その日の長谷川家の晩飯の食卓はいつもよりも少しだけ豪華で和やかなムードに包まれていた。
まったく来客一人増えただけでここまでの喜びようである。
かくいう俺自身も俺の隣の席に腰を下ろし、にこやかに微笑んでいる少女の存在に嬉しさと居心地の良さを感じているわけだが。
うっかり彼女と手を繋いだままリビングに入り、その姿を母さんに目撃されてしまったが、この気分を味わえるのであれば、そんなものは些細な事だ。
……でも、俺だけでなく巻き込んでしまった智花にまで恥ずかしい思いをさせてしまったことに対してはあとでしっかり謝っておかないと。
今日一日を通して彼女の油断した――はしたない姿を多く目撃できたことに喜びすぎてしまい、まさか俺自身も油断してしまうとは……
あれ? 智花がことあるごとに恥ずかしがってしまってるのは、もしかして俺の……せい?
――バスケでは年上の俺にもひるむどころか、より積極的に向かってくる姿勢
……は、別にいつものことだ。彼女自身がどう思ってるかはともかく。
――俺の言葉足らずな一言で誤解を招いてしまい、それに慌ててしまっていた。
あの忍さんを前にして『娘さんを僕に下さい』なんて言える奴がいるなら、よほどの命知らずか、本気で智花の事を愛しているかのどちらかだろう。勝算はともかくとして。
――俺が側に居るせいで、俺も同じ気持ちだけど、彼女にとってはそれ以上に大切な友人達と連絡を取り合えない息苦しさを感じさせてしまっていた。
いつも通りからかわれていたみたいだけど、女バスのみんなと話をしている時に見せてくれるあの表情こそが、彼女の本当笑顔なのだろう。そんな彼女の笑顔を見られる眼福があるのなら、俺の方から彼女の粗相やはしたない姿を見せてもらえるようお願いしたいくらいだ。
俺と一緒に買い物をしていただけで、新妻、幼な妻と周囲から囃し立てられたり、今まさに俺が智花の手を引いたままリビングに入ってしまったせいで、母さんのイヤらしい視線に晒され、また彼女は頬を赤らめてしまっている。
やはり俺が原因で彼女が辱められてしまっていて、それを彼女はまるで自分の責任のように振る舞ってしまっているのでは……
今更気づいたところで、真面目な彼女の事だ、俺ではなく自分の責任だと一人で全て背負い込んでしまうことだろう。
その時点で俺の謝罪は一層彼女に責任を感じさせてしまうだけのものになってしまう。
俺にできることは……今までの事を彼女に懺悔するのではなく、今後の彼女の行動を褒めて、『君は間違いなくとても上品でお淑やかな可愛らしい女の子だ』ということを誠心誠意伝えてあげることではないのだろうか?
彼女の一挙手一投足をこと細かく観察し、少しでも日頃の礼儀正しく大人びた雰囲気を感じさせる挙動を見つけたら、すぐに褒めさせてもらおう。
「それじゃ、冷めないうちに頂きましょう」
俺の密かな決意と同時に食事を勧めてくる母さんの言葉で三人で『いただきます』と声を揃えて食事を始める。
まぁ、智花という小学生の女の子がどれだけ素晴らしい存在か、なんてほんの少し彼女と寝食を共にすれば、誰だってすぐわかってしまうことだ。
そんな彼女を褒めるというとても簡単な事を一々深く考える必要もないだろう。
まずは彼女が心を込めて作ってくれた手料理を思う存分堪能させてもらうとしよう。
なにから食べようかとテーブルいっぱいに広げられている二人が作ってくれた晩飯をじっくりと確認する。
悔しいが真っ先に母さんの得意料理であり、俺の好物である母さん特製のふわとろオムレツに俺の視界と意識の大半を奪われてしまったのは仕方のないことだ。
大好物なだけに、テーブルの中央に大きく陣取るオムレツに自重しろとは言えないのが悔しい。
その隣には色とりどりの新鮮な野菜サラダが、丁寧に盛り付けられ、自らの瑞々しさとドレッシングの輝きで一層鮮やかさが引き立てられている。
三人がそれぞれ座る席の前には主食として一枚の皿の上でライスとカレーがそれぞれの領域で仕切られ、カレー領域側の方には大きなハンバーグが自らの存在をでかでかと主張している。
ハンバーグ+カレーライスという多くの子供達が大好きな二大メニューの組み合わせハンバーグカレーである。
……そして、卵焼き?
うーん……オムレツと卵焼きで卵がかぶってしまったな。いや別に構わないけど。
オムレツの方はこの見慣れた且つ完璧な俺好みに仕上がりから、間違いなく母さんが作ったものだろう。
となると、卵焼きの方は……
この卵焼きは、どちらかというと、テーブルの智花寄りの場所にちょこんと控えめに小さな皿に収められている。
「智花。その卵焼きってもしかして……」
「うふふ。智花ちゃん。すぐに昴くんに見つかっちゃたわよ」
「はぅ!? その……私が、作りました……」
俺の問いかけに徐々に声も体も縮こまらせるようにしながらも答えてくれた。
「もしかして智花の家の味付けとか?」
「はい……私もがんばって練習はしているのですが、やっぱり七夕さんのオムレツには絶対に敵わないと言いますか……い、いえっ。そもそも比べさせて頂くのもおこがましいのですが……こ、これは私が責任をもって処理しますので、昴さんは遠慮せずに七夕さんの方を……」
「良かったら味見させて欲しいな。智花の卵焼き」
「ふぇぇ!? で、でも絶対七夕さんのオムレツの方が美味しいですよっ」
俺が食べたいと言った途端に驚きの表情に変わる。もしかして、自分用に作ったのかな? 確かに普段から自分の家で食べ慣れてる味付けの方が食べやすいかもしれない。
だが、見た所今回の晩飯は智花と母さんの合作がほとんどだろうが、この卵焼きだけは間違いなく智花だけの手で作られたものに違いない。
正真正銘の純度100%の智花の手料理。これを味わえずに終わることなんてできるものか。
「智花のおかずを取ってしまうのは正直心苦しいけど、できれば……うん。どうしても食べてみたい……かも」
「はぅぅ……せめてお母さんくらい美味しくできれば良かったのに……あまり期待しないでくださいね……」
おそるおそるとだが、卵焼きが乗っている小皿を俺に差し出してくれた。
綺麗に六等分された物の一つを有難く受け取り、さっそく口に放り込む。
ふむ。これが智花の味か……悪くない。というか、すごくいい。
オムレツと比べると少し固めにして形をしっかりと整えつつ、中は丁寧に何層にも折り重ねられている。
すごく柔らかいのだが、こうして切り分けられていても断面から外に零れ出ないようにしている絶妙の焼き加減。
確かに花織さんが作る本来の湊家の味と比較してしまうと、どうしても技術的に未熟な部分も出てしまっているのだろうが、これは単純に年季の差だろう――あ、ヤバい。今、花織さんに、大変失礼な事を思ってしまった気がする。
そもそも花織さんに智花くらいの子供がいること自体驚愕なんだよなぁ。ほんとお幾つなんだろうか?
と重ね重ね失礼な事を考えつつ、湊家の智花の味を心行くまで噛み締め堪能させてもらった。
「すごく美味しいと思うんだけどなぁ……これより上があるの?」
「お母さんのはもっと美味しいですよ。それに昴さんは七夕さんのオムレツみたいな感じなのがお好みなのでは……」
確かに母さんのオムレツが好きだけど、別にそれ以外の卵料理は食べないってわけじゃないんだけどな。
俺は母さんのオムレツ以外絶対に食べない。なんてマザコンもいいとこじゃないか。
……あれ? もしかして俺、智花にそう思われてたのかな?
「俺の場合は母さんが卵料理はほとんどこれしか作らないからな。だから智花が作ってくれた卵焼きはすごく新鮮な感じだったよ」
「昴くんがオムレツ好きになったのは私の影響よね。私も好きだったから自分で作るようになって、色んな作り方を試してみて、その中で銀河くんが大好きだって言ってくれたのがこのオムレツだったのよ。それでいっつもこのオムレツを作ってたから昴くんも大好きになっちゃって」
「はぅ……すっごく素敵なお話ですっ!」
なんで隙あらば親父との話で勝手に惚気ようとしてんだよ。智花もそんな感動しなくていいのに。
「あの……昴さん……よかったらでいいんですが……もっと上手く作れるようになったら、また味見をして頂いてもいいでしょうか?」
「もちろん。っていうか、智花が作ってくれるたびに食べさせて欲しいくらいだよ」
まるで一世一代の告白をしているかのように緊張した様子の彼女の申し出に有難く答えさせてもらうと、頬を赤く染めて恥ずかしそうにしながらも、嬉しそうに微笑んでくれていた。
「智花ちゃんが作ってるところ見させてもらってたけど、こういう調理の仕方もあるんだなぁーってすっごく感心しちゃったわ。今度また花織さんと一緒にお料理してみたいわね」
「あ、いいですね。お母さんも七夕さんとお料理できてすごく楽しかったっておっしゃってましたよ。今度またみんなと一緒にお食事したいですねっ」
確かに母さんだけでなく花織さんにまでご負担を掛けてしまうのは心苦しいところではあるが、また女バスのみんなとの食事会をできるのなら、是非とも楽しみたいな。
ふむ。この調子だと智花はいずれ湊家と長谷川家両方の味付けを習得し両家の味を自由自在に組み合わせてしまうのだろうか? まさかハイブリット智花さん爆誕か!?
是非とも一家に一人欲し――いやいやいやいや、なんで智花にバスケ以外の事までさせようと考えてんだよ!!
智花だって俺と同じ学生なのに、毎朝激しい運動に付き合わせるだけで飽きたらず食事まで作らせるわけにはいかないだろうに。
さて、一品目の智花の卵焼きを堪能したところで、そろそろ食事を再開しなくては。
正直、一番最初に彼女の手料理を食べてしまったことの是非はなかなか判断が難しいな。
最初に最高の料理を味わえたとも言えるが、楽しみは最後にとっておくべきだったかもとも思えてしまう。
いや、彼女のことだ、きっと少しでも気づくのが遅れたら俺に手を出される前にと、早々と自分で処理してしまったかもしれない。
そう考えれば、やはり最初に彼女の味を堪能できたのは最高のタイミングだったと言える。
純度100%の小学生の味は何度も味あわせてもらったが、その中の一人が最初から最後まで作ってくれたのは……これで二人目か。
二人だけの秘密だから智花にも内緒だけど、十二歳になったばかりの紗季の初めての味。あれも良かったなぁと、しみじみ思ってしまう。
本職の跡取りなんだから当然なんだけど、また食べさせて欲しいな――いや、ちゃんとお客としてね。
ま、そこら辺はいつかの楽しみにするとして、引き続き智花の味を味わい尽くさねば。
次は何を食べようか次の目標を決め兼ねていると、どうやら卵焼き騒動が一段落して安心したのか、彼女も食事を再開しているようだった。
彼女の箸が伸びた先にあったものは……意外な事にそれはハンバーグだった。
しかも心なしかハンバーグを見つめる彼女の目が輝いているようにも見える。
上品な彼女らしく丁寧に一口サイズに切っているようだが……え?
そんな大きいのが本当に入るの?
事の成り行きを見守る様にマジマジで見つめてしまっているが、彼女は気づかずに――心なしか嬉しそうにその大きな肉の塊を口に近づけていく。
そして、普段の彼女からは想像もつかないくらい大胆に大きく口を開きそれを頬張り始める。
とても嬉しそうな表情で目を細め、味を堪能しているところで俺の視線に気づいてしまった。
「……んん!? んっ……んん…………ごくっ……はぅぅぅぅぅ……」
幸福感で満たされていた表情から一転し、とんでもない姿を見られてしまったと思っているのか目を見開いている。
慌てて口元を手で隠しながら急いで口の中の物を咀嚼すると、それをしっかり飲み込んでしまった。
俺の方はあまりの慌て振りに喉を詰まらせなくて良かったと安堵するが、彼女の方はそれどころではなかったらしく、顔を真っ赤に染め上げ恥ずかしそうに可愛らしい唸り声を上げながら悶えている。
「ご、ごめん。智花」
「昴くん。女の子がものを食べてるところをマジマジと見ちゃダメでしょ」
珍しく母さんからも叱責を受けるが、これは仕方ないな。
せっかく彼女が美味しそうに食べていたのに、なんかすごく悪いことをしてしまった気がする。
「はぅぅ……す、すみません。お見苦しい姿を……うぅ……」
どうやら彼女にとって相当恥ずかしい行為に当たるらしく、完全に顔を俯かせてしまっている。
俺が余計な事さえしなければ、彼女は気持ちよく食事ができていたというのに……
俺の責任でもあるし、なんとかフォローをしないと。
「智花、失礼な事しちゃって本当にごめん。でもさ、そんなに恥ずかしがらなくてもいいと思うよ。智花はすごく美味しそうに食べてただけなんだからさ」
「そうね~昴くんもオムレツを食べてる時は本当に幸せそうな顔で食べてくれてるわね。そうやって美味しそうに食べてくれると一緒に作った甲斐があるわよ」
ここで俺を引き合いに出されるのは恥ずかしい……というか、俺もそんな顔してるのかと母さんに事実確認を追求したいが、今は智花が第一だ。
俺の恥ずかしい姿を暴露されたのは俺の責任だし。母さんからの辱めは甘んじて受けよう。
「はうぅ……お気遣い、ありがとうございます……は、恥ずかしいんですが、実はお肉、大好きなんです………それで思わず……ぅぅ」
蚊が泣くような声で本当に恥ずかしそうに呟く。
気分を持ち直すにはまだ時間が必要そうだが、それでも健気にも俺達との会話に応じてくれているだけで十分だ。
「智花ちゃんのお家ではあんまりお肉の料理って出ないの? 花織さんほどの腕前ならいくらでもレパートリーがありそうだけど」
「その……お母さんは私の好きな物を良く作ろうとしてくれてるんですが、お父さんからはあまり肉を食べすぎてはいけないと窘められてしまってまして……」
「相変わらず忍さんは厳しいみたいだね。せめて好きなものくらい好きなだけ食べさせてもらってもいいと思うんだけどな」
湊家の教育方針は相変わらず厳しいみたいだな。
とはいえ、そこに愛や優しさがないかと言われれば、当然そんなことはないし、
その教育を受け続けたことでお淑やかで心優しく育った目の前の少女がいる時点で、それがどれだけ素晴らしい物であるかを証明しているようなものだ。
「いえ……その……恥ずかしながら、お父さんも私が食べ過ぎないようにと心配してくれてるんだと思います……」
「それじゃ、今日くらいは遠慮しないでいっぱい食べて行ってね」
母さんの言葉に小さく頷き、ようやく顔を上げてくれたが、頬は真っ赤に染まったままだ。
「あの……七夕さんのお料理は本当に美味しく頂いてますので……どうかあまり見ないで頂けますと……は、恥ずかしいので……」
「わかってるよ。俺の方こそ恥ずかしい思いさせちゃって本当にごめんね」
俺のせいで少しだけ慌ただしくしてしまったが、彼女の「えへへ、美味しい」という無意識に出た嬉しそうな呟きが俺の耳に届いたことで、ようやく最初の和やな空気が戻ってきてくれたことを実感する。
でも、肉が好きってのはちょっと意外だったかな。
好み一つとっても、いつの間にかお淑やかな智花は。って勝手なイメージ持っちゃってたのかもしれないと少し反省。
彼女のパートナーを務めさせてもらってる以上、もっともっと彼女の事を良く知らないとな。
今回の事があった手前口には出せないけど、智花が幸せそうな表情で大好きなお肉を口いっぱいに詰め込んで、口の中で溢れ出る肉汁や食感に恍惚としている姿もいつか見てみたいな。
そんなことを考えながら、俺も大好きなオムレツを口に送り込む――うん。美味い。
「あの……昴さ――ほぅ……えへへ……はぅっ!? し、失礼しましたっ」
「うふふ、いいのよ。智花ちゃんだって昴くんに見られちゃったんだから。好きな物を食べてる時って本当に良い顔するでしょ」
くっ、油断した!! 大の男がオムレツで頬を緩ませてるだらしない顔してたの智花に思いっきり見られた。
彼女の事だから俺に何か話し掛けようとして偶然目撃してしまったんだろうけど、
母さんはともかく智花に見られたのは俺もすごく恥ずかしい感じがするぞ。
「いや、いいんだ。俺だって智花のを見ちゃったんだから……これでおあいこだ。別に恥ずかしがらずに美味い時は美味そうに食べていいんだっ」
「えへへ。そうですよね。昴さんと七夕さんと頂く晩御飯。すっごく美味しいですっ」
照れ隠しにわざと高らかに宣言すると、智花もそれに乗っかってくれる。
お互いに顔を赤くしながらも、ようやく二人で顔を向き合わせて笑い合えたのだった。