ラストダンスは終わらない   作:紳士イ級
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037.『浴場』【艦娘視点】

「長門さん! ありましたよ、携帯型集音器が!」

「よし、でかした! 青葉、いけるか⁉」

「はい! いつでも準備万端です! フフフ、腕が鳴りますねぇ!」

「青葉、はいこれ、集音器と無線機。聞き取りたい方向に向ければ音を拾って、無線を通してこちらにも伝わるはずよ。でも全然使ってなかったからちゃんと動くかどうか……」

「しかしテストしている時間はありませんね。すでに密談は始まっているはず……一刻たりとも無駄には出来ません」

 

「貴様一人に危険な役目を押し付けてしまって済まないが……」

「何を言っているんですか、那智さん! 適材適所! この青葉にもってこいの任務じゃないですか。……それに、青葉は古株であるがゆえに横須賀鎮守府に所属していますが、ここの重巡の中で最も性能が低く、恥ずかしながら戦闘面ではあまり頼りになりません……そんな青葉がこうやって歴戦の皆さんから頼られるというのは、案外悪い気分では無いのですよ! それでは青葉出撃、いえ、潜入取材、行ってきまーす!」

 

 入渠施設の入り口前。

 青葉は私達にビシッと敬礼し、慣れた手つきで物音一つ立てずに男湯の扉を開き、するりと中へと入って行った。

 私達は少し離れた物陰からただその背中を見つめ、無線機を片手に見送るしかできなかった。

 

 それは遡る事数分前。

 浴場に向かってしまった佐藤元帥と提督を追う訳にもいかず頭を抱えていた私達の前に現れたのは、明石、夕張、青葉の三人だった。

 事情を説明すると、明石と夕張はみなまで言うなと言わんばかりに工廠に駆け出し、数分後、倉庫の中から引っ張り出してきたのか、小型無線機と携帯型集音器を差し出してきたのだった。

 二人を待っている間、青葉は無言で屈伸や伸脚など柔軟運動をこなしており、それに私達が何かを言う事も無かった。

 頼んでもいないのに、明石も夕張も青葉も、真っ先に提督の正体を詮索するという判断を下したのだ。

 まるで艦娘全員の気持ちが一つとなったようなこの感覚は、あの夜戦の時に感じたものと同じだった。

 

 私達の置かれた状況を共有、把握し、明石と夕張がその状況を打破する為の機器の存在を思い出し、用意し、唯一男湯にすら突撃できる潜入技術と記者根性を持つ青葉が潜入する。

 各自が自分の能力とやるべき最善の役目を正しく認識し、指示をするよりも前に身体が動くようなこの感覚――それは間違い無く、私達が『提督の領域』と呼んでいる高みにあるものだった。

 戦闘時以外、それも元帥命令に背くような形でこの感覚が再び現れようとは思いもしなかったが――。

 

「でも、集音器準備した私が言うのもなんだけど……本当に良かったの? 提督の事詮索しないようにって、元帥命令が下ってるんでしょ?」

 

 夕張の言葉に、私達も上手い言い訳を探す事が出来なかった。

 肯定などできやしない。

 どう考えても擁護できない行動に出ている。

 故に私も、他の皆も、腕組みをして沈黙するしか無かった。

 どう言い繕っても、元帥命令が下った直後から無視しているという事実は否定できない。

 たとえ命令違反だとわかっていても、盗聴という褒められるべきではない行動に頼ってでも、謎の多い提督の事をもっと知りたい……そうとしか言い表せない。

 私だけではなく、ここにいる全ての艦娘がきっとそう思っているのだ。

 確かめるような事を言った夕張すらも、きっとわかっている。

 

 ちなみに、ここにいる全ての艦娘とは、佐藤元帥の出迎えに向かった七人に明石達三人を合わせた十人の事――では無い。

 明石と夕張が集音器を用意している間に、只ならぬ雰囲気に気が付いた他の艦娘達も次々に集まってきたのだった。

 遠征に向かった面子を除く全員が、である。

 昨夜の疲労で休んでいた第十駆逐隊の四人や、天龍と龍田さん、鳳翔さんに間宮さんまで、全員が、である。

 その誰もが、私達が行おうとしている愚行に対して、夕張が問いかけるまで何も言う事は無かったのだ。

 規律に厳しい妙高さんや香取さん、鳳翔さんに至るまでが――。

 

 私達はすでに、艦隊司令部の言う『人に逆らう兵器』に十分当てはまってしまっているのかもしれない。

 今までであれば、元帥命令に逆らうなんてありえない事であった。

 規律や命令を無視して、感情で動く事など、断じてあってはいけない事であった。

 やはり、提督と出会ってからだろうか。私達がどこかおかしくなってしまったのは。

 

 しかし、これだけの人数が集まっていては、何かあった時に流石に目立ちすぎる。

 バレてしまうリスクも高くなるように思えるし、その時の連帯責任も広がってしまう……。

 責任を負うのは中心となったメンバーだけに抑えたいところなのだが……他の面子も席を外してはくれないだろう。

 せめて駆逐艦達だけでも巻き込まれないよう、離れてもらおうか……。

 川内さん、神通さん、那珂さんの言葉ならば、駆逐艦達も素直に従ってくれるだろう。

 

「しかし流石に人数が多すぎるな……よし、駆逐艦はこの磯風を除いて全員席を外せ」

「何で磯風だけ当たり前のように残ろうとしとるんじゃ!」

「抜け駆けはしないと昨日私達に約束したばかりですよね?」

「かぁ~っ! こいつぁふてぇ野郎だ! 浦風、浜風、とっちめちまえ!」

「こ、こら! やめろ谷風! 司令の片腕たるこの磯風がここを離れるわけには……!」

「いつ磯風が提督の片腕になったんじゃ!」

 

 もう磯風は本当に黙っていてくれないだろうか……。

 浦風達に押さえられているどさくさに紛れて、他の駆逐艦達と一緒に席を外してもらうのもありかもしれない。

 私が川内さんに声をかけようと足を踏み出したところで、私の前に立ちふさがったのは霞ちゃんだった。

 その目を見るに、どうやら私の意図していた事はすでに読まれていたようであった。

 

「大淀さん、何で私達だけ除け者にしようとするのよ?」

「か、霞ちゃん……そういう訳じゃなくて。後で私達からちゃんと話すから」

「私達もあの司令官に命を預けてるのは同じでしょ。聞く権利はあるはずよ。私達も直接聞かせてもらうわ」

「で、でも」

「聞かせてもらうから」

「あ、あのね?」

「聞かせてもらうから」

 

 あまりに揺るぎない霞ちゃんの眼差しに私も言葉を詰まらせてしまう。

 そんな私の肩にぽんと手を置いて、足柄さんが小さく首を振った。

 

「こうなったら説得は無理よ。いいじゃない、皆に聞かせてあげましょう?」

「あ、足柄さん……しかし」

「佐藤元帥にバレた時の責任を考えているんでしょう? ここまで来たら、もう一蓮托生でしょう。一人で抱え込まないで」

 

 足柄さんにそこまで言われてしまっては、もはや何も言える事など無いのだった。

 私は諦めて大きく溜息をつき、霞ちゃん達、駆逐艦に向けて口を開いた。

 

「わかりました。ただし、もしもバレてしまいそうになった時には、巻き込まれぬよう一刻も早く身を隠して下さい。それが条件です」

「私は嫌よ」

「か、霞ちゃん……」

「除け者にされるのは嫌だって言ったつもりよ。権利を主張した以上、責任だって果たすわよ」

「霞の言う通りだぜ。大淀さん、あたい達だって子供じゃねーんだ」

「清霜も一緒に謝るよ!」

「大淀、だから無理ですって。諦めましょう?」

 

 足柄さんに、再び肩に手を置かれてしまったのだった。

 霞ちゃんだけではなく、朝霜に清霜、その他大勢の駆逐艦の意見も同様のようであった。

 謝って済む問題では無いという事を清霜はわかっているのだろうか……。

 それを説明するのも、説得するのも骨が折れる。

 私は再度諦めて、明石が手に持つ無線機に目を向けたのであった。

 

≪――ザザッ……いや、大体わかった。君がここの提督になってくれて、本当に助かったよ。ありがとう――≫

 

「! 聞こえた! 皆、静かにっ」

 

 明石の声に、全員同時に息を飲んだ。

 少しノイズがかかっているが、何とか聞き取れる。

 佐藤元帥の言葉から推測するに、おそらく先ほどまでは、提督に先日の状況を訊ねていたようだ。

 その内容は先ほど私が説明した事や、報告書に記載していた内容と変わらないはず。

 幸運にも、どうやら聞き逃しても問題無い内容であったようだ。

 後は、ここから新たな情報が得られるかであるが……。

 

≪い、いえ。私は何も――≫

≪――ザッ……謙遜する事は無い。あの夜の大戦果は勲章ものだよ――ザザッ……おそらく近いうちに、君の功績を称えて勲章が与え――ザザッ≫

≪ザザッ……ザザザッ――≫

 

「ほう、勲章か……あの大戦果ならば当然だろうが……フフ、胸が熱いな……」

 

 長門さんは満足気に頷きながらそう呟いたが、私達は皆同じ事を思ったことだろう。

 あの夜はまさに、この国の生死を左右する分水嶺と言っても過言では無かった。

 誰もが予測できなかったであろう深海側の奇襲を見事読み切り、大きな被害を出す事なく迎撃してみせた提督の功績は、勲章が与えられて然るべきであると私達ですら思う。

 

「しかし、着任初日からあれだけの大戦果を上げ、勲章を与えられた提督が今までいたでしょうか……」

「いえ、私が知る限りは……やはり提督は凄い御方なのですね」

「ふふ、何だか私達が誇らしくなってしまいますね」

 

 赤城さんと翔鶴さんが声を潜めながらそう話していた。

 二人だけではなく、それを聞いていたほとんどの艦娘達がうんうんと頷いている。

 勲章が授与されるという事は提督の功績が認められたという事。

 それは艦であるが故の性質なのか、提督の指揮下で戦った私達にとっても、まるで自分の事であるかのように嬉しく思うのだ。

 だが、次に私達の耳に届いたのは、全く予想だにしない言葉だった。

 

≪――ザザッ……いえ、佐藤元帥。身に余る光栄な事なのですが――ザッ……辞退させて頂くというのは可能でしょうか≫

 

「なっ……⁉ ばっ、馬鹿な……⁉」

「せっかくの勲章を辞退やと……⁉ な、何を考えとるんや、司令官は……⁉」

 

 思わずそう口走った那智さんと龍驤さんだけではなく、私を含めた他の全員も動揺を隠せていなかった。

 静寂は消え、ざわめきが辺りを包み込む。

 何故、一体、何故――⁉

 どうして、着任初日からあれだけの大戦果を上げたという功績を称えられる名誉を捨てるような真似を――⁉

 私達の動揺はどうやら、佐藤元帥も同じように感じているようだった。

 佐藤元帥の驚愕の声に続き、提督の凛とした声が届く。

 

≪えぇっ⁉ ど、どうして――ザザザッ≫

≪あの戦いは、私は何もしておりません。頑張ったのは艦娘達です。私への勲章ではなく、彼女達の功績を称える形にして頂きたいのです≫

 

「……アホや、うちらの司令官は本物のアホや……! どこまで、どこまで自分の事は二の次で、うちらの事を……!」

「えぇ、おそらくこれは私達の風評を良くする為に……」

 

 顔に手を当てて、龍驤さんは声を絞り出すかのようにそう言った。

 加賀さんも表情こそ冷静ではあったものの、思い当たるものがあったのであろう、小さく肩を震わせている。

 そう、提督の功績ではなく、戦場で奮戦した私達の功績であると主張するという事は、『人間に逆らった兵器』である私達に汚名返上の機会を与えてくれているのではないだろうか。

 着任初日にしてこの国の危機を防いだという、ご自分の大きな名誉の証である勲章と引き換えに――。

 そしてあの提督ならば、そう考えてもおかしくはないという根拠が、私達の胸の中にはあった。

 

「提督はあの夜、皆さんが戦場に赴くのを見ている事しかできない自分が悔しいと、一人で隠れて、目が赤くなるほどに泣いていらっしゃいました……あの戦いで提督は何もしていないという言葉は、その気持ちの表れなのかもしれませんね」

 

 鳳翔さんが静かにそう言うと、皆も少し落ち着きを取り戻したように思えた。

 すでに間宮さんから聞かされていたが、そう、提督はそういう考えを持っているようなのだ。

 夜を徹しての長期戦であったあの戦いにおいても、提督は一睡もせず、食事もとらずに私達の身を案じ、見守ってくれていた。

 深海棲艦の挙動を読み切り、完璧な迎撃の舞台を整えてなお、最終的には見守る事しかできない自分を恥じている。

 そんな提督ならば、大戦果を上げた名誉を称えられる事すらも、自分には相応しくないと思ってしまうかもしれない。

 称えられるべきは私ではなく、実際に戦場に向かい、勇敢に戦った艦娘達なのだと――。

 

≪君の言う事も理解はできるが……自分達の提督が勲章を貰うという事は、彼女達にとっても誇らしい事だと――ザザッ……≫

 

「この磯風も佐藤元帥と同意見だな……司令の名誉は我々の名誉も同然だぞ。勲章を受け取るよう、今から誰か説得しに行ってきてはどうだろうか。私は御免だがな」

「いや盗聴しとるのバレてまうやろ! そ、それにさっきも言うたけど、男湯に女の子が入るのはやっぱ色々マズいっちゅーか……」

「貴女の独特なシルエットならきっと大丈夫よ」

「お前ホンマにしばくぞ!」

 

 加賀さんと龍驤さんは置いておいて、おそらく磯風の意見はここにいる全ての艦娘の意見とも一致しているだろう。

 提督の名誉は私達の名誉も同然――提督には理解しがたい事なのかもしれないが、それは気を遣っている訳ではなく、本心からそうなのだ。

 故に、提督のお気持ちは嬉しいが、やはり提督自身が勲章を授与されるべきであると私も思う。

 しかし――私達はまだまだ提督の領域から程遠いのだと、私達はすぐに思い知らされる事になった。

 

≪そうかもしれませんが……ザザッ……今回は勲章を辞退する代わりに、私のお願いを聞いて頂けないかと――ザッ……≫

≪――ザザッ……何だい?≫

≪彼女達の為に――ザッ……何とか資材を融通して頂けないでしょうか≫

 

「なっ……⁉」

 

 それは誰の声だったかわからなかった。

 誰もが同じような声を思わず漏らしてしまったからだ。

 

 私達の為に、勲章を辞退する代わりに資材を融通してもらえるように、元帥に交渉を――⁉

 何と言う事だ。これは全くの盲点というか、ある意味で禁じ手に近い。

 艦隊司令部は戦況に応じて各鎮守府間の戦力、資材等の管理を総括、調整する役割も持ってはいるが、鎮守府における備蓄管理は、基本的には各鎮守府の運営に含まれている。

 故に出撃と遠征のバランスを考え、適切なスケジュールを組み、常に備蓄には余裕を持たねばならない。

 やむを得ない事情があるならばまだしも、自己管理が出来なかった挙句に「出撃したいのですが備蓄に余裕が無いので、他の鎮守府から融通してもらえませんか」などと、言えるはずも無い事であったのだ。

 普通であれば、他の鎮守府に対して恥ずかしくて言えるはずもない。

 

 だが、現在の横須賀鎮守府は、前提督による無計画な運用により資材は擦り減り、一か月かけてある程度回復した備蓄も、先日の迎撃作戦で再び枯渇寸前にまで陥っている。

 ここまで追い込まれてもなお、備蓄は各鎮守府の自己責任で何とかせねばならないという思いが私達の中には刷り込まれていた。

 いや、それに気付いて私達が提案したとしても、艦隊司令部はそれを許可してくれただろうか。

 人間に逆らった兵器がそれを口にするのは、あまりにも虫の良すぎる話ではないか。

 そうなると、艦娘兵器派なる派閥からすれば、再び主導権を得るために弱みに付け込むような物言いをしたかもしれない。

 

 しかし、あれだけの戦果を上げたのならば。

 提督自らが、前人未踏の大きな名誉をあえて辞退し、それと引き換えに頭を下げたのならば――。

 私達の立場は守られるのではないか。

 

 提督はご自分の名誉よりも、私達が安心して戦える『今』を見ていた。

 自分の胸に煌びやかな勲章が光ろうが、それが何になろうか。

 私達がそれを誇りに思おうが、それが何になろうか。

 それよりも、何よりも、艦娘達が万全に戦える環境を整える事こそが、第一優先。

 またしても、またしてもこの御方は、ご自分の事は二の次で――!

 

≪ザッ……ふむ、なるほど。報告書を見た限り、確かに備蓄に余裕は無かっ――ザザッ……ならば迅速に、という事……ザザッ――≫

≪はい――ザッ……出来得る限り、大至急で≫

≪わかった。君への勲章の辞退が認められるかは――ザザッ……艦娘達の功績を称える事と、資材に関しては私が何とかする事を約束しよう――ザザッ……≫

≪ザザッ――本当ですか⁉ ――ザッ……ありがとうございます! 助かります!≫

 

 耳に届くその声だけで、提督が安堵の笑みと共に、佐藤元帥に深く頭を下げる姿がありありと目に映った。

 私達はもはや何も口にする事が出来なかった。

 恥ずかしかったのだ。

 何故、せっかくの名誉を遠慮しているのだ、せっかくなのだから受け取って欲しいと考えていた自分達の思慮の浅さが、何よりも恥ずかしかった。

 提督はあの大戦果にすら気を緩めず常に私達の事を考えてくれていたというのに、私達はあの大勝に舞い上がり、名誉に目が眩んで何もわかっていなかった。

 勝って兜の何とやら。

 それを常日頃から口癖にしている那智さんと浜風さえも、己を恥じるように目を閉じて、肩を震わせていた。

 横須賀鎮守府はまだまだ、気を抜けるような状態では無いというのに――。

 

「……しかし、ご自分の勲章と引き換えとはいえ、元帥相手に直接交渉とは、提督も意外と大胆というか、(したた)かというか……」

「えぇ。これは正攻法ではなく明らかに(から)め手とでも呼ぶべきものですよね。それを何の躊躇(ちゅうちょ)もなく実行する辺り、本当に底が見えないですね……」

 

 香取さんと妙高さんが声を潜めながらそう話していた。

 妙高さんの言う正攻法とは、現在私が行っているような遠征による備蓄回復優先の作戦を実施する事であろう。

 大型艦の出撃を控え、出撃自体の頻度を押さえ、燃費の良い駆逐艦や潜水艦による遠征を集中的に行う事、これこそが正攻法であり、常識であり、一般的な、王道だ。

 だが、今回提督の行った事は、私の中の常識では有り得ない、艦隊司令部への直接交渉という搦め手であった。

 恥にも外聞にも囚われず、ご自分の名誉と引き換えに、頭を下げて、最も手っ取り早く資材を回復できる方法を実行した。

 そう、昨夜の歓迎会の間も、提督は今後の備蓄について考え続けていたではないか。

 提督の頭であれば、あの時にはすでに、この搦め手も一案として考えついていたのかもしれない。

 正攻法の備蓄管理に関しては私に一任し、提督にしか実行できない搦め手はご自分で引き受ける……。

 いや、そもそも考えついたとしても一切の躊躇なく実行できるものなのだろうか。

 大勝の余韻が冷めやらぬ内から、あの大戦果の名誉ですらも、次に活かす為の手札として考える思考……その領域!

 

 本当に……あの人の底が見えない……!

 

≪何、他ならぬ君のお願いだ――ザッ……無下に断るわけにもいかない――ザザッ……それにしても、勲章よりも艦娘達への資材を優先するとは……≫

 

「……『他ならぬ君』? 『無下に断るわけにもいかない』? ……ねぇ、千歳お姉、佐藤元帥と提督って、元帥と提督なのよね?」

「え、えぇ千代田、言いたい事はわかるわ……どういう事かしら。なんだか、元帥と提督って関係じゃないみたい」

「フフフ、オレにはわかるぜ。あの提督は只者じゃない。何せこの天龍様を旗艦に」

「天龍ちゃんには聞いてないわ~」

 

 佐藤元帥が何気なく発した言葉に、艦娘達が再びざわめき始めた。

 何しろ、明らかに元帥という立場の御方が、部下である提督にかける言葉では無かったからだ。

ただの部下の一人であるのならば、『他ならぬ君』などと表すだろうか。

『他ならぬ君』のお願いだからこそ、無下に断るわけにもいかない、などと表すだろうか――。

 先に佐藤元帥を出迎えに向かい、すでに提督が只者では無い身分にあるのではと推測している私を含めた七人は無言だった。

 いや、磯風だけが意味深にドヤ顔で腕組みをしており、なんだか非常にうざったかった。

 

≪勲章なら、昨夜暁に貰いましたから――ザザッ……何よりの宝物です――ザッ……≫

 

「まぁ……! うふふ、六駆の皆に直接聞かせてあげたかったですね。帰投したら早速教えてあげなくちゃ」

 

 間宮さんが顔の前で手を合わせながら嬉しそうにそう言った。

 その隣で龍田さんもニコニコと微笑んでいる。

 間宮さんの話では、提督に勲章をプレゼントしたいという第六駆逐隊の四人と一緒に、折り紙で勲章を作ったのだという。

 提督はそれを心から嬉しそうに喜び、わざわざ胸元につけてもらったとの事。

 そう言えば先ほども顔を合わせた際にも、勲章に見えたかどうかはともかく身に着けていたところを見るに、本当に心から気に入っているのだろう……。

 間宮さんや龍田さんだけではなく、気付けばほとんどの皆がほくほくとした笑みを浮かべていた。

 私もそうだ。提督の優しさが、想像しただけで微笑ましく暖かい。

 

「本物の勲章には見向きもしないというのに、あの折り紙の勲章を宝物と……フフ、胸が熱いな。私は一度も貰った事は無いが、その気持ちはわかるぞ。どうやら私も提督の領域が理解できて」

「長門さんのそれと一緒にしないで下さい」

「な、何故だッ……⁉」

 

 反射的に長門さんに冷たい言葉を投げかけてしまったが、実際、提督の領域は理解するにはまだまだ遠すぎると思う。

 大きな名誉の証である勲章さえも資材と引き換えにするというある意味で冷徹な感覚と、暁達の作った折り紙の勲章を心から喜ぶ暖かな感受性が同居するその中身は、理解できたと言うにはあまりにも遠く深すぎる。

 提督の事を考えれば陽だまりのような暖かさを感じるにも関わらず、何故だろうか、時に背筋が凍るような感覚に襲われるのは。

 その姿に、不安を覚えてしまうのは――。

 

 不意に無線機から届いた、ノイズまみれの佐藤元帥の言葉に、私はその正体を知る事になる。

 

≪ザザザッ……――そうか。その調子で、皆と――ザザザッ……ザザッ……――ところで、身体の具合はどうだい?≫

≪……身体、ですか?≫

≪あぁ、君の……ザザザッ――ザーー……ザザッ……――この一年間は、心身を病んで自宅療養中――ザザザッ……ザッ……≫

 

「えっ――」

 

 時が、止まった。

 一瞬にして、私達の周りを静寂が包み込んだ。

 

 集音器の調子がおかしいのか、ノイズが多く聞き取れない部分が多かったが、重要な部分、いや、重大な事実だけが、まるで運命のいたずらのごとく、私達の耳にはっきりと届いたのだった。

 

 提督の身体の具合が……?

 この一年間は、心身を病んで、自宅療養中……?

 

 私達は誰も、物音一つ立てなかった。

 生唾を飲み込む音すらも雑音に感じるほどであった。

 

 石のように固まりながら、おそらく私を含めた最初の七人だけは、一歩先の推測をしていただろう。

 佐藤元帥から先に得られていた情報――佐藤元帥が、何故わざわざ、提督の自宅までお願いに向かったのかという事。その答え――。

 

 おそらく提督は、この一年間、艦隊司令部から退いていたのだ。

 その原因は、佐藤元帥が先ほど漏らしたように、心身を病んだ事が原因――。

 だが、やむを得ない事情により、佐藤元帥は神堂提督に横須賀鎮守府に着任してもらうべく、その足で自宅療養中の神堂提督のもとへお願いに向かった。

 そうなると、最終手段として頼られるほどなのだから、やはり神堂提督は以前から艦隊司令部でその手腕を振るっていたのだろう。

 しかし、病により若くして退役せざるを得なくなった――。

 

 だんだんと提督の事情が見えてきた。

 佐藤元帥が口を滑らせた『彼はそれどころでは無かったというのに――』という言葉の意味は、つまり――!

 

≪――ザッ……提督の仕事は激務だから――ザザッ……せっかく調子が戻ってきていた君の体にまた負担が掛かったらと……≫

≪ザザッ……最悪の場合は手術を……≫

≪……ザッ――手術して治る病では無いだろう、君の病は――ザザッ≫

≪ザザザッ……そうですね……ザッ――≫

 

 ――提督は、手術しても治らないほどの難病を患っている――⁉

 

「――やはりそういう事かッ!」

 

 静寂の中で不意に那智さんが叫んだので、全員はびっくりして那智さんに目を向けた。

 それを咎める事無く、妙高さんは冷静に那智さんに声をかける。

 

「那智、何か気付いたの? どういう事かしら」

「クソッ……! 何故昨夜の内に気付かなかった……! あの男、我々にとんでもない事を隠していた……!」

「落ち着いて。皆にわかるように、ひとつひとつ説明しなさい」

 

 那智さんは大きく息を吐くと、足柄さんをギロリと睨みつけて声をかけた。

 

「……足柄。貴様、提督が途中で離席した時の状況に詳しいだろう。まずはそれを詳しく話せ」

「え、えぇ。その、お酒を呑み過ぎたみたいでお腹を下してしまったみたいで……でも、私は皆にそれを伝える為にすぐに戻ったわ。提督の事は天龍に任せていたの」

「良し。おい、天龍。貴様、奴に付き添ってすぐに厠に連れて行ったのか?」

 

 那智さんの問いに、天龍は特に戸惑う事も無く言葉を返した。

 

「あー、いや、提督の部屋まで連れて行ったぜ」

「えっ……⁉ あんなに遠くまで……? すぐそこのお手洗いに向かわなかったの⁉」

 

 足柄さんは目を丸くしながらそう言った。

 この時点で、私を含む数人の艦娘はその違和感に気付いていたようだった。

 

「いや、オレもそう言ったんだけどよ、部屋でついでに済ませたい用があるって言うから……」

「その用とは一体なんだった⁉」

「確認の終わった報告書を執務室に持っていきたかったらしいぜ。でもよ、オレも忠告したってのに、結局部屋に向かう途中で痛みがひどくなったみたいで、大変だったぜ。ひーひー言いながら脂汗かいちまって……歩くのも精一杯って感じでよ」

「そこまで一緒にいて何故気付かんのだ貴様は……!」

 

 那智さんは苛立ちを押さえるように前髪を掻き上げた。

 天龍はまだ気付いていないようであったが、ほとんどの艦娘達はすでに那智さんの言いたい事が理解できているようであった。

 

「あぁ? な、何だよ、どういう事だよ龍田」

「い~い? もしも提督がお腹を下していたのなら、近くのお手洗いで用を足してから、部屋に報告書を取りに行くのが普通でしょう?」

「そ、それくらいオレでもわかる! だからオレだって最初に提督にそう言ったんだぜ?」

「あら~、天龍ちゃんにしては上出来~♪」

「フフフ、まぁな……おい、だから結局どういう事だよ」

 

 パチパチと拍手しながら、龍田さんがちらりと私の方を見た。

 面倒臭くなったのだろうか……。

 私はコホンと咳払いをしてから、天龍だけでなく皆の方を見て、口を開いた。

 

「いいですか。正常な思考回路をしていれば、今龍田さんが言ったように行動するのが当然だと判断できるのが当たり前なんですよ」

「おう……なるほどな。つまり、アレか。提督は正常な思考回路じゃねぇと」

「そんなわけないでしょう⁉ 何でそうなるんですか⁉」

「な、何だよ、違ぇのかよ?」

 

 龍田さんが口元を押さえながら笑いを堪えて肩を震わせていた。

 厄介な仕事を人に押し付けておいてこの人は……。

 私は大きく溜息をついて、説明を再開する。

 

「提督の思考回路は当然ですが正常です。そうなると、提督が激痛に苦しんでまで部屋に向かうのを優先した事がおかしいと思いませんか?」

「そ、そりゃあそうだな……つまり、どういう事だよ」

「提督の行動は全て理にかなっていると考えれば答えは導けます。何故、提督は近くのお手洗いに向かわなかったのか……それは、『お手洗いに向かう事では痛みが解決できなかったから』です」

「はぁ? いや、だけどよ、提督は腹が痛ぇって……」

「おかしいのは提督の行動ではなく、その前提条件だという事です。提督がお腹を下したという事が嘘。痛みに苦しみながら部屋へと向かったのは、『部屋へ向かう事こそが、痛みを解決する為の唯一の手段だったから』……!」

 

 そこまで言って、天龍はようやくぽんと手を叩いた。

 提督が難病を患っており、それを私達に隠していたという事実で、ようやく点と点が繋がった。

 そう、酒を呑み過ぎて腹を下したというのは嘘――。

 もしも腹を下したのが事実であれば、その痛みを堪えたまま自室へ向かう意味は皆無……!

 実際には、おそらく患っている難病に関わる症状が提督を襲ったのだ。

 天龍の話によれば、あの常に凛とした表情が崩れ、苦悶の表情を浮かべるほどに、激痛に襲われていたとの事。

 その痛みを抑える為に、提督は自室に向かった。

 そうする事でしか、その痛みは抑える事が出来なかったのだ。

 おそらく提督の自室には、症状を抑える為の薬の類が持ち込まれているのだろう。

 

 提督は私達に病の事を隠すために、余計な心配をかけないために、腹を下したなどと嘘をついていたのだ――。

 

「クソッ……戻ってくるのが遅すぎるとは思っていたが……そう考えれば、戻ってきてからの挙動もおかしかった」

「そ、そうじゃ、提督さん、帰ってきてうちらの相手してくれとる時も、何だかやけに眠そうじゃった……。のう、夕雲」

「えぇ、浦風さんの言う通りです。私が夜戦演習に向かう前には、すでに眠っていたようでしたね」

「夕雲達が川内姐さん達に連れられていってから、提督さんは眠くなったけぇ、顔を洗ってくると言うて外に出ようとしたんじゃ。そしたらいきなり倒れてしもうて……今思えば、やけに慌てとるようじゃった」

「提督が服用したのが痛み止めであると仮定すると、かなり即効性があるもの、そして鎮痛力のあるもののようですね。そうなると、私もあまり詳しくはありませんが、副作用として強い眠気に襲われるものがあると耳にした事があります。それこそ、モルヒネのような麻薬の一種などは……」

「ま、麻薬……⁉」

 

 那智さんと浦風、夕雲の言葉に続いて、赤城さんがそう口にした。

 私はその様子を目にしてはいないが、提督は部屋から戻ってきて再び駆逐艦達の相手を始めた時から、やけにうとうとと眠そうだったという。

 そして浦風に顔を洗ってくると言って歩み出したが、外に出る前に崩れ落ちるように眠ってしまったという……。

 考えてみれば、そんなに急に眠ってしまう事など有り得ないだろうし、あの場でいきなり気絶する要因があるはずもない。

 しかし、強力な薬物の作用であるならば、即効性のある鎮痛効果と同時に強い眠気が現れたとするならば――!

 

「そう言えば、提督がいきなり崩れ落ちて眠ってしまったのはお酒の呑み過ぎだと思っていましたけれど……今朝の様子を見るに、全然お酒が残っている様子は無かったですね。提督がお酒に強いと自称していたのは本当でしょう。そうなると、あんなに崩れ落ちるように眠ってしまうのはやっぱりおかしいですね……」

 

 今朝、提督と話したという間宮さんもそう言っていた。

 提督は今朝、こちらが心配になるほどに深く眠り、この時間になるまで目を覚まさなかった。

 だが、全く酒が残っているような様子は無かったという。

 ここまでくると、全てが繋がる。

 提督が服用したのは相当強力な鎮痛剤――その副作用により、強い眠気に襲われた提督は崩れ落ちてしまったのだ。

 つまり、提督が患っている病の症状のひとつは、そこまで強力な薬でなければ抑えられないレベルの激痛であるという事――。

 

「……私は提督に合わせる顔がありません……」

「妙高姉さん……」

「私はもしかすると、足柄のカレーを食べられなかった事すらも想定内なのではないかと邪推して、一時は、お説教をしようかと考えていました……しかし、実際は」

「えぇ……提督が楽しみにしてくれていたのは、この私が一番わかっているもの。きっと、予想外の激痛で、食べたくても、食べられなかったのね」

「提督は私達に心配をかけぬようにと痛みに耐えて……呑み過ぎて腹を下したなんて、情けなく聞こえるような嘘をついて……そんな提督の気持ちも知らないで、私は……提督にどんな顔を合わせれば……!」

 

 固く目を瞑り、自分自身への腹立たしさからか肩を震わせる妙高さんに、翔鶴さんが優しく声をかけた。

 

「妙高さん……私と同じですね。私も提督に合わせる顔が無くて……」

「翔鶴さんも……?」

「はい……全く気付かずに、提督の眼の前で下着を見せつけるような見苦しい真似をしてしまって……」

「そ、それと一緒にされるのはちょっと……」

 

 まるでお通夜のような雰囲気で、皆落ち込んでしまっていた。

 しかし、その中で、明らかに周囲と異なる挙動をしていた二人が、不意に目に映った。

 

「あ、あわわわ、あわわわわ」

「と、利根姉さん、どうしましょう」

 

 ……利根さんと筑摩さんが、異常なまでに動揺していた。

 明らかに様子がおかしい。

 私はとんとんと利根さんの肩を叩き、声をかけた。

 

「利根さん、筑摩さん、もしかして、何か心当たりでも?」

「ギクッ⁉ い、いや! 何でもないぞ! 吾輩達は何にも知らん!」

「いや、それにしては様子が……」

「し、知らぬと言っておるじゃろう! それに、知っておったとしても言えるはずがなかろう! 提督命令じゃからな!」

「提督命令⁉」

「あぁっ⁉ しもうた!」

 

 その場の全員の視線が利根さんに集中した。

 那智さんが利根さんの胸倉を両手で掴み上げ、ガクガクと揺さぶりながら睨みつける。

 

「利根ッ! 貴様ァーッ! 何を隠しているッ! 大人しく吐けッ!」

「ぐおぉぉーッ⁉ 筑摩ーっ! ちくまァーーッ⁉」

「な、那智さん落ち着いて下さい! 話します、話しますから! 放してあげて下さい!」

 

 筑摩さんに宥められて、那智さんは利根さんの胸倉から手を離した。

 涙ぐみながらゼェゼェと息を切らす利根さんであったが、その背を撫でながら、筑摩さんがおずおずと口を開いたのだった。

 

「その、黙っていたのは、申し訳ありません……提督命令でしたので」

「それについて責める気は無いが……ここまできたら話すしかないだろう」

「はい。どこから話すべきなのか……まず、つい先ほどの話なのですが、提督が壁を背にして、まるで物陰に隠れているような様子であったところに、偶然遭遇したんです」

「えぇっ、司令官さん、いくら探しても見当たらないと思ったら……」

 

 筑摩さんの話を聞いて、涙目の羽黒さんがそう言った。

 確かに、よくよく考えてみれば入れ違ったにしてもあまりにも出来過ぎてしまっているような気がする。

 甘味処間宮から艦娘寮まで、回り道をする理由も無いだろう。

 だというのに、鹿島と羽黒さんは、数十分もの間、提督の姿を探し回っていたのだという。

 

「その……提督は何でもないと仰っていたのですが、今にして思えば、おそらくあの時提督は、羽黒さんと鹿島さんから隠れていたのだと思います」

「どっ、どういう事ですかっ⁉」

 

 鹿島の問いかけに、筑摩さんは言葉を続ける。

 

「私達はその時軽く雑談をして別れたのですけれど……その後すぐに、提督が鼻から血を流して苦しんでいるのに利根姉さんが気付いて……」

「えぇっ⁉ りゅ、流血してたんですかっ⁉」

「はい、全く前触れも無く……しかし、提督にはその兆候がわかっていたからこそ、羽黒さん、鹿島さんから隠れていたのではないでしょうか」

 

 私達は予想だにしない事実に絶句してしまった。

 まさか、つい先ほど、提督が病の症状に苦しんでいたとは……。

 しかも、激痛だけではなく、鼻から流血するほどの症状に……!

 ついさっき顔を合わせた時には、そんな様子など微塵も感じさせなかった。

 提督の演技力、そして精神力の成し得る嘘に、私達は見事に騙されていたという事だ。

 筑摩さんは更に言葉を続けた。

 

「慌てて駆け寄った私達に、提督はこう言いました。苦しそうに壁に手をついて、ゼェゼェと息を切らせながら……『元々鼻血が出やすい体質なんだ、大袈裟に騒ぐな』と。そしてこう念を押されました。『この事は決して誰にも言うな、これは提督命令だ』と。『この事は皆には伏せておいてくれ。余計な心配をかけたくないのだ』と……しかし、これは矛盾していると思ってはいたのです」

「矛盾?」

 

 天龍がそう首を傾げると、筑摩さんはこくりと小さく頷いた。

 

「矛盾とは、物事の辻褄が合わないという意味で、元々は中国の故事から――」

「いやそれぐれぇはオレでもわかってるよ! ナメてんのか!」

「し、失礼しました……その、元々鼻血が出やすい体質であり、大袈裟に騒ぐ事が無いのであれば、むしろそれは前もって皆さんに伝えておくのが普通ではありませんか。それでこそ、心配をかけずに済むと思います。しかし、提督は絶対に口外しないように強く念押ししてきました。提督命令と口にしてまで……私は、こちらこそが重要な事だったのだと思っています」

「なるほどな……そういう事か」

「今度は一回で理解できたのね~♪ 天龍ちゃん凄~い」

「フフフ、まぁな……って馬鹿にしてんのか」

 

 筑摩さんの言う通りだ。

 もしも大した事では無いのであれば、提督から皆に「鼻血が出やすい体質だから、もし鼻血が出たとしてもあまり慌てるな」とでも前もって言っていれば大騒ぎになる事は無いだろう。

 それくらいの事は、提督ならばわかるはずだ。

 だが、提督命令とまで言って、それを口外する事を防いだという事は……つまり知られてはまずいという事だ。

 提督の患う病に繋がる症状だとするならば、提督が私達に隠したかったのにも納得がいく。

 焦りのあまり、提督も思わず短絡的に、打つ手を間違ってしまったのだろう。

 

「提督の言う通り、すぐに鼻血は止まって、私達は再び別れたのですが……提督の様子が気になって、実はこっそり遠くから様子を窺っていたんです。すると、それから数十分もの間、物陰でじっとして動きませんでした。羽黒さんと鹿島さんの呼びかけにもやはり気付いているようでしたが、むしろ見つからないようにと身を隠しているように見えました……まるで、早く症状が治まってくれとでも祈るような表情で……」

「そ、そんな……グスッ、司令官さん、私達に心配をかけない為に……?」

「おそらく、そういう事かと……」

 

 筑摩さんの推測は、おそらく正しいだろう。

 そうなると、提督が語っていた、羽黒さん達と偶然入れ違ったかのような発言も――やはり嘘か。

 羽黒さん達に見つからないように、身を丸くして物陰に隠れ、早く治まってくれと祈る提督の姿が脳裏に浮かんだ。

 私達に余計な心配をかけぬよう、提督は昨夜もつい先ほども、自身に巣くう病と人知れず戦っていたのだ。

 

「……そういえば、今日は珍しく大人しいのね。いつものように茶々を入れないのかしら」

「正直ちょっと疑ってるところもあるけど……私にだって、流石に疑っていい事と悪い事の分別くらいはあるよ」

「そう……いい子ね」

「……加賀さんうるさい。な、撫でないでよっ」

 

 加賀さんと瑞鶴がじゃれ合っているのに構わないように、利根さんが止まらない涙と共にようやく口を開いた。

 

「グスッ、ひっく、わ、吾輩は、提督の事を思うと、あまりに不憫で……! こんな、こんな、人間に歯向かった兵器と罵られる吾輩達を救う為に、病に蝕まれている身体に鞭打って、ひっく、ふ、二つ返事で着任し、グスッ……それにも関わらず、加賀には不当に睨みつけられ、那智には胸倉を掴まれて……ひっく、それでも吾輩達の事を想い、心配をかけぬよう、惨めに物陰に隠れ、下手な嘘をついて、人知れず苦しんでおる提督の事を思うと、ひっく、わ、吾輩は、吾輩はっ……!」

「利根姉さん……」

「お、おい! 加賀はともかく、私は奴の胸倉を掴んでなどいないぞ! さりげなく捏造するな!」

「私は悪い子ね……」

「か、加賀さん元気出して! ほらっ、提督さんも水に流してくれてたし!」

 

 泣きじゃくる利根さんの言葉に、加賀さんが深く落ち込んでしまっていた。

 提督が隠していたとはいえ、その背景を知ってしまった今、私達の心に何が去来したか。

 あの方がどんな覚悟で横須賀鎮守府に着任したのか、私達は知らなかった。

 それを知ってしまった、今。

 八つ当たりのようにきつく当たってしまっていた事を思い出し、落ち込んでしまう者。

 提督の想いを感じ、涙を堪えられない者……。

 提督が必死に隠していたこの秘密は、果たして私達が本当に知ってしまっても良い事だったのだろうか。

 

≪……ザッ――佐藤元帥……ザザッ――私にここまで――ザザザッ……ザーー……――≫

≪何を言って……ザザッ……ザッ――君を支えるのが私の仕事――ザザッ……私は――ザッ、君の――ザザッ……ザザザッ……――なんだよ――ザッ……≫

≪ザザッ――ザー……≫

≪君の身の上――ザザッ……――ザザザッ……ザーー……若い内に両親を亡くし、唯一の男――ザッ……妹四人……ザザザッ……――感心な……ザザッ……支え――ザザッ……ザーー……≫

 

 無線機から再び声が届いたので、私達は話と思考を切り上げた。

 どんどん集音器の調子が悪くなっているようで、ノイズがひどくなっている。

 おまけに何やら妙なメロディまで紛れ込んでいる。

 聞き覚えがある。佐藤元帥の携帯電話の着信音だろうか。

 かろうじて聞き取れた部分もあるが……。

 

「『君を支えるのが私の仕事』? ねぇ、千歳お姉、佐藤元帥と提督って、本当に元帥と提督なのよね?」

「え、えぇ千代田、言いたい事はわかるわ……そうね、まるで佐藤元帥が下の立場にあるような……『私は君の〇〇なんだよ』って、一体何なのかしら」

「付き人とか、世話役とか、側近、とか……?」

「ま、まさか……それじゃあまるで、提督がやんごとなき身分にあるような……」

 

 千歳さん達の会話にあえて私は何も言わなかったが、他の皆のざわめきがひときわ大きくなった。

 私はそれよりも、その後に聞こえた部分、『君の身の上。若い内に両親を亡くし、唯一の男。妹四人』という新情報について考えていた。

 

「大淀。提督の家族構成、聞き取れたか」

「はい、長門さん、何とか……この情報から考えるに、神堂家において現在提督が当主の座にあるという事ですね」

「あぁ……両親を亡くし、長男、それも唯一の男子か。もしもそれ相応の家系であるならば、その理由だけでも、このような場所に置いておきたくは無いだろうな」

 

 予想がだんだんと確信に変わっていく。

 それと同時に、提督が横須賀鎮守府にいるという状態こそが、むしろおかしな事なのではないかとすら考えてしまうほどだ。

 手術をしても治らぬほどの難病に侵され、今も不意に激痛や流血を伴うほどの症状に苦しんでおり、退役して自宅療養中であったという事。

 元帥に頼み込まれるほど卓越した艦隊指揮能力の持ち主であり、あの若さで、おそらくはその手腕を艦隊司令部の中心で発揮していたであろうという事。

 やんごとなき家系における長男であり、唯一の男子であり、現在その当主の座にある立場という事。

 どれか一つだけでも、人間に逆らった兵器と呼ばれる私達に囲まれる横須賀鎮守府から異動させるには十分すぎる理由になる。

 

 いや、まだ提督が隠している身分や地位については、推測の域を出ては――。

 

≪――ザザッ……いいかい。艦娘達への建前上、彼女達の前では元帥と提督として振舞ってもらう――ザッ……しかし、君だけは提督の中でただ一人、事情が違う。君が望むなら私は君の手足となって、いつだって陰から全力で支えるつもりだ。決して遠慮しないでくれ≫

 

「…………」

 

 集音器の調子が戻ったのか、佐藤元帥の声が明瞭に聞き取る事が出来た。

 誰一人、言葉を発する事が出来なかった。

 確定してしまった。佐藤元帥と神堂提督が『元帥』と『提督』として振舞っているのが、あくまでも私達艦娘への建前である事が、確定してしまった。

 神堂提督だけがただ一人、他の提督とは事情が違う事が確定してしまった。

 佐藤元帥は。『元帥』が。

 神堂提督の為ならば、その手足となって、陰から全力で支えるらしい。

 元帥が、提督の為に。

 

 ――到底有り得ない事であった。

 

 言葉だけではなく、おそらくもう思考も止まってしまった。

 考えすぎて頭が壊れないように、安全装置が作動したかのようだった。

 

 提督は、何者なのか。

 今更ながら、佐藤元帥の言葉通り、詮索しないのが正しかったように思えてきた。

 

≪ザザッ……ありがとうございます……あっ、さっきから携帯鳴ってますよ≫

≪ふむ、本当だね。山田くんかな……済まない、ちょっと出てくるよ≫

≪はい。ごゆっくり≫

 

 はっ、と正気に戻った。

 いけない、どうやら佐藤元帥が脱衣場に戻って来るようだ。

 青葉の存在がバレないといいのだが……。

 電話の内容も聞き取る為、私は唇に人差し指をつけて、周囲の皆に目配せをした。

 全員、無言でこくりと頷く。

 

≪もしもし、ごめん。待たせてしまって≫

『~~~~』

≪あぁ、ようやく彼と二人きりになれてね。艦娘達には聞かれてはならない事だったから……それで、何かあったのかい?≫

『~~~~』

≪な、何だって!?≫

『~~~~』

『~~~~』

≪わかった。すぐに戻るよ≫

 

 流石に電話の内容までは聞こえないが……艦隊司令部からの電話のようだ。

 どうやら佐藤元帥が急いで戻らねばならない用ができたらしい。

 一体何事だろうか……。

 

 ガラガラと浴場の扉を開ける音に続いて、佐藤元帥が提督に、急用が出来たから急いで戻る事になったと伝える声が届いた。

 物音から察するに、おそらく提督も脱衣所に戻って来たようだ。

 い、いけない。妙な事を想像しないようにしなければ……。

 神通さんはすでに何かを想像してしまったのか、すでに耳の先まで真っ赤になっていた。

 

≪神堂くん……急な事だが、状況が変わった。つい先ほど……~~~~≫

≪えっ≫

≪艦隊司令部の……~~~~……≫

 

 ……佐藤元帥の声が明らかに聞こえづらくなった。

 おそらく扉一枚向こうで私達が聞き耳を立てている事を警戒しての事だろう。

 脱衣所にいてもなお抜け目が無い……つまりそれだけ私達が警戒されているという事だ。

 事実、扉一枚向こうどころかすでに脱衣所に潜入済みであるという状況である以上、我ながら警戒されて当然だと思うが……。

 それにしても一体何事だろう。佐藤元帥が急いで戻らなければならないような、状況の急変とは――。

 私の思考に続いて、提督の声が佐藤元帥のそれとは違い、はっきりと届いた。

 

≪そ、それでは私はお役御免という事でしょうか……≫

 

「なっ――⁉」

 

 思わず声が漏れそうになるのを必死に堪えた。

 提督がお役御免になる状況とは、それはつまり――⁉

 

≪いや。太平洋側の守りを強化すべく、新たに呉鎮守府を置く事が以前から検討されていてね。今までは艦娘の数と提督候補に余裕が無かった為、実現できなかったのだが……まだ確定ではないが、今後は横須賀、舞鶴、佐世保、大湊に呉を加えた五つの拠点に提督、艦娘達を再編成する事になるだろう。つまりまだ君には力を貸してもらう事になると思う≫

 

 続く佐藤元帥の言葉に、私達は、ほっ、と胸を撫で下ろした。

 青葉が集音器の方向と設定を微調整したのか、佐藤元帥の声もはっきりと届くようになった。

 やはり装置だけ設置するのではなく、リスクは高いが潜入する作戦を採用して正解だったようだ。

 予想外のトラブルに対して、青葉も高度な柔軟性を維持しつつ臨機応変に対応してくれている。

 

 なるほど、佐藤元帥の言葉から推測するに、おそらくは新たな提督の着任準備が整ったという事だろう。

 まさか前提督ではないかとも思ったが、それにしてはあまりにも期間が短すぎる。おそらく別人だ。

 神堂提督はそれで自分と入れ替わりになるのではと考えたが、佐藤元帥の推測では、新たに呉鎮守府を設置する事になるだろうと。

 確かに、呉鎮守府を新たな拠点として置く事は、以前から提案され続けてきた事だ。

 このタイミングで実行されたとしてもおかしくは無い。

 

 ――しかし、嫌な予感がする。

 改めて考えてみれば、新たな鎮守府を置くという事は、提督、艦娘の再編成が行われるという事だ。

 現在四つの拠点に配属されている艦娘を、五つの拠点に再編成するという事。

 神堂提督は今後も横須賀鎮守府にいてくれるかもしれないが、私達の中の数人は、確実に神堂提督の下から去らねばならない――。

 いや、それどころか、最悪の場合――。

 

≪それに加えて、舞鶴鎮守府の周辺海域はほとんど攻略が完了していてね。舞鶴の提督……露里(つゆさと)くんというんだが、彼も、今後は舞鶴鎮守府を数が多く練度が十分では無い駆逐艦達の演習兼、近海警備の為の拠点にしてはどうかと意見具申をしてきているんだ≫

≪は、はぁ≫

≪佐世保と大湊に挟まれている地の利もあり、今後は舞鶴方面への大規模な侵攻も無いと推測される為、彼の意見にも一理ある。露里くんが提案しているように、運用するのが主に軽巡や駆逐艦、海防艦となれば、備蓄に頭を悩ませる事も少なくなる。そこで一つの提案なんだが、森盛くんをここに着任させ、代わりに君が舞鶴鎮守府への異動というのはどうだい? このまま横須賀鎮守府にいるよりは、君の心身への負担は各段に軽くなる。悪くない話だとは思うのだが……≫

 

 ひときわ大きなどよめきが、私達の周囲を包み込んだ。

 

「――アカン……! 大淀、これはキミが想定していた最悪の場合に限りなく近いで……!」

 

 龍驤さんの言葉に、他の皆も私に注目した。

 

「はい。前提督ではなく新たな提督が着任するという違いはあれど……神堂提督が横須賀鎮守府を去るという点では変わりありません……!」

「クッ……! 無理もない……! あの若さで元帥に認められるほどに神がかり的な艦隊運用能力に加えて、発作的に激痛や流血を伴う難病を患い、本来ならば退役し、今も自宅療養中であった身……! 加えて明らかに只事では無いであろう身分に、その家の現当主、たった一人の男子だぞ……⁉ どれ一つ取っても、すぐにでもここから連れ戻したいに決まっている……!」

「更にここはこの国最大の拠点、横須賀鎮守府……人間に逆らった兵器と警戒される艦娘に囲まれながら、この国の心臓部を守るという重責を背負わねばなりません。ただでさえ虚弱な提督の心身への悪影響も去る事ながら、直接戦火に巻き込まれる可能性も十分にあります。先日の戦いも、ひとつ間違っていたら鎮守府も火の海となっていた事でしょう……」

 

 私の言葉に続いて、長門さんと神通さんがそう口にした。

 更に、香取さんと妙高さんが続けて口を開く。

 

「佐藤元帥は、舞鶴鎮守府への異動を提案していましたね。確か、すでに近海の攻略は完了しており、今後は駆逐艦達の演習や近海警備の拠点となる予定であると……」

「大規模侵攻も無く、部下の艦娘達も、逆らった前科の無い駆逐艦達のみ。積極的に出撃する事もなく、備蓄に頭を悩ませる事もない。横須賀鎮守府で背負う事となる重責と比べて、提督の心身への負担や、危険に晒したくない立場を考えればメリットしかないですね」

「えぇ、提督の艦隊指揮能力を腐らせる事になりますが……おそらく佐藤元帥も、提督の御身体を心配していらっしゃるのでしょう……」

 

 沈黙が、私達を包み込んだ。

 佐藤元帥が提案したという事は、それはつまり、提督にとって悪くない話だという事だ。

 事実、考えれば考えるほどにメリットしか無い。

 艦隊司令部にとって警戒すべき艦娘である私達から離す事もできる。

 横須賀に比べて重責も軽く、提督への心身の負担は各段に少なくなるだろう。

 神堂家にとって貴重な男子である提督を危険に晒したくないと思う派閥がもしもあるとするならば、舞鶴であれば納得するはずだ。

 新たな提督も、佐藤元帥の目が行き届いているのならば、私達にとって悪い風にはしないだろう。

 

 悪くない。悪くないはずなのに、何故私はこんなにも、胸が締め付けられるのだろうか。

 

「――私は、提督と一緒にいたい」

 

 そう、小さく呟いたのは明石だった。

 明石はぼろぼろと大粒の涙を流しながら、その肩を震わせていた。

 

「提督と一緒に戦いたい! もっともっと提督と一緒に居たいよぉ……! でも、でも、これ以上負担はかけたくない……!」

「明石……」

「ワガママだってわかってるけど! 提督の負担になるってわかってるけど! それでも、私、私ぃ……どうしたらいいのよぉ……っ‼」

 

 明石に引っ張られるように、気が付けば夕張も、他の皆も、次々に涙を流していた。

 わかっているのだ。理解できているのだ。

 私達は皆、本音を言えば、提督に去ってなど欲しくない。

 もっともっと、一緒に居たい。

 

 ――だがそれは、決して許される事では無いのだ。

 

 最重要拠点である横須賀鎮守府の提督を務める事に、どれだけの重責を背負わねばならないのかという事。

 人間に歯向かった兵器と呼ばれる私達に囲まれた環境であるという事。

 現在進行形で重い病を患っているという事。

 この国の未来を担えるほどの、卓越した艦隊指揮能力を持った若者であるという事。

 おそらくその血筋すらも、護られなければならない立場にある御方であるという事。

 

 私達は、この方の近くにいたいと望んではいけない。

 

 あの人が、大事だからこそ、大切だからこそ、ここに居てはいけないのだ――。

 私達の近くにいてはいけないのだ――。

 

 ――瞬間。

 

 無線から――いや、少し離れた入渠施設の壁の向こうから、私達の耳に直接、提督の声が届いたのだった。

 

 

「佐藤元帥! どうか、私を横須賀鎮守府に残しては頂けないでしょうかっ!」

 

「確かに私はまだまだ至らない事ばかりです! それだけでなく、様々な事情を鑑みても、この横須賀鎮守府を任せるには不安が多いとは思います!」

 

「ですがっ! この横須賀鎮守府に着任し、艦娘達の顔を見て! 改めて思いましたっ! 私の居場所はここにしかありませんっ!」

 

「身体の調子も、もう大丈夫ですっ! 着任してからも何の症状も出ておりません! 少々の負担など、何の問題もありませんっ!」

 

「私に足りない部分は大淀を筆頭に、艦娘達が埋めてくれていますっ! 私自身もこれから更に精進していきますっ!」

 

「私はこの横須賀鎮守府に骨を埋める覚悟ですっ! 私の死に場所はここですっ! どうか、どうか、私を! 横須賀鎮守府に残して下さいッ‼ お願いしますっ! お願いしますっ!」

 

 

 ――提督が佐藤元帥に何度も何度も深く頭を下げる姿が、はっきりと脳裏に映った。

 

「う……うわぁぁああんっ! うあぁぁあんっ!」

 

 ――堰を切ったかのように、明石の子供のような鳴き声が溢れ出した。

 もはや、泣いていない者など一部を除いてほとんどいなかった。

 駆逐艦達はほぼ全員、声を上げて泣いていた。

 私も口元を押さえ、必死に嗚咽を噛み殺そうとしたが、そんな事は不可能だった。

 ぼろぼろと大粒の涙が零れ、次々に溢れ出し、嗚咽は絶え間なくこみ上げてくる。

 

 あの人は、あの御方は――。

 

 提督も理解できているのだ。

 ご自分が、この横須賀鎮守府にいるという事が、どれだけ多くの者に不安を与えているのかを。

 だが、それを知ってなお、提督はこう言って下さった――。

 

 この横須賀鎮守府に着任し、私達の顔を見て、改めて、自分の居場所はここにしかないのだと思ったのだと仰って下さった――!

 この一年間、酷い仕打ちを受け、提督という存在に不信感を持ち、当たり散らすような者もいた、そんな私達を見て、そんな私達だからこそ、一緒に戦っていきたいのだと――!

 

 何が、何が、身体の調子が大丈夫な事があろうか。

 昨夜も激痛に(さいな)まれ、つい先ほどですらも、流血していたほどだというのに、どの口が、着任してから何の症状も出ていないなどと言うのだろうか。

 今も一人孤独に苦しんでいるというのに、佐藤元帥にも、私達にもそれを隠して、少々の負担など、何の問題もないのだと、これからもそれを隠し続けて、激務をこなすつもりなのだろうか。

 

 私に足りない部分は大淀を筆頭に、艦娘達が埋めてくれているのだと。

 ここでもまた、私達艦娘の汚名返上の機会を与えてくれているのか。

 人間に歯向かった兵器、そんな私達が、提督を支えてくれているのだと、そう言って下さるのか――。

 

 提督は二つ返事で着任を決めたとの事であったが、その時にはすでに覚悟は決まっていたのだ。

 横須賀鎮守府に骨を埋める覚悟を――自分の死に場所はここだと――!

 自宅で静かに生き永らえる事よりも、この御方は、戦場で私達と共に戦い、ここで果てる事を決めていたのだ。

 厳しすぎるほどの荒唐無稽な指揮、神がかり的な艦隊運用、そしてあの暖かな優しさ。

 提督は、文字通り命を削って、私達に生きた証を残そうとしてくれているのではないか。

 こんな、こんな、私達の為に――!

 

「テートク……! ぐすっ、テートクゥ……!」

「うっ、うっ……司令……!」

「は、榛名……榛名っ、感激ですっ……ひっく、ひっく、こ、こんなに、こんなにも想ってもらえていたなんて」

「これはデータ以上の……いえ、もはやデータでは計りきれないわね……」

 

「うぉぉおお……! ひっく、筑摩っ……! グスッ、ぢぐまぁぁ……!」

「えぇ、利根姉さん……。嬉しいですね、本当に……こんなにお優しい方の下で戦えるなんて」

 

「うぇぇん……! し、司令官さん……! うぇぇえん!」

「羽黒……泣きすぎよ、グスッ」

「足柄も人の事は言えんぞ……いかんな、目にゴミが……!」

「フフ、那智もね。そして私も……でも、今、この時ばかりは……泣いていたって、誰も何も言わないわよ」

 

「香取姉……っ! 私っ、悔しい……! ひっく、グスッ、私、提督さんの力になってあげたい……! グスッ、香取姉みたいに、提督さんに頼られるようになりたいよぉ……!」

「えぇ、鹿島……きっと、なれるわ。貴女なら……」

 

 金剛型四姉妹、利根型姉妹、妙高型四姉妹、香取型姉妹――誰もが、皆、泣いていた。

 仕方が無い。こればかりは仕方が無いではないか。

 あんなにも、あんなにも熱い想いをぶつけられてしまっては――。

 

「フフフ、提督の奴、やっぱり只者じゃねぇな。この天龍様を乗りこなすには、あれくらいじゃねぇとな」

「……そうね~。天龍ちゃんとも、もっと仲良くしてもらわないとね~♪」

 

「ひっく、グスッ、せ、川内姉さん、那珂ちゃん……!」

「うん……本音を言うなら、これからも一緒に戦いたいね、あの提督と……」

「うぅっ、提督、引退しちゃダメ~! 那珂ちゃんのプロデュースは始まったばかりなんだから!」

 

 龍田さんや川内さんなど一部の艦は泣いていなかったが、それでも提督の熱い想いは、確かにその胸に火を灯していたようであった。

 提督――。

 司令官――。

 提督さん――。

 司令――。

 胸に灯った火の熱を確かめるかのように、誰もがそう呟いていた。

 

「明石、気持ちはわかるけれど……やっぱり、提督は、舞鶴に異動した方がいいと思うわ」

「うっ、うっ……夕張、わかってる。私だって、わかってる……! 提督に、生きていて欲しいから……! 死んでほしくないから……!」

「えぇ、だけど、たとえ離れてたって、提督の為に戦う事は出来るはずよ……グスッ、ほ、ほら、明石が泣き止まないと、また提督が慌てちゃうわよ」

「グスッ……うん……!」

 

「アホや……! うちらの司令官は救いようの無いアホや……! うちらの事より、自分の命が第一やろ……! 自分の身よりも、平和、艦娘……あの、アホ……!」

「……加賀さん、私、悔しいです。提督の病に対して何もできない、戦う事しかできない無力な自分が……」

「赤城さん……えぇ、そうね。だけど、私達は戦う事が出来るわ。提督が一番大切に思っている、この国の平和……いつか静かな海を取り戻す事が出来るのは、私達だけよ」

「加賀さんの言う通りですね。それこそが、戦う事しかできない私達が提督の力になる唯一の方法……頑張りましょう、瑞鶴」

「……うん、翔鶴姉。もしも本当に提督さんの命が長くないのだとするなら……せめて、その命がある内に、静かな海を取り戻すんだ!」

 

「あぁ、胸が熱いな……! 皆っ! 瑞鶴の言う通りだ! たとえ提督が横須賀鎮守府から去ったとしても! 提督の想いに報いる為、一刻も早くこの海の平和を取り戻すぞ!」

 

 長門さんの檄に、大きな歓声が上がった。

 提督の声で、私達の心に火がついた。

 信頼という名の燃え盛る炎が渦を巻き、天を焼かんばかりの勢いで今にも体中から噴き出しそうなほどであった。

 

≪……そうか。いや、わかった。君の熱意はしかと受け取ったよ。だが、この件は私の一存で決められる事では無い。これに関しては、また連絡する事にするよ≫

≪はっ、はいっ! どうかよろしくお願いしますっ!≫

 

 無線機から届いたその声から、おそらく提督の望みは叶えられないだろうと無意識に感じた。

 たとえ提督本人が望もうとも、それを良しとしない周囲の力は、提督や佐藤元帥の一存ではどうにもならない。

 いや、むしろこの件に関しては、佐藤元帥すらも、提督の意思とは一致していないだろう。

 そして、その覚悟はすでに、私達にも出来ていた。

 

 ほんの短い間だったけれど。

 貴方のような人間が、貴方のような提督がいるのだと知る事ができて本当に良かった。

 それだけで、たったの三日間で、私達は十分すぎるほどに、救われたのだ。

 

 貴方には、これからは身体に負担をかけぬよう、舞鶴で自身を労わりながら、なるべく長く生きていてほしい。

 貴方がいる、ただそれだけで――私達はどこまでも駆けて征ける。

 悲しいけれど、胸が苦しくなるけれど――。

 

 私達は全員、提督が横須賀鎮守府を去るだろうという現実をこの胸に刻んだのだった。

 

 潜入、盗聴というハイリスクな手段であったが、それに見合うだけのハイリターンを得る事が出来た。

 今回の青葉の潜入によって得られた情報はかなり大きい。

 後は、提督と佐藤元帥が出てきた後に、青葉が気付かれる事なく脱衣所から抜け出せば作戦終了だ。

 もしも青葉の存在がバレてしまったら、元帥命令にさっそく背いて私達が詮索していた事がバレてしまったら、想像したくも無い、最悪の事態に――。

 

 瞬間。

 

『ひゃっ……ひゃああああああっ⁉』

 

 ――青葉の甲高い悲鳴が、無線機と、脱衣所の壁の向こうから、同時に聞こえてきたのだった。

 




お待たせいたしました。
ようやく冬イベが終わりましたね。
私は今回は諸事情によりほとんど掘りができませんでしたが、地味に谷風をお迎えできたのが嬉しかったです。
乙改なるものが実装される磯風も早くお迎えしたいのですが、しばらく無理そうです。
提督の皆さん、お疲れ様でした。







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