千紗希さんの悩み事   作:阿修羅丸

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夏休み
さらわれた千紗希さん


 遠くから聞こえる川のせせらぎ。

 近くの森から聞こえる小鳥のさえずり。

 断続的に吹くそよ風。

 木陰に熱気が遮られた、適度な涼しさの空気。

 それら全てが、宮崎千紗希には心地好かった。

 同時に、肉を焼く時の匂いが嗅覚をくすぐり、食欲も刺激される。

 今は夏休み。

 千紗希は今、キャンプ場にいた。

 宮崎家には珍しく、両親が二人揃って休みを取れたため(というよりは、この日のためにスケジュールを調整していた)、家族みんなで一泊二日のキャンプに来ているのだ。

 両親は二人仲良く、食材を焼く順番や金網に置く位置などで議論を交わしている。その光景を見ると家族が揃ったという実感が湧いて、千紗希はますます楽しくなる。

 そうやって気持ちが浮き立っていたせいか、いつもより食べ過ぎた。

 腹ごなしにと、千紗希は両親に断りを入れてから、周囲を散策する事にした。夫婦水入らずの時間をさりげなくプレゼントしたつもりでもある。

 ──そして、そのまま夜になっても帰って来なかった。

 

 

 キャンプ場には森の中を通る遊歩道があった。

 千紗希は虫除けスプレーを自分に吹き掛けながら、一人その道を歩いていた。

 辺りは静かだった。他に人の姿はない。キャンプ場には家族連れの客ばかりだったし、時間はちょうど昼食時である。みんな家族団らんの時間を楽しんでいるのだろう。

 ナンパ目当ての男たちになれなれしく声を掛けられる心配もない。だから、一人で過ごす時間というものが、千紗希はそんなに嫌いではなかった。

 

 しばらく歩き続けるうちに、千紗希は違和感を覚えた。

 敷地内に設置されてある地図によると、この遊歩道はそれほど長くはない。森の中を『U』の字を描くように走って、宿泊施設のある広場に戻る。

 しかし、もうかれこれ十分近く歩いているのに、未だに折り返し地点すら見えてこない。延々と真っ直ぐな道と、その両端に据え付けられた木製の手すりが続いていた。

 もう一つ、別の違和感にも気付いた。

 静かすぎる。

 さっきまで聞こえていた鳥や虫の声が、全く聞こえない。

 あまりの静けさに、耳がおかしくなってしまったかのようにすら思えた。

 不意に、辺りが暗くなった──否、何か巨大な物が千紗希のすぐ後ろに現れ、その影が彼女を覆ったのだ。

 強烈な獣臭が、鼻を突いた。

 千紗希が反射的に振り向くのと、毛むくじゃらの丸太のような腕が彼女の腰に回るのが、ほぼ同時だった。

 千紗希は、体が宙に舞い上がるのを感じた。

 自分を抱えあげた何者かが、枝から枝へと物凄い勢いと速さで飛び移っていくのがわかった。

 

(あたし、さらわれてるんだ……)

 

 恐怖の余りに感情が麻痺したのか、千紗希は冷静に、そんな事を考えた。

 自分をさらって逃走中の()()は、オランウータンともゴリラともつかない、しかし身長が三メートル近くありそうな巨大な猿だった。

 しかし、単に体の大きい猿ではない事は、一目でわかった。

 その顔は猿ではなく、人の顔だった。

 時折、胸元に抱き抱えた千紗希の顔や、服の襟元から覗く深い谷間に目線を落としては、ニターッと下卑た笑みを浮かべる。唇の端から、ヨダレも垂れていた。

 それを見て、千紗希の背すじがゾワゾワと震えた。

 考えるのもおぞましいが、この人面の大猿は、千紗希の肉体に明らかに欲情しているのだ。

 それを確信した時、千紗希の中で恐怖が込み上げて来て、爆発した。

 

「いや、いやいやいや! いやぁぁああああっ!」

 

 悲鳴を上げ、猿の腕の中でもがき、暴れる。小さな握り拳で猿の肩なり胸なり腕なりをポカポカと叩く。

 しかし大猿の腕力は強く、腕はガッチリと千紗希を抱き抱えたまま、ほんのわずかも弛む事がなかった。

 不意に千紗希は、虫除けスプレーを肩に掛けたポシェットの中にしまってあるのを思い出した。

 それを取り出して、猿の顔目掛けて吹き付ける。

 

『ホギャアッ!』

 

 猿が悲鳴を上げた。スプレーが目に入ったようだ。

 両手で顔を覆い、目をこする。

 拘束から解放された千紗希は、そのまま重力に従って落下し、別の木の幹にしたたかに背中をぶつけ、バウンドして地面に落ちた。

 巨大な影が、地面に横たわる千紗希を覆った。

 さっきの大猿が、木から下りてきたのだ。

 人面は、肉欲ではなく怒りに歪んでいた。

 

(殺される……!)

 

 そう思った千紗希だが、体が痛みと恐怖で動けなかった。

 だがそこで、ある事に気付く。

 猿の視線は、自分ではなく、その後方を見据えているようなのだ。

 振り向いた千紗希の顔に、安堵の色が浮かんだ。

 湯煙高校のジャージを着た、眉の太い男臭い顔つきの少年が、そこに立っていた。

 右手には木刀を握っていた。

 千紗希からは見えないが、木刀の柄には手彫りで『獅子王』の三文字が彫られている事だろう。

 

 久我憂助であった。

 

 何故ここにいるのかという疑問は、千紗希の胸中には浮かばない。この危機的状況で、最も頼りになる人間が現れた事に、安心感の余り目尻に涙すら浮かべた。

 

 憂助もまた、口をへの字に曲げて、険しい眼差しで大猿を睨み付ける。

 猿は歯を剥いて唸った。

 そして、おぞましい事に、人語を発した。

 

『その女をよこせ』

「やる訳ねかろうが。殺すぞ」

 

 憂助は口調こそ静かだが、今にも爆発しそうな激しい怒気を含んだ声で言い返した。

 千紗希の目にすら、木刀が彼の念による気焔で白く燃え上がっているのが見て取れた。

 

『ならば死ね!』

 

 大猿が獣毛で覆われた、丸太のような腕を振り下ろした。巨大な握り拳が肉の鉄槌となって唸った。

 

「テメーが死ね!」

 

 憂助は頭上に打ち下ろされたその鉄槌を木刀で打ち払うと、千紗希をまたぐようにして間合いを詰め、猿の懐に飛び込んだ。

 

「エヤアッ!」

 

 霞の構えから、電光石火の突きを叩き込む!

 破城槌が城門を打ち破る時のような轟音が響き渡り、大猿の三メートル近い巨体が弾丸めいた勢いで吹っ飛んだ。

 猿は木々を薙ぎ倒しながら、そのまま森の奥へと消えていった。

 

 ──チッ!

 

 憂助は舌打ちした。

 あんなに派手に吹っ飛んだという事は、攻撃の威力が相手の肉体に浸透せず、ただ押すだけの力となったという事だ。突きが『突き』ではなく『木刀で押しただけ』に終わったという事だ。

 地面に横たわる千紗希と、彼女に迫る魔性の獣。

 そんな光景を目の当たりにして、自分でもよくわからない怒りが込み上げて来た。

 その怒りが、かえって憂助の念を鈍らせ、技を鈍らせてしまったのだろう。

 

「……親父に見られたら笑わるうぞ、阿呆が」

 

 憂助は己れを罵倒しながら、木刀の刀身を左手で拭い、そのまま左手の中にしまった。

 

「おい、大丈夫か」

 

 そして後ろを振り向き、千紗希に声を掛ける。

 

「う、うん、ありがとう久我くん……」

 

 千紗希はそう言って立ち上がったが、途端に右足首に激痛が走り、よろめく。地面に落ちた際に、捻ったのだろう。

 憂助が駆け寄って、抱き止めてくれた。

 

「あ、ご、ごめんね」

「気にすんな。ちょう手当てするぞ」

 

 憂助は言うなり、千紗希の返事も待たずに、瞬間移動で飛んだ。

 

 飛んだ先は、河原だった。

 大きな石がそこかしこに散見される事から、かなり上流のようだ。

 そこに、草木で造られたドーム状のテントがあった。

 テントのすぐそばに、石で組んだかまどがあり、焚き火が白煙を上げていた。

 憂助は千紗希を、そのかまどのそばの大きな石に座らせると、草木のテントの中に潜り込み、そしてすぐに出てきた。

 手には包帯と二枚貝を持っている。開けると、中には緑色のドロドロしたクリームが詰まっていた。

 

「見してみ」

 

 憂助に言われて、千紗希は靴を脱ぎ、ズボンの裾をまくって、靴下を脱いで、右足首を見せた。

 やはり捻挫しているようで、関節部分が腫れている。

 憂助は貝殻の中のクリームを指で掬い取り、腫れた部分にたっぷりと塗りたくった。そして包帯を巻く。

 

「薬草を練り合わせた軟膏だ。こんくれえの捻挫になら充分効く。明日の朝、また塗り直して包帯も取っ替える」

「明日?」

「もうすぐ暗くなる。夜の山ん中歩き回る訳にもいくめえ。泊まっていけ」

 

 嫌だと言ったところで、こんな足では動けないのだから、結果は同じだ。千紗希に異論はなかった。

 

「晩飯用意するき、中で寝とけ」

 

 憂助は言うなり、千紗希の背中と膝裏に腕を通し、ヒョイッと抱え上げ、テントの中に押し込んだ。

 中には草や葉っぱが敷き詰められ、自宅のベッドにこそ劣るものの、寝心地は悪くない。

 

「寒かったら俺の鞄の中に毛布入っとうき、それ被れ」

「うん、ありがとう」

「俺が戻るまで、おとなししとけよ」

 

 そう言って、憂助はその場を離れた。

 

 

 憂助の言った通り、すぐに辺りには夜の(とばり)が下りてきた。周囲を森に囲まれているため、暗くなるのが早いのだ。

 千紗希は、憂助が貸してくれた毛布を肩に掛け、彼が作ってくれた山菜入りのお粥と魚の串焼きを、夕食にした。

 憂助は食事もせずに、焚き火を挟んだ正面で、食材と一緒にかき集めた細木を組み合わせ、蔓草で縛って固定する作業に没頭していた。

 

「久我くん、食べないの?」

「いらん。断食中だ」

「……じゃあ、このお粥さんのお米は?」

「非常食だ」

「そうなんだ……ここにはどうして来たの? 山籠り? 漫画とかでたまに見るけど」

「そげな大層なもんやねえ。山ん中で二、三日寝泊まりするだけだ」

 

 憂助は答えながら、組んだ細木を縛った蔓草の端を、十徳ナイフの小刃で切断した。

 

 憂助の言った事は本当である。

 普段から月に一度は、一泊二日の野宿をしている。

 今日は夏休みを利用して一週間の長期滞在中であった。

 そして、一人稽古の最中に不穏な気配を感じて辺りを探索していたところ、千紗希の危機に出くわしたのであった。

 

「何作ってるの?」

背負子(しょいこ)だ。背中に背負う椅子げなもんだ。お前を引っ越し荷物んごと担ぐ訳にもいかんし、おぶったらおぶったで俺の両手が塞がるきの」

「あ、そっか、そうだよね……ごめんね、あたしのために」

「気にすんな──それと、忘れんうちに謝っとく。すまんの」

「何が?」

「それだ」

 

 と憂助が指差したのは、細枝を差し込んで焚き火に当てられている、千紗希の靴下だった。手当ての時に脱いだ物だ。

 

「ああ、いいよ。気にしないで? 血が出て汚れてたから、洗ってくれたんでしょう?」

 

 千紗希はそう思ったから、敢えて聞かないでいた事だった。

 しかし憂助は、

 

「うんにゃ」

 

 と否定した。

 

「その辺の木やら石やらにこすりつけてお前の臭いを付けたときに汚しっしもたき洗った」

「……どうしてそんな事したの?」

 

 何だか嫌な予感がした。

 

「あの猿誘き寄せなならんきの」

「……どうして、そんな事するの?」

 

 怒鳴り付けたいのをグッとこらえて、千紗希は問うた。声を荒げなかったのは、きっと何か理由があるからに決まっていると、憂助を信じているからだった。

 

「この近くにキャンプ場がある。あの猿きっちり仕留めとかんと、またそこの客が被害に遭うかも知れんきの。そうでなくとも、あの猿がお前を諦めたとは限らん。俺のおらん所でおらん時に襲われたらたまらん。どっちにしても、あの場で倒せんかった俺の責任だ。だき確実に誘き寄せて、確実に仕留める」

 

 憂助の声音には、梃子でも動くまいと思わせる強い決意の色がにじみ出ていた。

 千紗希にしてみれば体よく囮にされてるようなものだが、元々狙われたのだから大して違いはない。それに憂助の言う通り、もう襲ってこないとは限らないのだ。

 以前ネットで読んだ話だが、人喰い熊が人間の臭いをたどって山の中を執念深く追跡した事もあるという。

 あの猿がそうやって、自分を追って山を下りて町にまで来るかも知れない。

 諦めたとしても、今度は別の登山なりキャンプなりに訪れた女性が被害に遭うかも知れない。

 そして宮崎千紗希は、自分の安全さえ確保出来れば、そういった危険を看過出来るような少女ではなかった。

 

「……うん、わかった。久我くんに任せるね」

 

 だから、彼女も決意を感じさせる声音で、そう言った。

 

「でも、それはそれとして、()()って何なの?」

猩々(しょうじょう)やろの」

 

 憂助は即答した。

 

狒々(ひひ)と同じ猿の化け物で、狒々と違って顔が人間と同じ顔つきしとる。どっちもよう女をさらうらしい。狒々なら親父が退治したの見た事あるし、俺も一回だけやっつけた事がある」

「……ちょっと待って。お猿さんのお化けって、そんなにたくさんいるの?」

「そらお前、猿なんぞ日本中どこにでもおるんやき、猿の化け物もどこでん湧いて出るやろ」

 

 憂助は事も無げに言った。

 

「昼間のあれは、結果的には逃がしっしもたが、そげべらぼうに強い訳でもねえ。心配いらん」

「う、うん……」

 

 千紗希はうなずいた。

 振り返れば、憂助は臨海学校ではもっと大きな怪物も倒したのだ。

 それに、眼前で黙々と背負子の作成に取り組む姿を見ていると、不思議な信頼感も湧いてくる。

 猩々なる人面の大猿にさらわれた時の恐怖が、潮が引くように自分の中で薄れていった。

 

 

 食事を済ませると、千紗希は憂助の指示で、早々にテントに潜った。

 しかし、外からガリガリと音がするので出入り口から顔だけ出して様子を見ると、憂助が木刀でテントを囲むように線を引いていた。

 

「結界だ。これであの猿は近付けん」

 

 千紗希にジロリと視線を向け、彼はそう説明した。

 そして、不意に下流の方に視線を移す。

 

「──来るぞ。隠れとけ」

 

 言われて千紗希は、慌ててテントの中に引っ込み、毛布を頭から被った。

 憂助が見据える宵闇の中から、猩々が姿を見せた。

 

「遅かったの」

『女はどこだ』

「ここにはおらん」

『嘘をつくな。臭いでわかる。女を出せ』

「ここにはおらん」

『女を、出せっ!』

 

 猩々が吠えた。

 怒声が森の梢をざわつかせた。

 憂助はしかし、臆する風もない。

 

「お前にはやらん」

 

 腰を落とし、木刀を正眼に構えた。

 木刀が、憂助の念を受けて白く燃え上がった。

 憂助は、背中に千紗希の気配を感じた。

 不意に脳裏に、彼女の柔和な笑顔が浮かんだ。

 

『ホキャアッ!』

 

 猩々が雄叫びを上げて、豪腕を振り下ろす。

 憂助は木刀のわずかな動きで、その一撃を受け流した。

 狙いを外した腕が、勢いそのままに、猩々の胴体に巻き付き、離れなくなる。

 

『──?? ケアーッ!』

 

 猩々は構わずもう一方の腕で殴りかかるが、これも同じ結果に終わった。

 自分で自分を抱き締めるような窮屈な格好になった猩々の懐に飛び込んだ憂助は、正眼から突きを繰り出す。

 

「エヤアッ!」

 

 木刀が柄まで深々と猩々に突き刺さった瞬間、猩々の人面の鼻や口、耳や目から白光がほとばしり、三メートル近い巨体が内側から爆ぜて、消滅した。

 

「……隠れとけっち言うたやろが」

 

 木刀を左手にしまいながら、憂助は背後のテントに声を掛ける。

 千紗希が出入り口から顔だけ覗かせていた。

 

「ご、ごめんね……久我くんが心配で……お、終わったんだよ、ね?」

「見ての通りだ」

 

 憂助は答えて、焚き火のそばに腰を下ろし、背負子の作成を再開した。

 

「もう寝ろ。腹減ったんなら鞄の中にチョコレート入っとうき、それ食っていいぞ。俺もどうせ明日の朝、下山する予定やったきの、遠慮はいらん」

「う、うん、おやすみなさい……ありがとうね、久我くん」

「おう」

 

 素っ気ない返事を返す憂助に、千紗希はむしろ安心感すら覚えた。

 同時に、憂助への信頼感が増したようにも思えた。

 

 

 千紗希は尿意を覚えて、目が覚めた。

 スマホの明かりを頼りにテントから這い出ると、出入り口に立て掛けてあった杖を突き、少し離れた所にある『トイレ』に、ヒョコヒョコとびっこを引きながら向かう。

 杖も憂助が作った物で、手頃な枝の端っこの表皮を削り落とし、持ちやすくした物だ。

 トイレは土手の斜面に穴を掘っただけの簡素極まる物で、草木で編んだ仕切りで目隠しされていた。

 最初からあった物で、さすがの憂助も、人気のない山中とはいえ用を足すところを見られるのは憚られるのかと思うと、微笑ましくなった。

 チラリと横目で見ると、憂助はこちらに背を向けて、作った背負子に腰を下ろしていた。出来上がりの具合を確かめているのだろう。

 小用を済ませると、千紗希はその憂助の隣にやって来て、椅子代わりの石の上に腰を下ろした。

 

「なんか、寝れんとか」

「うん、いろいろあって、目が冴えちゃったみたいで……それに、パパやママも心配してるだろうなって思うと、余計眠れないの。うちは家族三人揃う事ってなかなかなくて……せっかくみんなでキャンプに来たのに、あたしのせいでこんな事になっちゃって……」

「お前のせいでも何でもねえ」

 

 ぶっきらぼうだが、強い口調で憂助はそう言った。

 

「うん、わかってる……」

 

 千紗希は答え、自分の膝を抱えた。

 

「でも、やっぱりパパとママに悪い気がしちゃって……あたしはパパやママのどっちかと一緒にいられる事は多いけど、二人が一緒にいられる事ってあまりなくて……だから、せっかくだから二人きりの時間を過ごさせてあげたいって思って、それでそばを離れたらこんな事になっちゃうんだもん……」

「それでも、お前には何の責任もねえ」

 

 憂助はきっぱりとそう言い切った。

 

「親御さんも、別にお前のせいだとかお前がいらん事せんかったらとか、クソほども思うとらんわ」

「……うん、わかってる。でも、つい考えちゃうの」

「めんどくせえやっちゃの。まぁ、そういうところは、嫌いやねえけどの」

「えっ?」

 

 憂助の口から思わぬ言葉が出て、千紗希は一瞬自分の聞き違いかと思った。

 

「自分がきつい目に遭っとう時でも、そうやって人の心配が出来る心根は立派と思うとる。割りと真面目に、尊敬するわ」

「そ、そうかな……ありがとう」

「まぁ、もうちっと自己中心的になってもバチは当たらんと思うがの」

「うーん……前向きに検討します」

 

 千紗希は苦笑混じりにそう答えた。

 

「でも、それを言うならあたしだって、久我くんの事尊敬してるよ? 名前通りの立派な生き方してると思う」

「おい、おだてても木には登らんぞ」

「おだててなんかないよ。こゆずちゃんも冬空くんも幽奈さんも、みんな久我くんの事優しくていい人だって言ってるもん──ちょっと照れ屋でぶっきらぼうなのが珠に傷だけどね」

「……いらん事言わんと、寝ろ」

 

 憂助は声に凄みを効かせて言った。

 しかし千紗希はコロコロと笑うだけだ。

 

「はぁーい、おやすみ久我くん」

 

 そう言って、ヒョコヒョコとテントの中に戻っていった。

 

 

 翌朝。

 魚の串焼きで朝食を済ませた千紗希は、憂助に足首の薬と包帯を替えてもらった。

 

「帰ったら病院で診てもらっとけ」

 

 憂助は丁寧な手つきで包帯を巻きながら、言った。

 それから、背負子を背負うと、そこに千紗希を座らせた。

 背負子には腕を通す紐もあり、千紗希はそれに自分の腕を通す。

 憂助は軽々と立ち上がり、焚き火の後始末をすると、千紗希用の杖を持って出発した。

 その足取りは力強い。キャンプ場へはどう行けばいいのかわかっているらしく、森の中をずんずん進んでいく。

 その揺れが、両親にあやしてもらった時の記憶を呼び覚ましたのか、それとも単に、結局昨夜はあまり眠れなかったせいなのか、千紗希は段々眠くなってきた。

 というか、実際に眠ってしまったようだ。

 

「おい」

 

 と憂助に呼び掛けられ、背負子を揺さぶられて、千紗希は飛び上がるような気持ちで目を覚ました。

 

「ちょっと飛ばすぞ。揺れるきしっかり掴まって、舌噛むき口も閉じとけ」

「あ、うん」

 

 千紗希は背負子の手すりをしっかり掴んで、口も閉じた。

 フワッと体が宙に持ち上がる感覚があった。憂助が跳んだのだ。

 そのまま枝から枝へと跳び移り、森を突っ切っていく。

 景色が凄い勢いで流れていく。

 しかし千紗希に、昨日猩々にさらわれた時のような恐怖感はなかった。

 すぐに、千紗希を呼ぶ知らない大人の声が聞こえてきた。誰もが「千紗希さーん!」と呼び掛ける中、「千紗希ー!」と呼び捨てにする男女の声が混じっている。

 それが両親の声だと千紗希が気付いた時、憂助は森を抜けて開けた場所に出ていた。

 そこには捜索隊と思われる数人の大人たちがいて、千紗希の両親も一緒だった。

 

「パパ! ママ!」

 

 千紗希は憂助が背負子を下ろすのも待たずに飛び下りる。

 一瞬、足首の痛みでふらついたが、憂助が差し出した杖を受け取ると、それを突いてヒョコヒョコと両親に駆け寄り、抱擁を交わした。

 

「千紗希! ああ良かった! 無事だったのね!」

「足を怪我してるのか? 痛みは?」

「大丈夫。ちょっと足を捻っちゃったけど、お友達が助けてくれたの」

「お友達って、誰?」

 

 母の問い掛けに、千紗希は後ろを振り向いた。

 

「ほら、あのジャージの男の子……あれ?」

 

 振り向いた先には、誰もいなかった。

 瞬間移動で戻ったのだろうか。

 捜索隊の大人たちも、

 

「今、いたよな?」

「ああ……ジャージ着た男の子が……」

 

 と、目を丸くしている。

 千紗希は苦笑した。

 一声かけてくれてもいいだろうに……しかし、そういうところがむしろ可愛く思える。

 

「久我くん、ありがとーっ! 今度お礼するねーっ!」

 

 もう聞こえはしないだろうが、それでも千紗希は森の向こうに戻ったであろう憂助に向かって叫んだ。

 何となく、届くような気がした。

 そして、届いたような気がした。

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