久我京一郎は兼業農家だ。道の駅で小物屋を営む傍ら、畑仕事にも勤しんでいる。
畑は自宅の近くにあり、親子二人の生活を支えるには充分な広さである。
その畑と隣り合わせで、小ぢんまりとした道場があった。
久我憂助は、今朝もそこで父と手合わせをしていた。
剣道着姿の父子は、木刀を構えて向かい合っている。
憂助は八双、京一郎は正眼。
両者構えたまま、石像めいて動かない。
憂助は険しい表情で、京一郎を睨む。眼差しには、草むらに隠れたネズミを探す隼にも似た鋭さがあった。
対して京一郎、目を細めており、表情は穏やかだ。正面の憂助を見ているのか、見てないのか。近くを見てるのか、遠くを見てるのか。いまいち判別出来ない。見ようによっては、立ったまま居眠りしてるようにすら見える。
父子、向かい合って数秒──。
憂助が動いた。
「イェエエーッ!」
雄叫びが空気を震わせ、鋭い面打ちが繰り出された。
木刀が脳天に触れるか触れないか、そんなギリギリのタイミングで、京一郎は動いた。
わずかに木刀の切っ先を下げて、そのまま突き出す。
木刀が憂助の胸を突いた──否、押した。
バァンッ!
途端に憂助は後方に吹っ飛び、大きな音を立てて壁に叩きつけられた。
「お前はまだ勘違いしとうごとあるのぉ」
ズルズルと床に落ちた息子に対し、京一郎は木刀を帯に差しながら、嘆息混じりにつぶやいた。
「勘違いっちゃ何か」
「いいか憂助。より強い念、より多くの念を出そうとするのは間違っちょうぞ。いやまぁ、ある程度は大事やけど、その一点にこだわると逆に良くない」
「……?」
憂助にはよくわからない。歩み寄って来た父に、無言で続きをうながす。
「あのな。そもそも出す念の多さで言ったら、父ちゃんとお前との間にはほとんど差はないどころか、お前の方が上だ。父ちゃんの念を10としたら、お前は12くらいは行っとる。
じゃあ何故お前が勝てんかと言うと、出す念の質というか純度で、お前は大きく劣ってるからだ」
「純度……?」
「さっきも言うたが、お前はより強い念、より多くの念を出そうとしようやろ。それはいかん。それはお前の心にいらん力みを生む。体は何ぼ暖まっててもいいが、心の中には常に涼やかな風が吹いてないといかん。『心涼しきは無敵なり』と、じいちゃんもよう言っとった」
「じいちゃんが?」
「おうよ。そのじいちゃんがすぐ、瞬間湯沸し器んごとカッカしよるけどのぉ」
京一郎はそう言ってゲラゲラと笑った。
笑った後、不意に真面目な顔になり、
「──今の、じいちゃんには内緒な?」
「だったら言うなや」
憂助は吐き捨てるように答えた。
そしてしばし考えてから、尋ねる。
「心涼しきとか言うが、具体的にどうしたらいいんか」
「うーん、こればっかりは自分に合ったやり方やねえと効果ないきのぉ……じいちゃんは
「あの『おんまりしぇーそわかー』とかいうやつか」
「そうそう、それそれ。しかしこれは摩利支天尊を拝んどるじいちゃんだから効果がある訳で、信心のない奴が唱えても効果なかろ」
確かにその通りだと、憂助は思った。
「……親父は?」
「俺か?」
問われた京一郎の脳裏に、亡き妻小百合の顔が浮かんだ。
途端に京一郎は頬をポッと赤らめ、体をクネクネさせる。
「イヤぁ~ねぇ! それは私たち女の子同士の秘密よぉ~っ!」
「張っ倒すぞクソ親父!」
裏声でおどける父に、憂助は怒鳴りつけた。
◆
昼休み。
憂助は教室でさっさと弁当を食べた後、裏庭に移動し、そこでスケッチブックに新商品の絵を描いていた。
以前憂助が描いた物はあまり売れなかったらしく、『起死回生の第2弾(京一郎談)』をリクエストされたのだ。
「売れる・売れないの前に、そもそも客自体が来んやねーか」
という憂助のもっともな意見は、鮮やかに無視された。
それで、今も思い付くままに鉛筆を走らせているのである。
──不意に人の気配を感じて、手が止まった。
気配のした方を振り向くと、宮崎千紗希が気まずそうな笑顔を浮かべていた。
「ご、ごめん。邪魔しちゃったかな?」
「……別に」
憂助は素っ気なく答えて、
「何か用か?」
と聞いた。
「あ、うん。この前、服を溶かす妖怪から助けてくれたお礼……またクッキー焼いて来たの」
そう言って千紗希は、手に持っていた小さな紙包みを差し出した。
「……そういう事なら、いらん」
「えっ?」
「結局お前は服を台無しにされたきの。俺が助けたとは言えん。だき、いらん」
「うーん……でも、あの時久我くんがいなかったら、あたし、下着まで溶かされて裸にされてたし……久我くんが瞬間移動で送ってくれたから、恥ずかしい思いをしなくて済んだし、やっぱり久我くんのおかげで助かったと思うの。だから、受け取ってくれないかな?」
「…………」
憂助は口をへの字に曲げて千紗希を睨み、そして、差し出された紙包みを受け取った。
包みを開けて、さっそく一つ頬張る。
ほのかな甘味が、好ましかった。
「美味いな」
「そう? ありがとう」
受け取ってもらえた上に、味も誉められて、千紗希はホッと胸を撫で下ろす。
「しかしお前、俺がここにおるっちようわかったの」
「うん、冬空くんが教えてくれたの」
「……ああ」
冬空コガラシには、湯ノ花幽奈がいつもついている。その幽奈が教えてくれたのだろうと、憂助は推測した。
「ところで、何を描いてるの?」
千紗希は憂助の隣にしゃがみこみ、スケッチブックを覗く。
すぐにパッと笑顔になった。
「わぁ、可愛い」
「そう思うんなら買いに来い。今度店に出す新商品だ」
「そうなんだ。じゃあまた日曜日に行くね? この前買った玄武さんの仲間も揃えたいし」
「おう……いや、そげ遠くでもねえし、別に日曜日やねえでも良かろ」
「そう、なんだけど……久我くん、日曜日にしかお店にいないんだよね?」
「ああ」
「じゃあ、やっぱり日曜日に行くよ……その……」
千紗希は突然言い淀んだ。
「何か、はっきり言え」
「えっと、その、久我くんのお父さんって、面白い人だと思うけど、その……ああいうグイグイ来る人って、苦手なの」
ぷっ
憂助は小さく吹き出した。
千紗希にではなく、千紗希に苦手意識を持たれた父に対してだ。
京一郎は調子のいい性格と、笑うと適度に間抜けになる顔つきのおかげで、大抵の人間と仲良くなれる。
そんな父を『苦手』と言う人間がいる事が、妙に面白かった。
「親父に言っとこう。さぞ落ち込むやろうきの」
「ええっ!? そんな、ダメダメ!」
「そやけど言うとかんと、お前が店に来た時また顔出すぞ、絶対に」
「うぅ~……」
千紗希は思い悩む。
「気にすんな。あのアホ親父は、お前一人に避けられたくらいなら、屁とも思わん。落ち込んでも、飯食って寝て、一晩立ったらケロッとしとうわ」
「そ、そうなの?」
「おう」
憂助は答えながら、再び絵を描き始める。
千紗希は憂助の横顔とスケッチブックを、交互に見やった。
「……ちょっと、意外かな」
「何がか」
「久我くんって、意外と文化系なんだなって。音楽もやるし、絵も描けるし」
「そんなん、練習すれば誰でも出来るわ」
「そんな事ないよ。特に笛とか、凄く上手だったし」
「物珍しさでそう思うだけだ。篠笛とか、お前の周りでやってる奴とかまずおらんやろうしの」
「あれ、篠笛って言うんだ」
「おう、母ちゃんがやっとったらしい」
そこ憂助は口をつぐんだ。余計な事を言ったと、後悔もした。
「じゃあ、笛はお母さんに習ったの?」
「…………」
千紗希の問いに、憂助は沈黙した。スケッチブックに目線を落とす。
わずかな間を置いて、答えた。
「うんにゃ。自分で覚えた。音の出し方から指使いまで、全部我流だ」
「あれ? お母さんがやってたって……」
「母ちゃんは、俺を生んですぐ、病気で死んだらしい。だき俺は、写真でしか母ちゃんの事を知らん。その母ちゃんが昔やっとったっち親父から聞いて……で、まぁ、何となく興味を覚えて、それで始めた」
黙っていればかえって気を遣わせると思い、憂助は一息に説明した。
母と同じ趣味を持つ事で、少しでも母の事を知りたいという想いがあったが、それは言わなかった。
「そうなんだ……ご、ごめんね、余計な事聞いちゃって」
「言ったのは俺だ、気にすんな。お前が殺した訳やねかろ」
「でも、それで一人であそこまで吹けるようになるのって、やっぱり凄いと思うよ?」
「おい、おだてても木には登らんぞ」
「おだててなんかないよ。本当にそう思ってる」
「……そうか」
それきり、憂助は黙り込んだ。
黙々とスケッチブックに鉛筆を走らせる。
千紗希はしばらくの間、その横顔を、じっと見つめていた。
「さっきの話なんだけど」
「おう」
「別に、久我くんのお父さんが特別苦手って訳じゃないの……ただ、昔から男の人ってちょっと苦手で」
千紗希自身、何故こんな事を話す気になったか、わからない。
しかし、何となく自然と、口に出た。
「ママから、男の人はみんな狼だって教えられてたのもあるんだけど……それに、実際に学校でも街でも、周りの男の人にジロジロ見られて……他の女の子に相談しても自意識過剰だって笑われて、真面目に話を聞いてくれたのは芹と博子くらいだったな……胸が大きくなり出してからは余計に視線を感じるようになって、胸を押さえて歩いたり、思いっきり地味な格好してみたけど、それでも視線を感じて……だから、なのかなぁ……」
「何がか」
「久我くんの素っ気ないとこが、何だか、かえって落ち着くの」
「今もか?」
「うん」
「そういうもんか」
「うん」
「そうか」
「うん」
そして二人は、何も言わなくなった。
憂助は依然、黙々と絵を描き続ける。
千紗希の視線は、スケッチブックではなく憂助の横顔に向いていた。
不思議なものだと、千紗希は思う。
初めて会った時は、ぶっきらぼうな物言いや突き刺すような視線に、軽い恐怖を覚えた。
木刀一本で妖怪や魔物を退治する姿は、まるでテレビや漫画のヒーローのように頼もしかった。
しかし今、隣で絵を描いている少年の横顔は、むしろ自分よりも幼く見えた。
笛をやっているのは、亡き母を偲び、同じ笛をたしなむ事で寂しさを紛らわせようとしているからかも知れない。
「ねぇ、久我くん」
「おう」
「この前も言ったけど、あたしは久我くんの事、応援してるから」
「おう」
「だから、あたしに出来る事があったら、何でも言ってね」
憂助は、そこで千紗希の方を向いた。
千紗希の柔らかな笑顔が、そこにあった。
目と目が合う。
「……あったら、の」
憂助は突き放すように言って、目線を逸らした。
その様が可愛らしくて、千紗希は思わず微笑むのだった。
◆
道場で、久我親子は剣道着姿で向かい合っていた。
木刀を正眼に構えつつ、京一郎は息子の様子に首を捻る。
(……思ったより早かったのぉ)
これまで感じていた過剰な激しさや力みが、いくぶん影を潜めている。心気を穏やかに保つ方法を、彼なりに掴んだのだろう。息子の性格からして、もう少し時間がかかると思ったのだが……。
憂助は相変わらず、木刀を八双に掲げている。
そして自ら間境を越えて来た。
上段からの鋭い打ち下ろしを、京一郎はいつぞやのように十二分に引き付けてから、カウンターの突きを打つ。
しかし木刀は、ただ虚空を貫くのみだった。
憂助の体は低く沈んでいた。
身を沈めつつ、独楽のように回転して、勢いの付いた下段斬り!
しかしこの攻撃もまた、空を切った。
京一郎はフワリと宙に跳躍し、かわしていたのだ。
「久我流念法、流れ星!」
京一郎は眼下の息子へ、手中の木刀を投げつける。
その名のごとき流星めいて、木刀は一直線に憂助の肩に当たった。
瞬間、憂助は全身に熱を伴う衝撃を受けて、床に倒れ伏した。
「見事だ憂助。心涼しきは無敵なり、少しはわかってきたごとあるのぉ」
「見事とか言うんやったら、一本くらい取らせろや」
「ハッハッハッ! よう言うわ、譲られたら譲られたで『馬鹿にするな』っち文句言うくせに」
割りとその通りなので、憂助は口をへの字に曲げて黙り込んだ。
「まぁ、今日の感じを忘れんようにな。心の中に常に涼やかな風を吹かせとけ。そしたらそのうち父ちゃんから一本取れるようになるやろ。楽しみにしちょうきの」
京一郎は木刀を壁に架けて、朝食を作るために道場を出た。
憂助は床の上であぐらをかき、それを見送った。
「涼やかな風、か……」
そんなものは、吹いてなかった。
ただ、京一郎と向かい合った時、不意に千紗希の顔が脳裏に浮かんだのだ。
その柔らかな笑顔が浮かんだ瞬間、心の中に暖かなものが広がり、程好く力が抜けたのだ。体からも、心からも。
何故千紗希の顔を思い浮かべたのか。
憂助自身、それがわからず、ただガシガシと頭を掻くだけだった……。