ソードアート・オンライン ―ファダーズ・ストーリー―   作:網緑 錆

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■第五話:夕景の少女(6)

 一歩前に進むとリノリウムの床にぼくの足音が反響する。傷だらけの紺色の学生鞄がぼくの右手に深く食い込む。左手には濡れたブレザーの感触。柔らかな日差しの中、誰もいない学校の廊下。

 いや、誰も居ないわけではない。授業はとっくに始まっている。他の生徒は教室の中だ。

 

「……くそ……」

 

 どうやらこの学校の一部の生徒は誰かを玩具にしないと生きていけないらしい。たまたまその玩具がぼくで、今日もそういった役割を押し付けられていた。

 

「腐卵とか、どこで手に入れたんだよ……」

 

 今回は朝っぱらから生卵を投げつけられた。それもただの生卵ではない。ブレザーについた汚れの独特の臭気から察するに賞味期限を大きく逸脱してしまった生卵のようだった。わざわざ卵を買ってぼくの為に腐らせたのだと考えると、惨めさの他に一種の尊敬の念すら湧いてくる。

 おかげさまで寒空の下、学校の玄関口の近くにある蛇口から流れ出る冷水で洗濯をする羽目になってしまった。当然、一時間目の授業には間に合うわけはない。

 洗剤とは違った石鹸の独特の匂いを感じながら廊下を進んでいき、自分のクラスの教室の前で立ち止まった。

 

 きっかけは何だったのだろうか。今となっては思い出せない。きっと誰でも良かったのだろう。主張が出来なくて、鈍くさくて、孤立しているような人間ならば。

 

「……嫌だな」

 

 ぼくはつぶやく。

 何故人は集団になると『こういうこと』を起こしてしまうのだろう。何故誰でも良いはずなのに、ぼくが、標的になってしまうのだろう。

 それから暫く立ち尽くして、どうしても教室の扉を開けられなかったぼくはその場を立ち去り、居場所を求めて屋上へと向かった。

 屋上の扉には普段から鍵がかかっている。しかし、簡単な仕組みのダイヤル式南京錠なので、音を聞きながらダイヤルを回せば簡単に空いてしまう。そのことは恐らく誰も知らないので、ぼくは一人きりになれる逃げ場所としてこの場所をよく使っていた。

 いつも通り鍵を開けて、屋上に踏み入る。濡れたブレザーを緑色の錆びたフェンスに引っ掛けて、コンクリートの汚らしい地面に座り込んだ。

 数年前まで屋上は開放されていたらしい。しかし、部活の人間関係絡みが発端でぼくと同じような立場になった男子生徒が上級生に私刑を受ける事件があり、錠がかけられるようになった。

 

 名も知らぬ先輩。あなたのお陰でこの場所は、あなたのように集団に馴染めなかった人間の逃げ場所になっています。

 

 よくわからない感謝を脳内で述べてから膝を抱く。

 

「……いつまで……こんな……」

 

 一時間目終了のチャイムが鳴るのが聞こえた。

 どうしようか。二時間目から出席しようか。考えていると、屋上の重たい鉄の扉が開く軋んだ音が聞こえた。

 聖域への侵入者に警戒してぼくは即座に扉の方を見る。ガタイの良い高校生が数人、ぞろぞろと入ってきた。そのうち、先陣を切ってきた生徒がぼくを見つけてから、腹を抱えて笑う。

 

「北条君! こんなところにいたの! あれかな! 洗濯物でも干してたのかな! いい天気だもんなあ!」

 

「え、あ、なん、で……」

 

 どうしてこの場所がわかったのだろう。声が震える。

 

「何でって、授業をサボるなんて良くないからね! お仕置きに来たんだよ!」

 

 そう言って、そのガタイの良い生徒はその手にいつの間にか持っていた片手剣を構えた。《はじまりの街》で手に入る剣……きっと『麻痺剣』だ。

 どうしよう。ぼくの手元には傷だらけの学生鞄しかない。

 ガタイの良い生徒はズカズカと迫ってきて至近距離まで来ると、剣を振り上げる。――殺される!

 

「うわあ!」

 

 ぼくは小さな鞄に隠れるように、更に小さく縮こまって目を閉じた。……だが、いつまでたっても剣で斬られた感覚は無い。恐る恐る目を開くと、すんでのところで麻痺剣を受け止めている細剣。その持ち主は……学生服を着たスノウ。

 

「なんだ、これ……どういう」

 

 状況がつかめず混乱していると、あの屋上の重い扉を蹴破るような勢いで誰かが現れて、喧々とした声で叫んだ。

 

「大変だ! おキロ! 皆! センも!」

 

 ハッとして目を開く。もう見慣れてしまった洞窟の通路の中でリャオが青龍刀を構えながら叫んでいた。

 

「……夢、かよ」

 

 ぼくはさっきまでの妙にリアルな夢の残滓を振りほどくように頭を左右に振って、すぐに立ち上がり、装備を戦闘用のものに素早く変更した。

 寝ぼけた目で周囲を見渡す。洞窟の中央で剣を手に喚いているリャオ。スノウは起き上がって、すでに臨戦体勢で剣を構えている。ぼくの後ろの方ではゴエモンが頭をかきながら起き始めているところだった。エドワードは壁を背にしてリャオに向かって大剣を構えていた。

 

「何なんだ! 何事だオイ!」

 

 エドワードの甲高い声がリャオに向けて発される。やり方は置いといて、ぼくもリャオと同じ気持ちだ。何が起こったか言ってもらわないとどうしようもない。

 

「あるか! どうもこうも! ターマダ!」

 

 後半は正直なんて言っているのかはよくわからなかったが、様子を見るに悪態のようなものだろう。完全に恐慌状態だ。

 何となく察したぼくは再度周囲を見渡す。ダテジュンとロビンが居ない。時間を確認したところ、三時五十二分。状況が読めてきた。

 

 今度は一気に二人殺られた。そういうことだろう。

 

 リャオは変わらず何語かよくわからない言葉と日本語の混じった言葉を放ちながら、ぼくらに順番に剣を向ける。つい反応してしまい――きっとエドワードも同じような気持ちで大剣を構えてしまったのだろう――、ぼくも剣を構えてしまった。するとリャオがぼくに青龍刀を向ける。

 

「お前か! 人狼は!」

 

「違います! とにかく、一回落ち着いてください!」

 

「落ち着けるわけがあるか! ふざけるな! ……名乗れ! 人狼! 出てこい!」

 

 言葉が通じていない。ぼく一人で抑えられそうにない。……ぼくは他の人に協力を仰ごうと、スノウに目配せをする。しかし、彼女も細剣を構えたまま、目が虚ろだ。

 ……ダテジュンが、親しくしていたギルドメンバーが犠牲になったんだ。リャオのようにキレてはいないが彼女も混乱しているに違いない。

 ならば、エドワード……いや、ゴエモン。ぼくは首だけ振り返る。彼も状況を理解したらしく、渋い顔で腰の刀を抜いている。

 

「駄目だ、セン。ああなった人間は聞きゃあしねぇ」

 

 諦めを促すような首振りにぼくは落胆する。彼で駄目なら、もうどうすれば良いのか分からない。

 

「……危険だ、お前らは! 一人だ、一人の方がいい!」

 

 リャオはそう言うと、洞窟を駆け出す。ゴエモンが静止を呼びかける言葉を幾つか吐いたが、それも届かない。

 ぼくはリャオを追って駆け出そうと一歩踏み出す。しかし、逃げ出した彼は一度こちらに振り返った後、青龍刀を手に再び叫んだ。

 

「来るな! 追いついてきてみろ! その時は殺してやル!」

 

 ぼくの身体は止まり、他の人も動かない。リャオは走り去っていき、姿が見えなくなって数十秒やそこらで足音も聞こえなくなった。

 突然の事にはっきりと目の覚めてきたぼくは考え始める。

 まずい。人が減ってしまうのは非常に良くない。あの様子を見た限り、リャオは『人狼』ではない。勿論、被害者のダテジュンとロビンも同じだろう。そうなると『人狼』は恐らくエドワードかゴエモン。もし今『人狼』が人間のフリを辞めて剣を振りかざしたとしたら、三体一だ。状況と『人狼』の実力次第では簡単にひっくり返ってしまうレベルの数の優劣。

 こうなったらもういっそのこと、スノウを連れてこの場を離れるべきか。

 もし離れたとすれば、エドワードとゴエモンのどちらかは『人狼』としてもう片方を殺し、ぼくとスノウを追いかけてくるだろう。

 リャオに追いついてしまったら彼との戦いは避けられず、追いつかれてしまったら『人狼』と対峙しなくちゃいけない。

 

 どうすれば良い……! 何を選べば生き延びられるんだ……!

 

「……もう、隠れる必要はねえみたいだな」

 

 思考を邪魔するかのように、甲高い声が洞窟に響く。振り向くと、大剣を構えた大男がスノウに剣を向けていた。

 

「これで馬鹿馬鹿しい『ゲーム』は終わりだ!」

 

「スノウ!」

 

 振り下ろされる大剣。スノウは一瞬遅れて反応し、その細剣でエドワードの大剣を受け止めた。

 

「くぅ……!」

 

 巨体から振り下ろされる大剣を、スノウは頼りない細身の剣で、両手で支えるようにして防いでいる。エドワードはこのまま押し込む気らしく、鍔迫り合いにどんどんと体重を掛けていく。その華奢な腕に見合ったビルドなのか、それともエドワードの筋力パラメータが高いのか、スノウは少しずつ押されていっている。

 

「させるか……!」

 

 ぼくは背中に装備していた投擲用のナイフを抜いて、エドワードに狙いを定める。すると、ぼくの背後からゴエモンの声が聞こえた。

 

「セン! 『人狼』は奴さんだ! スノウちゃんに当てんなよ! よく狙え! 全員で抑えるぞ――」

 

 ぼくは小さな頷きだけを返す。言われなくとも、スノウに当てるわけには行かない。集中だ。

 そして、刀の鳴る音を背中に聞き、ゴエモンが駆け出したことを感じながら、ソードスキル《ストレイト・ピアース》の構えを取る。

 

「――お得意の『狼狩り』だ!」

 

 ゴエモンが叱咤するように言った声を聞いて、ぼくの思考が止まった。

 

「ん……?」

 

 何故、彼がその不名誉なあだ名を知っている?

 何故、『初対面のはずの彼が、一年以上も昔の一部の人しか知らないようなあだ名を知っている』んだ?

 

 振り向こうとした直後、ぼくの背中を、刃物が通る感触が走った。

 

「え……何で……」

 

 一瞬遅れて体中の動きが鈍くなっていく。――『麻痺剣』。

 

 ぼくを背後から通り過ぎざまに撫で切りにしていったゴエモンが、ぼくの目の前で足を止めて振り返った。

 

「あーやっべぇ。あっぶねー。油断してつい口が緩んじまった」

 

 そう言う彼の顔は『緩んでいる』という表現では足りないほどに邪悪に歪む。

 徐々にぼくの全身から力が抜けていき、何かを言い返す前に、ぼくの身体は前のめりに思い切り倒れてしまった。

 

「おーいスノウちゃん。抵抗したらこのガキ殺すぞー。君は殺しゃしねーから大人しくなれ」

 

 ゴエモンはその手の麻痺剣を攻撃力の高そうな刀に持ち替えてから、何の躊躇もなくぼくの背中に突き立てるように刺した。刀が刺さったままだから、ぼくのヒットポイントバーが徐々に削れていく。

 

「セン……! わかった! もう何もしないから!」

 

 スノウは即座に応えた。それを見たエドワードが大剣を引っ込めると、スノウは細剣から手を離して叫ぶ。

 

「これで良いでしょ! もう止めて!」

 

「……必死だねえ」

 

 ゴエモンは突き刺してきていた刀を抜いて、鞘に納める。ぼくのヒットポイントは半分ほど削られてしまった。

 

「エド、スノウちゃんをしっかり見張ってろよ。指一本の動きも見逃すな」

 

「へいへい」

 

「さて」

 

 気を取り直したようにゴエモンは腕を組み、倒れたままのぼくを見下ろす。

 

「……びっくりしちゃったかい?」

 

 ぼくは言葉を上手く紡げず、口をパクパクさせる。

 エドワードだけじゃない。ゴエモンも『人狼』だった。ローザの疲労によく気がついていて、ダテジュンだけでは回しきれないパーティを上手く導いてくれて、落ち込んでしまったときも冗談交じりに元気づけてくれた彼が、『人狼』。

 

「そんな顔しなさんな。しっかり驚いてくれたみてぇで、俺っちも騙し甲斐があるねぃ」

 

 いつもと変わらない調子で、いつもより歪んだ顔で、嬉しそうに笑う。

 ぼくは混乱する頭を押さえつけるように、言葉を口からこぼし始める。

 

「……そうか、そうだ」

 

 ぼくは記憶からこの冒険でのゴエモンの行動を引き出す。

 

「……最初の行き止まり、あなたは最初から攻略法が分かっているかの様に、行き止まりの文字板に切りかかった」

 

「ああ、てめぇらあんまりチンタラしてるもんだからねぃ」

 

 そう言えば、この洞窟に来る直接の原因となったあの罠の宝箱を開けた時、誰かがすでに開けたような形跡が合った。

 

「……一度、来たことがあるんですね」

 

「ご名答だ、セン」

 

 あっさりと認める。自分の優位に自信があるからこその行動だ。

 

「行き止まりを越えたその後、分かれ道の広間でローザさんに休むように仕向けたのもあなただ」

 

「ま、あれはセンがきっかけを作ってくれたお陰でやりやすかったわー!」

 

「ルイマさんがやられた後、犯人探しをせずに現状維持を提案したのも、あなただ」

 

「ヘンに犯人探しされるとあぶねぇからな。あれもセンが乗ってきてくれて助かったぜぃ」

 

「今夜の見張りの組分けを決めたのも……」

 

「俺っちだね。随分思い通りに事が動くもんだから、笑っちまったよ」

 

 なんということだろう。

 ぼくは、ぼくらはゴエモンとエドワードの手のひらの上で転がされていた。ぼくに至っては無邪気に疑うこともせず、深く考えることもせず、あろうことかゴエモンの考えに乗っかっているときすらあった。

 

 ぼくの安易さが、彼らを死に追いやってしまった。

 

「じっちゃんの名にかけているのか、名探偵なのか知らねえが、生憎俺っちはワトソンやら毛利やらって名前じゃあ無いんでね。探偵気取りの人間の推理にもなっていない推理を教えて貰う義理はない」

 

 彼は口上述べて、再度邪悪な笑みを見せる。

 

「教えて欲しいのは……《練気術》について。それだけだ」

 

「目的は、それか……」

 

「君にそれ以外の価値があるとでも?」

 

 言い返す言葉も見当たらない。

 ぼくの価値なんてそれ以外心当たりも無いからその通りだけど。……いや、そうでもないか。

 

「……条件はわかってない、自分でも」

 

「そうかい。じゃ、ワカルまで一緒にショーでも見ようか」

 

 ゴエモンはしゃがみこむと、倒れたぼくの髪を掴んで引き起こしてスノウの方へ向け、左の耳元でつぶやく。

 

「名付けて『美女と野獣の長い夜』。世間じゃ『明けない夜は無い』と言うが、今回は君がワカルまで『長い夜』は終わらないよ」

 

 脳味噌が沸騰しておかしくなりそうだった。だけど、考えなしに『動いてはいけない』。動く時は相手の意表をつくように『一気に畳み掛ける』んだ。

 

「……スノウに、手を出すな」

 

 ぼくは静かに声を出す。ゴエモンがフザケた様子で「ん、負け惜しみかな? 聞こえないね」とわざとらしくぼくの顔に耳を近づけてきた。

 

「――スノウには触らせない! 手を出すな!」

 

 直後《狼の掌》で固めた左手で、ゴエモンの横っ面に思い切り拳を打ち付ける。ゴエモンが派手に吹っ飛ぶのを確認してからすぐに片膝をついて、右手に持ったままのナイフをエドワードに向けて投げる。

 エドワードはいつもの舌打ちの直後、大剣でそれを防いだ。

 

「何故麻痺が解けてる!」

 

 ぼくは立ち上がる勢いで地面に落としていた剣を掴んでから走り出した。同時に左の拳を握ってモーションに入る。放つソードスキルは勿論《波動撃》だ。

 拳から光るエフェクトの付いた圧縮空気の弾丸が放たれて、エドワードはそれも大剣で受け止める。威力を殺すために彼は後ずさり、壁際まで後退した。

 

「スノウ!」

 

「……ええ!」

 

 スノウは地面に落としていた細剣を拾い、ようやく立ち上がったゴエモンに向ける。ゴエモンは自分の首を揉みながら刀を抜いて気だるそうに構えた。

 

「あー! おいマジかよ面倒くっせぇなー!」

 

「……ソロでいた経験が活きたかな」

 

 ぼくはエドワードを、スノウはゴエモンを見据えて背中合わせに構える。

 正面のエドワードが大剣を構えながらじりじりと距離を詰めてくる。

 

「『経験』だと?」

 

「寝る前に麻痺耐性の上がる薬を飲んでたんだよ。念のためにな」

 

 暗殺において使用される『麻痺剣』は、確かにその軽い武器から放たれる異常な速さの攻撃と、一撃でも触れてしまったら麻痺状態にされて身動きが取れなくなってしまう危険性から強力だ。

 しかし、防ぐ手立てはある。

 一つはパーティで行動すること。麻痺状態になっても回復できる仲間がいれば、無敵の剣ではなくなる。

 そしてもう一つは薬品を服用し、麻痺耐性を上げることだ。しかし、長時間持続するような薬は非常にレアであることと、麻痺無効化では無いので、数秒間は身動きが取れなくなってしまうデメリットはある。

 それでもソロで、それも四六時中狙われるような人間であれば、《圏外》での睡眠の間の隙を無くすために服用せざるを得なかった。

 

 皮肉なものだ。過去の苦痛が今の窮地を救うなんて。

 でも、だからこそ、その経験が《練気術》以外のぼくの価値だ。

 

「お前らは……人を殺してまで《練気術》が欲しいのか?」

 

 ぼくは吐き捨てるように言う。時間稼ぎだ。

 何とか最悪の展開からは抜け出せたが状況が良いわけではない。ぼくのレベルからすれば強敵を相手にしていることは変わりないし、何より――。

 ぼくは気付かれない様に細心の注意を払いながら、一瞬だけ脇腹を擦る。

 ――スノウと共闘してしまったことで、例の幻痛が現れている。この痛みを堪えながら戦わねばならない。もう少し、痛みに慣れるまで、少しでも良いから時間が欲しい。

 

 ゴエモンがぼくの背後のスノウの更に向こう側から声を張り上げる。

 

「欲しいだろ! 《練気術》! 特にさっきの《波動撃》みたいな遠距離攻撃なんてこの剣の世界では反則級の力だ!」

 

 それに、と付け加えるように話を続けるゴエモン。

 

「人を殺してまで、と言っていたが、残念ながら俺っちは誰も殺してねえんだわ! 殺ったのは全部エドだよ。万が一疑われたらあぶねーからな。てめぇらには最後まで分かんなかったみたいだけどさぁ?」

 

「……じゃあ、ダテジュンも、あなたが殺したの。エドワード」

 

 スノウが少しだけ震える声で訊いた。

 そしてエドワードは一声笑った後「いいや」とかぶりをふった。

 

「他は適当に殺したが、アイツとロビンだけは殺してねえ。ふふ……ありゃ笑った」

 

「……笑った?」

 

「そうだよ。スノウちゃん」

 

 ゴエモンが話に割って入る。

 

「君が随分信頼していたあの熱血騎士様は、寝ているスノウちゃんの身体に触って《ハラスメント防止コード》を作動させて牢獄エリアに強制転送されたんだよ」

 

 そして、くつくつと笑う。背中合わせだから表情は見えないが、スノウの息が一瞬止まったのが分かった。

 

「その為には一緒に見張りをしているロビンが邪魔だから麻痺毒入りの飲み物使って殺してさ、気付かれない様に息を殺しながら半ベソかいて君の胸元に触ってさ」

 

 それから、ゴエモンはダテジュンの真似をするように演じる。

 

「『済まない、済まない。死にたく無い、帰りたい』って。……お陰で手間省けちゃったよ」

 

 それからエドワードが腹を抱えて笑う。見えないが、ゴエモンの笑い声が聴こえるから、彼も同じように笑っているのだろう。

 不愉快だ。こんなに不愉快なことは本当に無い。歯を食いしばった時、背後で気配が動いた。振り向くと――スノウがゴエモンに向かって駆け出して、攻撃を仕掛けていた。

 

「スノ――くそ!」

 

 諌めようとした瞬間に、前方からプレッシャーを感じて剣を横に構える。丁度エドワードが大剣を振り下ろしてくるところだった。

 

「ち……不意打ち失敗か」

 

「……このっ」

 

 ぼくは腹の痛みに耐えながら大剣を受け止めてから、右足を跳ね上げるように前蹴りを放つ。エドワードはそれを体勢を崩しながらもバックステップで避けるが、ぼくは追いかけるように《波動撃》を撃つ。体勢を崩したところへ向けて放つ《波動撃》を避けられず、エドワードはその巨体を地面に転がした。

 ぼくは痛みを堪えながら駆け出し、起き上がろうとするエドワードの鎧に覆われていない首筋を目掛けて剣で平突く。エドワードは顎を引き、ぼくの突きを兜の額で受けると衝撃でそのまま上体を反らしながら後ずさった。

 

「喰らえ!」

 

 彼の持つ剣が光を帯びた。

 突進からの斬り下ろしを行う大剣のソードスキル《アバランシュ》だ。ぼくの攻撃を防いだ衝撃を利用してソードスキルに入る型を作ったんだ。

 ぼくも同じく兜に弾かれた衝撃で体勢を崩している。この距離では《アバランシュ》のスピードは避けられない。今から剣だけとりあえず構えて受け止められるほど、あの技はチャチな威力ではない。

 最前線まで来れる強さは伊達じゃない。不利をも強引に勝利のための糧とするその胆力。自分が有利な状況での暗殺や戦闘ばかりを行ってきたであろうレッドやオレンジのアウトサイダーとは違う強さだ。

 ぼくは剣から手を放し、右手のひらを突き出してから左足を一歩引いた。

 

「はああ!」

 

 息を吐き出して目を見開く。確かに《アバランシュ》のスピードも威力も危険だ。だけれど、彼のそのスキルは一度見ている。動きも、タイミングも。心をとめて、見極める!

 

 吸い付くようにぼくの右手のひらが大剣を受ける。そして、全身のフレームとバネを使って全ての衝撃を地面へ送る――。

 

「く……」

 

 ――腹部に激痛が走る。集中が途切れ、斬撃のダメージの一部がぼくのヒットポイントを削るが、何とか持ちこたえた。

 エドワードの動きが完全に止まった。スキル後の硬直はそこまで長いものではないが……充分だ。

 ぼくは右の手のひらを引いて、思い切り彼の大剣に叩きつける。ソードスキル《吼》。超超近距離、即時発動、高威力のスキルだ。

 衝撃とともに大剣は光の破片に成り、砕け散って消える。

 

「はは、強っ……」

 

 エドワードは尻もちをつく。ぼくは一歩踏み出した。

 彼はその大きな体を可哀想なほど縮めて両手を突き出すように左右に振った。

 

「勘弁してくれ! 降参だ! 参った!」

 

 すると彼の頭上にカーソルが突如現れた。

 犯罪者であることを示すオレンジ色。その横に、ギルドタグのような狼のマーク。それに気付いた瞬間、エドワードの全身が光に包まれる。転移結晶を使用した際の光と同じだ。

 そしてそこには、普段は見当たらない文字が書かれている。

 

「転移先、黒鉄宮、牢獄……」

 

 きっとカーソルが見えなくなったのと同じく、アインクラッドが用意した、そういうルールなのだろう。でも、そんなゲームに付き合っている場合じゃない。

 

 ぼくはエドワードを一瞥し、地面に落としてしまっていた《ブルースフィア》を手にスノウの方を振り向いた。

 スノウとゴエモンはまだ戦っている。細剣と刀。どちらも敏捷性のある斬撃武器だ。互いにソードスキルを交えながら一進一退の攻防を続けている。

 今までの冒険で研ぎ澄ませてきた反応速度を駆使しながら隙をついて一撃を与える。ここぞという時にはソードスキルを放つ。そして、ソードスキルがもたらす硬直を読み合いながら戦う。本来のSAOが想定していた戦い。頭脳と反応速度、剣術センスが複雑に絡み合った戦い。

 ぼくがずっと見て体験してきた、麻痺剣による無茶苦茶な速度感の戦いではない。人と人による戦いだ。ぼくの身に染みついてしまっている獣の戦いとは違う。入るタイミングが掴めない。

 

「随分キレちゃってんねえ、お嬢さん!」

 

 ゴエモンが振り下ろした刀を、スノウは細剣で受け止める。彼女はいなすようにゴエモンの剣先をずらして鋭い突きを放つ。

 

「うおっ――」

 

 ゴエモンが身体を無理に仰け反らせるようにスノウの突きを避ける。しかし、その隙をスノウは見逃さない。突き出した細剣を引き戻しながら身体を前に出し、『型』を作る。そして、必殺の突きを放つ。

 知っているソードスキルだ。この階層の迷宮区でランスタイプのアームゴレムが扱っていた《エクスリニアー》。

 傍から見ていたぼくでも分かる絶対の間合い。だが、傍にいたからこそ、ぼくにはゴエモンが不敵に顔を歪ませていたのが見えてしまった。

 

「――なーんてね。甘えなァ」

 

 ゴエモンが無理な体勢から刀をとんでもない速さで振り抜いた。その一閃はスノウの《エクスリニアー》を器用に弾きながら、スノウの身体にも届く。カタナのソードスキル《絶空》。左腰に構えた刀を高速で振り抜くスキルだ。

 さっき見せた隙はブラフだったんだ。彼は無理な体勢で避けたと見せかけて、刀の構えをスノウの死角になるよう自身の身体で隠し、彼女に気付かれないように《絶空》の型を完成させていた。

 

「くっ」

 

 ダメージを負ったスノウが顔を歪める。弾かれてしまった《エクスリニアー》がもたらす硬直でスノウは動きをとめている。しかし、ゴエモンも同じく。お互いにこの硬直中に次の攻め手を考えているのだろうか。

 でも、そこに遠慮をする必要は無い。お互いに止まっているということは、ぼくの様な第三者が横入りするチャンスでもある。

 ぼくはスノウの後ろから地面を蹴って飛び出し、刀を振り抜いて無防備になっているゴエモンを蹴り飛ばした。

 

「いってえ!」

 

 地面に転がったゴエモンはバネのように跳ねて立ち上がると、刀をぷらぷらと振り回しながら悪態をついた。

 

「ち……エドはどうした」

 

「……負けを、認めたよ。牢獄に、転送、されてるんじゃないのか……」

 

 ぼくは剣を構えてゴエモンに歩み寄る。腹痛が強さを増す。ぼくの心はスノウの戦いに割って入ったことも、共闘であると勝手に認識してしまっているようだ。痛みに耐えきれず、途中で足を止めて蹲りかける。

 腹に手を当てて無理やり力を入れて、立ち上がり、再度倒すべき敵に向けて一歩を踏み出す。

 

「セン……! 何が……!」

 

 背後からスノウが心配そうに聞いてきた。

 答えずにいると、ゴエモンが代わりに話し始めた。

 

「痛むんだろう? ……誰かと一緒に、戦うと」

 

「何で、知ってんだ……!」

 

「トーマに聞いたんだよ。『それ』はアイツが原因だろう。『狼狩り』さん……よぉ!」

 

 ゴエモンが斬りかかってくる。ぼくは更に強くなってくる痛みに耐えながら剣で受け、弾き、斬り返す。

 トーマの関係者なのか? 痛みで何も考えられなくなっていく。目の前の攻撃がどっちから来るのかだけが重要で、反射的に身体を動かしてそれに対処する。

 

「粘るじゃないの」

 

「負け、るか……!」

 

 右上の方から振り下ろされる刀を剣で弾く。腹が痛む。空いた左手で背中のナイフを抜いて投げる。腹が痛む。弾いた刀が今度は刺突で攻めてくるので身をかがめてかわす。腹が痛む。

 反応、否、反射。考えることが出来なくなってきてしまったぼくの戦いは獣の戦いだ。ソードスキルは使えない。読み合いを仕掛ける余裕は無い。増していくばかりの痛みに視界が白黒してきて、とうとうこの仮想世界には用途の無いはずの『吐き気』すら覚え始める。

 気がつけば、叫びながら戦っていた。自覚はあるが、客観的に見たら余程ひどい姿なのだろう。スノウがぼくの名前を必死に呼んでいるのが遠くから聞こえてくる。

 ぼくは朦朧とした意識でゴエモンへ剣を振りかざす。彼はやはり、薄ら笑んだままそれを避ける。

 

「まともなデュエルの経験が足りてねぇみたいだな。読みが浅い」

 

 ぼくは避けられた剣から手を放しながら、体重を乗っけた後ろ回し蹴りで連続攻撃を仕掛ける。

 

「ボロボロ剣を落とすやつは剣士には勝てねえよ。剣の世界で武器に誇りを持てねぇやつは――」

 

 ぼくの蹴りを左腕で受け止めたゴエモンが、刀の突先をぼくの心臓に向けて、右手で構える。彼の刀が光を帯び始めた。ソードスキルだ。

 

「――だっせぇからな」

 

「ぐ……!」

 

 この姿勢ではソードスキルを受け止めきれない! こちらもスキルで応戦するしか無い!

 

「……うあああああ!」

 

 ぼくは受け止められた左足を垂直に振り上げる。踵に光がまとわりつき、《体術》の上位スキルである高速のかかと落とし、《虎襲脚》が発動する。

 常人には再現不可能な速さと威力で、ゴエモンのソードスキルと《虎襲脚》がぶつかり、派手な硬い音を立てて打ち消しあった。

 

「へえ、根性あるねえ。でも」

 

 ゴエモンの放ってきた突き技のソードスキルは相殺したが、咄嗟に放った上位スキルの硬直時間など激痛の中で管理できるわけもなく、ぼくはかかと落としをした後の地面を踏みしめた無様な姿で身体の動きを止めてしまった。

 それは、同じくソードスキルを放ったゴエモンも同じなのだが、彼の表情には余裕がある。恐らく、彼が放ったのは硬直の少ないような下位のスキルだったのであろう。

 

「ざんねーん。一歩足りなかったな」

 

 いつもそうだ。戦いの練習を怠ったつもりは無かった。ソロでやっていくために、レベルだってずっとノルマを決めて上げてきたはずだ。今だって、全力を振り絞って戦っている。それなのに、結局のところで最後の一手が届かない。

 浮遊城を生きて抜け出すこと以外に持っていた唯一の目的、『スノウを守る』ことさえも満足にこなすことができない。

 

「セン!」

 

 遠くなるぼくの意識に、彼女の声が響く。白黒の視界に割り込むように、過去の記憶がフラッシュバックする。

 

 ――セン。ねえ、セン。あなたが守ってくれていたように。

 

 脳裏に浮かぶのは、夜のイメージ。野営をしていた時のイメージ。まだぼくらは二人ともどうしようもなく弱くて、身を寄せ合わないと生きていけなかった頃。

 イメージの中で、スノウがゆっくりと口を動かす。

 

 ――私も、あなたを守るから。

 

 ぼくは白昼夢の様なその光景を目の奥に残しながら、無意識の内に叫んでいた。

 

「スノウ――」

 

 助けてくれ、守ってくれ。たった一手。その最後の一手が足りないんだ。

 

「――スイッチ!」

 

 目の前で不敵な顔をしていたゴエモンが、初めて焦ったような表情になったのが見えた。その一瞬後、全身に光を帯びた、白と赤の鎧姿の華奢な背中がぼくの目の前に現れる。

 

「スイッチ、了解……!」

 

 細剣の最上位剣技《フラッシング・ペネトレイター》。全身に光を纏い、助走とともに必殺の突進で相手を貫く。彼女の光の突進はゴエモンの身体の中心を貫いて、弾き飛ばした。

 

「あ、れ?」

 

 呼吸が楽になる。白黒していた視界に色が戻る。腹の痛みが嘘のように無くなっていく。

 

「……そう、か」

 

 不意に、分かってしまった。この幻痛はきっと、ぼく自身の叫ぶ声だったんだ。

 虐げられた悲しみ。裏切られた恐怖。ぼくの過去がもたらした、独りで居たいと願う心。

 でもその一方で、誰かと助け合いたくて、守り合いたくて。本当は、仲間が欲しいと願う心。

 

 その歪な不一致が、ぼくの心の叫びが、『確かにここに在る』と、『忘れないでくれ』と、訴えるように、ぼくにずっと痛みを与えていたんだ。

 

 輝く軌跡を残す彼女の背中が、それをぼくに教えてくれた様だった。

 

 

 ゴエモンはエドワードがそうだったように転移の光に包まれて消えていった。

 ぼくとスノウは少しだけ休んでから、また洞窟の攻略を再開していき、時間はかかったものの、無事に抜け出すことが出来た。

 途中、リャオに追いつくかとも思って身構えていたが、彼は先に脱出出来たようで影も形も見ることは無かった。

 

 洞窟を抜けるまでの道中、歩きながら、休みながら、スノウと話をした。

 

「君から助けを求められるなんて、思わなかった……本当に」

 

 本当に、と念を押されなくても彼女が本心で言ったのだろうことは分かっていた。でも、それは迷惑そうに見えたということではない。表情に乏しい彼女らしくないけど、微笑みを浮かべていて……嬉しそうだった。

 

「……思い出したんだよ」

 

 ぼくは第一層で野営した時のことを改めて振り返る。

 先程のゴエモンとの戦いの中、痛みの白昼夢の中で思い出した言葉。野営をしていたあの時ぼくは、疲労と睡魔で舟を漕ぎながら、それでも両の耳だけは彼女の声をしっかり聞いていたんだ。

 

「君が、ぼくを守るって、言ってくれたこと」

 

「……そう。……そっか」

 

 今年の始め、雨の降り始めたリズベット武具店の前で、どうしてスノウがあそこまで怒ったのか、辛そうに謝ってきたのかがやっとわかった。

 ぼくもスノウに同じようにされてしまったら、信頼してくれないことへ怒るだろう。そしてそれよりも遥かにずっと大きく、自分が情けなくって凹んでしまうだろう。自信を無くし、二度と彼女の前に姿を表わすこともないかもしれない。

 

 だから、ぼくは説明するべきだ。

 

「ぼくは……君に心配を掛けたくなくって、君と別れたんだ」

 

 ぽつりと、ぼくは懺悔をする様に話し始める。三十九層の丘陵地帯で話せなかったことを。

 

 《練気術》というスキルを手に入れた。《The White Wolf Lord》という隠しモンスターを倒して《狼の掌》というレアアイテムを手に入れたこと。でも、トーマという男の裏切りで呪いのような死の恐怖を植え付けられてしまい、それから誰かとパーティを組めなくなってしまったこと。

 パーティを組めなくなってからはレイドも組めないから、前線に出ることもできなくなったこと。スノウに迷惑をかけたくなくて、居場所がバレないようにフレンド登録も全て解除したこと。《鼠のアルゴ》から細々とした依頼を貰って、命を繋いでいたこと。《練気術》のせいで《匣の教団》というオレンジギルドに狙われ続ける様になってしまったこと。

 《鼠のアルゴ》の所在もわからなくなってしまってからは、他の情報屋に接触しても、すぐにぼくの情報が《匣の教団》に売られて、新たな刺客が送り込まれてきたこと。いよいよスノウに関わるわけにはいかなくなってしまったこと。

 オレンジプレイヤーが集まる《オレンジマーケット》で《匣の教団》のヴァンと話をしたこと。今は狙われなくなったけど、その内また《練気術》を求める教団に付け狙われるだろうこと。

 

 スノウは話し下手なぼくが全て語り終えるまで、じっと聞いてくれた。そしてそれから「無事で居てくれて、ありがとう」と「何も出来なくて、ごめんなさい」と言う。

 

 スノウの今までの話も聞いた。

 

 ぼくが居なくなってから、一時期ずっと色々なところを探し回っていたこと。生きてこの浮遊城を出るという同じ目的を追えばまた会えると信じて、血盟騎士団でずっと攻略を続けていたこと。ぼくがギルドに入らないのは、ぼくが昔いじめられていたから、というのを気にして、ダテジュンというぼくの友達候補を探し出していたこと。

 それから、あの雨の日のリズベット武具店の前で、ぼくに信頼されていないことが分かって、絶望したこと。それでも諦めきれず、時折迷宮区でマッピングばかりしているぼくをずっと目で追ってしまっていたこと。

 

 彼女の話を聞いてぼくも、彼女と全く同じ言葉を返した。

 

 洞窟を抜け出すと、六十八層の迷宮区から遠く離れた山地だった。最初の転移罠による移動場所次第だが、歩いた時間の長さを思うとアインクラッド最長のダンジョンだったのかもしれない。

 時刻は夕暮れで、六十八層の偽物の天から偽物の陽光が降り注ぐ時間。山地の多い六十八層に流れる川にオレンジ色の光が差して、煌めく水面が幻想的に揺れていた。

 

 結局尊い命はいくつも失われて今回の冒険は終わってしまった。足掻いて、足掻いて、無事に生き残れたのはぼくとスノウ。そしてリャオ。たった三分の一だ。

 

 決していい結果だとは言えないけれど、スノウは旅の終わりに用意されていたその光景に微笑む。

 

「きれいな景色だね」

 

 スノウは洞窟のほとりを流れる大きな川の、その川べりをゆっくりと歩き始める。

 

「スノウは、アインクラッドの景色が好きだよね」

 

「うん。大好き。きれいなものを見れそうなのも、最初にこのゲームを買おうと思った理由なんだ」

 

 肩を揺らして歩く彼女を追うようにしてぼくも歩み始める。

 彼女の歩く更に前方に、川を渡るための白い石橋が架かっているのが見えた。スノウもそれに気がついたらしく、ぼくを振り返って「渡ろ?」と言うと、再びぼくより少しだけ前を歩む。

 恐らくもう、結晶使用が出来ないエリアからは抜け出している。転移結晶を使ってしまえばすぐに帰れるのにそう提案しなかったのは、少しだけ気になることが出来たからだ。

 

「スノウは、景色以外では、何でこのゲームを始めたの?」

 

 SAOは世の中に一万本しか流通していないレアなゲームだ。それこそ転売目的の人ですら買うのに一苦労だろう。景色だけだったら他のVRのゲームも出ていたはずだ。それなのにスノウはこのSAOを選んだ。その理由を聞いてみたかったのだ。

 

「本当は、ね」

 

 スノウは石橋の入り口で少しだけ歩みを遅くする。

 

「『何か』を見つけたくてこのゲームを始めたんだ」

 

「『何か』って?」

 

「分からない……。熱中できるような何かのような気もするし、ここではないどこかへ行きたかっただけなのかもしれないし……。私には、君のように背負っていく過去があったわけでもなくて」

 

 彼女は橋の上で遠くの景色を見つめながら進む。きれいな輪郭の横顔に見惚れながら、ぼくは次の言葉を待つ。

 

「普通に友達も居て、普通に生活も出来て、普通に生きてきた。だから、私を意味づける『何か』が欲しかったのかな」

 

 そんな普通が羨ましいと思ってしまうのは、ぼくが普通じゃないから。だとすれば、もしかしたら同じようにスノウも、ぼくのことを羨ましいと思うのかもしれない。……ないものねだりだ。

 

「……スノウは、今でも『何か』を探してるの?」

 

 彼女は橋の真ん中で足を止めて、ぼくを振り返って言う。

 

「……『何か』は、見つかったかもしれない……かな」

 

 夕景に映える少女の微笑み。スノウ、その名前の様に透き通った白い肌。彼女の笑みを見たぼくは、どうしようもなく、心を押しつぶされそうな気持ちで、それでも精一杯の笑みを返した。

 きっと生涯、この光景を忘れることは無いであろう。

 夕景の少女の微笑みは、ぼくの心に焼き付いて、離れなくなってしまった。

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