東方幽棲抄 ~ 今日も今日とて、ツンデ霊夢に殴られる 作:風鈴.
「ん……んん……」
俺は薄ぼんやりとした意識の中、自分の体の上に何かが乗っていることに気付いた。それに、妙に体全体が温かい。背中には、ふわふわと柔らかな感触のものが当たっている。
「……あれ、布団……?」
少し首を捻ったら、体の上に掛かっている掛け布団が見えた。どうやら、俺は布団の中で寝ていたようだ。ということは……今は朝だろうか。
寝ぼけた意識に、ふと霊夢の姿が浮かび上がった。続けて、優と魔理沙の姿も浮かび上がる。
「……そうだ、俺、確か……寺子屋に行こうとして……」
少しずつ意識が鮮明になると共に、稗田家から寺子屋に向かうまでの記憶が蘇って来た。
ああ、思い出した。俺、霊夢の件で、優をからかおうとしたんだ。でも、それが裏目に出てしまって、その状況を優に利用されたんだ。そして、霊夢に突っかかられて、なぜか霊夢と戦うような流れになって……。
自分が霊夢に何をしたのかについて思い至り、なんとも言えない苦々しい気分になった。
緊急事態で正常な判断能力を欠如していたとはいえ、その日に初めて出逢った少女に、歯の浮くような愛の告白を連発。さらには、体を寄せての口説き落とし。その果てに、霊夢から強烈なボディーブローを食らわされてしまったのだ。
そして、その後は……。その後の出来事は……思い出せない。
「……もしかして、俺……気絶していたのか……?」
最後に残っている記憶と自分が寝ていることを考え合わせるに、霊夢のボディーブローを食らって気絶してしまった……と考えるのが自然だ。
それでは、俺が今ここにいる場所は、幻想郷のどこかの家……ということだろう。首を捻って見渡す限りは、どこかの民家の一室に寝かされているという感じだ。博麗神社の平屋の可能性もあるか。
このまま寝ていても仕方ないので、ひとまず起き上がることにした。
体を起こすと、腹部に鈍痛を覚える。どれくらいの時間が経過しているのか分からないけれど、霊夢に殴られたボディーブローの威力は、相当のものだったらしい。悶絶どころか意識が飛ぶほどなのだから、無理もないだろう。改めて、霊夢が本当に人間なのか疑いたくなる。
「よっこいしょっと」
俺は体を起こして、そのまま立ち上がった。特に服装に変わったところはない。霊夢に殴られた場所から運ばれて、すぐに布団に寝かされたのだろう。そうだとすると……ここは稗田家の近くの民家か何かだろうか。
あれこれ考えていたところで、何も始まらない。とりあえず、隙間から明かりが差し込んでいる襖の方に向かう。
襖を横に滑らせると、すぐに縁側に出た。目の前には庭があり、その先には竹林らしき光景が広がっている。
縁側の続く先に視線を向けると、かなり先まで縁側が続いた後に、曲がり角が見えた。どうやら、それなりに立派な建物らしい。少なくとも、一般的な民家ではないことは確かだ。
周囲を見渡してみたが、どうも人の気配を感じない。廃墟に入り込んだような気分を覚える。人里の民家の1つであれば、何かしらの生活音が聞こえてきても不思議ではないのだけれど。
「おーい。誰かいないかー」
とりあえず、ここまで自分を運んできたであろう誰かに向けて、声を上げてみた。もしかしたら、近くに優や霊夢がいるかもしれない。
ほんの少しの間を置いてから、「はーい」という少女の声が聞こえてきた。返事についで、こちらに走り寄ってくるような足音が響いてくる。
少女の声には、聞き覚えがない。霊夢や魔理沙ではないようだ。
突然、背後から襖を開ける音が聞こえた。少女は、廊下から部屋にやってきたらしい。
「颯様、お目覚めになったんですね。あのー、お加減はいかがでしょうか……?」
少女はそう言うと、探るような調子で小首をかしげた。
俺は少女の問いに返事せず、まじまじと少女を見つめてしまった。
幼い声の印象の通り、少女は10歳程度の容姿であった。寸見したところでは人間のようであるがーー頭頂部には猫を思わせる耳が生えている。また、スカートの後方からは、左右に緩やかに動く二又の尻尾が見えている。
猫のコスプレ……だろうか。それにしては、あまりにも耳や尻尾の出来が生々しい。
「……ど、どうかされましたか?」
少女が狼狽気味に声を漏らした。
少女の様子を見て、俺は我に返った。
「あ、ああ……。ごめん。その、なんだ……気にしないでくれ。なんでもないんだ」
「……そうですか。ところで、お加減はいかがでしょうか? 腹部を怪我されていると紫様がおっしゃっていましたが、痛みの方は」
「痛み? ああ、それなら……たいしたことはないよ」
俺は自分の腹部をさすりつつ、少女が口にした言葉を拾い上げる。
「ところで、紫様……って言ったよね? もしかして、君は紫さんの……知り合い……いや、家族……。とりあえず、紫さんを知っているんだね」
「はい。紫様は、私の主人の主人に当たる方です」
主人の主人。ややこしい言い回しだが、少なくとも友人や家族の関係ではなさそうだ。
「そうなのか。……もしかして、俺をここに運んでくれたのも、紫さんなのかな」
「気を失っている颯様を紫様がお連れになられました。お布団までは、藍様……私の主人が運ばれました」
藍。どこかで聞いたことのある名前だ。たしかーー紫さんとスキマの中で会話した時に、藍という名前を耳にした気がする。
眼前の少女の主人が藍という人物で、藍の主人が紫さんという関係ということか。どことなく、母・姉・妹という系列を連想できる。
「……あ、申し遅れました! 私は橙と申します。お見知りおきを」
橙と名乗る少女は、慌てて軽く頭を下げた。
見た目からして10歳そこそこの少女に礼儀を尽くされるという経験は、なかなかに新鮮だ。
「橙……橙ちゃんか。分かった。紫さんから聞いているだろうけれど、俺の名前は颯って言うんだ。及川颯」
「はい、存じております。……あ、そうだ。颯様がお目覚めになられたら、紫様の元へ案内するように命じられております。よろしければ、ご足労を願えますか?」
「ああ、大丈夫だよ。紫さんも、この屋敷のどこかにいるのかな?」
「おそらく、書斎におられるかと。ご案内します。こちらです」
橙はそう言うと、部屋から廊下の方に出るように促してくる。
俺は橙の案内に素直に従い、彼女の後ろを付いて、廊下を歩いた。
「……」
俺は橙のお尻から生えている二又の尻尾に視線を移した。橙の歩く動作に合わせてフリフリと動く尻尾は、まさしく猫の尻尾だ。ふさふさの毛並みを見ていると、無性に触ってみたくなってくる。
橙の尻尾に手が伸びそうになるが、ぐっと自制心を働かせて、黙々と橙の後ろを付いて回ることに専念する。
おそらく、この子は猫に関する何かしらの妖怪に違いない。実際の猫がそうであるように、尻尾に触られたら、かなり嫌がるだろう。ましてや、見た目は少女だ。完璧にセクハラ行為と言えよう。
少しして、とある襖の前で、橙は足を止めた。
「颯様、少々お待ちを。ーー紫様、書斎におられますか?」
橙は書斎と思わしき部屋の襖に向けて、声をかけた。
「橙ね。ありがとう。颯を通しなさい」
襖越しに、縁さんの声が聞こえてくる。どうやら、俺を同伴していることは、お見通しのようだ。
「かしこまりました。失礼します」
橙は襖を開けると、書斎に入るように促してきた。
「ありがとう、橙ちゃん」
俺は小声でお礼を言うと、書斎の中に足を踏み入れた。直後、後方から襖の閉まる音が聞こえる。
書斎と呼ばれた部屋は、さながら歴史の教科書に出てくるような書院造りだ。奥の壁には、達筆すぎて何が書かれているか分からない掛け軸が掲げられている。
窓辺に置かれた足の低い木机の前に、紫さんは座っていた。何かの本を読んでいる最中のようだった。
「ごきげんよう、颯。寝覚めの気分は、どうかしら?」
「いや、どうかしら……と聞かれましても。というか、ここは紫さんの住まいですか? 俺、なんでここに」
「まあまあ。ひとまず、そちらの卓に腰を落ち着かせなさい」
紫さんは、書斎の中央に設置されている大きな角テーブルに手を向けた。ご丁寧に、すでに座布団が敷かれている。どうやら、最初から話し込むことを想定していたようだ。
……なんだろう。この座布団に座ったら、ややこしい会話が巻き起こる気がする。座布団がイベント発生オブジェクトのように見える。
「おや、どうされましたか。座らないのですか?」
座布団に座るべきか逡巡していると、すでにテーブルの前に座り直した紫さんが見上げてくる。
「その……なんでしょう。名状しがたい感情が……危機感めいたものが……」
「あら、心外ですわ。いくらあなたが若く雄々しい魅力にあふれているとはいえ、籠絡する気は毛頭ございません。あなたと歓談を尽くしたいだけです。好意に基づく親近です。それとも……人間として、あなたを好きになってはいけないのでしょうか?」
紫さんはテーブルの上に両腕を乗せると、やや前傾して、甘えるような……そして試すような視線を投げかけてくる。
くっ……。そういう言い回しを使われてしまったら、断るに断れないじゃないか。
まあ、構わないさ。いずれにせよ、どうして俺がここにいるかについて、尋ねておきたいし。優や霊夢、魔理沙がどこにいるのかも知りたいし。
「……どうぞ、気の済むように、お好きなように。さっきのことは……気のせいです、気のせい」
「そうですか。それでは、あなたの厚意に私の好意を委ねましょう。素敵なエスコートを期待しても、よろしくて?」
「ははは……お手柔らかに。なにせ、女性の相手は不慣れなもので」
俺は苦笑いを浮かべると、座布団に腰を下ろしーーーー
「あら、謙遜なさらなくても。あなたの甘やかな語らいならば、きっと私は酔後の悦を味わえるでしょう。……そう、霊夢のように」
自分が罠にかかったことを直感した。