このダンジョンに神殺しが居ることは間違っている。   作:みころ(鹿)

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 ウナギのかば焼きを食べようとして死にかけた男の話

・・・

 

 

 

「…よし、痛まないか?」

 

「はい、ありがとうございます!」

 

 

俺は噴水の縁に座らせたベルの膝の包帯を巻き直していた。

 

だいぶ無理をして戦っていたとはいえ元々軽かった膝の怪我は悪化はしておらず、これならば普通歩くことも走る事も出来るだろう。

それに背負っていた合間に寝ていたからか体力面も回復していたようで、今はすっかり元気になっていた。

 

しゃがみこんで包帯を巻いていた俺は立ち上がると、ベルを見下ろす。

…キラキラとした表情を浮かべたベルは俺を見上げていた。

 

 

「どうする、このまま豊穣の女主人行っちまうか?」

 

「そうですね…そうしましょうか!…あ」

 

 

今晩の予定は豊穣の女主人で決定している。

時刻は夕暮れ近くだし、それなりに二人とも腹を空かせているからすぐに豊穣の女主人に行くことは、服が少し汗臭いかも…という事を除けばむしろ効率が良かった。

 

首を縦に大きく頷かせたベルは、自らの隣に置いてあったバスケットに気がつく。

 

 

「でもまずは今日分の魔石を換金した方がいいかなって…」

 

「お、それもそうだな。じゃあここで待ってな、俺行ってくるから」

 

 

俺は腕を伸ばし、ベルの脇の置かれたバスケットを掴むと肩にかけ、ギルドのある方向の道に足を向ける。

 

 

「はい、待ってます!」

 

 

そしてベル君に見送られながら俺は道を横断する。

 

――道を行く冒険者の一行が目に入った。

 

一般的な冒険者のパーティに見える三人組は、どうやら俺と同じようにギルドに向かっているらしい。

順序的に俺は同方向なのだからその後ろに着くと、何気なくその会話を聞き始めた。

 

…髭面の男が隣の屈強な男に喋りかける。

 

 

「…そういや、ローラン達のパーティが全滅したらしいぞ」

 

 

屈強な男は驚いた顔をする。

 

 

「嘘だろ、確かに最近見ねぇとは思ったが…クソ」

 

「…まぁ、珍しいことでもねぇがよ。やっぱり最近まで酒を酌み交わしてた奴らが死んだっつーのは後味悪いな…」

 

 

どうやら知り合いがダンジョンで死んでしまったらしい。

珍しいことでは無いのかと俺は知ると、そんなものかと半ば納得した。

 

…その時、今まで喋っていなかった三人目が険しい顔で会話に加わる。

 

 

「…仲間割れって話もあるぞ」

 

「何だと?」

 

 

つられて二人も険しい顔になる。

切り出した三人目はそのまま続けた。

 

 

「なんでもソーマファミリアのサポーターの男を雇ったらしくて、その男の持ってたクロスボウが他の奴の死体に刺さってたって聞いたんだが…」

 

「あぁ…?」

 

「とはいえ噂の域を出ないが…ソーマは良い噂聞かねぇよな」

 

「…チッ」

 

 

ソーマファミリア、という単語が出てきた所で目の前にギルドに到着した。

俺は意識を切り替えると、三人組の後に続いて建物の中に入った。

 

…いない。

 

ギルド内はそれなりに賑わっているが、あの眼鏡エルフはいなかった。

見つかると色々と厄介なので、俺は少しでも高身長を隠すようにして換金所の列に並ぶ。

 

…相変わらず回転率が速い列は順番が回り、すぐに俺の番がやってきた。

 

 

「ハッ…おまえは…!?」

 

 

カウンターの向こうの職員が俺の顔を見て驚きの声を上げる。…見れば初めてここに来た時に大量換金したあの職員だった。

とはいえ俺はそれを無視し、持っていたバスケットの蓋を開ける。

 

…職員がゴクリと唾を飲み込んだ音が辺りに響き渡る。

 

 

――カランコロン。

 

 

バスケットの中身を開ける…が、その見た目の大きさとは合わず十数個ほどの小さい魔石が転がり出た。…前回俺が稼いできた量とは比べるまでも無く少ない量の魔石が換金所の机の上を転がった。

 

 

「…なんだビックリさせやがって…はいよ5000ヴァリス」

 

 

何だか物凄く不遜な物言いだが俺は特にそれを気にせず、カウンターから出てきた金貨を雑に掴む。

そしてポケットに入れ、バスケットを担ぎなおすと足早に立ち去ろうとした。

 

…とギルドにいたほかの冒険者の会話が耳に入る。

 

 

『…そろそろ怪物祭だなぁ』

 

『お、もうそんな時期かぁ…』

 

 

怪物祭?という単語が妙に気になった俺は足を止めかけ、その会話の方向に首を向けかけた。

だが――

 

 

『あ、エイナ休憩終わり?』

 

「い!?」

 

 

――同時にあの女エルフの名前が聞こえた俺は、足早にギルドから走り去ったのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

数日後、俺はダンジョンに一人で潜っていた。

 

 

「おら死ね」

 

 

ここら辺の敵はだいぶ殺しがいがある。

 

俺は凶悪な顔をした火を吐く狼の頭をグローブ越しに、純粋な握力だけで握りつぶす。

…狼は断末魔の声を上げると首から上を潰され、だらりと身体を垂らした。

が血や脳漿で汚れてしまったのを眺めた。

 

――辺りには狼と兎の死体の山が築き上げられている。

 

多くは切断され、多くは急所を貫かれたような死体が、何度も何個も地面にくたびれたように落ちていた。

無数の傷がつけられた死体たちからはとぷとぷと血が流れ、血の海となり、乾いたダンジョンを濡らす。

 

…戦闘終了、襲い掛かってきたモンスターの群れを俺は全て全滅させた。

 

 

「…っ…うわ」

 

 

どうやら先程戦っていた時に、狼の吐いた炎がかすめたらしい。

俺は前髪をちょいちょいと触ると、炭化した僅かな髪が指についたのを指の腹で払った。

 

 

(まともにくらうとヤバかったな…)

 

 

流石に…今は14階層にまで潜ってくると、敵が強くなってきた。

 

攻撃力と、(こっちは若干なのだが)速度は『切り裂き魔の高揚(リッパーズハイ)』で切り裂く度、際限なくあがっていくので今のところ問題は無いが、「耐久力」は圧倒的に足りなくなってきた。

…割と体捌きと直観で何とかしてきた俺だが、階層数を上げる度モンスターの攻撃は避けづらく、モンスターの繰り出す一撃には毎回命の危険を感じた。

 

(60…いや、61か?)

 

そして――攻撃回数を記憶する。

自分でもこの能力がどんなものかは解ってはいないが、こうして回数と体感どれだけ攻撃力が上がったかを覚えておけばそのうち能力の仕組みも理解できるだろう。

 

 

「…う」

 

 

だが、まぁ今その事は後回しだ。

昨晩からダンジョンに潜ってきた俺の腹は限界が近かった。

いくら最初の時とは違い食べ物を持ちこんで途中軽食ができたとはいえ、今はもう次の日の早朝三時ぐらいだろう。腹はかなり減り、ズキンと刺すような痛みが腹を襲った。

 

俺は顔をしかめると辺りに散らばった魔石と死体を眺める。

 

 

「めんど…」

 

 

俺はため息をつくとしゃがみ、散らばった魔石を腰につけた袋に入れていく。

 

…正直、面倒くさい。

数が数だし、散らばっている魔石をいちいち屈んで回収するのは骨だ。

一つ一つが重くないのが救いだが塵も積もれば何とやら、何十個もの魔石を腰につけて歩くのは重いのもそうだが、重心がずれるのは戦闘に影響が出てしまうだろう。

 

…そのための非戦闘員のサポーター、ということらしいが分け前はその分減ってしまうだろうし、どうやって雇えばいいかも解らなかった。

 

――否、どうすれば出会えるかは解ったがその方法は最悪すぎた。

 

 

「…よし、帰ろう」

 

 

魔石を全て拾い終えた俺は立ち上がると、腰を伸ばし、歩きはじめた。

幸いなことに空間認識能力と記憶力は良い、帰り道はほぼ完全に覚えているし、ダンジョンから出るのにそこまで時間はかからないだろう。

 

俺はモンスターの死体を踏み越えると、天然の洞窟のような薄暗いダンジョンの中を歩く。

若干湿ったようなこの階層は他の階層に直接つながる縦穴のようなものがあり、比較的他の階層との行き来がしやすい。

 

俺は道に転がっていた小石を蹴とばすと、欠伸しながらグローブについてしまったモンスターの血を見る。

中々錆びない素材でコーティングしてあるとはいえ、グローブの隙間から血が染み込んでくる感覚は流石に慣れるものではなかった。

 

…今すぐにでも洗いたい。

 

俺はため息をつくと帰路についたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「おはようございます!」

 

「え…あぁ、おはよう」

 

 

ギルドの前に着くと、掃除をしていたピンク髪のギルド職員の女の子が笑顔で挨拶をしてくる。

快活なその挨拶に俺は少し困惑しつつ挨拶をし返す。

 

ダンジョンから帰った俺は魔石の換金のためにギルドに向かった。

入ったのが深夜で長い時間潜っていたので時刻はすっかり朝になっており、早朝だからか冒険者通りどころかどこにも人は歩いていなかった。

…ダンジョンからの帰り何度かモンスターに襲われこそしたが、その都度ワイヤーの錆にして血に汚れたグローブはいい加減腰に取り付けた。

 

俺は一度ギルドの建物を見上げると、開きっぱなしのギルドの中に足を踏み入れる。

ギルドの中はまだ朝日が十全には行き届いていないので薄暗く開けられた扉から光が眩しいくらいだった、そしてまぁ外にも人気が無いのだからいつもの冒険者の賑わいは無かった。

俺は高さの充分にある扉をくぐると、ここにくるほぼ唯一のもくてきである魔石の換金をしようと換金所の方を向く。

 

…それが油断だったのだろう。

 

 

――バタン。

 

 

「!?」

 

 

振り返ったがもう既に遅い。

申し訳なさそうな顔をした先程のピンク髪のギルド職員がギルドの扉を閉めていた。

 

俺は慌てて扉に近寄ると開けようとする。

しかし扉は外側から閂でもかけられているのかガチャガチャと鳴るばかりであり、押しても引いてもびくともしなかった。

 

 

「っあ゛!!?」

 

 

ぞわり…と背中が粟立つような感覚が俺を襲う。

紛れもない恐怖という感情に、俺は背後から突如として現れた殺意ともとれる気配に振り返った。

 

 

「随分と、お久しぶりですね。リョナさん」

 

「…そ、そうだな。俺が冒険者登録した時以来か?」

 

 

そこには――満面の笑みを浮かべたハーフエルフ、エイナがいた。

 

…人は極限まで怒った時にも時折笑みを浮かべる。

エイナのそれも同じものであったが、半分であり、もう半分は獲物が罠にかかったのを喜ぶ子供の笑みのようでもあった。

 

(…はめられた…!)

 

 

つまり――エイナの罠にかかった俺は、今回ばかりは諦めたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「目撃証言があります」

 

 

対面するかのようにソファーに座ったエイナは、相変わらず静かな怒りを孕んだ笑みを浮かべており、ただ淡々と言葉を紡ぎ始める。

 

非常に居づらい俺は机を挟んで反対側のソファーに腰かけて身をくねらせていた。

 

 

「何でも、黒い外套のようなものだけを纏った不審な大男が十三階層で見かけられたとか。しかも昨晩のお話です」

 

「おう」

 

「そしてその男は剣を握るわけでもなく遠くにいるモンスターを倒してたとか何とか」

 

「…おう」

 

「いやーそんな冒険者もいるんですねー、魔法使いの方でしょうか?まぁなんにせよ一人でそんな階層にいるのは馬鹿ですけどね」

 

「……おう、それ俺だわ」

 

「はい、そうですね――」

 

 

間違いなく俺だ。俺は反論の余地もなく頷いた。

 

エイナはバンッと机を叩くと、立ち上がる。

そして今度は先程の笑みとは比べ物にならない憤怒の表情を浮かべ、吼える。

 

 

「――って十三階層って馬鹿ですかアナタは!!?」

 

 

…俺は…こうなる事が解っていたからエイナに会いたくなかった。

 

事態の先延ばしかもしれないが、とりあえず俺はこの説教を避けたかった…明らかに精神的に痛みを伴うそれを。

 

――エイナはまくしたてる。

 

 

「死ぬ気ですか!?死にたいんですかアナタは!!?全くの初心者が中層に行って生きていること何て奇跡で――というか普通は四階層で――いやそれより先に防具を――あああああ!!?」

 

 

壊れた。

キャラとか理性とか色々な物が崩壊したエイナは叫ぶ。

 

溜まったものがあったんだろなぁ、と俺は頭の片隅で思いながら言い訳する。

 

 

「いやほら…行けちゃったからよ」

 

「普通行かないっていうのが常識ですから!?」

 

 

噛みつくがごときエイナの反論に俺は苦笑する。

エイナは実に渋い顔を浮かべるとため息をつく。

 

 

「普通こういうのって同じファミリアのメンバーが教えてくれるものですけど、ベル君だけに任せた私にも…いや話を聞かないリョナさんの方が悪い。というかリョナさんここのところ私のこと避けてましたよね?」

 

「あー…ばれてた?」

 

「だから来るタイミングで罠を仕掛けました」

 

 

さらっと言うがタイミングの図り方とか困難だろうし、実に緻密だ。

罠にかかった時の絶望感を思い出した俺は素直に感心する。

 

とはいえ中層の方が――

 

 

「でもよ…」

 

「あなたが何と言おうともダメなものはダメです!禁止!」

 

「えええー!?」

 

 

――中層の方が換金効率が良い。

 

質もそうだが魔石というのは大きさで値段が倍以上になっていく、らしい。

てっきり一グラム当たりの値段だと思っていた俺は、わざわざ危険は冒さず低層のモンスターだけを数を狩ればいいと思っていた。

しかしより大きな魔石を落とす下の階層での狩りの方が換金効率が良いのなら、そこに行くのが人間というものだろう。

 

 

「ギルドは、冒険者の過ち、特に命にかかわることを看過することはできません!というか死にたくなかったら私の言うことを聞いてください!」

 

「へいへーい…じゃあどうすれば中層行っていいんだ?」

 

 

俺の言葉にエイナはいつもの生真面目な顔に戻ると、思案する。

そして頷くと顔を上げた。

 

 

「…そもそもの冒険者の常識の詰め込み、それと最低でも二級防具の購入…いやそうでなくてもレベル1の冒険者が行くというのは無謀な気がするんですが…」

 

 

そう言うとエイナはリョナのことをちらりと見る…正確にはその腰についたグローブを。

…未だ血の付いたそのグローブを。

 

 

「…倒せているんですか?」

 

「おう」

 

 

そもそもなぜレベル1冒険者が中層に行ってはいけないのか。

それは単純に「殺せず」、「殺される」からだ。…というかそもそも攻撃が当たらないかもしれない。もしレベル1冒険者が上層へやってきた中層のモンスターを相手にしたら逃げるべきだ。

 

…つまりステータスの足りない冒険者達は中層のモンスターを相手にしても全く勝てないからだ。

 

だが言ってはいないが切り裂き魔の高揚、確かに耐久で関しては全く劣るが攻撃力と速度で言えば中層だろうが通用する。

 

 

「うーん…じゃあこの際レベル1だから、という理由は省きます。というかリョナさんの場合言っても聞いてくれなさそうですし…」

 

「やったぜ」

 

「ですが!防具の購入とダンジョン知識の詰め込みはみっちりとさせてもらいますからね!」

 

 

そういえばベル君が「最初エイナさんにはみっちりダンジョンの知識を詰め込まれたときは大変でした…」と言っていた。

…正直物凄く嫌だ、時間をとられるのも勉強するのも。

 

そして防具…つけているのが想像できないため何とも言えない。

しかしむしろ防具の重みで敵の攻撃が避けづらそうだ。

 

とはいえ…面倒くさいのは先に片づけるのが性分だ。俺はため息をつくと肩を落とす。

 

 

「はぁ、じゃあ今日その講習やっちまおうぜ?これから時間あるか?」

 

「…え?今日は怪物祭ですし、そっちの方の仕事があるので…」

 

 

怪物祭――?

どこかで聞いたことのある単語をエイナは言いながら、さも当然かのように首をかしげる。

そして気が付いたようにあっと声を上げた。

 

 

「そうかリョナさんは怪物祭のこと知らないんですね。えーとつまり怪物祭っていうのは――」

 

 

――その時閉められていた扉が丁度開いた。

 

…そして入ってきたのは先ほどのピンク髪の職員。

中の様子を窺うように恐る恐る入ってきた彼女は、俺のことを見ると「あ」と声を上げる。

 

そして一応エイナの俺の捕縛計画の片棒を担いでいたわけなのだから、申し訳ないと思っていたらしい。

…少し悪戯心の沸き上がった俺は、ねめつけてみる。

 

 

「ひっ…!?」

 

 

だが些か驚かせすぎたらしい。

彼女はびくりと体を震わせ涙目になると、ソファに座っているエイナの方に走り始めた。

そして隠れるようにして俺からの視線を切る。

 

俺は表情を戻し、軽く鼻で笑おうと――エイナの怒気を孕んだ笑みを見て目を逸らした。

 

 

「エイナ~…」

 

「ごめんごめん…」

 

 

ピンク髪はしばらくエイナに泣きついた後、顔を上げる。

 

 

「…ところで、祭りの見回り当番もうすぐだよ?」

 

「あ、いっけない。すぐ準備しないと」

 

 

再びの祭りという単語。

なるほど、思えばベル君は明日はダンジョンには行かないと言っていたし、街中も何だか忙しそうな人にあふれていた。

 

 

「というわけでごめんなさい。私これからギルドの仕事がありますので!――あっ、防具については後日追って」

 

「…解った、呼び止めてすまんな」

 

 

そう言って忙しそうにエイナはピンク髪の職員とともにカウンターの奥に消えてしまう。

祭りの情報を尋ねようとしてした俺は隙のないその動きにため息をついた。

 

…が――

 

 

(――まぁ、行ってみたら解るか)

 

 

思い直した俺は開かれたギルドの出口から外に踏み出したのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「おおー…?」

 

 

一度帰った俺は血に濡れたグローブを洗い、身体を洗い、服を洗い、それらが乾くまで全裸で(いや決して性癖とかではなく替えの服が無いので)眠りについた。

そして数時間ほどして目覚め、まだ生乾きの服を身に着けるとギルドで聞いた「祭り」という単語を頼りに町に繰り出したのだった。

 

ちなみにヘスティアは未だ帰ってきておらず、ベル君も何故かいなかった…まぁ男の子だし遊びに行くのが道理だろう。

 

そして少し大きな街道に出れば――そこは既に祭りの様相だった。

 

逆に、街道にはいつもより人が多い。確かにこの人間の乱雑さは「祭り」だった。

街道の脇にはいつもは見ないような露店が立ち並び、人々がそれを買う。

どこかからか祭囃子…ではないが、クラシカルな音楽が絶え間なく聞こえ、陽気な笑い声が常にどこかで発生していた。

 

 

「ふむ…」

 

 

俺は人の流れに逆らわないようゆっくりと歩きながら周囲を見渡す。

…が特に目に付くような事はない。周囲では極めて一般的に、町全体で祭りが行われているだけだった。

露店や酒、美味しそうな料理が目に入る。

 

 

「…どうしよ」

 

 

「祭り」とは「楽しむ」ものだ…古くから、神様と人間が。

 

故に、勿論人間である俺が楽しめない訳ではない。

露店で何か買ったり、食べたり、酒を飲んだりすれば楽しむこともできるだろう。

 

だが――

 

 

「ボッチって…」

 

 

――1人で楽しめる気がしない。

 

基本的にこういうものは妹や従弟、友達と来ていたし、一人で楽しめる気がしない。

テレビゲームに例えるならば祭りはソロ専用ではなく、パーティ専用のゲームのようなものだ。一人で黙々とこなしていくには辛すぎるだろう。

 

 

「帰るか…?」

 

 

身体はそこまで汚れているわけではないが、一晩中ダンジョンに潜っていたのでシャワーを浴びたい気はする。

…それに家にベル君がいるならば――二人なのだから充分楽しめるだろう。

 

 

「…帰ろ」

 

 

完全に萎えた俺は一度帰ろうとヘスティアファミリアの方に足を向けた。

 

 

 

・・・

 

 

 

「申し訳ございませんリョナさん。私はまだ仕事が残っておりますので」

 

「………あっ、いえこちらこそお仕事のお忙しい中私事でお邪魔してしまって大変申し訳ございませんでした……」

 

「…すいません」

 

 

最後にリューさんはまた頭を下げて、仕事に戻っていった。後には灰が残った。

 

…家に帰った俺はまずベル君がいないことに落胆し、ありもので軽食をとった。

そして30分ほど遠くから聞こえる祭りの喧騒を聞いた後、祭りとは何たるかを思い出した。

 

――祭りにリューさん誘って一緒に遊べたら最高じゃね?…と。

 

 

「おうふ…」

 

 

…まぁ結果は爆散だったわけだが。

 

一気に生きる意味を失った俺は、軽く全てに絶望すると振り返った。

 

 

「帰る…帰るんだぁ…」

 

 

だいぶ精神的にダメージを負った俺はよろよろと歩き始める。

半ば涙目になりながらホームを目指した。

 

…正直、祭りを楽しむ余裕なんて無かった。

 

 

「うぐっ…ひぐっ…」

 

「ままー、あのお兄さんなんで泣いてるのー?」

 

「あぁ…あれは失恋というやつよ。ふっ…男はね、あれを経て強くなるのよ…!」

 

「マジで!?」

 

 

嘘だろあの母親なんでそこまで解るんだよ…、と道行く母子の会話に俺は苦笑しながら(泣きながら)歩みを進める。

…いやそもそも別に失恋したというわけではないのだが。

 

 

「はぁ…」

 

 

俺は疲れと共にため息をつく。

確かにリューさんの件は残念だったが、まぁそもそも約束していたわけではないので…仕方ない、本当に仕方ない。

諦めのついた俺は、今度はトボトボと歩き始める。

 

 

(帰ったら一回グローブの整備しよ…)

 

 

そしてとりあえず帰ってからの目標を決めたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「…」

 

 

祭りに特に思い出はない。

精々高校の文化祭の時に焼きそばを焼いたとか、隣町の祭りのどさくさに紛れて通り魔的に殺しをやったことがある程度だ。

 

だが祭りの雰囲気に当てられたのか、俺にはこの人ごみの足音の間に、日本的な祭囃子を聞いた気がした。良く妹と一緒に聞いたものだ。

 

そして祭りと言えば――特徴的なあの匂い、味を思わず思い浮かべてしまう。

 

…となれば後は簡単な欲望の話だ。

 

俺は歩きながら呟く。

 

 

「ウナギのかば焼きが食いたい…!」

 

 

祭りと言えばウナギ、そしてかば焼き。

しょうゆベースの甘辛たれでこんがりと焼いたかば焼きは、外は墨の香りと皮の触感が舌を楽しませる。そしてふわふわな肉はつぶつぶで噛み応え、舌触り、香ばしさの点で文句のつけようがない。その全てが調和し、口の中で踊るっ…!

 

――完全に癖になる、めちゃくそ美味い。

 

 

「はぁ…」

 

 

だがうなぎの蒲焼などあるはずがない、ここは異世界だ。

いかにウナギが祭りの定番といってもそれは日本の祭りの中でだけだろう。

 

(はっ…ミスった!?)

 

というかまずい、考えてしまった。

よだれが走り始める、しょうゆベースの甘辛だれの妄想が脳裏を貫いてしまった。

 

とめどない欲求が溢れて、止まらない。

 

 

「ぐっ…」

 

 

空腹が痛みになって襲ってくる。

家に帰った時、軽く腹に食べ物を入れこそしたが微々たるものだ…昨日から戦闘をしてきた空腹を満たすにはその程度では満足出来るはずもなかった。

 

腹減った、その思考に俺は支配される。

 

 

「…どうする!?」

 

 

周りを見渡すと道に並ぶ幾つもの露店、食べ物には困らない。

 

しかし――どちらかと言えばというか、口の中がウナギのかば焼きを受け入れる形に出来上がっていた。

つまり食欲が――うなぎのかば焼きを食べたいという欲望に負けていたのだった…!

 

(ないんだけどねー!)

 

俺は道のど真ん中で立ち止まり空を見上げると、じりじりとした空腹に耐えながら目をつぶる。そして心の中にウナギのかば焼きを思い描き叫んだ。

 

(食いたいッ…!)

 

 

俺は半ば朦朧としながら無心の縁に――

 

 

――鼻腔がぴくりと動いた。

 

 

様々な匂いの中、自らの望んでいた香ばしい匂いが織り込まれていた。

絶え間なく、それでいて軽やかで重厚な食欲をそそる香りが乾いていた俺の口内によだれを運びこぼれさせる。

 

…目を開いた。

 

俺はスンスンと鼻を鳴らすとそのしょうゆベースのにおい(・)を嗅ぐと、ごくりと唾を飲み込む。

そして――心の中、欲望のままに叫ぶ

 

(ウナギのかば焼きだぁぁぁぁっぁぁ!)

 

求めていたその匂いに俺は歓喜し、ほぼ理性を失いながら心の中で叫ぶ。

そしてもう一度大きく鼻呼吸をすると、どこからか漂ってくるその匂いを追跡し始めたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

(あった…!)

 

どこか知らない広間にたどり着いた俺は、赤と青の暖簾がかかり何と漢字で「祭」と書かれた露店を発見する。

確かにそこからしょうゆベースの香りが漂っていた。

 

 

「言語、不要…!」

 

 

俺は直進し人ごみをかわすと、その露店の前に移動する。

そして打ち払うかごとく暖簾を払った。

 

 

「たのもう!」

 

「はっ敵襲!?」

 

 

中にははっぴ姿の女の子が一人、カウンターの向こうに座っていた。

そしてその目の前には――炭火焼セット!

 

 

「ウナギのかば焼きを…!」

 

「…お客様…!」

 

 

急な来客に驚いたのか、刀を手に取り臨戦態勢になっていたポニーテールの女の子は俺のウナギのかば焼き発言に目の色を変える。

そしてふー…と息をつくと刀を置き、改めて俺に向き直った。

 

 

「お客様、解っておりますね」

 

 

言外に「通」だと言われて嬉しくない日本人はいない。

…しかし俺には喜ぶ余裕も、なぜ少女が日本的なのかを気にしている暇はなかった。

 

 

「…御託は良い、我慢できないんだ俺は。だから早くウナギのかば焼きを…!」

 

「ですが…その…」

 

 

少女は言葉をため、悲壮な顔をする。

何故言葉をためたのかも理解できない俺は嫌な悪寒を覚え、理性の蒸発しかけている頭で様々な状況を考えた。

 

 

「…うなぎは出せません…!」

 

「何だと…!?」

 

 

ここまで来て…!

 

状況は完璧だ。ウナギのかば焼きを食いたい俺と、それを出せる環境…!ほかに何が必要だと――

 

 

「――ウチは、焼き鳥屋なのですから!」

 

「…」

 

 

(しょうゆベースのたれぇぇぇぇっぇっぇっぇぇぇぇぇっぇぇ!!!!!)

 

万能たれ…それはウナギのかば焼きのみならず、焼き鳥のたれとしてもッ!たれとしてもッ!!

 

 

「あ、じゃあ焼き鳥ください」

 

「はーい」

 

 

ウナギのかば焼きを食えないと知った俺は颯爽と意識を食欲に切り替えていたのだった…

 

 

 

・・・

 

 

 

「ふぅ…」

 

 

広場のど真ん中、ど真ん中にしては人通りの少ない場所で俺はかなり食欲の満たされた腹をさすりながら左手に持った数本の櫛から焼き鳥を食べていた。

味は…まぁそこそこだが日本らしい食べ物ということで俺は十分に満足できていたし、しょうゆベースのたれに舌は喜んでいたのだった。

 

 

「…そういや」

 

 

ふと食べる手を止めた俺は後ろを振り返る。

そこには先ほどの赤と青の露店があった。

 

(何で焼き鳥?)

 

文化的には西洋っぽいのに何故あそこの店だけ焼き鳥なのだろうか?それに店の女の子も「ウナギのかば焼き」という存在自体を知っていた。

 

(…)

 

もしかすると、俺以外にも日本から来ている境遇の奴がいるのか?それともただ単純に文化が流入してきた…?

 

(…いや)

 

…可能性は色々と考えられるが、結論は一つだ。

それは打ち崩された願いであり、不死鳥のように焼き鳥から復活する。

 

(探せばウナギのかば焼きもどっかにあんじゃねぇか!!?)

 

 

「ふ…」

 

 

自然と笑いがこみあげてくる。

もはや人生の目標となりつつある(ない)ウナギのかば焼きを食べるという目的に心を馳せたのだった。

 

――のだが、一つだけ「違和感」を思い出した。

 

それは――

 

 

(――鼻、どうしたんだろう)

 

 

スンスンと鼻を鳴らしてみる。

…匂いが鮮明に広がる。

 

道行く人間の整髪剤の匂い、歩いていく子供が持っているお菓子の甘い匂い、遠くに見える露店の男の汗の匂い、先ほどの店の女の子がつけていた薄い香水の匂い、果ては道に染み付いた靴の匂いまで解る。

明らかに、異様なまでに俺の鼻は良くなっていた。

ウナギのかば焼きを望むあまり、人類の脳に隠された領域が解放されたと考えることも出来るが流石にそんなことで寿命を縮めるつもりは無い。

 

俺は嗅ぎ分けるように鼻を鳴らすと、今までには無かった新しい感覚に困惑していた。

 

 

「ん…!?」

 

 

だが――なぜ急に鼻が良くなったのか考えるよりも先に、鼻が「異臭」を捉える。

祭りの場にあるはずのない野生の匂い、血と土の匂いの混じった汚臭が急速に周囲の匂いに混ざり始め…俺の鼻に届く。

 

 

「…こっちか…!?」

 

 

異常事態だと判断した俺は、振り返るとその匂いの出所を探る。

 

そこには――

 

 

「――コロッセオ?」

 

 

遠目に、いくつかの建物の向こう側には「円形闘技場」があった。

今までこの町にそんな建物があることを知らなかった俺はとりあえず驚くと、そちらから漂ってくる獣臭に眉を寄せた。

 

(拳闘…?…だが…!?)

 

コロッセオであるならば、戦士と獣が戦う催しなんかもあるのかもしれない…ただでさえ祭りなのだから。

だがその匂いはどこか嬉し気で、とても飼われた獣のそれとは違う歓喜を感じた。

 

――自由になった獣の狂喜を。

 

 

 

「キャアアアアアアアア!!!!」

 

 

 

…その時、悲鳴がコロッセオの方面から聞こえた。

 

絶叫と表現するにふさわしいその悲鳴は、この広場にも響き渡り、道行く人々に不安を与えた。

俺はやっぱり、と顔をしかめると腰についたグローブに手を伸ばす。

 

 

――そしてドスンという衝撃がかなたで聞こえた後、何かが影を落とした。

 

 

「!?」

 

 

建物の屋上から現れた「そいつ」は白い毛を風になびかせながら、その引きちぎられた黒い拘束具をジャラジャラと鳴らしていた。

息は荒く、肩を鳴らし、何かから逃げるように、だがどこか笑みを浮かべているかのようなその獣は屋上から広場全体を見渡し――

 

『GYAAAAAAAAA!』

 

――吼えた。

 

「逃げろ!シルバーバックだ!」と誰かが叫ぶと同時に、広場全体がパニックになった。

各々が走り出し、叫び、悲鳴を上げる。

 

俺はその喧騒の中で獣から目を離さず、息を吐きだした。

そして腰につけたグローブを取り外すと、手に付け始める。

 

(ゴリラ…?)

 

シルバーバックという名前のモンスターは屋上から逃げ惑う人々を注意深く観察している…まるで誰かを探すかのように。

俺としては知らないモンスター、だが見かけそこまで強そうには見えないし殺せないことは無いだろう。

 

(とはいえ…)

 

どこぞの獣かは知らないが、良い迷惑だ。

管理するのであれば逃げ出すなど言語道断だろう。

 

 

…まだ日は浅いとはいえこの町に住む者として、害虫駆除程度容易い。

俺はグローブを取り付け終えると、獣から目を離さないまま伸びをする。

 

 

周囲から人々は既に逃げており広場にはもう俺しか人がいなくなっていた。

獣は未だ残っている、咆哮を聞いてもなお残っている俺に視線を向けた。

 

 

「グルルルル…!」

 

「来いよ…!」

 

 

そして俺はグローブを構え、臨戦態勢をとり向かってくる獣を迎え撃とうと――

 

 

『ガウッ』『ドンッ!』

 

「は!?」

 

 

――獣が地を踏み、空を跳んだ。

 

砕けた屋上の破片が散らばり、巨大な影が移動する。

俺はそれを見上げ、頭上を通り越していったシルバーバックに思わず身体が硬直する。

 

そして振り返ってみれば、広場の反対側の建物に乗り移った獣が「ドシン」という音とともに屋上を砕いているところだった。

 

 

(――襲われない!?)

 

 

確かにあの獣何かから逃げている様子だったが…それでも俺は「殺意」を出した。

 

…獣は殺意に敏感だ。確かに殺意に当てられ逃げ出すということはままあるが、それは圧倒的に強さに違いがある場合で、正直な話今の俺と奴とでは大した戦闘能力に違いは無いと言えた。

 

 

(…理性でもあんのか?)

 

 

獣らしくない行動、となれば知性があり何か「別の目的」があると考えれる。

というかそうとでも考えなければ不自然すぎた…まるで何かを探すかのようなその視線は。

 

 

「はぁ…」

 

 

俺は構えを解くと、首を傾げ、誰もいなくなった広場に一人立ちすくむ。

そしてシルバーパックの逃げていった方向に目をやり、匂いは追えるがどうしたものかと――

 

 

「――そこの人!!」

 

 

背中から声をかけられた。

俺はすんと鼻を使いその匂いから女だと判断し、振り返る。

 

…そこにはオレンジ色の髪をした少女が、息も絶え絶えに立っていた。

杖を片手に持っているその少女はそして息を整えると俺に視線を向ける。

 

 

「…俺?」

 

「そうです!今この町には逃げ出したモンスターが…ってあれ?冒険者の方でしたか」

 

 

ようするにこの子は、逃げ出したモンスターから人々を逃がすためのギルド職員か何かなのだろう。

私服なのを見るに非番のところをかりだされたようだが…。

 

 

「あ、いたいたレフィーヤ。そんな急いだってアイズには追い付けないってー」

 

 

その時、少女の駆けてきた方の路地から褐色の肌をしたアマゾネスが飛び出てきた。

そして眩しいばかりの笑顔でレフィーヤと呼ばれた少女に喋りかけ、同時に俺に気が付いた。

 

 

「あれ?そいつ誰?」

 

「ティオナさん!…えぇとこの人はたまたまいた冒険者の…えーと…」

 

 

少女の視線に俺は流れで名前を告げる。

 

 

「リョナって名前だ」

 

「へーリョナ君ってんだー、よろしくねー!」

 

 

明らかに自分より年下の女の子に君付けとはいかに、と俺は顔をしかめると目の前の少女に目を向ける。

 

短い髪は黒く、その瞳は黄褐色に光っていた。…そして、可愛い。容姿は野性味がありつつも、(もうこの世界においては珍しくないのだが)美しかった。

…だがあえていうならば貧乳なのが――

 

 

「――おーいティオネー、こっちこっちー!」

 

「はいはい、解ってるわよ」

 

 

ティオナは路地裏に呼び掛ける、すると路地裏からまたもアマゾネスが現れる。

 

…ティオナに似た、だが髪は伸び、胸は豊満な少女がそこには立っていた。

 

 

「レフィーヤあなた、いきなり走り出すんじゃないわよ」

 

「す、すいません。でもどうしてもアイズさんに追いつきたくて…」

 

「あなたの足の遅さじゃあエリアルで強化されたアイズの足に追いつけるわけないでしょうに…はぁ、まぁ良いわ。…ってあら、そちらの人は?」

 

「あっはい、たまたまいた冒険者のリョナさんです」

 

「へぇ…」

 

 

ティオネという少女は聞いておきながら興味なさそうにティオナの方に身体を向ける。

そして会話を終えたレフィーヤは視線をこちらに戻した。

 

 

「ええと実はリョナさん?も冒険者だったらご存知でしょうけど、実は今あの剣姫アイズヴァレンシュタインさんが逃げ出したモンスターを倒して回っていまして、事態は沈静に向かっています。なので逃げるか、逃げ遅れた一般市民の避難を手伝っていただけるとたすかるんですが…」

 

「あぁ…おう」

 

 

突然、というわけでもないが現れたレフィーヤとアマゾネスの二人の話に俺は頷く。

逃げ出したモンスターが他にもいるというのは軽く驚きだったが、それも沈静化に向かっているというのであれば安心だ。あのシルバーバックが「知性」を持っているというのであれば予想以上に危険だろうが、このレフィーヤという少女の言い方的にどうやらそのアイズヴァレン何某は相当に強いらしいので少しくらいゆっくりとしても良いだろう。

そしてアイズヴァレンシュタインという単語にどこか聞き覚えがあるような気がして、記憶を漁り始めた。

 

確かベルがらみのことでその人名を聞いたはずだが、確か――

 

 

「ねぇねぇ!」

 

「あ?」

 

 

気が付けば目の前にニカッとした笑みを浮かべたティオナが立っており、若干の前かがみもあってか上目遣いで俺に喋りかけてきた。

俺は一度記憶をたどるのをやめると、疑惑の視線を目の前の少女に送り次の言葉を待った。

 

 

「えーと、リョナ君のその服どこの?」

 

 

…ティオナは俺にスッ―と近づいてくると、コートの縁を摘まんできた。

なるほど、確かに現代の服は珍しいし、というか奇異の目で見られることが多いし、ティオナが興味を持つというのも解る。

だが現世だとか異世界だとか説明するのも面倒だし、前々からこういう事態は想定していたので俺は迷いなく返答する。

 

 

「オーダーメイドだ」

 

「あぁーなるほどねー!」

 

 

町は非常事態だというのになんと平和的な会話だろう。

何というか、気の抜けた俺は息を吐くと、鼻を鳴らす。

 

…するとどこかから花のような甘ったるい香りがした。

先ほどまでこんな匂いはしなかった気がするが、先ほどまでは色々な匂いが混濁していたので気づかなかっただけかもしれなかった。

 

 

「ん…」

 

「え、何々考え事?」

 

 

…見れば、ティオナは服を摘まめるぐらいの至近距離にまだ立っていた。

 

何でコイツ離れないんだ?と俺は近いティオナのニコニコとした顔を怪訝に眺める。

そしてもしかして、という仮説にいきつく。

 

 

「…もしかして花の香水かなんかつけてるか?」

 

「え?うーん、つけてるときもあるけど今日はつけてないかなぁ」

 

 

ティオナの体臭かとも思ったが、どうやら違うようだ。ただでさえ近くに立っているから可能性の一つとしてあると思ったのだが。

 

俺は改めて鼻をならすと、花の匂いがまだしていることを確認し出所を探ろうとする。

しかし匂いは四方八方、上下左右様々なところから漂ってきており出所は解らなかった。

 

…というか、「鼻が良くなった」というのもただの自意識過剰かもしれない。

だがほぼ汚臭といっても良い甘ったるい匂いが周囲に漂っているにも関わらず、目の前のティオナは顔色一つ変えていない…つまり相対的に俺の鼻がよくなっているはずだ。

 

 

そんな俺の視線に、不思議そうな顔を浮かべたティオナは、特に気にすることもなくまた快活な笑顔を見せると尋ねてくる。

 

 

「ところでさ、リョナ君も冒険者なんでしょ?どんな武器使うの?」

 

「ん、あぁ…」

 

 

というか話的にティオナも冒険者なのか。

確かベル君は「基本的に他のファミリアとの関りは危険なんです!」とか言っていた気がするが、まぁ別に…危険になったらその時だし、目の前の少女には悪意のようなものは感じ取れなかった。

 

ティオナの期待のこもった視線の中俺はコートを少しずらすと、腰についていたグローブを取り外す。

 

 

「ほら、これだ」

 

 

そしてティオナの前に差し出し、ティオナが「なにこれ?」という怪訝な表情を浮かべたとき――

 

 

『――ドォン!!』

 

 

地面が揺れた――

 

 

 

「…は?」

 

 

 

――否、地面が割れた。

 

 

 

広場を覆う石畳が一瞬、途方もないほどの力で粉砕されひびが入る。

そして爆発的に隆起すると、その中から「緑色をした蛇」が地面をかき分けるようにして現れた。

 

――「俺の足元に」。

 

 

一瞬の浮遊感。

跳びすさるティオナと、その奥で会話していたレフィーヤとティオネが驚く顔を最後に見た俺は、石畳に出来た地割れに落下した。

そして出来たひび割れの奥から緑色をした何かがしなやかに、圧倒的速度と破壊力で迫ってきているのを見た俺は、とっさに腕を交差させ防御姿勢をとった。

 

 

(…あれ)

 

 

――『ボンッ』という音を聞いたのと同時に、俺は空にいた。

 

どうやら衝撃でそのまま空に打ち出されたらしい、地上には地面から生えたようになっている緑色の蛇とぽつんとした三つの点が見えた。

少なくとも地上20m以上、落下すれば死ぬかもしれない。

 

――と同時に『ズキリ』痛みが走る。

 

見れば両腕は完全に折れていた。

まるで熟したトマトのように赤くなった腕は両方とも中ほどで大きく腫れあがっており、複雑ではないようだが綺麗に二つに折れていた。

それにどうやら肋骨の幾本も折れているらしい、突き刺さっていないといいが俺は一度だけ出来た呼吸のしづらさに気持ち悪さを覚えた。

 

 

 

――そして至極当たり前のことだが、俺は落下する。

 

 

 

リンゴが重力に勝てないように、一瞬の対空時間の後、俺は地面に向かって加速を始める。

まるで引き合うかのように近づいてくる地面を前に、俺はぴくりともしない身体を諦め、周囲に目を向けた。

 

…やけに世界はゆっくりとしている。

 

砕けた石片で綺麗だった広場は酷く汚れてしまっていた。そしてその中心ではその「原因である緑色の蛇が何本もの触手を揺らめかせ君臨している。

 

そしてその向こう側には必死な顔をしたティオナとティオネ、レフィーヤがいた。

 

…どうやら俺を助けようとしているらしい。

だが俺の落下地点に行こうとするたび、目の前を阻む蛇の触手に阻まれ攻撃されてしまっていた。

せめて武器があれば、そんな風に口が動いたティオナは、先ほどの笑顔とは違い、悔しさと激憤が入り混じった表情を浮かべていた。

 

 

(そんな顔するなよ、今日初めて会った他人だろうに)

 

 

今から死ぬというのにしてはまぬけかもしれない。

だが今俺の頭には死への恐怖はなく、ただ俺の死が彼女の今後の人生にトラウマを与えてしまわないかという懸念しか存在しなかった。

 

 

(とはいえ…)

 

 

俺は改めて近づいてくる地面を見る。

そして次に今もティオナ達と戦っている緑色の蛇を見た。

 

――こちらに何の注意も払っていないその蛇を。

 

 

 

(…生きてたら、絶対殺してやる)

 

 

 

やられたらやり返す、そんな事を最後に思った俺は地面に叩きつけられたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「…!」

 

 

『ドスッ…』という鈍い音とともにリョナの身体が地面に叩きつけられた。

同時に散華、まるで水風船を地面にぶつけたときみたいに真っ赤な血が花開いた。

 

 

「ティオナさん…!」

 

 

ティオナとティオネ、そしてレフィーヤはそんな残酷な光景を目の当たりにしていた。

 

たまたまいた見慣れない冒険者、だが偶発的に遭遇した事件で命を落とす。

それは冒険者である彼女達にとっては、ただの事故で済んだし、いつもならば気にすることでもなかった。

 

…だが、「救おうとした」…!

 

目の前にある命を気まぐれに救おうとした、だが死んでしまった。

手を伸ばしたものが届かなかった虚無感は大きく、手を伸ばしただけダメージは大きい。

 

 

青ざめた顔をしたレフィーヤはティオナの名前を呼ぶ。

…真っ先に「助けよう」と提案した彼女の名を。

 

 

「クソッ…クソォ…!」

 

 

ティオナは渾身の力を込めて、迫りくる触手からレフィーヤを守るようにして殴る。

しかしその力は弱り、その小さな肩は今泣き出してしまいそうなほどに震えていた。

 

だが――

 

 

「ティオナッ!!!」

 

「!?」

 

 

――「一喝」。

 

 

ティオナに迫っていた触手の一本を『バシッ!!』という小気味の良い音と共にティオネは蹴り弾く。

そして瞳に僅かな雫を携えたティオナを一瞥すると、吼えた。

 

 

「ティオナッ!今は目の前の敵だけを見なさいッ!でないと死ぬわよッ!!」

 

「で、でも…もうリョナ君は…!」

 

 

そういうとティオナは遠くに転がったリョナを見る。

 

身体の前面から地面に叩きつけられたリョナの身体は胸や肩と言った部分が完全にひしゃげており、潰れていた。

服を着ているため未だ出血は解り辛いが、それでも水たまり程度の血だまりが出来上がっておりひび割れた地面を濡らしていた。

そして一番ひどいのは腕だ、一度折れていたのが地面にぶつかった影響でかあらぬ方向に曲がっており、今にも引きちぎれてしまいそうだった。

 

…見える部分はその程度だが、あれほどの高さから地面に叩きつけられたのだ。

身体の内部への影響、内臓が破裂していてもおかしくないだろう。

 

――死んでいる、もはやそれは凄惨な死体でしかなかった。

 

 

…あまりにも残酷なその死体にティオナは目線を逸らす。

 

 

「目を逸らすなッ!」

 

「…!?」

 

 

だが、ティオネはまたも吼える。

 

…ティオナには、ティオネの言っていることが解らなかった。

 

 

「でも、目の前の敵だけ見なさいって…」

 

「同じこと!」

 

 

ティオネは回るようにして迫りくる触手の一本をまたも退ける。

そして回転そのまま振り返ると、ティオナと相対した。

 

 

「冒険者なら常に最善をとり続けるべきだってこと!!ならアレが生きている可能性のために闘うの!!!解った!!!!?」

 

「え…」

 

 

…確かに冒険者は頑丈で、しぶとい。

だがあそこまで破壊されてしまったら、いくらなんでも…。

 

だがティオネに言っているということが正しいことくらいティオナには解っていた。

彼がもし「生きている」ならば、今すぐこの緑色の蛇を倒して回復させなければ本当に死んでしまう。

 

それが「最善」、ダンジョンの中で生きるために必要な判断。迷ったものから死んでいく。

 

ティオナはもう一度リョナの身体を見る。

…凄惨の一言に尽きるその怪我は、痛々しい。

 

 

――だからこそ早く助けねばならない。

 

 

「…ありがとね、ティオネ」

 

「ふん、私は『死体のそばでロキファミリアが戦っていた、あれ、あの死体ロキファミリアが守れなかったんじゃね』って言われたくないだけよ」

 

「ははっ、確かにね」

 

 

感謝の言葉を鼻で笑ったティオネの言葉に、ティオナは心の中でもう一度感謝を述べる。

そしていつものような笑顔を見せると、それをレフィーヤに向けた。

 

 

「ごめんねレフィーヤ!もう大丈夫だから!」

 

「…い、いえ!…その、私はティオナさんとティオネさんに守ってもらってるおかげで今ここにいられるわけで、何というか……気を落とさないでください!」

 

「ははっ、だから大丈夫だって!…それよりも、早くアイツ倒してリョナ君を助けに行こう?」

 

「…!…はいっ!解りました!!」

 

 

そう言って青ざめていた顔から決意しなおした顔で杖を握りなおしたレフィーヤを見たティオナは拳を握る。

そして――空高く伸びた蛇の胴体を前に拳を構え、吼えた。

 

 

 

「行くぞッ!!」

 

 

 

同時に走り出した双子は、大きく跳んだ。

 

 

 

・・・

 

 

 

――花の匂いがする。

 

ぴくりと鼻が動く。

 

瞼を開けると、だいぶ霞んでいて周囲の様子は解らなかった。

 

遠くから戦闘音が聞こえる。裂ぱくの気合のこもった一撃が肉に当たる音と、巨大な職種が這いまわるゴロゴロという音。

 

それと温かさ、まるで風呂にでも入っているかのように全身が暖かかった。

 

…そういえば風呂なんていつ以来入っていないだろう。

日本からこちらに来てからはシャワーしか使っていなかったし、こちらに来るまえは遊びで忙しく水浴びをしていた程度だ。

 

だから…数か月程度?短いような長いような、微妙な時間。

だが久しぶりの感覚は非常に心地よいようで、真冬の朝のベッドでの惰眠のように起きたくないと思うものであった。

 

…それこそ永遠に眠ってしまいたい。

俺は暖かさと眠気に従うまま、そのまま瞼を――

 

 

――その時、視界の中で「緑色」が「赤色」を叩いた。

 

 

すると赤色は、まるでギャグのようにあまりにも簡単に視界の中を水平に横切って行った。

 

俺はそれに興味を覚えると、もはや感覚の死んだ首をずりずりと地面にこすりつけるように動かし赤色の飛んで行った方を見ようとする。

 

 

(…えーと、レフィーヤ…)

 

 

首を十数度ほど動かし終わった俺の視界はわずかにはっきりとした。

すると吹き飛ばされた赤色が人型であり、その赤が彼女の着ていた上着の色だということを思い出した。

 

 

――赤色が垂れた。

 

 

赤より少し上、肌というかもはや白色に見える位置から赤が垂れ始めた。

 

絵具でも足しただろうか、俺ははっきりとしない頭でぼんやりそんなことを考えると一度瞬きをした。

 

 

(…!…)

 

 

また一段階はっきりとした。

 

痛みに嘆くような、怒るような顔をしたレフィーヤが広場にあった露店の残骸の上に、叩きつけられたように乗っていた。

どうやら骨は折れていないようだったが内臓にダメージがいったのだろう、その口からは一条の血がツッー…と垂れていた。

 

…でも、なぜそんなことに?なぜ彼女は怪我をしているのだろうか?

 

 

――また、花の匂いがした。

 

 

左側からしたような匂いに俺は、今度は首を左側に向ける。

そこで起こっていたのは――死闘。

 

緑色の何本の触手が、褐色の肌をした女の子二人に襲い掛かり、逆に襲い来る二人から本体を守っていた。

 

 

(…ティオネと…ティオナ、だっけ?)

 

 

確かその二人の名前はそんなだったはずだ。

 

とはいえなぜ町に魔物がいるのだろう。

その緑色の蛇はどこかで見たようなそんな気がするが、地面から生えたその蛇はとてもダンジョンから出てこれる大きさには見えず…あぁ、だから地面を掘ってきたのか。

 

…いや、脱走したんじゃなかっただろうか。確かコロッセオから…シルバーバックが…。

 

それと、ティオナとティオネ。

なぜあんなに必死何だろうか。確かに非武装の人間が戦うには辛い相手だろうが、それ以上に彼女たちの表情には鬼気迫るものがある。

 

何か俺の知らない理由がある…というのも当たり前だ、なんせ俺と彼女たちは会ったのが今日が初めてなのだから。

 

 

…会って…話して、それから…どうなったんだったっけか?

 

 

「…レフィーヤさん…!」

 

 

今朝聞いた声、これはエイナだ。

 

俺は知人の声に反応し、首をレフィーヤがいた方に向ける。

 

すると先ほどのレフィーヤがいた露店の前にギルドの制服を着たエイナと、同僚のピンク髪の職員がいた。

 

仕事中だったと思うのだがどうしてここに…っと、考えてみればモンスターが逃げ出したのだからギルド職員であるエイナがモンスターのいるここにいないはずがない。

 

とはいえいいタイミングだ。

俺はピンク髪と協力してレフィーヤを地面におろそうと、真剣な顔をしているエイナの顔を見ながら喋りかける

 

 

 

 

 

 

 

 

…なぁエイナ、ぶっちゃけ一人で祭りとかつまんねぇからさ。仕事終わったら付き合えよ。おごってやるから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…あれ、違う。

 

エイナは怪我をしてレフィーヤを見つけんだから、これから治療なりなんなりしなくてはならない、そのために露店からおろしているんだから。

それにモンスターが脱走したとあっては祭りどころの騒ぎじゃない…こんなことならさっきの焼き鳥、一本でもとっておいてやるんだった…

 

 

俺はそんなに仕事が大事かねぇ…と半ば呆れた視線をエイナに送ってやる。

 

 

俺の視界の中、エイナとその同僚によって座るようなかたちで起こされたレフィーヤはポーションを飲まされ、少し血色が良くなったようだ。

そして意識がはっきりとすると、むせるようにせき込み――

 

 

 

――こちらを、指さした。

 

 

 

エイナが振り返る。

そして声にならない、悲鳴をあげると、それをかみ殺すように立ち上がりかけてきた。

 

…どうした?エイナ?走って。

 

顔を伏せるようにして、一秒でも早く辿りつきたいという思いが現れているかのような走りで、エイナは俺まで短い距離を走り抜ける。

 

 

そして両膝をつき――悲鳴を上げた。

 

 

「リョナさんッッッッ!!!!!リョナさんッッッッッ!!!!!」

 

おいおい、どうした。そんな悲鳴みたいな。聞こえてるって。

 

「返事をしてくださいッッッッ!!!!!リョナさんッッッッッッ!!!!!」

 

は?何を言って…

 

 

――振り返る。

 

 

言葉を出そうとする俺の口からはとめどなく血が溢れているだけで、言葉など一言も出てきていなかった。

レフィーヤはあの蛇にやられ、怪我をした。

ティオナとティオネはいまだ残ってあの蛇と戦い続けている。

今エイナが膝をついている場所は俺が流した血でできた水たまりだ、今もギルドの制服が血を吸い赤黒く染まっていく。

暖かかったのは血液に浸かっていたから。

 

身体が動かないのは――「俺があの蛇に空高く吹き飛ばされたから」。

 

 

――俺は急速に迫ってくる「死」を「思いだした」。

 

 

 

「…せーのっ!!」

 

 

 

エイナは掛け声と共に俺の身体をひっくり返す。

『びちゃっ』という音と共に血だまりから血液が撥ね、エイナの服や手を汚し、波紋を作った。

 

…そしてエイナは俺の頭の方に這って移動すると、俺の視界にその泣きそうな顔を見せた。

 

 

「リョナさん!…嘘、呼吸してない…!」

 

 

顔はおろか、もはや眼球を動かす余力のない俺は、エイナがせわしなく動いているのを感じながら、再び遠くなった耳で遠くの戦闘を聞く。

…まだティオナ達は戦ってるのだろうか?素手ではあの巨体と力は俺が戦っても難しいだろうか?

 

空を仰ぐ。さっぱりと晴れた良い青空だ。

こんな天気の日はこもりがちな妹を連れ出して公園にでも遊びにいくのが良いだろう。

…妹は、あの日俺が失踪してから妹はどうなっただろうか。…いや、きっとアイツならしぶとく生きているだろうしきっと別段心配もしていないだろう。

 

 

――「花の匂いがした」。

 

 

甘ったるい匂いが鼻腔の隙間に、むせかえるような血の臭いの合間を縫ってやってくる。

断続的に、強制的に脳裏に浮かんでくるその匂いは俺の精神に何かを訴えかけるように、いまだまどろむ俺の思考を揺り動かす。

 

 

「リョナさんッ!飲んでッ!!頼むからこれを飲んでくださいッッ!」

 

 

…?口元に何か当てられているのだろうか?

必死な顔をしたエイナが青い液体の入ったビンを手に何か叫んでいる。

確か市販のポーションか何かだったはずだ、あれを俺に飲ませようとしているのだろうか。

 

とはいえ無駄だ。もはや喉を動かす力はおろか、体のどこにも「感覚」というものは存在しなかった。

まるで神経を丸ごと引っこ抜かれたような…いや単純に麻酔をかけられたかのようなそんな感覚だ。

 

 

…だが、代わりに急激な「冷たさ」が来ている。

 

 

血だまりに横たわった暖かさとは違う、寒さ。

それは末端から徐々に、頭を目指すように着々と。震えることもできないこれまで経験したこともないような冷たさが伝わってきていた。

 

怖いのに、どうすることもできない。初めての恐怖、という感情を覚える俺は同時に反面納得しており、落ち着いていた。

だがそれはあまりにも自然な反射、本能による直感がまるで赤子をあやすかのように俺を諭した。

 

 

――「これが死ぬという事なんだ」と。

 

 

 

(…)

 

もはや言葉は無く、俺に許されたのは瞼を閉じるだけのほんの最後の振り絞った活力。

生きて死ぬ、当たり前のことで同時に瞼を開けて閉じるのも当然の摂理だ。

 

もはや後悔は無く、感傷もない。というかそんなものがあったとしても俺の思考はそんな感情に対して返答することは無い。

 

 

 

今度こそ息を止めた俺は――その冷え切った身体に別れを、告げたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ッフ…!」

 

 

…何かの吐息が聞こえた。

 

 

「…ッフゥ…!」

 

 

…また、聞こえた。

それはまるで息を吹き込むかのように、必死で、頼りない希望に縋っているようだ。

 

 

「…ッフゥッ…!!」

 

 

 

 

――暖かい。

 

どこか、温かい。

ここはどこだろう、頭だろうか、腹だろうか、足だろうか――

 

 

 

――いや、これは、「唇」。

 

 

 

じんわりと唇が何かに覆われていて、そこから熱が供給されている。

 

…それは弱々しい熱だ、だが凍り付いたような俺の身体にその熱は渇望に値するものであり、無意識に気持ちが良かった。

 

しかし――暖かさが離れてしまう。

 

それはまるで世界の終わりのように訪れ、音もなく離れ、俺の身体は再び死に始める。

 

 

「…ッフゥ…!!!」

 

 

だが喜ばしい事に、吐息と共にまた暖かさが戻ってきた。

…どうやら吐息が合図のようだと俺は、無意識に理解する。

 

そしてまた暖かさが離れ、吐息と共に戻ってくる。

 

暖かさがある時はむさぼるように、離れてしまったときは親鳥を待つひな鳥のように俺はその過程を繰り返す。

そして無心にその暖かさに浸っているうち――

 

――喉の感覚が戻ってきた。

 

そして驚くことに何かが喉の中を流れている、最初のころは血かとも思ったがその液体は甘く、非常に美味しい。

と同時にそれ自体も熱を発しているようで通って行った喉、食道、胃などを熱く温めていき――

 

――それは全身を温めるに至った。

 

 

目を、開ける。

 

 

(エイナ…!)

 

 

エイナの顔が目と鼻の先にあった。

いつもかけているメガネは外され、髪は俺の顔に垂れ、思いつめたようにその瞳は閉じていた。

 

 

 

――人工呼吸。

 

 

 

それにあわせるかのように、ポーションを口に含み、それを飲むことのできないリョナに口移しする。

息を吐き終えたエイナは唇を離すと、ポーションをあおって口の中にためる。

そしてそのままリョナと唇を合わせるとポーションを口移しにし、息を吐きだしていた。

 

懸命な応急処置、死にかけ冷え切った命の息を吹き込む直接的でいて愛の溢れた行動…そしてそれはエイナに残された唯一の手段だった。

だが――友人の命を救うのに何の躊躇いがあるだろうか。

 

 

 

――エイナは繰り返し、繰り返し、何度も、何度もリョナに口づけしていた。

命という炎が掻き消えないように、吹き消えないように。

 

 

 

しかし――

 

 

 

「――ッ…嘘ッ!?」

 

 

 

エイナはポーションの入っていた瓶から口を離すとそれが切れてしまっていたことに気が付く。

 

確かに冒険者は頑丈だ、それに回復力も高い。そしてそれは魔法によって生成されたポーションを格段に補助される。

恐らくここまで回復したリョナであればかなりの数の上級ポーションも併用すれば、全快もそう遠くないはずだ。

 

 

――だが、身体は死に向かっている。

 

 

今も血は流れているのだが、ポーションを使うことでそれを一時的に回復へと向かわせることは出来たが――

 

――今この場に全快させられるだけのポーションが無ければ意味は無い。

 

 

「ミィシャ!!他にポーションは!!?」

 

「えぇ…今使ったのが最後だよ…!?」

 

「そんな…!?」

 

 

エイナはミィシャに尋ね、目を見開き、涙を溢れさせた。

 

それもそのはずだ、なぜなら――万策尽きた。

 

もはやエイナがリョナに対して何もすることはできず、死から逃す術は無い。

それはつまり救える人がいなくなったということであり、自覚ではなく事実として「リョナの死」を意味していた。

 

事実の前には何も、意味が意味をなさない。

例え俺が死ななくてはならない理由があったとして、エイナが涙を流したとして、これから何が起きたとして――

 

 

――意味は無い、だから――

 

 

 

―――「エイナが俺に口づけした」のに俺は驚いた。

 

 

 

もはや口に含むポーションは無い。

運べる熱量にもたかが知れている。

 

…その口づけには何の意味もない。

 

エイナは泣きながら俺の唇にしゃぶりついてくる。

喉の奥から嗚咽のような音が漏れ、伝った涙が俺の頬を滴り落ちる。

 

もはやエイナにとってしても自分が何をしているか解っていないのだろう。

…人は、例え意味が無くとも行動する時があるのだ、例え死ぬとしても感傷的に。

 

 

「エイナ…もう…」

 

「…!」

 

 

ミィシャがエイナに声をかける。

今すべきはもはや彼をどう助けるかではなく、現在進行形で戦闘の行われているこの場所から自分たちだけでも離れるべきだった。

 

…それは…俺としても同じだ。

 

俺のせいでエイナが死んでは、後悔が残る。

それにむしろ最期に、最期だけでも暖かさを知れてだいぶ楽になったようなそんな気さえした。

 

…俺は未だ唇を離さず、嗚咽を漏らしているエイナの顔を見つめる。

そしてお前はよくやったと、言葉にしようとし…ふつ、と眠気に瞼が下がった。

 

俺は、再び眠りについたのだった――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――花の、匂いがする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もはや何度目なのかも解らない、甘ったるい胸やけするような匂い。

どこかで嗅いだことのあるような、記憶の靄に焼け付く匂い。

その香りは俺の死にいくシナプスを刺激し、俺の精神に作用する。

 

――このクソッたれな匂いを俺は知っている。

 

知っている、この匂いに何をされたか。

知っている、この匂いに何を思ったのか。

知っている、この匂いがどこからするか。

 

 

――「華」だ、あの華が――

 

 

 

 

切れかけていた俺の思考は冴え、そして――ある一つの「感情」が産まれた。

 

 

 

 

・・・

 

 

 

(…舌いれたろ)

 

 

「!?…むっー!!?」

 

 

突如唇を割って口の中に舌を入れられたエイナは驚く。

そして涙に濡れた目を見開くと、慌ててリョナの確認のため顔を離そうとした。

 

…しかし『ガッ!』とリョナの手によって頭を押さえられ、身動きをとることは出来なくなっていた。

 

 

「っむぅぅうーー!!?」

 

 

所謂ディープキスなのだが、その感触は男性経験の少ないエイナにとって初めての感覚であり、半ばパニックに陥った。

…そしてなされるがまま口の中をなめまわされる。

 

 

「!?」

 

 

だがそこでは終わらない、何とリョナは上半身を起こそうとしていた。

折れていたはずの腕を地面につき、潰れた胸を立てようとする。

 

気が付いてしまったエイナは止めようにも傷口に触れることは出来ず、せめてそれを助けた方が早いと判断するとリョナの腰に手を回して支えた。

――だが失策とも言える、腰に手を回してしまった事で更に口が押し付けられてしまったのだから。

 

…舐められるのを耐えながらエイナは、ゆっくりとリョナの身体を立てる。

 

そして――

 

 

「ぷはぁっ!…リョナさんッ!?」

 

「おう」

 

 

――しっかりと目を開き、意地悪く微笑んで見せるリョナを確認すると安堵した。

 

 

「…ってなんで舌入れたんですか!!?」

 

「あぁ、いやすまんまだ口の中にポーション残ってる気がしてな…ごっつあんです」

 

「もう…馬鹿!」

 

 

冗談を言うリョナに、涙を拭ったエイナは軽く笑う。

 

そして改めて全身の傷が初めてよく見えた。

前身は血まみれ、腕はポーションの効果でか位置がもどりこそすれまだだらんと垂れ、折れていることを伺わせる。

胸は不自然にへこみ、足は強い打撲によるためか今も不規則に震えていた。

 

エイナは…その惨状に改めて気を引きしめつつも感心する。

…この傷で良く生きているものだ、冒険者は本当にしぶとい。

 

 

「え!?起き上がってる!!?」

 

 

遠くでレフィーヤの治療をしていたミィシャがこちらに気が付き、驚いた声を上げる。

そちらをちらりと見たエイナは大きく頷く――その時、『ドズンッ…!』と大きく地面が揺れた。

 

それは緑色の蛇の触手が地面をたたいた音、ここは未だ戦場だ。

逃げなければならず、怪我も癒さなければならない。

…リョナさんとともに。

 

 

「リョナさん、ここはまだ危険です。引きずっていきますね」

 

 

緑色の蛇のいる反対方向、メインストリートへと続く道を見たエイナは軽く指さすとリョナの片側に回り、両腕の下に手を回す。

そしてできるだけ怪我に障らないようにゆっくりと、エイナの筋力では思いリョナの身体を引きずろうと――

 

 

――リョナの手によって、引きずるその手を掴まれた。

 

 

がしりと腕を掴んだリョナは遠くで今も行われているティオナ、ティオネそして緑色の蛇との戦いを凝視していた。

そして振り返るでもなく、ただただ軽い口調でエイナに尋ねた。

 

 

「…なぁエイナ、俺のグローブ知らねぇか?」

 

「グローブ?」

 

 

確かリョナの武器だっただろうか、黒い鉄でできたグローブをエイナは頭に思い浮かべる。

そして周囲を見渡すと、それなりに遠い場所に黒いグローブが一組、無造作に落ちているのを発見した。

 

しかし首を振ると、諭す。

 

 

「冒険者にとって武器は一番大事なものだっていうのは解りますけど命あっての物種です。ギルドの方で何としてでも回収しますので今は――」

 

 

 

ふとリョナの様子が普段と違うような気がした。

背筋を蛇が伝うようなぞわりとした悪寒、本能的な恐怖を覚えたエイナは思わず口を噤んでしまった。

 

にわかに息が荒くなる、汗が噴き出る、恐怖する。

 

 

――そしてリョナが振り返った。

 

 

「なぁエイナ、俺の武器知ってんならとってきてくれよ」

 

 

そこにあったのは――狂気。

否、今は非常に理性的であって同時に一つの目的のためならば全てを投げ捨て顧みない修羅の顔をしていた。

 

思えば目覚めたあの時既にリョナは、「ただ一つの感情」に支配されていた。

 

その目に宿るのは――「憤怒」。

 

執念深い漆黒の業火を見たエイナは圧倒され、たとえ今ここでそれを断りさえすれば彼が何もできないということを知っていながらもリョナの肩から手を放してしまった。

そしてあまりにも強い意志に侵されながら、グローブを取りに行く。

 

まさか、そんな、という願いがエイナに真実を見失わせ、彼がどうするつもりなのかを知っていながらもエイナはグローブを手に取る。

 

…意外と軽いグローブはあっさりとエイナによって運ばれ、上半身を立て、ゆっくりと深呼吸をしていたリョナの元に運ばれる。

 

 

「…左手につけてくれ」

 

 

もはや頷くほかない。

恐怖に支配されたエイナはリョナの左手に黒鉄のグローブはめ込める。

 

左手についたグローブの感触を確かめるように、リョナは指をゆっくりと開け閉めする。

そしておもむろに右腕の、丁度骨が折れ始めたところを掴むと――

 

 

――『ガシューッ!!』という駆動音と共に五本のワイヤーを射出し、右腕に巻き付けた。

金属で編まれた糸でできたワイヤーは、折れた右腕に巻き付け、補強する。

そしてワイヤーの限界まで巻き付いたとき、リョナの右腕は全てワイヤーに覆われ振ることを可能にした。

 

 

「右手だ」

 

 

補強された右腕をリョナはエイナの前に差し出す。

すると先ほど同様エイナは右手にもグローブをつけた。

 

 

「よし…」

 

 

これで準備はできた、そういうとリョナは右腕を地面に突き立てると立ち上がってみせた…粉砕された全身を。

そして若干割れたようになった呼吸を大きくすると――エイナに背を向けた、緑色の蛇の方へと。

 

 

――まるで呪縛から解かれるがごとく、正気に戻ったエイナは叫んだ。

 

 

「何を考えているんですか!!?死ぬつもりですか!!!?そんな傷でッ!!馬鹿なんですかッッ!!!!?」

 

 

リョナは…止まらない。

そんな言葉を背中に受けながら一歩、確実に進んで見せた…その限界まで壊れた身体で。

 

正気ではない、面食らったエイナはそのあともリョナを止めるための言葉を吐き続ける。

だがリョナの歩みは止まることは無く、またエイナの瞳から流れ始めた涙も止まることは無い。

 

もはや何も解らなくなったエイナは――尋ねる。

 

 

「待ってくださいッ!!なぜッ!!?あのモンスターはいずれ倒されますッ!重傷を負ったあなたが倒す必要はッ!!?…うぅ」

 

 

その言葉も、きっと彼に届かない。半ばあきらめていた彼女は嗚咽を漏らす。

 

 

「…」

 

 

だが、足を止める。

初めてエイナの言葉に興味を示したリョナは、首だけを振り向かせ――

 

――その憤怒を顔にした。

 

 

 

 

「あの花を絶対殺す、そう決めた」

 

 

 

 

何だそれは、一気に力の抜けたエイナは放心状態のようにその場に座り込む。

そして目の前を歩いていってしまう重症の彼に吐き気を催しそうなほどの心配をエイナは覚え、ふと――

 

 

――花の匂いがした、そんな気がした。

 

 

 

 

・・・

 

 

 

 

「ティオナッ!」

 

 

ティオネが走りこみながらティオナの背後に迫っていた触手の一本を蹴り飛ばす。

 

戦闘が始まってから三分程度、短いと思うかもしれないが、こと戦闘において、そしてリョナの命がつきてしまうかもしれないタイムリミットを考えればそれはあまりにも長すぎる時間だった。

 

…二人は、焦っていた。

本体である蛇の胴体に辿りつき、本来であれば破壊力は相当にあるはずの蹴りや殴打をお見舞いすることは出来る。

しかし打撃耐性が異様に高いのか、そのほとんどがコイツにダメージを与えることは出来ず、ティオナの武器であるウルガなどの切断できる武器がなければ倒すことはできなかった。

膠着状態、姉妹側はその攻撃の全てを弾き、お互いとどめを刺せずにただずるずると時間だけが経過していた。

 

 

――だが、戦場が動く。

 

 

「!…ティオネっ!!」

 

「え…キャアアアアアアッ!!?」

 

 

触手の一本がついにティオネの片足を捉えていた。

そして足を掴まれたティオネはそのまま空中に引っ張られ他の触手にも巻き付かれ、完全に身動きが取れなくなる。

 

 

「ティオネッ!!?」

 

「馬鹿ッ!私に構ってる場合じゃないでしょうがッ!!」

 

 

ティオナが叫ぶその背後、ティオネを捉えた時と全く同じ動きでティオナも捕縛され、空中に固定する。

 

 

「なっ…!?」

 

 

――そして、「花弁」が開いた。

 

『ギィッイイイイ!!』

 

中から現れたのは鮮すぎる赤の、毒々しい巨華。

今まで蛇だと思っているそれは巨大な花、触手だと思っていたものは根か蔓か何かだった。

 

華はまるで観察するかの如くティオナ達を凝視すると、その触手をドクンと脈動させると吼えた。

 

 

――息苦しくなるのも一瞬、そのあと全身に悪寒が走った。

 

 

「も、もしかしてこれ…魔力吸われてる!?」

 

「チッ厄介!ティオナ、早く抜け出すわよ!」

 

 

魔力とは精神力、魔法を殆ど使うことのないティオナとティオネには関係のないステータスだが精神力の上限というものが存在している。

そしてその精神力が尽きれば――「マインドダウン」意識が飛んでしまう。

 

幸い魔法系の職業の筋力ではこの触手は振りほどけずジリ貧だろう。

 

しかし魔法系の職業の精神力が強いのに対し、ティオナとティオネはそれほどでもない。

つまり早く振りほどかねば手遅れになってしまうということだった。

 

 

「くっ…これ中々…!?」

 

 

触手は力もそうだが、ティオナが手をかけようとするたびうねり受け付けない。

何かナイフでもあれば突き立てれたのだが。

 

 

「んっ…うっ…!」

 

「ちょっとティオナしっかりっ…くっ…!?」

 

 

思ったよりも精神力の減衰が激しい。

逆に精神力を吸った花は先ほどよりも元気になっていき、締め付ける力が増していく。

 

目の前が暗くなっていくような気持ちの悪い感覚に二人は必至で抵抗するも現状は変わらない、そして――

 

 

 

『ギィッ!?』

 

 

 

――ワイヤーが飛んだ。

 

四本のキラキラとした糸が、華の目の前にまるで首を絞めるかのように華の首筋に回っていく。

華はその糸に気が付くと、本能的に命の危険を覚えたのかその巨体を揺らし、首をかすめ取るかのように急速に巻取りを始めたワイヤーを避ける。

 

 

 

 

「…一本足りないだろうが!!」

 

 

 

それは時間差。

目の前にちらついた四本のワイヤーに気をとられていた隙間に、最期の指から出たワイヤーが滑り込む。

 

そして『ギュルゥゥゥ!!!』という駆動音の後、一瞬の煌きを見た刹那ティオナとティオネのことを締め付けていた触手は二本いともたやすく両断された。

 

 

「…ッ!」

 

 

二人の身体が地面に落ちる。

先ほどのリョナ程ではないといえそれなりの高さだ、二人は落下の衝撃に息を止め反射的に怪我だけはしないように触手に絡まれた身体で受け身をとる。

そして先ほどまで魔力を吸われ、意識を失いかけていた頭で――

 

――巻き取られていくワイヤーの先を見て、驚愕した。

 

 

「リョ…リョナ君ッ…!?」

 

 

「華」の向こう側、華によって陰になったこちら側ではなく陽の当たる側。

良く見れば解らないほど短い鋭利なワイヤー達は、ある一点に収束し引き戻されていく。

 

――そこには、リョナが立っていた。

 

 

「リョナ君、無事でっ…ッえ…!!?」

 

 

ティオナは一瞬、立ち上がっている彼が無事だったのかと安心しかけた。

しかし彼のはめている篭手のようなものにワイヤーが巻き取られていくのを見て、今の攻撃をしたのがリョナなのだと解った。

 

そして――その傷がまだ癒えていないことも。

 

 

「何でッ…!!?」

 

 

前身から血が滴りおち、紅に染まったその顔の表情は読み取れない。

左手は折れていた右腕を掴んで支えており、右腕はだらりと垂れ下がていた。それに合わせるかのように上半身も力なくいまにも前に倒れこんでしまいそうだ。

その胸は潰れ、大切な内臓を守る肋骨や身体を支える背骨、どこまで折れているかは解らないが、全身の骨が折れていてもおかしくないほどの高さからリョナは落下し、出血し、潰れている。

まるで幽鬼のごとき立ち姿、血に濡れた上着はゆっくりとはためき陽の中にありながら影に住まっているようだ。

 

砕けていたはずの両腕、確認こそできていないが絶対に、最低でも立つことは叶わないであろうほどのダメージを受けた両足――

 

――立てるはずが無い、一度肉塊とまでなりはてたその傷では。

 

 

「何でそこにッ…!!?」

 

 

何故、もっともだ。

怪我をして立ち上がれないなら――そのままだ。

怪我をしても立ち上がれたなら――逃げるべき、逃げてもいい。

 

だから怪我をして立ち上がったのに――なぜ、戦うのか。

 

 

「…!?」

 

 

ティオナは思わず立ち上がろうと、蔦にけ躓く。

そして切り離された触手であるにも関らず、未だ締め付けてくることに顔を険しくする。

 

 

「ティオネ…!」

 

「…」

 

 

名を呼ぶ…が、ティオネは既に気を失ってしまっていたらしい、ぐったりとしたまま動かない。

 

――もう一度もがく。

 

幸い生きている触手ではなく、これは絡まった糸に過ぎない。

時間さえかければ抜けることができるだろう。

しかし――それでは前身の潰れた傷だらけの彼が死んでしまう、また助けられないなど耐えられない。

 

 

――『ドムッ!』

 

 

視界の端、巨大な触手が振り下ろされる…それもリョナのいた場所。

地面には衝撃が走り、更にひび割れる。破壊が巻き起こり、息が止まる。

 

土煙が巻き上がるのをお構いなくティオナは振り返った。

そして――

 

 

(疾い…!)

 

 

――同時に視界の端、ティオナはリョナの姿を捉えている。

 

思っていたよりもずっと疾い動き、とても名前の無い「雑多」の中の冒険者ではできない身のこなし。

振り下ろされた高速の触手を避けたリョナは、先ほどと同じ幽鬼のように右腕を抑え、触手の振り下ろされた場所の何メートルかを移動していた。

 

そして――「ゆらり」と前に倒れこむと同時に回転し、右腕を振る。

…ワイヤーが射出され、未だ振り下ろされたままの触手を襲い、その指の数だけ切り裂いた。

 

『ギギィ!!?』

 

紫色の血液がまき散らされ、鳴いた華は切断された触手から血液を周囲に散らしながら身体を引く。

そして痛みにもだえるかのように全身を震わせた。

 

(あの切れ味…!)

 

なんだあの武器は、先ほどもそうだが瞬間的に触手断ち切って見せた…剣を振るでもなく、槍でつくでもなく――

 

――何とか頑張って視認できるような、細い糸で撫でただけで。

 

 

(ッ…今はそれよりも…!)

 

 

疑問が溢れ出てくるのを抑え、身体に巻き付いた触手に集中する。

 

それはこの触手を振りほどいてからでも遅くない、否――

 

 

――リョナをあそこから助けてからでないと遅い。

 

 

そしてぐっと息を止めたティオナは身体を縮ませ、一本ずつ触手をほどき始めたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

(殺す)

 

 

それだけだ。

 

触手を撫で切りにされた華は痛みにもだえて身体をよじる。

それをゆっくりと観察した俺はワイヤーを回収した。

 

――片腕。

 

右手にワイヤーが収納されていく微細な衝撃に骨が軋み、肉から血が滲んだ。

押さえつけた右腕が悲鳴を上げるのを俺は静観する。

 

――せめて両腕使えたら、なんて考える。

 

だが片腕使えるだけで奇跡だ、これでアイツを殺せるのだか。

 

 

(感謝?神に?…冗談)

 

 

「ッ!?」

 

 

痛みから回復したのか華が触手を数本振り絞っていた。

 

(間に合うかッ…!)

 

無理だ、死を覚悟する。

放たれた神速がごとき触手が空気を裂き、迫る。

 

俺は砕けた足で地を踏むと、前進する。

そして…神回避、紙一重で触手を避けた。

 

(よし、殺せる…)

 

 

「…ッ!」

 

 

隙を見つけた俺は、右手を華首に伸ばし握りしめる。

 

前進したことで懐に潜り込めた俺は、ほぼ真下から花の首にワイヤーをひっかける。

そして握りしめ――巻き取った。

 

『ギッ…!』

 

ブチュ…という水音とともに華の首がワイヤーによって切り飛ばされ、ドンッと飛んだ。

紫色の血液に濡れたワイヤーが目的を果たしたかのように緩み、地面にぽてりと落ちる。

 

そして――ドズンッ…と重い音とともに巨大な華の首が、俺の脇に落下した。

 

…地が揺れ、身体がふらつく。

一段と華の匂いが強くなり、切断された茎から噴きこぼれた紫色の血液が滝のように降り注いだ。

 

 

(…やった)

 

 

殺せた、圧倒的に格上の存在を。自分を殺しかけた存在を。

降り注ぐ血液の雨に打たれながら俺は強い達成感と、脱力感に襲われた。

 

――何故戦ったのか。

 

何度か聞いた単語だ、しかしなぜ何故と聞くのか解らない。

それは理由であり、彼女達が知っているはずもない未知だ。

 

ちなみに理由だが…殺されそうになったら殺す。言ったことは守る。

…ただそれだけのことだ、それを理由と言わないのであれば話は別だが。

 

そしてあえて付け加えるなら――あの花の匂いが癪に障ったから、だろうか。そうとしか言いようがない。

 

 

「殺った…!」

 

 

俺は達成感とともに口を開く。

いや本当に頑張った俺、おめでとう。

ぼろぼろに破壊された身体で、自分よりも格上の敵を殺せた。未だあの腹立たしい匂いは周囲に漂ってこそいるが次第に周囲へ溶けていくだろう。

 

だが――流石に――アドレナリン切れだ。

 

「殺った」という一言のために、口が動き、喉が動き、肺が収縮する。

身体が動く、その度に全身の傷口がわずかに開き、骨が軋み、痛みが声を上げる。

 

しかし脳内物質、つまりアドレナリンが「憎悪」という感情によって最大限引き出されていた。

だが目的の達成によって感情が薄れ、アドレナリンも薄れる。つまり――

 

 

――痛みが走る、気が付かなかった今までの痛みが。

 

 

「あ…」

 

 

空を仰ぐ。

ぐにゃりと歪んで、紫色の涙で全てが染まった。

 

 

「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

 

 

――絶叫。

 

肺が歪み折れた骨が内臓に食い込む。そしてその痛みでまた叫ぶ。

 

叫ぶ、叫ぶ――痛みに耐えるため叫ぶ。

しかし全身の痛みは叫んだところで何も変わらなかった。

 

 

「あッ…アッ…Aa…!?」

 

 

見たことのある症状が自分に起きていることだけは解った。

人は限界まで追い詰めたとき、機能が以上をきたす。

 

目の前が明滅し、汗が止まらなくなり、寒くて、熱くて、震えて、青ざめる。

 

絶え間ない痛みと、不調という気持ち悪さが吐き気を催した。

だが同時に抑える、この状態で何か喉を通そうとしたらそれこそ痛みで死ぬ。

 

 

「ゴフッ…ゴフッ…!?」

 

 

そのかわり咳が出た。肋骨に痛みが走るがそれは大したことは無い。

しかし咳には大量の血液が混じっていた――頭がくらつく。

 

(失血が多すぎるか…!?)

 

ポーションで血液まで回復するか、最初の怪我からこぼれ続けている俺の血は既に死んでいてもおかしくないほど失血していた。

 

 

「リョナさんッ!」

 

 

寒気を覚えながら振り返ると、エイナが右手を伸ばし駆け寄ってきていた。

華が死んだから駆け寄ってきたのだろう、そしてその顔には心配と涙が張り付けてあり、その走り方は出来る限り先を急ごうとするものだ。

 

(あ…)

 

色々な思いが噴き出てくるが、痛みで思考がまとまらない。だがもう敵はいないはずだ、エイナにポーションでももらってこの痛みを抑えなければ、俺はこの気の狂ってしまいそうな痛みに耐えきれなくなるだろう。

 

俺はぼんやりとかけてくるエイナを眺めながら――

 

――花の匂いを嗅いだ気がした。

 

 

「エイナッ!!」

 

「ッ!?」

 

 

ほぼそれは殴りつけると言って近しい。

意識を強引に覚醒させた俺は、走ってきたエイナを片腕を振って突き飛ばした。

 

――地面が割れる。

 

エイナを突き飛ばしたこちら側に、緑色の壁が生える。

それはぐにゃりと歪曲を始めながら、俺の目と鼻の先をかすめながら伸びていく。

 

(――華?)

 

それはいましがた殺したはずの華の茎。

 

何故生える、それは俺の知らない未知。

だが未知だろうが何だろうが現実は変わらない。

 

『ギィイイ…!』

 

華が吼える、どうやら産まれて初めての獲物に興奮しているようだ。

 

 

「まだいたって事かよ…」

 

 

華が口を開き、足元に立つ俺を見下ろす。

まぁ一本いたのだから二本目もいたっておかしくはない…いやまぁこのままだと確実に死ぬが。

 

(いけるか…)

 

吐き気はまだするし、頭がおかしくなりそうな痛みだってある。

それに一度気を抜いた身体は、急激に疲れが出ており、今すぐにでも崩れてしまいそうだった。

 

…眠い、今すぐにでも寝てしまいたい。それに先ほどとは別個体だからか、憎悪なんて感情も湧いてこない。

しかし今コイツを倒さねば――エイナに気が付くかもしれない。

 

 

「ッ行くぞ俺…!」

 

 

そして自分に激励し、一歩踏み出し――

 

『ドォォッ!』『ドズンッ!』

 

――二回(・)地響きが鳴る。

 

 

思わず振り返るとそこには二本の華。

成長した華は花開き、その毒々しい顔をこちらに向ける。

 

計――3本。

 

 

(はは…)

 

 

思わず笑みがこぼれる。俺はなけなしの恐怖を押さえつけるかのように左手で折れた右腕を握りつぶすかの如く掴む。

 

『『『ギィッイイイイイイイイイ!!!!!!!』』』

 

 

――そして華たちは、触手を振り下ろしたのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

――死線。

 

…まぁもう既にこと切れていてもおかしくは無いのだが。

 

 

(89…90…)

 

 

壊れ切った身体でリョナは跳び、駆け、腕を振るう。

しかしその度、アドレナリンの切れたこの身体は絶叫と嗚咽の入り混じった悲鳴をあげた。

 

だが――

 

 

(91…92…93…94)

 

 

――その度、疾くなる。

 

それは五本の糸がより集まった綱渡りに過ぎない。

ボロボロになったその身体で、極限まで狭い奇跡みたいに細いワイヤーの上を歩いていく。

 

…普通ならば死んでいる。しかし格上に対してのしぶとさでいえばリョナは特別と言えた。

 

 

切り裂き魔の高揚(リッパーズ・ハイ)――どこまでも早くなっていく刃のおかげで、リョナは三本の華に相対して、戦闘を続けられていた。

 

 

(95…96…97…98…99)

 

 

リョナの頭は数字を数える事だけしか覚えていない。

ただ腕を振る度増していくその数字が自分ですら到達したの事のない領域に辿りつこうとしていることも解らなかった。

 

…三本の華が同時に触手を振るう。

 

計5本、全方位からの同時攻撃。

もし普段のリョナが例え怪我をしていなくても避けるのが不可能な数多の触撃…もし、それがカウントゼロだったならば。

 

 

(100…!)

 

 

迫ってくる触手の一本を切り飛ばす。

そして開いた空間に身を投げた。

 

――避けれる。

 

風圧がまるでぼろ雑巾のように俺の体を吹き飛ばし、地面を転がした。

 

 

「カッ…ハッ…!?」

 

 

激痛に悶えた俺はうずくまり、血を吐く。

…びちゃびちゃりと地面に血液と肉片が落ちた。

 

 

「…!?」

 

 

補強した右腕で地面を殴りつける。

するとその反動で身体が跳ね、後方に移動する。

 

…ズドンッと触手が今まで俺のいた場所に突き刺さった。

 

 

(隙…!)

 

 

気が狂いそうなほどの激痛と共に訪れる、流石に二回目は避けられるとは思えなかったのだろう三本の華の、全てに生まれた大きな大きな隙。

 

3対1、例え一本を強引にとろうと思っても、残り二本に殺される。

だから隙を待っていた、例え持久戦が激しい痛みを伴ったとしてもそうするしかなかったから。

 

俺は相対する一輪の華に目をつけると、その首を狙い――

 

 

――固まった。

 

 

…最初は怪我のせいだと思った。

 

血液が震え、全身が拍動する。

俺の一番深いところが遠吠えを上げ、牙をむく。

 

「獣」が、見える。

「神」が、見える。

 

まるでシーンカットのように、サブリミナル効果のように、俺の視界が色々な光景を垣間見る。

仲間が死に、敵が死に、眷属が死に、神が死ぬ光景…そして脈々と受け継がれてきた――「憎悪」。

 

 

それはつまり――「神殺し」の見せた景色。

 

 

(100か…!?」

 

 

カウント数が関係していると考えるのが妥当、本能的に、切り裂き魔の高揚との効果とも考えてそれが正しいと言えた。

 

急激な活力、一時的にストックされた残りエネルギーはきっと祖先たちの憎悪だ。

感情を燃やし、駆動する。

 

それはただの「偶然」に過ぎない、しかしその偶然がリョナの隙をつく攻撃を確かなものとした。

 

 

俺はコンマ何秒幻覚が治まるのを待つ、そしてギッ…と噛み締めると見上げ、血まみれの顔で笑う。

 

――今なら三本とも殺せる、と。

 

 

「【ウィーシェの名のもとに願う 森の先人よ 誇り高き同胞よ 我が声に応じ草原へと来れ 繋ぐ絆 楽宴の契り 円環を廻し舞い踊れ 至れ 妖精の輪 どうか ― 力を貸し与えてほしい】」

 

 

――突然、強風が後ろから俺の背中を押し、コートをはためかせた。

そして日中であるにもかかわらず、強すぎる光は影を作り、華を照らした。

 

――森の、爽やかな匂いだ。

 

非常に心地よいその匂いに俺は—―振り返ると、光輪を纏ったレフィーヤが決意を目に杖を構えていた。

 

…魔法、その発動準備。

なるほど、確かに予感できる。その魔力量であれば俺よりもはるかに確実に華たちを駆逐できる。

 

それに…暖かい。

 

 

(あ、でもここにいたら巻き添えか)

 

 

射線上にいる俺はレフィーヤの魔法を真っ先に食らってしまう位置にいる。

とはいえ今の残エネルギーであれば、限界まで華を引き付けた後離脱することも――

 

 

――華の全てが、レフィーヤを向いた。

 

 

(まずいッ…!?)

 

 

傷ついた獲物より、自らを殺しうる存在を先に狙う。

至極当然な本能が警鐘を鳴らし、華をレフィーヤに向かせたのだろう。

 

触手をくゆらせた華たちは吼えると、未だ集中し詠唱を続けるレフィーヤに攻撃を加えようとする。

 

 

「…ッあ、グっ…!?」

 

 

踏み込むと、また折れた。

きっとエネルギーは足りるだろうが、あまりにも遠い…あそこまで到達するのであれば触手のほうが圧倒的に早い。

 

…身体を顧みなければの話だが。

 

 

「ッ…がッ…」

 

 

…もともと脆くなっていた部分、特にひびが入っていたような場所が一歩踏み出すごとに折れていく。

汗が吹き出し、寒気が走る。

 

…だが前には進めている、あとはこれを繰り返せばいいだけ。

 

 

「ああああああああぁーッ!!」

 

 

そして咆哮と共に俺は、レフィーヤの前に身体を滑り込ませる。同時に右手を掴んでいた左手を離し、大の字に屹立した。

 

――気づけば触手たちが目の前にまで肉薄していた。

 

勢いよく迫る幾本もの触手の先端は鋭く、力強くて速い。

貫くことに特化したその動きは、事実俺の身体に容易く風穴を開けれるだろう。

 

…だが――それでいい、俺が死ねばすくなくともレフィーヤは助かるのだから。

 

 

「…」

 

 

さっきみたいな突然のことじゃない、確実な死が目の前に迫っている。

今日何度死を覚悟したか考えると笑えてくるが、それもここまでだ。

 

…随分と長い間戦っていた気がする、

 

空に吹き飛ばされ、意識が混濁した。そこからエイナに治療され、復讐を果たした。しかし三本追加され、絶望的な状況に陥った。

体感で言えば二時間ぐらいずっと死線をくぐっているぐらいのつもりだが、実際は15分くらいしか経っていないのかもしれない。

 

とはいえ――やっと眠れる。

 

正直限界だ、肉体も精神も。

俺は完全なエネルギー切れを迎え、ほぼ活動を停止した脳で先ほど見た幻覚や、ベル君やヘスティア、妹のこととかをぼんやりと想う。

そして極度の疲労を感じながら、ゆっくりとその瞼を閉じたのだった。

 

 

 

そして触手は迫り、その停止した身体を貫こうと――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――リル・ラファーガ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――瞬間、剣戟が空間を薙いだ。

 

疾風が巻き起こり、あらゆるものを吹き飛ばす。

 

それは嵐のごとく破壊力で、突風のようにまっすぐに、一直線上のもの全てを破壊する。

 

 

そしてそれは――黄金の風。

 

 

「――アイズさん!」

 

「レフィーヤ、ごめん。待たせた」

 

 

暴風は、破壊の限りをつくすと何食わぬ顔で立ち止まる。

 

そこにいたのは――アイズ・ヴァレンシュタイン。ロキファミリアの一級冒険者。

リル・ラファーガを放ち、ひとまず襲い掛かろうとしていた触手を欠片も残さず吹き滅ぼした張本人。

 

 

「…時間を稼ぐ、レフィーヤはそのまま撃って」

 

「!…はいっ!」

 

 

アイズは振り向きざまちらりとレフィーヤの前に屹立した男を見る。

そして剣を構えると触手を破壊されたことへの怒りの声を上げる三本の華たちへとトンッ…とあまりにも軽く、疾く駆けていった。

 

 

「【終末の前触れよ、白き雪よ。黄昏を前に風(うず)を巻け。閉ざされる光、凍てつく大地。吹雪け、三度の厳冬――我が名はアールヴ】 」

 

 

詠唱は続く、その一語ごとに途方もない魔力を込めながら。

 

 

「ウィン・フィンブルヴェトル!」

 

 

そしてレフィーヤは杖を掲げ、魔力を開放する。

 

それは土砂崩れ、ダムの決壊。ため込まれた魔力は自由になった事を喜ぶかのように、産声代わりの閃光でこの空間を照らした。

 

 

――その時、茶色の塊が跳ねた。

 

 

ダダダダッ!と上下するそれは何かを抱えたまま高速移動し、息も荒い。

そしてそれは閃光の目の前に立ったままの男を見つけると、跳躍。

そのまま一気に距離を詰め足元に到着すると、抱きかかえ、そのままの勢いでその場から離脱した。

 

 

――初めてティオナは安心したように、笑みを浮かべていた。

 

 

『ギッ…!?』

 

 

――華たちは遠方の少女を仰ぎ見る。

 

そこには華たちの知らない「冬」が凝縮された魔力が彼女の身体を覆っていた。

 

本能的に恐怖する間もなく少女の杖から魔力が自分たちに放出される。

寒い、冷たい、痛いなど様々な感覚が華たちを襲い、その口から断末魔が零れた。

訳の解らない恐怖に包まれたまま華たちは息絶えると、全身凍り付き――砕け散る。

 

 

――そしてすっかりと氷漬けになった広場に、天空へと回避していたアイズが降り立ったところで、今回の事件は閉幕となったのだった。

 

 

 

・・・

 

 

 

 

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