姉弟の退屈しない夢語   作:天むす

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セイバー戦書いてますが全然進まないので、多分大きな修正をする事はないだろうバーサーカー戦までを公開します。
セイバー戦書き上がったら加筆予定です。
本当はもっと凛とかルヴィアとか美遊を活躍させたいんだけど、描写力や構想力が……力が……無力だ……。


姉弟の退屈しない夢語 下(未完)

 020

 

 

 

 仁王立ちするイリヤスフィールと、それを背に感じながらスポンジ生地を作るシロウ。そんな二人が居る街の隠れた喫茶店は、いつもならば僅かな花の香りで居心地の良い空間に作られているのだが、どうしてか胸焼けする程に甘ったるい香りに包まれていた。この中で長時間作業するシロウはとっくに鼻が慣れてしまっているが、今しがた二階から下りて来たイリヤスフィールからすると暴力以外の何物でもない。さらにそれが自分の為ではなく、赤の他人の為に暫く続くと言うのだから、彼女の機嫌も降下していく事だろう。

 じとーっとした姉の視線を背に感じながら、シロウは型を揺すって生地から空気を抜き、余熱されているオーブンへ黄色い生生地を押し込んだ。既に三つ焼き上げたオーブンを開く際には、甘い香りが鼻へと襲いかかり、それが四つ目ともなると、店内の家具に香りが染み付きそうだ、とよろしくない想像が過ってしまう。そんな甘ったるく出来上がったものへデコレーションを加えれば、更に歯が溶けるような出来となるだろう。

 食べる相手の為に、あえて過剰な香り付けと甘さにしているとはいえ、さすがにやり過ぎたか。シロウは空になったグラニュー糖とバニラエッセンスを眺め、為息を吐く。やり過ぎであろうが、体に悪い事はわかっていても、食事には味覚と嗅覚が必要不可欠である。その機能が修復不可能なまでにイカれてしまっている相手ならば、この過剰で過激な調合も必要な事だったのだろう。なんとか妥協して己を納得させなくては、どうにも落ち着かない腹を殴りたくなる。

 シロウの得意な料理は、食べる人の体を想って作るものだが、それは食べる人が美味しいと思える事が前提である。どんなに健康へ気を遣おうと味気ないものであっては、それは彼の作りたいものではないのだ。だから、自身のやりたい事は二の次――否、最後で良い。前提として食べる人の好む味を、次に栄養面を考えて料理を作り上げる。前提を忘れてはならないのだ。

 そう無理矢理自分を納得させながら、シロウは流し台の前へ体を移した。

 焼き上がりまで時間がある。その間に片付けを行い、盛り付けの準備に取りかかろう。甘さの大ダメージはキャラメルを中心にする事で錬成するとしようか。そう思ってシロウは蛇口へ指を乗せる。

 そこへ、イリヤスフィールは己のものを重ねた。

「シロウ、こっちを向きなさい」

「…………」

「シロウ」

「…………わかった……」

 姉の怒りゲージが現在進行形で上昇傾向にある事を察した弟は、器具を水に浸けるだけにしておき、渋々と斜め後ろへ目を向けた。己の鍛え上げられた腕とは雲泥の差である白くて細い手。それを辿ると、腕に似合った容易く摘み取れる儚い少女が居た。

 はて、何故彼女の機嫌はこうも悪いのか――などと疑問に思う事はない。昨日の脱走についてだろう。シロウは無意味に他者への贈り物を増やした事については欠片も思い至らず、諦めた顔で素直に両手首をイリヤスフィールへ包ませた。気分はドナドナされる仔牛である。ホールへと移される足元を見つつ、シロウの脳裏には涙目の牛と流れる景色が過っていた。仔牛に人権は無いのであった。人じゃないから仕方ない。

 客が居ない事を良い事に、ちょこん、と一番日当たりの良い席についた彼ら。姉の視線を弟は目を閉じて受け止めていた。

「シロウって昔からそうよね。自分が出来ない事を人に要求するとこ、ちっとも変わってない」

「…………イリヤの時とオレの時では状況が……」

Halt den Mund(黙りなさい)! 弟が姉に口答えしない!」

「理不尽を感じる……」

「理にかなっているでしょう。この世界では妹だとしても、この私はシロウのお姉ちゃんなんだから。姉より優れた弟なぞ存在しないのよ! キリツグの置き土産(コミック)で学んだわ!」

「なんて世紀末を授けているんだ切嗣……」

 ジェノサイド系とは称されていたが、まさかその一端に父親が関わっていようとは――割りと根幹部分にもグッサリな気がしたが、シロウは目を逸らした。幸せな家庭像に養父の裏の顔を覗かせるのは藪蛇と言うものだろう。夢の中にまで現実を持ち込んでは花がない。

 咳払いにて姉の大暴れっ振りを払拭したシロウは、何気ない仕草で窓を開け、換気をする。そうすると部屋の甘い香りが掻き出され、頭も幾らか冷静さを取り戻したような気がした。元の土地柄もあるが、今日の気温は然程低くない為、丁度良い風を感じられた。

 改めて、シロウは頬を膨らませるイリヤスフィールを見た。彼女の体には傷一つ見当たらず、この世界に放り出された時と変わらない姿を保っている。

 それを認めて、次に足元へ視線をやった。実は、この喫茶店を切り盛りする二人しか知らない事であるが、店の床はマイカリソスピンクファンタジーで出来ている。落ち着いた店内に主張し過ぎる事なく、しかし美しさを控えめに示すその床は、この土地を紹介した魔術師の気紛れによりわざわざ張られた特注品の天然大理石である。だが、大理石とは意外に脆いもので、固いと思い込んでいると、ふとした衝撃で容易く石の方が欠けてしまう事もある。

 その均一でない様を、シロウはイリヤスフィールに重ねた。

 聖杯戦争の為に、勝つ為に調整された最強の魔術師。それに偽りはなく、イリヤスフィールは最強のサーヴァント(バーサーカー)を従え、他の参加者を圧倒して見せた。直に受けた身であるシロウは、彼女の強さと恐ろしさを嫌と言う程に知ってる。故に確信して言える。彼女は聖杯戦争の魔術師(マスター)として完璧な存在であった、と。

 しかし、アーチャーは二日前の事が忘れられなかった。

 どれ程最強とされ、入念な準備をしようと、イリヤスフィールの体は脆い物でしかない。その器に収まり切らない力が溢れれば、容易く皮膚は裂け、鮮血を撒き散らすのだ。

 あの日――アサシンのクラスカードの回収へ赴く前、イリヤスフィールはバーサーカー・ヘラクレスの召喚を試みた。聖杯戦争中でも、ましてやヘラクレス由縁のある土地でもない召喚に、凄まじい負荷がかかるだろう事は、二人共十分に把握していた。だから、その負担を減らそうと選んだ場所と環境のセッティングには手を抜かなかった。

 部屋を魔力で満たし、クラスカードを触媒に、あの日イリヤスフィールたちはバーサーカーの召喚を試みた。

『――告げる。汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ』

 理論上であれば、召喚に不可能はなく、そして現れる英霊もヘラクレス以外にあり得ないと確信があった。イリヤスフィールもシロウも、バーサーカーを手に入れると決めて、そして手に入れてから、入念に入念を重ねて準備をしたのだ。外れれば何かしらの抑止力が働いたとしか思えない程に。

『――誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者』

 そして、

『――汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ』

 掴み取った――瞬間、イリヤスフィールの体は弾け飛んだ。

 腕が飛び、胸が裂け、足が折れ、爪が剥がれ、臓物が落ち、血を噴き出す。

 死を逃れたのは奇跡だ。

 一瞬にしてシロウの目の前で肉塊へと成りかけたイリヤスフィール。地下室の床と天井は真っ赤になり、現れたバーサーカーの一部もを染める。

 バーサーカーを現世への固定に溢れた魔力が、イリヤスフィールの体を貫いた結果であった。術者が、英霊召喚の負荷に耐えられず破裂したのだ。先にも述べたが、場所は日本であり、この世界の聖杯を使用せず、また聖杯戦争期間外による召喚。当然相当な負担が術者へ及ぶだろうと考えられていたが、ここまでのものは想定外であった。シロウもイリヤスフィールも目を見開き、視点の移り変わる世界に唖然とする。

 悲鳴もなく、イリヤスフィールは冷たい床に崩れ落ちる。寸前の所で、シロウは腕に彼女を受け止めた。びちゃり、と粘膜が剥き出しとなった肉の触れる音と、滴り落ちて部屋を染め上げる血の臭いが鼻に付いた。

投影(トレース)開始(オン)

 己とマスターの鼓動を一身に聞き、溢さぬように大切に抱き締める。

 幸いとして、シロウはこういった姿の人間に見慣れていた。予想外の事態であれど、冷静な思考は瞬時に記録から対応できるであろう物を検索し、形作っていく。本来ならば不出来となる物であろうと、イリヤスフィールがマスターである今の状態であれば、ある程度の物を創り出す事ができるのだ。

 そうして生み出されたのは、荊の冠であった。被る者も触れる者も傷付けるそれは、シロウの頭に現れ、皮膚を貫いた。

『《偽・荊の冠(ヴェン・アダム・サクラ)》』

 剣でない物を生み出したシロウの残魔力も少ない。この投影で行える力は一度のみであろうと自覚し、十分だと穏やかな顔で口を開く。

『《奇跡(パレット)》』

 血が、止まる。

 徐々にではあるが、イリヤスフィールの傷が癒され始めた。爪が生え変わり、傷は塞がれ、皮一枚の手足が繋がっていく。

 偽りに偽りを重ねた物であったが、上手く行ったらしい。ホッと安堵し、血に濡れた髪を払ってやる。傷が癒えた後で風呂へ入れてやらなければならない。髪の一糸まで手入れし、元の美しい艶を取り戻させねば、彼女の淑女としての品が落ちてしまうだろう。

『……ぅ……し、しろ……』

『大丈夫だ、イリヤ』

 流石だ、とシロウは感心する。これだけの傷なのだ、想像を絶する苦痛の中に居るであろうイリヤスフィールは意識を保っていた。これを不幸とは言わない。彼女は意識を手離すまいと足掻いたのだから。

 イリヤスフィールを抱えたまま、シロウはバーサーカーの前に立った。召喚されたまま、陣から一歩も出る事なく、身動きもしないままに居たバーサーカーは、そこで漸く面を上げる。

 鋭い眼光、空気が蒸発する程の魔力、恐怖を思い起こさせる相貌に岩のような屈強な体躯。

 何れを取っても、

『……バーサーカー……』

『…………■■■……』

 彼は、二人の知るバーサーカーであった。

 シロウの腕の中、イリヤスフィールが弱々しく伸ばした手を、バーサーカーはその大きな手で掬い上げた。優しく、壊さないように、労る気持ちの表れた様子に、イリヤスフィールの目が大きく大きく見開かれた。

『……バーサーカー?』

『■■……■■■……』

『本当に?』

 シロウはそっとバーサーカーの手へイリヤスフィールを渡した。バーサーカーは抵抗もなく、慣れたように優しく彼女を掌へ迎い入れる。

 それで――それだけで、イリヤスフィールは大粒の涙を流し、バーサーカーへと抱き着いた。

『バーサーカー……バーサーカーァ!!』

『■■■■■』

 二人の姿を見て、シロウはそうか、と納得した。

 召喚されたヘラクレスは、間違いなくイリヤスフィールの従えていたバーサーカーその者であった。

 英霊の分霊(サーヴァント)は本来一度還したならば、二度と同じものとは出会う事はない。記憶を記録として共有されようと、あくまでもそれは分霊が持ち還ったコピーでしかないからだ。それは此度応えたヘラクレスにも違いのない事だ。ならば何故、シロウは彼をバーサーカーであると断じるのか。それは明解な事であり、ヘラクレスがイリヤスフィールの求めに(・・・)応えた(・・・)から他ならない。

 イリヤスフィールは聖杯である。それも大聖杯へと至った存在だ。聖杯その物と例えても良いだろう。そんな彼女が行った召喚に呼ばれたヘラクレスには、彼女が求める『共に過ごしたバーサーカー』の記録がインプットされていると考えられる。あるいは、その記録を持って召喚されるように術式へ介入しているのかもしれない。バーサーカーのクラスカードを触媒にした関係により、召喚されたヘラクレスのクラスがバーサーカーとされている事も考えられるが、重要なのはヘラク(・・・)レスが(・・・)受け入れ(・・・・)ている(・・・)点である。

 ヘラクレスがイリヤスフィールの求めに応じて受け止めている。そうする選択肢はヘラクレスにあり、ただのヘラクレスとなるか、少女の求めるバーサーカーと成るか、自由に選べる立場に彼はあった。その中でも、彼は選んだのだ――イリヤスフィールの元へ帰る事を。ならば、彼はイリヤスフィールのバーサーカーに成り、バーサーカーそのものであるのだろう。その思い遣りこそが、このヘラクレスがイリヤスフィールのバーサーカーである証明であった。

『バーサーカー・ヘラクレス。マスターとの再会を邪魔して申し訳ないが、そろそろ彼女を休ませてやってくれ。疲労が色濃いようだ』

『…………』

『ううん……大丈夫よ、シロウ。これくらい何ともないわ……』

『無理をするな。オレには単独行動スキルがある。こちらへの供給はカットしていいから、今は自分の事を考えてくれ』

『……でも……』

 彼女の気持ちもわかる。二度と出会えないと思っていた大切な人と再会できたのだ。一応は時間制限が無いとは言え、この瞬間の感動を手放したくはないのだろう。

 しかし、急激な魔力消費に加え、体の再生へも割いたのだ。精神共に体力への疲労は限界を超えているはずだ。そんな姉を家族として、また仕えるサーヴァントとして、シロウは見過ごす事はできない。

『イリヤ』

『……ほんとうに、だい……じょ、う……ぶ……』

 くらり、とイリヤスフィールの体が後ろへ傾く。しがみ付く力もなくし、気を失ったようだ。

 倒れかけた体を支えたバーサーカーは、彼女をシロウへとそっと譲り渡す。その動きはやはり大切なものを扱うように優しいもので、シロウもいつも以上に慎重に彼女を抱え上げた。それからはバーサーカーを地下室に残し、イリヤスフィールを風呂へ入れ、そうっとベッドへ寝かせた。

 さて、このまま明日の朝まで起きないだろうと思われた彼女だが、シロウの予想に反して夕方には目を覚ました。

『おはよう、お兄ちゃん。行くわよ』

『待て待て待て待て』

 更にはそのままが夜のアサシン討伐へ行こうとした為、シロウは待ちたまえ、と制止した。その青白い顔で外出など、どんな未熟な弟でも許さないだろう。

 姉が寝るベッドの前で、姉弟喧嘩の如く行く行かないの押し問答のレスバを繰り広げた二人は、場数の勝った弟に辛うじて勝利が与えられた。それが二日前の事である。大理石から少し長い回想が起こされた。随分と話が膨らむものだ。

 つまり何を思い出したかったのかと言うと、イリヤスフィールは一見完璧なようであって、魔術師的にべらぼうに強いが、その実、人間として幼く脆いと言う事だ。

 思考が落ち着く所へ落ち着いた。一人で納得したシロウだったが、余所事を考えていたのに気付いたイリヤスフィールの頬がますますぷっくりと膨らむ。流石に説教中に床ばかり見ていてはバレて当たり前であった。

「何処を見ているのかしらねぇ? シィロォ――」

 その時、来店を知らせるベルが鳴った。今日は営業日である為おかしくはなく、二人は同時に立ち上がって入口へと体を向けた。

 そして、絶句する。

「…………うそ……」

「…………」

 来店したのは、美しい銀髪の女性であった。ルビーのような瞳に、手入れの行き届いたきめ細かな白い肌、すらりと流れる手足、まるで人形と思わせる程に美女を体現するその客は、店員たちと同じように入口で唖然と目を見開かせている。

「…………お母様……」

 来店したのは、アイリスフィール・フォン・アインツベルン――イリヤの母親であった。

 

 

 

 021

 

 

 

 かつて冬木市で行われていた魔術儀式――聖杯戦争の後始末をする為、世界中を飛び回っているイリヤの両親。それは何も魔術師としての責任だとか、その儀式に関わる御三家だからだとか、そんな思いあっての行動ではなく、一人娘を守る為と言う、他ならない親心からのものであった。

 聖杯戦争は十年前まで冬木市で行われていた根源へ至る為の魔術儀式だ。その根幹部分に生まれながら関わるイリヤが日本で平和に暮らせるのは、彼らの努力あっての賜物である。彼らは娘に自分達が何者であるのかを隠し、覆い、紛らわせる事で、彼女の世界を守っている。その一つの手段に、イリヤをただの一般人として誤魔化すギミックがある。生まれた時から聖杯であるイリヤをそうと思わせない為、力を封印しているのだ。それはイリヤの命に危険が迫った時にのみ解除されるもの――逆に言うならば、平和に暮らす上では一生解除されない封印である。

 さて、その封印だが。つい先日、解かれたのを母・アイリスフィールは察知した。母親として、また封印を施した術者としてこの事態を放って置けなかった彼女は、偶然日本の近くであった事が幸いし、直ぐ様娘のもとへ向かう事ができた。夫の切嗣までもが帰郷する事は難しかったが、状況把握程度であれば彼女一人でも問題はない。

 一人日本の地を踏み締めたアイリスフィールは、山程の土産を先に家へと送り、身軽な装いで道を歩いていた。その足は不思議と自宅とは反対方向へと進んでおり、一度も訪れた事のない道へ一歩一歩誘って行く。

 彼女には確信があった。この先に、会わなくてはならない人が居るのだ、と。

「…………お母様……」

 そして、アイリスフィールは手にした扉の向こう――見た事のない喫茶店の中で、娘とそっくりな女の子と出会った。

「あら?」

 出会って、

「あらあら――まあまあ! なんて可愛らしいの、イリヤ!」

「――――へ?」

 満面の笑みを浮かべた。

 予想して居なかった反応に、イリヤスフィールもシロウも目を見張った。そうしている間にもアイリスフィールが戸から手を放し、ふくよかな胸と微笑みを浮かべる唇の間で両の指を合わせ、美しい目元を喜色に染め上げる。何処からどう見ても完璧な「嬉しい」を表す表情だ。

 はて、どうしたものか。シロウはちらりと姉を見た。完全に思考停止して瞬きするのみとなった彼女は、弟の視線に気付きはしない。

「素敵なお店ね。こういったものは切嗣から教えてもらっていないから、私にはよくわからないけれど、とても凄いと思うわ」

「…………」

「内装も素敵だわ。落ち着いた雰囲気で、私は好きよ。あら? 床は大理石なのね」

「…………な……」

「まあ、こんなに沢山のメニューがあるの? 迷ってしまうわ。どれも美味しそう」

「……な、な……」

「うーん……決められないわ。ねえ、えっと……貴方はアーチャーでよかったかしら?」

「え、あ……ああ」

「シェフの貴方に訊くのは申し訳ないのだけれど、どれも美味しそうで選べないの。貴方のおすすめをお願いできないかしら?」

「承知した」

「――――なな……ッなんですとーーーー!?」

 ここで漸く、イリヤスフィールは現実に帰還した。キッチンに入るシロウとカウンターへ座るアイリスフィールの背へ、盛大な絶叫をぶつけて。

 

 さてさて、イリヤスフィールが大人しくアイリスフィールの隣に座れる程に落ち着けば、彼女たちの前には出来立てのドーナッツとジンジャーティーが並べられた。

「ふふ、かわいいわ」

 アイリスフィールは目の前に並べられたドーナッツを見て、美しい睫毛を震わせる。

 彼女のドーナッツは猫の形をしていた。勿論リアルな物ではなく、ありふれた円形の物にちょこんと二つの耳のような膨らみがあり、デコレーションでデフォルメされた猫の顔が描いてあるものである。チョコレートで描かれたつぶらな瞳が、「おいしく食べて♪」とばかりに語りかけてくる様は、可愛らしいと言ってしまうのも仕方ない出来だ。

 そしてイリヤスフィールの物には、猫の代わりに兎の形が作られていた。彼女とそっくりな白い生地に赤い瞳の配色で描かれているそれも、十分に魅力的で、ナイフを通してしまうのが勿体ない出来だ。

「デコレーション自体は甘くはない。甘さが足りなければ、このソースを使ってくれ。貴女たちから見て、左手からキャラメルソース、ハチミツ、イチゴジャム、ブルーベリージャムとなっている。好みの物がなければ言ってくれ。できるだけ用意しよう」

「十分よ。ありがとう、アーチャー。美味しそうね、イリヤ」

「…………」

 いつも客から言われている言葉だが、何故かアイリスフィールに言われるとむず痒い。どう受け取れば良いのか戸惑ってしまったせいで、シロウは閉口したまま彼女へ背を向けてしまった。そんな弟の気持ちがわからなくはないが(いつもみたいに、格好つければいいのに……)と自分を棚に上げ、イリヤスフィールは心の中で揶揄う。それからイチゴジャムを躊躇いもなくドーナッツへかけ、ナイフでその顔を真っ二つにした。

 アイリスフィールが見つめる前で、イリヤスフィールは兎の顔を一口で食べてしまう。咀嚼して、飲み込んで、それから口の端に付いたジャムを舐め取る。そうすると気持ちの整理がつくようで、一息吐くと、不思議な事にイリヤスフィールの思考も正気を取り戻し始めた。

「…………どうしてここに来たの?」

 冷静になれば、先ず訊かなくてはならないのが目的だ。

 アイリスフィールが何故、この喫茶店を訪れたのか。理由を、知らなくてはならない。

 シロウもグラスを磨く手を止め、静かにアイリスフィールを見る。注目を集める本人は、ナイフとフォークを持ったところで、キョトンとした顔をしていた。

「どうして?」

「おかしな事じゃないでしょ? お母様。貴女は私が……貴方の娘じゃない事をもうわかっているはず。ううん、元々わかっていて来たんだよね? だって、もう私は……」

「…………貴女は、ユスティーツァに成っている、と言いたいのね?」

「……うん」

 アイリスフィールがイリヤスフィールの言葉を引き継いで訊ねれば、彼女は小さく頷いた。

 大聖杯へと至ったイリヤスフィールは、既に純粋なイリヤスフィール・フォン・アインツベルン一人ではない。現在のアインツベルンのホムンクルスの元となった存在、大聖杯その物であるユスティーツァと混じり合っている。そんなイリヤスフィールがイリヤスフィールであれるのは、この奇跡を願ったのが彼女であり、そしてその夢の中に居るからだ。この夢が終われば、完全に個としての認識は溶けていくだろう。

 それをきちんと自覚しているイリヤスフィールは、アイリスフィールがこの世界の娘と自分を混同しているのではないかと眉をひそめていた。

 イリヤスフィールとイリヤは同一人物ではあるが、同一存在ではない。生きた歳月が違えば、育った環境も、物事を認識する価値観ですら全く異なる。それだけに、イリヤスフィールはたとえ敬愛する母親が相手であろうと、己の人生を歪んだ認識をして否定するようであれば、容赦なく敵と認識するつもりでいた。誰が何と言おうと、魔術師として聖杯戦争の為に生きてきた人生を哀れむようであれば、もし自分の(・・・)娘が(・・)同じ(・・)環境下(・・・)であった(・・・・)なら(・・)()涙など(・・・)見せる(・・・)なら(・・)、バーサーカーをけしかけてしまう程の怒りに襲われるかもしれない。何故ならば、それは紛う事なき侮辱であるからだ。

 イリヤスフィールは家族相手であろうと、人生の否定だけは一度たりとも許す気はない。それが愛しい母親であろうと、当然目の前に居る弟であろうと――例外なく。

 だから眉をひそめ、アイリスフィールの出方を窺う。彼女がこれから何を言葉にするのか。自分にどう接するのか。観察して判断する為に。

「『どうして』……それは、貴方たちに会いたかったか。それではダメかしら?」

「『会いたかった』? おかしな事を言うのね。まるで、私たちの事は最初っ(・・・)から(・・)知っていたみたいだわ」

「ええ、最初から(・・・・)知っていたわ。正確には、貴方たちがこの世界に来た時に、彼が教えてくれたの(・・・・・・・・・)

 アイリスフィールの言い方に一瞬姉弟は首を傾げようとしたが、すぐに彼女が言う「彼」の存在に行き当たった。

 自分たちを知っていて、アイリスフィールとコンタクトが取れる存在。それはこの世に一つしか存在しない。

「大聖杯のあいつか……」

 黒くて、深くて、暗くて、哀しい、あいつだ。

「その想像通りの彼で合っているわ」

 シロウの指した答えに、アイリスフィールは頷いた。

「彼は、貴方たちがこの世界へ来る門を開いた時、その時一度だけ、私に語り掛けてきたの。『今日からあいつらの夢が始まるぞ』って」

「夢?」

「彼が何を言いたかったのかはわからない。でも、彼がそう言った瞬間に、私の頭の中で色々な映像が流れたわ」

 日本から遠く離れた大地で、突如襲った衝撃を、アイリスフィールは鮮明に覚えている。

 透明な水の中に墨汁を入れたかのように、一瞬にして思考を奪った記録の数々。それは少年が惨殺されるものであった。また少女が叫ぶものであった。血が視界を埋め尽くすものであった。男が消えるものであった。他にももっともっと沢山の記録を見た。どれもアイリスフィールの記憶にないものばかりであったが、彼女はそれが何の記録であるのか思い当たるものがあった。

 これらは聖杯戦争の記録だ。自分のものではなく、何処か遠い世界の、自分の娘と息子が織り成す、この世界に訪れて来た子供たちの記録。

 何故、彼が自分にこれらを見せたのかはわからない。何か意味があるのか、それとも物のついでであったのか。彼が自分に何を求めているのか、理解できなかったアイリスフィールであるが、それでも決意した事はあった。

 彼らに会って、話しをしよう。

 どんな事でもいい。ただ挨拶を交わすだけでもいい。

 どんな小さな言葉でも、見ず知らずの子供たちの目を見て贈りたい。そう思って、誘われるままに、アイリスフィールはここにやって来た。

「貴方たちの元気な姿を見て、こうやってお話がしたかった。それじゃあダメかしら?」

「……別に……だめじゃ、ないよ……」

「本当? 嬉しいわ。ありがとう、イリヤ」

(……照れているな……)

 今度はシロウが内心で微笑みを浮かべた。否、内心のみならず、つい微笑ましいと思ってしまった彼の口角は僅かに上がっている。当然気付いたイリヤスフィールの一睨みで表情を引っ込めるが、カウンターの下にある右足は機嫌よく半円を描いていた。

 なるほど、とシロウはグラスを手に取り直して、頭の片隅にあった疑問を四散させる。自分のクラスを伝えずとも言い当てていたアイリスフィールに合点が行ったからだ。既に知っていたのなら、アーチャーだと呼ぶのも当然だろう。息子と混同して呼ばなかったのは、己の心情を掬ってくれた為だろうか。優しい母親だ。

 その後、彼らは他愛のない会話をした。イリヤスフィールの考えは杞憂であったようで、アイリスフィールは一度としてイリヤスフィールの生い立ちについて話を振る事はなかった。ただ、別世界の娘が体験した楽しかった事を訊ね、シロウに料理について訊ね、姉弟二人を戦慄させた。そんな、何処にでもあるような会話で時間を過ごす。余談であるが、ドーナッツが綺麗になくなった事を確認して、シロウは体の陰で拳を握った。

 楽しい時間とはあっと言う間に過ぎるもので、気が付けば壁にかかっていた時計が二周しようとしていた。

 そろそろ時間だ。シロウから土産にとフルーツ飴を受け取ったアイリスフィールは、家族に会う為、店の戸へ指をかける。

「ふふ、ご馳走さま。美味しかったわ」

「ありがとう。またの来店を心待にしている」

 挨拶をして、戸を押す指に力を込める。

 彼女は不思議な気分でいた。娘と姿形の変わらない存在に会って楽しい時間を過ごしたにもかかわらず、何故か物足りないと思ってしまう。それはイリヤスフィールが自分の娘ではないからだろうか? 否、アイリスフィールは彼女たちが望めば、家族として迎え入れる心積りはある。言葉にしていないだけで、家族のように思っている。だが、どうしてだろう。何が、足りないのだろうか?

「……ねえ、最後に一つだけ、お話してもいい?」

「寂しい事を言わないで。幾つでも構わないわ。何かしら?」

 物思いに更けていると、見送りに来たイリヤスフィールから声をかけてきた。シロウはカウンターの中でオーブンを開き、甘い香りを中から引き出している。小声であれば、シロウの方までは会話は聞こえないだろう。そんな距離感であった。

 イリヤスフィールと目線を合わせたアイリスフィールは、小さな手がドームを作るのを見てそっとそこへ耳を近付けた。細く、透けるように艶のある銀糸に、イリヤスフィールはこそばゆさを感じてくすくすと小さく笑みを溢す。懐かしい感触。子どもではなくなった彼女を、幼い頃に戻すような触れ合いであった。

 それでも、

「あのね――」

 イリヤスフィールは、アイリスフィールの娘になれなかった。

「今夜は、邪魔しないでね」

 

 

 

 022

 

 

 

 約束の夜は普段と変わりなく訪れる。

 郊外の、人の子一人迷い込もうと思わない程に薄暗くて不気味な森に、凛とルヴィア、そして美遊は足を踏み入れる。彼女たちの他にはサファイアのステッキを除き、誰も居ない。イリヤはこの戦いに赴く事なく、日常に戻って行ったのだ。元の、本来の女の子に戻った彼女がこの場に居ないのは当然であり、三人は一人としてイリヤを責める事はなかった。ただし、断固としてイリヤの傍を離れなかったルビーには、凛が盛大に切れていたが。

 時刻は数時間後には日付が変わるであろう頃だ。三人は先行する使い魔に従って森の奥へと進んで行く。手入れのされていない荒れた山道が足元を不安定にしたが、今夜はよく晴れた夜空が広がっており、星々と月が彼女たちの行く先を照らしていた。

 一時間近く経っただろうか。厭に長く歩いたような気がする頃になって、漸く彼女たちの前が晴れる。美遊は足元から顔を上げ、木々が途切れた先を見た。

 三人の前に現れたのは、石造りの古城であった。青い屋根の、大きな大きなお城。何処か遠い国にありそうな、日本にある事が不思議に思えてしまうような、立派な西洋の城だ。

 流石の魔術師二人も、こんな物がこの冬木市近辺にある事を知らなかったのだろう。一瞬だけ大きく見張り、それから長い深呼吸をした。

「人気はないみたいね……」

「あのイリヤスフィールも見当たりませんから、きっと中に居るのでしょうね。美遊、準備はよろしくて?」

「……はい」

 ぎゅう、と美遊はサファイアを握りしめる。

 イリヤスフィールから押し付けられた使い魔は、城の正面玄関、大きな両開き扉の前に、まるで置物のように静止していた。あの先で、イリヤスフィールは待って居るのだろう。

 美遊は一人でやり遂げなくてはいけない。この先にある圧倒的な壁に一人で立ち向かい、破壊して歩き続けなくてはいけない。そこにある覚悟は、自分が存在している責任や()への報いだだけではない。イリヤを守る為に挫けてはならない、そういった、美遊が(・・・)自分で(・・・)決めて抱え込んだ覚悟があった。

 ここで美遊が折れては、次に連れて来られるのはイリヤだ。最後のクラスカード《セイバー》の回収は、きっとイリヤスフィールたちが行ってくれるのかもしれない。しかし、彼女は勝率は五分五分だと言った。負けてしまう可能性もあるのだと言った。なら、もしその可能性の未来となってしまったら、イリヤは強制的に戦場へ戻される事になる。泣いて、怯えて、拒絶しようと。この世界を守る事に比べれば、子ども一人の抵抗など息を吹きかければ倒れる張りぼてよりも脆い物でしかない。

 そんな未来はあってはいけない。そんな、イリヤ(友達)が泣いてしまうような未来が、存在してはいけないのだ――だから、美遊は覚悟を抱き、先陣を切った。

 確かに地面を踏み締める小さな足に、震えはなかった。

「行きます」

 戸を押し開くと、外観に比べてずっと明るいエントランスが彼女たちを迎えた。

 暖色の灯りが少女たちの冷える体を温める。歓迎するような雰囲気が、逆に不気味だと思えた。

「いらっしゃい。待っていたわ」

 そう時間を置かず、美遊たちを出迎えに現れたイリヤスフィールの声が下りてくる。辿れば、正面に伸びる大きな階段の踊り場に、紫色のブラウスに淡いピンク色のスカートを合わせるお嬢様然とした彼女が居た。

 イリヤスフィールの他には誰も居らず、アーチャーとバーサーカーの姿はない。また見えないように存在しているのか、それとも本当に不在にしているのだろうか。その疑問を投げる前に、答えはイリヤスフィールから与えられた。

「バーサーカーは中庭で待っているわ。お兄ちゃんはお使いに出かけているの。心配しなくても、お兄ちゃんがバーサーカーと一緒に貴方たちを叩き潰す事はないよ」

「……そう。なら一安心なのかしら?」

「ふふ、凄い自信ね。そういった度胸がある人は好きよ」

 くすくすと目を細め、イリヤスフィールは踵を返した。

「こっち。今日は貴方たちがお客様だから案内してあげる」

 イリヤスフィールが進むと、ルヴィアの足元で大人しくしていた使い魔が主人の元まで飛び立って行った。天井まで高く飛び上がり、滑降して小さな主人の指先に止まった。

 小さな城主の後に続くと、彼女の言う通り中庭に出る事ができた。所々に粗があるものの、美しく咲く薔薇はどれも大輪であり、美しく保とうとする誰かの手が加えられている事が窺えた。

 その美しい庭の中心に、バーサーカーは佇んでいた。

 何度見ても慣れないような屈強さに、三人は息を呑む。岩のように盛り上がった鋼の筋肉に、見劣りしない巨大な体。夜に紛れる事のない鋭い眼光は、戦場を待ち望むように爛々としている。

 見ただけで、圧倒されてしまう。武者震いではなく恐怖によって震える指を握り、美遊はサファイアを構える。

「行くよ、サファイア!」

『はい、美遊様!』

 恐怖を振り払うように、美遊は魔法少女へと変身する。それを見て、凛とルヴィアも臨戦態勢に入った。

 美遊はすうっと短く息を吸い込んだ。そしてバーサーカーに負けない眼光を持ち、覚悟を再度確かめる。

 イリヤがアーチャーへ宣言したように。美遊も、今度は揺れないように、決死の想いを持ってバーサーカーに挑む。

「今ここで、わたしが終わらせる!!」

「いい心がけね――――やっちゃえ! バーサーカー!!」

 

 

 

 023

 

 

 

 まだ間に合うだろうか。

 嘘吐きなわたしを、許してくれるだろうか。

 そう問いかけると、悲しい目をした人は、優しくわたしと手を繋いでくれた。

 

 

 

 024

 

 

 

 鬱蒼とした森に、平和とは程遠い地鳴りが響く。まるで大地の唸り声のようだ。凸凹で障害物の多い斜面を、転がるように下りながら美遊思う。

 爪先が木の根に引っ掛かった。前傾になり、顔面から落ちそうになるのを手をついて転がり避ける。その間際、頭上を何かが通り過ぎた。確認する前に、前方を塞ぐようにそれは地面に突き刺さった。煉瓦の塊だった。城壁の一つであっただろう、大人の三倍はある大きさの塊だ。

 頭に当たっていたら、間違いなく死んでいた。血の気が下がると同時に背後を振り返って右手に握っていた赤い槍を盾のように構える――間髪入れず、大きな岩の剣が振りかぶられた。バーサーカーの武器だ。もう距離を詰められた。剣と槍がぶつかり合った箇所から火花が散り、美遊の視界がぶれる。踏ん張りが利かず、美遊は剣に負けて吹き飛ばされた。背中で木々を折りながら、衝撃で詰めたままの呼吸で肺を圧迫し、思考が出来なくなる。森を抜けた美遊は近くの湖に着水した。咄嗟にサファイアが物理障壁を張ってくれたのか、大きな怪我は負っていないものの、酸欠と衝撃で頭がくらくらする。

 起き上がって構えなくては。美遊は痙攣する手足を立たせる。でなくては間に合わなくなる――ほら、眼前にもうバーサーカーが迫って来ている。

『美遊様!』

 物理障壁があれど、体でバーサーカーの攻撃を受ければただでは済まない。構えも間に合わずに迫る死を実感する事しか出来なくなった美遊だったが、直前に、すぐ脇で小さな爆発が起きた。その爆発は攻撃力は然程大きくはないものの、勢いは強く、美遊の上半身がぶれる。

 間一髪、岩剣が先まで居た場所を通過する。そして凄まじい水飛沫を起こし、湖に突き刺さった。

「くっ」

 何という威力か。波の勢いに美遊の体が浮き上がり、今度は宙に放り出される。このままでは身動きが取れない。そんな美遊の体を、誰かが抱えてバーサーカーから引き離した――凛だ。彼女は自身に強化をかけ、ホンの僅かな隙を縫って美遊を一旦撤退させる事に成功する。

 陸地に再び足を下ろした美遊は、傍にルヴィアの姿を確認した。慌てて森の中を駆けて来たのだろう。普段から整えられている髪は乱れ、美しいドレスの節々が破れていた。指の間に宝石があるのを見るに、先程の爆発は彼女が起こしてくれたようだ。

「ありがとうございます、ルヴィアさん、凛さん」

「怪我はなくって?」

「はい。今のところかすり傷程度です」

 少し余裕が持てた事で、美遊は深呼吸にて気持ちを落ち着かせる。

 未だに此方からバーサーカーへ明確な攻撃は通っていないが、此方も大きな怪我は負っていない。魔力も体力も、まだ余裕はある。反撃をする猶予は残されている。

 だが――美遊は強く槍を握り締めた。

 美遊は現在、クラスカード『ランサー』を幻夢召喚(インストール)している。理由としては単純だ。彼女の保有するクラスカード三枚の中で、一番戦闘に特化した英霊と繋がっているからである。

 クラスカード『ランサー』の接続先は、アルスター神話の大英雄・クー・フーリン(クランの猛犬)だ。幼少期から語られる圧倒的戦闘センスと獰猛とまで言える力強さに加え、風を切るスピードと、何よりも宝具《刺し穿つ死棘の槍(ゲイ・ボルク)》の効果から対バーサーカーへの対戦カードに選んだ。美遊の選択に凛とルヴィアは反対しなかった。二人共同じ考えだったからだ。そして彼女らは何故美遊が誰に教わる事も無く幻夢召喚を出来るのかは訊かず、こうしてサポートに回ってくれていた。それに有り難さを感じるが、今は後ろめたさが増してきている。

 水飛沫が落ち着くと、湖に佇むバーサーカーを確認出来た。溢れる魔力で空気を焼き、圧倒的な強さを恐怖として押し出すその在り方に、ぐっと美遊は唇を噛む。あんなものと()が戦って傷付いて来たのかと、実感して涙が溢れそうになった。

 あの人(・・・)が命を懸けて守った美遊の幸せを全うする為に、あのバーサーカーを倒さなくてはいけない。それはこの街に散らばったクラスカードを回収する事が最低条件で、そうでなくては最後のクラスカード《セイバー》の回収は不可能だ、とイリヤスフィールは語った。回収出来なくては、この街は近い未来に壊れてしまう。

 願いを、そしてイリヤ(友達)を守る為に、バーサーカーを倒さなくては――そう思うのに、どうしてこうも自分は何も出来ないのか!

「……下がってください」

「美遊」

「わかっています。ちゃんと誘導(・・)します(・・・)

「……」

「ちゃんと、上手くやります。だから―――」

 美遊は凛とルヴィアへ距離を取るように告げた。二人は渋い顔になりながらも、直ぐに美遊の傍を離れた。

 バーサーカーから視線を外さず、そして何時でも動けるように腹を決め、槍を構える。バーサーカーは未だ湖の中で動いて居ない。

 今がチャンスだ。

「行くよ、サファイア」

『はい、美遊様!』

 美遊が槍を振るう。膝を低く折り、脇を絞め、穂先をバーサーカーへ定める。

 今放てば、確実に当たる。

「《刺し穿つ(ゲイ)――――」

 投げれば――穿てば――確実に勝てる。

「――()――」

 今がチャンスだ――そのはずだ。

「■■■■■■■■■■■■!!!!」

 なのに、腕が――振り切れない。

 穂先が、定まらない。

 美遊が槍を振り抜かんとしたその間際、湖に飛沫か立ち上った。そして美遊の眼前に、バーサーカーが迫り来ていた。

 戦闘が始まってからずっと、この繰り返しだった。美遊が殺気立ち槍を振るおうとする度、バーサーカーは瞬く間に接近して来ては美遊に防御姿勢を取らせ、そのか細く幼い体を豪風を伴わせて殴り飛ばして来る。その速度と剛力は大英雄の名に怠らぬものであり、ずっと攻めあぐねていた。

 咄嗟に槍を間に立てても、体格差による力にはどうしても押し負ける。足元の地面が衝撃に耐えきれずに陥没し、花開くように割れて持ち上がった。

 カクン、と美遊の片膝足が折れる。割れた砂に足底が滑ったらしい。防御の姿勢が崩れれば、すぐに足が地面から離れる感覚と、内臓が押し潰される衝撃が襲いかかった。繰り返し覚えさせられたそれに、美遊の目の焦点がぶれる。視界が離隔を手放し、滲んだ色だけを浮かび上がらせた。上下左右の感覚が狂い、上手く体勢を立て直せずに側頭部を何処かへぶつける。それにより更に狂わせられ、手足の感覚する微かになった。

 緩んだ指の中で、赤い槍が滑る。指の腹が、槍の凹凸をなぞったような気がした。

 まだ……まだ、手放す事は出来ない。滑り落ちかけた槍を握り直し、美遊は身を縮こまらせる。彼女の柔らかな皮膚は、泥と擦れて血が滲んでいた。

「……」

 またも森へと背を跳ねさせて転がり込む美遊を、反対の湖の淵に立つイリヤスフィールが静かに見ていた。その赤い瞳には哀れみも敵対意識による闘志も宿っておらず、ただ凪が写るのみだ。

「……遅いな、お兄ちゃん……」

 バーサーカーの雄叫びによる空気が震え、頬を擽った髪を風が流す。そうすると月明かりが照らす夜に、彼女の儚い白さが浮くように咲いた。風に遊ばせる銀糸の一つ一つが、キラキラと輝いては夜闇に溶けるようだ。

「このままじゃ、死んじゃうかもね」

 赤い瞳はつまらなさそうに細められた。

 

 

 

 025

 

 

 

 あのね、嘘じゃないんだ。

 あの夜に言った事は、全部本心で、本当に出来ると思ってたんだ。

 でも、嘘吐いちゃった。約束、破っちゃった。

 わたし、最悪だよね。こんなんじゃ、友達じゃないよね……。

 そう言うと、掌を包む大きな手に力がこもった気がした。

 どうしたい?

 ママと同じ問いで――優しい声が、わたしの背中を押した。

 

 

 

 026

 

 

 

 吐く息が喉を焼く。

 痛い、痛い――痛い。

 足が痛い。腕が痛い。頭が痛い。腹が痛い。背が痛い。全身のあちこちが痛い痛いと熱と共に訴えて来る。このまま動けば死んでしまうと、全身が一生懸命に訴えて来る。

 その足を止めてしまえ。その腕を下ろしてしまえ。立ち上がるな。拳を握るな。目を開けるな。耳を塞いで踞っていればいい。

 そうしたら――そうしたら?

 冷たい空気に肌を晒して、土を噛んで自問自答する。こんな事に意味はない。いつも、いつも、繰り返してきた問いかけの答えは決まっている。

(私に――そんな資格はないっ)

 ()が願ってくれた世界を守る為に存在している美遊に、戦いから逃げる選択肢等は存在していない。目に入れて良いものではない。どうして今、こんな事を考えてしまったのだろうか。わかりたくもない弱い自分を睨み、握る槍を支えに立ち上がろうと膝を曲げる。震えて、上手く立てなくとも、何度だって繰り返した。

 霞む視界の中に、大きな足があった。バーサーカーの屈強な足だ。

 美遊の目の前にはバーサーカーが居た。足を振り上げる事も、腕を振り下ろす事も、岩剣を向ける事もなく、そこに立って美遊を見下ろしている。

 無傷の戦士と、立てもしない哀れな少女。誰が見たって、彼女に勝ち目があるようには見えない。全身がボロボロで、弱って立てもせず、震えてばかりのちっぽけな存在が、目の前に在る戦士に片膝すら付かせる事は出来ないだろう。誰だってそう思うだろう。少女本人とて思っているだろう。

「でも……」

 それでも、どうしても、少女は立ち上がろうとする。誰に言われるでもなく、己で決めた誓いの為に、歯を食いしばっている。

「わたしは……」

 食いしばって、バーサーカーを睨み付けた。

「わたしは、」

「くっ――美遊から離れなさい!」

 その時、彼女の両脇を二つの閃光が走る。木々の間から飛び出したルヴィアと凛による宝石魔術だ。

「あーーっクソ! 何でこんな事に使わなくちゃいけないのよ!!」

 ルヴィアの隣で涙目になりながら叫ぶ凛は、ポケットの軽さに湧く怒りを魔力へ変えてバーサーカーへぶつけていた。

『ルヴィア様! 凛様も!』

「ル……ルヴィア、さん……り、ん……さん……なん、で……」

Anfang(セット)――!!」

Zeichen(サイン)――!!」

 どうして出て来たのか。最後のクラスカード《セイバー》へ備えて宝石を温存している筈の二人が、何故ああも大きな魔力を宝石へ込めているのだろうか。

 戸惑う美遊へ一瞥もする余裕無く、彼女たちは飛び出した勢いのままに地を蹴った。

獣縛の六枷(グレイプニル)!!!」

 二人が作り出した魔術は拘束具となり、バーサーカーをその場に縫い止める。こちらが宝具を使わなければ何故か襲い掛かって来ないバーサーカーだが、だからと言って何もせずに無防備の美遊をその前に晒す理由はない。相応の魔力と宝石を消失したが、これで漸く明確な隙を作る事が出来た。

「通った……! 瞬間契約(テンカウント)レベルの魔術なら通用しますわ!」

「あはははは!! 大赤字だわよコンチクショー!!」

 もはや虚しいを通り越して笑えてくる。泣き笑いする凛を他所に、ルヴィアは堂々と美遊の前で仁王立ちした。

「何を踞っているのです、美遊。さっさと立ち上がりなさい」

「ルヴィアさん……どうして……」

「どうしてもこうしてもありませんわ。一度やると言ったのなら、言葉にした事をやり遂げなさい」

 ルヴィアは美遊を見下ろした。

「『終わらせる』のでしょう? エーデルフェルトの娘(私の妹)なら、有言実行出来て当然であってよ」

「――――」

 ルヴィアの言葉を受け、美遊は強くサファイアを握り締める。

 どうしてだろう。先までの震えるばかりだった足にしっかりと力が入る。激痛に揺れる思考が定まって、視界もクリアに映り始める。

 美遊を見下ろすルヴィアは、それは美しい表情をしていた。心配するでも、怒りを表すでもない、勝ち気で厳めしい自信に溢れた笑みを浮かべている。

「行きなさい、美遊」

「――――はい!」

 低い姿勢のまま、美遊は地を蹴った。

 ルヴィアと凛の間を、力強く駆け抜ける。

(そうだ。私は決めたんだ。イリヤの為なら何だって出来る――絶対にこの戦いを終わらせるって誓った!)

 美遊は目の前のバーサーカーに肉薄した。槍を構えたまま、縛られるバーサーカーの懐に転がるように飛び込む。

「イリヤの為に――」

 倒す為じゃない。殺す為じゃない。殺気はない。ただ、あの場所(・・・・)()向かう為(・・・・)に槍を握り締め、拘束魔術の上から腹へ突き刺す――皮膚を破かずとも、その壁を力ずくで押しやる。

「友達の為に――――っ!」

 悲鳴を上げる骨を、筋肉を、血を、魔力の足場を押すことだけに全力で回す。ルヴィアに背を押されたのだ。出し惜しみなどしない。持てる全ての魔力を筋力に回し、バーサーカーを押す動かす。

 穂先が硬い皮膚を裂き、滲んだ血が美遊の手を伝った。

 その瞬間に、美遊とバーサーカーの足元に魔法陣が現れた。

「ああ――ああああああああっ!!!」

 押して、押して、押して、血管を破裂させて、唸り声を上げる。

 六つの円が連ねられたそれから逃げられぬよう、全身の力を奮い起たせて、美遊は叫んだ。

『美遊様! このままではっ!』

「撤退はしない!」

 魔法陣の内には美遊も含まれている。バーサーカーをこの場に押しやる為に、そしてこの場に留める為に、一歩たりとも退ける気は、彼女にない。

 美遊の覚悟に応えるように、槍が更に肉を裂く。溢れた血が、増えた。

「ドンピシャで美遊を回収しますわよ!」

「わかってるっつうの!」

 その覚悟を肌で感じ取っているルヴィアと凛は、魔法陣の本命に巻き込まれる前に美遊を退避させられるように構える。これが彼女たちが掴み取った勝機だ。絶対に手放してなるものか、と更にバーサーカーを抑える魔術、そして美遊を引き剥がす魔術をそれぞれが練り上げる。

 だが、バーサーカーもやられっぱなしではない。彼こそがギリシャ神話の大英雄なのだ。ここで黙ってやられる道理など持ち合わせてはいない。

 獣縛の六枷がかかっていながら、それでもバーサーカーは動いた。拘束を引き千切り、咆哮を上げて美遊の体を両手で鷲掴んむ。

「ぐぅ……っ」

『美遊様!』

「美遊!!」

「何てバカ力よ!!」

 骨が、軋んだ。今までの比でない激痛と熱が美遊を襲う。もしかしたら折れて粉々に砕けたかもしれない。

 全ての魔力を筋力に回している美遊に、防壁は薄皮一枚もない。直に受けるバーサーカーの力に、肉ごと引き千切られそうだと裂けた皮膚に血を滴らせて思う。

 けれど、ここで押し負ける事も、退く事も、許さない。

 誰が許そうと、自分が許さない。

「これで、終わらせる!!!!」

『いけません、美遊様!!』

「美遊!!」

「美遊――――ッ!!」

 サファイアの、ルヴィアと凛の悲鳴の中、美遊の覚悟に応えるように、魔法陣より魔力が溢れた。

 

「うん――一緒に、終わらせよう」

 

 闇を引き裂くように、眩い魔力の柱が立ち上る。

 これは美遊がバーサーカーの相手をしている間に、凛とルヴィアが設置していた魔術の地雷だった。美遊が戦いを引き延ばせば延ばすだけ、二人の魔力が込められ、十分に溜め込んだ魔力弾の威力は、月を影させようする雲を散らす程の物だ。例え英霊であれど、ゼロ距離からもろに食らえばただでは済まない。それこそ、生身の人が受ければ、骨一つ残さずに燃え尽きて居るだろう。

 その光の柱を、どうしてだろう。美遊は僅かに離れた場所から見ていた。

 何故――己もその柱の中に居る筈なのに、そう思う彼女の視界で、銀糸の髪が揺れた。

「ごめんなさい」

 美しい髪を追った先に、涙を堪える友達が――イリヤの顔があった。

 震える声で謝罪を口にした彼女の手は、痛い程の力が込められて美遊の肩を抱いている。不思議と、美遊は放して欲しいとは思わなかった。

「わたし――バカだった。ちゃんとわかってたのに、他人事じゃないって、ちゃんとこんなウソみたいな戦いが現実なんだってわかってたのに……なのに……」

 ぽたり、と美遊の頬に雫が落ちる。ぽたり、ぽたり、と止まらないイリヤの涙が落ちて、抑えられない彼女の後悔を溢れさせた。

「その『ウソみたいな力』が自分にもあるってわかって……急に……全部が怖くなって……!」

「イリヤ……」

「でも」

 美遊を抱き寄せたイリヤが、彼女の肩口に顔を埋める。直接触れる頬と頬と熱く、傷だらけの皮膚に痛みを生んだ。

「本当にバカだったのは、逃げ出したことだ! 約束を破って、自分に嘘吐いて、友達を裏切ったことだった!」

「……っ」

「ごめんなさい、ごめんなさいミユ! 嘘吐いてごめんなさい! 裏切ってごめんなさい! 逃げ出して、一人にしてごめんなさいっ!!」

「イリヤ……」

「もう逃げないよっ……どんな経緯でも、自分が関わった事を、関わった人を、なかったことになんてできない……もうっミユ一人に戦わせたりなんてしない……もう逃げたりしないよ……許して、ミユ」

「イ、リヤ」

「わたしと、もう一度友達になって下さいっ」

 頬の痛みが増した。美遊の瞳から涙が溢れていた。

 触れる頬が、世界を映す瞳が、イリヤの抱き締めてくれる腕が――痛い。痛くて痛くて、目の前のものを抱き締めたくて仕方ない程に、熱くて、堪えられない程の痛みを生んだ。

「イリヤは、わたしの〝友達〟だよ」

「ミユ……」

「裏切ってないよ……イリヤは逃げてない……ただ、守っていただけだよ。大切なものを傷付けないように、守れるように、頑張っただけだ」

 でも、

「っでも――戻ってきてくれて……嬉しいっ」

「ミユ……わたしが一緒に前へ進んでもいい?」

「……うん」

「わたしが〝友達〟でもいい?」

「うん――イリヤが〝友達〟じゃないと嫌だよ」

 その時、二本のステッキが震えた。溢れ出した魔力が音を生む程に共振し、ルビーとサファイアがイリヤと美遊の前で合わさる。

 光の柱が細まり、バーサーカーが姿を現した。皮膚を爛れさせて煙を上げる戦士は、それでも鋭い眼光をより一層強め、眼差しを寄り添う二人の少女から逸らさない。

 そんなバーサーカーを背後に、合わさるステッキの間には一枚のクラスカードがあった。アーチャーのクラスカードだ。

「これは……」

「うん。できるよ、二人なら」

 イリヤと美遊にはこれから何が起こるのかわかっていた。初めての現象にもかかわらず、これから起こる事に、二人で成せる事に不安を一つも感じる事はなかった。

「終わらせよう……そして、前に進もう!!」

 ――それは、獣が世界を震わせる咆哮を上げるのと同時の事。夜の森に、太陽が現れた。

 燦爛と輝くその黄金の光は、まるで――

万華鏡(Kaleidoscope)――――」

 イリヤと美遊が各々に握り締める、この世に存在しない、永久に届かない、遥か彼方への願いを映す黄金の剣を。

 二本の剣を始まりに、二人の頭上には数多の剣が列なっていた。一つは捻れ、また一つは細身で、更には日本刀と、世界中の在りとあらゆる時代の剣が、互いを写すように幾重にも続き、二人か掲げる太陽に集って構えられる。

 昼と見紛うその光が、バーサーカーへ濃い影を生み出す。

 イリヤと美遊は、剣を振り下ろした。

 

 

 

 027

 

 

 

 運命に囚われたまま進めない人の為に、料理をした事が数日ある。

 もう何日間どんな料理を振る舞ったか覚えてはいないが、その事実だけはなんとなく推察される。

 きっと毎日米を炊き、フライパンや鍋に油を広げ、彼女が差し出す茶碗に繰り返しおかわりを継げて居たのだろう。

 とても日常とは言えない、平穏とかけ離れた日々を送っていた。

 あれは、とても幸せな日々とは言えなかった。

 何処にでもない、ただ穏やかな終わりを望んだ人と、ただ壊れていた愚かな男の、あっただろうと今では仮初めに語るだけしかない、そんな日々。

 彼女が微笑む姿を、はて――オレは本当に見た事があるのだろうか。

 

 早朝に下ろして貰った新鮮な鮭を三枚に捌く。片腕のみしかないシロウがどうやって鮭を押さえられているのか不思議だが、当然、不思議な事をしているに過ぎない。身を傷付けるのを最小限に、鮭の頭を投影した針で固定しているだけの事だ。

 捌いた鮭と、先に切り分けていたエリンギに玉ねぎ、人参、そして調味料とをホイルに包み、オーブンへセットする。

 オーブンが動き出したのを認めたタイミングで、シロウは店の電話がコール音を響かせるのを聞いた。

「はい。聖杯喫茶、アーチャーです」

『もしもし? おはよう、アーチャー。アインツベルンです』

「その声は……アイリスフィール・フォン・アインツベルンか?」

『ふふ、正解です。あのね、お誘いしたい事があるの。今時間いいかしら?』

「ああ、問題ない」

『あら、ふふ……何だか照れ臭くなってしまうわ。今日これから――』

『この焦げ臭さは一体何処から……お、奥様!? 何故まだこちらに!?』

『どうしたんだ、セラ? 何か焦げ臭さ――火! 鍋から火が上がってる!?』

『こ、これはっ昨晩仕込んでいた鶏モモ……』

『こっちは昨日買ったばかりの本味醂とワイン……もう三分の一しか無いけど……』

『あらーちょっと焦げちゃったかしら?』

『あの……隣の鍋にあるこの黒い物は……?』

『お米よ。炭と一緒に炊いたら美味しいって切嗣が教えてくれたのよ』

『セ、セラ……洗剤が昨晩見た時より減ってるんだが……』

『奥様、まさかとは思いますが、食材を洗剤で』

『もちろんちゃんと洗ったわ! 新鮮な物でもちゃーんと綺麗にしなくちゃいけないものね!』

『おはよう………………シャワー浴びてくる』

『待ちなさいリーゼリット! 見て見ぬ振りをするとは何事ですか!』

『どうしたの朝から。それに何か臭いし……』

 バンッ

『え、なに!? 何の音!?』

『今電子レンジから変な音したぞ!?』

『あ、レンジなら茹で玉子が入っているはずよ~~』

『生卵を殻ごと入れたのですか!?』

『ああ~~~~レンジの中がぐちゃぐちゃだ』

『まさかママがキッチン触ったの!?』

『まさか……あちゃぁ……やっぱりか。夕飯用のパスタ生地もない……』

『リズお姉ちゃん雑巾! 雑巾取って!』

『ん』

『ありが…………なんで下着しか着てないのーっ!?』

『シャワー浴びるって言った』

『ハッ! シロウ!』

『お兄ちゃんこっち見た!?』

『みっ見てない! 俺はキッチンの片付けで忙しくて何も見てないぞ!!』

『でも耳が赤いわよ』

『アイリスフィールさん!?』

『シロウ!!』

『ちょ、まっ……不可抗りょ――』

 気が付けば、受話器を元の位置へ戻していた。無意識に切ってしまった電話をぼーっと眺めたシロウは、口元に小さな笑みを浮かべ、次に窓から遠い街並みを眺める。

 今日も天気が良い。洗濯物が気持ち良く乾きそうだ。

「……そうだ……付け合わせにコンソメスープを作るか。飾り切りした残りを入れよう」

「おはよーシロウ」

「■■■■■■■■■」

「ああ……おはよう。姉さん、バーサーカー」

「何を遠い目をしているの? それにさっきから電話、鳴ってるよ」

「…………ああ」

 置いたばかりの電話から、再びコール音が響いて来ている。受話器には置いたままにシロウの手が乗っている為、彼が対応しないのはおかしいだろう。

 何故か嫌な予感がすると思いながらも、シロウはイリヤスフィールとバーサーカーが見守る前で、再び受話器を耳元へ当てた。待て待て。まだリコールであるとは限らない。

「お待たせしました。聖杯喫茶、アーチャーです」

『ごめんなさい、アーチャー。アインツベルンです。途中で切れてしまったのかしら? 電話が切れてて驚いたわ。それで用件なのだけれど、貴方に少しお願いがあって……それにお礼として二人をお茶会に招待したいと思うのだけれど、来てくれるかしら?』

「…………」

「どうしたの、シロウ?」

 バーサーカーに抱えられてカウンター席に座ったイリヤスフィールは、受話器を握ったまま固まっている弟に首を傾げる。その背後では忠実な執事のように立つバーサーカーも同じように首を傾げており、息の合った主従の様に少しシロウは癒される気持ちを抱いた――が、のほほんとした声のアイリスフィールの背後から聞こえる阿鼻叫喚にどうしたものかと冷や汗をかく。

 これは、一サーヴァントの独断で決められる事態では無いだろう。

「マスター」

「シロウ?」

「君の判断に任せる」

「何を?」

「■■■■■……?」

 思わず震えてしまった声に気付かれなかっただろうか。

 マスターへ運命を託すことにしたサーヴァントは、遠い目のまま厨房へと戻って行く。普段の堂々とした様が欠けてしまっているもう一騎のサーヴァントより受話器を受け取ったイリヤスフィールは、一体全体何事やら、と疑問符を浮かべながら、賑やかな受話器を持ち上げた。

 

「私、何かしてしまったかしら?」

「見事に空っぽだな……」

「はい……目を放してしまったばかりに」

「してやられちゃったよねー」

「言動が児童にするそれだわ……」

 今月何度目かの臨時休業に喫茶店は切り替え、住宅街にあるアインツベルン家を訪れたイリヤスフィールとシロウは、その家の冷蔵庫の前で頭痛を覚えていた。

 今朝までは潤沢な食材が詰まっていたであろうその冷蔵庫は、今は幾つかの調味料と卵三つ、野菜室に半分の大根が一本あるのみ。見事に使い尽くされており、この家にセラと衛宮士郎が居るにもかかわらず、この有り様とは……朝の惨事が目に浮かぶようであった。

「さて、用件は簡単な菓子作りの指導、で良かっただろうか?」

 こんなことだろう、と訪問する前に商店街で揃えた材料をテーブルに並べながら、シロウはアイリスフィールを伺う。それへ彼女は微笑みと共に頷いた。

「あまりママらしいことができていないから、あの子達に少しでも親らしいことがしてみたいの」

「それならイリヤスフィールが戻ってからでも良いのではないか? 一緒に作るのは親子らしいだろう」

「練習しておくにこした事はないわ。ママだもの。立派なおやつを作れなくっちゃダメでしょ?」

 そう言うものだろうか。親子の在り方についてはもう欠片も思い出が無い為に、シロウは曖昧な相槌しか返せなかった。

 さて、おやつ作りへ早速取り掛かろう。

 真新しいエプロンに袖を通し、三角巾から長い髪を結ったポニーテール揺らしたアイリスフィールの隣で、シロウはイリヤスフィールの髪を編み込み、同じようにポニーテールで括り上げた。視界の端でセラから睨まれた気がしたが、はてどうしてだろうか。内心で首を傾げたシロウだが、結局わからないので放置する事とした。因みにリーゼリットはリビングのソファーでだらだらしながら見学している。

 全員がエプロンと三角巾を付けたなら、次はしっかりと手を洗わなくては。爪の先から指の間の皺まで、細かく隅々まで泡を通し、徹底的に洗い流す。ごっこ遊びとは言え飲食店を経営するのだ。シロウとイリヤスフィールは完璧に雑菌消毒を行う。後はダイニングテーブルへ向き直る。

「先ずは……」

 作るのは簡単なホットケーキだ。料理初心者向けの市販されているホットケーキミックスを使い、混ぜて焼いて作る。そうしたら完成だ。誰でも美味しく作れる上に、お手軽におやつにもご飯にもなる素晴らしい粉である。如何にダークマター製造一級検定余裕合格の素質があろうアイリスフィールであろうと、これでは手も足も出まい。一体何と張り合っているのやら。とりあえずレシピ通りに進めて欲しい事を伝え、シロウはパッケージの裏にあるレシピを見易い位置に設置する。

「えっと……粉と卵と牛乳をボールに入れたら良いのよね?」

「お待ち下さい、奥様。目分量では無く、ちゃんと計りで分量を計って下さい」

「アイリスフィール、お菓子作りは繊細な科学と変わらない。魔術師的に考えれば、アインツベルンの庭である錬金術だろう。全ての工程をキッチリ定められた手順に準じなくては完成には辿り着けない」

「錬金術……そう考えるとわかりやすくなったわ」

 料理を一般人がするものと認識するからわからなくなるだけで、魔術師であるアイリスフィールは決して繊細な作業が苦手である訳では無い。

(……いや、アインツベルン製のホムンクルスは聖杯と深い繋がりがある特別製だったな。たしか……工程を飛ばして魔術の行使が可能だったか……いや、待て。それだと結局繊細な作業は……待て待て。まだホムンクルス全てがそう言うものと決まった訳では無い。今は聖杯戦争中で無いのだから、彼女が仮に小聖杯であってもその恩恵があるとも……待て。その理屈だと我がマスターに矛盾が……でもイリヤは今大聖杯に接続されて……そもそもお嬢様育ちだったか? ……?)

 そこまで考えて、シロウは思考を放棄した。そもそも人への指導中に余所事を考えるとは失礼だろう。それに畑違いの事はよくわからない。イリヤスフィールに聞くともっとややこしい事になりそうなので、そっと思考の奥へと仕舞って置く事にして手を動かした。

「どうしたの、アーチャー?」

「いや、何でも無い。失礼した」

 アイリスフィールの隣で、彼女と同じようにボールの中へ卵と牛乳を入れて混ぜるイリヤスフィールへ、シロウはそっと首を振った。

「さて、もう一味加えよう。マヨネーズだ」

「マヨネーズ? トッピングに使うのですか?」

「いや、生地に入れる」

「生地に?」

 シロウがエコバッグからマヨネーズを取り出せば、セラは目を見張った。

「生地にマヨネーズを入れるとグルテンに作用してふっくらと仕上げる事が出来る。それに量も大さじ一程度で味も気にならんよ。何せ原材料は同じ卵だ。他にヨーグルトでも同じ効果が得られる。もう1つにはそちらを入れてみよう」

「まあ、理屈はわかりますが……」

 した事がないのだろう。未だ眉間に皺を作ったまま、それでも講師役のシロウが言うならば、とアイリスフィールの生地へマヨネーズを加えた。シロウもイリヤスフィールの生地に加え、改めてよく掻き混ぜる。そして篩に掛けた粉を合わせ、少し玉になってしまっている部分を指摘してそれぞれのものを窺う。アイリスフィールにはセラが付いている為だろうか、滑らかな生地が出来ていた。

「では生地をプレートへ」

 生地がしっかりと混ざったのを確認し、シロウは温めていたホットプレートへ薄くサラダ油を敷いた。その上に彼がお玉で掬った分を落とすと、正確に図ったような円が綺麗に広がった。

「凄いわ……ホットケーキみたい」

「ホットケーキですよ、奥様」

「正真正銘のホットケーキだが」

「ホットケーキミックスからは基本的にホットケーキしか出来ないわよ、お母様」

「いーぃにおーい」

 小さな気泡がプツプツと浮かぶ。フライ返しを持ったシロウは、その下へ差し込んでゆっくりとひっくり返した。すると均等な小麦色が顔を出し、食欲を刺激する甘い香りが強く立ち上がる。

「さて、焼き上がったぞ」

 シロウはアイリスフィールの前に何時の間にか作っていたホイップクリームをトッピングし、更に角切りバターを添えた出来立てのホットケーキを置いた。そして、こちらも本当に何時の間に準備していたのか、背後のキッチンから甘いバラの香りを立てる紅茶を持ち出して来る。可愛らしい花が散りばめられたカップとポットは店から持参してきた物らしい。一般家庭での料理教室が、途端にちょっと豪華なお茶会の場へと様変わりする。無骨なホットプレートがあべこべに感じる光景を作っていた。

「まあ、美味しい!」

 一口ホットケーキを食べたアイリスフィールは、その単純であるものの優しい味わいと柔らかさに瞳を輝かせた。

「本当にマヨネーズが入っているなんてわからないわ」

「これは……なかなか」

「お、いい感じじゃん」

「当然よ、お兄ちゃんが作ったんだもの!」

「イリヤ、手元を見ないと崩れるぞ」

 試作品一号に満足していただけたようで、その感想を聞いたイリヤスフィールは我が事のように胸を張る。えっへんとドヤ顔をして引っくり返したホットケーキは、弟が予想した通りに歪な形となって鉄板に着地した。

 

「はぁーー……今日は朝から疲れたぁーー」

「イリヤ、どうしたの?」

「今ママが帰ってきてるんだけど……」

 学校からの帰り道。今まで以上の友情を育み、無事に――特に喧嘩していたわけではないが――仲直りを果たしたイリヤと美遊は、手を繋いで仲良く歩いていた。と言うより、朝からべったりデレデレの美遊がイリヤに張り付いている為に、イリヤに美遊が絡み付いている、と表現すべきだろうか。とにかく仲良く帰路を進む二人は、しっかりと互いの指を絡め、強く強く繋がり合っていた。

 イリヤの朝から見られた疲労困憊の原因を知った美遊は、キラキラと瞳を輝かせた。

「会ってみたい……」

「え……?」

「イリヤのお母さん……ダメじゃなければ、ちゃんと挨拶したい」

「ダメじゃないけど……」

「ホント?」

 絶対に駄目と言う理由もない。歩きながら悩んでいると、もう自宅の近くまで差し掛かっている。

(友達を紹介するのなんて、普通だよね……)

「えっと……美遊・エーデルフェルトです……イリヤスフィールさんとは良くして貰ってて……えっと、末永くお互いを支え合いながら……」

(なーんか……ちょっと雰囲気が違うような……)

 頬を染めて瞳を潤わせながらぼそぼそと自己紹介の練習をする友達に、このまま紹介して良いのかと何故か悩んでしまう。要らぬ誤解を与えかねないような……親から変に勘繰られるなんて、ちょっと所でないショックを受けそうだ。

(ええーいっままよ! なるようになるさ!)

 さあ我が家へ到着だ。玄関を開けようと手を伸ばしたイリヤだった――が、玄関脇の庭に見間違いと思いたい人物を発見してしまった。

「「え?」」

「■■■■■……」

 昨夜戦ったクラス『バーサーカー』のサーヴァント・ヘラクレスが、そこにいた。

「「~~~~ッ!!?」」

 声にならない悲鳴を、イリヤの美遊は上げた。無理もない。昨夜の無慈悲ともされる暴力の嵐、そしてその脅威を未だ色濃く刻み込まれているのだ。わすれる事は出来ないあの恐ろしい存在が、日常の象徴である自宅の庭先にいる。腰を抜かさなかっただけ立派と言えるだろう。

 慌ててステッキを取り出そうとするが、今は昼間で、場所は住宅街の自宅だ。人に見られる可能性が高く、確実にこの時間は家族が在宅中である。魔法少女活動を家族に秘密にしているイリヤは勿論、魔術は隠匿すべきもの。戦闘は避けたい、と彼女たちは躊躇いから身動きがとれなくなる。

 そんな彼女たちを知ってか知らずか、バーサーカーも動かない。じっとイリヤたちをただ眺めるだけで、厳つい眼光で見下ろしてくる。敵意があるのかないのか。そもそも何故ここにいるのか。訊きたい事が次々に押し寄せるが、疑問は次に襲いかかった衝撃によって四散した。

「バサカちゃーん♪ おかわり出来たわよー♪」

「■■■■■ー♪」

「ば、バサカちゃんーー!?」

 庭の奥から現れたイリヤの母――アイリスフィールによって。

 アイリスフィールは娘が目を見開く目の前で当たり前のようにのほほんとバーサーカーへホットケーキを渡すし、くるりと着けるエプロンを広げてイリヤを出迎えた。

「イリヤ、お帰りなさい。そちらはお友達かしら?」

「いやいやちょっと待ってよママ! 何で普通に進めてるの!? これどういう事!? 何でバーサーカーとママが一緒にいるの!?」

「まあ、もうイリヤとバサカちゃんはお友達だったのね。良かったわね、バサカちゃん」

「■■ーー!」

「わたしは良くないよ!! 何これどうしてこうなったわけ!?」

「…………さきに……ともだちの……あいさつされた……」

「ミユはミユで変なショック受けて真っ白になってるしーー!!」

(『これ……出て行くべきでしょうか……』)

(『ルビーちゃん的にはもう少し楽しみたいので待機推奨ですね』)

「貴方もイリヤのお友達なのね。イリヤのママのアイリスフィールです」

 美しく微笑んだアイリスフィールに手を握られ、そこで美遊は彼方から色を取り戻した。

「あ、あの……わたし……あの……」

 あんなに練習したのに、いざ本番となるとなかなか言葉が出てこない。早く言わなくては、と焦るせいか、余計に今度は頭が真っ白になって同じ言葉ばかりを繰り返してしまう。

 ぎゅっと無意識にイリヤと繋いでいた手に力が入った。汗が滲み出してもいる。

「あのね、ママ」

 その手を、イリヤは握り返してくれた。

「ミユはね、わたしの友達なんだ」

「そう、ミユちゃんって言うのね」

「あ、はい。美遊・エーデルフェルトです。あの、向かいの家に住んでて……イリヤの、友達です」

「ミユちゃん、これからもイリヤの事をよろしくお願いするわ」

 イリヤ(友達)とアイリスフィールが微笑んで受け入れてくれている。意図せず力の入っていた肩を軽くした美遊は、イリヤの自宅に来てから固まっていた表情を崩した。

「はい。不束者ですがよろしくお願いします」

 そして、練習通りの挨拶を成し遂げたのであった。

「え、」

 因みに、イリヤが想定していた誤解は――

「そ、そうだったのか……こちらでの君たちはそう言った関係を……」

 何故かエプロンを着けて現れた遠い目をするアーチャーと、

「へー……こっちのイリヤ()ってそうなのね……」

 何故か同じエプロンを着けてニヤニヤとするイリヤスフィールヘ与える事となった。

「なん、ちがっな――何でいるのぉーーーーっ!?」

 想定外の登場人物二人の追加に、もう何から突っ込めばいいのやら。

 混乱して赤面したイリヤは、目を回して叫ぶ事しか出来なかった。

「私がお招きしたの」

「どうして!? て言うかどこで知り合ったの!?」

「まあ、その……立ち話も何だ。中に入ってはどうかね?」

「そんなに叫ぶと近所迷惑よ」

 さて、ツッコミ疲れでゼェハァ言うイリヤが背を押され、家人を漸く玄関から迎えたアインツベルン邸。そのリビング。バーサーカーは大き過ぎるので、生憎と庭に居るままホットケーキを食べている。どうしてホットケーキなのか、と言う問いをするまでもなく、答えはアイリスフィールが勝手にペラペラと喋った。

「久し振りに帰った来たから何かお料理をしてみたかったのだけれど、朝は失敗しちゃったでしょ? 今日の夕方にはキリツグの所に戻らないといけないからおやつくらいはちゃんと用意したいなって思ったの。それをアーチャーにお願いしたら快く受け入れてくれたのよ。優しいわよねー。それでホットケーキを作ったから、ミユちゃんも是非食べていってくれると嬉しいわ」

 なるほと、そういう事か。

 アーチャーのおやつと聞いて口の中に以前食べたアップルパイの美味しさが甦る。じわっと口腔内に溢れた涎を飲んだ彼女たちは、次に目の前に飛び込んで来た光景に歓声を上げた。

「おお~~っ!」

「すごい……っ」

 ダイニングテーブルの上には、色とりどりのホットケーキが並んでいた。

 定番のプレーンに加え、カットフルーツがふんだんに飾られた物、生クリームがかかった物、チョコレートソース、キャラメルソース、ジャム各種、キャラ型、筆休めに惣菜ケーキ、と様々なホットケーキがテーブル一杯に並べられている。ちょっとしたホットケーキ限定のスイーツパラダイスだ。

「これ全部ママが作ったの!?」

「えっへん! 頑張りました!」

「些かバリエーションに富み過ぎて余計に作ってしまった感が否めないが、これだけの人がいれば食べ切れるだろう」

 そう言ってキッチンから現れたアーチャーは、新しい皿を持っている。まだあるのか。朝の母とはもはや別人レベルに大成長を遂げた感動を味わっているイリヤは、最後に追加されたそれを見て先以上の声と拳を握った。

「何これすごい! すご過ぎるよ! こんなん写真でしか見た事ない!」

「こ、これ、何センチあるの?」

「マスターからのリクエストで十五センチ前後だ」

「じゅうごせんち~~~!」

 アーチャーが持って来たのは、彼の言う通り厚さ十五センチのホットケーキだった。

 生地を泡立て器できめ細かい泡立ちになるまでかき混ぜ、空気を多く含ませる事によりしっとりふわふわ厚焼きに仕上げる事が出来るのだが、とても根気と体力、丁寧な火加減の扱いが求められる。流石にこれはアイリスフィールには早いだろう、とマスターからのリクエストもあり、一人台所で作業をしていたアーチャーは、メインゲスト二人の反応に厳つい顔を僅かに綻ばせた。

「さあ、イリヤ。それにミユちゃん。召し上がれ」

「いっただっきまーす!」

「いただきます!」

 まずはアイリスフィールが差し出した、ハチミツシロップがふんだんにかかったケーキを一口。シロップを吸った生地はしっとりとしているが、口を動かすと生地に染み込んだ甘さがじわりと口一杯に溢れる。思わず口から飛び出そうな程の甘さに、二人は口元を押さえた。

 言葉にならない。早く感想を言いたいのに飲み込んでしまうのが勿体なく思えてしまう美味しさ。だけれど早く飲み込んでもっと沢山食べたい。味わいたい。そう思っている間に、何と呆気ないのか。無意識に喉は動き、二人は瞬く間にホットケーキをお腹の中へ納めてしまっていた。

 そして、

「おいしい~~」

「おいしい……」

 幸せの感想は、勝手に口から出て来ていた。

「ふふっ喜んで貰えてよかったわ!」

 愛娘とその友達の感想に、アイリスフィールと頬を染めて笑顔を浮かべる。あまり普通の親らしい事は出来ていなかっただけに、母親として手作りのおやつを味わって貰える事は喜びもひとしおだ。

 イリヤスフィールとアーチャーは、そんなこの幸福な世界に浸る彼らから少し離れ、バーサーカーの居る庭に出てホットケーキを味わう。当然彼らが作ったホットケーキも美味しいが、夢のような光景の話し声へ耳を傾ければ、どうしても胸があたたまってしまう。悪い事ではない。だからこそ、それを邪魔しない為に彼女たちは彼女たちで、そして自分たちは自分たちで境界を引く。

(いつか……そう、これはいつか終わる夢なんだから……)

 そう、夢見た自分に言い聞かせ、大好きなお兄ちゃんが作った幸福を、イリヤスフィールは小さく切り分けながら口にしていった。

「あの、奥様……そろそろ飛行機へ搭乗する時間が……」

「あら、もうそんな時間なの? もっとお話していたいけど、そろそろ出ないと飛行機に乗れなくなっちゃうわね」

 元々昨夜の内に日本を離れるつもりであったアイリスフィールに、もう伸ばし切れないタイムリミットが差し掛かった。セラから申し訳なさそうにかけられた声に、アイリスフィールは惜しむように立ち上がって玄関へと向かう。

「そっか……気を付けてね、ママ」

「ええ。なるべく早く帰って来れるよう、キリツグと一緒に頑張って来るわ。ミユちゃん、これからもイリヤと仲良くしてね」

「はい。今日はありがとうございます」

「どういたしまして。じゃあ、行ってくるわね」

 イリヤたちとミユに見送られ、アイリスフィールは自宅を出て行く。途中、庭の方を向けば、ちらりと見えた別の世界の家族たちから小さく手を振られた。何だかんだとお菓子作りに付き合ってくれた優しい彼ら。きっと彼らがこの街に居る限り、アイリスフィールと切嗣が守りたい大切な家族は無事だろう。少しだけ得られた安心感。けれどそれに胡座をかく事は出来ない。彼らも大切な家族だけれど、きっと瞬く間の住人だ。彼らが永遠にこの世界に居るとは限らない。もしかしたら、次に帰国した時には居ないかもしれない。

 だから、ちゃんとした当たり前の幸せを手に出来るよう頑張って来よう。愛しい愛娘の元へ、今度は夫と共に、当たり前に帰れるように。

(行っちゃった……)

 見えなくなった母。気が付けば、いつの間にか庭に居た筈のイリヤスフィールたちの姿も消えていた。

 気が付けばあっと言う間の出来事だったかのように思える。

 前までは当たり前ではなかったけれど、この短い数日間ですっかり馴染んで来ていた不思議な日常も、ずっとは続かない。

(今日が、きっと最後になる……)

 再び美遊と色とりどりのホットケーキを食べながら、イリヤも改めて覚悟を抱き、迫り来る時へと目を向けた。

 そして、

「――ああ、ついに……ついに、辿り着いた……シロウ、私は必ず貴方へ報いましょう」

 歪な空の下。大きな橋の上で、彼女もまた、覚悟を確かめる。

「貴方の死を、無駄にはしません」

 

 

 

 

 

 セイバー戦執筆中……

 




ごめんなさい(土下座)
セイバー戦頑張ります(土下座)

4/30 誤字報告ありがとうございます

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