ソードアート・オンライン ―ファダーズ・ストーリー― 作:網緑 錆
2022年に発売されたVRMMO、《ソードアート・オンライン》。一万人のプレイヤーがログインしたその革新的なゲームは、サービス開始直後に『ログアウト不可』、『ゲームオーバー=死』のデスゲームと化した。後にSAO事件と呼ばれるこの事件は、事件発生二年後の2024年に、キリトと呼ばれる伝説的なプレイヤーの活躍によって幕を閉じた。
ぼくは、電車の吊り広告に仰々しく書かれていたその文章を読んで、心苦しい気持ちになる。広告の対象となっているその本はどうやら、SAO事件についての記録をした一冊らしい。
気持ちが沈み、自然と視線が下の方へと向いていく。汚れのあるスニーカーが視界に入ってきた。
電車特有の鈍い音が断続的に響く車内。東京を環状に回る路線を利用しているぼくは、十九時の帰宅ラッシュに巻き込まれて満員電車の中に居た。
SAO事件。
あの事件が終わってからもすでに一年以上が経つ。それなのに、未だにワイドショーで定期的に取り沙汰されている。当然と言えば、当然だ。一万人が巻き込まれて、そのうち約四千人の命が失われたのだ。死者の数の規模としては2001年にアメリカで起きた同時多発テロとほぼ変わらない。
教科書に載るような世紀の事件だ。
ぼくは拳を握って、それからゆっくりと力を抜いていく。
まだ、あの感触は覚えている。命を賭けて剣を握り、生還するために戦った、あのときの感触。そして、死の恐怖と、後悔と、懺悔と。
「《SAO生還者》の中には、殺人鬼もいるって話だよな……。良く考えると、怖くね」
近くから、若い男の声が聞こえてきた。恐らく彼も電車の吊り広告を見かけたのだろう。
「らしいな。でも、そういう輩は保護観付いてるって話じゃん」
別の若い男の声が、答える。
ぼくは堪らず、背負っているリュックからAR(拡張現実)用デバイスの《オーグマー》を取り出して、耳にかけた。
そのまま音楽を流すと、先程の若い男たちの声は聞こえなくなった。
音楽によって耳を塞がれ、主な情報源は視覚だけになる。再び先程の吊り広告を一瞥すると、ぼくはゆっくりと目を閉じた。好きなバンドの音楽が響く暗闇に、《SAO事件》の文字が残像として浮かぶ。
そして追いかけるように、夕焼けの橋の上で笑う一人の少女の顔が現れる。
スノウ。その名前のように、透き通った白い肌。あの狂気の世界で、死の恐怖に呑まれまいと共にもがいた、大切な人。
あの二年間。ぼく、北条千尋は《SAO》の中に居た。