旅が終われば、こんな未来もあるだろう。そう思って書いてみました。
※わりと本筋の設定から逸脱した内容と化してます注意。
※アフターストーリーなので前作を読まれてからの一読を推奨いたします。
※pixiv様にも同名のタイトルで投稿しております。
生命の息吹がそこかしこから聞こえてくる。小さな息遣いを最期に命を全うするもの、新たなる命の誕生に喜びと慈しみを感じさせるもの。
人種魔物関係なく繰り返される遺伝子の連鎖はこの世界が生み出した一つの摂理であり、
何千という月日が過ぎようとも、それは色あせることなく続いていく。
万緑が広がる草原と。蒼穹が広がる大空と。群青が広がる大海と。飴色が広がる大地で。
あるべき姿で生き物たちは生を謳歌し、あるべき姿で死を迎えていく。長短ある時の中で語られる人生はかくも儚く美しい。たとえ人々に忘れ去られようとも「自然」という世界が生み出した縮小空間だけは、そこに命があったという事実をいつまでも残してくれるだろう。
色とりどりの花が芽吹くここはザンクティンゼル。ファータグランデ空域に存在するこの島は、彼らの果てなき戦いを生み出した始まりの場所であり、ここで星の島――イスタルシアを目指す少年グランはエルステ帝国兵に追われていたルリアとカタリナに出会い、不運にも帝国の手によって命を落とすことになる。
しかし〈蒼の少女〉であるルリアの力を使い、命のリンクを繋げた彼は奇跡的に復活を遂げ、強大なエルステ帝国を撃退するに至った。
父の待つ星の島を目指して。
そしてルリアと共有している命のリンクを解除し、新たなる命を宿すために。
彼の壮大な旅路が、ここから始まった。
――これは。そんな彼のその後を追った、数あるうちの一つの物語である。
◇
木々に止まる小鳥の囀りが、他の野鳥たちの鳴き声と重なっていく。
高低の旋律を奏でる調べは二つの要素だけでも耳に残る独特なメロディを連続させていて、違和感なく耳に過ぎる爽やかな音色が、彼女の眠っていた意識を緩やかに刺激し始めていた。
「……んっ」
一人で眠るには少々大きすぎるベッドの上で、クラリスは微睡みの中からゆっくりと重い眼を開けた。大きな布団に包まれ、ついで彼を抱きしめながら眠りについていたはずだったが――当の本人の姿はなく、一人分空いた空間には、ほんのりとした温もりが残されていた。
「……グラン?」
寝ぼけ眼で声をかける。しかし、自分の声が部屋の中で響くだけで、彼からの返事はなかった。
のそりと布団から這い出て、きょろきょろと周囲を見回す。朝食を作っている気配もなく、それどころかこの家には自分以外に人の気配が感じられない。
「んー……」と目を細めて少しの間考え込む。混濁した意識が徐々に鮮明になっていくと同時に、クラリスの翡翠色の双眸がぱちりと大きく開いた。
「……ああ、そだそだ。昨日の夜、朝一で釣りに行くからって言ってたっけ」
うちも行く! と一緒の布団の中で言っていたような気もするが、彼のことだ。幸せそうに寝ているクラリスを起こしたくなかったんだろう。
その優しさには感謝するが、それでも急にいなくなるんじゃなくて書置きくらいは残してほしかったなぁ、と若干の不満を覚えながらも、クラリスはベッドから腰をあげ、ぐっと両手をあげて伸びをした。
春の木漏れ日がカーテンの隙間から差し込んでくるのを見て、外は快晴だとわかる。
とはいえ、衣類を一つも付けていない恰好では少々肌寒い。いつもの服装に着替えながら彼女は出かける準備を始めた。
行き先は――もちろんグランが釣りを楽しんでいる湖だ。
◇
ひと悶着あったクラリスのアプローチ作戦から数年が過ぎた。星の島イスタルシアに辿り着くまでは想いを伝えられないというグランの言葉を胸に、クラリスは彼と共に旅を続けてきた。
そして長い旅路の果てに、ついにグランたち騎空団は星の島に到着した。
言葉通りグランの到着を待っていた彼の父と邂逅し、父の見守る下でグランはルリアとの命のリンクを解除した。
数々の団員たちが見守る中でそれは行われたが――星の民が遺した技術だけでは不十分だったらしく、解除と同時にグランは死へと蝕まれていく。
慌ててルリアがリンクで繋ぎ止めようとするも、それも失敗に終わってしまった。
グランの父ですら予期しなかった出来事に一同は嘆き、彼の死していく様を見ているだけにしかすぎなかったのだが――それを認めようとしなかった少女がいた。
彼女の名はクラリス。あの時――グランに想いを告げた「未完」の錬金術師である。
「このまま死んだら許さないよ! 折角想いを伝えられたのに、こんな感じで終わらせたくない! うちは――うちはグランのいない未来なんて考えられない! グランが死んじゃうんだったら――うちはその『死』を崩壊させる!!」
彼女が放つその錬金術は――存在崩壊。
あろうことか彼女は「死」という概念を崩壊させる力をその場で身につけたのだ。
今まで募ってきた彼への想いは、いつしか彼女の支えとなり。
それはクラリスに秘められていた「才能」をこの世界に引き出すきっかけへと変わっていた。
「……ったく。相変わらずてめぇはムチャクチャしやがるぜ。死を崩壊させるだぁ? 全く、本当に妹の直系はろくでもねえことをしやがる。だが――」
その力を後押しするかのようにクラリスの眼前へと立つ少女。
彼女の名はカリオストロ。錬金術の開祖にして、直系ではないにせよクラリスの先祖に当たる人物だ。
「いいぜ。そういう証明できない謎を暴いていくスタイルは嫌いじゃねえ! やってやろうじゃねぇか。お前はグランの『死』を崩壊させ、そしてオレ様は――グランの『生』を構築する!!」
黒い球体上の中でグランの死を崩壊させ、次にカリオストロの放つ力で「生」を作り上げる。
星の民の技術を基盤として、二人の錬金術師が放った力を受け――そして、球体の中で作り上げられていたグランの身体は、いつもと変わらず元通りの姿に戻っていた。
「良かった、よかった……グラン……!」
大粒の涙を流しながら、クラリスがグランを抱きかかえたまましゃくり上げる。
彼女の機転が功を成し、そして死を崩壊した先で新たな命を再生したカリオストロの手腕のおかげで、グランは窮地を脱することが出来たのである。
かくして。団長の目的を達成したのを見届けた後、搭乗していた団員たちは当初の目的の為にグランサイファーを後にした。
星の島を目指していた者たちとの別れを惜しみながらも、また再会することの期待を胸に、思い思いに去っていくのであった。
そしてとりたて目的のない者たちはこれからも船に乗って旅路を続けていく――のだが。
「みんな聞いてほしい。僕は――団長の職を下りようと思う」
それは、目覚めたグランから発せられた衝撃の言葉だった。その決意はルリアとのリンクを切る前から決まっていたものであり、騎空団解散も視野に入れた考えでもあった。
しかし、それでも皆と共に空を巡りたいという団員たちの希望もあって、グランは団長職を辞した後――新団長ジータの下、新生騎空団が誕生したのである。
「色々大変だと思うけど、よろしく頼むよ」
「グランはこれまで頑張ってきたからね。後はわたしに任せて。
……グランの叔父さんもグランサイファーに乗ってくれるみたいだし、きっと大丈夫だよ」
「ありがとう、ジータ。これから気を付けて」
「うん……グラン」
ベッドの上に腰をかけていたジータがグランに背を向ける。
そして大きく息を吐いた後、くるりとこちらに向いて、
「クラリスを泣かせたら、許さないからね!」
そう、満面の笑みで言い放つのだった。
そうして団長ジータ、副団長カレンをもって設立した新騎空団は空を駆け、故郷の地であるザンクティンゼルにグランとクラリス、そしてビィとカリオストロを降ろして新天地へと飛び立っていった。
そのグランサイファーの姿を最後に見たのはいつだっただろう。
季節は幾重にも廻り、慣れない島の暮らしにどうにか適応しながらも、クラリスはグランとの生活を楽しんでいた。
「二人にはまだまだ学んでもらうことがあるから」といって無理やりグランたちについてきたカリオストロも島の子供たちを相手に教鞭を振るっているらしく、ビィを助手にして毎日あちこちの家々に奔走している。
表面上では面倒くさそうな対応をしつつも、その横顔は綻んでいて。ようやくつかんだ平穏な日々に愁眉を開いていた。
花冷えが続いていたザンクティンゼルもようやく春麗な暖かさを取り戻し。
それはこれから続いていくだろう二人の未来を示すかのような――満開の桜吹雪をみせていた。
◇
風薫る四季の到来をその眼に焼き付けながら、クラリスは生成りの色合いを見せる植林を駆け抜けていく。この道も初めは迷ったものだが、今では家の庭のように位置を視認することができていた。
故郷であるのに方向音痴なグランに手を焼きつつも、一番初めに訪れたのが山岳地帯の畔にある小さな湖だった。
ここで小さい頃はよくジータと水浴びをしていたらしい。誰もいないのを理由に二人で湖に入り、びしょ濡れになって叱られたのを懐かしそうに話していた。
そんな小さな思い出を羨ましそうに聞いていたクラリスも、いつの間にやら相好が崩れていて。
夏になったら一緒に遊ぼうねと約束を交わしていた場所でもあった。
陽の光が徐々に届かなくなる森の奥まで軽快に歩を進める。魔物の出てくる様子が一切感じられないしじまの中、ひっそりとした暗闇が終わりを迎えるその先で――クラリスは見つけた。
小さな湖に釣り糸を垂らして、妙に険しい顔つきで水面を眺めるグランがそこにいたのだ。
グラン、と声をかけようとして、クラリスはふと口を噤む。あそこまで集中している彼のことだ。おそらく声をかけても早々に気付かないだろう。
そう思い、クラリスは小悪魔な笑みを浮かべて忍び寄った。水面に気を取られているグランは背後にいる彼女には全く気が付いていない。
そして背中越しにクラリスは――がばっ! とその場で座っているグランを抱きしめた。
「だーれだっ☆」
「わっ――うわ、うわわぁっ!?」
集中していた故。急に背後から抱き着かれてか、グランはバランスを崩して前のめりに倒れそうになる。
彼の目の前ではゆらゆらと水面が揺れており、唐突に起きた背後からの衝撃で、危うく顔面から着水しそうになったが――クラリスの華奢な身体ではさほどの威力は生じなかったのか、思い切り踏ん張ることで何とかグランは入水目前で堪えることができた。
全身水浸しになるのを防ぐことができて、ふうと肺から大きく空気を送り出す。そんな苦労を露聊かも知らず、そして悪びれもせずぎゅっと背中に抱きつくクラリスに向けて、グランは苦々しい口調で言う。
「……クラリス。それ、『だーれだ』の意味ないよ」
「へへへー☆ なーんか難しそうな顔で釣りしてたからさ! おはよ、グラン!」
「……そんな顔してたのか。まあそれは置いといて……おはよう、クラリス」
軽い挨拶をかわして、クラリスはグランの左肩に顎を乗せて水面を覗き込む。
しかし、釣り糸がゆらゆらと動いているだけで他に波紋が投じられている様子はない。
「どお? 結構釣れてる感じ?」
「いや、全然だね。大物が釣れたら今日の夕飯にしようと思ってたんだけど……仕方ない。今晩は魚料理は諦めてお肉でも振舞おうか。クラリスはそれでいい?」
「うちはお魚でもお肉でも全然オッケーだよ! グランが作る料理はどっちも美味しいし!」
「……そろそろクラリスにも料理を覚えてもらうからね。一緒にいて結構長いこと経つけど、キミが台所に立ってるの、僕見たことないんだけど?」
「そ、それはー……誠心誠意、前向きに検討して、善処しますー……ハイ」
たはは、とグランから目を逸らしつつも抱きしめる力は緩めない。全く、と大きなため息をついてグランはしがみついたままのクラリスをそのままに立ち上がる。
流石に邪魔になるので離れると、グランは釣り道具を片付けながらこう言ってきた。
「さて。クラリスも来たし、釣りはこれくらいにしようか」
「あれ、もう終わるの? 珍しいね、いつもはもっと長いことやってた気がするけど」
「普段はね。でも今日はキミと行きたい場所があるからさ」
「ふーん……? ま、いいや。それじゃグラン――」
よいしょ、とクラリスも腰をあげてグランに向き直る。
春風をはらんだ栗色のポニーテイルを揺らして、華奢な両腕をぐいと彼に向けて伸ばすと、
「歩くの疲れたし、抱っこして☆」
にへへと屈託なく微笑んだ。
「ええぇ……」
「いーじゃん! 抱っこ、抱っこしてー! うち、寝起きで走ってきて疲れちゃったんだよー!」
それにグランが難色を示すと、まるで子供のように駄々をこね始めた。こう言い始めたときのクラリスは要求が通るまで梃子でも動かなくなる。
村の人たちに見られると恥ずかしいんだけどなぁ。と困り顔で彼女の様子を眺めていたが、
「しょうがないなぁもう……」
それでも嫌な気持ちは一切ないから不思議である。伸ばしてきた腕を肩に回して、両膝を持ちあげてグランは彼女を軽々と抱き上げた。
釣り具は邪魔になるから後で回収しに来よう。そう思いながら彼女の肩に手を添えて落とさないようにしていると、嬉々とした様子でクラリスがしがみついてきた。
細くやわらかな肢体が密着するたびに鼓動が逸り出す。ふわふわ揺れる髪が首元で擦れてくすぐったい。
まるで猫のようにじゃれついてきたクラリスに愛しさを覚えながらも、わがままばかりを要求する彼女にグランは苦笑いを浮かべた。
「やったぁ! グラン、優しいから大好き!」
「はいはい。僕も大好きだよ。……着いたら早々に下りてもらうからね」
「むー……折角のお姫様抱っこなのにロマンがないなぁ」
ぷくっと頬を膨らませてジト目で見つめてくる。そんな無邪気なクラリスの顔が微笑ましくなって、ついグランは吹き出した。
「なんで笑うのさー」と怪訝な様子で訊ねてくる彼女だが、その問いには答えずグランは「ある場所」に彼女を連れて行った。
相変わらず方向音痴なグランではあるが、その足取りは妙に律したものに変わっていて。
それが決意の現れとなっていることに彼女が気付けたのは、もう少し後になってからだった。
◇
グランがいうその場所は、湖からさほど遠くないところにあった。道中やはり道に迷いそうになりながらもぎこちなく案内されたそこは、ザンクティンゼルを一望できる丘陵があり、生い茂る草花が絨毯のように敷き詰められている。
故郷の景色を眺めるだけなら、これまでにも良い場所を探して二人で駆けまわっていた。
なので今回の場所もそういう意味で案内されたところだろう――とクラリスは思っていたのだが。
「良かった。魔物に荒らされていたらどうしようかと思っていたけれど、無事みたいだ」
そう安堵して呟く。そこには――樹齢何百を迎えているだろうか。色めく大地にしっかり根を生やした果実の木が、二人の前で力強く聳え立っていた。
橙色の果実がなる大樹を見て、クラリスが「わあ~!」と歓声を上げる。
「クラリス、みかんが好きだって言ってたからね。いつかここに連れてこようって思ってたんだ」
そう言ってグランは彼女を優しく下ろす。
地についたクラリスは駆け足でその木にまで向かうと、枝に成る果実(みかん)に目をやった。
瑞々しい輝きを見せるそれらは太陽の光を浴びて大きく育っており、豊かな土壌によって蓄えられた栄養が、その実にしっかり宿っているのが分かった。
「いっぱい実ってるねー!」
「この辺りは見晴らしも良いし、天気が荒れることもないからね。香りにつられて魔物が寄ってこないかだけ不安だったけれど、その気配もなさそうだ。村のみんなにも分けてあげたいし、ちょっとだけ貰っていこう」
グランは器用な手つきで枝に成る果実を取り、クラリスにそれを手渡す。
二人分の果実を手に、グランはもう少し見晴らしのよい場所に彼女を連れて行った。
青い空、白い雲。遠くに見える村の風景。大きな山々に囲まれながらも田舎ならではの風情を見せる世界がそこには広がっている。
長閑な田園の風景は、街中でオシャレを楽しんでいたであろう自分が居る場所とは到底思えないところだった。
この生活に慣れるまでは本当にてんてこ舞いな毎日が続いていた。グランの家に住み始めて、必要最低限の物資でどうにかやりくりをして。
いろいろ我慢したし、不満も確かにあった。
けれども――それよりもずっと得難いものを、「グランと一緒に過ごす」という夢を叶えるためにクラリスは走り続けた。
そのことに彼女は後悔していない。
それよりも、前よりもずっと有意義に暮らせていたりする。
目的があるだけで、人はこんなにも前向きに頑張れるんだということを、彼女は身をもって実感していた。
――それなのに。
こんなに幸せだというのに。クラリスの中では一抹の不安が心の中で燻っていた。
手に持つ果実が、日光を浴びてきらりと光る。
「……ねえ、グラン」
見晴らしのいい丘の上。隣だって座るグランにクラリスは声をかける。
口に含んでいたみかんを咀嚼していた彼は「?」と怪訝そうな顔で覗き込んできた。
「グランは、本当に良かったの?」
「んくっ……良かったって……なにが?」
「だってさ。騎空団の団長はジータに譲って、グランのお父様はジータと一緒に旅に出ちゃったじゃん。……一緒に行きたい気持ちとか、無かった?」
あの日、グランが団長の職を下りると聞いて。クラリスはそれが自分のためだと即座に気付いた。
そう彼が決断した時は嬉しかった。
けれども――同時に自分の為に旅を止めたのでは。と思うようになってしまった。
「本当にうちを選んで、後悔してない? グランは、もっともっと旅をしたい、冒険に出たいって思わなかったの?」
このザンクティンゼルを離れて、グランは大空を知った。世界を知った。帝国という強大な力を持つ国と戦い、時に傷つきながらも――冒険の楽しさを、まだ見ぬ世界の素晴らしさを知った。
けれどもグランは、築き上げてきた今までをジータに譲り、こうして自分と一緒に長閑な暮らしをするようになった。
並大抵の覚悟ではなかったと思う。
新たな島を目指していた彼の目をクラリスは知っていたから、あの純朴な眼が映す世界があまりにも綺麗だったから。
それを止めてしまった自分に負い目を感じてしまっていた。
少しの間、無言が二人の間を支配する。
さきほどまでつくねんとしていたグランの横顔は、気付けば苦み走ったそれに変わっていた。
ちょっと意地悪な質問だったかな。とクラリスは彼の横顔を見て罪悪感を覚える。
そんな折で、グランは遠くを眺めながら、ぽつりぽつりと独り言のように語り始めた。
「……そりゃあ、旅をしたいって気持ちは多少はあったさ。曲がりなりにもここまでやってこれて、まだまだ未開の土地がたくさんあるって知って。僕らの知らないものを見つけに行くなんて、凄く楽しそうじゃないか」
でもね、と付け足してグランは続ける。
真っ直ぐな眼はこちらをしっかり見据えていて、吸い込まれそうな瞳の奥には真剣な眼差しで見つめるクラリスが映っていた。
「でも、僕はそれよりももっと――大切なものを見つけたからさ。これでいいんだ。
冒険よりも、真新しいものよりも――ずっとずっと、大切なものを見つけたから」
ふいに肩に手を回され、クラリスの身体がグランと密着する。
横に連れだって並んでいたはずの距離はいつしかとても近くに、顔と顔が触れ合うくらいまで迫っていて。
ぎゅっと抱きしめられた温もりをクラリスは知っていた。自分しか知らない彼の温もり。自分しか知らない彼の匂い。
グランに抱かれ、心臓の鼓動が互いに重なる。
少しばかりの不安に彩られ、空虚になりがちだった心が、希っていた気持ちと共に満たされていくのをクラリスは感じた。
「後悔なんてしてないよ。僕はクラリスと――君と一緒になれて、本当に良かったって思ってる。大好きな人と暮らしていくことに後悔なんてあるものか。騎空団のみんなには悪いけれど――僕は、キミと一緒に居たい。これまで二人きりで居られなかった分、こうやってずっと一緒に――クラリスと歩んでいきたい」
確かに皆で旅をしたかった気持ちはあれども。
それよりももっと深く、遥かに強い想いがそこにあったことに彼女は気づく。
苦悩の末、葛藤の末に選んだ結果ならば。自分の存在が枷となっていたならば。
一方だけの幸せがもたらす日常に意味はない。それは幸福とは言えない、ただの自己満足。ただのわがままでしかない。
けれども。
そんな不安を払しょくするように、グランはクラリスに愛しそうに頬を擦り合わせた。
不器用な言葉を紡ぎながらも、彼は――これからを語る。
「それにさ、冒険なんていつでも始めたらいいんだよ。こんな日常に満足して、でも退屈な気持ちになったなら――またジータたちみたいに旅をすればいい。クラリスと二人で、気の向くままに旅をしたらいいと思う。
――僕らの旅は、終わらないよ。これからもずっと、続けていける」
まだ見ぬ世界をこの目に宿すため。
まだ知らぬ世界をこの足で踏破するため。
その時は一人じゃない。手を繋いで、共に旅立とう。閉塞な空間に不満があれば、いつでも空を駆けることが出来る。
これまで様々なことを実現してきたから、二人で出来ないことなんて一つもなかったから。
だからこそ、もう一度空を旅することだってできるのだとグランは信じていた。
くじけそうになった時でも、傍にはグランが居て、グランの隣にはクラリスが居て。
そうやって支え合えていたから――これまでがあって、今がある。
「でも、僕は当分はクラリスと一緒に過ごしたいかな。これまで辛抱してくれた分もあるし、しばらくはこの幸せをかみしめていたいから」
そう言って、グランは抱きしめていた腕を緩めて、すっと立ち上がった。太陽と重なる彼の姿に、少しだけ目が眩んでしまう。
そんな彼女にグランは手を差し伸べて立ち上がらせた。おぼつかない足取りでクラリスが彼に向き直ると、グランは「ふう……」と深呼吸を始めた。
突然の深呼吸にクラリスは「?」と首をかしげる。
「――クラリス、悪いけど、目をつむってくれないか?」
「え? う、うん。どしたの急に?」
「いいから。別に変なことはしないって」
促されて、クラリスは言われるがままにその小さな瞳を閉じる。
何をされるんだろう。グランだから別段、変なことはしてこないとは思うけれど。
そんなことを思いながら、彼からの言葉を、行動を待つ。しばらく待って、自分の左手にグランの手が触れたことに気付いた。
一体、何をやっているんだろう。見当がつかない彼女は未だに頭の中では疑問ばかりが浮かぶ。薄眼で見てみたいと思ったが、流石にまずいと思ったのか寸前で止める。
もどかしい気持ちでいる彼女だったが、ようやく終わったのか、その手が彼女から離れた。
「ほら、目を開けていいよ」
「うん……って、え? え、えっ!? これ、これって、グラン……!?」
ゆっくりと眼を開いてみて、早速何かされていたであろう左手を見る。
おそらくアクセサリー的なものだろうかと想像していたのだが、実際にはめられていた「それ」は彼女の予想とは大きくかけ離れていた。
クラリスの翡翠色の目が、驚きで大きく開かれる。
――彼女の左手の、薬指にはまっていたその「指輪」は自分の首元で光る――あの時、グランに露店商で買ってもらったネックレスと同じ輝きを放っていて、光に当たって美麗な煌きを見せながらも、小さく儚い色彩を描いていた。
それはどこか影を落としがちになるクラリスのようで。
しかしそんな影に負けぬよう、周囲を一際元気に明るくさせる彼女のようで。
震える指先には見間違えるはずもない、確かな指輪がそこにはめられていた。
それは彼から贈られた――一つの決意を示す、贈り物であった。
「ごめんな、遅くなって。やっぱりこういうものは、しっかりと渡しておかないといけないって思ってさ」
未だに実感が沸かない彼女の前で、グランは続ける。
今まで秘めていた思いを。これまでに抱いていた言葉たちに感情を込めながら。
これからを約束する確かな告白を――静かに語った。
「キミと出会えて、キミと知り合えて、本当に良かった。
クラリスとの出会いは突拍子もなくて、けれど新鮮で、すごくテンションが高いところもあればナイーブなところもあって。
明るい笑みに救われた。力強い言葉に励まされた。
そんなクラリスに惹かれて、僕はキミを好きになった。
クラリスとカリオストロに助けられながらも、イスタルシアでリンクを解除することに成功して。もう一度キミと一緒に生きることが出来て――本当に良かったって、そう思えた」
あの日、あの場所で。
もう駄目だと自分でも諦め、悟り、死への道を歩もうとしていた時。
グランへの想いを叫びながらも、最後まで諦めようとしなかった彼女がいた。
それまでは無理だと思っていたはずなのに。
虚ろな眼に映る彼女の泣き顔を見て、生きたいと思った。
死にたくない。もっと生きたいと――泣きながら願った。
最愛の彼女をおいて遠くにいこうとした自分を恥じ、
これが自分の運命だったと、情けない心根のまま終わりを迎えようとしたことに後悔し、懺悔して、
そして――救われた。新しい命を、二人の錬金術師に授けられ、支えられながら。
生きようとする大切さと、愛されることの幸せを――彼女に抱きしめられながら、強く感じることが出来た。
「これからどう生きていくのは分からない。まだまだ先は見えないし、するべき問題も山積みだと思う。
でも、そんな僕を支えてほしい。ずっとそばで見ていてほしい。隣でずっと……笑ってほしい」
そうひとしきりしゃべり終えて、再びグランは大きな息をつく。
その顔は緊張故か赤くなっていて、気恥ずかしくなったのか、ふっと彼女から顔を背けた。
しかし、当のクラリスはと言えば――そんなグランとは目を合わせず、俯きがちに地面を見つめていた。
一切の言葉を挟まず、ずっと彼の言葉を耳にしていた彼女の表情は、垂れている前髪でよく見えない。
しばしの沈黙の中で、ようやくその価値を、その言葉の真実を受け止めたのか――クラリスは、ぽつりぽつりと、震えて仕方ない唇をどうにか動かしながらーー想いを発した。
「……変な事じゃないって……十分、変なことだよ。変だし、こんなの、急すぎるよ……」
「あ、あはは。やっぱりここじゃ、嫌だったかな?」
「嫌じゃない。嫌じゃないよ。……でも、ちょっとだけ悔しいよ。いつも驚かされてばかりだもん、いつも、こんなにあったかい気持ちにされちゃうんだもん……!」
悔しくって、でも幸せで。胸いっぱいに広がるこの想いは紛れもなく本物で。
ポツリ、と。雨のような雫の粒がクラリスの瞳から零れ落ちる。それは悲しい思いから生み出したものではなく、感極まった思いが幸せの形となった温かなもの。
胸の奥で響くグランの言葉を嚙みしめる度に涙がこみあげてきて、言葉にならない嗚咽が何度も漏れていく。
本当は、怖かった。
もしも本当に自分の存在が彼にとっての重荷となっていたならば。
彼から本音を告げられて、拒絶をされた時。
果たして自分は彼のことを諦めることが出来るのかと。
結論として、それは出来なかった。
いや、出来るはずがなかった。
こんなにも愛しさが胸の内で溢れる平穏な時の中で、彼のいない世界など信じられるはずもなく。
両親との心のすれ違いで一人ぼっちの時間を多く過ごして。胸に開いた空虚な感情を埋めるために、わざと空気の読めないようにはしゃいで、後ろ向きな感情をひた隠しにして。
そうして様々な人との一期一会を繰り返しながらも辿り着いた自分の居場所にして、最愛の人と巡り会えたこの機会を、クラリスが諦められるはずがなかった。
諦めることが出来ず、しかし不安ばかりが重なっていて。
けれど――けれども。この自分の指にはめられた指輪は、彼とこれからを紡ぐ意思を物語っていて、クラリスが抱いていた不安を打ち消すようにーーグランは嘘偽りない本心を語った。
嬉しくて、幸せで。愛しくて、切なくて。
肩が、身体が、唇が。自分の思いと相反して震えていく。
そんな彼女にグランは穏やかな微笑みを見せながらも、そっと抱きしめた。
優しい抱擁が、平静ではない彼女の心を安らかにさせていく。ぼろぼろと涙をこぼしながらも、クラリスは呂律の回らない口調でグランに囁く。
「うち、グランから貰ってばっかりだよ……」
「そんなことないさ。僕も、たくさん貰ったよ。
クラリスの大切な時間を、想いを――たくさん貰った」
心地よい風が薙ぐ、碧空色に染まったこの世界で。
未完だった心が、まるで最後のピースをはめるように完成されていく。
不安で彩られた内情は今では優しさと愛しさで満ちていて。
夢のような体験だけど、夢ではないこの現実に。
クラリスはかけがえのない思いを胸に秘めたまま。
グランの大きな身体に包まれながら、溢れんばかりの彼への気持ちを、その胸に伝えていった。
蒼天から光差す丘陵で、二つの影が一つになる。
それは影であるにも関わらず、彼方に広がるこの世界でひときわ目立って輝いているような――そんな気がした。
◇
「――あ。そうだ、グラン」
「ん?」
——あれから。
グランの胸で思い切り涙を流したクラリスも、今ではいつも通りの調子に戻っていた。
それでも泣き腫らした目は赤く染まっていて、顔は未だにくしゃくしゃな感じになっていて。
村の人が見ればグランが何かしたのかと怒られそうな様子ではある。
そんなクラリスは翡翠色の双眸をぱしぱしと瞬かせて、問いかけるようにグランに訊ねた。
「うちさ、今凄く酸っぱい物欲しかったりするんだよねー。……なんでか分かる?」
「……なんでだろ? でも、酸っぱい物なら腕にたくさん抱えているじゃないか。……まあ僕は甘いみかんの方が好きだけどさ」
「あははっ、グランならそういうと思ったよ。じゃあ、この話の続きは家に帰ってからにしよっか☆」
「うん? まあ、それでいいなら……そうしよっか」
何やら未だに理解の出来ない様子で首をかしげるグランに、それを見てクスクスと笑うクラリス。
破壊に特化された錬金術師に芽生える、ひたむきなほど真っ直ぐな愛情の中で。
その小さな身体に眠る生の息吹を、いのちの胎動を、クラリスは静かに感じ取っていた。
「(お父様、お母様‥‥)」
空を仰ぎ、クラリスは想う。
「(うち、幸せになるね。グランと一緒に。それと――)」
この世界で彼と出会えた奇跡を、数多ある島の中で巡り合えた喜びを、そして――
「(この人との間に生まれた、新しい命と、一緒に)」
壊すことだけじゃない。
愛を育み「大切な宝物」を宿せたことに、幸せを感じながら――。
◆
「だーれだっ!」
「わわっ!? だ、だれだ!?」
「くふふふっ、だーれーでーしょーうーかっ!」
「あの、本当にどなたですか……?」
「ふふっ、うちの名前はですね――――」
◆
あなただけの錬金術師 fin
読了お疲れ様でした。
よろしければまた次回作にもお付き合いくださいませ。