このダンジョンに神殺しが居ることは間違っている。   作:みころ(鹿)

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 複合神性

・・・

 

 

 

昔々、とある賢者がこう言いました。

「復讐は無意味である」と。例え殺し返したところで、そこには争いしか生まれないと。

実に多くの人間がこれに賛同しました。その言葉は人から人へと語り継がれ、世界中に広がりました。

いつしかその言葉は人々のルールになり、各地で繰り広げられていた戦争も終結し、世界には平和が訪れました。

 

――それでも、人は人を殺しました。

 

理由は実に様々です。

怨恨から、欲望から、狂気から。

どんな理由であれ間違いを犯さない人間などこの世界にはいません。

過ちを犯した一部の人間が、罪のない他人を、時には家族さえもその手にかけます。

 

これは明確なルール違反です。

人々は罪の数だけ罰を作り、時に過ちを犯した人間を隔離施設に閉じ込め、時に処刑と称して殺しました。

これにて事件は一件落着です。罪に罰は正しく執行され、過ちを犯した人々は隔離され塀の中に閉じ込められました。

 

 

 

 

では――――残された者達はどうなる?

 

 

 

 

愛する者を殺された。

怨恨から、欲望から、狂気から。

どんな理由も理由にはなってくれない、納得できるはずがない。

世界で一番大切なモノを奪われたのだ。その間違いは取り返しがついてはくれない。

その痛みは脳を埋め尽くす、それは間違いなくあなたにとって世界で一番の苦しみになる。死者はどうしたって帰ってこない、取り返しがつかないこそ、現実を理解したくない。

憎悪、憤怒、様々な感情が痛む。その感情は極めて正当なものであり、その感情を抱くことは何も悪い事ではない。

 

しかしルールは復讐を許さない、その感情も痛みも一生消えてくれることはない。

苦しみを抱えたまま残された者は生きていかなくてはならない、時間は解決してくれない…いつだって脳裏には悲しみが浮かぶ、長い時間をかけ忘れようにも心から笑うことができない。

 

不公平だと思った。不条理だと思った。

命を奪うという行為は余りに一方的過ぎる。殺された者は残りの人生を、残された者はこの世界で一番の苦しみを押し付けられる。

殺してやりたいと思うのは自然で当然のことだった。それだけ大切だったのだから、そうでもしなければ囚われた感情に狂ってしまいそうになるのだから。

 

――果たして、復讐は無意味なのだろうか。

 

確かに、殺し返す事だけを見れば無意味だ。

例えその相手を殺したところで、失った者が返ってくるわけではない。

悲しみや、痛みが消えてくれるわけではない。

 

だが――憎悪や憤怒だって立派な感情の一つだ。

 

人は恨まずにいられない。自らの親を、子を、家族を奪った存在を。

強すぎる感情は毒となる。人の脳髄の活動を阻害し、正常な判断を奪う。

その感情を果たさねば――精神(こころ)を縛り付ける『しがらみ』を壊さねば――人は世界を正しく見る事は叶わないから。

 

少なくとも、少女には必要だった。

その身にため込んだ怒りをぶつける相手が、自分からあの小さな世界の中で一番大切なものを奪い去った相手が、感情を果たす復讐という手段が。

 

脳内に巣食った憤怒が、蒼く燃え盛っていた。

少女の中に満ちた感情は紅く、タールのように沸騰している。

心はその奥底に沈んで、痛みを晴らすためにもがく。その手には神殺しのナイフ、両橋夏目から借り受けた火種は『彼女の世界の神』も殺すことだろう。

だが同時にその強すぎる感情に脆い身体が耐えきれなくなるまで、そう時間は残されていなかった。

 

少女の身体が燃える――あの地下室と同じように。

 

 

 

・・・

 

 

 

ビリビリと叩きつけるような獣の咆哮を背中に受けながら、裸足で駆ける少女が砕けた床を強く踏む。

その手にはナイフ、蒼炎に照らされる鉄刃は鋭く、彼女の憤怒を表すかのように紅く縁取られている。

 

 

「――」

 

 

今まで溜め込んだ感情の分だけ少女は咆哮する。

掠れるような怒りの声には強い殺意と、増幅された憤怒が乗っていた。

蒼炎を這わせた長い銀髪がたなびく。纏わりつく炎が少女の動きに合わせて揺れ動き、溜まった感情に引火するたび炎心が強く鼓動する。

その紅い瞳には、地面に尻餅をついたまま這いずるように必死に逃げようとしている仇敵のみが映り、一直線に進む走行には躊躇いなどなかった。

 

少女は恨んでいた。

母親を殺した相手を、()()を。

その想いが蛇を呼んだ、その想いが少女の思考を奪い、その想いがあったからこそ炎は強く燃え盛っていた。

 

 

「ひっ…!?」

 

 

そしてナイフが振り下ろされた。

素早く、鋭く。少女の心を表した鉄製のナイフは両橋夏目のものとも違う、彼女だけの武器(かんじょう)

光を受けた刃先は商人の胸に向かい、竦んだ商人は片腕を失った身体で避けた。

 

余りに容易く刃が空を切る、宙に跳び全身でナイフを振り下ろしていた少女は大きく体勢を崩すと半ば転びかけた。

 

 

「はぁっ…はぁっ…!?」

 

 

荒い呼吸を繰り返しながら商人は狼人の少女を見る、何とか姿勢を保った少女の太刀筋は滅茶苦茶だった。

 

そもそも少女の身体は戦う事はおろか、歩くことすらままならないはずだった。

衰弱は免れた身体、今まで一切動いてこなかった身体はリハビリしなければ立つ事すら叶わないし、いくら意志があったとしても覆るものではない。

 

だが――蒼炎が強化した。

 

狼騎士から受け取ったたった一滴の力、だが感情に引火したその炎は憤怒を燃やし続けえる限り少女の肉体を強引に強化する…神殺しの力を与え続ける。

故に少女は走ることが出来る、故に少女はナイフを振るうことが出来る、故に少女はたった一度の復讐の機会を得た。

同時にそれは賭けでもあった。蒼炎が肉体にかける負担は強い、しかし少女の身体は未成熟で、器としての耐久性など欠片ほどもなかった。

 

憤怒を晴らさなければ。

想いを果たさなければ。

少女の身体が壊れるよりも速く。

 

復讐は蜜の味もしなければ、甘美でも無かった。

苦くて、辛い。それでも、意味はあると信じて前へ。

ナイフを痛いくらいに握りしめた掌は白く小さく、罪の味を噛みしめながら声にならない絶叫を力の限り吼える。

 

 

「――」

 

「はぁぁっ…はぁぁっ…!」

 

 

振るわれたナイフが空を切る。

強化された肉体は少女の想いを果たすために、短刀は復讐を遂げるために。

しかしその動きは全くの素人、そもそも少女は『動く』ということ自体に慣れておらず、その剣筋はいかに肉体が強化されていようともぎこちない。

 

何度も飛びかかる少女の攻撃が商人の身体をかする。殺意に満ちた攻撃は拙い、それでも鋭い刃先が何度か逃げ腰の商人の腕や足に引っかかると切り裂き血を滲ませた。

その迫力は鬼気迫る、まるで憑りつかれたかのように豹変した少女の姿にガルは狼狽え、狼騎士に切断された腕を抑えながら逃げ惑った。

 

 

「くっ……近寄るなぁっ!」

 

「――ゥッ…!?」

 

 

恐怖に満ちたガルは怯えながら肥えた腕を力任せに振るった。

太く重い腕は横薙ぎに振るわれると飛びかかってきていた少女の腹を捉えると、鈍い音をたてて強く弾き飛ばした。

激痛に呻きを漏らした少女が床の上を転がる。弱っているとはいえ大人の腕力をまともに喰らえば少女は悶絶するしかなく、鈍痛の走り続ける場所は骨が折れているかもしれなかった。

 

子供では、大人の力に抗う術はない。

 

 

「は……はは…!」

 

 

気迫の割には、何と呆気ない。

そう驚いたガルは目の前にいるのがただの子供だということを思いだす。

戦闘能力のないガルでは狼騎士に勝つことは万に一つもありえないが、目の前のこの子供ならば別だ。

尻餅をついたままガルは少女の傷ついた姿を見ると下卑た笑いを浮かべ、自らを鼓舞するように声を張り上げた。

 

 

「しょ、所詮はただのガキ…そう、お前は所詮奴隷に過ぎなぁいッ!主である私に歯向かったところで、ゴミでしかないお前が勝てるわけないんだァッ…!!」

 

「――」

 

「く、くくく……そうだ…私は間違ってない………!」

 

 

少女がよろめきながら立ち上がる。

その手にはナイフ、瞳には憤怒が燃え、殺意も死んでこそいないが腹の痛みからかその呼吸は乱れている。

それでも止まれない、再び走り出した少女は輝く短刀を構えて蒼炎を纏った。

 

 

「……ふんッ…!!」

 

「――ッ……!」

 

 

再び少女のナイフは空を切り、今度は鳩尾の近くをガルの拳が捉えた。

鈍い音が響いた。吹き飛んだ少女の身体が床の上を転がり、激痛に悲鳴する少女の声だけが響いた。

 

余りに小さな少女の身体に、余りに強すぎる大人の腕力は絶対的だった。

とても耐えきれない威力の攻撃に少女の身体は容易く破壊され、全身が苦痛に満ちた。

喉の奥は干からびたように乾き、冷たい汗が背中を伝い、痛みによって発された警鐘が脳の奥を強く痺れさせていた。

 

 

「――」

 

 

ナイフを構え走り出した少女は一切の躊躇いなくガルの元へと向かうとその腕を振るった。

再び立ち向かう大人は強大で、あの地下室で正に神の如き存在だった。

 

 

「――ッ…!」

 

 

走り、吹き飛ばされ、それでも少女何度だって立ち上がった。

殴られた傷が痛み、張り裂けた皮膚が血を漏らしても止まるつもりは無かった。

少女の身体が幾度となく床を転がる、激痛に耐えながら腕をつき立ち上がると弱く脆い身体で商人へと走った。

 

 

「――ゥッ…!」

 

 

肥えた腕に少女は苦悶の声を挙げ、商人が息を切らし、全身に酷い痣を作って、それでも少女は復讐を止めようとはしなかった。

 

 

「――ゥゥッッッ……!!」

 

 

その殺意は何がため、その復讐は何がため。

雄叫びをあげて飛びかかってくることを止めない少女に、息を大きく切らしたガルは段々と苦し気な表情を滲ませる。

 

 

「はぁっ…はぁっ……しつこいぃ…!…お前は…何を…そこまでぇ…!」

 

 

そんなこと、解り切っていた。

これは復讐だ、醜く汚く、どれだけの理由があろうとも人殺しに他ならない。

 

――全て、母のために。

 

感情、想い、自らの中で燃える真火が少女の身体を強化した。

少女は何度でも立ち上がる。蒼炎が傷ついた身体の上で弾け、体の奥底から濃い力が溢れ出す。

 

 

「――ゥゥッアアアアッッ!!」

 

 

ただでさえ瀕死だったガルは荒い息をつき始める、決して諦めることの無い少女の機敏な動きに徐々に対応できなくなってきた。

ナイフが身体を切り裂く、肌を舐めた刃先が血を溢れさせ雫のように流した。

あともう少し、徐々に少女はガルを追い詰めていた。

 

 

「ぐぅっ…!?」

 

 

ガルは顔を歪める。痛み、失った片腕は恩恵を受けていない身体であったなら即死しかねない程の出血はすぐにポーションをかけなければ危険だ。

かといって逃げようにも目の前には少女、そして片腕を失いバランスを失った身体は上手く立ち上がることもできない。

這いつくばって逃げようとするガルは周囲を見渡す、蒼炎に満ちた視界の中で自らが助かる方法を模索した。

 

斬り飛ばされた自らの腕が転がっていた、血の気を失った商人の片腕は床の上でパチパチと爆ぜていた。

その指には指輪。戦闘能力のない彼がもしもの時のために作っていた月を模した指輪は透明で、魔石特有の輝きを宿していた。

 

眼の色を変えたガルは慌ててその指輪を指先から外す、そしてまだ残っている手に付け直すと叫んだ。

 

 

「『月甲』ッ!」

 

「――ゥッ…!?」

 

 

少女のナイフが、ガルを中心に球状に展開された琥珀色の魔力壁に弾かれる。

ガルの指輪に格納されていた魔法、「月甲」の構造は魔剣に近い。高位の魔法使いの結界を閉じ込めた指輪は消耗品の割には高い買い物だった。

だがその効果は折り紙付きだ、オッタルや狼騎士ほどの強者には数秒ともたないかもしれないが、レベル4程度の冒険者の攻撃は受け付けない――ましてや、少女の攻撃など。

 

感情に任せて振るわれるナイフが薄い魔力の盾に硬く弾かれる、それでも諦めない少女は雄叫びを上げながら商人と自分を阻む壁に斬りかかり続けた。

指輪をつけた手を少女に向けるガルは荒い息を整える、展開した魔法を少女は突破することは出来ない。

 

これで形勢逆転だ。何よりあの狼騎士も気が付けばいない。

自分も速くポーションを使って治療をしなければ危ういが、少なくとも目の前のコイツに殺されることはない。

 

 

「私に逆らった罰だ…お前は全身犯し尽くした後でモンスターの檻に放り込んでやる…!」

 

 

少女の身体がふらつく。燃え盛る火に体は負けそうになって、残された体力はそれほど残っていない。

そんな少女の様子に再び笑みを浮かべた商人は『復讐を誓う』、自分勝手な誓いは人としての何かが欠けている。

 

それはある意味憤怒に支配されていた少女のように、心の余裕が無い状態なのかもしれない。

故に商人は少女の怒りを感じもしなければ、自分の行いに苦しみもしなかった。

…ただでさえ自分自身の問題というものは一人では解らない、心の余裕がなければなおさらだ。

 

いつしか座り込んだ少女を前に商人は完全に整った強く吹く。

そして――

 

 

「……それとも、お前の母親のように腹から裂き殺してやろうか」

 

「――ゥ…?」

 

「お前の母親はお前の乳を出すために他の奴隷達から少ない飯を分けてもらっていた。だが愚かな女だ、毒入りの飯だということは獣人ならば解っていたはずだろうに」

 

「――ゥ…ァ…」

 

「故に私は毒に侵された腹から治してやろうと思ったのだが、腹を貫かれたままあの女は最期までお前の命乞いをしていた。その様子が傑作でな、余りに死に物狂いだったから思わずお前には手を出さない事を約束してしまった…まぁあの女も、直接私が手を下さずとも毒で勝手に死んでいただろうがな」

 

「――ァァァァァァッッ!!」

 

 

それより先の言葉は少女の咆哮が掻き消した。

だが月甲は硬い。蒼炎を寄せ付けず、鋭い刃先を阻む。

笑みを浮かべる商人と、魔力壁を挟んで憤怒を吼える少女。

 

だが声は届いた、姿も見えた。

 

商人の言葉に少女は怒りを更に滾らせる。その身の限界はすぐそこだ。

肉体の激痛と精神の沸騰に幼い少女は悶えながら身を振りほどくとそのナイフを取り落とした。

鉄製のナイフが床を転がる、叫び声を上げながら少女は一度のけぞると本能に任せるかのように両腕を地面についた。

 

蒼炎が紅に揺れた。

小さな獣は熱い吐息を繰り返す。

更に(かさ)を増した感情に、少女という器を溢れた憤怒がその瞳から粘度の高い紅の液体となってぽたぽたと零れた。それは涙というには余りに紅く、血のように少女の瞳を染め上げ燃えた。

 

それは少女というには余りに荒々しく、余りに化け物じみている。

新鮮な感情に嬉々としてその身を投げた蒼炎が激しく燃え上がった、長く美しい銀髪が重力を無視して浮かび上がると四散し、翼のように狼の存在を大きく見せた。

 

それは炎翼、憤怒の獣。

燃え盛る業火は絶えることはなく、月の護りを前に更なる感情を燃やす。

四足の獣は咆哮した。死体の山を越えて、紅の涙を流して――自らの復讐を燃やした。

 

 

 

・・・

 

 

 

昔々、あるところにムンディルファリという男がおりました。

男は自身の2人の子供が余りに美しい事から息子にソール(太陽)、娘にマーニ《月》という名をつけました。

ですが神々はこれに怒り、2人を捕らえると空を行く衛星を牽く馬車の馭者という役割を押し付けました。

 

一見すると不条理で余りに突然な出来事、しかし神々が二人をムンディルファリから取り上げたのには理由がありました。

何故ならこの星運びの仕事は世界の終焉を目論む狼から常に逃げ続けなくてはならないという極めて過酷な激務で、神々の誰もがこの仕事をやりたがらなかったからなのです。

加えて予言通りならばいつか狼は馬車に追いついて飲み込む、そんな運命がこの役割についていたというのも理由の一つでした。

 

つまり二人はその名前を「良い口実」に自由を奪われ、汚れ仕事を押し付けられた。

しかし双子はいつか殺されると解っていても押し付けられた仕事をこなし、必死に走り続けました。

 

――そして、ラグナロクの日。

 

遂に太陽と月を邪悪な獣が飲み込み、大怪我を負ったマーニは瀕死になりながら草原に逃げ落ちた。

既に馬車を失い、兄弟はどこにもおらず、初めから逃げる力など与えられていない。

ここで死ぬのか。草原に寝ころび、闇より出でた化け物たちに囲まれながらマーニは諦める。疲弊した身体は動かず、運命の通りでも構わないから出来る限り苦しまずに楽になりたいと願った。

 

その時、数多の光矢が闇夜を切り裂きマーニに飛びかかろうとしていた化け物たちの身体を貫いた。

一瞬の出来事、荒い獣たちの吐息に支配されていた草原はにわかに静かになった。

 

 

「…大丈夫、ですか?」

 

 

マーニの顔を覗き込んだのは利発そうな女神。

透明な髪、携えた月弓、美しい狩りの女神。放つ力強い神威はマーニには無いものだったがどこか自分と近しいものを感じた。

 

力の限り言葉を交わした。

これからラグナロクに馳せ参じるというこの女神はたまたまここを通りかかったらしい。

そして何と自分と同じ月の女神らしい。

酔狂な神もいるものだ。あんな面倒な仕事したがる神様が他にいたということにマーニは驚き、もっと話をしてみたいと思った。

 

だが、マーニには時間が残されていなかった。

 

 

「…そうですか。では私の中にいらしてはいかがでしょうか?」

 

 

何を言ってるんだこの女神様は。

とてもじゃないが神格が違う、だというのにこの『アルテミス』という女神は同じ月神である自分を取り込んで永らえさせようとしている。

馬鹿なことはやめろと否定した、だがアルテミスは不思議そうな顔を浮かべただ一言。

 

 

「同じ月の女神同士、何か問題ありますか?」

 

 

大ありだよ、とそう返そうとしたマーニの口は乾いてもう動かなかった。

返答がないことを了承かと思ったのか満足げな表情を浮かべるとその手をマーニに差し伸べた。

 

 

「誇り高き逃走の月神よ、同輩としてその労を称えます。その偉業に畏敬の念を示し、今は私の中で…お休みなさい」

 

 

触れた指先から暖かな感覚が伝わっていく。暖かで血の通った感覚は優しくマーニの眠気を誘い、その瞼をゆっくりと下げさせる。

死にかけの身体がアルテミスの中に取り込まれていく、それに合わせるように消えかけだった意識が混濁してきた。

 

 

「あなたは私、私はあなた。今神威は混じり、神性をここに束ねる。あなたはアルテミス、私はこれより――マーニです」

 

 

気まぐれに殺されて、気まぐれに生かされるものだ。そう思ったのを最後にマーニは優しく微笑むアルテミスの中に溶け消えたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

神話をここに、少女が走り出した背後にて。

月を牽く戦車を前に神殺しの獣は巨剣を構え、片腕片足の身体で咆哮する。

その手には巨剣、握りしめられた掌から伝わった神殺しの蒼炎は狂喜に躍る。

殺し合う定めにある神と獣は決して相容れることの無い詩を紡いだ。

 

 

『GYAAAAAAAAAAAAAAAAAッッ!!』

 

 

蒼炎に満ちた世界、獣の咆哮がビリビリと空間を叩きつける。

もう一つの神殺しが幕を開ける。蒼炎を滾らせた狼騎士は機械仕掛けの戦車の上に屹立する月の女神に人外の巨剣を向ける。

神威を纏った月の女神はその荘厳な神秘を携えた三日月弓を構え、花嫁のような純白のドレスを反重力に任せて浮いていた。

 

――狼が一歩踏み出すと同時に、戦車を牽く二頭の機械馬がいななきをあげて走り出す。

 

地面を砕く神獣の蹄鉄が高らかに木霊した。

月を担う神代の戦車、かつて邪悪な狼より逃げ続けた女神マーニの神器、災厄より逃げ続けた伝説を体現するその戦車は()()()に疾い。

空に浮かぶ巨大な星、地の果てから果てへとたったの一日で運ぶ馬力は他に類するものなどなく、空をかける機械馬に誰も追いつけはしない。

 

光の残滓が蒼炎に満ちた部屋を切り裂く。

残像だけを残して走り出した戦車の姿が霞んだ、視界内を亜音速で駆けていく馬の姿は狼騎士の動体視力をもってしても正確には捉えきれない。

瞬く間に最高速に到達した月明の戦車は執務室の中を駆け巡った。視界内を横切る光点は人間では追う事さえ出来ず、ただ戦車の通り過ぎた破壊痕だけを残した。

 

その動きは正に疾風迅雷にして縦横無尽。

銀月を牽く担い手は獣から逃れ続けた逸話をそのままに駆ける、白銀の神威を纏った戦車は人の身では捉える事すら叶わない。

 

 

『……r』

 

 

狼騎士の瞳孔がせわしなく空を切る。

宙を駆ける戦車は床に限らず、天井や壁をも駆けた。

超高速移動、月光の残像を残す神の戦車。蒼く照らし出された室内を駆け巡る戦車の軌道を追いながら狼騎士は油断なく巨剣を構える。

 

――見上げた極光、既に目の前には巨大な神威の煌めきが十字を結んでいた。

 

 

『…ッ!?』

 

 

それは狩人の矢。それは魔を撃ち滅ぼす神罰の具現。

遠矢射る。世界に様々な逸話や伝説、英雄譚があれど現を生きる狩猟の女神の弓術に勝る者などいるはずもない。

数多の魔物を狩り、オリュンポスの神々として終末を生き残った女神アルテミス。

その神格は例えマーニと混ざった今でも極めて高い位にあり、その神威を乗せた一矢は破格の威力を誇っている。

 

神威を纏い白い光を輝かせた一条の矢は鋭く、正確無比に狼騎士を襲う。

思考よりも速く、気が付けば膨大な量のエネルギーが目の前に迫っている事に気が付いた狼騎士はそれでも超人じみた反射で巨剣を動かすと刃腹から蒼炎を噴き上げた。

 

 

『AAAAAAAAAAAAAAAAAAAAッ!!』

 

 

極光と蒼炎がぶつかり合う。

混ざり合った二つの力は全く相反する事象、空間に染みのような力場を発生させながら蒼炎は弓矢を切り裂くと破裂音と共に神威を粉々に散らした。

巨剣を振り抜いた狼騎士は薄く息を吐く、何とか斬り飛ばす事は出来たが神威を持った矢はオッタルの攻撃並みに重く、速い。

 

マーニの持つ亜音速の戦車、アルテミスの神域を超えた弓術。

部屋中を駆け巡る光点から放たれる一筋の神威、加速した弓の射撃は正確に全方位から狼騎士に迫る。重く、速い。高位の女神の力は複合され、更に強化された。

視認したころにはもう目の前に光条があった、戦車の姿は遥か彼方に消えている。

狼騎士は何とか片腕で振るう巨剣で自らの身を護りながら反撃の機会を探る…が呼吸すらままならない矢継ぎ早の連撃に呼吸をするのもやっとだった。

 

 

『g…!?』

 

 

――白く輝く神威を纏った二頭の機械馬が、狼騎士の目の前に稲妻の如く躍り出る。

 

純白の神獣は力強く大地を踏みしめ狼騎士に向かって疾走した。

完全に予想外な戦車の走行、月を牽く馬車による「体当たり」。人間の反応速度を超えた速さで現れた巨大な戦車は一切その力を緩めることなく狼騎士へと向かってただ駆けた。

 

 

『GAAAAAAAAAAAAAAAッ!!?』

 

 

巨馬にぶつかった狼騎士の身体が、そのまま強い衝撃と共に戦車で運ばれる。

音さえ置き去りにする戦車の疾走、その矛先で狼騎士はバラバラになりそうになる衝撃に全身で耐えながら巨剣を握りしめる。

吹き付ける圧で身体は一切動くことはなく、衝撃で体内の何かが破裂した音がした。

それでも意識ははっきりと女神の姿を捉えていた、戦車に轢かれながら狼騎士は戦車に立つ月神アルテミスの朧げな姿へと殺意を向けた。

 

――ドガァンッ!!

 

鈍く巨大な音をたて戦車が狼騎士ごと執務室の壁に突っ込む、大理石で造られた壁に大穴を開けると轟音と共に大小様々な瓦礫を飛ばした。

重い一撃、たった数瞬とはいえ月の戦車に轢かれ吹き飛ばされた狼騎士の身体が宙を浮き重力に従って土の地面に叩きつけられると転がった。

 

執務室の外、戦車に吹き飛ばされ夜闇に包まれた庭園に狼騎士は腕をつく。

月の戦車による強烈な突進は狼騎士の全身を砕いた、武器である巨剣を失わなかったことだけは幸いだが鎧の下では更に出血が悪化し激痛が走っている。

 

巨剣を地面につき、蒼炎に輝く瞳を周囲に向ける。

マーニファミリアの庭園、本棟に辿り着くまでに狼騎士も歩んだ前庭は広い。

良く手入れされた植木が強風にざわめいている。腰程の高さしかない藪がある程度の歩道には隠れられる場所は無く、天井を()くアルテミスの戦車からは良い的だ。

肌寒い夜の外気が蒼炎を揺らし、かぼそい星明かりと停止した満月だけが地上を照らす。

闇夜を光点が切り裂く。狼騎士を吹き飛ばした月の戦車は頂を蛇行する、広い天蓋を疾走する担い手は流れ星のように駆けると彼方から光の一夜が飛来した。

 

再び空間を穿ったアルテミスの矢撃を巨剣で打ち払う。

死角から、真上から、直撃すればただではすまない極光が闇夜を切り裂き目の前に迫った。

防戦を強いらながら狼騎士はアルテミスの姿を追う。純粋な神殺しの獣と化した狼は本能に任せて憎悪を募らせるが、理性を失った割には冷静にその動きを観察していた。

 

目標への衝動、だがそのために死に急ぐことはない。

そういう点において今の狼騎士は両橋夏目の戦闘スキルを保持したまま蒼い。感情に支配されるよりも遥かに原始的な「生物としての根幹」がアルテミスの神威によって目覚めさせられた今の状態ならば、理知的に計算することも可能だった。

 

極光、蒼炎。

狼騎士の剣舞が爆発を纏う神矢を斬り裂き、人ならば触れる事すらままならない高エネルギー体を蒼炎が殺す度稲光のような歪が走って消えた。

神代の闘争、殺し合う定めにある一柱と一匹は争い合う。

 

 

『GURAAAAAAAAAAAAAAAAAAAッ!』

 

 

矢を切り裂いた狼騎士が咆哮を挙げ、にわかに強く一歩を踏む。

装甲の解放された左手に満ちた蒼炎が大きく輝くと、巨剣に新たな蒼炎が充填された。

その瞳は高速で移動している戦車の姿を追っていた。人類の反応速度を超えているそのスピードは執務室中を動き回り、高位の冒険者であろうと姿を捉えることは、ましてや攻撃を当てることなど不可能に近い。

 

だが――既に狼騎士は人間じゃない。

 

 

『G…AAAAAAAAAAAAAッ!!』

 

 

蒼炎を秘めた巨剣があらん限りの腕力を持って振るわれる。

輝いた剣筋、滴らんばかりの熱量を込めた一撃は轟音と共に空間を裂くと「飛沫」を飛ばす。

巨剣より産み出された「蒼い炎の斬撃」は冷えた夜の外気を焼きながらまっすぐに天へと向かうと戦車のすぐ側をすり抜け大輪の華のように爆発した。

 

偏差斬撃、月神の戦車は確かに速いが狼騎士に捉えきれない程ではない。もしあれが地上のみ走る戦車であれば幾らでもやりようはあっただろう。

闇夜を駆ける光点、むしろ問題はその距離。天を駆け、遠距離から絶大な攻撃を繰り出す女神は一方的で、余りに狼騎士からは遠い。

 

だが――それでも、一度でも届けば。

 

 

『ヤツ…シロ……!』

 

 

幾つもの神の矢が地面にクレータを作る、破壊の中を走りながら狼騎士は白に拠る。

握りしめた巨剣に牙を模した白炎が濃く充填され、歯並びを合わせるかのように噛みしめると激しく燃えた。

 

白痴蒼炎、対するは銀月女神。

神代の戦はここに、夜の外気が吹き付け静止した満月が見下ろす中狼騎士は咆哮する。

 

 

『牙…ァッ!!』

 

 

振るわれる巨剣の先で、指標は成った。

 

 

 

・・・

 

 

 

執務室の中、憤怒に燃える少女の身体を纏った炎が際限なく膨れ上がっていく。

神殺しの火はその感情に起因して燃え上がる、蒼くて紅くて白い巨炎は美しく少女の身を焼いた。

肉を薪に、感情を燃料に。神殺しの獣ではない少女はリスク無しにその炎を燃やせない、その炎が大きくなればなるほど危険性は増していく…それでも少女は己を炎にくべ続けた。

 

やがて炎が広い部屋の中を満たし、やがて月甲に包まれたガルの視界を三色の炎が覆い尽くす。

そしてその中で商人は――赤より紅い、獣瞳を見た。

 

 

「ぎゃっ!?…――――なッ…!?」

 

 

ガルの視界に光が焼け付く、瞬間膨れ上がった炎の閃光に網膜が焼け付くような激痛が走る。一瞬何も見えなくなったガルは強く瞼を閉じ、反射的に流れた涙が落ちていくのを待つと擦れるような金属音に再び目を開けた。

 

 

 

いつのまにか炎の消えた室内、ガルの周囲に張り巡らされた防御壁「月甲」。

生半可な攻撃では傷一つつけることのできない魔法壁は使用者の精神がある限り破られず、今この状況において少女の火力では破ることは叶わない…はずだった。

 

執務室に満ちた紅炎、視界を覆う業火の中から飛び出てきた憤怒の獣はそのナイフを絶対防壁に突き立てる。

小さな身体に纏われた炎翼が揺らぎ、長い銀髪が撥ねた。その手に持った短刀は鋭い、魔力の壁に火花をたてながら拮抗した。

 

そして――まるでバターのように容易く月甲が縦に裂ける。

 

余りに呆気ない、並みの冒険者の攻撃を弾く盾が嘘のように容易く溶ける。

強く痺れるような恐怖が商人の心を縛った。

 

目の前に立つ業火、蒼い炎を噴出させ、その瞳から紅の液体を零れ落とす化け物。

翼のように広げた銀髪とその上に流れる炎が輝く。手にした鈍色のナイフは部屋に満ちた蒼炎の色を反射し、蒼く、白く、紅く燃えていた。

 

 

「くっ……!!」

 

 

咆哮。

余りに容易く裂かれた月甲の隙間から獣のように走りこんできた少女の姿にガルは呻く。

憤怒に燃えた獣の姿は恐ろしく、何より月甲を破られたことへの困惑と衝撃で思考はまともに働かなかった。

少女の身体が蜃気楼のように揺らぐ、火事場の馬鹿力か走馬灯かガルにはそれがやけにゆっくりとしているような気がした。

 

 

「――……らぁっ!!」

 

「――――ゥッ…!」

 

 

試しにガルが腕を振るうと少女の頭に握りしめた拳が鈍く当たった、少女の形をした化け物は声をあげてその場に倒れた。

月甲を突き破ったにしては弱い、何より自分の拳が容易く当たったことに驚きながらガルは痛みに悶えている少女を茫然と見下すとこれが現実だということを確かめる。

 

そして――思い切り、踏みつけた。

 

 

「おらっ!おらっ!おらぁっ!!」

 

 

柔らかい肉が足元で潰れる感覚、息を切らしながらガルは少女を踏みつけることに興じる。

次第に笑みを浮かべながら商人はその小さな身体に馬乗りになると、今度は()()を交互に少女の身体に振り下ろし始める。

 

子供の腕力で大人に勝つことは出来ない、きっと月甲が破られたのも何か間違いに違いない。少女は少女のままで、いつのまにか部屋中で燃えていた炎も感情も消えている。

やけに()()()()()ことにも気が付かず、ガルは既に反応の無い少女の身体を殴り続ける。

 

そしてとっくに少女の身体が潰れた頃、荒い息をつきながらふとガルは周囲を見渡した。

 

そこはいつもの『地下室』だった。

ガルの醜い本性を晴らすための遊び場、暗く冷たい石で出来たおもちゃ箱はいつものように臭う。

部屋の中心に立ったガルは驚きに目を見開きながらゆっくりと周囲を見渡すと、()()()()()の奴隷達が怯えた視線で自分の事を見ている事に気が付いた。

 

 

「は…はははは……!」

 

 

まるで時間が巻き戻ったような感覚。

ガルは自然と笑みを浮かべながら、奴隷の一人に歩み寄りその髪を掴んで立ち上がらせ殴りつけた。

肥えた身体は以前よりも生気に溢れ、容易く奴隷の息の根を止めると骨肉を砕いた。

 

笑いながらガルはあの日をなぞるように奴隷達を殺す。

裂ける肉の感触、響き渡る悲鳴、命の止まる音が掌の中で聞こえ、返り血を浴びてもガルは止まらない。

そして何かを呻く最後の女を剣で腹を貫いて殺すと荒い息をついて商人は血で濡れた頬を拭った。

深い満足感がガルを満たした。どうして自分が「こう」なのかはもはや解らないが、歪んだガルの思考は自己の感情を優先し、余裕のない器を喜びで満たした。

 

しかし――何か忘れているような気がした。

 

 

『…許さない』

 

 

どこかから小さな声が聞こえた。

暗い地下室でガルは振り返る、しかし自分以外に人はおらず、あるのは奴隷達の死体だけ。

 

 

『憎い…何故…私が…』

 

『生きたかった…もっと…』

 

『…殺してやる……絶対に殺してやるッ!』

 

『死にたくない…嫌だよ……神様…』

 

 

どんどんと大きくなっていく声にガルの呼吸が荒くなる。

見渡す限りの紅、自分に向けられる憤怒は商人には解らなかった、解るだけの心の余裕が無かった。

だが今は違う、それは彼女たちの声だった、ガルに届くことの無かった感情は何故か直接商人の脳に響くと痛んだ。

 

その足を死体から伸びた手が掴んだ。

殺したはずの惨死体達が立ち上がり、一様にガルへと手を伸ばす。

憤怒、憎悪、悲哀。理由は人それぞれ、だが満ちた憤怒に従うように伸ばした腕は商人の身体を伸ばすと強く握りしめた。

 

 

「あぁ…あぁぁ……!」

 

 

死体に押しつぶされながらガルは動かない。

ただ網膜に焼き付いた感情から、自分の犯した罪の重さに気が付いた懺悔する。

後悔しても既に取り返しがつかない、死んでしまったら命だけはそこまでなのだから。

そんな当たり前の事を今まで考えもしなかった、ただガルには…他人のことを考える心の余裕が存在しなかった。

 

幾重にも重なる腕の中からガルは地下室の壁を見る。

刻まれた小さな文字、母親に抱かれた少女の紅の瞳が瞬く。

死体に飲まれながらガルは激しい後悔に飲まれる、深い懺悔の涙を流しながら――その意識を失ったのだった。

 

 

 

 

・・・

 

 

 

八ツ白牙(ヤツシロキバ)が空を喰らう。

その巨剣が示すのは宙を自由に駆ける戦車、最高速を超えた銀月の担い手へと放たれた白炎の牙は強力な噴射炎(バックファイヤ)を空に刻みつけながら飛翔する。

人の物理法則では測ることのできない無軌道な光に牙を模した炎は縋りつく、噴き上げた白痴に気が付かずに八ツ白牙は空を切る。

 

――轟音、爆発。

 

夜空に炸裂する白い牙。

悉く空間を燃やし尽くす噛み合った破壊、押し寄せ吹き付ける熱波に庭園内の草木が強く倒された。

遥か上空で重なり合った業火は蒼く星の最期のように瞬き、鋭い獣の牙を模した。

 

狼騎士の八ツ白牙、重なり合った牙の隙間を月神の戦車がすり抜ける。

その火力の側を純粋な速度でもって通り抜けた戦車は破壊を免れ、広い夜空を旋回しながら幾重にも連鎖する白牙の爆発を肌一枚で回避していった。

 

 

『g…!』

 

 

当たらなかった事を悔やむ間もなく、極光を蓄えた神の矢が飛来する。

爆発の合間を縫って放たれたアルテミスの弓矢は速く、地上に立つ狼騎士へとまっすぐに落ちてくるとその神威を開放する。

咄嗟に蒼炎を展開し巨剣を構えた狼騎士の目前、爆裂した神威のエネルギー体が空間を満たす。原子レベルでの分解、視界を満たした白い月光に狼騎士は飲まれ、激痛に咆哮しながら神殺しの炎で神威に抗った。

 

 

『a…g……!』

 

 

光が引き、膝をついた狼騎士は抉れた地面の上に蒸発しきらなかった大量の血を吐き出す。

ただの人の子が神に勝てぬ理由、高濃度の神威はこの世界に存在するあらゆるものを溶かす。狼騎士が対抗出来るのはひとえに神殺しの炎が相殺するため、狼騎士は未だ完全体ではないので絶対耐性とまではいかないがそれでも怪我程度に抑えることは出来る。

 

血反吐を吐きながら月神の矢を受け切った狼騎士は視線を上にあげる、闇夜を切り裂く光点からはまた極光が射出されていた。

地面に巨剣をつき立ち上がった狼騎士は自らを鼓舞するように咆哮すると巨剣を振るう、神矢が炸裂する前に蒼炎で斬り落とした。

 

 

『AAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAッッ!!』

 

 

そこからは、死線だった。

遥か天高くより神威の矢を撃ち降ろすアルテミスに対し、狼騎士は隙を見て八ツ白牙を放ちながら立ち回る。

砕け散った神威が粒子となって弾け飛び、目の前に十字の極光が迫る度に狼騎士は巨剣を振るった。骨に直接響いてくるような衝撃は空間を圧迫すると、神威に抗う狼騎士の巨剣に重くのしかかった。

 

激しい損耗が迫り、神威で焦げた空気に呼吸が詰まる。

落ちてくる極大の神威が炸裂するたび身を護るために放出した蒼炎が削りとられ、空駆ける戦車に白炎を放つ度に炎の総量が減っていった。

感情を燃料にする炎は絶えず燃え続けているが、猛攻の前に需要は供給を追い越している。貯蔵はじわじわと消費され、火力が足りなくなれば矢を払うことすら出来なくなるだろう。その前に、この状況を打開せねば勝てる見込みは無かった。

 

頭の端に微かに残された戦闘理論を最大限に活用した狼騎士は咆哮しながら巨剣を振るう。

夜空を駆け巡った戦車を見上げた獣はその動きをゆっくりと観察すると、次に放たれた極光の軌道を読んだ。

 

 

『ッ…!』

 

 

巨剣を矢先に叩きつけた狼騎士が蒼炎を巻き上げる。

左腕より伝い巨剣の中に充填された神殺しの火は強く天に噴きつけると大地を砕いた。

天駆ける戦車より見下ろしたその巨大な熱は篝火のようであり、前庭を濃い蒼明で染め上げながら閃光を瞬かせると視界を阻んだ。

 

まるでそれは噴火寸前の火山のように、膨張した炎塊は強い上昇気流を発生させて丸く揺れる。巨剣内の貯蔵を大量に吐いた大火、地上を焦がす熱は嵐のように渦巻くと凝縮した。

そして一際大きく輝き膨張すると炎はついに限界を迎え破裂すると、噴火した火口のように、あるいは熟れた果実のように炸裂する。

真火を纏った狼騎士を中心に全方位へと炎の切れ端が撒き散らされ、数あるものは流星群のように前庭へとクレーターを作り、噴炎のように幾つかは天へと巨大な火を打ち上げた。

 

 

「ッ…!」

 

 

戦車に迫る視界を埋めるような火球にアルテミスは目を細める。天を焦がす巨大な炎の塊は空を駆ける月の戦車を面で圧倒しており、視線を阻まれた地上が濃い影によって一瞬隠された。

迫る熱気を肌で感じながら戦車は噴き上げた蒼炎の隙間を走り抜ける、呼吸の詰まるような焦熱が戦車へと手を伸ばしたが捉えることはできなかった。

 

噴き上げた巨炎の下、蒼炎に侵された地表は今まさに流星群のような炎の雨が降り注いでいる。宙から舞い落ちる蒼火は空爆のように前庭を焼き尽くし、蒼く輝く火粉を撒き散らしながら燃え広がっていた。

もはや美しかった庭園は見る影もない。先ほどまで夜闇に包まれていた庭園は眩しすぎる光に包まれており、その中心で的のように蒼く光っていた狼騎士の姿はいなくなっている。

破裂した炎、降り注ぐ炎は濃く、そのどれかに狼騎士が隠れている可能性が高い。

一方的だった状況は破られた、撒き散らされる焔によって狼騎士の居場所は解らなくなり、速く特定しなければ狼騎士に大きな隙を与えることになるだろう。

 

眼下を睨みつけたアルテミスは神威の月弓を強く引く。

狙うは降り注ぐ幾つもの火球、矢継ぎ早に放たれた光塵が収束し、正確無比な射撃が雨のように前庭へと降り注ぐ炎弾の中心を貫いた。

霧散した蒼炎が空に溶ける。靄のように一瞬歪んだ前庭は至るところが燃えており、陽炎(カゲロウ)の消え去った視界には狼騎士は映らない。

天を駆ける戦車から狼騎士をアルテミスは探す。しかしどれほど見渡しても蒼に延びた炎の中には影は無く、矢先を向けた地上から獣の息遣いは感じられなかった。

 

 

『GYAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAッッ!!』

 

「なっ…!?」

 

 

強い衝撃と共に、戦車の後部が大きく落ちる。

瞬間つんざくような耳元で叫ばれたような咆哮に月の女神は速く振り返ると、そこには蒼炎を噴き上げる左腕が神鉄の戦車を握り潰すほどに掴んでいた。

篭手の爪が戦車の鋼板を切り裂きながら狼騎士の身体を持ち上げる、高速で天を駆ける戦車に乗り込んできた狼騎士はその蒼い双眸をすぐ目の前に迫った女神の姿へと向けると熱い息を漏らして戦車の上に立ち上がった。

 

最初に打ち上げられた巨炎、そして次に雨のように降り注いだ炎弾。

見下ろした前庭は蒼く燃え、アルテミスはそのどこかに狼騎士が潜んでいると考えた…そもそも、翼のない獣が空を飛ぶはずがないと。

地上に巨剣を残し、炎に紛れ、狼騎士はそのカウント数によって強化された身体を使って高く跳躍した。狼騎士自身体験したことの無い高みは冷たく、重力に引っ張られる先には月戦車が走っていた。

 

 

「…!」

 

『GRAッ!』

 

 

限りなく近い至近距離、狼騎士の間合い。

戦車の上、巨剣を持たない狼騎士と弓を構えた女神の一瞬。

踏み込んだ狼騎士が拳を引く。もはや此処は弓の間合いではなく、例え巨剣を持たずとも狼騎士の方が速い。

蒼炎と極光が交錯する。至近距離から放たれた女神の一矢が鎧越しに頬を掠め、火花が散った視界の中で狼騎士は左腕を振るった。

 

 

「くッ…!」

 

 

鋭く繰り返される拳戟、逃げ場のないアルテミスは俊敏な動きで蒼炎に包まれた拳を躱し、奇跡的にいなす。

しかし触れる蒼炎は神威を貫き確実に女神の皮膚を焼いた。概念に直接響くような激痛にアルテミスは顔を歪め、今まで感じたことの無かった死の恐怖に荒く息を吐いた。

 

 

「…アールヴァクッ!!」

 

 

女神の呼びかけに応えた機械仕掛けの馬がいななく。

鋭い外気を貫きながら天を駆ける戦車は更に速度を上げ、そのままきりもみに激しく回転した。

強く外側に引っ張られるような衝撃に狼騎士の身体が揺らぐ。吹き飛ばされないように伸ばした左腕が空を切り、置き去りにされた狼騎士の身体が宙を飛んだ。

蒼炎が闇夜に千切れる。暫くの自由落下の後、狼騎士の身体が地面に落ちる。前庭に軟着陸することに成功した狼騎士は衝撃を緩和させると蒼炎の中を走り、巨剣を回収した。

 

見上げた夜空、旋回する戦車は高く、速い。

しかし一度は指先が引っかかった。狼騎士のことを見下ろす女神の表情は険しく、その背後にある満月も手が届きそうなほど近い。

巨剣を握りしめた狼騎士は天を仰ぐ。前庭を焼く蒼炎が気流を発生させ、咆哮する獣の炎を揺らがせた。

 

だが――万年(よろずよ)を生きる狩人の神性が、この程度で朽ちることはない。

 

 

「…夜雲よ!」

 

 

夜空にかざした掌と共に、女神は世界へ呼びかける。

それは原始の理を用いた現実の捻じ曲げ、神威を乗せた声は響き渡る。

まるでそれは歯車が強引に回されるかのように。夜闇をゆっくりと横切っていた暗雲が急速に加速を始め、早送りするかのように星々の光闇が瞬くと静止した満月の前に拠り集まり始める。

美しくはっきりとした月面が黒雲に隠され始める。女神の呼びかけに従う夜雲は天上からの月光を遮断し、遂にはすっぽりとその姿を覆い隠した。

地上から月光が消える、見上げた夜空には星明りが輝くばかりだ。

 

月の在り方。太陽のように自らは輝くことの無い星は何かに遮られれば容易く消える。

満月、三日月、新月。様々な顔を持つ彼女は古くはその度に名前を変え、上辺の性質さえ変容させる。

今宵は満月。しかし原始の理が世界に作用し、本来時間の満ち欠けでしか変わることのない月が女神の手によって永く隠されてしまった。

 

――――気が付けば、戦車は消えていた。

 

 

『…?』

 

 

パチパチという蒼炎の弾ける音だけが庭の中に響く。

見上げた夜空は暗く、先ほどまで白く美しい神威を振りまいていた月の女神の姿は無い。

訪れた静寂はまるで波紋のように広がる、その中で巨剣を構えた狼騎士は蒼い双眸で天を仰いだまま警戒する。

 

その肩口を、何かが貫いた。

 

 

『g…!?』

 

 

針が体内を通り抜けていくような感覚。同時に溢れ出した血液が鎧を濡らし、鈍い痛みと共に「攻撃された」ことに気が付く。

それは確かに不可視の一撃だった、神威を警戒していた狼騎士の警戒をすり抜けて先程までの極光がその身に届くはずがない。

威力はかなり絞られている、しかし見ることの出来ない神矢は狼騎士の鎧を貫くには十分すぎる程鋭く、速い。

 

光の届かない月は何人にも見ることは叶わない――――『夜兜(ヘカーティア)』、文字通り闇夜に()()()透明の戦車は疾く、女神は暗黒を踏んで狼騎士へと神矢を放つのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

痛みの走った眼球を少女は強く抑える。溢れ出していた深紅の涙が掌に滲み、蒼く紅い色をした痛みが引くまで耐えた。

やがて少女の視力が戻る、蒼炎に包まれ半壊した執務室の中に立った少女は傷だらけの身体で荒く呼吸を繰り返すと自らを焼く炎を大きく揺らした。

 

 

「あ…が……ぁ…」

 

 

ゆっくりと向けられる燃瞳の先、『月甲』に阻まれた絶対空間の中で商人がうめき声をあげている。

泡を吹いたガルはまるで悪夢でも見ているかのように苦し気にもがく、幻覚に侵された病人のように瞳孔を激しく収縮させ、上下左右を行き来した後バタリと大きな音をたてて倒れると動かなくなった。

同時に使用者の精神力を用いて貼られていた月甲がその中心から溶けていく、まるで飴細工のような魔法壁はゆっくりと消え去るとそこには痙攣したままのガルが倒れている。

 

商人の瞳は蒼く『焼きつけられていた』。

少女の纏った感情の炎、それはあの地下室という世界で生まれた憤怒。少女が見たままの景色を内包する炎は膨れ上がり、少女の中の全てを喰らいつくしてただ爆発した。

瞬間部屋の中を埋め尽くした閃光。月甲さえ通り抜けた思いの光は商人の目に強く焼け付き、脳内を『少女の見た景色』で埋め尽くして意識を奪った。

それは幻覚よりも遥かに直接的な眼への貼り付け、少女の憤怒を商人の瞳に焼き付けた閃光はその象景を蒼炎で焼き写し、その火力の殆どを消費して商人の瞳を燃やした。

少女の強すぎる感情を消費したその技は半ば偶発的な発言ではあったが少女の力であることには変わらず…それほど神殺しの炎に侵食されてしまったということでもあった。

 

だが――もう、炎は必要無かった。

少女の行く末を阻む壁は消え、目の前には意識を失った商人が倒れている。

 

 

「……」

 

 

炎翼を纏う少女は一歩を踏み出した。

蒼炎が照らす広い執務室の中、傷ついた身体を引きずる幼い少女は絶えず赤色の涙を流し、その瞳と同じ紅の焔を散らして空気を焦がす。

歩く度全身に激痛が走り、朦朧とする頭が酸素を求めて荒く掠れた息をつかせた。砕けた瓦礫が素足に突き刺さり、ふらふらとした子供の足取りを赤くにじませた。

 

少女の歩みは苦痛に満ちたものだった。

それでも少女の復讐すべき相手は目の前にいた、自らの母親を殺した憎き相手がそこにはいた。ただ自らの抱いた感情のおもむくままに、明確に言葉にすることは出来なくとも少女は止まることは無かった。

 

 

「……」

 

 

目に見えるあの地下室が少女にとって世界の全てだった。

とても幸せと呼べる環境では無かった。行われる行為の意味は解らずともおぞましく、とても満足といえる量の食事をした試しがない。

 

それでも少女には自らを愛してくれる母親がいた。

いつだって優しく微笑んで抱き寄せてくれた母親は柔らかく、頭を撫でてくれる掌は暖かくて大好きだった。

それだけだった、それでも少女にとって彼女は母親で、神様にも等しい存在で、たった一人だけの家族だった。

 

そんな母親が、殺された。

 

 

「…………」

 

 

砕けた床の上に転がっていたナイフを傷だらけの少女は拾い上げる。

授けられた鉄の短刀は凍るように冷たくなっており、吸い付くように手になじんだ。

乾いた涙の上を溢れた薄紅色の液体が覆った、ゆっくりと歩む少女は商人の元へ近づきながら消えかけの炎で髪先を灯す。

 

復讐は、すぐ目の前にまで迫っていた。

 

 

「…………ぁ」

 

 

足元で気絶している商人の姿を少女は見下ろした、痙攣するその男は瀕死だがまだ息がある。

ゆっくりと、その太い身体に少女は跨った。肥えた身体の上で少女は体勢を整える、細い足で気絶し無防備になったガルの身体を挟み込む。

手が震え、息が乱れた。ナイフを逆手に持ち直した少女は、冷たい短刀を両手で掴んだ。

 

それは、復讐だった。

自らの全てを殺された少女は憤怒を見た、地下室に囚われた魂は限界を超えて紅く燃えた。

全ては少女の愛した母親のため、復讐を果たさなければ少女は自らの憤怒を燃やせない。

 

故に――

 

 

「…………ぁぁぁぁぁああああああああああああああああああッッ!!!」

 

 

――少女はその腕を振り下ろす。

 

 

 

・・・

 

 

 

静寂の中、不可視の神矢が狼騎士へと迫り来る。

天を仰いだ獣は蒼炎を噴き上げ巨剣を構えながら庭中を走り周り、その憎悪に満ちた双眸を満月の隠れた夜闇に向けていた。

 

疾走する狼騎士は荒く呼吸を繰り返しながら、最大限に研ぎ澄ました五感で闇夜を感じとる。

微かに耳に届く風切り音を頼りに地面を踏む狼騎士は狙いを外すように立ち回り、背後で神威を帯びた小規模な爆発が炸裂する度強く地面を踏みしめる。

 

闇夜に潜んだ狩人から放たれる神威の矢。

降り注ぐ銀色の破壊は狼騎士を正確に狙い、走り抜けた後を抉り取って融解させる。

その規模は先程の極光と比べれば半分以下にも満たないが、細く鋭い神矢は矢継ぎ早に狼騎士を狙い続けている。

 

 

『GRR…ッ!』

 

 

仰ぐ夜空、駆ける月神の戦車は確かにそこにいるはずだが、その姿は全く見えることはない。

その神性は「月光の届かぬ暗闇での透過」。地球の影に隠れた新月に光が届くことはなく、月身の顕現であるアルテミスとその戦車もまた姿を隠した。

届くのは神域から放たれる光矢の風切り音のみ、闇夜に満ちた前庭を片足のみで駆け回りながら狼騎士は僅かな音を頼りに神威の爆発を回避し続けていた。

 

 

『ッ…RAAッ!』

 

 

焦土を踏みしめた狼騎士は音の聞こえた方向に巨剣を振るう。

確かな手応えと共に刃先では一矢が粉砕され、滴るほどに充填した蒼炎で溶け消えた。

それはまるで銀色の蝶を握り潰したかのような光景だった、儚い力は粒子となって消え去り彼方へと運ばれていった。

 

だがそれだけだった、たった一度の攻撃を阻んだところで状況は変わらない。

 

 

『――ッ!?』

 

 

背後で矢の放たれる乾いた音が複数響いた。

至近距離、打ち返すことは出来ないほどの近さだと瞬時に判断した狼騎士は避けるために横に跳ぼうとした。

 

その身体を月の戦車が前方から轢く。

背後から放たれた弓矢、そして神速で前面に回り込んできた戦車の突進。本来の物理法則では不可能な挟み込みは避けることすら叶わず狼騎士の身体を叩きつける。

見えたのは自らの蒼炎に照らされ半透明になった戦車の輪郭と、背中に幾本も突き刺さった矢の鋭さ。

吹き飛ばされた身体は風を斬りながら小石のように飛ぶ、そして大理石でできた本拠地の壁に強く叩きつけると肉の潰れる鈍い音をたてて砕いた。

力無く炎の消え去った身体が地面に落ちる、隙間の空いた左手と兜から溢れ出た血が地面に池となり、その中心に決して手放さなかった巨剣と共に座り込んだ狼騎士の眼窩は真っ暗な空虚で満ちていた。

指先で揺れていた蒼炎が消える、闇に溶けた戦車の上で女神はその月色の瞳を閉じる。

鼓動は緩やかに終わりを告げており、流れ続ける血も急速に熱を失いつつあった。

 

それでも狼騎士は、神殺しの獣は目の前に神が在る限り諦めることは無い。

 

 

『……』

 

 

全身を貫く死に抗いながら、巨剣をつきたて狼騎士は立ち上がる。

その瞳に宿るのは風前の蒼火、死にかけた身では立つことすら不可能だっただろう。

それでも立つことが出来たのは執念か、あるいは交わされた約束を果たすためか、あるいは――たった一人の少女の手を握りしめるために。

 

炎は煌々と燃える。

闇の中で細く揺らめいた炎はその意志を強く滾らせた。

思いは死なない、抱いた憎悪と願いが入り混じり蒼く燃え上がる。

 

よろめきながら庭の中心へと歩いていく狼騎士に女神の弓矢が向けられる。

闇夜に潜んだ狩人の守神はその神秘を最大限に研ぎ澄まし、解放した神威を濃く凝縮させ集まり始めた。

 

透明な極光が集う弓矢の差し示す先、巨剣にもたれかかった狼騎士はその蒼く燃える瞳で闇夜を睨みつける。

僅かな星明かりしか存在しない夜空は暗く、鎧の隙間から血を流した騎士は巨剣を構えずただ僅かな炎を揺らしていた。

 

狼兜の口が開く。

並んだ鋭い獣牙、蠢く蒼炎の舌、鉄でできた口腔は滑らかに開閉し熱い吐息を漏らす。

やけに生々しいその口には球状に膨らんだ真炎が渦巻いていた。それは今までとは少し違う、変質された炎。まるで(コア)のような小さく濃い炎は不規則に揺れ、口内で激しい明滅を繰り返していた。

 

放たれる真炎の核。

天へと昇る球状の光は揺れ動き、暗円(ブラックホール)のように内側へと蠢動する。

やがてアルテミスのいる位置よりも高く昇った核は、星々の一つのように蒼く点と化した真炎は、地上の狼騎士の咆哮に合わせて展開された。

 

――『疑似太陽・蒼』。

 

それは人工で造られた恒星。

折りたたまれていた星の設計図のままに夜闇に輝く小規模な太陽は燃え、閃光を撒き散らす。

巨大な火塊、プロミネンスを発生させる蒼い星は急速に膨らみながらにわかに周囲を照らし出す。

本物の太陽程の熱は持たない星は脆く小さい、しかしその輝きは僅かな時間地上に光を届かせるには充分過ぎる程であり、隠れた()()の姿を朧げに映し出せるだけの輝きは内包していた。

 

明らかになる女神の姿、半透明だったその神性が蒼く縁取られる。

戦車の上に屹立した花嫁は月神の弓は引き絞り狼騎士へとその狙いを定めていたが、突然の天上からの蒼光に驚愕し、思わずその視線を上げてしまっていた。

徐々に落ちてくる脆い天蓋を前にアルテミスは急遽弓先を真上に向ける。天に輝く小さな星には破壊力こそ無くその不安定さから既に綻び始めてこそいたが、それでもその輝きを無視することは難しかった。

 

溜め込まれた神威、放たれる極光は天を裂きその真核を正確に貫いた。

遥か天上で疑似太陽が風船のように破裂する、脆い炎塊は鋭い白光にその原型を保てず、微かな瞬きの後強烈な熱波となって吹き付けた。

 

星の最期、一際大きな輝きの中。

目を開ける事すら困難な吹き付ける熱波に耐えながら眼下を見下ろしたアルテミスは狼騎士の姿が消えている事に気が付く。

焦土と化した庭は見る影も無く、隠れられるような場所は存在しない。しかし狼騎士の鎧はどこにも見ることはできず、その身体を隠せるほど巨大な炎は存在していなかった。

頭上はありえない、銀色の粒子と共に走る戦車から眼下を探す、砕かれた大理石に残った血の跡はそのまま壁を伝い、建物の天井へと向かっていた。

 

 

「…!?」

 

 

白亜の本拠地の屋上、狼騎士はそこにいた。

 

斜面に片膝をつき、爪を突き立てて身体を固定した身体は芯を通したかのように上体は伸ばす。

その瞳は上空に浮かぶ半透明の戦車を見据え、穏やかに呼吸をするその様は荒々しい化け物には似つかわしくほどに落ち着き、明鏡止水の如く鋭くゆっくりと溜めを作る。

 

――その手には極大の鋭弓。

 

鉄片で構成された蒼き機械弓、人が扱うには余りに長く細い握幹は狼騎士の手の中で鈍色に光る。張られた鉄糸につがえられた螺旋状の槍矢の尾には濃い蒼炎が灯り、弦を限界まで引き絞る右腕は強制的に動かされる反動に鎧さえ砕けて血を噴き上げているのが見えた。

 

それは狩猟の女神が一瞬でも見惚れる程、綺麗な型だった。

屋上の斜面に膝をたて、上体を伸ばしたその佇まいには武芸者が持つ一種の清廉さが静かに内包されており、弦を引く腕は大怪我をしているにも関わらず完璧な位置で留まっており、その者の完成された技術の高さを解らせた。

 

静かに燃える蒼い双眸と月を移したかのような女神の視線が刹那の中でピタリと合う、天地に座した神と獣はその瞬間全てを悟る。

遠い此方の距離、解り合うことの無い両者はただ静かに互いの瞳を見つめ、互いに通じ合うことも無くただその時が来ることを待った。

 

そして――遂にその規格外の槍矢は、放たれた。

 

地上から打ち上げられた蒼火はまるで光線のように空を切り裂き、音を貫き、闇夜の中で天を駆けていたアルテミスの戦車に着弾すると静かに、蒼く爆発した。

遥か天上で機械仕掛けの戦車がバラバラに砕け散るのが見えた、衝撃と共に空間を吹き飛ばした蒼炎に二頭の馬が消し飛び、塵のように弾けた白い欠片だけが闇夜の中に落ちていった。

 

 

『…』

 

 

その破壊力を実感するには余りに遠すぎる距離、比喩でも無く天翔ける月を落としてみせた狼騎士は油断なく弓を少し容積の減った巨剣に鋳造し直すとその瞳を高い空へと向ける。

丸く広がる濃煙、仰いだ夜空に漂う煙は千切れ拡散する。その中から一際強い神威が白煙の尾を引いて落ちていく、戦車を破壊され移動手段を失った女神は脱力したまま重力に従い、地上への自由落下を始めた。

 

たなびく髪、だが確かに生きている神威の匂い。

全身が蒼炎に焼かれたその姿を見上げた狼騎士は少しの思考の後、大理石の屋上から飛び降りる。

弾けた右腕を無視し、頭から隕石のように落ちてくる女神を仰ぐと緩やかに巨剣を構えた。

 

最高速に到達した女神がそのまま土埃を巻き上げて地面に激突する、並みの生物ならば死滅する程の衝撃が焦土と化した前庭を砕いた。

衝撃波に目を細めながら狼騎士は土煙がひくのを待つ、前庭の中心から丁度狼騎士と相対する場所に落ちた女神はクレーターを作り、身動き一つしていない。

 

 

「……カハッ!…く…ぁぁ……!!」

 

 

そんな窪みの縁を血に濡れた御手が掴んだ。

引き上げられる身体は見る影も無い。美しかった花嫁衣装は至る所が灰と化し、神威でも防御しきれなかった神殺しの炎に赤黒い火傷を幾つも創りだし、その腹部には巨大な貫通痕が残っていた。

 

髪は乱れ、苦痛に満ちた顔は既に満身創痍だということを伝えている。

その足は火傷に侵されとても立てるような状態じゃない、全身から流れ出る血は濃く灰と化した地面に垂れ始めた。

 

例え神だろうと戦えるような状態では無かった、それでも女神は狼騎士の前へと踏み出した。

決して諦めないその姿は狼騎士のそれとよく似ていた、自らの子の為に命を削るその姿はリョナと同じ親としての在り方そのものだった。

 

 

「……みんな…オリオ…ガル…!」

 

『GRR…!』

 

 

子供を愛さない親などいない。

怪物趣味でも、人殺しであっても親と子供の関係が変わるわけじゃない。

犯した罪は消えない、それでもどんな代償を払っても子供を大切する気持ちにだけは偽れない。

 

偽れないから、両者は殺し合う定めにいた。

互いの子を護るため、絶対に譲れない願いがぶつかり合う。

例え歪んでいたとしてその愛に偽りはない、例え拾っただけの関係でもその愛に嘘は無い。

 

 

「怪物趣味でも!なんでも!あの子は私の子供だッ!私の子供だから…やらせるかぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」

 

『GYAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAッ!!!』

 

 

咆哮がぶつかり合う。

瞬間放たれる濃い神威と、感情に起因する蒼い神殺しの炎。

月弓を構えたアルテミスに拠り集まる原始の力、狼騎士の握りしめる巨剣から放たれる三本爪の蒼火。

 

両者は膨れ上がっていく自らの最大級を持って対峙する。

月の女神の一撃は白銀、神性を最大限に活用した文字通りの全て。

くべられる感情は濃く蒼炎を滾らせ、片腕で構えられた巨剣に充填されていった。

二対の破壊が巻き起こす対流は不穏な突風を発生させ、軋んだ物理法則が強い地震を発生させながら崩壊していった。

 

弦を引き絞った姿は強くその輝きを増していき、研ぎ澄まされた神威とそれに対を成す蒼炎が最大限にまで達した瞬間に放たれた。

 

――ぶつかり合う光芒、神話によってのみ語られる幻想の衝突。

 

 

「…月運之矢(ルナリア)ァァァァァァァッッ!」

 

『AAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAッッ!!』

 

 

蒼起三爪(ソウキノミソウ)月運之矢(ルナリア)

拮抗した二つの力は溢れ出す熱と紫電によって空間を焼きながら混ざり合う、衝突した想いの炎が強く刹那を光で満たし、瞬く間に何も見えなくなってしまった。

 

青と銀に支配された世界の中で、全身にのしかかる重圧に押しつぶされそうになりながら。

狼騎士はただ自らの巨剣だけを握りしめる、今にも弾け飛びそうな力との拮抗を押さえつけ抗う。

蒼起三爪、振り下ろした死力は片腕のみの力、吹き飛びそうな自らの足を、身体を支え、全身の鎧が砕けるほどの衝撃波に血を吐きながら全身にかかる激痛と今にも吹き飛ばされかねない圧力に耐えた。

 

 

『――――AAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAッ!』

 

 

その口から、自然と咆哮が漏れる。

生死をかけた衝撃が狼騎士の全身を押しつぶそうとした、

 

それでも狼騎士は一歩を踏む。

牙が砕ける程食いしばり、例え全身が砕けたとしても蒼起三爪を纏った巨剣だけは手放さない。

 

光に塗りつぶされる視界の中で狼騎士は少女の姿を思い出す。

浮かんだ小さな存在、母親譲りの銀髪はたなびき、その紅色の瞳は何も見ていなかった。

諦められなかった。交わした約束が狼騎士の足を前に進ませ、少女のへの想いが巨剣を強く握りしめた。

 

ただ感情のままに、咆哮する獣はたった一人の少女のためにその命を燃やす。

光の中でもがき、ただ思いのたけをぶつける。感情をくべる度、炎はその勢いを増していく。

ここで死ぬわけにはいかないという想いが強く体内を駆け巡る度、その輝きを更に濃くしていった。

 

もはやその身は人間ではない、神殺しの獣としての完成も目前に近い。

それでも狼騎士は自らの愛した少女のために、あの時交わした約束のために。

 

――白痴蒼炎に消え去った狼は、その巨剣を振り下ろした。

 

 

 

・・・

 

 

 

天を裂く三本爪の蒼火。

闇夜に拠り集まる叢雲を吹き飛ばした狼騎士の一撃は天を焦がすほどの炎嵐となり、月を覆っていた八雲を消し去った。

 

放たれた月運之矢(ルナリア)と、振り下ろされた蒼起三爪(ソウキノミソウ)

最高級の激突に打ち勝ったのは蒼炎、輝きを増した神殺しの炎は神威を叩き潰した。巻き起こる爆発エネルギーは全て天に向かい、伸ばした獣腕は月にまで届いた。

 

 

『……』

 

 

破壊の余波によって巻き上がる炎獄の中、狼騎士が足を引きずり歩く先には一人の女神が倒れている。

焼け爛れた花嫁衣裳、白い肌は血に汚れ、失った肉体からは真っ赤な血液が水たまりのように広がっていた。

 

女神アルテミス。月の運び手であり、高位の狩猟神。

その終末、存在は今や淡く消えかけ、神核は手遅れなほど蒼く焼けついた。放射状に広がった髪は端を蒼く燃やし、まるで簪華のように揺れていた。

 

永久に不滅の神は化け物に敗れ、今まさにその神話を終えようとしている。

 

 

「…」

 

『…』

 

 

微かに開いた瞳でアルテミスは自らのすぐ隣に立った狼騎士の姿を見る。既に満身創痍といった様相の獣は意志を感じさせない瞳で女神の身体を見下ろしている、その手には蒼炎を纏った巨剣を持っており…()()()をさしに来たのだと解った。

 

狼騎士が巨剣を構える、同時に放たれる冷ややかな殺意は濃くその憎悪を思わせる。

女神は目を閉じる。敗者の末路は知っている、覚悟を決めた月神は涙を流し、最期に最愛の者達の事を思い出し「ごめんね」と心の中で呟いた。

 

そして巨剣は振り下ろされ――

 

 

「ッ………?」

 

 

――目を開けると、自らの身体を潰すはずだった鉄塊が宙で止まっている。

 

狼騎士の手は震えていた。

巨剣を持った腕はまるで抵抗するかのように固まり、そして強く震えたまま引かれると、やがて()()()()()()()()()

 

 

『……a…』

 

「…?」

 

 

不可解な行動に女神が混乱する中、苦し気に声を漏らす狼騎士は悶える。

嗚咽のようにも聞こえるその声に耳を傾けながら女神はぼんやりと狼騎士の姿を眺め、司馬らの後自らの横に膝をついたその騎士は血に混じった半透明の液体を零しながら狼牙を開いた。

 

 

『「――――…俺…は…アンタを…殺したいわけじゃないんだ…!」』

 

「…」

 

『「――――ただ…あの子を守れればそれで良かっただけなのに………なのに…なんで…ッ!!」』

 

 

少し目を見開いた女神は改めて狼騎士の姿を見る。

狼兜、全身に纏った蒼炎。神殺しの化け物、それが狼騎士のはずだ。

だというのに目の前に膝をつき顔を覗き込んでくる獣はまるで子供のように涙を流し、苦悶を叫んでいる。

 

どこか化け物への見方が変わってしまったアルテミスはくぐもった感情を聞く、ひび割れた口を何とかして開けると声をかけていた。

 

 

「あなたもまた…子供、なのですね…」

 

 

自然に漏れ出た言葉に狼騎士が激しく揺れる瞳をこちらに向ける、その瞳に殺意など一切感じられず…苦悩する人間らしさに満ちていた。

蒼炎に侵されながら女神は最期の力で話そうとする。しかし余力はそう残されておらず、痛みで思考は纏まってはくれなかった。

 

故に…死にゆく身体で、ただ思いを語る。

 

 

「…子供は、親を選べない。あなたは神を殺す者として生まれ、その使命を押し付けられた」

 

『「…」』

 

「ですが…子どももまた一人の人間、親から押し付けられる考えや価値観が必ずしも合うとは限らない。故に親は…私はありのままのあの子を受け入れて、その上で諭すべきだった…」

 

 

アルテミスは親として間違えた。

子供のことを考えるばかりに自らの考えを曲げれず、意地を張ってヒューキ・ガルを拒んだ。

その結果ガルは間違いを正されぬまま育ち、平行線になってしまったアルテミスと自らも距離を置くようになってしまった。

 

最愛の親に在りのままの自分を拒まれ、否定されることほど辛いものは無い。

長く続く苦しみに、いつしかガルは否定される分だけ自らを過剰に肯定するようになり、何故解り合えないのかと苦しみながら逃げるようにして凶行に手を染めるようになった。

 

唯一の子供、唯一の親。

この世界で最も大切で、最も距離が近いからこそ傷つけあう。切れない縁だからこそ問題を

解決出来なければ苦しいままだ、そのまま別れてしまったら悲しいままだ。

 

冷静に状況を見て、話をするべきだった。仲直り、なんて当たり前の事をしなかったせいでこの状況は生まれた。

そのための心の余裕をアルテミスは持っていなかった、その()()()()()()()()は重く脳内を締め付けていた。

 

女神の瞳から涙が落ちる、濡れた眼を白い建物に向けたアルテミスは手を伸ばす。

 

 

「ごめんなさい…ガル…オリオ……私がもっと…ちゃんとしていれば…!」

 

 

蒼炎の向こう側、白亜に揺れる建物が惜しい。

気が付いたころには何もかも遅すぎた、今からでは取り返しがつかなかった。

 

膝をついた狼は口を閉じて、女神の懺悔に耳を傾ける。炎獄の中で子供達への想いを語る女神の姿は…不完全な人間と変わらない、親の姿でもあった。

嗚咽を漏らしながら狼騎士に目を向けたアルテミスは遠く目を細める。

思い返すのはラグナロク、世界の終わりの戦争で見た天を衝く化け物。

 

そして――この世界の終焉。

 

この人間らしい化け物に伝えなければならないと女神は酸素に喘ぐ。

手を伸ばし、冷たさを感じながらその瞳を見た。

 

 

「…昔、()()()()()()()()()()()()()()。神を殺す巨大な化け物…世界を…滅ぼすという獣は……全て…あの…女神が…」

 

『「――――」』

 

 

言葉半ばにアルテミスが崩れ落ちる。

急速に霧散していく神性、光り輝いていた神威は枯葉のように消え、美しい七色の光は衰えていく。

 

建物へと向けられた手が地面に落ち、脱力した瞼がその動きを止めた。涙を流したままの瞳が彩を失った。唇はもう二度と動く事を放棄した。

最期の言葉は聞き取れなかった、反射的に狼騎士はその掌に手を伸ばした。

 

 

『「…ッ!」』

 

 

瞬間、触れるより先に女神の身体は白銀の粒子に分解された。

細かな神威の粒はまるで蝶の鱗粉のように揺れていた、かつて神だったものは美しい粒子の集合体に変換されてしまった。

 

女神は死んだ、神殺しの炎に殺された。

白銀の粒子が空気に乗る、花粉のようにふわりと巻き上げられた神威の粒は風に吹かれて空に向かう。

 

暫くは集まっていた銀色もやがて解け、月に照らされた夜空の中へ溶け消えた。

神威はもうどうこも残されていなかった、ただ蒼い炎の中に包まれながら…拳を握りしめた狼騎士は立ち上がる。

 

俺が握るのは彼女の手ではない、俺が握るのは――――

 

 

 

・・・

 

 

 

その部屋の中に少女はいた。

死体の上に腰かけた幼き女の子は嗚咽を漏らし泣きじゃくりながら、掌で自らの瞳を覆っていた。

 

その足の下には胸に短剣を深々と突き刺した死体があった。

蒼炎に包まれたその死体は取り返すのつかないことをした。当然の報いだった、それでも殺すという事は、少女が背負うには余りに辛過ぎた。

 

 

「はぁッ…ぐッ……!」

 

 

それでも、足を止めるつもりは無かった。

全身は血に塗れ、片足で重い身体を運ぶ。

息は乱れ、激痛が走る度意識が落ちそうな感覚に襲われる。

 

あと少しで良い。鎧を解いた身体で必死に歩く俺は願う。

震える少女の側へ。死ぬわけにはいかない、まだ約束は果たしていない。

美しい母親譲りの銀髪は蒼炎を反射し輝き、感情のままに泣くその姿は独りぼっちだった。

 

少女は一人で立つことが出来ないほど弱い。

だから誰かがその手を引かなければならない、死んでしまった母親の代わりに。

 

 

「…」

 

 

見下ろした少女は俺の姿に気が付かない程泣いていた。

それほどまでの感情の発露は嬉しくもあり、同時に悲しくもあった。

膝をついた俺は気合を入れる。銀髪の少女の事を見つめ、軽く涙を流しながら何とか動く左腕を持ち上げた。

 

 

「――――……?」

 

 

少女は、頭の上に乗せられた掌の感触に泣きじゃくるのを止める

母親と良く似た感触に少女はその瞳に涙をためたまま振り返り見ると、そこには自分と同じように涙を流す男の姿があった。

 

ゆっくりと少女の頭を撫でる手は母親じゃない。それでもそこにはしっかりとした愛情がある。例え血は繋がっていなくても、両橋夏目はこの子を愛している。

 

――確かに小さなその身体を抱きしめた。

 

 

「…俺がいるっ…俺は、一緒にいるから…ッ!…だから…帰ろう――――『ハティ』…!」

 

 

 

…もう、少女の側に母親はいない。

それでも抱き寄せられた少女は向けられる愛情に安堵する。喪った悲しみに涙を流しながら、変わらない柔らかさで自らの居場所を教えてくれた男の腕に体を預けた。

 

ゆっくりと抱き寄せられた狼人の少女は月を見る。

その瞳に映った満月は煌々と輝き、その手前では月まで届いた三本爪の巨炎が今まさに崩壊を始めている。

 

どこか見とれてしまうその景色は美しくて、抱き上げられた少女は母親に教えてもらった唯一の言葉を呟く。

 

 

「…きれい」

 

 

その銀色の髪先から、最後の蒼炎がひらひらと零れ落ちていった。

 

 

 

・・・

 

 

 




次は本日中に投稿出来るかと思われ。
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