霧の街には気を付けろ。
ドアを閉めても足音は止まらない。
ただし、止まらないのは、女性限定だ。
西暦一八八八年、倫敦。その日もまた、小さな島は猛毒の霧に覆われる。
文明の発展により築かれた建物が出す煙は人の身を侵し、人の生活を
この世の地獄と叫ぶ女がいれば、この世の快楽浄土と嗤う男がいる。その傍らで子供は美味くもない食事を頬張り、親の姿を見て、あるいは生まれる事すら許されない。
より快適な暮らしの為に男は身を磨り減らし、食い繋げる為に女は身を捧げる。人の為に人らしさを捨てるその姿のなんと滑稽な事か。
ジャバ、ジャバ。ガスで濁った水溜まりを何とも思わずに歩く男が一人。
ベチャ、ベチャ。粘液で
「―――おや、これは」
「―――?」
二人は何でもない、ただの街中でこうして出会った。男は女の風貌を見て、参ったとでも言いたげに右手を後頭部に添える。
女は何も言わず、滑った身体で男を指差す。
「……僕が、どうかしたかい?」
男がそう問うと、女は小さな口を開きあどけない顔で問い返して来た。
「―――おかあさん?」
「……違うとも。僕は先生さ」
「せんせ?」
「そうだとも。僕は、先生」
「せんせって、なぁに?」
「大事な事を教える人さ。丁度キミのような子供にね」
「だいじなこと……」
そう言うと女はボロボロのコートに隠れた己の下腹部を指差して再び問うた。
「それって、せっくす?」
「それだけは断じて違うかな」
男はたどたどしく喋る女にできるだけ冷静かつきっぱりと違うと言い切った。男にそういう趣味はない。断じてないったらない。
かくして、銀色の髪を持つ幼い女と銀色の髪を持つ壮年の男は出会った。女は男を「せんせ」と呼び、男は女を「リスナー」と呼ぶというなんの変鉄もない、普通の生徒と教師の関係を二人は築いていた。
世間を知らぬ女は男に事ある毎に質問をして、男がそれに答える。ただそれだけの関係だった。
しかし、二人はその関係に心地良さを覚えていた。お互いに素性を語らず深入りもしない。言わばただの友人よりも気をおけず、それ以上の親密な関係では発散できない感情を吐露する関係。
それでいて女は学ぶ楽しさと学びを男に授かり、男は教える楽しさと教え子が純粋に己を慕う事の快楽に懐かしさを覚える。
そうして幾日かが過ぎたある日の事、女はまた当たり前のように男との待ち合わせ場所に向かう。
しかし、いつも男がいる時間になっても男は現れない。不思議に思った女は彼を探し歩き出す。
男はすぐに見つかった。女は「せんせ」と彼に声を掛けようとするが、男が誰かと話しているのが聞こえた。別にそうする理由は無かったが、女は反射的に身を隠す。
男と話しているのは彼とほぼ同じ年頃の白髪の壮年だった。男の話に壮年はうむ、そうか、と頷き眼鏡をクイクイと動かしている。
「はい、ジェームズ教授。シャーロックさんとイレーナちゃんはつい先日ヒマラヤの方に行きました。恐らく帰ってくるのには数年要してしまうでしょうね」
「そうか……ありがとう。私も少々彼等と話したい事があったのだが、それでは致し方ないか」
「ジェームズ教授があのお二人に? 先生も何か探し物でもあるのですか?」
「まあ、そんなところさ。私もそろそろ歳だからね……物忘れが激しくなってしまう時もあるのさ」
壮年の男はチラリ、と女を確かに見た。女は思わず身を隠すと、彼はニコリと笑う。
「……時に先生、其処にいる女の子はキミの知り合いかね?」
「え……? ああ、ごめん! もうこんな時間か!」
男が隠れている女に気付くと急いで彼女の下に向かう。
「ははは、やはり知り合いだったか。キミは昔からそうだねえ」
「だから、そういう事を言うから僕のおかしな話が立つんでしょう教授」
男がヘソを曲げて言うと、壮年はすまない、とニタニタ笑いながら答える。
「ま、そういう事にしといてあげよう……時にそこの」
「……う?」
「そう、キミだ……少し失礼、先生。キミには聞かせたくないお話をする」
「な、なんですかそれは……」
「だってキミ、そういうの好きだろう?」
「失敬な事を言わないでくれ、教授」
すまん、と再び悪びれるつもりのない謝罪をする壮年。彼は女に近寄って耳打ちをするように手と口をを彼女の耳元に寄せて何かを囁く。
男は少し苛立たし気にそれを見ていたが、大した時間を掛けずに耳を離れたのでふう、と溜め息を吐く。
「時間を掛けてすまなかったね先生、お嬢さん。それじゃあ私はこれでサヨナラするよ」
「え、あ、教授?」
引き留めようとする男の静止を聞かず、壮年は去って行った。
取り残された二人は暫くの間壮年が去って行った方向を見ていたが、少しすると会話が無いのを煩わしく思ったのか、女は先生の方をじっと見つめて、呟く。
「……せんせ、あの人だあれ?」
「あの人は……僕と同じような人。教授さ」
「きょーじゅ?」
「そう」
「でもせんせじゃない」
「先生と教授はちょっと違うからねえ。だから教授」
うん? と顔を傾げる女に男は難しそうな顔をしながら説明を続ける。
子供にもちゃんと理解のできる返答をして、なんとか女に教授と先生の違いを説明する。
難しいなあ、と思うもどかしさと楽しいなあ、と思う嬉しさが同居する。二人は結局、教えて貰う楽しさと教えられる嬉しさによって学べず、授けられない感覚を埋め合わせているに過ぎない。
この心地良さの為に、二人は一緒にいるようなものだった。
◆◇◆
「今日はお話をしてあげよう」
先生はそう言った。女はやはり首を傾げながらもコクリと頷き、男の話を聞き入る。
「そう、そうだね。今日のお話は……うん。キミにもあの子と一緒のお話をしてあげよう」
男は語る。ある少女のお話を。不思議な世界に招かれた少女のお話を。一緒とは言ったが、実際のところあの子に語った話とは少しだけ違う。女の子が旅をするお話ではなく、女の子が居場所を探す事を重点に置いた話だった。
少女にとっては不思議な話をされている感覚だった。先生はいつも曖昧な結論を出さずに、必ず答えを少女に理解できるまで説明を続ける。だから今回の詩的で曖昧、答えらしい答えの見えない話をされれば先生は頭を打ったのではないかと心配してしまう。
「せんせ、頭大丈夫?」
「ず、随分な言われようだな……僕はただお話をしているだけなのに……」
まあいいや、と言って先生は話を続ける。
場面は少し変わる。自分の居場所を探す中、偶然にもある一人の男性が見つけ、居場所を与えるというよくある展開だ。
「少女は男性に向かって言いました。『ありがとうおじ様。私にちゃんと色々な事を教えてくれたのはおじ様が初めてだわ』。男性はううん、と言いながら女の子に話します。『違うよ、キミが私に色々教えてくれたのさ』」
女はうとうととなる。彼女程度の年齢の子に話すには少しばかり難解な話だったのだ。それは男にも十分理解できている。
「―――そうして、少女は元の世界に戻って行きました。彼女は不思議な世界で出会った事を生かして、少女は幸せに一生を生きていきましたとさ」
「……せんせ、つまんない」
「つ、つまんないって……まあ、そうかな……」
「せんせ、もっと楽しいお話して?」
「……了解です生徒さん。どんなお話がいいのかな?」
「からだのお話!」
「そ、それは流石に僕の専門外なんだけどなあ……」
結局、先生が女にした授業はこれが最後だった。
◆◇◆
それから数日が経過した頃、とある事務所にて。
「……おや、止んでしまったのかい、
「……残念そうですね。ホームズ先生」
事務所には三人の男と一人の少女がたむろしている。パイプを咥えた男は新聞を読みながら実に退屈そうに言う。
「ああ、残念さワトソンくん。僕はこの事件に大変興味があってね。イレーナには申し訳なかったけど急ぎで戻って来たんだ」
「本当よシゲルソン。私の旅に付き合ってくれるんじゃなかったのかしら」
「ははは、申し訳ない。だがこの通り私にはこの事件に関与する権利など初めからなかったようだ」
ワトソンから手渡された紅茶を飲みながらイレーナと呼ばれた少女はヘソを曲げる。
「まあそう機嫌を悪くしないでくれイレーナちゃん。キミのそういう顔も素敵だが、やはり淑女には笑顔がお似合いだ」
「ご丁寧にどうも。でも貴方に言われるとどうにも嫌ね」
「そ、そんな……キミまでそんな事を言うのかい」
「そりゃあ言われるでしょう、先生」
「ワトソンくんまで……」
男はがっくりと肩を落とす。ホームズ、あるいはシゲルソンと呼ばれた彼はははは、と愛想のない声で笑いながら男の肩を叩いて激励する。
「まあ、そう気を落とさない事だ。私だってまだヤク中の風評が晴れていない」
「それは風評じゃなくて事実でしょう、シャーロックさん」
「はは、これは一本取られた!」
「先生、それは笑い話じゃないですよ」
いいじゃないか、と言いながらホームズは新聞をテーブルに置く。新聞の片隅にあった一人の青年が行方不明になった事件が打ち切られたという旨の記事をホームズは残念そうに見てから男の方に向き直る。
「さて、それじゃあキミの疑惑を晴らす為にも、ここはひとつお話をしてもらおうじゃないか」
「は? ちょっと先生、それはどういう理屈で」
「あら、それはいいじゃない。私もベストセラー作家さんのお話が聞いてみたくなったわ」
「い、イレーナちゃん」
「では僕もご一緒させていただきましょう」
「ワトソンくんまで……わかった、わかりました。話させていただきますよ」
その場にいた三人が全員彼の語りに期待を膨らませる。男はコホン、と言うとゆっくりと語り出す。
「それでは私がこの十日にも満たぬ僅かな日々の出来事を少々脚色させていただきまして……とある少女と男のお話をさせていただきましょう。
我が語りは唯一無二の少女に向けて、されどこの語りは無二の親友達に向けて」
男はそういうと、ホームズが先程まで読んでいた新聞の真ん中、切り裂きジャックの事件が収まったという一面をビリ、と破り笑う。
「語りの名は、
それは、人を殺す事しか知らぬ少女が人が人である事を知るという物語であった。