――時は戻る。
「……吉原ですか」
「そう、吉原だ」
「そう、吉原や」
鎌倉の中心、八幡宮境内、ひっそりと深部に佇む小殿。名を奥舞殿。
紆余の経緯を経て八幡宮祭祀長職につかれた皇位継承第二位を関する、舞殿宮春熙親王。
簾に隠れた殿下の近く、簾の手前には鎌倉市警察署署長、菊池明堯殿。
「以前から話していた、GHQが武者による事件を引き起こそうと画作しているというのは覚えているな、景明」
「はっ」
和泉守国貞、真改という真打劔冑を用いられた、教師、鈴川令法による連続殺人。
そも、劔冑はGHQ、大和進駐軍の大掛りな劔冑狩りが行われた事をもって、現大和政府、六波羅に属する者以外が劔冑を持つ事など凡そありえない事態。
一介の教師が劔冑を手にする事など、如何な経緯あっての事か。
次には、山村を舞台としたある一幕。そこではGHQに劔冑を取り上げられた者が、ある人物を介し取り戻していたという事があった。
GHQとのパイプを持ち、劔冑を調達する事ができた人物、雪車町一蔵。
木端なヤクザ然とした人物であったが、その背景は不明。劔冑を提供した理由も不明。
だが、想像はできる。
工作員、雪車町一蔵を介し、劔冑を適した人物に与え、凶事を起こさせる。
GHQの狙いは大和国民こそがGHQに助けを求める事。つまり――この国、大和を完全掌握、完全支配する為の大義名分。
この国の武者こそ頼りにならず、ばかりか民へ刃を向けるとなったのなら、民はGHQへ心を求める事となる。
元より、六波羅の圧政に民は疲れているのだ。
あと一押しで、事は済む。
「まさか、吉原において、何某かの武者が現れた、そういうお話でしょうか」
「察しがええ子で助かるなぁ、うん、まあ簡単に言ってそういう話やね」
「……それは、六波羅の者、という可能性が大きいのでは?」
吉原。関東に存在する一番大きな遊郭だ。時代によって幾度か場所を変えているが、今は浅草寺裏に存在する。
だが今、吉原へ足げなく通うのは六波羅の者か、一部の富豪のみくらいだろう。
GHQですら、あそこはあまり触れない土地だ。無論、そこは進駐軍将兵が問題を起こす可能性の為でもあるのだが。
つまり、武者といえるものこそ集まる場所でもある。
そして、何より。今の吉原は治安が悪い。
昔こそ客の管理を取ることのできた吉原であるが、今は違う。
六波羅という名前は、吉原の格式を崩すのに一役買ってしまったのだ。
元々、吉原は女を抱く為の場所ではない。無論、その側面も有った事だが、それよりも格調高い女と遊ぶ為の場所。
ただ抱くだけならば別の場所のほうが良い仕事をする。吉原はただ女を売る為の場所ではない。
しかし、今は違う。
今は正しく、女を売る為の場所となっていた。
人の欲を刺激する街は、問題も多い。
そして、大半の客は六波羅の者。
できるべくもないのだ。客同士の諍いがあろうとも、騒ぎ立てる事など。
それに女が巻き込まれようとも、同じ事。
「六波羅武者が私闘の末、六波羅武者を斬る。そんな事もあの地では珍しい事ではありません」
「そうだな。まったく、嘆かわしい事だ。だがな、景明。それがこちらにまで聞こえてくる事がおかしいとは思わないか」
「……なるほど。吉原の問題は外に漏れない。しかし、今回は違う」
「その六波羅が吉原で武者を探している、という情報もある。
今までの件を鑑みるに、これも一連の事件の一環であると考えるのが妥当だと、私も、舞殿宮殿下も考えている」
「……それは、銀星号にさえ」
「繋がるかもしれない。鈴川令法も、山村の事件も、共にGHQの陰があり、銀星号の卵があった」
「さすがのわしらも、直接のGHQと銀星号が繋がっているとまでは、まだ考えてはいない。でもな、もしかしたらっちゅうのもある」
「……」
銀星号。人を狂わし殺し合わせる最悪の劔冑。あれの通った道には死しか残らず、あれが出現した地点は全てが皆殺しにあった。
そんなものを、GHQが御せるとは俺も、署長も、舞殿宮殿下も考えてはいない。
銀星号は劔冑に卵を植える事ができる。放置し卵がかえれば、新たな銀星号が出来上がる。
銀星号の討伐に、卵の孵化の阻止。この二つが、俺の、湊斗景明の定め。
僅かな可能性を見逃すわけにはいかない。
「武者が関わるのなら、おまさんにしか頼めん。でも、そぉ的外れやないと、思うえ」
「……委細承知、宮殿下、保釈の密旨の程、お下しあれ」
「うんむ。よろしく頼むえ」
奥殿を辞する。
向かうはまず、署長役宅。そこで準備を整える。
《御堂》
縁側のある部屋にて、鎌倉署の警官制服に袖を通す。
パート警察、鎌倉警察署所属員。これが銀星号を追う間、宮殿下と署長によって用意して頂いた未決囚である自分が動ける為の身分。厳密には警察ではないし、明言する事もできないが、重宝する。
天井を見ると、そこには鋼鉄の赤い蜘蛛があった。待騎状態の村正である。少し泥を付着させている事から、鎌倉市内を捜索してきた帰りだというのが分かる。
村正の
《近辺に
「吉原に向かう。真改の時と同じ、卵を持った武者がいる可能性がある」
《吉原? ……聞いたことがない地名だけども》
「地名、という訳ではない。遊郭の名だ」
《……遊郭?》
「ああ。場所は浅草。卵を抱えた武者、寄生体がいる、可能性がある」
《……遊郭って……それ、私もいくの?》
「当然だ。劔冑のお前がいなければ卵の有無が分からない。何を言っているんだ?」
《私がその……遊郭を、探索するの?》
「肯定」
《…………》
「……なんだ?」
無言の圧力を感じる。
《遊びに行く訳じゃないのよね?》
「肯定」
《遊女に興味がある訳じゃないのよね?》
「ある」
《………………》
村正の八個の単眼が何かを言わんと突き刺さる。
「健康な男である以上興味があるのは至極当然。だが、目的は捜査だ。遊びにいくのではない」
《……ええ、分かっているわ、御堂。ところで》
村正の視線が、壁を向いた。その先には、大鳥香奈枝が滞在している一室がある。――なるほど。言わんとする所は理解した。
「今回の件に彼女らを連れて行く事はできない」
「あら、それは聞き捨てなりませんこと、景明さま」
「このさよめの耳には吉原へ向かうと、聞こえましたよお嬢さま」
「よ、吉原ってあ、あの!? 湊斗さん! そんな所に一体何をしにいくんですか!?」
「何ってナニをしにいくに決まってるじゃないですか。フフフ、さしもの私も暗い気持ちが溢れてきちゃいます。私と言うものがありながらー!!」
「何変な事口走ってんだでか女!!」
「殿方の夜遊びを生暖かく見守ってあげますのも、大事な事でございますよお嬢さま。ぶっちゃけ旦那の浮気を放置すると調子のって妻には見向きもしなくなるのが殿方の常ですが、まああんた妻でも何でもないですから関係ございませんでしょう」
「違います」
部屋を仕切っていた
「銀星号事件の一環として、親王殿下より下知されました。吉原で噂となっている武者の調査、それが吉原へ赴く理由です」
「また、卵に寄生されている可能性があると?」
「はい」
「出発はいつですか、湊斗さん」
「明日の昼にはここを発つ心算だ」
「分かりました! 私も準備してきます!」
「待て、一条」
足早に部屋を飛び出そうとする一条を呼び止める。
何事にも真っ直ぐに、決断も早いのは彼女の美徳であるが、今回の場合、それは無用。
大鳥主従のほうを見れば、永倉殿がお茶を入れ、大尉殿がそれを飲んでいる。こちらには、理解して頂いているようだ。
「今回の件、お前も、大尉殿も連れて行く事はできない」
「ど、どうしてですか湊斗さん!」
「綾弥ちゃん? 景明さまが向かう場所をちゃんと理解しましょうね?」
「苗字にちゃんづけすんな!! ――あっ」
思い至ったように、一条は少し顔を染めた。
「――吉原に女人を連れて行く事はできない。昔ほど格式に縛られた地では最早ないが、それでも、無用な騒動の種になる可能性が大。一条、お前は大尉殿と共に留守番だ」
「……っ」
連れて行ったとして、見目麗しい二人に声をかける連中は多いだろう。遊女として。
そうでなくても、店の利益に繋がらない女性を連れていれば、店側から睨まれる事にもなりかねない。
仮に連れて行くと過程した場合……。
――声をかけた男どもを片っ端から張り倒す一条の姿がよくよく浮かぶ。
――やはり駄目だ。無用な騒動は避けたい。
「いいな、一条」
「――は、い」
理解を得られて何より。明白な理由さえあれば、一条も無理くりついてくる事はあるまい。
「所で景明さま?」
「はい」
「吉原へ行くにあたって、あちらの
「いいえ。そういった場所へ足を運ぶ機会は、ついにありませんでしたので」
「私もよく存じている訳ではありませんが、何でも、大和にあって別の国、といわれるほど、その中は理を異にしているとか」
「はい。伝え聞く限り。しかし、それも今は昔の事。今と至ってはそのような話は聞きません」
「そうなのですか? ふふ、お帰りになりましたらあちらのお話、聞かせて頂きますね?」
「土産話にできる事が、あれば良いのですが」
「お嬢さま、これは湊斗さまの趣向を知るチャンスですぞ。あちらでうっかり好みの女を引っ掛ける事もあろうかと思います」
「湊斗さんがそんな事するわけねえだろばばあ!」
……。
またぞろ話が面倒な方向へ転がっていく。
天井を見上げれば、まだそこには村正がいた。
その八つ目は、今だ俺を見据えている。
…………………。
そこは、想像していた華やかな世界とは一転して、閑散とした空気を漂わせていた。
そも、女を売る場、売られる女の陰鬱な空気が漂う。
否、元々は売られる女でさえも、その運命を受け入れ、強く
大通りには大勢の客が往路し、着飾り、妖美な笑みを浮かべた女郎が男を転がさんと躍起に走る。
それが吉原。天下の吉原。
だが、今はどうだ。
大通りに面した屋号の戸は閉じられている。
一部開かれた店も、そこには活気はない。
女郎を商品として、木枠でできた格子のかかった窓から覗けるようにしてあるのが通りに面した屋号。
そこから覗く男、俺がいるとしても、そこに関心を持つ女はいない。
この場合、男の見てくれは対して重要ではない。金があれば、それでいい。
しかし、それでも興味を見せないのは、もはやその気概もないのだろう。
(村正、どうだ)
仕手と劔冑は、どれだけ離れていようと、繋がっている。
口の中で転がす俺の言葉は村正に届き、村正の金打声は俺に届く。
《……香気はする。場所は不明。揺らぎはほぼなし。孵化する気配はないわ》
それは重畳。時間的余裕があるのは幸いだ。
だが、おっとりと腰を据える訳にもいかない。
聞き込みを続ける。
だが、返ってくるのは予想通りの言葉だろう。
ここに至るまで、いくつかの場所で聞き込んだがその答えは一律だ。
「所属不明の武者? 知らんわんなもん。余計な揉め事もってくんなよ警察風情が」
武者と聞けば、=で六波羅が想起される。そこに関わろうとするものが、いる訳がない。
目に付いた戸の開かれた店に入る。亭主を見つけ、声をかける。
成果が見込めないからと、止める訳にもいかない。一体どこから有益な情報に繋がるか、分かるべくもない。只管に、無駄な行動を取る。
しかし、ここで得られたのはまた、趣きを変えた言葉であった。
「……そういう面倒事は、今年はあそこの店の管轄だろうが。失せな失せな」
「失礼、あそこの店、というのは」
「るせえ! 通りの端にある桜屋だよ。そっちいけ馬鹿野郎」
「ありがとうございます。そちらへ向かわせて頂きます」
かくして、俺は桜屋の敷居を跨いだ。
実の所、桜屋の名前を聞くのは初めてではない。署長に頂いた資料にも、その名は書かれていた。
故に、後ほど伺うつもりではあった。が、こうなってしまえば詮無きこと。
腰の低い亭主との会話をそこそこに俺は移動させられている。
何故か、はわからない。俺としては亭主にまずはお話を、と思っていのだが、話は転々と進み、主導を握る前に案内しますと連れられてしまった。
「……もし、失礼ながら、自分は湊斗景明と申します。所で自分は一体、どこへ向かっているのでしょう」
歩きながら、一度止まり少女がこちらを振り向く。
少女は小さく、
「今年の巫女である小鶴姉さまの所でありんす」
「……」
巫女。
古くから遊郭はそういった祭儀といった面にも深く関わっている。なるほど、それに当たっての巫女。
……ふと、自らの家を思い出した。
湊斗家も、祭儀に携わり代々巫女を立てた家。感慨深い物がある。
少女、燕殿が足を止めた。目の前には豪奢な衾。
燕殿が膝をつき、一言かけると、中より返答が返された。そのままそろえた指先で衾を開き、俺に道を譲る。
「……ありがとうございます」
俺が中に入ると、後ろから燕殿も続き、衾を閉じた。
柄の良い着物が広げて壁際に置かれている。誰からかの贈り物か、色々な品がそこかしこに、整然とそろえてあった。
ここが、太夫と称される人物の部屋であると思い至る。
正面には、豪奢な着物と飾りをつけた、美しく妖美な女性が肘掛に身をゆだねて煙管をくゆらせていた。
長く伸びた金糸の髪が肌蹴た胸元に落ちている。すらりと伸びた足を見れば品のある紅に染められた足爪が目に映った。
「あらあら、今日のお客は不躾なお方でありんすねぇ」
しまった、とすぐに顔を上げて、女性を見据える。
「大変失礼致しました。自分は鎌倉警察署属員、湊斗景明と申します」
「ご丁寧にどうも。わっちゃ小鶴。今年の巫女でありんす」
「重ねて失礼を。巫女、というのは一体」
女性、小鶴殿が煙管を咥えて、一息。鼻腔を突く煙が部屋に広がる。
「三日後に祭りがありんして。巫女というのはそこで主役を張る人の事。
祭りも終わる四日後には新しい巫女が決まり、そうしたら、その巫女が一年、来年の祭りまで、この吉原の顔をやる事になりんす。
ぬしのように、面倒事を持ってくる人間の相手をする、まあ、人身御供のようなものでありんしょう。
わっちも去年、そうして巫女に納まり、こうしてぬしの相手をしている――」
小鶴殿は、ぷわっと煙を吐き出した。
「このような身分を名乗りこの場に参じている事、ご迷惑の事と重々承知しております。
当方としては頭を下げる事意外にできる事はございませんが、その都度でしたら、如何様にもさせて頂きます。
真に、申し訳ありません」
正座のまま、深く、畳に額をこすり付けるように頭を下げる。
「――はっ、殿方がそう易々と
しかし、ぬしの人となりは、なんとなくわかりんす。ご用向きのほどは?」
「はっ。最近になって起こった、謎の武者による殺人事件を追って、ここに」
「――。ああ、ならぬしがここに来たのは正解」
「……は?」
「最近の人死にの件でしたら、わっちの旦那が三人。立て続けに死んでますよって」
「……それは……何とも」
まさか、いきなり進展するとは。
口の中で、自分以外に聞こえないように言葉を転がす。
(村正、ここ近辺に劔冑の反応は?)
《――目にも耳にも反応なし》
(わかった)
「不躾な事をお聞きしてもよろしいでしょうか」
「どうーぞ」
「亡くなられた方に共通点は。もし、亡くなられた理由など、思い至る件がありましたら、憶測であってもお教え願いたい」
「共通点はわっちの客である事。死んだ理由はわかりんせん。みーんな悪い人じゃありんせんでしたゆえ」
「――どんなお方だったのでしょう」
「わっちの胸でお涙流す坊ばかりでありんした。世の歪みを憂い、人の生まれに憂い……」
「――なるほど」
小鶴殿の胸を見る。確かに、男性が顔を埋めても足りぬ大きさをしている。
「うふ。わっちの体にご興味が?」
「はい」
「くふふ、ぬしは面白い人だこと。祭り前のわっちが、ぬしに体を触れさせる訳にもいきんせん。
――ぬしはしじみは御好き?」
なぜ、いきなり貝類の話になったのか。
「しじみ、ですか。嫌いではありません。体に良い事もあって、好ましくさえあります」
「そうでありんすか? うふふ。よかったなあ
俺の背後、衾の傍にいた燕殿が、慌てた。
燕殿は、ツバメと名乗ったが、小鶴殿はエン、と呼ぶようだ。
「お、お姉! いきなり何を言うの! そ、それに勝手にそんな事決められる訳ないでしょ! まだ未熟者なのに――」
「あーら、巫女であるわっちならそのくらい、無理くり押せない事もないのよ? それにこんな時代、芸なんて望まれず、それこそ非道な形で水揚げされるなんてのも、珍しくありんせん。わっちも、随分な目にあいましたからなぁ」
……話が見えない。
「あの。一体なんのお話をしていらっしゃるのですか」
「あら? あらあら、ぬしは郭言葉に詳しくありんせん?」
「は、寡聞に。このような場所へ足を運ぶ機会がありませんでしたので」
「あははは。そーりゃもったいない事。まあ、でもこの御時勢なら仕方もない事でありんすか」
煙が吹かれる。
「しじみ、っていうのは、まだおぼこい子どものおまんこの事でありんす」
「……………………………………は?」
「まだ燕は禿でありんすから、
本当なら経験豊富なお方に頼むのが筋というものでありんすが、わっちはそれでそれはもう手酷い水揚げになりんしてね。とあるお偉い破戒のお坊だったでありんすが。
こんな時代だから、燕も無事に済むかも分からない。なら、わっちが巫女であるうちに、と思っていんしたが……ま、考えても詮無い事でありんしたね」
《……御堂》
(真に受けるな。からかわれただけだ)
そのような趣味はない。ましてや、どう考えて俺を見たのか定かではないが、女の抱き方など俺は一つしか知らず、それは決して未通女、処女を抱くには適していない。
「うふふ、まあ冗談でありんす。気にしないでおくんなんし」
「はい」
「まだお聞きになりたい事はありんしますか? そろそろ、祭りの会合がありんすが」
「――いいえ、また明日にでも、伺ってもよろしいでしょうか」
「どーうぞ。燕、外までお見送りなんし」
「はい、お姉」
立ち上がり、衾を燕殿が明けられるのを見ると、一礼してから廊下へ。燕殿がぴしゃりと衾を閉めた。
「燕殿と小鶴殿は、随分と仲のよろしいご様子ですが。どのような?」
「実の姉でありんす。小鶴姉様と、あと、もういなくなってしまったそうですが、兄様も」
「いなくなってしまった?」
「はい。私が物心つく前に、吉原を出て行ってしまったようで」
――それは。
遊女や、店の下働きの男は、売られて吉原に入る事となる。買うのは店の亭主。
出て行った、というのは気に掛かる。
借金の方として売られてくるのだ。男だろうと女だろうと、簡単に吉原を出る事などできるはずもない。
考えられるのは――。
生きていない事。
そも、買われた人間が吉原を出るには、三つの方法しか存在しない。
一つ、稼いだ金で、自分を自分で買い上げる事。
つまる所、店側に借金を返済し、自由を買うという事だ。
二つ、誰かに嫁として、若しくは妾として買い上げられる事。
この場合、借金の貸し主が店から旦那に移るだけ。
三つ、死体となる事。
遊女は手厚く葬られる。その者たちの墓があり、供養もされる。
場合によって、例えば、店の下男が遊女に手を出したり、遊女が不義を働いたりした場合、供養もされずただ、寺へ放り投げられる事となる。
三つ目は考慮せずとも、一つ目、二つ目、これはどの場合も、女でなければ成立しない。
二つ目はともかく、一つ目も女のみというのは、
こういった遊郭では、男の価値は限りなく低い。それこそ、亭主でさえも。
一応の建前はあるものの、所詮は建前。太夫と呼ばれる格式の高い女郎も、建前によって亭主を立てているにすぎない。
無論、その関係は個々人より異なるのだろうが。
感謝によって亭主を見るか、
恨みによって亭主を見るか、
それで全ては入れ替わる。
しかし。姉、といったか。
小鶴殿はよく成熟した女性だ。
俺よりは年下。二十代の初頭と言った所だろう。
だが、目の前をちろちろと歩く燕殿は、十代の初頭。それこそ十か十一か。
吉原へ買われて入り、太夫としているのなら小鶴殿は更に下くらいで入ったはず。
その場合、燕殿は赤子の時に買われたか、又は――。
《……御堂》
思考を、村正の金打声が遮った。
(なんだ、村正)
《センサーに反応。何者かがこっちを見ている》
(……、目を寄越せ)
《諒解》
自分の視界が、村正の視界と繋がる。
移った場所は、恐らく、どこかの屋根の上からの視界。見据える先には吉原ではなく、吉原の奥に広がる山の中。
視線が合う。
木々に隠れて、劔冑が、こちらを見据えていた。
《あれ、間違いなく寄生体よ。それも、野太刀を含んだ卵じゃない。純粋な卵》
(あの時作った七つの卵以外のもの、か。珍しいな)
《ええ、でも、そんなのは関係ない。卵を植えられた劔冑があるのなら、それを始末するのも私たちの役目》
(ああ、見失うな。すぐに向かう)
視界を切ると、話の途中で急に立ち止まった自分を不審に見上げる燕殿が目に映った。
「あの、どうかされんしたか」
「――はい。急用を思い出しました。急ぎ、外へ出ましょう」
「え、はあ。わかりんした」
さすがに、彼女を置いて走り去る事はできない。
そうすれば、俺はよくとも彼女が困る。さもあれば彼女が叱られる事となるだろう。
逸る足を押さえつけて何とか外へ出ると、ようやく走りだす。
(村正! どこにいる!)
《そこを左に曲がって。路地裏に入るの》
(諒解!)
路地裏に入ると、上から良く知る大蜘蛛が飛来した。
《乗って、御堂!》
飛び乗る。村正の単騎形態は隠密に長けた劔冑である。そのまま、人々の視界を予測し、気配を把握し、人目につかぬように疾走する。
屋根を飛ぶ。塀を乗り越える。舗装されていない土を踏みつけて、ようやく全速で寄生体を追う。
「あの劔冑、こちらを誘っていたな」
《ええ。たぶん。罠だと思う?》
「どうだか。何を目的としているかは定かではないが、単純に邪魔をするな、と言った所だろう」
《寄生体に動きなし。……見えた!》
木々を足場に飛びかう村正に縋りつき、ようやくと目的地へ到着した。
どさりと重い音を落として村正は着地する。相手を見据えて、地に足を下ろす。
そこにいたのは鳥だった。
甲鉄の身で出来た、雀。一本の木の枝に止まり、こちらを見据えている。
無論、小さくはない。劔冑の単騎形態としては聊か小型ではあるものの、成人男性の上半身くらいはある。
あの大きさでは、最早、
「その制服、警察の者と見受けるが如何に」
男の声が響いた。雀の止まった木の裏、そこに人の気配がある。
「如何にも。自分は鎌倉警察署属員。湊斗景明。吉原にて起こった、武者による殺人事件を追って、ここにきました。
犯人とお見受けしますが、如何に」
「如何にも。
名乗らせてもらう。
俺を、逮捕しに来た、という訳ですかな? 湊斗殿」
男が、芹沢弥刑部が姿を現した。
金糸の、流れるような髪を後ろで纏めた、えもすれば陰間(売春をする男性の事)にもなれる見目の長身の男だった。
歳の頃は十代終わりか、二十の頭か。その顔は麗しくも、その眸の奥に携える何某かの炎が雄雄しさを現している。
「いいえ。警察であるのなら逮捕する、というのが正しい形でありましょうが、自分がここに立つのは警察としてではありません」
「ほう。では如何様に」
「言葉によって表現するのならば、通り魔、といった形が適切かと、最近学びました。一身上の都合により、貴方を討たせていただく」
「ほほう。ほーほー。うん。話に聞いた通りで何より」
「……話?」
「おう。湊斗景明。村正を振るい人を殺す悪鬼武者。民に噂の正義の味方、その名も紅い武者。話の種にはつきぬ事よ」
……。
赤い武者の話は俺の耳にも入っている。無論、それは許容できる話ではなかったが、しかし。所詮は噂。否定して回るのもできる訳もない事。
だが、もう一つのほうは聞き捨てならない。そちらは、噂にすらなっていない事であり、そして、まさに真実である。
それを知る者は親王殿下に署長の二人のみしか居ない筈。捜査を共にした大尉殿、一条すらも知らぬ事。ならば――誰に聞いたのか。
「話の出所に疑問って顔だな。まあ、でも、それも予想できる事ではないのかい。あちらさんも、何とも知己という雰囲気であったしなあ」
「……銀星号か!」
「キッシシ。当たりよ。頼まれ事でね。こちらもあれよ。一身上の都合によりって奴さ。俺としては祭りまでにあんたを始末できりゃ、文句もない」
男が。芹沢弥刑部が、一歩、前へ踏み込んだ。手を伸ばすと、そこに雀が。奴の劔冑が腕にとまる。
「千の声で喝采せよ。万雷の喝采を上げろ。絆を胸に、愛は胸に。一つで逝かず二つで歩み、二つで在らず一つとなりて! 如何な愛もここに在り」
それは、誓約の口上。
仕手が、劔冑を身に纏う、
腕の雀がばらばらに分離する。それは仕手、芹沢弥刑部の周囲を回る。
装甲。
そこには、武者がいた。
普通の武者とはいくらか小さい、しかし力強い威を放つ、まさに真打。
光沢を持った灰色の装甲。美しい流線型を中心とした飾りをした上半身。
それとは逆に群青色、直線的な下半身。腰から肩に掛けて、その飾りは交差し伸びている。
《御堂!》
村正が敵劔冑と俺との間に入った。確かに、このままずんばらりんと斬られる訳にもいかない。
「応!」
誓約の口上。
「鬼に逢うては鬼を斬る。仏に逢うては仏を斬る。ツルギの理ここに在り!」
紅い大蜘蛛であった村正がばらばらに分離し、俺の身を包む。
装甲。
そうして、俺は紅い武者、村正となった。
金打声が響く。
《飛べぃ村正! 武者が会ったなら、空で臨め!》
弥刑部が飛んだ。
「いくぞ村正!」
《ええ、御堂》
合当理に火を入れる。足で蹴りだし、木々を抜け、そうして空へ至る。
そして、俺は落とされたのだ。
以下、オマケ。
一幕から。
常の双輪懸であるならば、敵よりも高く高度を取り合う。それこそが武者の騎航合戦の不文律。
だが、今はどうだ。敵は低い位置を得んが為、上昇を放棄し下降を続けている。
だがそれも当然。彼の陰義は相手よりも低い位置に居るときに真価を発揮する。
ここはどうする。相手の思い通りにさせてやるか。それとも、チキンレースを始めるか――。
《 追う 》
《 追わない 》
ここは追う。
相手の望む位置をわざわざ与えるなど愚の骨頂。
そも下から攻めるでなければ陰義を使えないというのなら、相手を上に据えるだけのこと。
《御堂、まさか追う気?!》
「当然だ! あの陰義は危険。使わせないに越した事はない!」
合当理に火を入れる。重力と合わさり加速を続ける。
《み、御堂、減速して! これじゃ追いつく前にばらばらになる!》
「耐えろ村正! もうすぐ追いつく!」
高度計の示す数字が、弥刑部と並んだ。
「よし!」
合当理の火を落とし速度を相手に合わせる。
これで、身を壊す事もなくなった。
《高度千を切った! 御堂、上昇を!》
「まだだ! 相手はまだ降下している!」
《無茶よ御堂! このままじゃ地表に激突する! こんな速度じゃ落ちたら命なんてないわよ!》
「それは相手も同じ事だ!」
九百。
八百。
七百。
六百。
《御堂、限界よ! 速度を落として上昇するの!》
「まだだ……まだ……」
《御堂!》
四百。
三百。――! 敵機上昇!
「今だ、上昇するぞ村正!」
《……》
兜角をあげる。真下を向いてた頭を上へ。そして、真上をむいたら合当理を吹かして上昇。相手よりも高度を取らないように、気をつけながら上昇しなくてならない。
が、バキンという音が思考を止めた。
「――なに?」
《無理。無理だから。こんな低空でそんな急激な方向転換。無理だから。私はそんな事ができるようには作られていないの》
両方の母衣が。
速度は、落下の時のまま。
地表が、近づく。
「――しまっ――」