贖罪/2017   作:246


オリジナル現代/文芸
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2017年度に執筆/大学の文芸部の企画で描いた作品。お題(キャラメル・みどり・梅雨)を作中に何らかの形で絡ませるのが条件。「みどり」に関しては少しズルをした印象。

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第1話

 雨に濡れたアスファルトの匂い。

 HR後の教室から廊下へと出た僕は、頼りにならない嗅覚でそれを感じ取る。

 他の教室から漏れ出る生徒の声を聴きながら、下駄箱へとつながる長い廊下を眺める。薄暗い空間を電灯のやけに白い光が誤魔化していた。

 この光景はどうも好きになれない。

 梅雨の時期だから仕方のないことだが、やはり雨というものは鬱陶しい。行きも帰りも傘を差しながら歩かねばならない。きれいな夕焼けの存在も消したまま、気味の悪い夜へとバトンを渡す雨雲も気に食わないし、第一湿った空気が嫌いだった。

 じめじめした靴を嫌々ながら履き、仕方なく雨の世界へと踏み出す。

 幾度とある水たまりの罠に気を付けつつ、いつも通りの帰路を辿ることにした。

 学校から僕の家までは道なりにして一キロほど。自転車ならすぐだろうが、敢えて徒歩で通学することを選択している。というのも、その二十分そこらの時間は案外楽しいからだった。

 考え事をするにも丁度いいし、何より日々変わりゆく通学中の景色が面白いのだ。変わらないようでいて、どこかは必ず違っている。コンクリートブロックの上で呑気に車道を眺めていたアマガエルはおそらく三分後には姿を消していただろうし、クリークの側壁に張り付いていたタニシは、おそらく増水で流されたはずだ。

 行きとは微妙に違う帰りを楽しむのが、徒歩通学をするメリットの一つだとすら思っている。自分でも変わっているのは百も承知だけど、今更普通の人ぶることもない。

 いつものようにところどころ立ち止まっては、行きかう車や雨に打たれる雑草、濁流の小川、雨で色濃くなったアスファルト道を振り返ったりしていた。

 そんな調子で歩道を歩いていた中途、ふと前方から歩いてくる人物に目を惹かれた。何故なら、彼女はうちの高校の制服を身にまとっていたから。

 青にラインの入った襟、赤いリボン、それに紺色のスカート。女子生徒の恰好である。左手で傘の柄を持ち、向かってくる雨風から身を守るようにして歩いてくる。

 しかし、一体どうして学校方面に戻るのだろう。忘れ物でもしたのだろうか? 

 ――まあいいか。別に不思議なことじゃない。彼女から目を背け、すれ違うためにお互い傘を少しだけ畳んだ、その時。

 雨音に隠されていたが、しかし確かに何かの落下音が聞こえた。

 僕はふと立ち止まって、足元へ目を落とす。手のひらサイズのキャラメル箱が雨に打たれている。透明の包装が水を弾き、瞬く間に雫の模様を描いていた。

「あの」僕は咄嗟に、もう五歩以上歩みを進めた彼女の背中へと、声を投げかける。

「これ、違います?」

 傘を差したまま、彼女はくるりと踵を返した。きょとんとした顔には吊気味の大きな目。その見開きようたるや、どれほどヘンテコな僕の立ち姿が映っていたのかなんて考えたくもなかった。

 彼女は急に詰め寄ってきて、差し出したキャラメル箱と僕の顔を二度三度交互に見比べた後、

「えぇっ⁉ うそっ⁉」

 素っ頓狂な声を上げて驚いた。

「ユイ、絶対ポケットに入れてたはず…ぬぁ! ないっ! じゃあ落としたのかっ⁉」

 なんとも過剰な反応に、僕は作り笑いを浮かべながら半ば押し付けるようにしてキャラメル箱を渡した。

「あの、これ」

「ありがとうっ! 気づかなかったら、ユイどうなっていたことやらだよ……雨の音がうるさくて気づかなかったなぁ」

 額に汗を滲ませて、彼女はキャラメル箱を受け取る。

「いやもう、なんてお礼したらいいのか……これ、ユイにとって命の次に大切なものなんだ! だから、落としたまま気づかなかったらって考えると……ほんとにありがと!」

 所詮キャラメル箱にどんな思い入れを抱いているというのだろうか。世の中には自分以上の変わり者もいるものだな、と僕は妙に感心していた。

「あ、ユイは大間ユイって名前! ユイでもユイちゃんでもユイにゃんでも好きに読んでくれるといいよ! んで、キミは?」

 矢継ぎ早に言葉が飛んでくるのもそうだが、どうも目の前のユイさんとやらは独特の思考回路を持っているらしかった。僕はしばし相手の言葉を吟味し、名前を訊ねられていると判断する。

「宇野、尚也です」

「じゃあキミはなーくんで決定ね! お礼と言ってはなんだけどご飯でも奢ろっか?」

「いや、大丈夫です……そんな、落とし物を拾ったぐらいだし」

「だーかーらあ! これはユイの命の次に大切なものなんだって! ご飯五十年分に値するところを、ユイは一回分で済まそうとしてるんだよ? スーパーウルトラセコい奴なんだから、ここは大人しく奢られとけ! って神様も言ってると思うなー」

「いや、本当にただ拾っただけなので」

「ユイはペットの命を助けられたも同然なんだよ⁉」

「……キャラメル好きなんですね」

「んー、まあそこそこ?」

 少しでも動けば弾幕の餌食になる孤立無援の一等兵の気分だった。

 一刻も早く解放されたかったので、

「それじゃあ、今度どこかで会ったら、その時に奢ってください」

「いーよー。ユイ、承った! ってことで」

 唐突に小指を突き出される。

「は?」

「だーかーら。契りだよ契り」

「ええと。指切り拳万……ですか?」

 ユイさんは眉を顰め、むむむと僕を見て唸る。

「それ以外にないじゃん!」

「こ、こんなことしなくても」

「恥ずかしいんだぁ? こういうタイプの女の子とあんまり関わりないんでしょー? バレバレだかんね!」

 女性との関わり自体薄いけど、敢えて真実を教えてやる義理もないので黙りこくっていると、

「ほら、早くってば」

 道端で高校生同士がする行為ではないだろう、と目で訴えるが、妙にキラキラした瞳でアイコンタクトをされるだけ。僕はしぶしぶ、ユイさんの小指に自身のそれを合わせた。

「ゆーびきーりげんまん、うーそついたらハリセンボン丸呑みしちゃうぞーっ! 指切った!」

 まるで幼稚園児だ。これほど恥ずかしいこともそうそうないだろう。しかしユイさんは目を伏せる僕とは対照的で、恥じらうどころか満足してにははと笑い始めた。

「いやー、ほんとのほんとに助かっちゃった……っと、もうそろそろ行かなきゃだったよ~。そんじゃ、また今度♪ 会わない間に浮気すんなよ☆」

 二度と会うか。

 ユイさんが背を向けるや否や、僕はわき目も降らず一目散に自宅へと駆けたのだった。

 

 

 花屋のレジカウンターで、祖母が好きだった赤色のカーネーションを受け取る。男一人で入店するのも気が引けたのだが、笑顔で見送ってくれた店主のおかげで、店を出る時には悪くない気分だった。

 お使いがてら墓参りを頼まれ、断る理由もないので霊園にほど近い花屋へと立ち寄ったのだ。三年前に亡くなった祖母がここのお得意だったらしく、葬儀の際もとてもお世話になった。そういう縁もあって、花を買う時はこの店と決めていた。

 好きな店の好きな花だから、祖母もきっと喜ぶに違いない。普段は例の存在なんて信じないけど、この時ばかりは笑顔の祖母がどこかから見守っているような気がした。

 休日の昼下がりということもあってか、霊園には割と人影が見られる。小さい子供がはしゃいでいるのを横目に、僕はバケツに水を汲み、柄杓と共に代々の墓の前へ運んだ。

 萎れた花を取り換え、水を撒き、墓石を磨く。

 一通りの墓掃除を終えてから、僕は静かに手を合わせた。

「あっ、なーくん! また会えたねっ‼」

 甘ったるい声音が耳朶を震わせる。綺麗に合わせていたはずの両手が思わず左右にずれる。

「なーくんもお墓参りなんだ! 偉いなー」

 ふわふわとしたカールの長髪を揺らすユイさんが、僕の真横でにかにかと笑っていた。

 まさか、とは思ったが。

「……何してるんですか」

「何? 何って、そりゃあ墓参りに決まってるよー」

「僕をつけてきたんですか?」

「違うって! たまたまだよ、たまたま。こっちだって、まさかなーくんがこの霊園に来るなんて思ってもみなかったって言うか!」

 高校ですれ違うぐらいなら辛うじてあるぐらいに考えていたのに、こんなところで彼女と遭遇するとは思いもしなかった。

偶然にしてはできすぎている気がする。僕は訝しげにユイさんの表情を窺う……が、彼女の天真爛漫な様子からは嘘をついている様子は見えない。

「大間家のお墓は?」一応訊ねてみると、

「んー、それ」

 ひょい、と顎をしゃくる先に「大間家」と彫られた墓石がある。

「そんなことしたら、先祖様に失礼ですよ」

「おぉ、これはメンゴメンゴ」

 悪びれもしないユイさんの口調より先に、僕は目に留まったとある物に言葉を奪われてしまっていた。

 積み上げられた、キャラメル箱の山。

 軽く五十、いや百箱はあるのではないだろうか。うず高く、地面から大人の腰ぐらいまで、見覚えのあるオレンジの箱が存在感を誇示していたのだ。

「……なんです、これ」

「何って、キャラメルだけど?」

「それは分かりますよ。訊きたいのは、どうしてこんなにってことです」

「どうしてもこうしてもないよ。お父さんがこのキャラメル大好きだったから。それだけ」

 当然だよと言いたげな口ぶりで、ユイさんは言った。

 父親を亡くしていると聞いて、僕はなんだか聞いてはいけないことを聞いてしまった気がした。次の言葉を逡巡した挙げ句、僕はあくまで自然を装って、こう返す。

「大好きだから……こんなにたくさん?」

「大好きなものは、沢山あった方が嬉しいっしょ?」

 そういうものなのだろうか。僕にはあまりよく理解できない。

 うず高く積みあがったキャラメル箱の山をぼんやりと見つめていると、沈黙を嫌いそうなユイさんは思い出したとばかりに合点し、

「あ、そうだったね。なんか奢るって約束!」

 指先をピッと僕の顔面に向けた。

「忘れたとは言わせないから! 今日は絶対奢るから! ねぇ何がいい? サーティーワン? フラペチ? トンカツマックブーグー?」

「お好きにどうぞ」

「連れないなぁ。せめて神戸牛! ぐらいのボケをかませられるようにならないと」

 クスリともこないけど、ユイさんならけらけらと笑ってくれるのかもしれない。敢えてボケる理由もないが。

「んじゃ、近場のコーヒーショップでも行こっか? 知り合いがやってるんだけどね、そこのカフェオレがチョーおいしいの! あれは飲んでみること必至だよっ!」

「おいしい店なんですね」

「店主いかついけどねー。腕利きではあるね」

「そこって、近いんですか?」

「うん、歩いて数分ってとこ。駄弁りながら行けばすぐだよ」

 どうやら本当に奢ってくれる気満々のようだった。僕はユイさんの忠犬のように、ちょこちょことその背後について行った。

 霊園を出ると、緩やかな坂道が続いていた。そこを下ったところに、くだんの店があるらしい。

「そいえばさー、なーくんって何年?」

「二年ですよ」

「そか。ユイはもう三年生だよー、これから大変だなぁ」

 梅雨が明ければ、すぐに夏休みが始まる。僕はまだその身ではないけど、正直歓迎できるものではない。学校の雰囲気ががらりと変わり、ピリピリしてくるのもこの時期からだった。

「本当は予備校行きたいんだけど、ウチ貧乏でさ。母子家庭だから、あんまり親に負担掛けたくないんだ。だから学校でできる勉強をいちおー頑張ってる感じ」

 さっきまでとは少し違ったトーンで、ユイさんが語った。いきなり込み入ったことを話されるのは想定外で、僕は少し戸惑ってしまう。

「……ああ! ごめんね、気にしないでいいから! ユイ、こういうこと話す人あんまりいなくて、それで……ちょっと聞いてほしかったっていうか、あはは! 困るよね、いきなりこんなこと言われてさ」

 健気に笑うユイさんの顔色は、とても良いとは言えなかった。

「気にしてないので大丈夫です。……僕も、他人に話を聞いてもらいたくなること、ありますから」

「おー。意外に気が合うじゃん?」

「みんなそんなもんだと思いますよ」

 誰かに耳を傾けてもらいたい。そこからユイさんみたいに勇気を持って話せるか、はたまた僕みたいに一人で溜め込むか。そこがきっと、大きな違いなのだろう。

 間もなく、国道沿いに例の店が姿を現す。洋風の洒落た外観で、僕のようなタイプがぬけぬけと入る場所ではないことだけは一瞬で分かった。店前には立て看板にチョークでメニューが並ぶ。値段の相場は知らないが、いつも缶コーヒーで済ます僕にとってはそこそこ値が張るように思われた。

「ここ、ユイの行きつけだから! さささ、入って入って」

 まるで自分の家に帰ったかのような調子で、ユイさんは店の扉を開けた。来店を知らせる心地よい鈴の音が響く。導かれるまま、僕も次いで恐る恐るその空間へと足を踏み入れる。

 中は案外と落ち着いた空間だった。木目がくっきりと浮かんでいる椅子がカウンターに沿って並んでいる。ジャズ調のBGMがリズムを刻み、天井のプロペラが軽快に回っていた。

 香ばしいコーヒー豆の香りが瞬く間に鼻腔を包む。刹那のうちに異空間に誘われたような錯覚すら覚え、軽くめまいを起こした。

「うぃーすマスター。また来ちゃった」

「お、ユイか。久々じゃねえか、コノヤロウ」

 ダンディというよりゴツい声の主は、カウンターの向こうで蓄えた髭をさすりながら、見たこともない葉巻をふかしていた。

 年齢は五十代ぐらいだろうか。白髪交じりの店主は背丈が高く、タキシードの上からでも隆々とした筋骨が見て取れる。

 これは訳アリかもしれない。ヤバい方で。

「ボウズ。今お前が思っていることを当ててやろうか」

「ぼ……僕、ですかっ?」

 上ずった声が出てしまった。ユイさんはけらけらと笑って、「やめなよマスター!」と店主を窘める仕草を見せる。

「心配しなくても大丈夫だよ、今は一般人だから」

「今は……?」

 店主は「ユイはいつも一言多い」と愚痴を零してから、

「それくらいにしてくれや。で、今日は何にする?」

「もー、分かってるくせに! いつもの!」

「毎度。ボウズはどうするよ」

「えっと、じゃあ……一緒ので、お願いします」

 なるべく店主から距離を置きたい気分だったけど、「こういうのは間近で見るのがいいんだって」とユイさんにゴリ押された僕は、しぶしぶながらカウンター席へと腰を下ろさねばならなかった。

「えへへ。なんか新鮮だね」

 隣に座るユイさんは、さっきとは打って変わったように明るかった。溌剌とした目をしている。

「なんかさー。こう、デートみたいでさー」

「そうですね」

「もー、後輩だからってシオらしくすんなってばー。折角イイカンジの雰囲気なんだからさぁ」

「オラ、これ見よがしにラブラブしてんじゃねえぞ。ガキのくせに」

 トクトクと、容器に牛乳が注がれる。カラン、と氷が澄んだガラスの音を響かせた。

「マスター、奥さんに逃げられたんだっけ?」

「違う。お互いのことを考えた結果、別れただけだ」

「なんならユイとけっこんする~? もうジュウナナだからイケるよ。法的にもおーけーだよ」

「誰がマセガキと結婚するか」

「ませてないもーん」

 そんな他愛もない会話でも、お互いとても楽しそうに見えた。きっと二人とも、喋ることが好きなのだろう。

「そういや、ミドリのばあちゃん。元気にしてるか」

「あー、うん! 自分でもあと十年はくたばらないって言ってたし、大丈夫っしょ!」

「あそこ身寄りがねえからな。ま、ユイが見てくれてるなら心配ねえか」

「ですです。万事おけまる」

 目の前にそこそこ大きなグラスが置かれる。「これこれ!」ユイさんは興奮気味に、差し出されたカフェオレを手に取った。コーヒーと牛乳がどれほどの比率なのかは分からなかったが、比較的マイルドな色合いだ。ストローに口をつけ、一飲み。納得の美味さだ。

「ねね、なーくんは知らない? 『だがしのミドリ』」

 急に話を振られるのはやはり慣れない。僕は少し考えて、しかし記憶にはないその店名に首を傾げた。

「ここから十五分ぐらいにある駄菓子屋さん。ユイ、いつもそこでキャラメル買ってるんだー」

 例のキャラメルの仕入先らしい。

「俺が小さいころからやってた老舗だ。実家のすぐ近くだったからな、ガキの頃はあそこのばあちゃんに世話になった」

 店主は昔を思い返すように、コーヒーメーカーの一端を見つめながら呟くように言った。

「それなら、ミドリさんはだいぶんご高齢なのでは?」

「うん。今年で九十歳」

「きゅうじゅ……それで、現役ですか?」

「ああ。女は強いな」

「その通りだよマスター。オトコの比じゃないよ! ツラいことだって女の方が多いし、大変なんだからね! ……ちゅーことで、デートは通常なら男性側が奢るだけど、ね?」

 ウインク三つ。それが何を意味するのか、すぐ察しがついた。

「えええっ⁉」

「ウソウソ。今日はユイが奢る約束してたし、それはちゃんと守って進ぜよう」

「おうボウズ。お前ユイの彼氏だったのか」

「誤解ですよ⁉ 僕は半ば強制的に連れてこられたようなものでっ!」

「あははっ、そんな慌てることないじゃんか! あ、マスター、お金先に払っとくね」

 ユイさんが千円札を取り出してようやく、僕はほっと肩の力を緩めることができた。というのも、財布の中は既にカラ同然だったからだ。

 マスターは紙幣を受け取ってから、

「今日はもう行ったのか?」

「うん、済ませてきたよ」

「……そうか」

 何のことだかは分からなかったが、僕が知るべきものでもない。ただ黙って、そんな二人の様子を眺めるに留めた。

 互いのグラスが空になってしばらくしたところで、ユイさんが切り出す。

「んじゃ、そろそろ出よっか。長居してるとチャージ料取られそうだし」

「チャージ料ってのは席料のことだぞ。今お前が座ってるそこ、五千円な」

 この店主が言うと心なしか本気で言っているように聞こえる。

「それじゃマスター、今度はスペシャルサービス付きでよろしく!」

「座布団でも敷いといてやる。オプション料は五千円な」

「直にお尻乗せていいなら考える」

「やれるもんならやってみろ」

「やーん、マスターのえっち。へんたい。どすけべ」

 ここまで来るとショートコントのコンビにすら思えてくる。二人の年は随分離れているはずなのに、まるで同世代のような息の合いようだ。

「ボウズもまた来いよ」

 帰り際、店主の低い声が背中にぶつかった。

 僕は振り返り、容器を洗う店主の姿を見て頷く。その口元がほんの僅かに曲線を描いた。僕もまた笑顔で、そっと店の扉を閉める。

「結構面白い人だったっしょ?」

 ユイさんは満足げに、ドアノブから手を放した僕に問いかけた。

「付き合い、長いんですか?」

「へ?」

「ああいや、結構仲睦まじかったので」

 ユイさんは手を顔に当て、むーと考える仕草をした。

「通い始めてから三年以上にはなるかなー。仕事柄、ユイの話もなんだかんだ聞いてくれたしね。マスターのおかげで、今のユイがあるって言っても過言じゃないかも……なんちゃって、えへへ」

 照れくさそうに笑うユイさんを横目で見る。この人はきっと、表裏があまりないタイプなのだろう。分かりやすい、と言えばいいのだろうか。

「そいえば、なーくん家ってどっち方面?」

「駅方面です」

「あちゃあ、そしたら逆だね。ざんねん」

 本当に残念そうに肩を落としている。この人はどれくらいしゃべり続ければ気が済むというのか。

「あ、でもでも。こっから駅方面なら、錦町も通るっしょ? あそこに例の『だがしのミドリ』あるから、暇だったら寄ってみてね。珍しい駄菓子結構あるし、ミニゲーム機とかも置いてるんだ!」

 僕はこくりと頷いた。断る理由もないし、第一暇だ。十円ガムを買うくらいのお釣りはかろうじてあるし、散歩がてら少し回り道するのも悪くないだろう。

「じゃあちょっと待ってて! 地図書くから!」

「あ、スマホで調べるんで」

「な……むむ、これが現代っ子か……!」

「ユイさんだって充分に現代っ子ですよ。というかそもそも、紙もペンも持ってないじゃないですか」

「それな!」

 ユイさんのペースに合わせると例によっていくら時間があっても足りなさそうである。別れは僕から切り出すことにした。

「……それじゃ、また機会があれば」

「おう! 浮気すんなよ☆」

 笑顔で手を振るユイさんに、僕も自然な笑みで応える。

 適応というものは恐ろしい。僕はとっくに、ユイさん節に慣れてしまっていたらしかった。

 

 

 スマートフォンの地図アプリに従って右往左往し、やっとのことで目的の店にたどり着いたのは、ユイさんと別れてから三十分近く経ってからのことだった。コーヒーショップから最短の道のりでいけば確か十五分くらいだと聞いていたが、どうにも看板が目立たないうえに、一見すると古い民家にしか見えないものだから、二度も素通りしてしまったのだ。

 木造二階建ての一階部分がお店になっているらしく、隙間なく閉じられた店の入り口(開放していたらすぐに見つけられたことだろう)に『だがしのミドリ』と記された張り紙が留めてある。まともに営業する気があるのかはなはだ疑問だ。いや、もしかしたら定休日なのかもしれない。それを分かっていながら、ユイさんはいたずら心で僕に来店を促した、というのは充分あり得る話だった。

 どうにも入りにくい雰囲気だが、とりあえず開いているかどうかを確認しようと、僕は入り口に手を掛けた。

 すりガラスがはめ込まれたスライド式の木戸に期待していた手ごたえはなく、僕の手の動きに沿ってガラガラと音を立てて動く。

 開店している、らしい。

 暗くて湿ったような匂い。コンクリートむき出しの地べたは見ているだけで冷たそうだ。僕は恐る恐る中へとお邪魔した。

 肝心の商品だが、これは案外充実しているようだ。あまり広くはない空間だが、あらゆるところにお菓子やパッケージされた茶地なゲーム機、幼稚園生ぐらいの子が喜びそうなおもちゃが揃えてある。

 一通り見回って、僕は再度財布の中身を確認した。

 よし。僕は一人で頷いて、当たりつきのガムを二つ手に取った。

 カウンターらしき位置に人はいない。これ、本当に営業しているのだろうか。休みのつもりが鍵を開けたままだとか、もしくは店主になにか事態が起こったのかもしれなかった。

「すみません、どなたかいらっしゃいますかー!」

 生活空間に繋がっているであろう店奥に向かって、僕は大声で呼びかけた。間もなく、ゆっくりなペースで畳を踏みしめる音が近づいてくる。少し心が軽くなった気分だった。

 ぎしぎしと、立て付けの悪そうな音と共に土間の先の襖が開く。店主のミドリさんらしき女性が奥手から姿を現した。

「あ、どうも」

 ぺこりとお辞儀をすると、何故かおばあさんは顔を顰め、深いしわを作った。

「あんた、客かい」

「ええ、そうですけど」

「歳は」

「……十六です」

 何か気に食わないところがあるのだろうか。僕は納得がいかないまま、ガム二つを傷だらけのカウンターにそっと置いた。

「これを買いに来たのかい」

「……そうです」

「ポケットの中、見せてみな」

 僕は確信した。これは万引きかなにかと勘違いされているのだ。安い商品を買って店側に信頼させておいて、さらに高額な商品を持ち逃げしようという手口を疑われているのだろう。

 身の潔白を証明するため、すぐさま僕はポケットの中身を取り出した。あるのは財布と、花屋のレシートだけ。女性はそれらをまじまじと見つめ、そして僕の顔を眺める。

「何か問題でも?」

「……お前さん、どうしてここに来たんだい」

 流石に腹が立ってくる。そんなことは店側が気にする事項ではないはずだ。

「そんなもん、僕の勝手じゃ――」

「ユイの友達かい」

 おばあさんの目つきは相変わらず鋭いままだ。僕は言葉を一旦飲み込み、「そうですけど」と慎重に首を縦に振った。

「そうかい」

 おばあさんは吐き捨てるようにそう言うと、二十円を受け取ってしっしっと手首を動かした。

 ここで大人しく帰るのも癪だ。僕は背を向けることなく、

「あの、ミドリさんですか」

「……そうだよ」

 ミドリさんは鬱陶しげな口調で言った。

「分かったら、さっさと帰りな」

「客に向かって、そんな言い方はないんじゃないですか」

「うちはもう店じまいしてるんだよ」

 耄碌とはこのことを言うのだろう。確かにこれでは、お店の営業どころじゃなさそうだ。

「あの子のために。仕方なく開けてるんだよ」

「……あの子? ユイさんのことですか」

「ああ」

「それは、どうして」

「あんたにゃ関係ないことさ」

 何か深い訳があるのだろうか。僕は引くに引けない気持ちになる。

「そこをどうにか、教えていただきたいんですけど」

「…………」

 ミドリさんは黙って目をつむっていたが、くるりと振り返り店奥の方へと引き返し始める。

「ユイさんは、ここでキャラメルを買ってるんですよね」

 僕は横目で、一番目立つ場所にこれでもかというほど並べられている黄色いキャラメル箱を目視しながら、言った。

「……かわいそうな子だ」

 ユイさんのことだろうか。ぽつりと吐かれたミドリさんの言葉は、不思議と重みがあった。

「毎日、毎日。何かに憑りつかれてるんじゃないかね、あれは」

 憑りつかれている?

「毎日、買いに来てるんですか」

「――老いぼれをこれ以上疲れさせないでくれるかい」

 そう言い残して、ミドリさんはぴしゃりと襖を閉めた。

 まだまだ訊き足りないことばかりだったけど、僕は大人しく店を出て、買ったばかりのガムの包装を解く。

 銀紙に包まれた粉っぽいそれを口に含むと、頬に冷たい雫が降ってくる。いつの間にか青空は嫌な雲で覆われつつあるのだった。

 

 

 今日も雨だ。

 僕はしぶしぶ自前の傘を開き、いつものように学校を出た。

 ただ、今日は寄りたい場所があるのだ。ゆったり景色を眺めている暇もなさそうだった。

 平日の、しかも土砂降りの中でそこへは行きたいとも思わないけど、それでもこの目で確かめてみたい光景がある。

 自宅までの最短コースから外れ、僕は先日訪れた霊園へと向かう。

 入れ違いになるかもしれないから、僕はなるだけ急ぎ足を心がけた。高学年のクラスはHRが他学年と比べてやや遅いのは知っていたけど、念には念を入れた。

 霊園は案の定、人の姿がない。こんな天気で墓参りしようなんて、余程の事情がなければそんな思考に至るはずがない。

 十五分ほど、僕は物陰で様子を窺っていると、女子高生がたった一人でやって来るのが見えた。

 やがて彼女はとある墓石の前で立ち止まる。――先に紹介された、大間家の墓だった。

 僕は無意識に息を呑んだ。できれば建物から出たくもない雨の中、やはりユイさんは律儀に墓参りをしているらしかった。

 濁り切った水たまりを踏まないように留意しつつ、僕はユイさんの元へと向かう。

 互いの距離が十メートルくらいになったところで、ユイさんがふとこちらを見た。

「……え」

 ユイさんは遠目からも分かるぐらい、目を見開いていた。僕はゆっくりと頭を下げる。

「え、なんで? なーくん、今日もなんだ?」

 明らかにユイさんは動揺していた。僕は「ええ、まあ」と適当に返事をした。

「あの、ユイさん」

「ん?」

「毎日、来られてるんですか?」

 ユイさんの動きが止まった。ビニール傘からはみ出した肩が雨に濡れつつあった。

「あ、うん、まあ……ね。なんていうんだっけ、なんかね、ユイ墓参りしないと落ち着かないっていうかさ。アハハ、すっごいヘンジンでしょ?」

 怒っているような、はたまた恥ずかしがっているような、ただ口調だけは変えずに、ユイさんは複雑そうな表情で呟く。

「きっと強迫性障害の一種だと思いますよ。僕も似たような症状、ありますから」

 僕にとってのそれは、登下校時の風景の観察にあたる。

「とある行為に異常なまでに執着してしまうんです。その行為をやらなければ、得も言われぬ不安感が襲ってきて夜も眠れない。安息を得るにはただ一つ、自分が思っている行為を遂行するしかない」

 例えば僕の場合、とある道端の特定の溝の中を毎回覗かなければ気が済まないのだ。周りからどのように思われようとも、それをやらずにいれば気が狂いそうになるほどだ。

「確かにこれって、他人には理解しづらいでしょう。僕も、この悩みはあんまり話そうとも思えないので」

 例え相談したところで、鼻で笑われるのがオチだ。普通の人ならばこう思うだろう、「そんな非生産的で無意味な行動をとって何の意味があるのだ」と。無論、意味などある訳がない。そんなことは当事者だってよく分かっている。こんなのは馬鹿らしい、無駄だ、と。

 僕の場合は、そういった異常行動をある程度正当化することができる。「景色を楽しむ一環」として、僕は自身の無意味な行為を認めていた。そうすると心も軽くなる。事実、以前より症状は改善傾向にあった。

「へぇ、ユイってそんな病気だったのかー。博識だねぇ、なーくんは」

 あくまで自然な振舞いで、ユイさんは頷いた。

「でも、きっと治らないだろうなぁ」

「そんなことはありません。少しずつですが、僕も治ってきているので」

「なーくんは、そうかもね。でもユイは違うと思う」

 僕は移り気味だった視線を、再びユイさんの顔へと向けた。

 いつもの陽気な笑顔ではない。無理やり、笑顔を作っているような表情だった。

「ユイは、どうしても――死ぬまで、このキャラメルを持ってここに来なくちゃいけない。ユイがここに通わなくなるのは、ユイが死ぬときだよ」

「……ユイさん?」

「ははは、大丈夫大丈夫! 気は確かだからさ!」

 ユイさんは思い出したように顔を上げて、供えられたキャラメル箱の一つを手に取り、代わりに持っていた新品のそれと交換した。

「ユイは、お父さんのこと大好きだったんだ。でもお父さんは、ユイのせいで死んじゃった」

 悲哀の表情で、ユイさんは続ける。

「ユイが十歳のとき。夏祭りの帰り道だったかな――お父さんはお酒で酔っててふらふらだった。だからユイは、お父さんが千鳥になって車に轢かれちゃわないように、車道側を歩いてた。

 そしたらね、対向で自転車がやって来た。その自転車は灯をつけていなかったから、目の前でブレーキ音がなるまで気が付かなかった。

『危ない!』って声がして、ユイは反射的に車道側に避けたんだ。……ホントーにおバカさんだよね。

 車道側に倒れ込んだとき、背後から物凄く眩しい光がやって来るのに気付いた。あ。死んじゃうんだ、って、思った。

 そしたらね、想像できないくらいの力で、投げ飛ばされた。どれくらい自分の身体が飛んだのか分からないけど、次の瞬間には泥だらけ。歩道の外の田んぼに泥だらけで浸かってた。

 もう何が何だか分からなくて、周りからは悲鳴が聞こえてきて、どうなってんだろーって思いながらぼーっとしてた。そしてら大人の人が泣きながらやって来て、泥だらけのユイを抱きしめたんだ。

 もうさ、意味分かんないじゃん? でも、後からだんだん状況が掴めてきた。

 ユイは、お父さんに投げ飛ばされた。

 何トンもあるトラックに轢かれる寸前で。

 ユイの代わりに死んだのは、お父さんだった。

 ユイのせいで、お父さんはぐちゃぐちゃになって死んじゃった。

 死ぬはずだった人間が生きて。

 生きるはずだった人間が死んで。

 これはゲームとかスポーツと違う。一度の失敗は取り返せないし、お互い納得することもできないまま終わっちゃう。

 ユイは何度も、自分を正当化しようとしたよ。でもできなかったんだ。事故から一週間くらいはずっと部屋の隅で泣いてた。

 どうすればいいのか分からなくて途方に暮れてたら、誰かが耳元で囁いたの。『毎日、お父さんに会いに行きなさい』ってね。最初はもう頭がおかしくなっちゃったのかって思った。大体、死んだ人にどうやって会いに行けばいいんだ、ってね。

 でもピンときた。お墓参りに行けばいい。

 その日からね、ユイは気がおかしくなったみたいに、毎日お墓まで通った。台風の日も、お母さんがユイを引き留めても、こっそり家を抜け出してここに来た。何度か警察のお世話にもなったかな。病院にも連れていかれたけど、ユイは自分なりの考えを一生懸命話して、結局大事にはならなかった。

 またいつも通りの生活が始まって、お母さんもあんまり干渉してこなくなった。ユイも普通の女の子の学生生活を送り始めた。ただ一つ違うのは、毎日お墓に通ってるってことだけかな。

 二周忌に差し掛かった辺りで、ユイは満足できなくなってきた。ただお墓参りするだけじゃ足りないと思ったんだ。

 だから、お父さんが好きだったキャラメルを毎日お供えすることにしたの。お小遣いはほとんどキャラメル代で消えていった。何せ、毎日毎日、買うんだもんね。でも、嫌な気がしなかった。自分が辛い思いをすることで、罪滅ぼしになる気がしてたから。

 一年前ぐらいかな。例の駄菓子屋さんが閉店すると言い出した。ユイはいよいよどうしようかと思って、駄菓子を買える他の店を探し求めて一日中徘徊した。その時は結構な大騒ぎになって、捜索願いも出された。ユイ、結構離れた町まで行ってたみたい。

当時お母さんが通ってたあのコーヒーショップのマスターが、ミドリさんに土下座して、店を開けたままにしてくれ、って懇願してくれた。お母さんはもうやめて、お願いだから、ってユイに泣きじゃくりながらお願いした。勿論止める気は起こらなかった。

ミドリさんは老体に鞭打って、まだユイのためだけに店を開けてくれてる。だからユイは、今日もこうして、お父さんの元へ会いに来ることができる。

でもね、最近また思うんだ。こんなんじゃ、全然足りないんだって」

――生気を失ったユイさんの瞳。その薄気味悪い眼光は、僕の顔をおぼろげに見据えている。

「そう、足りないの。全っ然足りない! 足りない足りない足りないっ‼ もっと、もっと、もっとっ、苦しまなきゃ、辛さを味わわなきゃ……この程度なんかじゃ、お父さんに許してもらえないっ‼」

「何言ってるんですか⁉ これ以上何をやるって言うんです⁉」

「それが分からないのっ! だから苦しくて、胸が引き裂かれそうで、夜も眠れなくてっ、もう、どうにかなっちゃいそうでっ!」

 嗚咽と共に、ユイさんは絞り出すようにして言葉を吐き出す。

 見境なくあらゆるものに打ち付ける雨の音が、さらに大きくなっていったような気がした。

「……じゃあ、それでいいんじゃないんですか」

「それでいい? そんな訳ないじゃん。意味分かんないよ」

「何をすればいいか分からずに苦しむことほど、辛いことはないと思います。だから、ずっとそのままでいればいい」

 ユイさんははっと、顔を上げた。

「贖罪の方法に満足がいかず、より自分を苦痛に追い込もうとしているけど、どうすることもできずに悶え、呻きを上げそうになるぐらいに思い詰めること……これ以上の苦しみなんてないと思います。そりゃ、瞬間の苦しみなら絶命する時の方が苦しいかもしれません。けど、苦しみながら生きながらえるのは、死ぬことよりもはるかに残酷で惨憺です。だから、ユイさんが苦しみをもって罪滅ぼしになると考えているのなら――今のままでいいんじゃないですか」

 ユイさんは僕からしばらく目を離さないでいた。僕も、ユイさんから視線を動かさなかった。

 どれくらい経っただろう。

 いつの間にか、場に静寂が訪れていた。

濡れた土の匂いがする。騒がしかった外野も大人しくなって、ただ静かに僕たちを見守っているようだった。

 僕が傘を閉じると、ユイさんもそれに倣う。撥水性のある傘の生地が、大粒の水滴を地面に落とした。

「ねえ、なーくん」

 ユイさんは穏やかな口調で、訊ねるように言った。

「ユイ、どうやったら楽になれるかな」

 その顔は、思い詰めているというより、何か手がかりを探っている様子だった。僕はそれを見て、少し安心した。

「……お父さんの気持ちを考えてみるのが、いいと思います。きっと、今のユイさんを見ているお父さんは、晴れやかな気分ではないでしょうね。こんな姿のユイさんを見守るために、自らの命を投げ出してまで娘を守ったんじゃない、って」

「……そうなの、かな」

 ユイさんは墓石の方に向かって、問いかけるように首を僅かに傾けた。そうして何の脈絡もなく、「ふふふ」と口元を緩めて笑い始める。

「どうしたんですか?」

「いや、なんていうかさ……それもそうだなって思って。ユイ、ずっとバカみたいなことしてたんだなーって。別に頼んだ訳でもないのに、このバカ娘は毎日会いに来るし、お父さんにしてみればとんだ迷惑だろうなって考えたら、可笑しくなっちゃって」

「娘の顔を見て、迷惑とは思わないでしょうけどね。でも、そのせいでユイさんの本来の元気や笑顔が見れなくなるのだとしたら、当然本望ではないと思います」

 ユイさんはうん、と頷いて笑ってみせた。

「それじゃ、もう帰ろっか」

「はい」

「……と、その前に。ちょっと待ってて」

 数歩進んだところで、ユイさんが思い出したように立ち止まる。くるりと再びお墓に向き直り、今度はいつもの調子で、

「じゃあね、お父さん! 今度はお盆に来るね!」

 ユイさんには、そこに父の姿が見えていたのかもしれない。

 はにかみながら、ユイさんは歩き出す。僕もそれに続いた。

 不意に雲の隙間から日の目がのぞき、刹那にして世界が明るくなる。見るもの全てが生まれ変わったように、生き生きとして見えた。僕は思わず、光が差した大空を見上げる。

「今日は、お墓参りに来てよかったよ」

 ユイさんは満足げにこぼした。そうですね、と僕も迎合する。

「なーくん、今から暇?」

「え? ――まあ、暇ですけど」

「それじゃあカフェオレ飲みに行こうよ! そして、それから……ミドリさんとこにキャラメル買いに行くの! 奢ったげるから!」

「そ、それはありがたいですけど……キャラメル、また買うんですか?」

「あはは、確かに二度目になるね。ま、でもあそこ明日から閉店だし。最後に買っておきたいって思ってさ」

「閉店、って……そうなんですか⁉」

「そりゃそうだよ。だって今から、『明日からはもう来ません。迷惑かけてごめんなさい』って言いに行くんだから」

 ユイさんの隣で、僕はその笑顔を横目で眺めた。やっぱり、いきいきしている彼女の方がらしくて、好きだ。きっとユイさんの父親も、僕と同じ考えに違いなかった。

 雨に濡れたアスファルトの下り道は、太陽の光に照らされてところどころまぶしく輝いている。僕たちは何か不思議な感覚に包まれたまま、コーヒーショップに向け穏やかな斜面をゆっくりと下り始めた。

 

                                           了

 

 

 



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