ラストダンスは終わらない   作:紳士イ級

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060.『手加減』【艦娘視点】

『提督……井手田(いでた)提督』

 

 およそ一年以上前の事だろうか――。

 その日は朝から小雨が降り続いていた。

 閉じられた扉に向けた時雨の言葉に、入室するよう返事が返ってくる。

 時雨が扉を開けると、一人の老人が穏やかな表情で迎え入れてくれた。

 

 井手田提督――神堂提督の前任、葛野(くずの)提督の更に前任の提督である。

 歴代の横須賀鎮守府提督の中でも、佐藤提督――現在の佐藤元帥と並んで優しく大らかで、艦娘達から好かれていた人物であった。

 また、歴代で最も高齢の提督で、先の大戦を少年時代に経験していたという事もあり、艦娘達が実際に『艦』であった時代を知る唯一の提督でもあった。

 そういう事情もあって艦娘達を敬う姿勢も強く、艦娘達からも特に慕われていた。

 一部の艦などはまるで祖父のように慕っており、時雨もまた、彼の事を特別に信頼していたのだった。

 

 ――そんな井手田提督が、今まさに横須賀鎮守府を去ってしまう。

 

『もう、荷物はまとめ終えたの?』

『あぁ。元々そんなに私物は持ち込んでなかったからね』

『そう……』

 

 高齢であるが故に、これ以上前線で指揮を執る事が難しくなってきた事が原因であると、艦娘達には本人から説明が成された。

 加齢に伴う身体機能や認識能力の低下。それを理由に出されてしまっては、艦娘達もそれ以上引き留める事が出来ず、惜しみながら退役を受け入れたのだった。

 それにも関わらず時雨がたった一人でここに来たのは、井手田提督が何かを隠していると思ったからであった。

 

 『引き留めるつもりはないんだけど……僕にだけ、正直に教えてほしいんだ。絶対に誰にも口外しない。提督は、本当に老いが原因で退役するの?』

 

 時雨のまっすぐな瞳を見据えて、井手田提督はしばらく沈黙した後、自嘲気味に小さく笑った。

 

『……正直に、か。正直に言えば、老いが原因なのは半分事実だ。寄る年波には勝てない……皆が色々と手伝ってはくれたが、やはり提督の仕事は激務だからね』

『うん。たくさんの書類を処理するのも大変だったと思う……。でも、提督自身はまだ出来ると思っている……そんな気がするんだ』

 

 時雨の言葉に、笑みを浮かべていた井手田提督の細い目が、僅かに丸くなった。

 少しばかり迷うように口を噤んだ後、ゆっくりと言葉を続ける。

 

『そうだなぁ……それも正直に言えば、時雨の言う通り、私は頑張れると思っているよ。目や耳は少し悪くなってしまったが、頭と体力はまだまだ若い者には負けん、とね』

『だったら――!』

『だがね、時雨。老いによる衰えというものは、本人には自覚しにくいものなんだ。時には自分の感覚よりも、周囲の言葉に従った方が良い場合もある……着任する前から、娘に自動車免許を返納するように口うるさく言われていたしね。フッフッフ……』

『ご家族に、言われたの……?』

『ん……』

 

 井手田提督は歯切れの悪い返事をして、それ以上答えなかった。

 家族だけではないのかと時雨は直感的に悟ったが、だからといって自分に出来る事など何もないという事もよく理解できていた。

 井手田提督は窓際へと歩み寄り、小雨の降る窓の外に目を向ける。

 時雨もそれに並んで、日が差さず薄暗い曇り空を眺めた。

 

『孫がね……孫がいるんだ。一番若い子は、ちょうど時雨と同い年くらいかな……』

 

 窓の外に目を向けたまま、井手田提督はそう言った。

 お孫さんに言われたのだろうか、と時雨は一瞬考える。

 

『目に入れても痛くない、私の大切な娘の子……私の大切な孫だ。絶対に、守らなきゃあならない……』

 

 井手田提督が何を言いたいのか、時雨にはよくわからなかった。

 何から守らなければならないのか。この国に迫る脅威と言えば深海棲艦だが、そうであるならば退役する事と矛盾する。

 いや、老いにより自らが気付かない内に衰えているかもしれないからこそ、大事なものを守れないかもしれない。

 だから次の提督に託す、という意味なのだろうか――時雨はそのように解釈した。

 

 井手田提督の口調がどこか悔しそうだった事に、その時の時雨は気が付かなかった。

 老いが原因で退役するのは()()事実だと答えられたことすらも、すっかり失念してしまっていた。

 

 不意に、井手田提督は床に膝をつき、時雨の両肩を強く掴む。

 

『……時雨。すまん、本当にすまん……! 私もな、本当は、お前達を残して去る事は……』

『提督……』

『でもな、私は、お前の味方だ。鎮守府を去っても、お前達の味方だから……いつだって、お前達と一緒に戦っているから……!』

 

 しわがれた井手田提督の声と涙に、時雨はそれ以上何も言えなかった。

 窓を叩く雨音が強くなる。

 これは井手田提督と自分の涙雨だろうか――時雨はなんとなくそんな事を思った。

 

 やがて迎えが来て、井手田提督が時雨の目の前から消えてしまっても、雨はまだ降り続いていた。

 ――しばらく止む気配は無いようだった。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

「――時雨、時雨っ!」

 

 背後からの夕立の呼びかけに、時雨はハッと顔を上げて振り向いた。

 何を考えていたのか、何を思い出していたのかすら曖昧な頭で、頬を膨らませた夕立の顔を見る。

 

「あぁ、なんだい?」

「聞いてなかったっぽい⁉」

「おいおい、任務中にボーッとしてンなよ……時雨の姉貴が、提督と距離を置いてんのは何でかってさ!」

 

 夕立の後ろを航行する江風から呆れた目を向けられ、時雨は慌てて謝った。

 これは完全に自分の落ち度だ。改めて気を引き締め直して周囲を警戒するも、夕立がすぐ背後にぴったりとくっついており、恨めしそうな視線を感じる。

 時雨は小さく溜息をついて、振り向かないままに口を開く。

 

「距離を置いてるつもりはないよ。葛野提督とだってそうだったじゃない」

「提督さんと前の提督は違うっぽい! 全然違うっぽい! 時雨だって井手田提督の時は尻尾ぶんぶん振って懐いてたっぽい!」

「し、尻尾なんて振ってないよ! そもそも生えてないし……」

 

 ものの例えだという事は分かっていたが妙な返答をしてしまったのは、動揺しているからだろうか。

 時雨の答えに納得がいかなかったのだろう夕立と、呆れたような表情のままの江風が、時雨の両隣に移動してくる。

 勝手に陣形を単横陣に変えるなと注意をしようかとも思ったが、妹達は容易に引き下がりはしないだろう事は、時雨にもわかっていた。

 

「まぁ、夕立の姉貴の言い分にも一理あると思うね。そりゃあ、葛野提督は仲良くしようって気にはならなかったよ? でもさ、今の提督は良い人じゃンか」

「別に反抗的な態度を取るつもりは無いよ。任務に支障が出なければそれでいいじゃない」

「本当にそう思ってンなら江風は何も言わねぇけどさ……時雨の姉貴、明らかに無理してるだろ」

「理由を教えてほしいっぽい!」

 

 夕立だけならばともかく、珍しく江風までもが食い下がってくる。

 このままだと鎮守府に帰ってからも問い詰められかねない。

 それならば、他に誰もいない今のうちに納得させた方がいいだろうか――時雨は敵がいないか周囲を警戒してから、根負けして再び溜め息を吐いた。

 

「夕立、江風。君達は、井手田提督が退役した時、どう思った?」

「どうって……そりゃあ、寂しかったよ。良い人だったからな」

「おじいちゃんっぽくて好きだったから、あの時は泣いちゃったっぽい……」

 

「じゃあ、葛野提督がいなくなった時は? 寂しかったとか少しでも思ったかい?」

「い、いや……正直、開放されたというか、スッとしたというか、ホッとしたというか……」

「嬉しかったっぽーい……」

 

 時雨も同感だった。

 井手田提督が去った時は、苦しくて苦しくてどうしようも無かったが、葛野提督が去った時は何も感じないどころか、安堵や喜びすら感じたのだった。

 それはあまりに当たり前の事で、悩む事すらくだらない事なのかもしれない。

 だが、時雨は本気でそれについて悩み、自分なりの結論を出したのだった。

 時雨が口を開く前に、答えを察したらしい江風が先に呆れたように口を開く。

 

「……おいおい。つまり、あんまり仲良くなると別れる時に辛くなるから、今度の提督とは最初っから距離を置こうって事か?」

「そうだよ。好意と、別れの辛さ、悲しみは比例する……僕はもう、あんな思いはしたくないんだ。今なら、まだ間に合うから……」

「ふーん……ま、そうしたいンなら江風はこれ以上何も言わないよ。確かに時雨の姉貴の言い分にも一理あるしな」

 

 江風は案外あっさりと引き下がった。

 自分はそうするつもりはなくとも、時雨の気持ちも理解は出来たという事であろう。

 そんな江風に、時雨は逆に問いかけた。

 

「江風は……怖くないの?」

「うーん、江風はそこまで難しく考えた事はないな。気が合うンなら仲良くしたいし、そうじゃないンならそうでもないだろうし……ただ――」

「ただ?」

 

 ぼりぼりと頭を掻いて、江風は言葉を探しながら続ける。

 

(ふね)はさ、気が合おうが合わなかろうが、誰が舵を取ろうが同じだろ? むしろ、そうじゃなきゃあいけない。だからさ、別れの辛さとかは別にしても、そういう意味では時雨の姉貴の言い分が本当は正しいのかもしれないな」

「……」

「でもさ、今の江風達は艦娘で、よくわかんねーけど、信頼とか想いとか……そういうのが力をくれる。時雨の姉貴だって、井手田提督の指揮下だった時と、葛野提督の時とで全然違っただろ? 今度の提督も」

「……まぁね」

「だから、なんつーか……(ふね)としては間違ってンのかもしんねーけど、艦娘が深海棲艦に立ち向かうためにはさ、そういう力が必要なンじゃないか、って思ったりはするよ。いつか来る別れが辛くなってもさ……。ま、よくわかんねーけど! きっひひ~」

 

 そう言って笑顔を浮かべる江風の言葉に、時雨もまた一理あると思った。

 確かに、提督への信頼が力をくれるというのは周知の事実だ。

 その力こそが深海棲艦を打倒するために必要だとするならば、今自分がしている事は一体何なのだろうか。

 信頼はしても距離を置けば良いのか? そんな器用な事ができるだろうか。

 事実、今の提督を信頼はしている。だが、距離を置きたがっている。

 今の自分は、最大のパフォーマンスを発揮できているのだろうか……。

 

 そこまで考えたところで、いつも騒がしい夕立が先ほどからおとなしい事に気付き、時雨はそちらに目を向けた。

 夕立は腕組みをして、う~んと唸っては首を傾げている。

 どうやら、時雨の問いかけでずっと悩んでいたらしい。

 夕立の意見も聞いてみようかと思ったが――視界の端に映ったそれに、時雨は瞬時に頭を切り替えた。

 

「夕立、江風。この話は終わりだ。敵艦隊発見――行くよ」

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 ――何故、僕達は気付けなかったのか。

 目の前に現れた敵艦隊を問題無く撃破し、その後も下級の艦隊との交戦を幾度かこなしつつも、確実にA島へと向かっていたはずだった。

 三百六十度が水平線に囲まれていたとしても、方角を見失うほど素人ではないはずだった。

 それが、何故――目の前にB島が現れたのか。

 

 時雨達がそれに気が付いた瞬間。

 青く美しい海原が、B島を中心に紅く染まっていく。

 傷一つなく光沢を放つ鋼鉄が、やがて錆にまみれていくように。

 新雪の絨毯に血だまりをぶちまけたかのように。

 血と錆を象徴するかのごとき鉄血の紅。変色海域――それが意味するものは。

 

 強大な力を持つ深海棲艦の存在――鬼級、姫級が鎮座する棲地。

 

「江風。退避……はできそうもないよね」

「あぁ。いつの間にか囲まれてる。ハハ……冗談キツいぜ……」

 

 辺りを見回すと、複数の敵艦隊の存在が確認できる。

 それも艦影を見るに、雑魚だけではなく、本来この海域にはいないはずの軽巡や重巡……退路は固く閉ざされていた。

 念のために無線も確認してみたが、当然のごとく妨害されている。

 

「えっ……えっ……? どういう、事っぽい……?」

「おそらく、上級の深海棲艦達が持つ能力……結界だ。複数の深海棲艦が基点となって結界を張る事で、その範囲内では方向感覚が狂い、特定の場所に辿り着けなくなる……」

 

 大規模侵攻においては、そう珍しくない現象だ。

 結界が張られている状況ではいつまで経っても敵主力艦隊へと辿り着けないため、まずは結界の基点となる敵艦隊を撃破し、結界を解除する必要がある……。

 

 時雨は現在自分達が置かれている絶望的状況について推測する。

 A島へと向かっていた時雨達は気付かぬままに結界内へと足を踏み入れ、徐々に感覚を狂わされてB島へと向かわされた。

 周囲を囲む深海棲艦は、おそらくA島とC島に配備されていたものであろう。

 B島がこの通り占拠されているのであれば、同様に深海棲艦の資源集積地となっていたA島、C島がそうであったとしてもおかしくはない。

 時雨達が目の前の格下に気を引かれているうちに、気付かれぬように左右、後方から回り込んできたのだ。

 遠い昔には釣り野伏という戦法が存在したらしいが、それに近いだろうか――。

 

「なんで……⁉ だって、ついこの間、敵は完全に倒したっぽい……!」

 

 夕立は愕然とした表情で、ぽつりと漏らした。

 

「今回の作戦自体、島に残された資源が敵の侵攻の足掛かりとなる事を防ぐためのものだった……つまり」

「敵の動きが想像以上に早かった……っつー事か」

 

 時雨と背中合わせになった江風が、周囲の敵艦隊の動きを警戒しながら苦々しく言った。

 

「上級の深海棲艦が複数いるってのも信じたくねぇけど……それが事実だとすると、辿り着けなかったA島に敵本隊があるって事か。何とかして皆に伝えねぇと……」

「いや、江風。それは違う」

「え?」

「ここが……B島が敵の本隊だ」

 

 時雨は確信していた。

 それは、今自分達が置かれている状況に、あまりにも悪意を感じるからだ。

 目的地がすでに敵に占領されている事も知らずに侵入してきた駆逐艦三人を葬る事など容易いはず。

 このように奥地まで誘い込む理由など存在しない。

 あるとすれば、それは――。

 

『……コノ盗ッ人共ガ……! 我ラガ集メタ物資ニ手ェツケヤガルトハナ……‼』

 

 低く、唸るような呟き。

 だがそれは周囲の空間に反響するかのように、はっきりと時雨達の鼓膜を震わせた。

 B島正面の浜辺は深海棲艦の瘴気に侵されたせいか黒く無機質に変容しており、その中央に声の主が鎮座しているのが確認できる。

 ヘッドホンと眼鏡のような頭部装備。黒く巨大な手甲。

 蛇のように全身に巻かれた三つ編みの先には鉄球のような艤装が繋がっており、それに腰を下ろしている。

 

「……集積地棲姫……!」

 

 目にするのは初めてだが、話に聞いた事がある特徴的な風貌。間違いは無いだろう。

 深海側の資源集積地そのものを司る、化け物じみた強大な力を持つ深海棲艦。

 輸送艦だけではなく小鬼系などの希少で強力な艦艇を従え、自ら戦う陸上基地。

 A島、B島、C島の資源集積地に物資を輸送していたのは輸送艦だったのだろうが、それら全てを統括していたのはこの集積地棲姫であったのだろう。

 奴にとっては、時雨達の存在はまさに盗っ人。

 ひと思いに沈めてしまってはつまらない。何より気が済まない――そう考えて、本拠地である自らの目の前にわざわざ誘い込んだとしても、おかしくはない。

 理にかなわない、非合理的な判断。

 機械のように常に最適解を実行するのではなく、まるで人間のように復讐心や憤怒、憎悪に呑まれ、正常な判断を下せなくなるという節が、上位の深海棲艦には見られる。

 先日はその隙をついて辛くも勝利できたが――。

 

『私ハ、マダ手ヲ出サナイ……一瞬デ終ワッテシマウカラナ……。楽ニ沈メルト思ウナヨ……! ジワジワト(ナブ)リ殺シテヤル……! 絶望ト苦痛ト後悔ニ(マミ)レテ……詫ビナガラ海ノ藻屑トナレェーーッ!』

 

 集積地棲姫の叫びと共に、周囲の敵艦隊から砲撃が開始された。

 こちらの射程外からの攻撃――こちらの砲撃は届かない。一方的な蹂躙。

 時雨は動けない。考えても考えても、生き残る道筋など存在しないからであった。

 見苦しく、もがいても足掻いても、結局意味が無いのならば、いっそ潔く結末を受け入れた方が――。

 

「――時雨ッ!」

 

 夕立に手を引かれ、間一髪のところで時雨は砲弾を回避する。

 周囲に次々に着弾する砲撃の雨の中で、夕立は時雨の頬を強く張った。

 

「時雨の馬鹿ッ! なんですぐに諦めるの⁉ 時間を稼げば、きっと誰かが異変に気付いてくれる! 助けに来てくれるかもしれないっぽい!」

「夕立……その、可能性は……」

「可能性が低いから何⁉ ゼロだから諦めるの⁉ 時雨も夕立も江風も、まだ生きてる! ――あぁッ⁉」

 

 夕立の背中に被弾した。

 幸いにも艤装に命中したとはいえ、ダメージは無視できるものではないはずだが、夕立はそれに構わぬように、またしても時雨の頬を張った。

 

「時雨の言った事、ずっと考えてた……! いつか必ず別れが来るから、仲良くしないって……やっぱり納得できないっぽい! いつか別れが来るからこそ! 限られた時間が大切になるんでしょう⁉」

「――! それは……」

 

 瞬間、目の前に迫り来る砲撃。

 時雨は反射的に身を伏せてそれを回避する。

 ――何故、避けた?

 もう諦めたんじゃなかったのか。

 僕はまだ、生きたがっているのか?

 こんな事をしたって無駄だ。

 見苦しく、もがいて、足掻いて、集積地棲姫を楽しませてしまうだけだ。

 ならばやはり潔く、奴の思い通りにならないように、あっけなく――。

 

 それでも身体が勝手に動く。

 絶え間なく周囲に目を配り、出来る限り被弾を防ぎ、時には夕立と江風の身体を引いて回避させる。

 僕は――。

 

「……時雨の姉貴は難しく考えすぎなンだよ。いつか必ず死ぬから生きる意味は無いのかなンて、考えたって無意味だろ? もっと単純にさ、自分の気持ちに嘘をつかずに……正直に生きなよ」

 

 無駄に長く苦しむだけかもしれない。

 何の意味も無いかもしれない。

 絶望と苦痛と後悔に塗れるだけだとしても。

 それでも僕は――まだ、沈みたくないのか。

 

 夕立達と背を合わせながら、時雨は項垂れながら口を開いた。

 

「夕立、江風……ごめん。僕が、間違っていたよ……僕もまだ、生きていたい……」

「時雨……!」

「どんなに苦しくても、辛くても……足掻こう。たとえ助けが来なくても……最後の一秒まで、全力で――」

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 ――腫れ上がった瞼を僅かに開けると、いつの間にか、日が傾いている。

 海原に仰向けに倒れ伏して、見上げた空が深い藍色に染まりつつある。

 

「……ゆ、夕立……か、江、風……」

 

 左右には夕立、江風が同じような姿勢で浮いており、声をかけても返事は無い。

 すでに、気を失ってしまっているようだった。

 その顔面は、見る影もないほどに腫れ上がってしまっている。

 

 足掻く覚悟を固めた時雨達を待っていたのは、あまりにも長く、永く、丁寧で凄惨な、拷問にも近しい仕打ちだった。

 絶え間なく降り注ぐ砲撃の雨に、やがて疲労も積み重なり、健闘も空しく三人は被弾から逃れられず、やがて大破まで追い込まれた。

 それでも集積地棲姫はまだ満足しなかった。

 時雨達は人型の重巡や雷巡に囲まれ、無理やり力ずくで艤装を剥がされ、もはや生身同然の状態にされてしまい――そして、敵もまた艤装は使わず、ただひたすらに殴る蹴るの暴行を加えたのだった。

 顔面を殴る。腹を蹴る。それはもはや、艦隊戦とは言えなかった。

 馬乗りになって一方的に。

 大破した駆逐艦相手に、重巡の腕力で圧倒的に。

 うっかり沈めてしまう事が無いように、徹底的に。

 手加減に手加減を重ねて、注意深く、時間をかけて、集積地棲姫は三人を蹂躙し続けた。

 

 砲撃や雷撃、爆撃とはまた違う苦痛が、ひたすらに長く続く。

 艦としての身体にではなく、人としての身体に深くダメージが刻まれたような感覚を時雨は抱いた。

 

 やがて満足したのか、飽きたのか――集積地棲姫の命令で、時雨達を痛めつけていた敵艦は元の配置へと戻っていく。

 ひと時の静寂、波の音だけが、時雨達を包み込んでいた。

 

『フフ……手加減スルノモ限界ダロウ……コレ以上は沈ンデシマウダロウカラナ……最後ハ私ノ手デ(チリ)ニシテヤル……二度ト浮上デキナイヨウニナァッ‼』

 

 集積地棲姫の声が響き渡り、時雨はただ無表情で目の前に広がる空を見上げていた。

 あぁ――やっと終わるのか。

 長かった。あれから何時間経っただろうか。

 流石にここまで帰りが遅れては、鎮守府でも異常に気付いているところだろう。

 僕達が犠牲になる事で異常に気付けたのであれば、少しでも(いしずえ)になれたのだろうか。

 そう思えば、この身に刻まれた苦痛も傷も、決して無駄なんかではなかったと思える。

 結局助けは来なかったが、期待しないでおいて良かった。

 もしも期待していれば、裏切られただなんて思ってしまいかねない。

 

 不意に、提督の顔が思い浮かぶ。

 またしても横須賀鎮守府の危機だが、あの提督ならば、この後も何とかしてくれるかもしれない。

 優しそうな提督だけれど、僕は夕立ほど親交を深めなかったから、僕が沈んだとしてもそこまで悲しまないだろう。

 あぁ、距離を置いていて良かった――。

 

「――あ、あれ……?」

 

 目尻に熱いものが伝う。

 気が付けば、満足気な時雨の意思とは裏腹にはらはらと落涙していた。

 

「なん……で……?」

 

 あぁ、もっと仲良くしておけば良かった――。

 なんで、僕は後悔している?

 後悔しないために距離を置いたのに……。

 

 今更になって気が付いた。

 やった後悔よりも、やらなかった後悔の方が強い、とは聞いた事があるけれど、まさかこういう事だったとは。

 別れが辛くなるから仲良くしなければ良かった、と思うよりも、仲良くしておけば良かった、と思う後悔の方が、こんなにも、こんなにも大きいなんて――。

 

 僕は馬鹿だ。夕立に言われた通りの大馬鹿だった。

 別れを怖がって逃げ出して、自分自身に嘘をついて、後悔しか残らないなんて。

 

「……いやだ……嫌だぁ……っ……!」

 

 まだ沈みたくない。沈みたくない!

 満身創痍で指一本動かせないままに、時雨は掠れた声を上げた。

 それは気丈な時雨が、決して妹達の前では見せた事のない姿だった。

 

「……提督……白露っ……! だれか、だれか助けて……!」

 

「僕は、僕には……まだ……」

 

「……ていとく……提督っ……!」

 

 時雨の情けない涙声に、集積地棲姫は満足げに愉快そうな声を上げた。

 

『ハハ! 聞キタカッタノハソレダ! 泣ケ! (ワメ)ケ! ……ソシテ絶望ノ淵デ……藻屑ト消エロッ‼』

 

 集積地棲姫の周囲に、複数の砲台小鬼とPT小鬼群が出現し、配置に着く。

 さらに、集積地棲姫から次々に爆撃機が発艦されていった。

 最大火力を以て、文字通り自分達を塵にするつもりなのだろう。

 僅かな抵抗も悪あがきも、出来る余力などあるはずがなかった。

 

『キャハッ! キャハハッ‼』

『シャーッ‼』

 

 PT小鬼群から放たれた無数の魚雷。

 轟音と共に放物線を描く砲台小鬼の砲火。

 不気味な唸り声を上げて迫り来る爆撃機。

 

 気付くのがあまりにも遅すぎた――。

 願いも、懇願も、無意味。

 糸が切れたかのように時雨は身を投げ出し、絶望の中で静かに瞼を閉じ、心中で一人、呟いた。

 

 

 

 ――僕も……ここまでか……

 

 

 ――提督……皆……

 

 

 …………

 

 

 ――さよなら……

 

 

 

 瞬間、耳を(つんざ)く轟音。

 海を割るほどの爆風と衝撃。

 天を焼く爆炎と、肌を燻る黒煙。

 

 それら全てを雑に混ぜ込んだ嵐の中に、時雨達は飲み込まれた――。

 

 

 

 ――――

 

 

 

 ――

 

 

 

 ――おかしい。

 無念のままに轟沈の時を待つ時雨の脳内に疑問が湧いた。

 前方から放たれた無数の砲弾、爆弾、魚雷。

 それは確かに着弾、命中し、それに伴う衝撃、爆風、爆音、おおきなうねりを帯びた波しぶきが全身を叩く。

 だというのに、何故、まだ僕は生きている?

 

 いや、僕に命中していない。

 まるで、目の前に壁があるかのような。

 爆音はまだ続いている――何に、着弾している?

 ――まさか、夕立、江風が。

 僕を、守るために。

 

 うっすらと瞼を開ける。

 右、左に眼球を動かす――時雨の悪い予想とは異なり、夕立と江風は時雨と同様に、海面に倒れていた。

 一瞬の安堵。なお鳴りやまぬ爆音で即座に現実に引き戻される。

 ならば、一体?

 全身の力を振り絞って上体を起こし、前方に目をやって――時雨はその目を疑った。

 

「――うぉぉおおおおオオオォォォーーッ‼」

 

 轟音の中に響く咆哮。

 自分自身への防御など考えておらず、時雨達を庇う事だけを考えているように指の先まで目一杯大きく広げられた両腕と巨大な艤装。

 数えるほどしか見た事が無い改二装束の黒衣の裾が、爆風で絶え間なく舞い上がる。

 爆炎のせいか、それとも彼女が纏うオーラの類なのか――その広い背中は銀色に強く輝いて見えた。

 時雨達に襲い来る無数の砲弾と爆弾、魚雷をその身ひとつで受けていたのは、かつて日本の誇りと称された超弩級戦艦――長門であった。

 

 何故ここに?

 単身で助けに来てくれたのか?

 そんな疑問が次々に浮かんだが、時雨は助かったとは微塵も思っていなかった。

 むしろ、その逆。

 時雨は口内が切れてしまった痛みすらも忘れて、思わず声を発した。

 

「だっ……駄目だ、長門……! いくら君でも――」

 

 耐えきれるはずが無い。

 何故ならば、艦の装甲には限界があり、艦隊戦においては回避こそが大前提であるからだ。

 砲撃もさることながら、特に雷撃だけはまともに受けてはならない。

 圧倒的な戦闘力を持つ超弩級戦艦ですら、駆逐艦の魚雷がまともに命中すれば無事では済まない。

 今までの戦いにおいても、強大な鬼級、姫級の深海棲艦を撃沈する決め手となったのが、魚雷を満載した駆逐艦が放った雷撃であった事は珍しくない。

 そしてそれは、艦娘側も同様だ。

 

 魚雷艇、PT小鬼群。

 奴らの驚異的な回避性能――いくら超弩級戦艦の火力であろうとも当たらなければ意味が無い。

 そして魚雷艇ゆえの恐るべき雷撃能力の前では、戦艦が一撃で大破に追い込まれる事も珍しくは無い。

 まさに、戦艦の天敵。

 ゆえに、奴らを水上戦だけで相手にする際には駆逐艦の存在が必要不可欠だ。

 警戒陣を展開し、駆逐艦が相手の攻撃を引き付け、回避しながら、幸いにも装甲は薄い小鬼群を的確に撃ち抜いていく。

 航空戦力が無い場合には、それしか方法が無いのだ。

 夜戦におけるPT小鬼群の存在は、脅威としか言いようが無い。

 

 その魚雷艇の放つ雷撃を、目の前の超弩級戦艦は全て喰らっている。

 回避などできるはずが無い。

 もしも回避した攻撃が一発でも時雨達に命中してしまったら、その瞬間が轟沈を意味するからだ。

 ゆえに、長門は自分自身への防御は捨て、大きく手足と艤装を広げ、砲弾、爆弾と魚雷の一発たりとも後方へ逸らす事が無いように、その身ひとつを盾にして受け止めていた。

 その艤装に、腕に、足に、胴体に、顔面に――着弾するたびに爆発が起き、海面は激しく揺れる。

 後方で庇われている時雨達ですら、その衝撃で痺れてしまうほどだというのに――。

 

 沈んでしまう。自分達だけではなく、この国の誇りが。

 大和に続き、長門までもが――。

 

『キャハッ! キャハハァーーッ‼』

『シャアーーッ‼』

 

 これで終わりだ、と言わんばかりの声と共に、砲台小鬼とPT小鬼群から一際勢いの強い砲撃、雷撃が一斉に放たれた。

 複数の雷跡は、導かれるように長門一人のもとへと集い、そして――辺り一面は巨大な爆炎に包まれた。

 

「長門ォーーーーッ‼」

 

 あまりの轟音と衝撃に、時雨は目を開けている事すら出来なかった。

 爆風によって数メートル吹き飛ばされ、時雨は海面にその身を叩きつけられる。

 身体に鞭を打って体勢を立て直し、夕立と江風の無事を確認する。

 

「う……あ、あれ……? ゆ、夕立、まだ生きてるっぽい……?」

「ぐっ……がはッ、ゲホッ……! し、時雨の姉貴……こりゃあ、一体……⁉」

 

 気を失っていた二人が、衝撃が気付けとなって意識を取り戻したようだった。

 だが、大切な姉妹の無事よりも、時雨は目の前に立ち上る黒煙の塊から目を逸らす事が出来なかった。

 敵の攻撃は一旦止んだ――それもそのはずだ。

 あれだけの集中攻撃を浴びて、まだ浮いていられる艦などあるはずが無いのだから。

 そう、それが深海棲艦にとっても、時雨達艦娘にとっても、いや、それまでの世界においての常識だ。

 

 ――常識だった。

 

 海風に吹かれて、徐々に黒煙が晴れていく。

 その中心に、ひとつの人影。

 威風堂々と背筋を伸ばし、その二本の足でしっかりと海面を踏みしめたまま動かない黒衣の超弩級戦艦の背中を見て、時雨の脳内には立ち往生という言葉が浮かんだ。

 一秒、二秒――長門は力強く、ゆっくりと動き出す。

 その右腕で乱暴に顔を拭い、首だけで背後に目をやった。

 呆気に取られている時雨達の無事を確認すると――強者ぞろいの横須賀鎮守府の艦娘達を束ねるリーダー的存在は、頼もしく小さく微笑んで、言ったのだった。

 

「フッ……効かぬわ。長門型の装甲は伊達ではないよ」

 

 それが虚勢でも何でもない事が十分すぎるほどに理解でき、だからこそ時雨はこの状況が理解できなかった。

 かつて長門は、かの大戦の後、とある実験に標的艦として参加させられ――それが原因で沈んでいる。

 母国の敗北を決定づけた破滅の光。彼女はその身に二発も浴びながら、なおも中破で踏みとどまり、四日間も海上にあり続けたという。

 その記録が示す通り、彼女の装甲が伊達では無い事は理解できるが、だが、それにしても、あれだけの集中攻撃を受けて、何故小破程度で済んでいるのか。

 時雨達も、そして集中攻撃を叩き込み続けた深海棲艦達も、理解できていなかっただろう。

 

 時雨達は、深海棲艦達は知らなかった。

 長門が海に出る前に、鎮守府で何があったのか。

 イムヤの轟沈騒ぎと、それに伴う提督の涙。

 目の当たりにしてしまった、提督の弱さ――全てを敵に回しても、彼と共に戦うという覚悟を決めた事。

 昨晩とは比べ物にならないほどの忠義。

 揺らぐ事なき信頼は性能を限界まで向上させ――時雨達や深海棲艦、そして世界にとっての今までの常識さえも、容易く覆してみせた。

 

「――時雨ッ! 夕立、江風ッ! 大丈夫⁉」

 

 不意に、耳に届いた声。

 仁王立ちする長門に目を奪われていた時雨達の周りに、気付けば幾人もの艦娘達が集結していた。

 悲鳴のような声をかけてきたのは満潮だった。

 大淀、夕張、青葉。そして、朝潮型の八人が、時雨達を護るように周囲に壁を作る。

 

「酷い……三人とも、こんなに顔が腫れ上がって……」

 

 朝雲と山雲が、涙目になりながら体を支えてくれた。

 自分達の有り様を見た艦娘達の表情を見て、時雨は鏡を見たくないなと場違いに呑気な事を思う。

 気付けば、自分達の退路を()っていた深海棲艦達の姿が無い。

 長門の存在と、あまりの爆音で気が付かなかったが、どうやら長門以外の皆が相手をしていたらしい。

 とっさの判断で、自分達を確実に守るために長門だけが先行したのだろう、と時雨は理解した。

 どうやら救援に来てくれたらしい。だが……。

 疑問が湧き上がりすぎて何から問えばいいのかすらわからない。

 それはどうやら表情に出ていたようで、大淀は時雨達の無事を確認しながら、心から安堵したかのように口を開く。

 

「間一髪……間に合ったようですね。酷い目にあったようですが、命だけは無事で、本当によかった……。申し訳ありません、私の考えが至らずに危険に晒してしまって……」

「いや……助かったよ。でも、どうして……?」

「簡潔に言うと、提督がこの状況を予測し、出撃指示が出ました」

「提督が……?」

「グスッ、て、提督さん……! 提督さぁん……!」

「……きひひ、やるじゃンか、提督……」

 

 時雨達は驚きに目を丸くしたが、同時にあの只者ではない提督ならばおかしくはない、と納得がいった。

 夕立はそれを聞いて安堵したのか目を潤ませてしまい、江風も痛みに顔を引きつらせながら笑みを浮かべる。

 大淀は表面だけボロボロになった長門に目を向けた。

 

「長門さんも大丈夫でしたか? 流石にあれだけの集中攻撃を全て受け止めては……」

「あぁ、問題ない。腹筋もちゃんと本気で締めていたからな」

「そ、そうですか……まぁ、計算通りです。特に心配はしていませんでしたが」

「大淀……だからなんで最近、私に対してそんなに辛辣なんだ」

「辛辣ではなく、これは信頼というのです。信じてましたし、頼りにしてます」

「フッ……それは光栄だな」

 

 横須賀鎮守府の知恵と力のツートップ、大淀と長門の掛け合いに、時雨達は不思議なほどの安堵を感じていた。

 未だにここは敵棲地のど真ん中――変色海域にあるというのに。

 この安心感は、一体。

 驚いていたのは勿論時雨達だけではなく――まるで周囲にスピーカーでも配置されているかのように、集積地棲姫の声が辺りに響き渡る。

 

『馬鹿ナ……⁉ 結界ガコンナニ早ク破ラレルハズガ……⁉ ソンナ情報ハ入ッテイナイ……‼』

 

 集積地棲姫の声を聞いて、大淀は眼鏡の位置をクイと直し、冷静に言葉を返す。

 

「えぇ、通常の手順ならばそうだったでしょう……姫級の深海棲艦が持つと言われる特殊能力――結界。それがある限り、決して本隊には辿り着けない」

「結界はある一連の手順を踏まねば解除できない事から、艦隊司令部ではギミックとも呼ばれています」

「結界の基点となる特定の位置に展開された艦隊の撃滅……結界を解除してからの本隊への進軍……偵察、敵編成の確認も含め、通常ならば複数回の出撃が必要不可欠です」

 

「――通常、ならば」

 

「我らの提督は今回、三つの連合艦隊を編成し、同時に出撃命令を出しました。それはつまり、ギミックの解除と本隊への進軍の同時進行のため……! 時雨達の危機を救うためにはどうしても時間が足りなかったためです」

「し、司令官……か、感服、感服……!」

 

 大淀の解説を聞いて何故かガクガクと痙攣している朝潮に続き、時雨達を庇うようにその前に立つ長門が言葉を続けた。

 

「少しばかり足踏みしてしまったがな……しばらく待ったら妖精が進むようにと教えてくれたよ。どうやら仲間達がやってくれたようだ」

『ナッ……何ダト……ッ⁉ ソンナ、偵察スラシテイナイナラ、場所モ編成モ確定シテイナインダゾ……⁉ 何故ソンナ真似ガ……⁉』

 

 集積地棲姫の驚きはもっともだ。

 だが、その疑問の答えは、時雨には何となく理解できていた。

 先日の出撃においても、提督はまるで最初から目的地も敵編成も見通せているかのように命令を下した。

 そして場所についても、提督が各艦隊の旗艦に預けた謎の妖精による道案内によって、最善の航路を進む事が出来ていた。

 今回は、結界が張られている状態ではそれ以上進まず、他の艦隊によって解除されてから一直線にここへ向かったという事だろう。

 提督の着任と共に現れた、羅針盤を携えた謎の妖精の導きで――。

 驚きを隠せず震えている様子の集積地棲姫を、大淀はキメ顔と共にビシリと指差した。

 

「理解できないというのなら教えてあげましょう。この戦場の全ては、提督の掌の――いえ、まだ気が早いですね。これは最後にとっておきましょう」

「大淀、もしかしてそれ自分のキメ台詞にしようとしてない? 気に入ったの?」

 

 夕張に呆れたような視線を向けられ、大淀はコホンと咳払いをした。

 時雨は思う。何だろう、本人は真剣なつもりなのだろうが、大淀が何故か若干残念な感じになっている。

 だというのに、今朝、自分達が出撃する前よりも、確実に、何段階も強く、頼もしくなっているのがわかる。

 いや、大淀だけではない。

 長門も夕張も満潮も、それ以外の皆もだ――まるで蛹から蝶へと羽化したかのごとく、変わっている。

 まるで、魔法にでもかけられてしまったかのように。

 一体、何があったというのだ――。

 

『チッ……マァイイ……! 結界ハタダノ時間稼ギダ……オ前ラガ終ワル事ニハ変ワリナイ……! ハハッ! 沈ムノガ早マッタダケナンダヨォッ!』

 

 集積地棲姫がそう叫んだ瞬間、時雨の背筋に強烈な悪寒が走った。

 瞬間、目の前の島――集積地棲姫に占領されたその島影から、次々にPT小鬼群が現れる。

 更に、集積地棲姫の周りに複数の砲台小鬼が出現した。

 

『キャハッ! キャハハッ……!』

『キィッ……! シャアァーッ!』

『フフ……ヤッテシマエ! 返リ討チダッ!』

 

 まだ、数がいたのか――集積地棲姫が引き連れてきたのだろう。

 他の艦種は見えなかったが、時間稼ぎという言葉から推測するに、これから続々と到着すると考えておかしくはない。

 駆逐や軽巡、いや、雷巡や重巡、戦艦、空母も当然来ると考えていいだろう。

 ただでさえ夜戦では脅威となるPT小鬼群に、戦艦にも匹敵する装甲、火力を持ち、陸上型ゆえに雷撃が通用しない砲台小鬼。

 しかもこちらは、自分も含めて大破艦が三人。

 十二人が救援に来てくれたとはいえ、数の上では未だに圧倒的不利。

 

 ――相手が悪すぎる。

 

 だというのに、一体なんだ、この安心感は……⁉

 

 自らの感情に戸惑う時雨の前で、長門が小さく息を吸い、堂々と声を放つ。

 

「――集積地棲姫。戦いを始める前に、お前に言っておきたい事が三つある」

『ハァ……!? フフ! ナンダ、聞イテヤルカラ言ッテミロヨォ‼』

 

 長門は時雨達を改めて振り向き、傷だらけになった凄惨な姿に僅かに表情を歪ませ、拳を握りしめながら集積地棲姫に鋭い眼光を向けた。

 

「ひとつ。時雨、夕立、江風……我らの大切な仲間を、提督の宝を、よくもここまでいたぶってくれたな……お前だけは、絶対に許さん……!」

『ハハハッ! ダカラ、ナンダッテ言ウンダヨォッ! スグニ壊レナイヨウニ手加減スルノモ苦労シタンダゼェッ⁉』

 

 並の深海棲艦であるならば縮こまってしまいそうなほどの迫力を帯びた長門の言葉を、集積地棲姫は挑発するように軽く嘲笑う。

 集積地棲姫もまた、姫級――相当の強者である証だ。

 だが、それにも動じず、長門は真剣な表情で言葉を続けた。

 

「ふたつ。今の私達は相当強い。お前が思っている以上……いや、戦艦棲姫と戦った時以上にな。奴のようになりたくなければ、驕りは捨ててかかってこい」

『戦艦棲姫……⁉ ソウカヨ……戦艦棲姫(アイツ)ヲヤッタノハテメェカァァッ‼』

 

 集積地棲姫の表情と声色が明らかに変わった。

 格下への余裕と慢心からくる嘲笑、それが憎悪に塗りつぶされる。

 先日の戦いは、戦艦棲姫の慢心があったからこそ勝利できた。

 だというのに、何故わざわざ敵に塩を送るような事を言うのか――。

 少なくとも長門のそれは余裕や油断や慢心からではなく、ただ彼女の持つ不器用さ、実直さからくるものだという事は、それを聞いていた艦娘達にも理解できていたようであった。

 そしてそんな短所があったとしても、自分達のリーダーは長門ただ一人。その気持ちは、この場にいない者も含めて決して揺らぐことは無い。

 

『絶対に許サネェダト……⁉ コッチノ台詞ナンダヨォッ‼ 許サネェッ! (ユル)サネェッ‼ テメェラッ! 無事ニ帰レルト思ウナッ‼ 一人残ラズダッ‼』

 

 感情のままに叫ばれたその言葉に偽りは無いという事が、艦娘達には本能的に理解できた。

 どす黒い憎悪の感情と殺気を叩きつけられ、駆逐艦達だけでなく夕張や大淀まで、思わず潜在的な恐怖を感じてしまう。

 だが、その中でただ一人――超弩級戦艦・長門だけが、その凛とした表情を僅かにも崩さず、堂々とした佇まいのままに、集積地棲姫を睨みつけていた。

 長門は、集積地棲姫の憤怒の叫びに一切物怖じする事なく、真剣な眼差しと共に大きく息を吸い――。

 

「そして三つ。出来るという事は前々から自覚していたが、実のところ、このような戦い方をするのは今回が初めてでな……お前は時雨達に手加減してくれたようだが――悪いが今の私には、手加減の仕方などわからんぞッ‼」

 

 そう叫んだ瞬間、特二式内火艇が一隻と、八九式中戦車と陸戦隊を積んだ大発動艇が二隻、長門の周囲の海上に展開されたのだった。




大変お待たせ致しました。
春イベのアイオワ堀りで精魂尽き果てたり、夏イベのジャービス堀りで精魂尽き果てたり、秋刀魚&鰯漁で精魂尽き果てたりしていますが私は元気です。

最近執筆の時間がますます取り辛い生活環境になりまして、遅筆が加速して申し訳ありません。そんな中で最近知り合いの紳士が衝動的に春風の限定グラを切望する短編を書いたりしてたのは内緒です。

おまけにシリアス展開を書くのがかなり苦手で、どうしても筆が重くなってしまいました。
早く提督視点が書きたいのですが、もうちょっと艦娘視点が続きそうです。
なるべく戦闘シーンは手早く終わらせるつもりですが、単調に感じられたら申し訳ありません。

次回も艦娘視点になりますが、気長にお待ち頂けますと幸いです。

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