午後の3時を過ぎる頃。
憂助は珍しく、街中の公園で篠笛の練習をしていた。
公園内には親子連れやカップルがいるが、少年の奏でる『さくら』に一度目線をやる程度で、特に注目はしない。
それでも、人目のつく場所で練習するのは、この少年には珍しい事であった。
いつもは自宅の部屋で、あるいは人の来ない山奥でやるのだが、今日に限れば、人のいる場所でやりたくなった。静かな環境が、かえって煩わしいと感じた。人のいる場所でなら、気も紛れるのではないかと思った。
福岡の田舎に一人暮らす祖父が、入院した。
近所の家の屋根の修理をしてやっていたら足を滑らせて落ちてしまい、足を怪我したのだという。
それで祖父の世話と、実家の管理のため、昨日から父は田舎に帰っている。憂助も同行しようとしたが、
「お前まで来たら『憂くんにいらん心配させんなー』っち父ちゃんが怒らるっきの、お前は留守番しとけ」
と言われた。
今朝の京一郎からの連絡によると、骨に異常はないものの、一週間ほど入院することになるという。
それでも心配だった。
そもそも、自分より強い父の更に上を行く念法家たる祖父が、足を滑らせて屋根から落ちたというのが信じられない。もしや本人も気付かぬ病気にでもかかっているのではないか……考えれば考えるほど、不吉な事ばかり思い浮かぶ。
外に出ての笛の練習は、それらを振り払うためのものだった。
しかし、外に出てもやはり祖父の事が気になって、集中出来なかった。
「あれ? 久我くん?」
不意に呼び掛けられて、憂助は驚きのあまり飛び上がるような気持ちになった。ピュイッ! と音まで外してしまう。
宮崎千紗希が、そこにいた。
「あ、ごめんね。驚かせちゃったね」
千紗希は苦笑しながら、憂助の隣に座った。
「久我くん、いつもここで練習してるの?」
「うんにゃ……まぁ、天気もいいき、たまにはと思うての」
憂助は答えつつ、少しだけ距離を取る。千紗希は気付かないのか気にしないのか、それについては特に何も言わない。
「たまにはって事は、じゃあ、いつもは違う所で練習してるんだ」
「まぁの。家とか、山ん中とか……」
「そうなんだ。うーん、それでなのかなぁ」
「何がか」
「うん、上手く言えないけど、いつもより調子悪そうな感じに聞こえたの」
「…………気のせいやろ」
答えつつ、己の心中を見透かされたようで、憂助は口をへの字に曲げた。
「それならいいんだけど……もし悩み事とかあったら、相談してね? 聞き役くらいしか出来ないけど、誰かに話すだけでもスッキリするよ」
「お前はすぐそれやの。俺がそげ悩み多き人間に見えるんか」
「だって心配なんだもん。久我くんってちょっと意地っ張りなところがあるし……辛い時でも絶対他人の手を借りたりしなさそうで……だから、もし何か悩み事があるなら、話してほしいの」
──お前には関係ねえ、失せろ。
と言おうとした憂助は、そこで千紗希と目が合ってしまった。
途端に、自分の中で張り詰めていたものがほぐれていくのを感じた。
(こいつ、何か妖術でも使いようんやねかろうの……)
そんな突拍子もない事が、思わず頭に浮かぶ。
憂助は、大きな溜め息をついた後、祖父が怪我をして入院した事、それが心配で落ち着かない気持ちでいる事を、ボソボソと打ち明けた。
「そっか……うん、それは心配だよね。でも、おじさんが大丈夫だって言うのなら、本当に大丈夫なんじゃないかな? 何となくだけど、おじさんはそういう時には嘘はつかないと思うの」
「……まぁ、そうなんやろうけどの」
憂助は同意した。
しかし、それはそれとして、やはり心配なのも確かだった。
「お祖父さんはスマホとかケータイとか持ってるの? それなら電話でもしてみればいいんじゃないかな」
「そやの。後でそうするわ」
「うん。お祖父さんも久我くんの声を聞いたら元気になるかもね」
「んー」
曖昧な返事をする憂助を、千紗希はじっと見つめる。
剛胆な性格ではあるが、やはり繊細な一面もあるようだ。そして、そういうのはカッコ悪いと感じているからか、相手に心配させたくないからかはわからないが、とにかく自分の弱味を決して他人に見せようとしない。誰かがついていてあげなくては、いつか抱え込みすぎてつぶれてしまうのではないだろうか……大袈裟かも知れないが、そんな危うさを憂助から感じ取った。
「──ねえ、今久我くんのお家、誰もいないんだよね?」
「俺以外はの」
「そっか、それじゃあ一人で大変だろうし……今から、久我くん家に行ってもいいかな? お夕飯作ってあげる」
「…………は?」
憂助は間の抜けた声を上げた。何故そうなるのかさっぱり理解出来ない。
「美味しいもの食べれば元気も出るよ。まずは久我くんが元気出さなくちゃ、ね?」
千紗希は立ち上がると、「ほら、行こう?」と憂助の手を取る。
その手の柔らかさと温もりに、憂助は振り払う事も出来ず、唯々諾々と従うしか出来なかった。
◆
千紗希に好きな物は何かと聞かれて、憂助は『カレー』とだけ言った。
すると千紗希は近くのスーパーに寄って材料を買った。
その後、憂助の瞬間移動で、久我家の玄関前に移動した。
「わぁ、立派なお家だね」
初めて目にした久我邸に、千紗希は素直な気持ちを口にする。
和風の平屋造りで、何となく憂助にピッタリな家だと感じた。
「おだてても木には登らんぞ。半分は道場やきの、家だけならお前んとこの方が立派だ」
憂助は答えながら、玄関の鍵を開けた。
久我邸は、没落して住む者のいなくなったとある豪農の屋敷を、京一郎が人脈の広さと口八丁を駆使して安く購入したものだった。
安く買えたのは、かつての所有者が自殺したからである。いわゆる事故物件であり、そして『出る家』となったのだが、京一郎がそれを念法の技で以て浄化したらしい。
そんな曰く付きの屋敷の一角を改装したのが、憂助の言う『道場』である。
中に案内された千紗希は、早速料理に取り掛かるのかと思いきや、まずは家の中の掃除を始めた。
散らかしてるつもりはない憂助だったが、千紗希の目から見ればまだまだのようだ。ここはこうしろ、ああしろと、幾つか掃除におけるアドバイスを貰ってしまった。
「……お前にそこまでしてもらう謂れはねえんやけどの」
「久我くんにはなくても、あたしにはあるの。何度も助けてもらって……久我くんがいなかったら、あたしは今こうして無事ではいられなかったんだもん」
千紗希の、心からの言葉であった。
先日の
大袈裟でも何でもなく、憂助は千紗希の恩人なのだ。得意分野で恩返しが出来るのなら、これほど嬉しい事はないとすら、千紗希は思っている。
「ゴミとか片付けるだけだから、心配しないでゆっくりしてて?」
「客に家事やらせといてゆっくり出来るか、阿呆」
「いいからいいから」
聞く耳持たない千紗希に、憂助は小さく溜め息をつくと、
「何かあったら呼べ」
と言い捨てて、自分の部屋に閉じ籠った。
それを見届けてから、千紗希は掃除を再開する。
居間に入ると、ある物が目に止まった。
小さな台の上に、簡素な仏具一式と共に飾られたモノクロ写真である。一目で遺影だとわかった。
写真の中で、女性が柔和な笑みを浮かべている。若い。母の日和と同じか、やや年下に見える。
(この人が久我くんのお母さん……?)
千紗希はそう思った。
ふと、以前こゆずから聞いた話を思い出した。
ゆらぎ荘に遊びに行き、そこでこゆずの篠笛を聞いた後、何故笛を始めたのかと尋ねた時の事である。
こゆずは「笛を吹いてる憂助くんがカッコ良かったから!」と明るく答えた後、更に何か言おうとして、慌てて口をつぐんだ。
それを不思議に思って、やんわりと聞くと、「誰にも言わないでね」と念を押した上で、こゆずは話し始めた。
「憂助くんね、時々寂しそうな顔するんだ」
「寂しそう? 久我くんが?」
「うん。お家の居間にお母さんの写真が飾ってあるんだけど、その写真にお参りしてる時とかは特に……やっぱりお母さんいなくて寂しいのかなって思ったら可哀想になってきちゃって、それで、一緒に同じ趣味をやってあげたら寂しくなくなるかなって思って──これ、絶対憂助くんには言わないでね? 憂助くんカッコつけたがりだから、バレたら絶対怒られちゃうよ」
こゆずはそう語った。
臨海学校が始まる前の事である。
千紗希は線香に火を灯し、
◆
もうすぐ夕方の6時になろうという辺りで、夕食の支度が出来た。
千紗希の作ったカレーライスを大皿いっぱいに盛った憂助は、ダイニングでそれを黙々と食べる。
──美味い。
自分や父が作った物よりも、ずっと美味かった。
「どう? 美味しい?」
「ああ」
憂助はただそれだけを答えて、黙々と食べ続ける。
素っ気なく、愛想もないが、ひたむきに食べる様を見れば、満足しているのがわかる。千紗希は軽い達成感と満足感を覚えた。
(それにしても……)
黙々と食べる憂助を、テーブルの向かいの席から眺めながら、千紗希はスーパーで買い物をしていた時の事を思い出した。
カレーのルーを選んでいる時、憂助がこう言ったのだ。
「別にどれでもいいけど、甘口にしてくれ」
と、そう言ったのだ。
(本当に、変なとこで子供なんだから……)
こゆずは『カッコつけたがり」、博子は「とっぽい*4」と憂助を評していたが、それがよくわかる。
臨海学校の時は呆れたが、今は微笑ましかった。
食事の後の洗い物も、千紗希が率先して引き受けた。
憂助は部屋に閉じ籠る事すら何だか申し訳なく思えて、何となく居間でテレビを見る。
しかし落ち着かない。
居間を出て台所の入り口に立ち、エプロンを着けて溜まった洗い物をテキパキと片付ける千紗希の後ろ姿を眺めた。
(……母ちゃんっち、こんな感じなんやろか)
以前と同じ事を思った。
居間に戻った憂助は、ゴロリと寝転がり、
「くだらねえ」
小さく、しかしはっきりと、声に出して言った。
前にも思ったが、写真でしか知らない母親を、同年代の少女に重ねるなど、馬鹿馬鹿しいにも程がある。高校生にもなって、女々しいにも程がある。
そんな己の惰弱さを、憂助は「くだらねえ」と声に出す事で、切って捨てようとした。
しかし。
今、千紗希が同じ屋根の下にいる。
ただそれだけの事で、今自分の心が安らいでいるのも事実であった。
美味い甘口カレーライスで腹が膨れたからか、テレビ番組が退屈だからか、憂助は眠気を覚えて、折り畳んだ座布団を枕に目を閉じた。
◆
目を覚ますと、タオルケットが掛けられていた。自分の部屋にあった物だが、持ってきた覚えはない。
頭の下に敷いていた座布団の感触が、ない。代わりに、もっと厚みのある、肉感的な柔らかさを感じた。
次に目に入ったのは、二つの山であった。
布に包まれた二つの大きな膨らみが、視界の半分近くを占拠している。
その双丘の向こうに、千紗希の顔が見えた。
憂助はそこで、ようやく状況を理解した。
何故かは知らないが、自分は今、千紗希に膝枕をされているのだ。
「うおあああっ!?」
思わず奇声を上げて跳ね起きた。
「わひゃあっ!?」
スマホのLINEで芹や博子とやり取りをしていた千紗希も、ビックリして奇声を上げる。
「え? え? なになに? どうしたの久我くん!」
「お、お、お、おま、おま、お前!」
お前は何をやってるんだと言おうとしたが、動揺のあまり言葉が出ない。
千紗希はそんな憂助を見て、寝ぼけて状況が理解出来てないのだと思った。
「大丈夫だよ。今日は久我くんのお家、誰もいなくて一人じゃ大変だろうと思って、あたしがお夕飯を作ってあげたの。それから洗い物して、久我くんがここで居眠りしちゃってたから、お部屋からタオルケット持ってきて掛けてあげたの」
「そ、それはわかっとうけど、なしお前が俺に膝枕とかしとったんか!」
「だってあんな薄い座布団じゃ、畳んでも枕代わりなんてならないよ。首寝違えちゃいけないから、膝枕してあげたの」
「タオルケットと一緒に枕も持ってくりゃ良かろうも!」
「──あ」
言われて気付いたようだ。
「あはは、それもそうだね。うっかりしてた……」
千紗希は笑ってごまかす。
うっかり失念していたのは確かだが、実際は眠っている憂助の寝顔が妙にあどけなく、愛らしく見えて、つい膝枕をしてやりたくなったというのが本当のところである。
「ごめんね、驚かせて」
「寿命が縮んだわ……」
嫌味でも皮肉でもなく、寿命が縮む思いだった。
少しして気持ちも落ち着いてきた憂助が壁の時計を見ると、もう8時を過ぎている。
「もうこげな時間か……もう帰れ、親御さんも心配しとうやろ。送っちゃる」
「うん、ありがとう。でも、パパやママなら大丈夫。どっちもお仕事で今日は家にいないから、怒られたりとかはないよ」
「……そうか。ならいいが、それでも帰れ。台風直撃とかでもねえんにから男の家に泊まる訳にもいくめえも」
「うん、そうだね……じゃあ久我くん、お邪魔しました」
「けっ、まったくだ」
憂助は吐き出すように言ったが、千紗希はそれを見て微笑むだけだった。
玄関を出ると、二人は憂助の瞬間移動で宮崎家の前に飛んだ。
「ありがとう久我くん」
「おう」
「お祖父さんもきっと大丈夫だから、元気出してね」
「おう」
「それじゃあ、おやすみなさい、久我くん」
千紗希はそう言って小さく手を振り、家の中に入ろうとしたが……、
「──あ」
と憂助が声を漏らすのを聞いて、振り返った。
「ん? どうかした?」
「いや、あー、その……」
憂助は言い淀んだ。
千紗希が背中を向けた途端に、不安にも似たおかしな気持ちになったのだ。
もう少しでいいから、一緒にいたい。
言葉にするなら、そのような気持ちであった。
だが憂助は、それを惰弱な感情として心の奥底に押し込み、別の言葉を口にした。
「カレー、美味かった。ごっそさん……どげな味付けしたか、教えてくれんか」
「そんなに気に入ったの? それじゃあレシピ持ってくるから、ちょっと待ってて?」
千紗希はそう言って一度家の中に入り、少しして、小さなノートを持って戻ってきた。
「ほら、ここ。ママから教わったの」
「ん」
憂助は千紗希が開いて見せたページを、スマホで写真に撮る。
「それと、これ」
千紗希は次に、自分のスマホを見せた。画面には電話番号が表示されてある。
「これ、あたしの番号。もしもわからない事があったら、いつでも連絡してね」
「おう、すまん……じゃあの」
「うん。おやすみなさい、久我くん」
千紗希がそう言って小さく手を振る前で、憂助は瞬間移動で帰っていった。
◆
その夜、憂助は布団の中で、スマホの画面を見つめていた。
画面には千紗希の番号が表示されてある。
それを、ただ見つめていた。
孤独には慣れている。
母親がいない事にはもう慣れた。
山籠りで孤独への耐性もついている。
なのに、憂助は今、奇妙な寂しさを覚えていた。
生まれ育った我が家が、妙にだだっ広く、空虚にさえ思えた。
千紗希の声を聞きたいと思った。
千紗希の顔が見たいと思った。
千紗希に、会いたかった。
「くだらねえ」
そんな惰弱な感情をボソッと吐き捨てながらも、画面に映る千紗希の電話番号を見つめ続けていた。