすぐ予想がついた。

 

 ――彼女はついに、足場を掴んでいた方の手を離した。

 

「ッ!!!?」

 傍らで息を呑む音。だが、まだ大丈夫。

 頭上の少女は、離した手をカエデの枝に引っ掛けていた。脚立に戻るときが大変だろうが、一先ず落下の心配はない。そもそも、彼女はわざとやったのだ。大丈夫という確信があったに違いない。

 とはいえ、あんな一瞬でも宙に身を投げるような真似、並大抵の胆力では決意できないだろう。サーカス団員やスタントマンならいざ知らず、あそこにいるのは女子中学生なのだから。

 “普通じゃない”、と標は禍々しく口元を歪める。面白い。寄り道して正解だった。

 “唯”という子は、グッ、と預けるように一段樹に向かって上体を寄せると、ストラップとの隙間十センチを一気に詰めにかかった。

 

 ――届く。

 

 そう、標が思った瞬間。

 

 ―――――――――ガクンッ!!!!! と、

 

 急速に脚立が縮まり始めた。

 途端、足を絡めるように最上段へ跨っていた少女は、自身を支えていた足場を失った。

 刹那、重力が彼女を捕まえる。

 蝋の翼を失ったイカロスのように。

 少女は、落下する。

 

 夜空が遠くなる。

 背中から落ちながら、小大唯(こだいゆい)はその光景を前にぼんやりと思った。

 ――残念。

 友情の証には、あと一歩、いやほんの数センチ足りなかった。

 親友に――水瀬澪(みなせみお)に届けるのには、もう少々努力が必要だったようだ。我ながら惜しいところまでいったと思うのだが、まさか個性の持続時間に文字通り足を掬われてしまうとは。

 小大の個性は、《小大改変(サイズ)》と呼ばれるものだ。

 質量百グラムから五百キロ、倍率五十分の一から、五十倍までの区間内で、触れた物体の“大きさ”を変えることができる。

 そして、触れている間は自由自在に大きさを変えられるが、変えた時点からきっかり十分間で効果は消え、必ず一度元の大きさに戻るのだ。

 水瀬に内緒で、こっそり昇降口にあった脚立を足場に使わせて貰ったのだが、運び出す時に大きさを変えてから、丁度十分が経過してしまったらしい。あと少しで制限時間オーバーとは、なんてタイミングが悪いんだろう。

 だがまあ、失敗したものは仕方がない。ある場所はもう分かったから、次は必ずうまくいく。

 ゲームはやったことないが、こういうときコンティニューという言葉を使うんだろうな。などと、小大は自らがおかれている状況にさほど危機感を抱かず、むしろそんな些末事を考えていた。

 直後、バキバキと爆発したような音を立てて、カエデの枝が背中を次々に叩いていく。素肌をムチで引っ叩かれたような衝撃が全身を迸り、剣山で刺されたかのような痛みに顔を顰める。

 途中反動で、ぐるん、と体の向きが百八十度変わる。天井が落っこちるように、地面が眼前に迫ってくる。残り数メートル。

 さて、そろそろ、

 ――着地。

 と痛みに耐えて携帯を構えた瞬間、

 

 ふわっ、と小大の身体が浮いた。

 

 小大の脇腹を何者かが抱えて跳んでいるのだ。彼女は突然出現した乱入者をまったく予知することができなかった。一体どこから? 誰が? 疑問符が次々に湧き出てくるが、答えは全く思い浮かばない。

 片手で抱きかかえられたまま、風を斬るように空を跳ぶ。数秒もない滞空。しかし、永遠にも感じる時間が流れた。

 ふわり、とトランポリンにでも乗るように、危なげなく地面に降ろされる。

 目の前には、同じ中学のブレザーを着た大男。暗くて顔は良く見えないが、小大には彼が何者なのか分かった。

 名前は憶えていない。が、

 彼は二カ月前に自分のクラスに転校してきた男子生徒だ。

 接触したことはないが、雰囲気が変わっていたのでなんとなく覚えている。

 小大の長い黒髪についた葉っぱを払いながら、少年は静かに呟いた。

「落ちるなら枝を折るな。耳を掠めただろうが」

 最初は彼が何を言っているのか小大には良く分からなかった。少し考えて、少年が言っていることの内容がつかめた。どうも、先ほど樹の上から激しく小大が落下した際に、折った枝が降り注いだ丁度真下に彼がいたらしい。

「分かったら、謝ること」

「……、ん」

 小大は少年の言葉に思わず頷いてしまった。背中を打った痛みすら忘れて、両手を下ろしてペコリと頭を下げる。

「ごめんなさい、くらい言えよ」

 すると小大は、自分の喉を指差して、その後首を横に振った。彼女はある理由があって喋ることができないのだ。どれほど頑張っても、微かに撥音(はつおん)が出せるかどうかといった状態だった。

「そりゃすまなかった。ごめん」

 少年は素直に謝ると、小大の背後を見やって、

「……、お邪魔らしいな」

 皮肉ったように嗤うと、その場からすっと距離を取った。何かあるのかと、くるりと振り返った瞬間、

「唯ッ!!」

 衝撃。親友の女の子が思い切り抱き着いてきた。

「もうッ!! 唯ッ!! ゆいの………ッ……、バカぁああああああ……」

 泣きながら強く抱きしめられる。

「……、ぅ……ぁぁあ……、よかったぁ…死んだかと思ったぁ……」

 肩が熱い。涙の暖かさだ。どうやら心配をかけてしまったようだ。

 ズキン、と痛い。傷だらけの背中ではなく胸。胸が熱く揺さぶられる。

 ああ、これが心が痛いということか、と感想を抱きながら、小大は震える水瀬の背をポンポンと軽くさすった。

 暫し啜泣く音だけが辺りに響き、やがて落ち着きを取り戻した水瀬は、ようやく小大を拘束していた両腕の力を緩めた。

「……、もう。……あんな危ないことして。二度とあんなことしちゃダメだよ」

 頬に手を添えられ、小大はじっと顔を覗き込まれた。泣き腫らした灰色の瞳には、まだ涙が湛えられている。意図せずではあるが、大切な友達を不安にさせてしまった。そのことは本当に申し訳ないと、彼女は痛感していた。

 

 ――だけどまだ。

 

 そう。まだ、目的は達成されていない。

 水瀬の縋るような表情から目を背け、小大は腕の拘束を振りほどいた。そして、先ほどの跳躍によって空いてしまったカエデの樹との距離を詰めるため歩き出そうとする。

 その行動に水瀬澪は愕然と凍り付いた。

 そして、まるで信じられないものを見るかのように、彼女は小大を凝視する。

「唯ッ! ダメだって言ったのに……、どうしてまた行こうとしてるの?」

 名前を叫び、ボロボロになった制服の後ろ端を必死に掴む。小大は何も答えない。当たり前だ、彼女は喋ることができないのだから。

 しかし、たとえ喋れたとしても、水瀬はきっと同じように無視されたことだろう。それが容易に想像できてしまうだけに、

「もう私が諦めてって言ってるんだから良いの! もう十分!」

 水瀬は、怒気を孕んだ声で親友を制止する。

 小大唯は足を止めない。

 言うことを聞いてくれない。

 そんな態度が許せないのか、水瀬は激昂して、

「宝物は大事だけど……そっちはまた買えばいいじゃない! でも、唯の代わりはいないの…、唯の方がもっとずっと大切なのッ!! お願いだからこれ以上無茶しないで!!」

 水瀬はわなわなと肩を震わせた。

 何としてでも引き留めようと、ギリッ、と制服を握りしめた掌に爪が食い込んだ。

 それでも、小大の意志は変わらない。

 諦めるなんて嫌だ。

 小大唯にとって、水瀬澪は初めてできた掛けがえのない友達だ。そして彼女のクラスメイトが朝窓から捨てたモノは、小大が一生懸命考えて送ったプレゼントだった。二人の思い出が詰まった大切な宝物なのだ。

 去年クラスが変わって、水瀬がイジメられていることに、小大はごく最近まで気づくことができなかった。ボロボロに傷ついて、それでも心配を掛けぬように悟らせまいと巧妙に隠し、誰にも……小大にさえ彼女は救いを求めなかった。

 そのことが――頼られなかったことが、ただひたすらに悔しくて、悲しくて。それでも、もうこれ以上彼女が傷つけられるのは見たくなかったから、どうしても諦められなかった。

 捨て去られた二人の友情の証一つ救えなくて、この苦境から彼女を救い出せるはずなどないと、そう確信していたから。

 それに、まだ無茶というほどのことはしていない。

 不意の落下で危うい姿を晒してしまったが、一応助かるための策はあったのだ。

 だが、小大は心の内を水瀬に打ち明けることができない。イジメられているのを実は知っていることも、どうしても宝物を諦められないことも、何も伝えることができない。

 喋れないというハンディが、二人を隔てる溝となっていた。

 そして、一人黙してまたカエデの樹に向かおうとする小大を見て、水瀬はもう言葉が届かないと気が付いていたが、それでも叫ぼうとして、

 

「お前さァ、唯って呼ばれてたっけ? そんなにアレが取りたいのか?」

 

 暗闇から投げかけられた声に、あっさり中断させられた。のんびりした口調ではあったもの聞き流すには威圧の大きい声だ。

 二人の少女はほぼ一斉に暗闇の方を見据えた。正確には、声の主である人影が佇む方を。

 人影――標結間は、感情を表さずに、静かに小大への問いを続けた。

「えーと、ほら。宝物だとか、二人の友情の証だとか。あそこにあるのは、お前にとってそんなに大事なモンなのか?」

 小大は、目の前の少年の質問に答えるべきかどうか逡巡した。無視してもいいが、そうやって無視をすると、水瀬との友情すらも否定してしまうような気がして、小大はその問いに大きく頷いた。

「そうか。ならいいんだ。なんなら、お前に手を貸してやろうか?」

「へ?」

 突然の申し出に、水瀬が呆けた声を漏らし、小大も思わず目を白黒させた。

「ちょっと、何勝手なこと言い出してるんですか! あなたさっきまでと言ってることが違います! 矛盾です! 別に助けるつもりはないんじゃないんですか!?」

「その通りだが、何か問題があるのか?」

「……、ハァ!? なんですかそれ! 助けるのか助けないのかハッキリしてください! いや、さっきは唯を助けてくれたし、ホント感謝してますけど……。でも、それとこれは話が別です! とにかく唯に余計な口出ししないでください!」

 水瀬の至極当然の叫びに、標は何の躊躇いもなくこう答えた。

「俺はやりたいことをやってるだけだ。助かろうが助かるまいが知ったことじゃない」

「…ッ」

 あまりにも堂々とした少年の言葉に、水瀬は二の句が継げなくなった。

「ただなあ、どうもさっきまでの話聞いてたらさ……お前ら友達想いのいい奴っぽいじゃん? どうも色々訳ありっぽいし。なんか可哀相だし」

 なんとも偽善者らしい理屈だと、標は内心自嘲する。

 だが、何が悪いのだろう。別に英雄を目指しているわけではない。使命感など欠片もない。

 単に目の前で女の子が困っていたら、ただ何となく同情もすれば、ただ何となく手伝いもするというだけの話だ。

 求められていない? 知るか。身勝手に振舞うのは、強者だけが持つ特権だ。

 そして、標結間は強者なのだ。

「俺にはお前らが言う宝物って奴の価値が分からないんだが、それはお前ら二人にとっては、大切なモンであることに変わりないんだろ? でも、ソイツを取りに行くか、それとも諦めるかで喧嘩してるわけだ」

 少女たちのやり取りで得た情報から、標は現状の確認をする。しかし、問いを投げかけられた二人は、お互いに雰囲気が気まずいのか何も反応を返さない。

 そのことには特に構わず、標は水瀬に歩み寄った。

「お前が唯って子を諦めさせたいのは、危険に晒すのが怖いから。そうだろ?」

「……、はい」

 水瀬は、親友の制服を強く握りしめたまま、小さく頷いた。

 少年の目がぐるりと小大へと向いた。

「で、そっちはそっちでやる気満々らしいな。お友達を振り切ってでも目的をやり遂げようって、そういう目をしてる」

 標は何もかもを見透かしたような目で、小大の黒い瞳を見つめ返した。全ての光を吸い込むような赤い光で、まるで血溜まりの中に小大の身体を飲み込んでしまうかのようだ。

 少年は、ふと思い立つことあったのか、身構える小大の耳元に口を寄せて、彼女だけに聞こえるように囁いた。

「あ、そうだ。……、お前、彼女がイジメられてるって気が付いてるのか?」

 ――この男は、この男はなぜ知っている?

 小大の心がはっきりと揺らいだ。自分がついこの間まで知ることのできなかった秘密を、なぜこの男は知っている? ひょっとして、こいつもこの子を――

 分からない。分からないが……、重要なのは、私たち二人の問題に、この男が土足で踏み入ってきたことだ。

 この男は危険だ。

 他人を信用してはならない。小大唯はそのことを身を以てよく知っている。一番身近な家族でさえ敵だったが故に、血の繋がりさえ人を信用する要素足りえないことを知っている。

 親友を――澪を守るのは自分一人で十分だ。誰も近づけない。澪をイジメている奴も、それを傍観している奴も、教師も、家族も、この男も、危険な奴は誰も誰も誰も。

 所詮、私たち以外はみんな敵なのだから――。

 小大の瞳に冷たい光が宿る。

 異常に気が付いたのか、標は小首をかしげながら口を開いた。

「どうした? 怖い顔をして。ああ、ひょとしてあれか。見ず知らずの俺が、いきなり知ったような口を利いてるから、この子の問題に俺も関わっているんじゃないか……とか考えているのか?」

 図星だった。小大の瞳の冷気がわずかに揺らぐ。動揺を抑えながらも、純粋な彼女は馬鹿正直にもその問いに頷いてしまう。

 標はその様子を見てニコリと笑い、彼女への質問を愉快そうに繰り返した。

「お前の友達ってのは、この子一人か?」

 頷いて返す。小大は少年の質問に素直に答えることにした。この不気味な少年の隙をなんとか探ろうと決めたのだ。

「そうか。それでお前は、この子を守るのに信用できるのは、友達である自分だけだ――――そう思っているから、俺のことが信用できないわけだな?」

 他人を信用できない理由はそれだけではなかったが、あながち間違いでもないので、肯定する。

「命を懸けてでも、この子を守りたいって思ってるのか?」

 考えるまでもない質問だった。守るためなら、自分の命だって惜しくない。

「で、同じくらいに、友情の証ってのも守りたいんだな?」

 当然だ。私にはどちらも守らなくてはならないものだ。だが、次の言葉を聞いた瞬間、小大の頭に空白が訪れた。

「そこで俺は考えたんだが、俺がお前らと友達になれば、あそこにある代物は俺にとっても宝物ってことになる。そうなれば、ここで困っている二人の友人を俺が手助けすることは、何も問題がなくなるってわけだ」

 一瞬、少年が何を言っているのか分からなかった。いや、考えては考えるほど、小大の頭の中に疑問符と感嘆符が満ち溢れていく。

 小大の答えを確認しようともせず、標はのうのうと話を続ける。

「さて、これで二択が三択になったぞ。さっきと同じように一人でいくか。この子の言うことを渋々聞いて諦めるか。それとも俺と友達になって手を借りるか。この三択だ。理解できるか?」

 さっぱり理解できない。理解できない。

 初対面で、いきなりこの男は何を言っているのだろう。一体どこからどうやって友達になろうという考えに至ったのか。その人格も、その思考も、小大には全く予想できない。

「いや本当は、友達よりも彼女になってほしいんだが、流石に二人同時なんて義理に反するだろ? 二股なんてバレたらつくしに殺されかねないからなあ」

 いつの間にか男の中では恋愛関係にまで更に話がシフトしてしまっているらしい。

 小大は立ち尽くすが、この後どう行動すればいいのか分からなかった。

 ただ、呆けた表情で、標の話に聞き入ってしまう。

「やっぱ最初はガールフレンドになってもらって、最終的にどっちか片方を一途に愛すのがベストだと俺は思うわけだ。ああ、愛のない交際は不安か? 大丈夫だ、愛すから。それに時間はたっぷりある。その間にちゃんとお互いの気持ちを確かめ合っていけばいいさ」

 いやそういう問題じゃない、と思いつつも、小大はこの少年にどう返事した物か迷い続けていた。今彼女にとって最優先にしなくてはならないのは、樹の上に引っかかってしまった友情の証を取り戻すこと。だが、親友の少女によってそれは止められてしまっている。そしてこの少年が、目下最も邪魔な障害になっている。

 小大の脳が煮詰まるよりも先に、標がぐいっと、顔を近づけて来た。

「ああ、別に彼女にしたいってのは冗談と思ってくれて構わないんだが。まあ、俺は本気だ。とりあえずは友達からスタートしよう」

 そのまま、小大の瞳をまっすぐに見つめてくる。まるで、顔の目の部分に深い穴が開いていて、そこにいる悪魔が彼女の魂を手招きしているように。

 小大の背筋に今まで感じたことのない感覚が奔り、思わず身を引いてしまった。はずみで、掴まれていた制服がパッ、と手放された。

 小大と、水瀬が偶然にも少年の前に立ち並ぶ形となった。困惑した表情を浮かべて一瞬視線を合わせる二人。

 そんな彼女たちの様子を見据えながら、標は微笑みを浮かべ、

「さあ、どうするのか選べ」

 少女たちの前に掌を差し出した。

 

 初めに反応を示したのは、水瀬の方だった。

「……、あなたに頼んだら、唯は危ないことしなくて済むんですか?」 

 おずおずと、顔色を窺うように彼女は訊ねて来た。

「そうだな」

 あっさりとした標の返事に、彼女はホッと胸を撫でおろした。その後、苦笑しながら、

「……、分かりました。相当あなたは変わっていますけど、さっき唯を助けてくれましたし、お友達くらいにならなってあげてもいいですよ。……お付き合いするかは、流石にちょっと考えさせてほしいですが」

 差し出された掌に、自らの掌を乗せた。

「ああ、もちろん。友達からでいい」

 か細く色白な彼女の手を見つめて、標は大きく頷いた。

 スイ、と彼の視線が小大に移る。

「お前はどうするんだ? 一人でやるっていうなら、別に俺は止めないぞ」

「……、」

 ――この男を信用していいのか分からない。

 ――だが親友は、この男と関わりを持つことを決めてしまった。しかも、その理由は私を危ないことから遠ざけるためだという。

 ――私は、私はどうしたいのだろう。

 ――私は、親友を――水瀬澪を守りたい。彼女に傷ついて欲しくない。大切なものを絶対に失いたくない。

 ――ならば、私もこの差し出された手を取れば、私を心配してくれる澪の気持ちを裏切らなくて済むのだろうか。二人の宝物を守ることが出来るのだろうか。澪を救うことが出来るのだろうか。

 ――分からない。

 ――分からないが、

「……」

 三人目の手が重ねられる。小大唯は迷いながらも決意した。

「よし。今日から俺たちは――友達だ」

 それを受けた標結間は、生まれて初めて、しかも二人もガールフレンドが出来たことが心底嬉しくなって、感極まったようにそう呟いた。

「さて話も纏まったところで、いい加減あそこにある宝物を地面に降ろしてやらないとな。ほったらかしは可哀相だ」

 重ねられていた手を下ろして、カエデの高木を三人で見上げる。

「あのー、そういえば気になっていたんですが、どうやって取りに行くつもりなんです?」

 水瀬がふと思い立ったことを標に問いかけた。

「そうだなぁ、木登りしても良いんだが……」

 言いかけて途中でやめると、標は口元に軽く手をあてて考えた。

 確か宝物は、うさぎのぬいぐるみ付きのストラップだったはず。あまり大きく樹を揺らしたりすると、枝でぬいぐるみが傷つくかもしれない。

 まあ、さっき小大が落ちた衝撃で樹全体が大きく揺れてしまっていたから、もはや意味のない気遣いかもしれないが。

 というか、そのせいでストラップの場所が変わってしまっている可能性もある。地面には落ちてきていないからまだ引っかかってはいるんだろうが……。

 先ほどチラリと見えた辺りに視力を集中させる。しかしだめだった。落下の衝撃で葉の重なり方が変わって、下からだと視認できなくなっている。いくら標の目が良くても、さすがに透視は出来ない。だから、さっき視えた瞬間と位置がズレているなら、標の個性も役には立たない。

 ……となれば、

「よし。少しだけ無茶をしよう」

 言うが早いか、標はカエデの樹のすぐ傍に聳(そび)える壁――校舎の外壁に向かって駆け出した。

 そして、壁面に施された装飾に足を掛けながら、垂直に走り抜ける。

 僅かに突出を生み出すその装飾の上を、身を屈めながら校舎の上階に向けて。

 足が側面から離れそうになる度に、窓枠を掴んで無理やり引き戻して行った。

 走る走る走る。音もなく校舎の側面を疾走する少年。彼を遠目に見上げていた二人の少女は、校舎の外壁を宙に浮かんで駆け上がっていくかのような光景に、呆然と立ち尽くす。

 あっという間に五階の水瀬の教室にまで辿りついた標は、片手で教室の窓枠にぶら下がり、カエデの樹を一望する。程なく目的の物を視界に収めると、空いた方の手を軽く振ってそのまま大事そうに握りしめた。

 もうここには用はない。と、標は掴んでいた窓枠をパッと手放し、先ほどとは真逆に今度は真下に落ち始めた。下で水瀬の悲鳴が上がったが、気にせず壁の装飾に足を引っかけて飛び跳ねるように降りていく。そして二階の高さまで来たところで、小大を空中で捕まえた時と同じように、壁を蹴り離して跳躍すると、そのまま小大と水瀬からやや離れた場所に着地した。

「……ッ、大丈夫ですか!? 怪我してないですか!?」

「……」

 心配そうに駆け寄ってきた二人の少女に、まるで何事もなかったかのような顔で標は言った。

「大丈夫だ。初めてやったが……、まぁ、何とかなった。日頃の努力のおかげってことだ。ほら、手を出してみろ」

 彼の言うとおりに小大が手を出す。

 微かな重さと柔らかい感触が上に乗る。

 渡されたのは、うさぎのぬいぐるみが付いたストラップだった。

「「ッ!」」

 覗きこんだ小大と水瀬は、同時に息を呑んだ。

 色々と衝撃的過ぎて、少年の人間離れした動きは一部始終二人の目に焼き付いていたが、彼が一体どのタイミングで、この友情の証を取れたのかが分からない。一帯がかなり暗いこともあり、猛スピードで動くシルエットを目で追っていたようなものだったが、それでも彼がカエデの樹に近づく素振りは全くなかったように見えた。

 一体いつの間に、と小大と水瀬は驚きの感情を隠せなかった。

 だが、とりあえず約束を守って手助けしてくれた少年に、まずはお礼を伝えねばと、二人はペコリと頭を下げた。

「あの、ありがとうございました。……でも、いつの間に取ったんですか? 樹には全然近寄ってないのに……」

 やはりどうしても気になり、水瀬は思わず聞かざるを得なかった。標の返答はごく短かった。

「俺の個性を使った」

「個性って、一体どんな?」

「そうだなぁ。簡単に言っちまえば、Aの場所にあるモノをBの場所に跳ばせる能力ってとこかな」

 自らの個性についてそう説明した標は、校舎の五階のあたりを見やる。

「ただ使うには、移動させたい物体の場所を俺は正確に知ってなきゃならない。さっきはそのうさぎの位置を見失ったから、個性を使うために、あそこまで上がってもう一度見る必要があったわけだ」

「ああ、それで……、って、つまりあなたの個性って空間移動なんですか!? 確かとっても希少なはずじゃあ…」

「へぇ、そうなんだ。そりゃあ知らなかったな」 

「いや、そうなんだ…って、他人事じゃないんですから……。ていうか、それなら個性で昇り降りすれば良かったのでは?」

 半ば呆れたように尋ねる水瀬に、標は首を振って否定した。

「個性を使わなくてもできることは、個性に頼らないって決めてるんだ。昇ったり降りたりなんてのは自力で出来ると思ったからやった。そういう理屈だ」

「言ってることは分からなくはないですけど……」

 彼の言っていることの趣旨は、つまるところ、ちょっと近くのコンビニに行くのに車を出すことも出来るけど、少しの運動なら歩くって決めているの、というダイエット中の主婦の発言みたいなものだが、ちょっと次元が違うと水瀬は思った。

 普通の人間は、垂直に壁を走ったり、五階から落ちて平気でいるなんてできないわけで、まして増強系の個性で身体能力にブーストをかけているわけでもないのに、自分には出来ると確信を抱いていることが異常だ。やはり薄々、というか明確に感じてはいたが、この少年は普通ではない。しかもとびっきり普通じゃない人間だ。

 なんかとんでもない人と友達になってしまったぞ、と水瀬は今更ながらにため息をつく。

 でも、

「……でも、珍しい個性もあって、おまけに凄まじい身体能力もあるなんて、あなたの才能がちょっぴり羨ましいです。私の個性は、色々と使い勝手が悪いですし……。なにをやっても鈍くさいって言われちゃいますし。ホントダメダメなんですよ、私って」

 そう言って、水瀬は自嘲した。

 水瀬澪は自分に自信がないことを悩んでいた。運動も、勉強も、個性も、どんな分野でも平凡な結果しか出なかった。しかも背も低く内向的で、友達の小大以外にはハッキリと意志を伝えることさえできない。

 こんな情けない人間だから、クラスメイトにイジメられるし、何一つ抵抗も反論もできないままなのだ。……まぁ、そのことは仕方ないんだと、もう諦めもついているが。

 だけど、だからこそ、小大やこの目の前の少年が羨ましいと思ってしまう。

 強い意志もない。

 強い個性もない。

 強い身体もない。

 弱い弱い自分。もっと、才能が欲しかったと、もっと強くなりたかったと、羨んでしまうちっぽけで情けない自分。

 水瀬澪は、自信を持てない自分が嫌いだった。

「……」

 俯いて何かを諦めたように笑う水瀬を見て、小大はそっと彼女の手を握った。そして、その灰色の瞳を覗き込んで顔を横に振った。

 ――そんなことはない。絶対にそんなことはない。

 と、そう伝えるように。……そこへ、

「言っておくが、才能なんて言葉で片づけないでくれ」

 淡々と語る標の声の中に、僅かな怒りの音色を小大は感じ取った。

 標結間は “才能”というものを信じていなかった。

 それは養母である標継子との戦闘訓練の中で、死に物狂いで鍛錬を積んで技術を身に付けたとしても、その悉くをへし折られ、頂点を見せつけられ続けたことに起因する。継子は“才能”なんてものは“強さ”を磨くうえではクソほどの役にも立たないと言っていた。本物の“強さ”を追い求める人間は、一つの道を極めるべく“努力”を惜しまないのだと。“才能”なんてものは誰かから張られた評価(レッテル)でしかないのだと。

 標は正しく言葉を理解した。“強さ”を求めるということは、果てのない世界と自分との戦いなのだと。そして戦うためには、“努力”をし続けなくてはならないのだと。

 標は個性を磨く。

 ――自身の《座標移動(ムーブポイント)》は扱いがとても難しいために。

 標は知性を磨く。

 ――個性に用いる座標演算はとても複雑だが、それを瞬時に行うために。

 標は身体能力を磨く。

 ――演算に支障をきたさぬように、徹底して攻撃を無効化するために。

 標は今も鍛錬を欠かしていない。

 だからこそ、今の標結間を形作るモノがこれまでに積み上げてきた“努力”であると自負しているだけに、それをすべて“才能”という言葉で無に帰されることは、屈辱的で気に入らないのだ。

 だが、これまでに会う人間の多くに、“才能”という言葉を吐きつけられて、流石にもう慣れていた。

 それに、この目の前に立つ二人の少女は、どことなく自分と似た要素を感じる。

 標継子に拾われて間もない頃の自分。寡黙で、内向的で、自信のなかった自分。

 だから、今日一度限りにおいて、特別に、友達サービスで、

 しょうがないが許してやるかと思い至り、標は励ますように水瀬に声をかけた。

「俺には自信がある。その自信ってのは、俺は努力をしているという自信だ。世の中で本当に凄いパフォーマンスを発揮する奴ってのは、自分の才能じゃなく、今までに積み重ねてきた自分の努力を信じるものだ」

 そう、“才能”は信じられないのだ。

 そんな本当にあるかもわからない、他人が勝手に言うものよりも、もっと信じられるものがある。

 それはやはり“努力”なのだ。

 自惚れも慢心もすべて超えた先にある、本物の自信。それを裏付けるのは、不断の努力だと標結間は信じている。

 だから、

「個性の強さで悩むくらいなら、個性ごときで悩まないくらい、もっと自信をつければいいんじゃないか? なんでもいい。何かを極められるように努力すれば、きっとそれが自信になって、お前を支えてくれるさ」

 言って、標は水瀬に笑いかけ、さらに言葉を繋げる。

「それに人の魅力ってのは個性だけじゃないさ。お前は友達想いのいい奴だ。あとそこの唯って奴もそうだな。俺は、いい奴こそ一番魅力的で、だから好きだって思ってる。……、いやすまん、可愛いのと綺麗なのも同じくらい好きだな……。まぁつまり、二人とも素敵なんだってことを俺は言いたいわけだ」

 と、なんだかお説教をされたような、励まされたような、口説かれたようなことを言われ、どんな顔をしたらいいか水瀬澪は分からなくなって、

「……、」

 ほんのわずかに頬を朱に染めて、彼女は目を伏せた。 

 頭は整理できていない。しかし、いい奴だと、そういう奴が好きなんだと断言してもらったことで、少しだけ自分の心に自信が芽生えたような気がしていた。

 そして、その様子を傍らで窺っていた小大は、ホッと安堵の息を漏らしていた。一瞬、少年の空気が殺気立ったものに変質した際には、事を構えることも考えたが、どうやら杞憂で済んだようだった。それに、親友も心なしか表情が明るくなったようだ。少年の言葉に拠るところが大きいようだが、きっと良いことなのだろうと、そう思った。

「さあて、俺はそろそろ帰るよ」

 校舎の壁際に置かれていた学生鞄を手に取りながら標がそう告げると、水瀬は慌てて顔を彼の方に向けなおし、改まった様子で口を開いた。

「そ、そうですか。あのー、色々助けてくれてありがとうございました。あの、いつかお礼させてください」

「……」

 同意するように小大も頷く。

 しかし標は、「気にするな。俺たちは友達だからな。そういう気づかいは必要ない」と声高に言った後、「それにお礼っていうなら、さっき意図せず貰ってしまったからな」と、頬を掻いて気まずそうに苦笑いを浮かべた。

 実のところ、小大と水瀬の二人に手を貸そうと申し出たのは、あるモノを決してわざとではなかったとはいえ目撃してしまい、なんとなく気まずかったからということが最大の要因なのである。

 どうも二人は気が付いていないらしく、標の発言に対して、「お礼って何のことでしょう?」と首をかしげてしまっているが。……、まぁ水瀬は標ほど夜目は効かないから当然見えなかったのだろうし、小大は状況が状況だったことと張本人であることを踏まえると自覚がないのも無理はない。

 ふむ、と顎に手をやって、一応アドバイスはしておくべきかと標は思い至った。

「そうだな。次に落ちる時は、スカートは履かない方がいい」

 助言をしつつ、小大の肩に軽く手を乗せる。ついでに、見下ろした小大の姿から思い立ったことがあり、標はその場で制服の上着を脱ぎ始める。

「あと、これ使え。そのままの格好は色々不味いだろ」

 小大の手首を掴んで引くと、その腕に標は自らの制服を押しつける。

 彼女の格好がどうかしたんだろうか? と疑問を浮かべた水瀬は、小大の姿をまじまじと注視し、ハッと気が付いた。

「あ、そういえば、唯ってば制服ボロボロ……」

 そう。小大の制服は、水瀬の言葉通りまさしくボロボロだった。ブレザーの背中には引っ搔いたような傷が何本も奔っていて、スカートも何カ所か綻びが出来ている。おまけに、細かくささくれ立った枝の破片が、上下ともに生地に大量に食い込むように生えていて、まるでサボテンのようになっていた。こりゃあ酷い有様だ、と水瀬は口元を引き攣らせた。

 どうも樹の上から落下した際に、ズタズタにやられてしまったらしかった。流石にスカートは脱げないものの、上着は着ていかない方がましだろう。

 ――ああ、なるほど。だからあの人は制服を唯に押し付けてったのか。と水瀬はようやく得心が行った。

 そういえば、先ほどまでいたあの人影がどこかに消えてしまっている。どうやらいつの間にか彼は帰ってしまったようだ。

 隣を見ると、小大は勝手に手渡された彼の制服をどう扱ったらいいものか迷いあぐねているらしく、ひどく困惑した顔を浮かべている。

 彼女にはちょっぴり申し訳ないが、表情があまり動かなくて、物静かな性格の親友が、あの人影と会ってからのこの短い時間だけで、百面相のごとく表情を変えていたのを思い返してみると、なんだか面白くなってしまう。

 あの不思議な人影との出会いのおかげで、友達の新しい一面を見られたのかもな、と水瀬はとても楽しくて素敵な気持ちになっていた。

 

 それから暫く経って、

『次に落ちる時は、スカートは履かない方がいい』という彼の発言の意味をようやく察した小大と水瀬は、揃って頬を紅潮させ、

 特に小大は、

 ――次に会ったら絶対に殺そう。

 と固く決意したとか、しなかったとか。

 

「あ、そういえば……」

 結局押し付けられた少年の制服を羽織った小大と一緒に帰り路を歩きながら、水瀬はふと気が付いた。

 

 ――あの人の名前、聞いてなかったなぁ、と。

 

 




本作メインヒロイン 小大唯さんをようやく出せたことにホッとしております。
彼女は、原作のB組にいるモブキャラですが、「ん」しか言わない特徴とか、個性が汎用性高そうだったりと、意外に美味しいキャラクターなのではないかなーと思い、彼女をどうヒロインにしていくか、が本作のスタートラインにありました。
なので、ようやく出せてすごく嬉しいです。喋んないけど(笑)

次話の5で、原作キャラ二人目が出る予定です。
あと世界観を共有している作品名のタグを追加予定です。

5は更新が少し間隔空きます。再来週末にあげられればいいなぁ。
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