ソードアート・オンライン ―ファダーズ・ストーリー― 作:網緑 錆
七十五層、主街区コリニアは古代ローマ風の街だ。世界史の授業で見たような石造りの建物が立ち並び、通りの至る所に立派な噴水や彫刻が存在している。しかし、よくよく見るとギリシア風の屋根瓦なんかもあり、あまり詳しくないぼくでもSAOの世界はあくまでファンタジーなのだろうな、と思ってしまう。
気持ちのいい十月の晴れ間に、ぼくはコリニアの街角にあるオープンテラスのカフェでぼうっとしていた。目線の先にあるのはコロシアム。すでに人だかりが出来ている。
賑わっているのは、この街が二日前に開放された街で、皆が観光に来ているから……だけではなく、今日はコロシアムで催し物があるからだ。どんなに現実味を帯びていても結局のところは『仮想』なのに、嘘でも娯楽を求めてしまうのは人間の本能なんだろう。……それとも、『嘘だから』なのか。
「……凄い騒ぎ……」
ぼくは先程コロシアムの前で配られていたチラシを手にとって、文字を舐めていく。チラシには、今日の催し物というのはとある有名プレイヤー同士のデュエルだと書かれている。
一人は《血盟騎士団》の団長。《神聖剣》のヒースクリフ。ユニークスキル《神聖剣》による盾と剣の連携とすさまじい防御力でどこぞのフロアボス相手にノーダメージで勝利した、という眉唾な伝説が語られてしまっているアインクラッド最強の呼び声も高いプレイヤー。
直接戦っているのを見たことは無いし、もちろん話したこともないのでぼくには強さがわからないのだが、《血盟騎士団》に所属しているスノウによれば、無敵、らしい。
もう一人は、一時期《ブラッキー》の異名で通っていたソロプレイヤー、キリト。彼も《二刀流》というユニークスキルを隠し持っていたらしく、七十四層のボス相手に比類なき力を見せつけたという。そんなわけで今や彼は《ビーター》でも《ブラッキー》でもなく《二刀流》のキリトというあだ名までついている。
……ヒースクリフとは違い、キリトという少年とは何度か会ったことがある。ただ、下層で攻略していた時も、タフトで心あらずに歩いていた時も、アルゲードで見かけた時も、結局ちゃんと話すことは無かったし、戦っている様子をしっかり見る機会はなかった。
でも、二日前、この七十五層が開放される少し前に彼の戦いを初めて見た。
日課のマッピングをしに行こうと七十四層の主街区、カームテッドの転送広場にぼくが通りがかった時、《閃光》のアスナを連れた彼が《血盟騎士団》と思しき装備を身に着けた長髪の大剣使いの男と何やら揉めていて、収まりがつかなくなったのかデュエルに発展。その勝負はたった一合で終わってしまった。
「あの少年、あんなに強かったんだな……」
長髪の男は大剣でソードスキルを放っていた。それにあわせてキリトもソードスキルを放つ……そこまでは普通のことだ。だけど、特殊なスキルを放った訳でもない彼の片手剣は、長髪の男の大剣をいとも容易く砕いてしまった。
ぼくが《狼の掌》で武器を壊すのとは違う。彼はソードスキルで速度の強化された大剣の『腹』に、的確に自らのソードスキルを当てる離れ業を行うことで武器破壊をやって退けたのだ。
あんな反応が出来る人間がいるのかと驚いた。一時期『麻痺剣』を相手に無茶苦茶な速さの戦いをしていたこともあって、ぼくも反応速度には少しだけ自信があるのだけれど、彼はその比じゃない。ぼくがケモノなら、彼はバケモノだ。
そんなキリトが《二刀流》なんていう彼の反応速度を十二分に活かせそうな名前のユニークスキルを手に入れたんだ。どう考えたって彼が現時点最強のプレイヤーだと思ってしまう。
という訳でうっかりすっかりキリトの肩を持ってしまったこの話を、昨日スノウと冒険している時に言ったところ「じゃあ、一緒に観にいこうか」と誘われて、今に至る。
ぼくはチラシから目を離し、再度コロシアムの入り口の喧騒を眺める。
所詮はゲームの中での強弱だ。そんな仮想に耽って一喜一憂するなんて……と思ったところで、そのコロシアムからスノウがこちらに駆けてきているのが見えた。
少しだけ、心臓が早鐘を打ってきた感覚が襲ってきた。ぼくも充分、この仮想に感情を揺さぶられているなあ。
ぼくは自分自身に呆れながらも、チラシをテーブルの上に置いてから席を立ち、スノウを迎えた。
「やあ、スノウ」
「セン、ごめんなさい。待った、かな?」
「ううん。全然……というか」
スノウはいつもとは違う装備でやってきた。
あの『人狼窟』の一件から、ぼくはスノウと度々パーティを組んで冒険をする様になった。勿論その時はモンスターとの戦闘を行うので彼女はいつもの白と赤の軽鎧姿なのだが、今日は違う。
腰に細剣こそ差してはいるものの、白いワンピースに緑色のカーディガンを羽織った姿で現れたのだ。
スノウはぼくの視線に気づき、少し照れたように笑う。
「アスナが『貸すから着ていきなよ』って。……どうかな」
「ああ……うん。似合ってる、かなと」
確かに服装と武器の組み合わせはミスマッチ感があるが、元々見た目の優れているスノウだ。似合わない訳がない。
それよりも自分が、いつもルームウェアとして使用している白いスウェット生地のパーカーと、紺色のゆるいズボンで来てしまったことが悔やまれる。おまけに手には《狼の掌》を装備しているせいで、何だか痛い奴みたいだ。
一人焦っていると、スノウは意地悪な笑みを浮かべた。
「……もっと『かわいい』って褒めてくれても、良いんだよ?」
「あっ、ごめん……えっと」
改めて彼女の顔を見て、つい目を合わせることが出来ずに少しだけそっぽを向きながら「可愛いと思う」と、もごもご口を動かす。
「ふふ……ありがとう」
「いや……」
絶対に視線は戻さない。彼女がほくそ笑んでいるのが想像できてしまうからだ。
……一緒にパーティを組むようになってからスノウは性格が変わった。わざとこういうことを言ってぼくのことをからかって来るようになった。お陰でスノウと会う前には変に緊張してしまう様になってしまっている。
元々ぼくは高校時代のこともあって、あまり人と関わらない人間だった。大学に行っても友人はそこまで多いわけではないし、女の子とコンパに行く機会もなかった。女の子にからかわれた時にどうして良いかわからなくなるのは当たり前のことなんだ。
自分に言い聞かせつつ、早く話題を変えようとこっちから話し始める。
「じ、じゃあ早速行こうか。人も多いみたいだし」
「そうだね、行こっか」
すんなりと頷くスノウ。この場所でこれ以上からかうのはやめていただけるみたいだ。
少しほっとした気持ちになってから目的地であるコロシアムの方を見る。賑わっている人混みの中から、一人の少女がこちらに気付いて向かってくるのが見えた。
「あー! いたー!」
「エーコ!」
反射的に名前を呼ぶ。ぼくに向かって手を振りながら走ってくる緑の髪の少女。槍を背中にレア度の高そうな装備を揺らしながら近づいてくる。その装備がどこぞのオッサンを誑かして手に入れたものでないことを祈るばかりだ。
「さっきそこで見かけた時なんかヒマそー、にして、た、から……」
エーコは視線をぼくの隣のスノウに向けて、少しずつ言葉を消沈させていく。そう言えばスノウとエーコが会うのは初めてだ。
「……誰さ」
スノウを軽く睨みながら不満気にエーコは尋ねる。スノウは軽く頭を下げてから「私はスノウ。センの仲間」と名乗る。かすかだが、彼女の声にも不穏な色が感じ取れた。
エーコが不機嫌になるのは何となく分かる。遊び仲間を見つけて気楽に過ごそうと思っていたところに知らない人がいたら誰だって多少は気まずい思いをする。彼女は良く言えば素直で、悪く言えば少し自己中だから、そんな気まずい感覚を態度に出してしまいやすいのだろう。
ただ、大人なスノウがそうなる理由は思いつかない。
考えていると、エーコが「ふーん。あたしはエーコ。センとは……」と自己紹介を返そうとしたところをスノウが遮った。
「知ってる。オレンジマーケットでセンと一緒にいたよね?」
「へ? ああ、うん。そだけど……。なんで知ってんの? あれ?」
「私も《匣の教団》のこととか、《練気術》のこととか、あなたの知っていることは全部、知ってるから」
……何となく読めてきた。スノウはオレンジマーケットにいるぼくを見た、とリズベット武具店の前でのあの時に言っていた。ということは、ぼくがエーコと行動していたことも知っているのだろう。
ぼくが以前、スノウに隠した秘密をエーコは知っていて、その上、オレンジマーケットという危険な場所にも同行している。意地っ張りな人間であれば、自分より信頼されている人間がいるというのは、嬉しいことではない。
……けど、スノウがそんな些細な事を気にするほど負けず嫌いだというのは、初めて知ったな。
「……ふーん。まあいいや」
エーコはどうでもよさそうにスノウとの話を切り上げると、ぼくの腕を掴んできた。
「それよりさー! 今日コロシアムで面白い試合あるんだって! 観に行こうよ!」
「……センは私と約束してるけど」
横からスノウが口を出す。エーコは「ぶーぶー」と言ってから少し考える素振りを見せて、とんでもないことを言い出した。
「……あたしとのことは遊びだったってわけ?」
一時期はオッサン相手にレアな装備を貢がせていた無駄な彼女の無駄な演技力がここぞとばかりに無駄に発揮される。このままじゃまるでぼくがエーコとスノウに二股かけているようで、とても外聞きが悪い。
「いや、何回か遊んだけど、それは普通に遊んでただけだろ。オセロとかで」
事実を元に冷静に答える。ぼくが《匣の教団》に付け狙われなくなってから迷宮区で出入りするようになった頃、知り合いや友人の居なかったぼくはエーコとたまに遊んでいた。とはいえやましい事はしていないし、パーティを組んで戦うことも出来なかったので、本当にオセロをやったりして遊んでいただけだ。
「でもでも、一緒にホテル泊まったじゃん」
「一緒『の』、『宿屋』な。部屋は別だ」
オレンジマーケットに潜入する前の日のことか。ホテルという言葉は少し人聞きが悪い。速攻訂正だ。
「不満だった? センが望むなら、もっとぶったりとかして良いんだよ? あの時みたいに……」
「あれは、オレンジマーケットに潜入するために仕方なく……だろ」
誤解を招くような言葉選びばかりの彼女の話を、誤解を追い払うような言葉で上書きしていく。
さっきから黙っているスノウが気になって、ぼくはちらりと横目で彼女の方を見た。スノウは特に表情を変えてはいない。相変わらずの微笑み顔だ。
だが、安心しそうになったぼくの腕は彼女によって急に掴まれた。
「それじゃあ、セン。そろそろ時間だし、行こうか」
「え、あ」
微笑んでいるのに、彼女の言葉が何故か重い。
「どうしたのかな?」
「え、いや」
普段とは明らかに違うスノウの様子に戸惑っていると、エーコが掴んだままのぼくの手に全身で飛びついてきた。……柔らかい。
「あたしと観に行こうよー! 別に彼女とかじゃないんでしょー! あたしはセンのこと好きだもん! スノウはセンのこと好きなの?」
「私は、――じゃなくて。センは先約を守らないようないい加減な人じゃないってだけ。ね?」
そしてぼくの方を二人が見る。ぼくも二人を交互に見る。ぼくは迷った挙句、この二人の意地の張り合いに決着をつける役割を演じたくなくて、ゆっくり空を見上げた。
「……じゃあ、あの……三人で観に行こうか……」
何となく方々に怒られてしまいそうだけれど、ぼくには優柔不断で歯切れの悪い答えしか出せなかった。
○
ぼくとスノウと途中で乱入してきたエーコの三人は、コロシアムの観客席に並んで座る。右側にスノウ、左側にエーコ。両手に花とはこのことだが、二人の圧力に潰されそうで、どちらかと言うと万力に挟まれているかのような居心地の悪さだった。
「らしくないな……ほんとうにらしくない……」
ぼくは隣の二人に聞こえないように口の中だけでつぶやいた。
ぼくらしくない。こんな風に誰かと一緒に催し物を楽しむ時が来るとは思いもしなかった。
周囲の話し声や雑踏の音、この世界の通貨であるコルを賭けて儲けようと企む人間たちの観客を煽る声。自分たちが命を浮遊城にとらわれていることを忘れているかのような熱狂具合に呑まれて辟易しながらも、せめて真面目に、とぼくはしゃんと座って《神聖剣》と《二刀流》の登場を待つ。
ぼくだって元々は一人の純粋なゲーマーだ。『最強』と『最強』の戦いに全く気持ちが昂ぶらないわけではない。浮かれている周りの人々を冷めた目で見ながらも、寧ろ、心の何処かで楽しみにしていた節もある。
コロシアムの入り口でこの戦いの元締めである《血盟騎士団》の団員から購入した、相場より高い飲み物を口に持っていき、これから起こる戦いに想いを馳せていると、横からエーコが肘で小突いてきた。
「ねーねー。センはどっちが勝つと思う?」
「うーん。個人的にはキリトかな……。この前七十四層で偶然彼のデュエルを見たんだけど、滅茶苦茶な反応速度をしてたんだよね」
「へー。でもでも! 団長さんも滅茶苦茶! 強いんだよね? スノウ!」
そう言ってエーコはぼく越しにスノウに話しかける。圧力を放っていたと思ったら急にスノウに対してフレンドリーに話しかける彼女に驚く。スノウも同じ気持ちだったらしく、一瞬面食らったような表情を見せてから、一度咳払いをして自分を落ち着けてから応えた。
「そうね。《神聖剣》は、やっぱり破格の力だと思うわ。どんな難所でも団長がヒットポイントゲージを黄色まで割ったところ、見たこと無いもの」
そして、ぼくへの気遣いからか「《二刀流》の強さを疑うわけじゃないんだけどね」とも言う。
「そうだね……」
実際強いのだろう。知名度のないぼくの《練気術》ですら力を狙って今まで多くのオレンジプレイヤーが挑んできた。何とか今のところ退けられているけど、ぼく一人でこの力を守ってこれたかというと正直怪しい。基本的には運や、誰かのおかげだ。
それがここまで知名度のある《神聖剣》だったら、狙われる機会もぼくの比ではないだろう。狙ってくる人間の母数が大きければ、それだけプレイヤースキルの高い一流のアウトローに狙われる回数も多いはずだ。それを乗り越えてなお最強の名をほしいままにし、守りきっているというのだからその強さに疑いの余地はない。
「何にせよ、これからの戦いで決着が付くんだ。……そろそろ始まるみたいだね」
コロシアムのステージ中央に《血盟騎士団》の構成員が現れて、会場を煽るような口上を述べていく。彼の司会に誘われるがままにコロシアムに二人の戦士が現れた。
白いマントがはためく赤い鎧を身にまとい、赤十字の描かれた大きな銀色の盾を手に現れた《血盟騎士団》団長、ヒースクリフ。
黒いロングコートをはためかせ、黒と水色の二本の剣を背中に交差するように背負った剣士、《二刀流》のキリト。
ルールは初撃決着モードだったはず。相手より先に有効な一撃を与えたほうが勝ちというルールだ。
「デュエル、始まるね!」
エーコが興奮気味に言う。
ヒースクリフがシステムウインドウを操作する。追って、キリトも手元で操作した。恐らくヒースクリフからデュエル申請を行い、キリトが受諾を行ったのだろう。
六十秒のカウントが行われると、会場はさっきまでの盛り上がりが嘘の様に静まり返った。強者同士が向き合う時の緊張感。これはゲームでも現実の世界でも、変わりはない。
観衆が息を飲む音が聞こえるような空気の中、キリトは背中の剣を抜き、ヒースクリフは盾にしまってある剣を抜いた。
そして、戦いが始まる。
開戦直後に飛び出したのはキリト。両手の剣を次々と繰り出して、息もつかせぬ猛攻を仕掛ける。
しかし、対するヒースクリフはそれをも気に留めぬ様に冷静に盾で防いでいく。盾に攻撃を弾かれて一旦距離を取るキリトに、ヒースクリフが攻撃を仕掛ける。剣を振りかぶり、斬りかかると見せかけて、左手の盾を突き出してキリトの腹部へと見舞う。フェイントだ。
キリトは吹っ飛ぶが、システム的に初撃とはみなされなかったのか、デュエルは続いている。更に追いかけるように攻撃に移るヒースクリフ。負けじとそれに応戦するキリト。会場のボルテージも凄まじい勢いで上がっていく。
「半端じゃねえな、一流は」
ぼくは素直な感嘆をこぼした。
ふたりとも、人間の動きじゃない。勿論単純な速度は『麻痺剣』の方が速いと思うが、あれは軽いから腕の力で振っている人ばかりだ。彼らは重みのある武器を、全身の力を使って振るっている。そこまでのプレイヤースキルにたどり着くのに、どれだけの鍛錬を積んだのだろう。どれだけの才能が必要なのだろう。
「あ……」
右隣のスノウが吐息を漏らした。
勝負の風向きが変わってきた。キリトが凄まじい連撃を放ち、ヒースクリフの体勢が崩れたのだ。
キリトはいつの間に『型』を作っていたのか、その両手の剣を光らせた。この戦いの最中初めて見る……《二刀流》のソードスキルだ。
スキルの《自動操縦》によって、彼の両手は青白い光とともに目にも留まらぬ連撃を繰り広げ始める。ヒースクリフも一つ一つを盾で捌いていくものの、崩れた体勢からでは厳しいのか、徐々に盾が追いつかなくなってきている。
キリトの攻撃はなおも続く。一体何連撃なのか……間違いなく、上位のスキルだ。デュエル中にこんな硬直の多そうなスキルを使用するということは、押し切れると彼が判断したのだろう。
予想通り、何度目かの連撃で完全に盾を弾かれたヒースクリフの脳天目掛けて青い刃が迫る。これはもう、避けきれまい。
「……ん?」
違和感のある動き。《練気術》の動きを研究し、曲がりなりにも力の動きというものを理解してきたからこそ分かったのだけど、ヒースクリフの盾がまるでソードスキルの《自動操縦》の様な不自然な流れと速度でキリトのソードスキルによる剣を弾いた。
あれは《神聖剣》による何かのソードスキルか? でも、スキル発動時の光は出ていない。
そうこうしている内にヒースクリフが先程のキリトの上位ソードスキルの硬直の間に一撃を与えて、勝負はヒースクリフの勝ちで決まってしまった。隣で飛び上がるエーコ。
ぼくは歓声の中、煮え切らない気持ちで勝者のヒースクリフを見る。そんなぼくの様子を不思議に思ったのか、右隣のスノウがぼくの耳元に口を寄せて話しかけてきた。
「どうしたの?」
「ん、いや……」
ヒースクリフの動きは絶対におかしかった。だけど、それをスノウに言ってしまうと何だか勝利予想が外れた負け惜しみのようになってしまうので、適当に「何でもない」と返して誤魔化す。
仮におかしかったとして、それがぼくにとってマイナスになるわけではない。
もしもヒースクリフがチートやそれに準ずる何らかの手段をとったとして、それは寧ろぼくらプレイヤーにとってはプラスだ。どんな方法だろうが、最強のプレイヤーが攻略組に居て、最前線を切り開いてくれる。こんなに心強いことはないだろう。
そう。だから悪くはない……。
賞賛を浴びるヒースクリフを見ながらそう思っていると、不意に後ろから肩を叩かれた。
一瞬ビックリしてから振り向く。すると、意外な人物がぼくの後ろの席に座っていた。
「久しぶりだ。セン。ああ、駄目だ。騒いだら」
少し変わったイントネーションでそう言った赤髪の彼は、その口に人差し指を当てて『静かに』というジェスチャーを送ってくる。
「リャオ……!」
ぼくに声をかけてきたのは二ヶ月前にぼくらが迷い込んだ《人狼窟》の生き残りのソロプレイヤー、リャオだった。
異変に気がついた両隣のスノウとエーコもリャオの方を見る。エーコは不思議そうな表情をするのみだったが、スノウは違う。《人狼窟》のことを綺麗サッパリ忘れるには経った時間がまだまだ短すぎる。
ぼくは言葉をうまく紡げず口をパクパクさせた。《人狼窟》で見失って以来、彼と会ったことは無かった。《はじまりの街》の《黒鉄宮》にある《生命の碑》に名前が残っていたから何処かで生きている事自体は知っていたが、まさかこんなところでこの目で無事を確認出来るとは思いもしなかった。
「悪い。楽しんでいるところ。だが、依頼でな。頼まれている。伝言を」
そう言うとリャオは懐から一枚の紙を取り出した。二つ折りにされたそれをぼくに渡して、リャオは立ち上がる。
「依頼主は……《匣の教団》。じゃあ、確かに渡したからな」
そして彼は転移結晶を取り出す。
「《匣の教団》? ちょ、待ってくれ……!」
「悪い。待てない。――転移、五十層、アルゲード」
リャオは去ってしまう。ぼくは為す術無く渡された紙を広げた。
書いてあったメッセージは実にシンプルだった。
匣に続く扉を確認した。鍵よ、来られたし。
そしてそのメッセージの下に、場所を示す地図が載っている。
この仮想世界に生きることを目的とした集団、《匣の教団》が、動き始めた。……ついにこの時が来てしまった。