自室へ戻るなり、俺と智花の勉強道具を机に並べながら椅子に腰を下ろす。
すぐ近くに俺がプレゼントした彼女愛用のスポーツバッグがあるとはいえ、さすがに直接そこに戻すようなことはしない。
いくら俺でも、女の子のプライバシーが詰まりに詰まっている鞄の中を無遠慮に漁るようなことをするわけはないのだ――やむを得ない理由がない限りは。
「よしっ。さっそく始めるか」
智花も母さんも晩飯の支度をしてくれてるだろうから、おそらく晩飯まではこの部屋に誰かが来ることはまずないだろうが、
時間はたっぷりあるとは言え、何か不足な事態が起こらないとも限らない。済ませるなら早いとこ済ませた方がいいだろう。
「智花に付き合ってもらおうかと思ったけど……やっぱ一人でする方がいいな」
本当は智花と一緒にやれるのが一番だが、それはまた機会を見てだな。彼女が混じらないにしても、一度俺のやり方を良く見てもらった方がいいだろうし。
ふと机に置いた彼女のノートをちらりと見る。
『湊智花』と、とても綺麗な文字で彼女の名前が書かれている。
つい先ほどまで側に居てくれた少女の儚げな笑顔が思い浮かぶ。
そして、彼女を温かく取り囲む様に、彼女の大切な友人たちの姿が思い浮かび上がってきた。
――そうだな。たまには思いつくままにやってみるのもいいかもしれない。
*
「うん。一人一人じっくりと見させてもらったけど、みんな良く頑張ってくれたよ」
「はぁ……はぁ……やっぱり昴さんのすごいよぉ……」
「あたしも……ここまですげぇのは……初めてだ……」
「真帆に……負けないようにと……頑張ってたけど……何度も頭真っ白になっちゃって……もう全然足腰が立たなくなっちゃってるわ……」
彼女達はみんな全身から汗を滴らせ、火照らせた身体と乱れた息を整えながら、先ほどまで繰り広げられていた行為を振り返っている。
普段から俺に付き合ってくれてることもあり、最も経験値の高い智花や、一人での練習も欠かさず体力に自信のある真帆。
そして、この二人――というか主に真帆に対抗心を燃やして負けじと一緒に頑張ってくれた紗季。
体は動きすぎて疲労困憊といった具合だが、今まさに得られている達成感にとても満ち足りた表情をしてくれている。
「うぅ……三人ともすごいよぉ……私ももっと頑張らないといけないのに……身体が思う様に動かなくて……」
「おー。……ひなも、もーげんかいー。……みんなといっしょがいいのにー」
残念ながら、最後の最後で一足先に限界を迎えてしまった愛莉とひなたちゃんが、三人と同じく息を荒くしながら、少しだけ悔しさと寂しさが混ざったような表情をしている。
「そんなに落ち込まなくていいって。俺の方が結構無理な要求しちゃってたんだし……二人だってすごく良かったよ」
「えへへ」
「おーおにーちゃんにほめられたー」
俺からの直接の励ましに智花達よりも少しだけ辛そうな顔をしていた二人も、ようやく嬉しそうに表情を緩めてくれた。
事実、俺は五人の少女達にかなり厳しい要求をしてしまったわけだが、それでも最後の最後まで健気に頑張り続けてくれたんだから、不満なんてあるわけがない。
むしろこれは彼女達に求めすぎてしまった俺自身の課題が見つかったのかもしれないな。
俺の期待に応えようと必死に頑張り過ぎて、今も「はぁはぁ」と息を荒くしている少女達の姿を見ていると、やはり無理をさせ過ぎてしまったと自責の念にかられてしまう。
大切な時間や身体を俺に捧げてくれている彼女達のためにも、もう少し優しくして彼女達にも達成感や満足感を得られるようなものにするべきだったな。
慈しみと労いの意味を込めて一人一人の頭を優しく撫でてから、新たに見つかった課題のために自らを奮い立たせる。
「みんながこんなに頑張ってくれたんだ。今度は俺が頑張る番だよ」
五人が横たわらせた身体をわずかに上げ、期待の眼差しで俺を見つめてくれている。
俺を喜ばせようと必死に頑張ってくれた健気な少女達……
この五人の少女達の期待に応えられるよう、精いっぱい頑張らないとな。
*
「――って、なんで途中から自分の練習メニューを考え始めてんだよっ」
余計なものをかいてしまった紙をクシャクシャに丸めゴミ箱へ放り投げる。
自分の思考の脱線に気づき妄想を中断する。
途中までは良かったのに、なんでいきなり俺メインになっちゃうんだよ。
確かに智花達に『がんばれ。がんばれ』と応援されたら、きっといくらでも頑張れそうな気がするけど――それは置いといて。
今は智花達だ。
ことの発端は、智花が寂しげに呟いていた「来年からはお別れ」という言葉からだ。
別に俺の方は彼女達から明確に避けられ始めるまではお別れする気なんてさらさらないんだけど、
コーチ業を続けられるかというと、なかなか厳しい物があるだろう。
中学からはちゃんとした顧問もコーチもいるということは、俺が好き勝手に彼女達の練習メニューに口を出すことはできないし、
下手にそんなことをして智花達と他の部員や顧問たちとの関係に溝ができてしまっては目も当てられない。
今俺がしていることは完全に俺のエゴだということはわかっている。
分かっている上で、せめて彼女達が中学生になった後も、かつて俺がコーチとして彼女達と共にいた証を残したいと勝手に考えているだけなんだから。
仮にこれが完成したとして彼女達に渡すかどうかはまだ決め兼ねているし、渡す時も顧問や他の部員との諍いが起きないように自主練で活用する程度にして欲しいと説明するつもりだ。
「本当は……作るべきでもないんだけどな……やっぱり俺のエゴだよな」
万が一、これが原因で智花達が孤立してしまったら、俺はまた智花にかつての苦しみを再び味わせてしまい兼ねない。
こんな自己満足のための行為に、心優しく健気な少女を巻き込まずに済んで良かったと心から安堵していた。
――それでも、もしかしたら……と期待してしまう――理想的な未来を。
智花はもう一人じゃない。彼女達と一緒なら、二度と孤立することなくみんな仲良く溶け込めるだろうし、思う存分バスケを楽しむことができると信じている。
中学からのバスケ部がどういう雰囲気になっているかはわからないけど、硯谷女学院というライバル校だってできたんだし、
必要なら俺達と一緒に作っていった全員が楽しんで勝つことを目指せるバスケ部にだってなれるだろう。
そんな理想の未来を想い描きながら、再び自己満足のための行為を再開する。
「まずは基本メニューをベースにして、それぞれに合わせて微調整を……と」
できる限りみんな一緒にしたいけど、全てを同じくすることが正しい平等とは言えない。
身体の成長はもちろん求められる技術や成長速度だって個々に違うんだから、しっかりとみんなの身体に適したものを宛がってあげたい。……とはいえ、みんな成長著しい時期なんだし、きっと俺の予想なんかよりも全然速いペースでどんどん成長しちゃうんだろうな。
純粋な成長速度という意味ではひなたちゃんは中々なものだろう。
女バスメンバー自体、比較的小柄な子が多い中でもひなたちゃんは特に小さいが、すでに成長の片鱗を感じさせるものだってある。
きっとわずかな時間を置いて再び見た時には、みんな見違えるくらいの成長を遂げていることだろうし、
その過程をじっくりと見届けることができなかったことに寂しさを感じちゃいそうだな。
「ふぅ……。こんなところかな? あとは今後のみんなの仕上がり具合を確認しながらだな」
俺が自分を満足させるための行為にすっきりしたところで、軽快な足音が階段を駆け上がり俺の部屋に近づいてきた。
がちゃり。とドアが開く音と同時にその方向を見ると、待ち望んでいた少女が白いフリフリのエプロン姿で幽かに頬を赤く染め、はにかみながら立っていた。
「昴さんっ。お待たせしましたっ………………あ、はぅぅ!? ご、ごめんなさいっ!! お一人で頑張っていらっしゃったのにお邪魔してしまいましたっ!!」
はっとしたように口元に手を当てたかと思うと、慌てて深々と頭を下げてしまった。
机に座ってたからもしかしたら、勉強してるとでも思ったのかな?
さすがに今この場で「君達が中学生になってからのことを考えていた」なんて言えないし、せっかくだから勘違いしてもらっておいた方が何かと都合がいいだろう――彼女の中の俺の評価も上がるし。
「ちょうど終わったところだから大丈夫だよ――ってか、智花にしては珍しいはしゃぎようだったね」
階段を駆け上がったり、ノックもせずにいきなりドアを開けたりと普段お淑やかで礼儀正しい少女にしては珍しいな――むしろ俺としては大歓迎だけど。
「い、家ではこういうことはないんですが……はぅぅ……よりによって昴さんのお家で、こんな粗相をしてしまうなんて……」
「うっかり気が緩んじゃってた? なかなか珍しい物が見れて得した気分だよ」
俺の言葉にますます自分の失態が恥ずかしくなってしまったのか、頭を下げたまま、ぷるぷると小刻みに震えてしまっていた。
違う。俺が見たいのは年相応に無邪気にはしゃいでいる彼女の姿であって、自分のミスを重く受け止めてしまって羞恥心に震えている姿ではないんだ。
「別に見られて困るようなことしてたわけじゃないんだし、晩飯できたんだろ? せっかく作ってくれたんだから早く食べに行こうよ」
まだ申し訳なさそうにしている智花の手を取りながら、そのまま部屋を出る。
「は、はい……本当にごめんなさいでした……」
ごめん、智花。ちょっと嘘ついちゃった。
実際の所、見られて困ることしてたし、改めて考えてみると智花達に見られるとメチャクチャ恥ずかしい気がする……
「……昴さんの手……大きくて、温かいな……」
おそらく無意識に呟いたであろう彼女の一言に、ようやく自分が彼女の小さく柔らかい手を握りしめていたことに気づいた。
慌てて離そうかと思ったが、彼女の方からも握り返してくれていたため、そのまま手を繋がせてもらうことにする。
この小さい手もちょっとずつ大きくなっていくんだろうな。
あと何回、こうやって手を繋いでもらえる機会があるかわからないけど、
せめて卒業までは、しっかりとみんなの成長を見届けさせてもらうとしよう。
――そうだ。俺のこの一年は小学生のために身も心も全て捧げるんだ。
お互いの手を通じて伝わる彼女の温もりを感じながら、自分自身に課した使命を果たすための決意を新たにするのだった。