幼女戦記 〜旗を高く掲げよ〜   作:猫敷

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第5節〜第8節

 

第5節 静かなる追跡者

 

 クラクフ旧市街、その裏路地にて。

 国家保安本部の調整官が密かに行っているのは、決して派手な検挙や銃撃戦などではない。彼女の武器は拳銃でも軍靴でもなく、目に見えぬ“名簿”と“動向記録”である。

 

 追跡とは暴力ではない。むしろ、それは記録という名の投網を用いた静寂の狩猟だ。

 

「……なるほど、週に一度、神父のもとへ。しかも夜更けに?」

 

 手元の資料に記された名は、地方党官房の局員。職責は文化活動担当、しかし行動記録は“信仰への再帰”を示していた。

 

 国家保安本部――とりわけSDは、神を許容しない。

 なぜなら、忠誠の対象が二重になることを、この機関は本能的に嫌う。

 

 ターニャ・デグレチャフ中尉は、暗がりの中で報告書を閉じると、そっと懐中時計を確認した。秒針の音がやけに大きく響く。

 

 今夜の任務は“予備調査”の確認――すなわち、“例の人物”が再び目撃されたという情報の検証である。

 

「“子供”にしては、目撃情報の出所が限定的すぎますね……」

 

 その“子供”は、あまりに正確に官舎の死角を移動し、監視網を潜り抜けていた。

 国家保安本部ですら把握しきれぬ存在――いや、むしろ“把握しないよう”命じられた者。

 

 それが何を意味するか。

 答えは一つ。“例外”の存在である。

 

 そして、例外とは、制度の綻びであり、あるいは“上位者の私兵”である。

 

「EVA……まさかとは思いますが」

 

 少女はポケットから取り出した一枚の写真に視線を落とす。

 映っていたのは、街角に立つ少女――だが、奇妙な違和感があった。

 影が、妙に薄い。まるで、写真のなかで“存在を拒んでいる”かのような。

 

 風が吹く。夜のクラクフは冷たく、重い。

 だが、そのなかでターニャは目を細め、口角をわずかに吊り上げる。

 

「さて、幽霊が歩く夜ですか。ならば、国家保安本部の仕事は“霊媒”ということになりますね」

 

 語り口は皮肉交じり、だがその眼差しは、絶対零度の合理主義。

 

 少女は歩き出す。

 国家という名の亡霊が蠢く都市、そのなかで、追う者もまた、沈黙の亡霊であった。

 

 

 

 

 

第6節 報告なき命令

 

 報告書というものは、本来、過去を記録するためにある。

 

 だが、国家保安本部(RSHA)においてそれは逆であった。ここでは、“報告されないこと”こそが最も多くの意味を持つ。つまり、「誰が、どこで、何をしなかったか」を読むのが、優秀な職員の証明である。

 

 そして、ターニャ・デグレチャフ中尉は、その手の“読み取り”においては、今やベルリンでも指折りと評されていた。

 

「……なるほど、リヴィウ周辺の部隊移動報告に“EVA”の記載はない。しかし、兵站補給台帳には“EVA専用糧秣”の記録が残っている」

 

 この矛盾は、意図的な“影作り”だ。

 すなわち、国家保安本部内部において、誰かが“EVA”というコードネームを持つ人物に対し、独立した補給経路を与えている。

 

 だが、命令書は存在しない。報告もない。

 あるのは、食料記録と、貨車の痕跡と、忘れられた指令だけ。

 

 ――命令なき存在、それはすなわち“主観的命令”である。

 

「無命令の命令。なるほど、これは上層の“意志”そのものですね」

 

 彼女は通信員から受け取った暗号電文を再確認する。

 そこには、ただこう記されていた。

 

『EVA、随行承認。視察地:リヴィウ』

 

 署名も命令番号もない。

 それでも、その短文には国家保安本部の“冷たい従属構造”が詰め込まれていた。

 

 誰も命じていない。だからこそ、逆らえない。

 存在しない命令とは、すべての命令に優先する。

 

 ――ターニャはふと視線を上げる。

 視線の先には、地図の上に置かれた一枚の赤ピン。その位置は、リヴィウの北西部、旧鉱山帯。

 

「……EVA、おそらく君は“個”ではない。むしろ“装置”の一部なのでしょう」

 

 だが、それは人間か、道具か、それとも“神話”か。

 国家保安本部において、それは重要ではない。重要なのは、それが命令されざる“任務”である、という事実だ。

 

 ターニャは机の上の記録用紙を一瞥し、手元の鋼鉄製スタンプを押し込んだ。

 

 印字されたのは、たった一言――

 

『記録外』

 

 それが意味するのは、RSHAの“暗黙の同意”だった。

 

 この世界には、報告されない命令があり、

 命令されない者ほど、最も忠実に働く。

 

 

 

 

 

第7節 静かなる追跡者

 

 記録とは、保管されるために存在するのではない。削除される前提で書かれるものである。

 

 国家保安本部(RSHA)の一角、RSHA第VII局――公文書・記録管理部門の地下に位置する密室にて、ターニャ・デグレチャフ中尉は“追跡”という名の作業に没頭していた。

 

 空気は重い。照明は意図的に落とされ、机上にあるのは各局からの転送書類と、鍵付きの灰色ファイル。

 

 無言で捲られる紙束。だがそれは、沈黙の中で叫びをあげていた。

 

 数日前、“抹消”されたはずの党員名が、別文書の統計において“生存者”としてカウントされている。

 

 整合性の崩れた数字、それは単なる記載ミスではない。明らかな“誰かの意図”だった。

 

 SD(親衛隊保安部)経由で流れた報告は、ゲシュタポの捜査記録と一致せず、アプヴェーア(国防軍情報部)の偵察報告では、対象の所在が「現場に存在していた」と明記されていた。

 

 ――つまり、記録上は“存在しない”人物が、現場には“いた”。

 

 それはこの帝国において、重大な背信である。

 

「どこで“擦り替え”た?」

 

 ターニャの声は低く、まるで独白のようだった。

 

 机上の地図には、赤線と黒線が交差する。線の先には“現地管理局”、すなわち現地の行政官が記録送信を担った拠点名が記されていた。

 

 ……クラクフ東部、民兵解体処理の報告文。その原本と写しで、文末の署名が異なっている。

 

 元の報告書には「E・シュタインホフ」、写しには「H・ツィンマーマン」。

 

 どちらも、すでに“殉職”として処理済みであった。だが、ターニャの手元には、RSHA本部の搬送記録に記された“第三の署名”が存在していた。

 

「“O・レントナー”。……これは、確か……」

 

 記録の海を掘り返し、彼女の手が止まった。

 

 レントナー――RSHA第IV局、すなわちゲシュタポ局の文書課に所属していた、事務方の下士官。数か月前、任地変更の命令が出されていたが、それ以降の記録が、消えている。

 

 いや、“最初から存在しない”ように改竄されていた。

 

「……成る程、静かなる追跡者というわけですね」

 

 誰も銃を撃たない。だが、報告書が消え、署名が変わる。そして、名前を持った人間が、組織の網目から滑り落ちる――。

 

 それは、国家保安本部という“書類による戦場”において最も洗練された処刑方法であり、“証拠の否定”という名の抹殺術だった。

 

 そしてその矛先は、決して外部だけではない。

 

 ターニャはひとつ息を吐くと、灰色ファイルを閉じ、封印の印を押した。

 

「……“彼ら”はまだ試している。どこまで私が気づいているかを」

 

 冷静な語調とは裏腹に、その瞳にはわずかな警戒の光が灯る。

 

 彼女は今や、国家保安本部内で“ヒムラーの目”として機能している。

 

 だからこそ、内部の誰かが、慎重に、静かに、彼女の行動を計測しているのだ。

 

 ターニャ・デグレチャフ――その名の記録も、きっとどこかで“試しに”改竄されているかもしれない。

 

 だが、少女は静かに微笑んだ。

 

「こちらにも、“書き換える”手段はある」

 

 書類という名の銃を手に、彼女は密室を出た。

 

 

 

 

 

第8節 沈黙なき監視者

 

 監視者とは、概して“沈黙”を尊ぶ。

 だが、国家保安本部(RSHA)――とりわけその内奥たるSD(親衛隊保安部)においては、沈黙は必ずしも美徳ではなかった。

 

 なぜなら、沈黙は“記録されない情報”であり、“報告されない思考”であり、“上奏されない忠誠”であったからである。

 それはつまり、“存在しない者”に等しい。

 

 ゆえにSDの原理は逆だった。

 それは“語られる沈黙”であり、“観察される思考”であり、“記録される無意識”をこそ価値とする、逆説の情報機構。

 

 この日もまた、クラクフのRSHA本部分室において、その“沈黙なき監視者”たちは動いていた。

 

 ターニャ・デグレチャフ中尉は、室内に敷き詰められた通信記録、密告文、行政報告を前にして、あくまで無表情だった。

 

「……党指導部より“第14地区担当者”の再評価を求む、ですか」

 

 誰に問いかけるでもなく、少女は呟く。

 その声色は冷静にして皮肉、感情を削ぎ落とした実務家の響きであった。

 

 党指導部――すなわち、ナチ党の地区幹部たちは、“忠誠”の名のもとにRSHAへ無数の“提案”を送ってくる。

 だがその多くは、官僚的報復か、自己保身、あるいは純粋な無能の産物でしかない。

 

 SDはそれらを見抜き、“評価”し、“処理”するために存在していた。

 

「この件は、逆に問い返した方が効果的でしょう。“再評価”するのは、果たして誰か――と」

 

 そう言ってターニャは、同席する部下のSD所属士官に視線を向ける。

 

「君、該当の“第14地区”における最近の密告件数、上げてくれる?」

 

「はっ。今月は17件、内13件が同一筆跡によるものと推定されております」

 

「つまり、地区の“声”は、たった一人のペン先から出ている、と。これが“人民の声”とは、笑わせてくれますね」

 

 記録は事実を語らぬ。だが、それは事実を隠すものでもない。

 “矛盾の連鎖”――それこそが、監視国家における真の言語であった。

 

 ターニャは書類をまとめると、さっと“保留”印を押し、そのまま背後の無線卓へ向かう。

 

 そこでは、RSHA第VII局――公文書・記録管理部門と連携する形で、情報の再分類が行われていた。

 すなわち、“嘘”を“公式”にする装置である。

 

「SDからVII局への照会事項:第14地区に関する密告文、全件を“検討中”扱いとせよ」

 

 それは、政治的に“処理しない”という最も有効な処理方法。

 敵を裁くより、味方を“無視する”方が痛烈な一撃となる場合もある。

 

 無線士が敬礼で応じ、処理が進行する間、ターニャは再び黙した。

 

 彼女の背後には、アプヴェーア(国防軍情報部)の“観察対象リスト”が映された板がある。

 そしてその隅には、いつの間にか、ターニャ・デグレチャフの名が黒鉛で記されていた。

 

 SDもまた、監視される。

 

 RSHAとは、己の影にすら目を光らせる、自壊寸前の知性体である。

 だがターニャは、それを恐れてなどいなかった。

 

「……監視されている? 結構なことです」

 

 彼女の声は、笑いすら含んでいた。

 

「私は、沈黙を語る者ですから。聞き耳を立てる者が多ければ多いほど、“言葉”は意味を持つ」

 

 その瞬間、室内の電灯が一度、わずかに揺れた。

 

 どこかで――誰かが、監視者の名を呟いたのだろう。

 あるいは、影に棲む何かが“沈黙”に目覚めたのかもしれない。

 

 

 

 




ヒムラーさん出演させるか非常に悩みどころですね…

次に読みたい展開はどちらですか?(※構成上、前後する可能性あり)

  • イギリス戦方面
  • 帝国内政(モレル関連)
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