このダンジョンに神殺しが居ることは間違っている。   作:みころ(鹿)

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 イチニチフツカ

・・・

 

 

 

――沈んでいる。

 

暗く深く、蒼い濃度の液体に抱かれた瞼をゆっくりと上げた。

 

それはまるで羊水のように居心地のいい空間だった、遠く上を仰げば水面が淡くキラキラと輝いているのが見えた。

 

やけに暖かい蒼が全身をゆったり重く撫でる、余りに白すぎる細泡が身体から溢れると輝きながらふわりふわり浮かんでいく。

 

 どこかで覚えたような安心感にも似た充足、微睡みのまま意識を預けてしまいそうな柔らかな腕の中。

 原初のスープに身を浸し、揺蕩う白痴を貪りながら、ゆっくりと沈んでいく蒼い海を見送っていた。

 

 …非常に緩慢に、だが確かに俺の身体(にくたい)は水底を夢見て沈み続ける。

 

 

『殺せ』

 

 

 蒼が囁く。

 

 満ちた液体の欠片達は漂い、語り掛ける。

 

 時に楽し気に、時に虚ろに、ただ総じてそれを当たり前と認識していた。

 

 …そうそれが当たり前なのだ。この空間(ぞうお)の中にいるものはみな生者であろうと死者であろうと、この海から生まれた子供達なのだから。

 

 

『殺せ 殺せ』

 

 

 俺も、そうだ。

 

 心地よい蒼に身を委ねながら、甲高い音を発するかつての家族達が周りでゆったり浮遊していくのを目で追う。

 

 遠巻きに俺の身体が沈んでいくのを楽しんでいるようで、いつも通りに当たり前を告げた。

 

 

『――神を 殺せ』

 

 

 それが俺の宿命(あお)、生まれ落ちた時から持った運命(しろ)

 

 沈みゆくのもまたそうだ。深い蒼の中は居心地が良く、水深(カウント)が増していく度に何処へとも解らない郷愁が増していく。

 血が否応なしに騒ぐのだ、『あれは』きっと今まで裂いてきた肉の中で一番気持ちいいぞ、と当然のような事実を俺の精神に極上の蜜のように見せつける。

 

 …しかし今はそれが煩わしいと思った。

 

 

――華のツインテールをした少女の、暖かい笑みが脳裏をよぎる。

 

 

 …俺はきっと彼女とあの少年が好きなのだろう、お人好しな彼らにあてられた俺は変わったのだろう。

 無償の愛を知った、共感を知った、居心地の良い暖かさを彼女から感じた。

 それは何となく一緒に居たくなるような、まるで炉の前で寝ころび微睡むかのような安心感、二度と抱かれるはずのない子供が求めていた慰め。

 

 

 俺は、彼女を、()()()()()()()()()()()()()()()()

 ふと良い匂いがしても、無意識に食指が動いたとしても切り裂きたいなんて絶対に思わない。

 いつしかあの空間が自分の空間になり、感化された俺は、少女を拾った俺は、もう二度と()()()()()なんて――

 

 

そんなことはしたくない、欲望以上の輝きがあそこにはあるはずだ。

 

 

例えそれが《親の言葉でも》、いやだ、いやだいやだ嫌だ――

 

 

「――ぐぁ……い…がぁ…!?」

 

 

途端に、息苦しくなる。

 

否定しようと開いた口から大きな泡がゴバリと溢れ出る、ゆっくりと揺れながら水面に向かっていった。

 

 重い水圧の中でもがく、抵抗すればするだけ身体に液体が粘り付き肺の中に蒼が溜まる。

 

 

 …意識に鈍い痛みが広がっていくのを感じながら、俺はケタケタと嘲笑う声を聞く。

 

 

『抗えば 苦しいぞ』

 

 

 知っている、だが彼らを傷つけるくらいなら。

 せめて俺一人が苦しみを耐えるだけであの居場所を守れるのなら例え息が出来なくたって俺は――!

 

 

『クク… ()()()()() か ?』

 

「…!」

 

 

様々な反応を示していた蒼霊達はみな一様に嘲りながら、ただ吐き捨てるようにそう嗤うと海中をふわりふわり散り散りに去っていく。

 

耳障りな声を激痛の端で聞きながら俺は水面を目指しもがく。

 その度崩れ割れるような冷たさと身を丸めたくなるような寂しさがどうしようもなく身を焼いた。

 

 水中を腕が掻く。

 

 足を蹴ると微かな浮力が身体を運んだ。

 

 響いていた言葉が消え去るのに合わせるように、俺は自らの身体を見下ろしていた。

 

 

 ――そこにあったのは青より遥かに蒼い毛並み。

 

 

 鋭い牙、尖った爪。

 

 白に覆いかぶさるよな鮮やかな蒼い毛並み、太い骨格で形成された胸と背中、そして太い尻尾。

 

 液体の中で揺れる身体、激しくもがく肉体、蒼い憎悪を称えた瞳を苦しそうに歪ませたその四本足の化け物は海面を目指し、抗い、水中を蹴る。

毛並みの揺らぐ獣の脚が絡みつく液体を掻くと、小さすぎる浮力が解らない程度身体を上に向かわせ、その度呼吸の出来ない肺と脳漿に激痛が走った。

 

 

 「あ…がぅ…っ…!」

 

 

 ()()()()()()()()

 

 カウントを重ねた先、肉体の変化を続けた俺の末路であり本性。

 神殺しの獣、原典(オリジナル)に近づいていくシステムはいつか俺の肉体を元に戻す。

 勝手に濃くなっていく血は神を殺すための力を与え、いつしか俺が人である必要性は薄れていく、瓦解した器は憎悪と溶け、いつしかその身体は『獣』そのものになる。

 

それは打てば打つだけ元の(カタチ)から離れ、鋭くなっていく銑鉄のようなものだった。

 

 

 ――こんな身体では、愛されない。

 

 

『狼』は涙を零す、初めから相容れる事など無かったことを知った。

 

 やけに綺麗に光る涙の粒が暗い視界で光りながら落ちていくのを見送るとだらりと脱力した。

 

 蒼に絡めとられ意識を完全に失った俺はゆっくりと瞼を閉じると、また遠い水底を夢見て沈み始めたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「ッはぁ…!?」

 

 

毛布を跳ねのけて飛び起きた俺はびっしりと冷や汗をかいた肩を荒く上下させる。

また悪夢を見た、ここのところ寝相が悪いどころか、まだ日の出ていないような時間に目を覚ましてしまうことが多かった。

 

――ぎゅるぎゅる丸が帰って来て、少女を拾ってから一週間ほどが経った。

 

(今のは…『催促』、か)

 

肉体が狼になる夢、俺の四肢は獣のそれに変わり、海のような場所を沈む。

亡霊から告げられる神を殺せという言葉を獣の口で否定しようとすると途端に苦しくなり、激痛と共に失神するいつもの夢。

 

悪夢の余韻から目を覚ました俺はゆっくりと息をつき安堵する、結局今見たものは血の中の蒼達が神の肉を求め、イラつき見せている催促の夢でしかない、迷惑極まりないがこうして起きてしまえば煩わしい声もなりを潜める。

少し肌寒いまだ暗い家の中を見渡し落ち着いた俺は握っていた毛布から手を離す、抱いた不安にも似たストレスを大きく吐き出すとベッド上に腰かけ直し、酷い悪夢を頭から追い出すように身体の感覚に意識を向けようとした。

 

 

「…」

 

 

だが考えてしまう、深層心理に見る夢の中に嘘が無いようにあの光景は真実だった。

恐らく俺はカウントを稼ぎすぎると人の身体を保てなくなる、この身体は神を求め神を拒む、やけに居心地の良いどこかに俺は今も沈みこんでいるのだろう。

 

…そして、そんなどうしようもない事実を()()()()()()()()も。

 

 

(神殺しの獣ね…)

 

 

力と共に徐々に身体が狼に変質していく呪い、血が濃くなるに連れ近づいていく原初の姿。

 

――()()()()()()の居るこの世界で、神殺しの血筋に産まれてしまった俺は今も生きている。

 

 

(一回振り返ってみるか…)

 

 

思えば余り深く考えたことが無かったが何より早起きしすぎてしまったし、というか神殺しとか自分の変化を考えるためにも一度纏める必要があるだろう。

 

隣に寝ている少女の寝息がスースーと聞こえてくるのを覚えながら、まずは自分の名前から思い出すことにした。

 

両橋(りょうはし) 夏目(なつめ)、両橋家の嫡男。

年齢26歳の男、結婚歴はなく妹と従兄弟が一人いる。

身長185cm、体重73kg、肩幅は広く、全身には最上質の筋肉が美しくついており、黒髪黒目の日本人。

何でもそつなくこなす器用さを持ち、戦闘面におけるここ一番の集中力と発想、直感は天才的、驚異的な身体能力をもつ肉体と子供の頃より教え込まれてきた武術により通常の人間社会ではほぼ最強といえた。

性格は社交的だが積極性は低い、基本年相応な振る舞いをするが時折少年心を見せる時がある。しかし同時に数少ない親しい存在に対してはなんやかんや世話を焼きな一面を見せることも多い。

好きとか嫌いといった食べ物は特に無いが、今食べたいものがあるとすればうなぎのかば焼きだろうか。

そして最近娘が出来た、子育ての経験など無いので最初は難儀すると思っていたが現在四日目の朝、相変わらず反応は無いが何とか上手くいっていた。

 

次に、両橋という家について。

数世代前に神を殺した一族だ、年代を追って説明すると1000の時に見たのが初代、それから襲ってくる神々から逃れ時に狩り返しながら生き延び遂に悲願を成就、強い母体と種をかけ合わせながら現代まで強靭な子孫を残してきた。

その人を惹きつける容姿と力、その在り方にいつしか『()()()()()』が付き、両橋を当主に掲げる『企業』となった。

 

具体的な事業を興し始めたのは神を滅ぼした数世代前より、今まで世界各国を転々とし世間への露出を避けてきた当時の両橋…いや両橋という名前はその頃よりか、時の当主は日本に根を下ろし、協力者と共に地盤を固め始めると、様々な商売に才能を発揮、爆発的に各方面のシェアを獲得し、日本経済を独占し、僅か一代で巨大企業となった両橋は9割がた日本という国を実質支配している。

独占禁止法なにそれおいしいの、巷では批判する輩もいるようだが支配から100年経った今ではもう両橋失くして日本は無く、崇めこそされ反逆しようにもされないのが現状だった。

 

次は、俺について。

そんな家に生まれた俺は物心つく前から将来を見込まれ武術を叩きこまれてきた、幼いころは現当主である父と欲深い理事会連中に利用されていた。

既に神の居ない世界、特に使命も無く自分の欲望の赴くままに時折家業を手伝いながら何となく生きてきた。

 

…故に神殺しについて今まで深く考えたことはなかった、というか考える必要がなかったというのが正しい。

こちらの世界に来てからは狼騎士だとか色々解ってきたことは多いが、これまでは自分の肉体自体を特別に意識したことは無かった、まだ人間の範疇だと思っていた。

 

神殺し(バケモノ)の血筋、俺はその成功例。肉体は人類の到達点、故に一番人間離れしているとも。

 

…そしてその反面、神殺しの血にかけ合わせた母体が弱く負けた場合、人と化け物の均衡が『崩れる』ことがある。

例えば妹と従兄弟、血は妹の身体に一切馴染まず…極限まで弱くなった、妹は18歳だというのに身長が120cmも無い、体重も30あるか、ないか。

成長が止まってしまったのだ、両橋の求める肉体という基準において、いや自然界においても妹は最弱の烙印を押された――『出来損ない』だった。

…まぁその分頭が極端に良いので家の中でむしろ良いポジショニングをとっていたのだが。

 

逆に従兄弟は血が濃すぎた、あいつは一日一回血清を打たなければならない身体だった。

妹と違って腕力などはあるが…如何せん血の異常が多すぎる、無口だが良い奴だ。

 

その点俺は成功例として肉体は完成され、神殺しの力も異常なく持っている。

狼騎士も発動したわけで、このまま順当にカウントを重ねていけばいつかは立派な神殺しの獣になれることだろう。

 

(いやいや)

 

いきなり人間やめますか?と聞かれて頷けるほどこの身体に愛着が無いわけじゃない、例えそれが本来の姿だったとしても。というかむしろそれが一番の異常なのではなかろうか。

それに流石に受け入れられないというか、鼻が良くなっているのがその兆候なのは解るが、全身が狼になってしまうとなると…少し恐ろしいし、実感がわかない。

 

 

(やっぱ考えても解んねぇよな…)

 

 

重要な情報(ピース)に限って手の中に無い。

知った情報をそぞろに纏めてはみたものの、そもそも『(理由)』と『花びら(目的)』が無いから何の華か解らないというか。

 

そもそも何故あの時『俺』はお母さん(カミサマ)を殺してしまったのか、神殺しの獣という俺達の存在理由がただの生存ためなのか。

前提である二つの情報に限って解らない、ただ()()()()()()()()というのは何となく推測できるし憎悪を持ってしまったのも見たが…何かが引っかかった。

 

自分自身の事が解らない恐怖、いつかカウントを重ねた海の底で真実が解る日が来るのだろうか。

 

 

――ただ神殺しであることに変わりはない。

 

 

考えたところで否応なしに俺の肉体は神を拒むし、神に拒まれる。

妹や従兄弟と違い血の異常は無いが、通常通りにいけばいつしか狼になってしまうだろう。そしていずれ「彼ら」と無条件に殺し合うような関係になるのは明白だ、化け物が世界に相容れることは無いのだから。

…どうすれば、いいのかも、解らない。

 

とはいえ無駄足、どうしようもない事だけが解った俺は思考を閉じた。

 

 

「ん…う」

 

 

少しため息交じりにゆっくりと腕と身体を伸ばす、しっかり戸締りはしているのだがやっぱり裸で寝ているため肌寒い…この身体まず風邪は引かないが寒いものは寒い。

肩口でブルリと震えた俺は腕をおろす、はっきりしつつある意識の中で隣に寝ている少女を見下ろすと、軽くその顔にかかってしまっていた吐息で揺れる髪を指先で払った。

可愛らしい寝顔をしている、白く柔らかな頬をゆっくりとつつくとぷにぷにとした感触に指が沈んだ。

…それに合わせ押した方の片耳がピクピクと動く、反応というにはあまりにそれは小さすぎるが愛おしい。

 

(可愛いな…)

 

拾ってからはや5日ほど、慣れないながら世話をしてきて少女に対してそれなりに愛着も湧いてきた。未だ何の反応も示してくれないし、甲斐性のない事に名前も付けてあげれていないが、次第に…自分でも不思議なことにこの小さな存在を大切だと感じるようになってきた。

父性という奴だろうか、自分にそんなものはないと思っていたが中々どうしてこの子の事を大事に思えるものだ。

 

少女の頬を撫でながら自然な笑みを浮かべる、穏やかな寝顔を見ているとそれだけで幸せで、柔らかな頬に触れた掌は心地いいほどに暖かかった。

 

 

「…」

 

「…って、あ、すまん」

 

 

少女の瞳がゆっくりと開かれる、起こすつもりは無かったのだが撫ですぎたらしい。

目覚めた少女は一切表情を変えず瞬きを繰り返すとまたその紅い目で天井をジッ…と見つめ始めた、微動だもしない。

 

(……まだ、か…)

 

少女は未だ喋らない、少しだけ心が痛む。

一度ゼロになった心がすぐに癒えるものではないと理解はしているが、俺の事を全く見てくれないとなるとやはりへこむ、やはりこれだけ世話を焼いておいて何の反応もないとなるとちょっとだけ悲しい。

 

 

「おはよう、今日は…ちょっと早いな、まだ寝ててもいいんだぞ?」

 

「…」

 

 

それでも声をかけ続ける、ゆっくりと髪を梳きながら微笑みかける…が少女は天井を見続けるだけで何の反応も示さない。

軽くむぅと肩を落とした俺は少女の身体を持ち上げると座らせる、カクリと首が下を向いたのを確認した後ベッドから立ち上がると全裸のまま背筋をぽきぽきと逸らしながら大きく息を吸い直した。

 

(まずは…)

 

少女の事はとりあえず置いておいて、服を着ながら俺は今日の予定を考え始める。

 

…やりたいのは数日前から行っているぎゅるぎゅる丸の解体作業。土間に置いた作業机の上に広げられた風呂敷の、穏やかな緑色の上に置いてあるぎゅるぎゅる丸はおおよそ8割方解体されており、箇所ごとに置かれた精緻なパーツ達は朝の暗がりの中で微かに鈍色の光点を端に作り出していた。

今日終わらせるのも良いだろう、時間がかかるのが難点だがどうせ今日はもう他に用事もない…いや早く終われば鉄を買いに行こう、結局数日前マーニファミリアの店に行ったは良いが何となく買えずじまいでいた。

 

それと早く少女の名前をつけてあげなくては、何だか少し方向性が解ってきたような気がするがまだ思いつけていなかった。

 

ならまずは少女をトイレに行かせ、朝ご飯を作って――

 

 

「…あっ」

 

 

――って、いや、行かなければならない場所があった。

 

明日も来てください!と言ってきた昨日の少年の楽し気な笑顔を思い出す、ここ数日武術を教えている二人はそれはもう熱心で…熱心すぎる、新しい技術を教える度彼らはそれをスポンジのように吸収し、せがむようにされて数時間も朝修行に付き合わされることになる。

 

…まぁ別に教えるのは良いのだ。

だが人目を避けるために寒い外壁上、しかも数時間ともなると正直面倒くさいし疲れる…行きたくない、本音を言うと行きたくない。

だが純粋な眼…あんな真摯にお願いされては行かざるをえない、おのれ天使。

 

(…とりあえず、粥でも作るかぁ……)

 

服を着終えた俺は大きくため息をつく、実に安直だが食べやすい流動食を作りに台所へと向かうのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

ドドドドドドドドドッ!

 

――ドンドンドンドンッ!!

 

 

「お得意様ァァァァァァッ!!大っ変っニャアああああああああああッッ!!?」

 

「……」

 

 

何というか、デジャブだ。

地面を揺らすような足音の後、家のドアが壊れんばかりに叩かれ始めた。

 

時刻は11時ほど、朝修行から帰ってきてからずっと作業机の前に座ってぎゅるぎゅる丸の解体作業に集中していた俺は、やけに聞き覚えのある声に辟易しながら膝の上に乗せていた少女を抱き上げると激しく揺れる玄関の引き戸を開けに立った。

 

 

「あー…うおっ!?」

 

「ほわぁっ!?」

 

 

ガラリと扉を開けると引き戸を叩いていた手が勢い余って俺の顔面に向かう、慌てて体捌きで避けるとそこには息を荒くつき汗をダラダラ流した制服姿のアーニャ嬢の姿があった。

…何でコイツ俺の家を知っているのだろうか、まぁ別に良いが。

 

顔を真っ赤にして荒く息を整えながらアーニャはいつになく必死、というか軽くパニックな様子で俺に跳びかからん勢いで数歩詰め寄ってくる。

何というかその様は発情期の猫を思わせた、大変だとか何とか言っていたがこれはむしろ変態なのではなかろうか。

 

 

「おぉっおととととお得意様っ!!」

 

「落ち着け何の用だ、用だけ言って帰れ」

 

「なにげ酷くねッ!?…っていやそういうことじゃニャくて、大変なんにゃッ!!ちょっと一緒に来てほしいにゃっ!」

 

「あぁはいはい大変なんだな、お疲れ様でーす」

 

「ちょっと待ってにゃあああああッ!!おたすけぇぇぇぇッ!!」

 

 

閉めようとしたドアがギギギ…と意外にも強い力で阻まれる、悲しいことに引く力と押す力では後者の方が強かったりするのだ。

 

(絶対めんどくさいじゃん…)

 

まず猫人という種族からして面倒くさい、滅びろ。

ではなくアーニャが尋ねてきて大変だとか騒いでいる、絶対厄介事なのは火を見るよりも明らかだ、相手をしないに限る。

 

 

「あのっ…ちょっとっ…ホント話聞いてにゃっ…!」

 

「知らん、帰れ」

 

「いやっ、ほんと助けてほしいんだにゃァッ!豊穣の女主人が大変な事にっ!」

 

「悪いが俺には関係のない話だな」

 

「ええええっそうにゃつれない事言わないでにゃっ!?」

 

 

扉を閉めようとしながらアーニャは軽く涙目で床を踏みしめる、しかしここは心を鬼にせねば絶対後々後悔すると強引に扉を閉めようとするがガタガタと力が拮抗するだけだった。

扉を押しながらアーニャは足りない脳みそを回し始める、苦し気な表情でぷすぷすと頭から湯気を発し始めた。

 

 

「にゃ、にゃんかお得意様が来たくにゃるものをぉぉぉ……脱ぐとか?…いやそれ前やって殴られたニャっ……って、あっそうにゃ、リューもお得意様を呼んでたにゃッ!!」

 

「話を聞こう」

 

「にゃんか不本意ッ!?」

 

 

手を離すと同時に解放された扉が急にバタンと開かれ、掴んでいたアーニャの身体がグリンッと一回転し、着地した。

まさに扉相撲、彼女は特殊な訓練を受けています。

 

 

「で、何の用だ?ったく早く話せお前、尻尾抜くぞ」

 

「いやだからさっきから話そうとしてるにゃぁ…ま良いニャ、えーと、その、簡単にじょーきょーを説明すると――」

 

 

ため息をついたアーニャは渋めな顔で肩を落とす、パニクっていた猫人はだいぶ落ち着いたようで改めてその場に立ち直すといつになく深刻気な表情で俺の事を見上げる。

狭い玄関先、少女を片手に持った俺は昼空の暖かな匂いを鼻先に感じながら、どこかアーニャから化学系の臭いを嗅いだようなそんな気がした。

 

しかしいくらアーニャ嬢が馬鹿とはいえここまで必死になる理由は少し気になる。豊穣の女主人が大変みたいなことを言っていたが、あのミア母さんやリューのいる超武闘派店舗が揺らぐことなどそうそうないのではなかろうか。

 

 

「――シルの弁当が爆発したニャ」

 

「 お わ っ た 」

 

 

終わっていた。

諸君は知らないかもしれないが実はラグナロクというものがこの世には実際に物として顕現しており――

 

 

「って暴発だとぉぅ!?」

 

「あいにゃ、あのシル野郎転んでアレの中身ぶちまけやがったニャ!んで店内が汚染されて…ミア母さんも倒れちゃったのニャ!」

 

「なん…だと…!」

 

 

正しくバイオテロ、ふざけろシルの弁当。あれの中身は言ってしまえば経口摂取できる化学兵器そのものである。

勿論食べて良い類のものでは無い、死を覚悟しSAN値の6は減る覚悟で喉に押し込み何とか食べることができるようなできないような、つまりそれを食べさせられるベルは不定の狂気を発症しかねない悲しみの連鎖。

 

そしてそんな危険物が爆発、つまりぶちまけられた…状況は見ないと解らないが、ミア母さんでさえ気絶しかねないことになることもうなずける。

毒ガスの拡散、例えステイタスで強化された身体であっても意識など簡単に刈り取ることができるだろう、それがシルの弁当というものだ。

 

 

「…で、生き残ったのは?」

 

「えーと…アーニャとリュー、それとちゅーぼ-に二人…あ、あと磔になってるけどシルがいるにゃ」

 

「それだけか!?」

 

「にゃ、にゃあ…だからアーニャが増援を探してくるように言われて、思わずお得意様のところまで来ちゃったにゃあ…あ、でもほんとにリューも『できればリョナさんが良い』って言ってたにゃ!」

 

「なるほど、そういうことか…」

 

 

恐らく凄惨な現場、あのミア母さんでさえ倒れたというのなら死者は相当な数になるだろうし、外部に助けを求めざるをえない状況が容易に想像できる。

しかしその対象が俺であるというのは…まぁいくら金落としたか途方も無いし、まぁお得意様と呼ばれる程度に信頼は獲得している、というか俺自身手助けすること自体やぶさかではない。

 

そういう事情であるならば。覚悟を決めた俺はシルの弁当の味を思い出す、胃酸が口内に染み出してくるのを感じながら改めてアーニャの不安気な表情に力強く頷いた。

 

 

「…解った、残りは向こうで聞く!」

 

「ほんとニャッ!?あ…ありがとにゃあお得意様、じゃあ早速戻るにゃッ!!」

 

「おう!!」

 

 

本当に嬉しそうにパッと表情を輝かせたアーニャは一瞬俺に跳びつきかけたが何とか自制したらしく踵だけ浮かせ、にやけ面のままくるりと振り返りかえると元きた道へ動き始める。

頷き俺は片脇の少女を抱え直す、後ろ手に玄関のドアを閉め息を肺の下まで大きく吸うと俺は早速走り始めたアーニャの背中を追いかけ始めた。

 

…だが俺は思えばこの時「何を手伝うのか」を聞いていなかった、この事を向こう数日間後悔することになったのだった、

 

 

 

・・・

 

 

 

「連れてきたにゃぁーー!!」

 

「ッ…リョナさん、来ていただけましたか」

 

「あー…うわぁー…」

 

 

十数分後、店内に足を踏み入れた俺は広がる地獄絵図に思わず声を漏らしていた。

色覚を催させるぶちまけられたゲル状の何か、泡を噴いて倒れている店員達、拡散した悪臭が蝕むように脳を痺れさせ、生存本能に訴えかけるような根源的恐怖が自然と一歩後ろに下げさせる。

つまりシルの弁当が爆発していた。たかが弁当と侮ることなかれ、一口すれば固形物と流動体の境目が解らなくなった結果精神は瓦解し、臭いを吸っただけで意識を奪われるほどの危険物…シルの弁当を覗く時シルの弁当もまたこちらを覗いている、冗談じゃなく目が付いている場合があるのだった。

 

…まぁ流石に食べても『死ぬほど』のレベルであって、実際に死ぬことは無いのだが周囲には確実に意識が薄れる臭いが溢れていた。

 

 

「リョナさん、深く息を吸うのは危険だ。その子にもこれを」

 

「あっ、はい」

 

 

そんな危険物を口元に布を一枚だけ覆って掃除していたリューさんから手渡される白い布を鼻に巻く、もう一枚で抱えていた少女の口周りを覆うと長い銀髪を持ち上げ頭の後ろで結んであげた。

少女の鼻を隠して垂れた薄い逆三角形の出来栄えを確認した俺は改めて両手に箒とちりとりを持ったリューに視線を向ける。

この生き地獄の中であっても彼女だけは凛とした目元を保っており、果敢にも今までたった一人で暗黒物質と戦ってきたようだった。

 

 

「まずは来ていただき感謝を、アーニャもご苦労様です」

 

「もごもご…ん?たいしたことないニャ!」

 

「では店の換気をしてきてもらえますか、あと少しで掃除が終わりますので」

 

「あいにゃ!」

 

 

ナプキンを付け終えたアーニャは元気な笑顔を浮かべズビシと敬礼すると店正面の窓を開けに走りはじめた。しかしなぜか口元を覆っているナプキンは正三角形、つまり逆に付けられており…やはり猫人か、愚かな。

 

だいぶ奇抜な恰好をしたままのアーニャを見送った俺は少女を一度綺麗なテーブルの上に座らせる、サンダルを履いた脚が垂れたのを確認すると軽くその頭を撫でた後リューに視線を戻した。

右手に箒、左手にちりとり、口元にナプキンを巻いた完全装備のその姿はまさに掃除戦士といった感じであり、いつもと変わらない美しいサファイアの瞳を細く俺に向けていた。

 

 

「…事情はアーニャから聞いていますか?」

 

「ん、まぁ大体は」

 

「そうですか…ではさっそくお願いしてもよろしいでしょうか」

 

 

ここまで来て断る理由がない、大きく頷いたリューはほんの目尻に微かな微笑を浮かべると胸を撫でおろした。

 

(…まぁいいか)

 

この表情を見られただけでも来たかいがあったというものだ、そういえば何を手伝えば良いのか聞いていないが…まぁたいしたことではないだろう。

リューはちらりと地獄絵図な周囲を見渡すと軽く重心の位置を揺らし、ふっーと息を吐きだした。

 

 

「見ての通りシルの弁当のせいで八割方が死…気絶してしまい、動けるのは私とアーニャ、そして厨房に2人だけ、まぁ簡単に言ってしまえば人手不足なのですが…」

 

「…んぁ、というかそもそも何でその四人は無事だったんです?」

 

「あぁそれでしたら私とアーニャは食料の買い出しで外に出ていて、厨房の…イーミンとコハルと言うのですが、二人は地下の食糧庫で在庫の確認作業をしていたので助かりました」

 

 

つまりそれ以外の場所にいた者は全滅したということなのだが、流石シルの弁当、炸裂範囲の広さよ。

 

 

「…そこで私が掃除、アーニャがあなたを呼びに行き、厨房組の二人には気絶した他の店員達を休憩室に運んでもらっているのですが…残念なことにミア母さんも気絶してしまい今は女手しかなく…彼女達だけで人の身体を運ぶとなるとかなりの時間がかかってしまう」

 

「あ、なるほど。つまり俺の仕事は」

 

「はい、まずは転がっている死た…おほん、気絶している者達を休憩室に運ぶのを手伝っていただけますか?」

 

 

要するに力仕事だ、いつもはドワーフのミアさんがやっていたようだが確かに酒など食材を箱ごと運ぶとなると女性店員では力が足りない。

…それに今のフロアに長くいすぎると確実に頭をやられる、早いところ運んでやらないと本当に気絶じゃすまなくなるかもしれないし何かと男手が必要だったというわけだ。

 

まぁ手助けとしては順当なところだ、空いた手で床に落ちていたウェイターの…クロエとルノアを拾い上げた俺はそれぞれ腰の細い部分を抱えると両腕に持つ。

別にこの程度の重さならばステイタス込みならば余裕だろう、問題は何やら触ってしまった場合後でボコられる点だが流石に気絶しているしバレないだろう。

 

 

「休憩室にはベッドが二つありますが入りきらなければ最悪床に転がしておいていただいても構いません、あぁそれとさっき言った二人と途中出会うかもしれませんが…恐らく名前を出せば向こうはリョナさんのことを知っているかと思います」

 

「了解。あぁそれとコイツここに置いておくので見ておいてくれませんか?」

 

「なるほど、解りました。ではよろしくお願いします」

 

 

ぺこりと頭を下げたリューに娘二人を抱えたまま頷き返した俺は一瞬机に座っている少女にチラリと視線を送った後、休憩室に足を向けた。

 

 

 

・・・

 

 

 

両手に提げたクロエとルノアの手足が揺れるのを覚えながらカウンターの横を通り抜け。バックヤードの中に入ると暗い廊下につながっていた。

シンプルな床板を踏みしめながら数歩進むと微かに明かりが漏れ出ている半開きの扉が二つあることに気が付いた。

 

(こっちは…厨房か)

 

廊下から部屋の一つを覗き込むとそこは厨房のようだった、ここにも何人か人が倒れたままになっており、下準備の途中だったのか食材が床に転がってしまっていた。

俺は簡単に見渡し終えとりあえず倒れてしまっている人数だけ確認しておくと、振り返ってもう一つの部屋のドアを足で開けると休憩室の中に入った。

 

――そこには磔にされたテロリストがいた。

 

 

「…あれリョナさんなんでここに!?ま、まぁ何でもいいのでとりあえず助けてくれませんかっ!?」

 

「…」

 

 

窓付きの休憩室、その片隅には二段ベッドが置かれ、簡素なテーブルとイスが置かれ…何故か十字架も置いてあった。

かなり巨大なそれには細いロープが何重にも括り付けられており…何故かそこにはぐるぐるに巻かれたシルがいた。

 

…あぁ、磔って物理的にそういうことなのか。

 

 

「聞いてください私弁当作ったのを落としちゃっただけでっ、別に何も悪い事してないのに磔にされてっ!」

 

「…」

 

「いや確かに何もないところで転んじゃいましたし中身を丁度ミア母さんの顔にかけちゃったとかありますけど、別にわざとじゃないっていうか!だからここから降ろしてくれるとありがたいなーなんて――ちょっと待ってくださいよリョナさぁぁぁんっ!」

 

 

もはやかける言葉もない。

残念なテロリストに背を向けた俺は後ろからの泣き言を無視しながら二段ベッドに近づくと一段目を覗き込む。

 

(あ、ミアさんはもう運べたのか)

 

ミアの巨体がそこには横たえられていた、どこか不機嫌な表情のまま意識を失っている彼女は丸太のような足を揃えて寝転がされており、呼吸の度胸が大きく上下していた。

…何というか、重そうである。先に死体運びをしているという二人が何とか運んだのだろうがかなりの難題だったことだろう。

 

 

「とりあえずここで良いか…」

 

 

二段目もあるがミアが寝ていてもベッド一段目にはまだ余裕がある、両手に担いだクロエとルノアを持ち上げた俺は暗いベッドの中に二人を投げ入れると背筋を伸ばした。

あとはこれの繰り返しである、とりあえず十往復ぐらいすれば全員収容することができるだろう。

 

(というか…)

 

他に生き残ったという二人に会っていない、気絶した者を運んでいるという話だったがここまで殆ど一本道だったし行き違いになることはないはずだ。

…確か名前は『イーミン』と『コハル』といったか、いったいどこに――

 

 

「――リョナッ!覚悟ッッ!!」

 

「ッ!?」

 

 

頭上から聞こえてきた女の声、同時にばさりとかけられていた白い毛布が跳ねのけられた。

この部屋の中で唯一隠れられるベッドの二段目から勢いよく飛び出してきた小柄なコック姿の女は鋭い気合と共に俺の首を狙って手刀を振り下ろそうとしており、横髪で結わいた赤い三つ編みが揺れているのが見えた。

 

 

「オラァ!」

 

「ぐふぅっ!?」

 

 

とはいえ何とか躱して腹パンする。威力はだいぶ緩めたのだが何だか竜の昇る拳のようになってしまったパンチは的確に突然の襲撃者の腹を抉り、ベッドの二段目から跳んできた白いコック姿の女は腹をかかえ辛そうなうめき声を漏らしながら床をゴロゴロと転がりはじめる、俺は注意しつつも今更襲撃されたことに驚いていた。

 

やがて腕をつき身体を起こした女は腹をおさえたまま痛みに青ざめた顔をあげる、悔し気に歪めた顔は…何というか東洋系の美人なのだが小柄な身体とコック服とは違和感がある、小人族とか種族的なことではなくその外形はちょっとだけ大人ぶった子供のように見えた、ロリロリしい。

 

 

「くぅぅ…女に手を上げるとは聞きしに勝るクソ野郎と見た、よくもやってくれたなこの悪魔め!!」

 

「…は?」

 

 

悪魔呼ばわりとはこれいかに、というか最初に襲ってきたのはそちらからだと思うのだが。

というかこいつシェフ姿だしもしかしなくても先に動いていたという二人のうちの一人なのでは。

 

(うーん…?)

 

一人に襲われたのだから二人目にも襲われる可能性も高い、何故襲われるのかは知らないが何にせよ警戒を解くのは危ないだろう。

というか本当に何故襲われるのか、確かに一部の都市最強に命を狙われてはいるが豊穣の女主人の店員に恨みを買うようなことは無いはずだ。

 

一応周囲を警戒しつつ足を曲げた俺は襲ってきた女の前にしゃがみこむ、そしてその顔を覗き込むと別段殺気なども出さずに声をかけた。

 

 

「おい、お前」

 

「な、なななんだっ!?言っておくが私は暴力には屈しないぞっっ!!?」

 

「いやしねぇよ…」

 

 

どうやら本気で命を取りに来ていたわけではないらしい、しゃがんでシェフ東洋ロリの顔を覗き込むと明らかな動揺を浮かべ唇をがくがくに震わせながらたじろぎ始めた、必死に俺の事を睨みつけていた目も怯えてか瞳孔が収縮しており、恐怖に瞬きが増えた。

…まさか本当に悪魔と思われているのだろうか、いやまさかそんな。

 

しかし怯えているということはこれ以上こいつに襲われることはまずまず無いだろう。少し安心した俺はため息交じりに肩をおろす。しゃがんだまま小柄な女に呆れの視線をおとすと右髪にだけある真っ赤なおさげが揺れるのを目で追った。

 

…とりあえず聞きたいことは二つ、こいつが『何者なのか』ということと『何故襲ってきたのか』ということ。

確かに俺はどこぞの都市最強に命を狙われている節があるが、別にそれ以外は()()()冒険者していただけで命を狙われるほど恨まれることをした覚えはない。

ましてやそれが豊穣の女主人の店員となると更に謎が深まる、それにウェイター連中とは面識があるとはいえバックヤードの厨房組とはまったくもって関わりあいがないわけで、この赤毛の女とも初対面だ。…あぁそういう意味で前者は『何者』というより名前を聞きたい、先ほどリューから聞いた先に死体運びをしている『どちらか』なのは予想できた。

 

 

「えっと…そうだな、お前名前は――」

 

「――お得意様ぁぁぁぁぁッ!」

 

 

だが聞こうとした矢先扉の方からから黄色い声と床の踏みしめられるギシィッ!という鈍い音が聞こえた、次から次へと息をつく間もない。

同時に知っている猫人が急いで動かした視界の端で既に地面から離陸し、空中で満面の笑みを浮かべながら腕を広げているのが見えた。

 

(あぁこれは跳びかかられるな)

 

最近こういう展開が多いからかどうなるのか頭が状況を理解する前に解った、このままだと部屋の外から助走をつけて走ってきたアーニャが俺の首に抱き着いてきて確実に脊髄が折れて死ぬだろう、確実に。

しかし慣れとは恐ろしいもので、似たような輩に終始肋骨を粉砕され続けた結果抱き着きに対して俺は異様なまでに反射できるようになっていた。

 

…身体が勝手に動く、しゃがんでいた割に俺は自分でも驚くほどの超反射で一歩下がっていた。

 

 

「ふッ」

 

「改めて来てくれてありがとぉ――ニ゛ャ゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ッ!?」

 

 

魚雷のような猫が脇の下を通り抜けてそのまま二段ベッドに突っ込んでいった。いったい何が目的で俺に抱き着こうとしてきたかは知らないが、いや多分無目的だと思うのだがアーニャは不幸な事にベッドの木組みにガツンッ!と激しく顔面からぶち当たった…かなり痛そうだ。

 

(あっぶね…)

 

だが躱さなければあの衝撃が俺の首に当たっていたと考えると申し訳ない気持ちなどは全くと言っていいほど湧いてこない、むしろうるさいのでそのまま気絶しておいてほしい。

足元で死にかけのダンゴムシよろしくぴくぴくと震えているアーニャを自然災害的に捉えながら俺は軽く首を回すと腕を組んだ。

 

 

「おっ、お前ぇぇぇアーニャまでもぉぉぉっ!」

 

「いや今のは俺のせいじゃねぇだろ…」

 

 

なのだが赤毛の女がまた吼える、何だか目の敵にされている感じを覚えながらやれやれと首を振ると、猫人を無視して再び女の尋問を開始しようとした。

 

――が、ベッドががたりと揺れる。

 

 

「……ひっ…ひぉっ…お、落ちりゅっ…!?」

 

「はっ?」

 

 

再び頭上、見上げるとベッドのふちから今まさに誰かが落ちようとしていた。

どうやら先ほどアーニャがベッドにぶつかった衝撃でバランスが崩れたらしい、赤毛女と同じ白いコック服がバタバタと慌てながらゆっくりとこちらに傾いてきていた。

 

…しかしアーニャと比べると実に緩慢である、余裕で自分の腕が空いていることを確認した俺は腕を伸ばすととりあえず「それ」を受け止める準備をした。

 

 

「よっと」

 

「キャッ…!?」

 

 

ぼふんと落ちてきたやつを受け止める、平均よりは少し大きめの女の膝裏と背中を支えると軽く身を落として衝撃を緩和させた。

掌に微かな柔らかさを感じながらいわゆる「お姫様だっこ」状態の女のくの字に折れた部分からその顔に視線をずらした。

 

(こいつは…)

 

思わず受け止めてしまったが服といい同じ場所に潜伏していたといいこいつも赤毛女の仲間だろう、何故こちらは襲いかかってこなかったのかは解らないが二人の内の片割れであることは火を見るより明らかだった。

 

目元まで隠れたぱっつん髪、長い黒髪を二つ編みで後ろにおさげにした…何というか図書室で永遠と本を読んでいそうな地味な顔。

しかし赤毛とは対照的に肉体の方は全体的に大きく、手に持っているため流石に全体像こそ解らないが身長は170cmくらい、胸もなかなかのものをお持ちのようだった。

 

…だからといって何かあるわけでもない、ただ淡々と俺は受け止めた黒髪おさげ女の事を間近で見下ろすと尋ねた。

 

 

「大丈夫か?」

 

「あっ…そのっ…ありが…」

 

 

どうやらベッドからの転落でかなり動揺していたようだがしっかりと受け止めたおかげで精神的な復帰も早い、黒髪おさげ女は俺にお姫様だっこされたままゆっくりと俺の顔を見上げると――

 

 

「あ、ありが…っ!?」

 

 

――何故か支えた身体が震え始めた、俺の顔を視認した瞳が激しく収縮すると隠れた前髪の隙間からブンブンと視線が上下左右に動くのが見えた。

 

(…?)

 

いきなりなんだこの変化は、まるで心臓発作でも起こしたかのように息は荒くどんどん顔色が青ざめていく。

そして黒髪おさげ女は震える口をわなわなと開けると漏れるようなほんの小さな声を出した。

 

 

「お、お、お…」

 

「お?」

 

「お、おちょこのひとッ…!?」

 

「…はっ!?」

 

 

その言葉を最後にピーンと身体を硬直させた後おさげ女が顔面蒼白で気絶する…気絶した!?余りにも突然に女の身体が腕の上で脱力する、白目を剥いた女は完全に意識を失っていた。

 

(な…どういう…!?)

 

立ち上がった赤髪が掴みかかってくる、必死な形相で俺の手から気絶したおさげを奪うと心配そうにその顔を覗き込み、キッとまるで俺が気絶させたかのように咎める視線を俺の方に向けてきた。

 

 

「お前なんてことをするんだッ!()()()はなぁ、コハルはなぁ…」

 

 

なんてこと、と言われても俺はおさげを受け止めただけだ。そして気が付いたおさげが俺の顔を見て失神した、別に経絡をついたわけでもなし俺は何もしていないはずだというのに。

 

(いや…待てよ…!?)

 

そもそも赤毛女に襲われた理由が俺には解らない、それにさきほど悪魔とか何とか言っていたし向こうは俺の事を知っているようだ。

つまり俺はいつのまにか悪魔になっていた…!ではなく、悪魔と呼ばれるほどの行いを何か俺でも気がつかないうちにしていたのではなかろうか――

 

 

「――コハルは、男性恐怖症なんだよ!」

 

「あー…知らん」

 

「くっ…覚えてろよっ!いつかお前のオーダー全部の塩と砂糖間違えてやるからなぁ!うわああああああ!!」

 

 

赤毛が涙目で捨て台詞を喚きながら黒おさげを引きずっていく、というか結局俺のせいではなかった。

とはいえ豊穣の女主人の店員には個性的なのが多いとは思っていたが、接客しない厨房組にそんなやつがいるなど思いもしなかった、この店もまだまだ闇が深いらしい。

 

(まぁ…名前は解ったが)

 

赤髪が黒髪を何とか引きずっていくのを呆れと共に片目で見送りながら、俺はやっとどっちがどっちなのか解明できたと肩を落とす。

あの男性恐怖症の黒髪お下げがコハルであるならば、つまりあっちの東洋赤毛がイーミン。名前が解りやっとモヤモヤが解消された、ため息交じりに苦笑を浮かべると凸凹な二人組の名前を覚えておいた。

 

とはいえ結局「なぜ襲われたか」は解っていない、豊穣の女主人の店員に襲われる心当たりは相変わらずなかった。

これから死体運びだというのにまともに遂行できるのか不安に思いながらため息を吐くと…まぁ襲ってきたらまた殴ればいいかと思い直したのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

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