何か、柔らかい感触を背中に感じる。軽く体を動かせば背中だけではなく、何かが上にかけられているのだと気づく。少しずつ、少しずつ意識のピントが合わされて行く。そうして真っ先に思い出すのは悪夢。炎の中で血を受けて赤く染まる緑色。やっと大事だって認められた次の瞬間に殺されてしまった人と、その体を大事そうに抱きしめる悪魔。
「―――!!」
顔と押さえて体を置きあがらせる。顔は濡れていない。手を見る―――赤く濡れていない。そこに血の跡はない。その事に少しだけ安心を覚え、そしてようやく自分の今いる状況に理解が追いつく。今自分はベッドの中にいるのだ。しかも良く知るベッド―――自分の部屋のベッドだ。周りを見れば間違いなく自分の良く知る内装だ。目覚まし時計、ポスター、タンス……それらは間違いなく自分の日常を証明するもので、そしてそこには旅行に持っていくはずのトランクケースの姿もあった。
「……はぁ、はぁ……夢……?」
―――なんて訳はない。夢であるか。夢であるものか。思い出せる。思いだせてしまう。あの女の笑顔を、蕩けるように酔った笑みを。私を逃がそうとしてくれた彼の表情を、……互いに話し合って、そして和解する事に成功した彼の表情を忘れる事なんてできるか。本当に本当に回り道だったが、もう一人の兄だと認められたのだ。なのに、なのに―――そして思い出す。あの現場を。
「ぐっ、うぇ」
胸に一気に込み上げてくるものがある。それを堪える事が出来ずに、ベッドから床へと落ちるのと同時に吐きだす。吐瀉物が床に広がり、匂いが充満するが、初めて明確に認識できる死の現場に、身体も脳も心もそこまで丈夫じゃなかった―――あの時、一撃で消し去ったのは此方に配慮してたのもあったのかもしれない。
「ぐぇっおえっ……」
再び我慢できずに吐き出す。だがその音を聞きつけたのか、凄まじい勢いで近づいてくる足音がする。ドアが叩き壊されるのではないかと疑う程の衝撃と音と共に、誰かが部屋に入ってくる。
「ティアナ! 無事か? クソっ」
この声は……ゲンヤのものだった。此方に近づいてくるとバケツを置いて、そして上半身を持ち上げて背中を撫でてくる。情けないと解っていても、込み上げてくる吐き気と涙は止まらない。歯を食いしばって我慢しようとするが、ゲンヤが背中を撫でてくる。
「我慢すんじゃねぇ。吐きだせるもんは全部吐き出しちまえ。……その方が楽になるぞ」
我慢は出来なかった。ここ数日食べたものを全て吐き出す勢いでバケツの中へと吐きだせるものを全部吐き出す。
◆
「すみません、床を汚しちゃって」
「気にするんじゃねぇよ。暫くの間自分の部屋がゲロ臭いだけだから」
ぐわぁ、と心の中で我慢しておけばよかったと激しく後悔する。
リビング、ホットココアの注がれたマグカップを手に、若干俯きがちにソファに座っている。普段は座り慣れたはずの場所なのになぜか今だけは遠い異次元に思えた。心を落ち着けるためにも少しだけ震える手でマグカップの中身に口をつける。甘く苦い液体が口の中を満たしてから喉を通り、体を内側から温める様な気がする。吐き出しきって大分空っぽになった腹と、冷え切った体にココアが染み渡る気がする。ここまで来ると大分頭はまともに動き出す。そして、求める。
「あの……」
「おう、どうした」
「その、タスラム、どこですか?」
「……」
ゲンヤは困ったような表情を浮かべ、とぼけるように視線を明後日の方向へと向ける。だがここで負ける気はない。ただゲンヤを無言で見つめ続ける。タスラムは、どうしても必要なものなのだ。だからただただ無言で、ゲンヤの姿を数分間、何もなしにただ見つめ続ける。やがてゲンヤが諦めたように溜息を吐き、キッチンへと向かう。数秒後、戻ってきたゲンヤの手にはタスラムが握られていた。こっちへ渡し渋る様な様子に、容赦なく立ちあがってタスラムを奪う。
「おい、予想以上に元気じゃないか」
「……くよくよしてはいられませんからね」
そう、くよくよはしてはいられない。もう、大体意志は固まっている。今はその確認中だ。マグカップの中身を一気に飲み干し、そしてタスラムを弄り始める。広げるホロウィンドウの中にはタスラムの中に保存されたデータや記録、メッセージなどが入っている。それを確認し、タスラムを一旦横へ置く。……聞かなくてはいけない事は複数ある。
「ゲンヤさん」
「ティアナ、お前」
「―――バサラ家の皆がどうなったか教えてください」
「―――」
そのリアクションで何が起きたのか大体察せる。おそらく……いや、確実に最悪の可能性が現実になっているのだろう。だからこそ問わなくてはならない。
「何があったんですか―――イスト兄さんが殺された時、そっちでは何が起きていたんですか」
「……」
ゲンヤは此方の言葉に対して手で顔を覆ってから、そして何か言葉を呟く。そして此方に聞こえる声で溜息を吐き、
「言いたくないんだが」
「言ってください」
「思い出したくないんだが」
「嘘ですね。兄さんたちが信頼して信用したゲンヤさんが忘れたいなんて思って逃げる卑怯な人であるわけがないじゃないですか」
「クソォ、馬鹿どもが変なハイブリッドを育て上げやがって……!」
そう言ってゲンヤはソファの対面側へとドカ、と音を立てて座り込む。そうやって露骨に疲れを見せるゲンヤ・ナカジマの姿は中々―――いや、確実に初めて見るものだった。仕事から帰ってきたときとか疲れた、等と口にして笑ったりはするが、それでもここまで年齢を感じさせるような疲れた姿は見た事がなかった。そんな初めて見るゲンヤの姿を前にしながら、耳を傾ける。
「―――爆破と同時に目を俺は閉じたんだがよ、次の瞬間に聞こえたのは悲鳴じゃなくて声だったよ。”避けろ”ってレヴィのな」
そこから淡々と、感情を乗せずにゲンヤは語る。
「目を開けた次の瞬間気付いたのは両手足をちぎられた銀髪の姿だ。体はそのまま蹴り飛ばされてどっかへ行った。それに反応してレヴィが飛び付いたけどカウンター食らって逆に吹き飛んだ。その瞬間にシュテルとディアーチェで何をしたかはよく見えなかったが攻撃をしたが―――ま、俺がちゃんと見えていたのはここまでだ。ここで余波に巻き込まれて外へと吹き飛ばされちまったからその先は知らねぇ。ただこの時スバルやギンガとは分断されちまったなぁ……あぁ、あの二人なら上で寝てるから安心してな」
あの二人が無事なのはゲンヤが自分の相手をしているのを見れば理解できる。だからスバルとギンガが無事か、なんて聞く必要も確認する必要もなかった。―――あぁ、だがそうか。今の話で理解できた。
「死体、見つかってないんですね」
「生きてるって思わないんだな」
「たぶん……というか確実にイスト兄さんを殺した襲撃者と同じ襲撃者でしょうから。それを確認するためにタスラム預かっていたんでしょ? タスラムの中にある映像データと自分の記憶を確かめる為に―――」
「ティアナ」
ゲンヤの声が此方の言葉を遮ってくる。真剣な表情で此方を見て、そして語りかけてくる。
「休め」
解っている。おかしい。今の自分は……酷く冷静だ。驚くほどに冷静だ。死んだと解ったのに涙一つ出てこない。いや、そもそもシュテル達が死んでいるのだって彼女の言葉を思い出せば容易に解っている。ゆっくりとタスラムから手を放し、そして自分の顔に触れる。そこには何の表情の変化もない。笑っても、泣いても、怒りも感じない。テーブルに反射し、そこに映し出される自分の顔は恐ろしい程に無表情だった。
「色々とあって疲れてるんだよ。休め。もう一眠りして、起きる頃にはちゃんと泣けるようになっているさ―――だから今は休め」
「休む……」
嫌だ。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
休んで今は忘れて、また後で悲しめ―――そんな楽に逃げたくない。
ギリ、と歯を強く噛んで感じるものがある。
―――そう、怒りだ。これが怒りだ。ふざけるな。ふざけるなよ、一体誰の許しを得て、家族を、大事な人を私から奪ってゆくんだ。頑張って頑張って、それでようやく話し合えたのに。その終わりがこれだなんて絶対に認めない。断じて許せるものか。そう、彼には誰よりも幸せになる権利があったはずなんだ。あんなことがあって、そして今があって―――もう十分頑張ったではないか。それなのに次元犯罪者に、テロに襲われて終わり。
「そんなもの認められるわけないでしょ!!」
拳をテーブルに叩きつける。知っている。そう、話し合って分かったから、知っているのだ。彼は頑張ってきた。正面から、話し合えるように……真直ぐ生きてきたのだ。そしてそれに対する仕打ちがこれなのだ。
「認められるわけないわよ……」
両目からやっと涙が流れ出す。だが悲しみよりも心を怒りが満たす。復讐心が満たす。それが絶対にいけないものだと理解しつつも、決して喜ばれるものではないと理解しながらも、頭の中で出来上がっていたものが確実な感性の形を得ようとしていた。限界まで強く拳を握りしめて、そして握り拳を解く。今の自分の状況を思い出してタスラムを両手で握り、そして頭を下げる。
「もう少し寝ていますね」
「あぁ、消臭剤まいといたから気にならないし眠っておけ」
……やる事は決まった。―――故に、今は寝る。だけど。
―――顔は、覚えた。絶対に許さない。
貴様は絶対に―――。
◆
ティアナが奥へ、自分の部屋へと戻って行く姿を見て内心でクソ、と叫ぶ。改めて思い出すのは馬鹿二人だ。自分と仲の良かった馬鹿二人―――まだまだ若いくせに、家族の為に大人になろうと足掻いていた二人だ。このまま時間が経過してゆけば望んだものにでもなれただろうに、運命は彼らにそれを許しはしなかった。テロから既に数時間が経過しており、鎮火は終了している―――既に遺体の方は見つかっている。DNA照合からしてまず間違いがない、というのが検死の結果だった。
「クソっ」
酒を飲まずにはやってられなかった。キッチンへと向かい、棚からボトルを取り、グラスに注ぐのも面倒なのでそのまま蓋を開けて飲む。キツイが、これぐらいキツクもないとやってられない状況だった。
「どうして若いやつから消えてくんだよ……!」
若い人間を十全に育成することなく現場へと送り出してしまう管理局のシステムに、そして肥大化しすぎてしまったために身近な場所を守れなくなってしまった管理局のシステムを今回ばかりは恨むしかなかった。ティーダもイストも、どちらも将来有望な男たちだった。ティーダはまず間違いなく執務官として大成しただろうし、イストも腕がダメになっていたが教官としては優秀だって聞いていた。どっちもまだ未来があっただろうに、こうだ。
「そして今度はティアナを奪ってくつもりか……」
ティアナの目を見てしまえば解る。アレは覚悟を決めた部類の人間の目だ。あの馬鹿二人に非常に良く似ている。非常に面倒だけど―――きっと、正しい形であの二人の考えや意志を受け継いでしまった。それを自分の言葉で止める事は出来ない。まず間違いなくティアナは空士か陸士、どちらかになる事を望む。―――正直な感想、ティアナの才能はティーダを軽く凌駕している。育てればまず間違いなく優秀な魔導師となるだろう。
だが早い、まだ早すぎる。そしてそれを止める事は出来ない―――が、遅らせることはできる。
「面倒事ばかり置いていきやがって……あぁ、こういう時ばかり戦闘のできる魔導師じゃないってのが恨めしいなぁ!」
根回しを行えばティアナを”意図的に”試験に落とす事は可能だ。それを利用して困ってきたところをスバルが行く予定の陸士校へと叩き込めばいい。少なくともそうすれば数年間、ティアナに冷静になって鍛える時間を与える事が出来る。……これで自分からも色々と教えられる時間ができる。たった数年しかないその事実に毒づくしかない。
「一緒に飲もうと思ってたのを一人で飲ませやがって……」
少なくともティアナが壊れていなかったし、スバルもギンガも無事だった……それだけは神に感謝しなきゃいけない、と思いつつも神を呪う事しか頭にはなかった。
何故、何故こうも無情な仕打ちをするんだ。
答えが返ってくるわけもなく、一人で、酒を飲む続ける。
もう、あの頃の光景は二度と帰ってこないんだと昔を思い出しながら。
ティアナちゃん覚悟完了、次回から早速Sts編ですなぁ。
まあ、あの試験からの開始ですな。