「ふぎゅう……やべえ、迷った……」
お手洗いから出たらもう帰りの道を忘れたっていう……
通路をバーンと似たような扉がローラの前に並んでいる。確か階段があっちにあって角を曲がってきたような……
順番を頭の中で整理する。
モラード先生が戻るまで部屋で待機していたのだが、お花摘みの我慢が限界を超えてメイドさんに連れられてトイレに入ったのはいいが帰り道を忘れる。
無駄に豪勢なお手洗いでゆっくりくつろぎ過ぎた。あまりに快適すぎて便座に座って寝そうになったのは初めてだよ。
適当に行けば帰れるものと思ったが全然反対でした。この家広いんだから案内図くらいつけておくべきだと思うの!
ちなみに現在わたしがいるのは念願のバランシェ邸だ。先週のモラード先生との約束通り、クローム・バランシェの見舞いに訪れていた。
マジモンの執事にメイドさん。貴族のおうちはカルチャーショックでした。
執事さんのおひげとかまんまイメージ通りの執事でございます、みたいな雰囲気で笑うのをこらえた。
名前はMr.チャーティ・ウッドさん。
普段はもっと人の出入りがあるらしいけど、バランシェ公の病気が重くなってきたから来客は少なくなってるみたい。
ベトルカのモラード先生宅も工房があるからかなりでかいんだけど、バランシェ公の住む場所は東京ドーム何個分だよってレベルの敷地の広さで、宇宙船を係留できる用地もあるのだから半端ではなかった。
ファティマ・マイトでありフェイツ国の公子(その立場は捨てているが)である彼は本物の王侯貴族なのだ。
この館も各国の要人が集まって会議を開いたりすることもあるみたい。フェイツ公国の外交館としての機能もあるみたいです。
普通に会えるとは期待してなかったし、モラード先生の深刻な様子からかなり病状は進行しているようだ。
だから見舞いが終わるまで待っていたのだが、おトイレのせいで今は見事な迷子の有り様。
どこが待合室ー?
「あそこ開いてる」
重厚な扉の一つが微かに開いている。もしかして戻ってきたのかしらん?
部屋を覗きこめば洒落た室内で窓際で白いカーテンが揺れているのが見えた。
うん、誰かいるっぽい……お邪魔しました……
「だあれ?」
「ひゃい?」
後ろから声をかけられて振り向くとそこに「彼女」がいたのだった。
◆
バランシェ邸の一角──薄い明かりだけの暗い部屋に二人の男がいる。背の高い男が窓を背にモラードの正面に立つ。
病気の症状の現れで極端に強い光は彼に害になるのだ。ひび割れたしわのある顔と深くこけた頬。彼が病にあることは誰にでも明らかであった。
彼が着る五本線の入ったマイト服は星団でもごく一握りの最高位であることを示すもので、今この場にいる二人こそ四大マイトと呼ばれるうちの二人だった。
モラードの正面に座り彼はカーテンの向こうを見つめる。
「情けないものだ。薬を飲まなければ自分自身のことを何一つできない体になってしまった。薬の調合さえやっとでね」
「薬そのものが強いからな。お前の体を蝕んでいくのを止めるのでやっとだ。それでも──」
「二年、いや、三年持てば良い方だろう。今はこうして動けるだけでありがたいさ」
バランシェの主治医であるモラード自身もすでに薬では解決できないことをよく知っていた。
そして目の前の友人が自身の病のことを自分でもよくわかっていることも。
「弟子を取ったと聞いたが」
バランシェがグラスの水に口をつける。
「お前から預かったロンド・ヘアラインの胚から作ったエトラムルの育成を任せている」
「何?」
バランシェの目に浮かんだのは興味の色だ。そしてモラードを見返す。
ロンド・ヘアラインはバランシェの作り上げたエトラムル・ファティマで今は手元を離れている。
バランシェは数多くのファティマを世に送り出したが、エトラムルも含まれている。世間ではそれほど知られてはいないが存在する。
その中でもロンド・ヘアラインは傑作の一つだ。
「フフン、驚いたようだな。こいつを見てみろ」
モラードが懐から一枚の手紙を取り出してバランシェに差し出す。バランシェはそれを受け取るが中身は開かない。
「見事に俺がたどり着いた理論を直撃してやがる。俺が考えたのと同じ結論を出してるんだよ。お前とも同じ。それがたかだか二〇才の娘っ子がだ」
「ほう」
文へ視線を落としたままバランシェは目を細める。
「一生懸命拙いくせに書いて寄越したんだ」
「それで弟子にしたということか」
「会ってみたくなったか?」
「いや、今はいい。俺はやらなければならないことがまだ残っているからな。一人前のマイトに育て上げたら連れて来い。もっとも、俺の寿命が持てばだが」
バランシェはモラードへ手紙を返す。読む必要はなかった。
彼は机に顔を向ける。もう一通の書きかけの手紙がそこにある。
「ひねくれ者め」
「弟子を自慢したかっただけだろう?」
「将来有望なんだが、あのユーバーの姪っ子らしいんだよな」
「ユーバーだと?」
バランシェは眉をしかめて問い返す。
前年に連邦のワトルマ公を公職から追放し、バストーニュの新しい支配者となった男のことは様々な噂が伝わってきている。
そのユーバー・バラダは商人上がりだという。中央に金をばらまいて大公に就任したという噂だ。
前任のワトルマはトランの政治改革派の一人だった。
この国の共和民主化に賛成する一派で、ミッション・ルース大統領を支持していたから改革中枢の一人だと目されていた。
それがあらぬ嫌疑をかけられ辞任させられている。その後釜にユーバーが座ったのだ。
トラン連邦共和国は開かれた政治を目指していた。それを牽引したのは民衆から支持を集めて大統領となったミッション・ルースだ。
ルースが大統領に就任してから改革派が勢いを持っていたのだが、大統領が突然の出奔で行方不明となり、この国の舵取りは宙を浮いている現状だ。
ワトルマが追放され、残された改革派は崩壊寸前といわれている。
一方で、勢いを取り戻したのは建国当時から支配階級にあったトランの貴族らである。
彼ら貴族がルースの改革案に反対したのは、その政策が既得権益や特権の縮小を意味するものだったからだ。
ミッション・ルースの出自も反目を集める要因だったといえる。
トランの母体となったレント王の子孫である彼は本来であれば貴族側に立つ人物だ。
彼が大統領として貴族体制の改革と、締め付けともいえる政策を始めたことから貴族の間から大きな反発が湧き上がった。
改革の首謀者たるルースが行方不明になっても民衆の間での人気は高いまま。貴族らからすれば目の上のたんこぶだ。
ユーバーが大公に就任する際に支持を受けたのは、それら保守派層の働きがあったからだと言われている。
貴族に金をばらまき支持を集める。そうでなければただの商人風情が大公に上り詰めるなどありえないことだ。
ユーバーの背後にいる者が貴族なのか、それともトランにまとまってもらっては困る誰かの陰謀なのかは誰にも計り知れないことだ。
一見穏やかに見えるトラン連邦の内情は一筋縄ではいかない爆弾問題を抱えている。
ユーバー・バラダの噂で気になるのは、ユーバーは女であれば見境がなく、ファティマとあれば何が何でもものにして従属させるというものだった。
「商人上がりの俗物の身内にマイトなど生まれるものか」
嫌悪感からバランシェが吐き捨てる。手元の水を鉢植えに捨ててグラスを乱暴に机に戻した。
「ああ、金で才能がある子どもを連れてきたってのが実情だろう。だが、ユーバーと違ってあの子は本物さ。星団法違反のお尋ね者だがね」
「いったい、何の嫌疑だ?」
「殺人だ。事故みたいなもんさ。とてもいい子だよ」
「どうやら厄介事を抱えるのが好きなようだな」
「目下、一番厄介なのはお前さんだよ」
モラードは腕組みして眉をしかめる。
「明日、最後の調整に入る。あの子たちも次に目覚めれば完成品だ。あの三人で俺の仕事も終わりだ。それまでもたせてくれ」
「わかってるさ……」
重苦しい空気を吐き出してモラードは溶けきったグラスの水を飲み干していた。
◆
その頃、ローラは迷い込んだ部屋で謎の少女達と邂逅していた──
「どちらさま?」
「お客様よ」
「はわわ……」
ショートボブの人(いやファティマだけど)に部屋の中に通されてみれば、そこに二人の女の子がいた。
いや、彼女たちもファティマだとすぐに分かった。でも、普通のファティマとは明らかに雰囲気が違う。
ごく自然な女性のような感じだ。それでいて圧倒するような存在感があった。
この時期にこの館に三人とくれば間違いようがないくらいご本人様たちだろうか?
「こんにちは、あなたのお名前は?」
最初に声をかけてきた子が名前を問いかける。
あれ、この人がラキシス?
「ローラ」
「私はアトロポス。で……」
「姉様、自己紹介は自分でするわ。私はラキシス」
藍色の髪の長い子が自分の名前を告げる。
ラキシスさんきたおー! でも劇中の栗色のカットヘアーっ子じゃないですね。
勘違い。ボブっぽいのがアトロポスさんでした。
てことは最後の子がクローソーかな? 三人の中でもはかなげな可憐さが印象的だ。
話すと印象はまるで違うけれど、こうして並んでいると姉妹なのだなとよくわかる。
「私はクローソー……」
「は、はじめまして……お部屋に戻れなくなって……」
「迷子なんだ? お父様に会いに来たの?」
アトロポスが問いかける。
わたし何しに来たんだっけ? とりあえず名前は名乗ったよね。
「モラード先生と一緒。わたし、先生の弟子なの」
とりあえず立場をアピール。
「かわいいお弟子さんね」
「ローラさん、こっちに一緒に座らない?」
「あい……」
ラキシスとクローソーに手招きされてふかふかのクッションに腰掛ける。
室内の空調は管理されていて心地が良い。
おそらく彼女たちは最終調整の前なのではないかと推測する。
通常のファティマ育成では一度ベッドに入ると何年も入りっぱなしだが、育成の段階を見たり、調整で表に出して様子を見ることが行われる。
その間は一切表に出さないのが常識で、タンクベッドから出た後のファティマの免疫力は赤子並まで落ちるので注意が必要だ。
この部屋の空調にも無菌ナノマシンが稼働していてファティマを守っているはずだ。
一見見えないところでジョーカーの最先端技術が使われている。
星団最高のマイト、バランシェ公の住まう場所なのだから当然だともいえる。
バランシェ・ファテマには以前も会ったことはある。ジゼルさんだ。彼女はまだ「普通」のファティマのような感じがした。
この違和感はダムゲート・コントロールを外しているから感じるわけでもない。
通常のファティマがダムゲートを外したところで雰囲気がガラリと変わるような変化を見せるわけでもない。
「いただきます……」
少女らに勧められるがままに紅茶をいただく。宝石が乗っかったようなクッキーも食べるのがもったいないくらい。
とてもおいひいれす……
ふんわりとする部屋の匂いと鼻孔をくすぐる素敵な香りに包まれて気分は夢心地だ。
やばい、この家は女の子として堕落してしまいそうな雰囲気にさせられるよ!
一応ドレスアップまでして粗相をしないように振舞っているのだが、この部屋ではヤワヤワのプシューとなってしまいそうである。
何という甘い誘惑だろうか。
というか、ユーバーのこと警告しないと……
アプローチどうしよう……
ああ、ここって居心地良すぎ……
うん……もうだめぇ……
暖かな部屋とあまりの居心地の良さにローラのまぶたは張り付き気味だ。
昨日、張り切ってしまい一晩寝不足だったのだ。
「ああ、寝てしまったみたい……」
クローソーの指先がソファで寝入ってしまったローラの頭に触れた。その柔らかい髪を梳きながら少女の顔を覗き込む。
「ふに……」
かすかに息を吐き出しゆっくりと体を揺らしながらローラは眠るのだ。
「さっきの話の続き……」
クローソーは顔を上げてラキシスとアトロポスの視線を受け止める。
三人の会話を中断させたのは可愛らしい小さな侵入者だった。その少女はクローソーの腕に抱かれ揺り籠の眠り姫だ。
「生まれてからずっと考えていました。私の……いいえ。私たちファティマのこの能力で……人々の欠点を補い、決して表立つことなく支え、協力して生きていけたら何と素敵でしょう……って。この子が大人になって、その子やまた孫の世代の頃にはみんな笑って過ごせる世界になったらいいのにと思うのです。私たちはその影でそっと寄り添いながら生きて行けていけたらいいのです」
その儚き願いを口にして、姉たちの前で恥ずかしくなってクローソーは顔を伏せる。
「クローソー、あなたは優しすぎるけれどそれでいいの。でも私はきっとお父様を許すことはないでしょう。超常の力を与えながら、ただの機械にしてくれなかった父様を恨みながら生きることでしょうね。感情のないファティマとして生きる方がどんなに楽だったか……」
「アトロポス姉様……」
クローソーとラキシスの悲しげな目がアトロポスへ向けられる。
肯定も否定もない沈黙が降りて部屋の重い扉が開かれるのだった。
◆
「んあ……」
あ、ヨダレばっちい。ここどこだっけ?
ローラが気がついたとき、あの部屋にいなかった。寝ていたのはベッドだ。グーグーお腹が容赦なく鳴っている。
「お腹減ったよ~」
体を起こしてお腹をさする。外はすっかり真っ暗だ。
あの子たち……運命の三女神はどこ行った?
「よお、目が覚めたか?」
夜のとばりが落ちた窓際にウィスキーの瓶がある。モラードが口元でグラスを傾けて濃い液体で喉を焼いている。
ここはモラード先生の部屋だった。見舞いと診断はとうに終わったようだ。
「よーく寝てたねえ」
モラードが無精ひげをポリポリかく。
「アトロポスは? ラキシスとクローソーも……」
彼女たちに会ったのは夢だったのか。夢見心地にクローソーの指の感触だけを覚えていた。
そう、あれは夢ではなかった。
「丁度いいときに会ったみたいだな。今はバランシェの工房でおネンネしているよ。次に会うときは成人しているだろうな」
「そっかぁ……」
うっかり寝て何も言えなかったということだ。何のためにここに来たんだか自分でもわからなすぎる。
何だか不思議な出会いだった気がする。夢の様な時間は短すぎて、ほんの一瞬のことに過ぎなかった。
記憶の中にある光景はふわふわとしながらはっきりと残っている。
「んじゃ、帰る前に厨房から美味そうなのかっぱらって帰るか」
「ふつーに貰えばいいのでは?」
「つまみ食いしたって平気さ。でかい冷蔵庫だから無問題さ」
「そーいうことじゃ……まあ、いいかぁ」
いつもながらの師匠(おっさん)節であるが夕食は普通に出席した。
なお、晩御飯はでっかいテーブルにこれでもかというほどの洗練された料理を出されたが、腹が減っていたので何でもペロリだ。
皿まで舐めまわすくらい食欲を満たしてバランシェ邸を後にする。
さよなら運命の三女神。きっとまたすぐに会うけれどね。
帰りはバランシェ邸から出した飛行可能なディグに乗った。帰りは直線で楽ちんというわけだ。
「さて、お前さんには一つ教えておきたいことがある」
「はい?」
乗り込んですぐにモラードが切り出す。
いきなり改まって何です?
「マイトなら必ず持つ能力が生体コントロールなのは知ってるよな。お前さんも無意識のうちに自覚してるだろう?」
「はあ……」
ファティマ・マイトは医療の世界においては最高峰の存在だ。生命を生み出す力に長け、医師として生まれ持っての才能を有している。
マイトやマイスターはダイバー(魔導士)から派生した存在であるが、マイトはより専門化した分野に進化することとなった。
生体コントロールは名前のとおり、生体エネルギーを感じ取ったり、操ったりする力ともいえる。
この能力は生命に直結した力でもあり、熟練すれば触れただけで相手の病気や悪いところを当てることもできるのだ。
ファティマ・マイトがいかに貴重な存在であるかを物語るには十分なほどの力だ。
「ローラちゃんの生体エネルギーは普通のマイトよりかなり強い。騎士なのもあるかもしれんが、それをコントロールしないことにはどうにもならん。薬で抑えることはできるが、自分でコントロールしたいだろ?」
「うん……」
それができなきゃ困る。力を出さないようにするのも薬なしではどうしようもない。
「つーわけで明日からビシビシ特訓するからな」
「はーい」
ベトルカへ戻ると、その次の日からローラへの猛特訓が始まるのであった。