黄前久美子、最後の夏   作:ろっくLWK

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エピローグ

 外の景色には夜の帳が下りはじめ、もうすっかり薄暗くなっていた。暦の上では立秋を過ぎる頃であり、ということは夏の盛りも間もなく終わりを迎えようとしている。日の入りは次第に早まりつつあり、合奏を終えて下校前の居残り練習を始める時間帯ともなると、こうしてとっぷりと日が暮れてしまうのだった。

 コンクール府大会で無事関西大会への出場権を獲得した北宇治は、さらなる演奏力強化のため休み無く練習に明け暮れていた。今年の京都府代表は北宇治、立華、そして洛秋の三校。洛秋も関西大会常連の強豪校であり、油断ならない相手であることには間違いないのだが、恐らく今年の関西大会で最大の脅威となり得るのは立華だろう。立華にはマーチングコンテストに向けての練習もあるとは言え、北宇治とは比にならないほど膨大な時間を日々の練習に費やしていることは、以前に梓から聞いて知っている。府大会であれだけの演奏に仕上げてきた以上、関西大会までの三週間あまりでさらに磨きを掛けてくることは間違いない筈だ。

 自分達も浮かれずに、気を引き締めてかからねば。意を決した久美子は今日も居残り練習をするために、いつもの渡り廊下へと向かっていた。

「関西大会、かあ」

 誰にともなくひとりごちて、久美子はこれからのことを思い描く。関西大会が終わる頃には夏休みも明け、学校は文化祭だの中間テストだのといった行事が相次いでくる。全国大会はその後にあり、どうやったって久美子達三年生はそこで仮引退の時期を迎える。まだ仮とは言っても、そこを区切りに吹部は今の二年生を中心に据えた新体制で動き始めるわけであり、事実上の引退であることには違いない。そしてその数か月後にはこれまたどう足掻いても、久美子は自分の行くべき進路を決めなければならなくなるのだ。

 久美子に残された高校生としての時間は残り少ない。かと言ってこの前のように日程を詰め込み過ぎて、自分をだめにしてしまっては元も子もない。残された時間の内で無茶はせずに、するべきことに向けて、最大限の力を振り絞る。考えてみればまるで矛盾だらけなのだが、それが上手く出来なければ望みは一つも叶わぬままだ。

『時間は無限じゃない。取りこぼしたらもう、取り戻せないよ』

 いつぞやの麗奈の言葉がふと脳内に浮かぶ。当たり前の事のようでいて、それを意識しながら生きていくのはとても難しい。だからこそ、一瞬一瞬を大事に生きて行く必要があるのだろう。取りこぼしてしまった事を、後になってから後悔しないために。

 そんなことを考えつつ渡り廊下へ出る扉に手を掛けたところで、久美子は渡り廊下に先客がいることに気が付く。薄く引かれた夕暮れの闇に溶け込むようにして、小さな人影がそこに座り込んでいた。風に撫でられさわさわと揺れる短く切り揃えられた黒髪。誰なのかを判別できた訳では無いのだが、久美子には何となく分かっていた。扉を開け、人影の元へと近づき、その名を呼ぶ。

「芹沢さん?」

 びくりと肩を震わせ、それからゆっくりと向けられたその顔はやはり、雫のものだった。泣いていた、という訳でも無いのだろうが、彼女の表情はいつに無く物憂げで、周囲の暗さのせいもあってかとても儚げに見える。

「黄前先輩」

 恐らく雫から初めて名を呼ばれたせいで、久美子は少々どぎまぎしてしまう。

「ええと、こんな時間にこんな所でどうしたの?」

 なるべく自然に声を掛けながら、久美子は抱えていた椅子と譜面台をその場に下ろす。ユーフォニアムは流石に地べたには置きたくなかったので胸に抱いたままだ。校舎の窓から洩れる蛍光灯の明かりに照らされたベルがぎらりと突き刺すような光を放つ。立って雫を見下ろす自分と、すっかり恐縮したかのように蹲る雫。この構図を客観的に見たら、まるでいじめの現場か何かみたいだ。もう夜遅くで周りに生徒達の姿が無かったのは不幸中の幸いと言えたかも知れない。

「すみません。少し頭を冷やしてました」

 それはどういうことなのだろう。誰かと喧嘩でもしたのだろうか。まさか、幸恵と?

「違います」

 久美子の勘繰りに、雫はかぶりを振る。

「急にいろいろ、分からなくなってしまって」

 分からなくなった。雫の言葉を久美子も小声で復唱する。そう言えば、雫が何故北宇治に入ったのか、その理由を久美子は一度も聞いた事が無かった。幸恵と会話した中にもその事に関する言及は無かったと思う。これほど上手ければそれこそ立華なり洛秋なり、府内の強豪校からは引く手あまただったに違いない。それらを蹴って北宇治を進学先に選んだからには相応の理由があった筈だ。少なくとも家から近いとか、成績的に入れるのがここだったとか、そういう程度の低い話ではない何かが。

「芹沢さんって、どうして北宇治を選んだの?」

 その疑問は半ば無意識のうちに、久美子の口を突いて出てしまった。途端、雫は苦い物を口に含んだ時のような、とても気まずそうな顔をする。しまった。最近はうっかり口を滑らせないよう気をつけていたつもりだったのに、肝心なところでやらかしてしまった。

「えっと、もしかして滝先生の指導に憧れて?」

 久美子は頭の中からそれらしい理由を必死にほじくり返し、軌道修正を試みる。

「それも少しはあります」

 少しなのかよ。久美子の肩ががくりと下がる。他に何か理由らしい理由は無いか。いかにもというような、そんな理由は。

「本当は立華とか洛秋に行きたかったけど、学費とか大学進学を考えて北宇治を選んだ、とか?」

 その言葉にも雫は首を振る。そして少しだけ、悲しげな瞳でこちらを見つめた。まずい。いっこうに見当がつけられない自分に雫は呆れてしまっているのかも知れない。重苦しい沈黙が続いて、久美子はどんどん焦りの念に掻き立てられる。雫が北宇治を選んだ理由。だめだ、さっぱり見当たらない。

 そもそも久美子は雫の考えを類推できるほど、彼女の事を知っているわけでは無かった。というよりほとんど何も知らなかった。雫がどんなところに住んでいるのか。どんな家族構成なのか。いつからユーフォニアムを、音楽を始めたのか。雫がどんなことが好きで、休日はどんな風に過ごしていて、友達はどれくらい居て――そんな、直属の先輩なら知っていて当たり前であろう後輩の身の上のことを、久美子は何も知らない。雫について知っている事と言えば幸恵と同じ方角に帰る事、そして毎朝早起きしてランニングをしていること、この二つくらいだ。

 あたふたする久美子をよそに、雫はそっと目を伏せる。とりあえず何かを言わなければ。思い立った久美子が口を開きかけた時、それより先に雫が語り始めた。

「私、小学四年生の時に音楽を始めたんです」

 小四の時。それを聞いて久美子は意外に思う。自分の知っている音楽の上手な人達は麗奈然り、あすか然り、大抵はもっとずっと幼い頃から楽器を始めているケースが多かった。なのでてっきり雫も小さい頃から何らかの英才教育を受けているのでは、と今の今まで睨んでいたのだが。

「ひょっとして、学校の音楽クラブとかで?」

「はい」

 雫は小さく頷く。

「クラブには、同級生だった子に誘われて入りました。最初は他にユーフォをやる子がいなかったから、当時の先生にユーフォをやってみないか、って勧められたんです。それまで音楽をやったことは無かったんですけど興味はありましたし、とりあえず吹いてみようって思って、それでユーフォを始めました」

 思いの外、雫からはすらすらと言葉が出てくる。それを聞きながら、以前に幸恵と下校した折に彼女が話していたことを、久美子は記憶の底から引っ張り出していた。

『芹沢さんって、意外と普通に色々喋るんだね』

 別に幸恵の言を信じていなかった訳ではないのだが、こうして実際に雫と一対一で会話をしてみるとなるほど、口を開いた彼女はいたって普通の少女だった。無口で不愛想、みたいに思っていたのはひょっとして自分の先入観、ただの思い込みだったのかも知れない。

「他に家族で誰か、楽器をやってたとかだったの?」

「いいえ。私一人っ子でしたし、親はあまり音楽に興味が無かった人達なので」

 知られざる雫の音楽歴と家庭環境。それは驚くことに、姉妹の有無という点を除けば、久美子のそれとほとんど全く一致していた。

「けど私が音楽を始めてから、親は色々協力してくれました。練習用の教本やCDを買ってもらったり、朝練用にお弁当を作ってくれたり、練習で帰りが遅い時は学校に迎えにも来てくれて。応援してもらってる分、頑張らなくちゃと思って毎日練習しました。クラブが休みの日は楽器を家に持ち帰って、近場の公園で吹いたりして」

 うなじの辺りが妙にひりひりする。誰よりもあすかに似ている、と思っていた雫のその境遇は、むしろ自分にこそ近かった。以前に幸恵から少しだけ聞き出していたものの、あの程度の情報では想像すら出来なかったし、出来たとしてもそれを信じることも難しかっただろう。彼女もまた音楽的に恵まれた環境の中で腕を磨いてきた訳では無かったのか。そう思うと、雫に対して微かに親近感が湧き始めるのを感じる。

「私も小四の時、音楽クラブに入ってユーフォ始めたんだよ。最初はお姉ちゃんの影響でトロンボーンやりたかったんだけどね」

「それ、幸恵からも聞きました」

 雫の顔が少しだけ綻んだ、ような気がした。平素あんなに凛としている雫がこんな表情を見せることもあるなんて。そのあまりの柔らかさにあてられて、久美子の心臓がきゅっと締まる。

「毎日練習を頑張ったおかげで、中学に入る頃にはかなり上達もしていました。その頃は楽器を吹くのが本当に楽しくて、無我夢中で吹いてて、部内の上手な先輩の演奏を勝手に手本にしてたんです」

 そう語る雫の横顔を眺めながら、久美子は自分の中学時代を思い出す。自分もそうだった。二つ年上の先輩は、中学に上がりたてだった自分に優しくしてくれて、仲良くしてくれた。すごく良い先輩だと思っていた。だから練習だって人一倍頑張って取り組めたのだ。あの日、あの時までは。

「そして中学一年の時、コンクール前の部内オーディションで、ソロを吹くように指名されました」

 雫の目つきが僅かに霞む。久美子にも似たような経験がある。先輩を差し置いてレギュラーに選ばれた、中一の夏。その日から先輩の態度は変わった。

『あんたさえ居なかったら、コンクール吹けたのに!』

 先輩に放たれたその一言は、今でも鼓膜に焼き付いて離れない。あの日を境にして先輩との関係は断たれ、結局修復も出来ぬまま先輩は卒業してしまった。それは苦い記憶として今でも久美子の心の奥底に封印されている。そんな経験を、もしかして雫も味わってきたのだろうか。吹奏楽の超強豪である聖女出身の彼女だけに、その可能性は十分に考えられることではあった。

「その時、その先輩に言われたんです。『芹沢さん、いつも練習頑張ってたもんね。芹沢さんが努力して来た成果だって分かってるから、私も安心してソロを任せられる。私の分まで頑張ってね』って」

「え、」

 久美子は溜まった息を短く漏らす。そこの流れだけは自分と雫とで、大きく異なる展開だ。

「私、嬉しかったんです。こんなに上手い先輩が自分を見てくれてる。認めてくれてる。もっと上手くなればもっと沢山の人が自分を認めてくれる、と思って、それからますます練習に打ち込むようになりました」

 そう語る雫は、なんだか活き活きしていた。そうか。もしかしたら自分だって、あの時先輩が違う反応をしてくれていたら、もっと違う自分になれていたのか。目の前にいるこの子のように、上手くなることにもっと早い時期から前向きになれたかも知れなかったのか。別に今更あの先輩を恨むなんてことはしないけれど、久美子は少しだけ悔しかった。先輩の態度に負けて周囲の空気を窺うようになってしまった、過去の自分自身が。

「中学三年に上がった頃には、部内で他の子には負けないくらい上手になってました。けれど目の前に目標が無くなって少し物足りないような気持ちもありました。そんな時、たまたま参加した地区の定期発表会の演奏で、すごく理想的なユーフォの音に出会ったんです」

「去年あった演奏会だね。さっちゃんも参加してたって言ってた」

 はい、と頷きながら、雫は少し視線を彷徨わせる。

「その音は温かくて、どこまでも伸びていって、ものすごく上手で。ああ、私もこんな風に吹きたい、この人の演奏を超えるような演奏がしたいって、心から思いました」

「わかる、その気持ち」

 久美子の脳裏にあすかの姿が浮かぶ。久美子にとってのあすかは今でも別格の存在であり、彼女が奏でた音の一つ一つは今なお指標たり得るものだ。他に上手い人はひょっとして世界中にたくさんいるかも知れなくとも、その音色は、あすかのユーフォが紡ぎ出す響きは、きっとずっと久美子の憧れであり目標であり続けることだろう。

「それで、その音の持ち主って誰なの?」

 久美子はそれまでの会話の流れから、ごく自然にその質問をしたつもりだった。ところが訊かれた側の雫は何故かそこで言い淀んでしまった。言うべきか、言わざるべきかというように、口をぱくぱくと上下させるばかりで、その喉からは一向に音が出てこない。

「芹沢さん?」

 急に具合でも悪くしたかと心配になって、久美子はしゃがみ込み雫の顔を覗き見る。互いの前髪が触れ合うほどの距離。雫は一瞬ちらりと久美子の瞳を見て、それからばつが悪そうに、その顔を背けた。

「……先輩です」

「へ?」

「黄前先輩です。あの時、演奏会で聞いたユーフォソロの音、とっても綺麗でした」

 理想の音が、その人が、わたし? 雫が? あの雫が、私を? どういうこと? 久美子の頭脳はそこで、完璧に活動を停止してしまった。

「私、先輩の音に近づくために北宇治に行こう、って決めたんです。中学のうちは先輩の音を思い浮かべながら毎日必死に練習しました。OBの先輩や顧問の先生には他の学校を勧められましたけど、進路は北宇治一本に絞って、それで北宇治に入りました」

 雫は未だ顔をこちらに向けない。けれど、彼女の顔が恥ずかしさを堪えるようにくしゃりと潰れているのを、久美子の目ははっきり捉えてしまった。今の話を総合すれば、雫が北宇治を選んだ真の理由は自分のユーフォの音に憧れたからだという事になる。そう言われれば、と久美子は思い出した。あの日、あの発表会でソロを吹いたのはトランペットの麗奈だけではなかった。滝からの指名でユーフォのソロを吹いたのは、そうだ、自分だ。夏紀が気前良く後押しをしてくれて、本番でソロを吹いて、その音を雫が聴いて、自分に憧れて北宇治に入学した。順番としてはこうなる。そしたら何だ。雫はそれからずっと、今の今まで、他でもない私を追い掛けながらユーフォを吹いてきたということだったのか!

「芹沢さん……」

 何をどう言うべきか、言葉に迷う。何だろう、こっちも猛烈に恥ずかしい。というより羞恥心と罪悪感がない交ぜになったような、そんなとても複雑な心境だった。無邪気にあとを追って来る後輩を、自分は一方的に倒すべき敵と見做して扱ってきたというのか。だが、いやだからこそ、これまで久美子は雫にこんな話を聞くことも無かったし、彼女の事をほとんど何も知らないままだったのだ。無意識であれ敵と考えていた雫との間には、自分でも知らぬ間に壁を作っていたのだから。

『ずっと憧れてました! 私を弟子にして下さい、師匠!』

 入学式の日、幸恵が麗奈に言い放ったあの言葉が突然ぶわりと全身に降りかかってくる。ごめん麗奈。幸恵に絡まれる麗奈を内心面白がっていたあの時の自分を、胸ぐら引っ掴んでばんばん叩いてやりたい。お前に麗奈を笑う資格なんか無いぞ、お前もそのうち同じ目に遭うことになるんだぞ、って言ってやりたい。

 それに、幸恵にも後で謝らなければいけなさそうだ。雫がこんなことを考えていたなんて初めから知っていたなら、きっと雫が敵とかどうとか、そんなやり取りで幸恵との関係をぎくしゃくさせる必要も無かったに違いない。やっぱり私、まだまだだな。そう思うと同時に、あれほど追い詰められ苦しめられた筈の『芹沢雫』という存在に今、久美子は堪えがたいほどの愛くるしさすら感じ始めてしまっていた。

「上手くなれば人は自分を認めてくれる。だからオーディションで勝てれば、きっと黄前先輩にも認めてもらえる。そう思って来ました。けどソロオーディションで先輩に勝てなくて、これじゃ先輩に認めてもらえない。その時初めて、今まで自分がやって来た事は全部間違ってたのかも知れない、って思ったんです」

 雫の声色がそこでまた暗く沈む。自分を認めてくれる。その一言にハッ、と久美子が思い返したのはサンフェス前の練習の景色だった。雫が早朝ランニングをしているという話を本人から聞かされて、それに自分が何かを言った時、雫の様子がいつもと何か違ったような気がしていた。あの時自分は、何と言ったんだっけか。

『芹沢さん頑張ってるんだね』

 いや違う。確か……。

『芹沢さん、すごいね』

 こうだ。その時雫から感じ取ったひとかけらの違和感。その正体が何だったのか、今となってはもはや明らかだ。あれは、あの時の雫は、照れていた。憧れの人に面と向かって己の努力を褒められて、自分をひとつ認めてもらえたと感じた雫は、内心嬉しがっていたのだ。眉一つ動かさぬ彼女の鉄仮面ぶりにすっかり騙されていた。あのみぞれの表情変化ですら微細に読み取れると自負していた自分なら、冷静によくよく観察していれば、雫のそんな感情の機微にだって気付けなかった筈は無いのに。

 痛恨の極みだった。後輩を勝手に敵と認定して、雫本人が何を考えているのかなんて、今までこれっぽっちも考えてきやしなかった。そして今、その事で雫は深く傷付いている。落ち込んでいる。それは雫の一方的な思い込みに過ぎない事なのかも知れない。例え演奏など上手くなくたって、こんなに自分の事を慕ってくれる後輩だと初めから解っていたなら、自分は雫の事を認めてもっと可愛がっていただろう。しかし恐らく、それだけでは雫は満足しないのだ。この子にだって自分と同じように『誰にも負けたくない、誰より上手くなりたい』という願望がある。きっと雫はそれを認めて欲しかった。音楽が好きで、ユーフォが好きで、誰よりも上手くなりたいと願っていて、実際に上手くなってゆく芹沢雫という存在を、憧れの人である黄前久美子に認めて欲しかったのだ。

 けれどそれを示すチャンスだったソロオーディションでの対決に敗れてしまったが為に、雫は認めてもらう為の機会を失ったと感じてしまっている。ならば今、自分はどうするべきなのだろうか。何を言えば雫は納得するのか。どうすればいい?

 久美子はしばらく逡巡していた。もう個人練のことや関西大会のことなど、すっかり頭から抜け去ってしまっていた。今はとにかく、目の前に居るこのひたすら不器用で、けれど可愛くて可愛くて仕方のない後輩の事をどうしてあげるべきか、考えなくてはならない。

 ひとしきり悩んだ後、「よし」と決意して久美子は立ち上がる。

「芹沢さん……雫ちゃんに、私から一曲贈るよ」

 え、と雫が顔を上げた。突然の久美子の行動に、雫は訳が分からないといった面持ちだ。

「雫ちゃんならすぐ吹けるようになると思う。だから、良く聴いててね」

 そう前置きして久美子はユーフォを構え、一つ息を吸い込んだ。そして、あの曲を奏で始める。あすかからこの曲を託された折『今度は黄前ちゃんが後輩に聴かせてあげて』と言われていた。その機会はなかなか訪れないままで、ひょっとしたら自分が卒業すると共に北宇治から失われてしまうかも知れない、と内心腹を括ってもいた。けれどこうしてこの曲を託すべき時と相手が、ついに訪れた。あすかとの約束を一つ果たせたように思えて、安心したような、何か寂しいような。そんな万感の想いも込めて、久美子は一つ一つ音を鳴らしていく。

 演奏が終わった時、気付けば雫は立ち上がっていた。その表情から憂いはすっかり取り払われ、蕩けたような顔でこちらを見つめている。

「どうだった?」

 マウスピースから口を離し、久美子は雫に尋ねる。

「すごく、すごく綺麗な曲でした。温かくて、優しくて、切なくて。先輩の気持ちが全部、音に混じって響いてるみたいで」

「でしょ」

 無垢な反応を見せる雫の姿に、久美子の顔もひとりでににやりと会心の笑みを形作る。

「私、この曲は知らなかったです」

 知らなくても無理はない。だって世に出回っているものではないから。でも、と久美子は前置きをして、

「これは私にとって、とっても大事な曲。名前はね――」

 その名を告げると、雫は驚いたように目を見開いた。自分の演奏とその曲名から、何を伝えたかったのかを雫に感じ取って欲しい。伝わって欲しい。久美子はそう願った。

「作曲した人の事は色々あって言えないんだけどね。私が憧れてる先輩から譲り受けたんだ。今度は雫ちゃんがこの曲を、誰かに吹いてあげてね」

 もう一回聴く? と尋ねると、雫は「お願いします」と返事をした。久美子は再びユーフォを構え、もう一度、今度は少しゆっくりと、その曲を吹き上げる。

 あすかが奏でていたその曲の音色は本当に美しくて、切なくて、温かくて、この世界に存在する全ての感情を音に替えて演奏しているような、そんな豊かな音色だった。今の自分はその音色に少しでも近づけているだろうか。それは分からない。けれど少なくとも、今この曲を吹いている自分は、雫に伝えたいものを伝えるために吹いている。言葉にしてしまえばとても安っぽい、でもとても大事なこの想いを、余すところなく伝えるために。

 空には既に満天の星空が散りばめられていた。校舎の明かりも一つずつ消えてゆき、ほとんど真っ暗な空間には雫の吐息とユーフォの音色だけが広がり場を包み込んでいく。久美子の胸の内は、今にも溢れんばかりの感情で爆発しそうだった。こんなにも可愛い後輩の事を、これから自分はもっと大事にしていかなければいけない。そして願わくば、雫にこの音と想いを、受け継いでいって欲しい。

 

『響け! ユーフォニアム』

 

 その願いを、全ての音に込めて。

 

 




 この物語はフィクションです。登場する人物、団体、その他名称などは、実在のものとは関係ありません。
 また、この作品は「宝島社」刊行の小説「響け! ユーフォニアム」およびこれを原作としたTVアニメの二次創作物であり、全ての権利及び許諾等は、原作者である武田綾乃先生、宝島社、響け!製作委員会に帰属します。
 

「響け! ユーフォニアム」に心からの愛と感謝を込めて。  
 二〇十七年 六月某日  わんこ(Rocklimit)
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