夕焼けの空が刻一刻と夜の色を増していく。
警察に届けるはずだった鞄は魔術師のものと判明し、当初の目的を完全に喪失したアルは、帰路についていた。傍らにはアーチャーの姿がある。
暫し共に歩いて気付いたことだが、彼女は歩く際、一切の足音を立てない。動作は全て滑らかに連続し、風にそよぐ枝葉のように、認識の表層を流れていく。
なるほど、と納得する。アーチャーの気配が薄いのは、ただその洗練された挙動のためなのだ。
しかしながら、その一方で彼女の姿を際立たせているものがひとつ。
「……その、アーチャーはどうしてウチの制服を着ているんだ?」
「ん? ああ、これか」
アーチャーは自らの躰を見下ろした。アルの服の予備であるため、男性服なのだが、すらりとした彼女によく似合っている。
「機を見て汝に接触しようと考えたのだが、事情を考慮するに、霊体化したままでは信じてもらえぬだろうと思ってな。無断で借用した。当然、戦闘時には別の装束に着替える」
「なるほど」
確かに何処からともなく声が聴こえてきたとしたら、まず疑うのは自分の頭だろう。しかもその内容といえば荒唐無稽極まりない。彼女を前にしなければ、とても信じられなかったに違いない。
「じゃあ、その帽子は? 他にもあったと思うけど……趣味?」
「む――趣味でこんなものを被るか」
言って、アーチャーは帽子の鍔に触れた。
被っているのは、彼女の体躯に対してかなり大き目の帽子で、そこだけがちぐはぐとした印象を与える。これもカフェにある箪笥の隅で埃を被っていたものだ。
「ならどうして――」
さらに訊ねようとしたところで、カフェの前に到着した。と同時に、忘れようとしていた思考が蘇ってくる。
「うう……、店長怒ってるよなぁ……。本当に追い出されるかも……」
貸し切り客が来ると聞いた瞬間に店から出奔し、陽が沈んでから帰ってくるなど、どう扱われても文句は言えない。
中々扉を開ける踏ん切りがつかず、ノブを握ったり離したりしていると、背後から声がかかった。
「安心しろ。それに関しては私が迷惑をかけたと説明しよう」
アーチャーが鷹揚に頷いて見せる。
まあ、確かにその言い訳も間違いではないが……。
「いや――、でも」
「店主には、無断で服を借りた詫びもしようと思っていたのだ。それに気になることもあるしな」
「……そういうことなら」
やたらとサーヴァントを人に見せるものではないが、店長なら大丈夫だろう。
よし、と気合を入れる。取り敢えず自分が先に入るからと言って、アーチャーには下がってもらった。
(まずは店に入ると同時、即行で謝罪をして……)
ノブを下げ、扉を押し開く。
「すみません店長遅くなりました!」
大声で叫んで頭を下げる。
「……ええっと。何か、あったのかい?」
店の中には、呆気にとられた様子の店長が立ち竦んでいた。
店内を見廻すが、ほかに客の姿はない。
「そうといえばそうなんですが……本当にすみませんでした。パーティーは――もう終わってますよね……」
「まあ無事でいるなら何よりだよ。どうか頭を上げて……」
聖人君子とは正にこのこと。ますます申し訳なさで身が縮こまる。
店長が微笑んでこちらに近づき――。
「下がれ、マスター」
アルは後ろに吹き飛ばされた。
正確にはアーチャーが首根っこを掴み、素早く躰を入れ替えたのである。
「ぐぇっ」
襟で気道が潰れ、奇妙な声が出る。
振り回された躰は、しかし丁寧に地面へ降ろされた。
「ぇほっ……、あ、アーチャー……?」
「無事か、マスター」
激しく咳き込みながら、突然奇行に走った彼女を見上げる。
自分の首を掴む右手、その腕、彼女の後頭部、伸びた左腕と――、その先で頸を絞められる店長。
己を優に超えるだろう体躯の男を腕一本で持ち上げ、アーチャーは冷たい視線で相手を睨む。
「がッ……はァッ……」
緑色の瞳に映る男は、苦悶に顔を歪め、口から泡を飛ばす。
手足をじたばたと動かすのは、抵抗ではなく、パニックによる反射的な動作。
「…………」
やがてその動きは勢いを失くし。
男の手足はだらりと垂れ下がる。
力を失った手から、小さな針が転げ落ち、床で一度弾んだ。
「触れるなよ。恐らく、毒が塗ってある」
扼殺した男を投げ捨て、アーチャーは立ち上がろうとしていたアルを片手で留める。
「店長……?」
「他に気配は――なしか。”黒”の陣営が攻めてきた、というわけではないらしい。死亡した以上魔術は解除されるだろうが、まだ罠が残っている可能性もある。取り敢えずこの店を調べるぞ」
「て、てんちょ……」
「――おい」
茫然と唇を震わすアルを見下ろし、アーチャーが底冷えする声を発した。
ぶわり、と室内温度が低下する感覚。
「これ以上腑抜けているなら、今ここで切り捨てる」
そこに慈悲の入り込む余地はない。
彼女がそう言うのなら、必ずそうするだろう。
「己を殺そうとした敵の死に動揺するのか? それとも信じられないか? 何ならこの針で刺してやるが」
別にアルが冷静な思考を取り戻した訳ではない。
ただ、サーヴァントに対する恐怖が、動揺を塗りつぶしただけである。
「わ――判った。すまない、少々取り乱した」
両手を胸の前に上げ、ゆっくりと立ち上がる。鼓動が早鐘を打ち、口内はからからに乾いていた。深く呼吸をして、どうにか体裁を取り繕う。
アーチャーは光を失った店長の瞳を見て、軽く肩を竦めた。
「話を聞く限り、汝はこの男に恩義を感じていたのだろう? その動揺は理解できる」
(理解できんのかよ! なら何であんな脅迫を――)
「だが、戦場に於いては動揺が死に直結する。裏切り程度で取り乱してもらっては困るな」
「…………」
そう……、自分が身を投じたのは殺し合い。
理解はしていた。覚悟も決めたつもりだった。だが、何の実感もなかった。甘かったのだ。
頭を切り替える。記憶がなくとも、それくらいのことはできるはず。
「ありがとう。アーチャーには迷惑をかけたけれど……、俺には幸運だった。初めてこれを経験するのが戦場だったら、多分、何もできずに死んでいたと思う」
正直にそう告げると、彼女はその冷たい瞳のまま、しかし威圧は解いた。暖かな室温が戻ってくる。
ほっと安堵の息を吐く。ぎりぎり機嫌を損ねずに済んだらしい。
そんなアルの様子を見て、またアーチャーは厳しい表情を浮かべた。
「ひとつ言っておくぞ。戦場だったら――ではない。ここも戦場だ、愚か者」
「う、すまん……」
カフェの奥、倉庫代わりに使っていた一室。その床の一部を持ち上げると、地下室への階段が現れた。
「全然気づかなかった……、俺ここで寝泊まりしてたのに……」
「魔術的に隠匿していたのだろう」
アーチャーに続いて、階段を下りていく。蝋燭の炎が、二人分の影を壁に投じた。
前を歩く彼女の後姿から、何となく目を逸らせる。
それでも視界の端に入ってくるものがあった。
毛に覆われて、ぴょこぴょこと揺れるそれ。
アーチャーの歩みに合わせて動くそれは、どう見ても獣の耳と尻尾であった。
帽子を脱いだ下、更に制服の内に隠していたそれを彼女が出した時は、驚きに声も出なくなったほどである。
(これ訊いていいのかな……。でも外見はデリケートな話題だし……)
「何だ、何か言ったか?」
心の声が漏れていたか、その耳を機敏に反応させて、アーチャーが振り返る。
「いっいや何でも! えっと――、そう、どうして店長は俺を住まわせたりしたんだろう? 店長が魔術師だったら、万が一にもバレることを恐れると思うんだけど」
「記憶喪失、身寄りもなく、消えても誰も気にしない人間だろう? 魔術師にしてみれば、いくらでも使い道があったのだろうさ」
その素気ない答えに、思わず身震いする。
「でもそうだとしたら、どうして急に襲うような真似を……」
「さあな。考えても詮無きことだ」
階段を下り切った先には、古風な設えの一室が待っていた。
置かれたランプに火を灯すと、その全容が見て取れる。
重厚な机、本棚に収められた謎めいた本、秤、薬草、暖炉には大鍋、描かれた魔方陣のような図……。
魔術師の研究拠点――魔術工房である。