吉原を飛び出した後、力を求めて武芸を学んだ。
だが足りない。
どれだけ剣理を学ぼうとも世には覆せぬ力がある。
劔冑。
千鳥と雷切。
俺がこの劔冑を手にしたのは、ある人物の気まぐれのようなものからだった。
それがどこで自身の事を聞きつけたかは定かではない。
唐突に現れたそいつが言う。
お兄さん、馬鹿やるんだろう?
いいよいいよ、いっちょあてが足長お姉さんをやってやろうじゃないか。
うちの蔵にある劔冑を一領くれてやるよ。
ただし、ルールが一つ。
この劔冑を使えば必ず、お兄さんの前に紅い武者が現れる。
それとね、戦うんだ。
もし破ったら劔冑はドカン。
そのちょっとした爆弾こそが紅い武者を呼び寄せるみたいなんだけどね。
まあ、これはあての願いって訳じゃなく、うちのお姫の願いなんだどさ。
うんうん、家族の愛を求めて世と戦うなんて無茶、中々カッコイイじゃないか。
うちのお姫と気が合いそうだ。お姫もお兄さんと同じ、家族の愛を求めて戦う。でも無茶苦茶ぶりで言ったらお姫のほうが断トツだけど。
俺は聞いた。
その姫とやらも家族の愛の為に戦うというが、俺より無茶苦茶とは一体何と戦うんだ?
ふふふ、気になる? 気になっちゃう?
お姫はね、人類全てと戦うんだとさ。
……正気か、それは。
正気も正気。本気も本気。すごいだろう?
本当にすごいんだから。だって――。
勝つよ? うちのお姫は。
人類全てと戦って、勝っちゃうよ。お姫ならね。
――銀星号、っていうんだけどさ。
お兄さんなら、気が合うかもね。うん、あても気に入った。ドカンといってなかったら、勝っても負けても、あての所きなよ。
お姫に合わせてあげるからさ。
そして、俺は手にした。
千鳥と雷切。姉弟劔冑。
俺の理想。俺の夢そのもの。
劔冑は山の中にいる蜘蛛の元へ行かせている。
騎航しての合戦でも、無論のこと負けるつもりは一切ないが、明日を控えて、消耗する事は何としても避ける。
明日、祭りがあるのだ。
その祭りで、姉は代官に抱かれる事になる。
極度の嗜虐趣味の、代官に。
今度こそ、助けるのだ。
助けを求めなくても構わない。代官を殺し、姉を連れ出す。
――若しくは。
湊斗景明と別れた後の事。
姉に言われ、一階の台所にて食事の仕度を済ませ、自室に戻ると、そこに一人の男がいた。
小太刀を片手にぶら下げたまま、開かれた窓枠に腰掛けた、金糸の美丈夫。
自身と同じ髪色の、若い男。
小鶴よりも若い、一人の男性。
自身、芹沢燕には、兄がいる。
姉である小鶴よりいつしか、聞かされた言葉だった。
一度もあった事のない兄。
吉原を飛び出した兄。
目の前の男は、きっと兄だ。
帰ってきた。
兄が帰ってきた。
――何をしに?
先ほどまで共にいた警官の顔を思い出した。
警官が、言った言葉を思い出した。
吉原を騒がせていた殺人犯の名前。
芹沢弥刑部。
自身の、兄の名前。
「お初にお目にかかる。俺の名前ゃ、弥刑部。芹沢弥刑部」
「あ……燕、燕……です、兄様。貴方の、妹の」
燕の言葉に、ぴくりと弥刑部の眉が動いた。
「そいつは違う。俺は、お前の兄ではない」
否定。
だが、燕は知っている。
小鶴が弥刑部の事を気にかけている事。
小鶴には弟がいる事。
自身に兄がいるという事。
それを、否定された。
何故か。
それが果たして、燕の身を案じた事からであったなら、なんと血に塗れながらも美しい事だろうか。
殺人犯の妹にしては置けない。そんな思いからであったならば。
否、否である。
「俺はお前の兄ではない。あえて言うのなら、叔父よ」
「…………え?」
「そりゃ、そうか。子がいる、なんて話になりゃケチがつくもんだ」
「一体、何のお話を――」
「忌み子よ、お前は。姉様が無理やりに孕まされた餓鬼、それがお前よ。忌々しい、まったくもってな!」
「忌み子……?」
「おうよ。お前が姉様を苦しめる。お前が姉様を縛り付ける。それも――終わりだ。俺が断ち切る。忌み子の呪いから、俺が!」
するりと、片手にぶら下げていた小太刀が抜かれた。その切っ先は、真っ直ぐに燕に向いている。
「ひっ……!」
「さようなら、燕」
振り落ろされた刃は、ガチリと音を響かせた。
間に合った!
腰が抜け座り込んだ燕殿を背に、小太刀を太刀にて受けとめた。
目の前の男、芹沢弥刑部の顔が醜悪に歪む。
「湊斗ォォォ……!」
小太刀を払うと弥刑部は飛び退り、間を空けた。
村正の知らせを受け、寺より走り、なんとか間に合った。ほんの少し遅ければ燕殿が切り殺されていただろう。
「芹沢弥刑部。なぜ、燕殿を狙う」
「貴様には与り知らぬ事よ! そこをどけぇ!」
「断る。小鶴殿より、燕殿を守るように頼まれている。何より、現在進行形で御迷惑もかけている。助けない訳にはいかない」
「チッ。……明日も邪魔されちゃ敵わねぇ。ここで死ね、湊斗景明」
「事態の早期終結はこちらも望む所。燕殿、外へ」
「……は、はい」
燕殿が部屋を出たのを横目で確認し、正面に対する芹沢弥刑部を見据える。先ほどまで一刀だったものが、開いた片手にもう一刀増えている。
――強い。
相対した芹沢弥刑部。その構えを見るだけで、そう思わされた。
一刀で言うところの
相手の持つ獲物は小太刀。その小ささ故に、二本の小太刀は、体を死角として綺麗に隠されている。無手にさえ見えるだろう。
それだけ、熟達した構えである証左。一朝一夕の構えでは決して無い。
ただでさえ間合いに慣れないというのに、この構え。
相手は、こちらが戸惑う事を理解し、狙っている。
表情にはおくびにも出さない。しかし、自身の動揺は伝わっているだろう。
それを知ってか、弥刑部の足がじわりと前に進んだ。
重心を崩さぬ摺り足。畳を足裏で摩る音も立てず、弥刑部がゆっくりと近づく。
亀の歩法。いつか相手となった六波羅新陰流の女性が脳裏をよぎった。
重心を崩さず、体勢を崩さず、ゆっくりと進む。それは、至難の業と言って良い。
そしてその歩みの速度は、自らの間合いに達した瞬間を見違える事はない。
間合いに触れたその刹那に斬られる事となるだろう。恐らく、その一瞬を見逃す事を奴はしない。
元より相手は脇構。不用意に相手が近づくのを待つものと思っていた。
間合いを隠し、相手の焦燥と恐怖を掻き立てつつ、焦り不恰好な形で刀を振った相手を一刀で受け一刀で斬る。
それならば二刀流という理念にも、脇構の理念にも則る。
それに加えての小太刀という間合いを掴ませぬ特殊性。云わば二重の罠。
だが、弥刑部の剣には三重の罠がある。
間合いを自ら詰める圧力。
二重では飽き足らず、更に焦燥を掻き立ててくる。
生半な人間ならば平静を保つ事など不可能だ。自らの剣を忘れ、不用意な一撃を振ってしまうだろう。
自分とて非常に危うい。まだ、間合いは遠い。得もすれば早足で駆ける事もできる距離。
以前の、劔冑同士の騎航合戦を思い出す。
一合い目の受け流し。
騎航中だというのに驚嘆に値する、見事な流しであった。
当然、地に足つけた今できぬ理由等ない。考慮するべき身業だ。
二合い目は陰義による一撃。考慮せず。
三合い目は逆手による下段の誘い。
返し業による罠を張り、危うくそのまま首を落とされるところであった。
あの時の弥刑部の攻撃には、積極性が見受けられない。
だが、今は違う。積極的に間合いを詰めるあの姿勢は、新たな奴の一面。
考慮するべき点はもう一つ。獲物の差。
もし同じ太刀であるのなら、相手が振るその瞬間をこちらも掴まねば摺り足で近づく相手に拮抗する事はできない。
しかし相手は小太刀。脇構にて間合いを隠そうとも、太刀を握る自分より間合いが長い事はありえない。
そこをどう生かす。
相手の手を、考えろ。
月夜に照らされた自身の太刀が鈍い光を放つ。
目が夜に慣れている事は僥倖だった。もし、目が慣れていなかったらすぐに切り伏せられているだろう。
距離が縮まり、交差の瞬間が近づいていく。
脳裏に取れる行動とその結果を想定する。
下段の構えからの刺突、これは駄目だ。いつかの様に払われて胴を斬られる。よしんば払われずとも、逸らされる可能性が大。そうなれば返しの刃は圧倒的に、あちらのほうが速いだろう。
相手は半身に構えている。そこから出る刃の軌道は、│右薙《みぎなぎ》か、袈裟斬りか、右切り上げか。意をついて刺突か、逆風という可能性もある。
しかし、どのような形であれ、先手を譲る訳にはいかない。
間合いはこちらが有利。そして懐に入られてしまえば、立場が逆転する。太刀よりも取り回しの良い小太刀の独壇場。それこそ腹部を裂かれるか、股間から逆風に斬られるか。
相手の業を想像するは不毛。
対手が、ついに俺の間合いに達したその瞬間に、空気は豹変した。
対手に動きはない。構えを変えず、その歩みの遅さも変わらず。
ここは――。
打たない。先の合戦が脳裏から離れていないからだ。
対手のほうから間合いを詰める。
俺はそれを好戦的と言ったが、しかし。
自分で思考した言葉を思い出せ。
(三重の罠。小太刀を使い、打ち間を隠し、加えての歩法にて間合いを詰める威圧。俺自身がそれを罠と言った筈)
相手の狙いは今、この瞬間にあったのだろう。
ここまでお膳立てが整っていれば、まず間違いなく敵が自らの間合いに入り込んだ瞬間に刀を振る。
そう、振りたくなるのだ。
明らかな間合いの優勢。対手の手札の不明。打ち間を隠される不安。残された有利に飛びつきたくなるのは人間である限り当然の事。
だが、見方を変えると。
それは、振る瞬間を相手に気取られていると言える。
間合いに入るその瞬間。その時に振られると分かっているならば、いくらでも合わせる事が可能といえる。
敵手は三重の罠を張り、用意、ドンの掛け声を作っていたのだ。
敵手の顔がほんの少し、歪む。
俺の考えは中っている。その確信が生まれた。
そして、その思惑を破った事で、形勢は逆転している。
如何な小太刀と言えど。取り回しの良さが在ろうとも。
互いの間合いに入った時に、それが現れる。
上段からの振り下ろしか、脇構からの一閃か。
剣速という不確定要素はあれども、まず。
まず、振り下ろしのほうが速い。
右肩上、八双に構えた俺は、腕を振り下ろすのみ。
転じて脇構の対手は体を捻り腕を振る。
その差は僅かなれど、その僅かが勝敗を決する。
だからこそ、ここを見送り、接近を待つ。
まだ選ばねばならない選択肢は存在する。
俺の優越距離である今、打つか。双方の
一、今打ちこめば、合図こそ無くなったものの、その時の手段、勝利を確信した一刀の為に用意された返し業が繰り出されるだろう。
無論、こちらの攻撃の機先を悟られなければ、そのまま勝てる。しかし、一度悟られたならば、それは先への巻き戻しに他ならない。
恐らく、体を横にずらすと同時に左手で受け流され、右手により命を断たれる。
右手よりも速く太刀を返そうとも、左の小太刀がそれを抑えつけるのだろう。
二、両者の打ち間に入った後に斬る。これも先と同じ。しかし、距離が狭まる分、先よりも合わせづらくなっている筈。
その理由は振り下ろす時に進める足にある。
大きく出すか、小さく出すか。
当然、大きく出したほうが動きの初と動きの終までに差が生まれる。それは対手にとって、動きの合図に他ならない。
呼気を読まれる、業を読まれる。それと一体何が違うといえるのか。
距離が狭まった分、足は小さく進めるだけでいい。
それだけで、相手へ与える猶予が違う。
それでも完璧とはいえない。
完璧など、何事の勝負の世界にも存在はしない。
問題は相手の打ち間が不明だという事。言葉にしてみれば単純ではあるが致命といえる。
ある程度の想像はつく。構えを取る直前、一瞬だがその長さは目視している。
それを完璧に捉える事ができるか、否か。
三、敵手の打ち込みにこちらが合わせる。
これは否だ。二刀という性質上、打ち合う事は相手も避けたい筈。
返し業の予想はついた。だが、攻勢に転じた時の動きは今だ想像の外にある。
片手で防いだのならそのまま一刀の元に断ち切る。
打潮。名前を変えて各流派に存在する、相手の攻撃を切り伏せ、そのまま体を断つ、攻防一体の剣技。
無論、先に言った通りこちらの振り下ろしのほうが速い。
しかしそれも、同時に動いた場合の事。
その有利を引き出すには俺が、相手に動きを見切られない事が必要となる。
だが無用の危険と言えるだろう。
打潮を使うには、相手の剣筋を読む必要がある。
機先を読む。剣筋を見切る。そこまでは良い。
だが、相手は二刀流。そこから更に、左右どちらを制すかの二択が現れる。
両方の剣筋を見るなど到底不可能。もはや博打の領域だ。
単純に考えるならば、先に出る手は左。しかし、それは向こうも承知の事だ。
相手の気分次第に如何様にも出来る事。左手を潜るように右手を出し、右手を跨ぐように左の小太刀を浴びせる。
相手の隠された間合いを恐れ、一を選ぶか。返し業こそを恐れ、二を選ぶか。三はその両方を恐れた場合だ。
一を選ぶのなら今しかない。しかし、それは見送る。
三は博打といったが、ここまで来ると全てが博打だ。
先の切れた見えない橋を渡るように。足の裏で地面の有無を確認するように。
対手の接近を許す。
――まだ。
――――まだだ。
――――――まだ。
間合いが狭まる。必要な踏み込みが半歩となった。
ここまでくれば、向こうの打ち間に入り込んでいるのは明白。
打つか、待つか。
相手の動きに変化はなし。
――――!
変化。
対手の足が止まった。
構えは変えず、ただ止まる。
動きはない。ただ殺気だけが濃密となっていく。
(ここまで来て、こちらの先手を待つ、よもや――)
呼気を読まれている、のかもしれない。
筋肉の動きに呼吸は密接に関わっている。
吐く時こそ強く力を引き出せると云われ、吸う時はその逆と云われている。
このような状況となれば、呼吸は何よりも静かに行う。肩を揺すらず、胸の膨らみを筋肉で固める。
一呼吸に何秒もかけてゆっくりと。相手に呼気を覚られては相手の手のひらの上に置かれる事となる。
疑念が湧いて出る。
この位置にあっても返し業を狙うのは、それほどの自信に裏打ちされた行為なのだろう。
必ず、こちらの打ち込みを見切る事ができる、という自信。
それは自らの
躊躇いは――。
不安は――。
断ち切る。
それは同時であった。
振り落とす太刀と、受けようとする小太刀。
まったく、同時の初動。
――故に。
刃は、肩口深くに食い込んだ。
鮮血が舞う。
「グッァ!」
呻いたのは――――芹沢、弥刑部。
受けるのであれば、弥刑部は俺よりも速く動かなければならなかった。
しかし、同時。
機先を読まれてはいなかった。
呼気を読まれてはいなかった。
故の、勝利。
後は、太刀を捻り、首に刃を向けなぎ払うだけ。
だが、それは叶わず。
刀を捻り、傷口が広がった瞬間に、弥刑部は飛び退いた。
如何な強靭な肉体を持つ武者と言えど、痛みには逆らえない。
刃を体内で無理やりに捻られる痛みはどれ程のものか。その痛みを受けて尚、己を保ち活路を見出すのはどれ程の難儀か。
「芹沢、弥刑部」
定まらぬ視線。しかし、深手を負っていながら明瞭な足取り。
上半身を血で染めながら、弥刑部は窓枠に飛び乗った。
「……お前は……邪魔だ。悪鬼、湊斗。カッ……カカッ。今日は退く。だがな、退けぬ時がある。そのときこそ……」
弥刑部はそのまま窓枠から消えた。
金属で出来た鳥に掴まり、空へと。
まんまと逃げられた、しかし。
明日こそ、決着がつく。
不可避の決着が。
術理解説の人不在。
最後近辺ちょっと加筆。