幼女戦記 〜旗を高く掲げよ〜   作:猫敷

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閑話:ドクトルの日常1 後半

『休憩室の茶、統括の夢』

 

 実に鬱陶しい。だが、少しばかり楽しみでもあった。

 

 研究棟を出て国家保安本部側へ歩きながら、ドクトルは手の中の封筒を軽く叩いた。中身は変わらない。倉庫側の記録ずれ、研究側の申告値、試験資材の割当、そして、まだ書面にし切れていないが確かに存在する「研究部門がばらばらに動きすぎている」という事実だ。

 

 彼は前から気にしていた。

 

 別に、誰それが気に食わないというだけの話ではない。もちろん気に食わない相手はいる。研究者としての虚栄に溺れ、器具の並びを見栄えで決める馬鹿もいるし、計量の桁を揃えずに「意味は分かるだろう」と笑う阿呆もいる。だが、本当に厄介なのは個々人の性格ではなく、部門ごとに管理の癖が違い、記録の形式も試験資材の請求経路も、どこか妙に食い違っていることだった。

 

 金属を扱う連中は金属の論理だけで動く。薬品を扱う連中は薬品の都合だけを神聖視する。保管側は責任を恐れ、現場側は期日を恐れ、理論屋はどちらも軽んじる。その全員が、自分の遅れだけは事情があると言い張る。

 

 研究というものは本来、そうした違いを超えて一つの結果へ収束すべきなのだが、現実には違う。人間がいる。帳簿がある。署名欄がある。そして、署名欄がある以上、そこへ至る前の責任逃れもまた増殖する。

 

「まったく、美しくない」

 

 独り言を漏らし、彼は外套の襟を少しだけ上げた。風が冷たい。だが、頭は冴える。少なくとも、誰に何を言うべきか整理するには丁度いい。

 

 正面玄関から入る気にはならなかった。昼前の本部は人の出入りが多い。人が多いと、知っている顔も増える。知っている顔が増えれば、「博士、例の件ですが」と別件が増える。今日はそれを相手にしている気分ではない。だから彼は脇の通用口から入り、長い廊下を使って目的の区画へ向かった。

 

 国家保安本部の廊下は、研究棟の廊下と違って歩調が一定だ。金属や油の匂いではなく、インクと紙の乾いた匂いがする。靴音も違う。研究棟では誰もが少し急いでおり、途中で立ち止まっては別の扉へ消える。こちらは違う。急いでいても、急ぎ方に順番がある。まるで建物そのものが、歩く速度まで文書で決めているみたいだ。

 

 彼はそういう空気を嫌いではない。好きでもないが、嫌い切れもしない。

 

 研究者というものは、概して官僚を軽蔑したがる。紙ばかり増やし、数字を遅らせ、理解もせず判を求める連中だと。偏見としては悪くない。実際、そういう手合いも山ほどいる。だが、全員がそうではない。紙を増やすことで、逆に道を通す人間もいる。そして、ターニャはまさにその種の厄介な才能を持っていた。

 

 あの少佐は、こちらが十言いたいところを三つに削り、三つを二つの欄へ押し込み、ついでに責任者と期限まで付ける。夢がない。潤いもない。だが、通る。そこが腹立たしい。

 

 執務区画へ着く前に、彼は一つ角を曲がったところで足を止めた。前方の休憩室の扉が半分だけ開いている。中から湯気と茶の匂いが流れてきた。昼食時ではない。ちょうど仕事の合間に、熱いものを口へ入れて頭を繋ぎ直すための短い休憩時間、といったところだろう。

 

 それは都合がよかった。

 

 食事中へ押しかければ、さすがに鬱陶しがられる。いや、休憩中でも鬱陶しがられるだろうが、そこは種類が違う。食事を切るのは無遠慮だが、休憩を潰すのはやや図々しい程度で済む。どちらも歓迎されないことに変わりはないとしても、多少はましだ。

 

 彼は襟を整え、わざと軽い足取りで扉を押した。

 

 中には予想通り、ターニャがいた。窓際に近い小さな卓へ座り、湯気の立つカップを片手に短い控えへ目を通している。休憩と言っても完全には仕事を離れない辺りが、いかにもあの少佐らしい。向かいにはセレブリャコーフが立ったまま何かを確認していたが、ドクトルが入ってきた瞬間に顔を上げた。

 

 先に口を開いたのは、ターニャだった。

 

「嫌な予感がした」

 

 ため息が半分混ざっている。大変よろしい。こちらの登場に対する反応として、実に期待通りである。

 

「おやおや、少佐殿。人を疫病神のように扱うのは感心しないな」

 

「調子のいい時だけその呼び方をするな。何の用だ、ドクトル」

 

 少佐殿、という呼び名はやはり刺さったらしい。語尾が一段低くなる。彼は少しだけ満足した。

 

「休憩中だったか」

 

「見れば分かるだろう」

 

「なら、丁度いい。食事中へ来たわけではないのだから、私は十分に配慮している」

 

 ターニャは無言でカップを置いた。その置き方が静かなのに妙に苛立って見えるのは、この上官の得なところでもあり損なところでもある。声を荒げなくても不満が伝わる。便利だろうが、一緒に働く側としては胃に優しくない。

 

 セレブリャコーフが口を開く。

 

「控えをもう一つお持ちしますか」

 

「不要だ」

 

 ターニャが先に切る。

 

「長引かせない。ドクトル、三分で要点を言え」

 

「三分とはつれないな。せめて研究の未来にもう少し猶予を――」

 

「二分でいい」

 

「減ったではないか」

 

 ドクトルは肩を竦め、それでも卓の前まで歩み寄った。封筒を置き、中身を引き抜く。まず最初に倉庫側の記録ずれを出した。ここで余計な前置きをすると、本当に追い出されかねない。

 

「結論から言おう。重水関連の保管記録に一行ずれがあった。研究側と倉庫側の申告値が噛み合わない理由はそれだ」

 

 ターニャの目が書面へ落ちる。休憩中の顔から仕事の顔へ戻る速度が実に速い。

 

「故意か」

 

「今のところは単純な記録ずれと見る。だが、同じ係が別の欄でもやっている可能性がある」

 

「確認済みか」

 

「まだだ。倉庫長へは洗わせている」

 

「そうか。続けろ」

 

 続けろ、と来たので、彼は気を良くした。追い出される雰囲気ではない。ならば少しは話を広げてもよいだろう。

 

「問題はそこから先だ。記録ずれ自体は直せる。だが、研究部門全体の動きが今のままだと、同じことが別の形で再発する」

 

「それはさっきの結論ではないな」

 

「さっきのは個別の故障だ。こちらは構造の話だよ、少佐」

 

 ここでは殿を付けない。真面目な話へ入る時は、その方が通りやすい。

 

 ターニャはカップへ触れず、背もたれへ浅く寄りかかった。ため息は吐いていない。だが、「また厄介なことを持ち込んだな」と言わんばかりの目はしている。大変よろしい。研究者に対してその顔を向ける官僚は、案外貴重なのだ。大抵は、分かったふりをするか、本気で分からないかのどちらかだから。

 

「構造、とは」

 

「雑多だ。管理形式がばらばらすぎる。金属を扱う連中、薬品を扱う連中、保管側、試験場、理論屋、それぞれが自分の都合で帳票を作り、請求経路を作り、記録の癖を正当化している」

 

「研究部門全体の統一様式が欲しいと」

 

「そうだ」

 

「欲しいだけか」

 

「欲しいだけではない。必要だ」

 

「根拠」

 

 その一言は、いつものように乾いていた。ドクトルは待ってましたとばかりに二枚目を広げた。試験資材の割当表と、その横に彼が自分で引いた簡略図である。

 

「見たまえ。重水だけが問題ではない。搬出依頼は研究室ごとに形式が違う。倉庫側の受領確認欄も統一されていない。試験場で使った量の記録が当日付けの部屋と翌日付けの部屋に割れている。この状態では、数が足りなくなった時に真っ先に争いが起きるのは資材の奪い合いだ」

 

 ターニャは図の上を指先で追った。

 

「奪い合い、という言い方は大袈裟だ」

 

「研究者の間では大袈裟でも何でもない。試験直前の資材は兵糧だ。予定を守れない者ほど、他人の便へ割り込みたがる」

 

「自覚があるな」

 

「研究者一般の話だ。私を含まないとは言わんが」

 

 そこでターニャの口元がほんの少しだけ動いた。笑いではない。だが、完全な無反応でもない。ドクトルはそこを見逃さなかった。

 

「少なくとも、今のままでは誰か一人の不始末を直しても意味が薄い。統括の窓口が要る」

 

「誰がやる」

 

「私だ」

 

 言い切ると、間が落ちた。

 

 セレブリャコーフが横で一度だけ瞬きをする。ターニャは表情を変えなかった。変えなかったが、その沈黙がすでに回答の半分みたいなものだった。

 

「……なるほど」

 

 ターニャが言う。

 

「要するに、研究部門をまとめる名目を寄越せと言いに来たわけだ」

 

「名目とは心外だな。必要な権限の付与と言ってくれたまえ」

 

「言い換えても中身は同じだ」

 

 ドクトルは胸の前で両手を広げた。芝居がかっていると言われればその通りだが、この方が自分の話しやすい姿勢なのだから仕方がない。

 

「少佐、聞いてくれ。いま研究部門はひどく雑多だ。人はいる、装置もある、資材も辛うじて回っている。だが、それらが一つの意志で動いていない。各室が各室の理屈で自分の仕事を神聖視している。そんなものは研究ではなく、単なる寄り合い所帯だ」

 

「それで」

 

「統括が必要だ」

 

「誰の」

 

「私の」

 

「だから、そこだ」

 

 ターニャはついに小さく息を吐いた。深いため息ではない。だが、しっかり鬱陶しがっている。

 

「ドクトル、お前は自分がそういう立場に向いていると思っているのか」

 

「思っているとも」

 

「どの口で」

 

「この口でだ」

 

「試験手順を三頁書いた後で余白に全然別件の着想を書き始める口だろう」

 

「柔軟性と言ってくれ」

 

「倉庫長の話を聞く前に未来の話へ飛ぶ頭でもある」

 

「遠大な視野と言うべきだな」

 

「昨日の成績表へ今日の理論を上書きしようとして助手を泣かせかけた男が何を言う」

 

 そこまで把握しているのか、とドクトルは少し感心した。誰が喋ったのかは知らないが、情報の回りが早い。いや、単に自分のやらかしが目立つだけかもしれない。

 

「助手は泣いていない」

 

「泣く寸前の顔はしていた」

 

「研究室では名誉なことだ」

 

「お前の研究室だけだ」

 

 セレブリャコーフが視線を落とした。笑いをこらえたのかもしれない。笑うほどでもない。だが、この程度の軽口が挟まるくらいには、空気はまだ固くない。

 

 ドクトルは椅子を引き寄せるでもなく、その場に立ったまま続けた。

 

「冗談はともかく、統括が必要なのは本当だ。記録の形式を揃えたい。資材請求の窓口も一本化したい。搬出入の責任者欄も統一したい。そうしないと、次に不足が起きた時、誰も自分の非を認めずに終わる」

 

「それは分かる」

 

「だろう」

 

「だが、お前に全部を渡す気にはならん」

 

「そこを何とか」

 

「何とか、で動く組織なら私はいらん」

 

 はい来た、とドクトルは思った。これだ。こうして夢を要件欄へ叩き落とす。腹が立つ。だが、ここから先が大事でもある。

 

「では、どういう形なら通す」

 

 ターニャの目が少しだけ細くなった。問い方が変わったと判断したらしい。

 

「まず、研究部門全体の統括権は無理だ」

 

「冷たいな」

 

「当然だ。お前は研究者だ。管理屋ではない」

 

「私は両方できるつもりでいる」

 

「つもりで止まっているうちは無理だ」

 

 痛いところを刺す。刺すが、完全否定ではない辺りがまた厄介だ。

 

「ただし」

 

 ターニャが続ける。

 

「資材管理と記録形式の暫定調整役なら考える余地はある」

 

 ドクトルの眉が上がった。

 

「ほう」

 

「対象は研究関連の試験資材に限る。人事や予算や各部門の指揮系統までは触らせない」

 

「それでは王国が狭い」

 

「王国ではない。窓口だ」

 

「夢がない」

 

「夢で倉庫は回らん」

 

 あまりにその通りで、反論が一瞬遅れた。そこでターニャは畳みかける。

 

「必要なら、暫定の調整文書は作る。だが条件がある」

 

「出たな」

 

「一つ。記録形式の統一案をお前が書く。ただし、現場の誰でも読める言葉でだ。専門用語の羅列は認めない」

 

「私を何だと思っている」

 

「説明が長い研究者だ」

 

「ひどい」

 

「二つ。倉庫側、試験場、研究室、それぞれの責任者欄を先に洗う。誰がどこで署名するか曖昧なまま、調整役だけ立てても意味がない」

 

「それも分かる」

 

「三つ。対象は当面、重水を含む指定資材群に限定する。全部を一度に触るな。お前はどうせ広げる」

 

 ドクトルは腕を組んだ。実に分かっている。分かっているが、だからこそ少し悔しい。

 

「そこまで見抜かれていると、私の威厳が傷つくのだが」

 

「最初から威厳で話していない」

 

「少佐殿、君はもう少し研究者の浪漫に寛容であっても――」

 

「それを言うなら私は帰る」

 

「待て待て待て」

 

 ドクトルは慌てて片手を上げた。ターニャは本気で切る時、声量も態度も変えない。ただ、動きが直線になる。今もカップへ手を戻しかけた指先が、その気配を見せていた。危ない。実に危ない。

 

「分かった。少佐、少佐で結構だ。条件も飲もう」

 

「全部か」

 

「全部は飲まん。交渉だ」

 

「なら、一つ返せ」

 

 ドクトルはほんの少し考えた。返せるもの、返したいもの、返せないもの。その場で選り分ける。

 

「対象資材群の限定は、重水を含む指定資材群でいい。ただし、将来的な拡張余地の一文を入れてほしい」

 

「将来的、とは」

 

「効果確認後、必要に応じて他の試験資材へ適用範囲を広げる可能性を留保する、くらいでいい」

 

「曖昧だな」

 

「曖昧だが、未来を殺していない」

 

 ターニャは少しだけ考えた。休憩中だというのに、こうなると本当に休憩ではない。だが、追い返さずに話を続けている時点で、彼女もまるで無価値だとは見ていないのだろう。そこが分かる程度には、ドクトルもこの腐れ縁に慣れていた。

 

「文言は私が直す」

 

「もちろんだとも。君のそういうところは実にありがたい」

 

「褒めても増えない」

 

「減りもしないだろう」

 

「鬱陶しいな」

 

「知っている」

 

 ターニャがついにカップを持ち直した。飲むのかと思ったが、その前にもう一度言った。

 

「ドクトル」

 

「何だ」

 

「お前は雑多な研究部門をまとめたいんじゃない。好きなように動かせる秩序が欲しいだけだろう」

 

 実に嫌な言い方だ。だが、本質も突いている。

 

 ドクトルは少し考え、それから正直に答えた。

 

「半分はその通りだ」

 

「正直で結構」

 

「だが、残り半分は本当に必要だぞ。今のままでは、誰も全体を見ていない。自分の机、自分の試験台、自分の資材箱しか見ていない」

 

「だから窓口を絞る、と言っている」

 

「君はいつも夢を半分に切る」

 

「半分で済むなら親切な方だ」

 

「くれぐれも研究の精神まで半分にしないでくれたまえ」

 

「精神はそのままでいい。帳票だけ揃えろ」

 

 そこでドクトルは声を立てずに笑った。実にターニャらしい。人の熱は潰さず、だが、熱の流れ先だけは指定してくる。鬱陶しい。鬱陶しいが、こうして話が形になるのだから、本当に嫌いきれない。

 

 セレブリャコーフが、控えの一枚を静かに差し出した。

 

「書き留めますか」

 

「頼む」

 

 ターニャが短く言う。

 

「項目は三つ。暫定調整役の対象、責任者欄の洗い出し、記録形式統一案の提出期限」

 

「期限はいつにしますか」

 

 セレブリャコーフの問いに、ターニャは一瞬だけドクトルを見た。

 

「お前、今日中にどこまで出せる」

 

「今日中か」

 

「無理か」

 

「無理とは言わん。ただ、理想を言えば――」

 

「理想はいらん。出せる範囲を言え」

 

 ここへ来ると逃げ道がない。ドクトルは鼻を鳴らし、封筒の中身をもう一度見た。

 

「責任者欄の洗い出しは今日中だ。倉庫側、試験場、研究室、それぞれの署名箇所を拾って表にする」

 

「記録形式の統一案は」

 

「明日の正午」

 

「遅い」

 

「短いな!」

 

「読む側の手間まで含めて考えろ。長すぎる案は読む気が失せる」

 

「そこを削るのが私の苦手分野なんだ」

 

「知っている。だから期限を詰める」

 

「横暴だ」

 

「統括したいと言い出したのはお前だ」

 

 正論というものは時に残酷だ。ドクトルは肩を落としたふりをした。ふりである。本気で落胆しているわけではない。こうして言い返されている時点で、話は前に進んでいる。

 

「よろしい。では明日の正午までに、現場でも読める程度まで削った案を持ってくる」

 

「専門用語は避けろ」

 

「努力する」

 

「避けろ」

 

「……避ける」

 

「よろしい」

 

 ようやくターニャが茶を一口飲んだ。ドクトルはその動きに少し満足した。完全に休憩を潰してしまったわけではないらしい。もっとも、自分が来なければ、もう少し穏やかな時間だったのだろうが。

 

 そこで彼は、少しだけ余計なことを言いたくなった。雰囲気が硬すぎると、せっかくの休憩室が執務机の延長になってしまう。それはそれで面白くない。

 

「しかし、少佐」

 

「何だ」

 

「君は相変わらず、人を追い返しそうな顔をしながら、ちゃんと相手をするな」

 

 ターニャの目が上がる。

 

「感想ならいらん」

 

「感想ではない。観察だ」

 

「ますますいらん」

 

「研究者は観察が本業でね」

 

「その観察眼を自分の研究室の整理にも使え」

 

「痛いところを突くのはやめたまえ」

 

「片付いていないのか」

 

 これはセレブリャコーフの声だった。丁寧だが、ほんの少しだけ興味が乗っている。

 

「片付いていないわけではない。配置に哲学がある」

 

「第三者が見ても分かる哲学ですか」

 

「そこは……訓練が要る」

 

 セレブリャコーフが目を伏せた。今度は確実に笑いを堪えている。失敬な。

 

「研究室というものはだな、整いすぎると着想が逃げることもあるのだ」

 

「着想のせいで足の踏み場がなくなるなら、まず床を救え」

 

 ターニャの返しは早い。

 

「少佐、君は夢がない」

 

「夢を見る前に転ぶ方が嫌なんだ」

 

「そこが君の美徳であり欠点でもある」

 

「お前に評価される覚えはない」

 

「あるさ。少なくとも、私は何度も助けられている」

 

 少しだけ本音が混じった。言ってから自分でも気付く。だが、撤回するほどではない。ターニャもすぐには返さなかった。その代わり、短く息を吐く。

 

「……そういう言い方をすると面倒だな」

 

「面倒で結構」

 

「私は結構じゃない」

 

「知っている」

 

 しばし沈黙が落ちた。休憩室の外では、誰かが急ぎ足で通り過ぎる音がする。室内の湯気は少し薄くなった。セレブリャコーフが控えへ静かに書き込みを続けている。こういう小さな静けさは悪くない。研究棟の騒がしい空気とは別の、言葉の余白がある。

 

 ドクトルはその余白へ、もう一つだけ軽い話を置くことにした。

 

「そういえば、今朝の倉庫長はひどく渋い顔をしていたぞ」

 

「お前に会えば誰でもそうなる」

 

「偏見だな。私は魅力的な会話相手だ」

 

「会話の前に面倒を持ってくる」

 

「研究者は成果を持ってくると言ってほしい」

 

「成果が形になる前に騒ぐから面倒なんだ」

 

 ドクトルは笑った。

 

「なるほど。では、次に来る時は、少佐殿と呼ぶ前に成果を持ってくるとしよう」

 

「殿を付けるな」

 

「祝いの気分が乗れば付く」

 

「乗るな」

 

「無茶を言う」

 

「お前にだけは言う」

 

 そこへセレブリャコーフが控えを差し出した。

 

「暫定の要点だけ書きました。ご確認ください」

 

 ターニャが受け取り、ざっと読む。ドクトルも横から覗き込んだ。簡潔で実に分かりやすい。やはり、この副官は手際がいい。話の余白を削る速度が上官によく似ている。

 

「これでいい。ドクトル、今の内容を踏まえて案を出せ」

 

「了解した」

 

「今日中の表は私の机へ。遅れるなら先に言え」

 

「そこまで信用がないか」

 

「あるなら条件を切らない」

 

「手厳しい」

 

「お前が広げるからだ」

 

 ターニャはそこでようやく休憩室の空気へ少し戻ったのか、カップを持ったまま窓の外へ一度だけ視線を流した。ほんの数秒だったが、その横顔は執務机の前のものより少しだけ柔らかい。とはいえ、柔らかいと言っても、普通の人間の「少し気が抜けた」程度である。あの少佐の場合、それだけで随分印象が変わる。

 

 ドクトルはふと、こういう時間が案外嫌いではないと思った。誰かの執務を邪魔し、ため息を吐かれ、鬱陶しがられ、それでもきちんと話を聞かれる。その上で、こちらの無茶が半分切り落とされ、半分は形にされる。研究室の中だけでは得られない種類の前進だ。

 

「少佐」

 

「まだ何かあるのか」

 

「ないわけではないが、大きい話は終わった」

 

「なら帰れ」

 

「つれないな。せっかく休憩室なのだから、もう少し雑談というものを――」

 

「研究室の整理状況でも聞くか」

 

「それは雑談ではなく尋問だ」

 

「お前には丁度いい」

 

「ひどい扱いだ」

 

「自覚があるなら改善しろ」

 

「改善の第一歩として統括権が欲しい」

 

「話を戻すな」

 

 この返しの速さ。やはり面白い。ドクトルは声を抑えて笑い、両手を上げた。

 

「分かった分かった。今日はここまでにしておこう。これ以上やると本当に追い出されそうだ」

 

「最初からその判断をしろ」

 

「休憩中へ押しかけたのは配慮の結果だぞ」

 

「なら次は休憩が終わってからにしろ」

 

「それでは君の顔がさらに固くなる」

 

「今でも十分固いだろう」

 

「だから少し柔らかい時を選んだんだ」

 

 言うと、ターニャは本当に深くため息を吐いた。今度は隠していない。呆れ半分、諦め半分というところだろう。

 

「ドクトル」

 

「何だ」

 

「お前は本当に鬱陶しいな」

 

「光栄だ」

 

「褒めていない」

 

「知っている」

 

 セレブリャコーフが小さく一礼した。

 

「表が整い次第、お持ちいただければ結構です。記録形式の案は明日正午までに」

 

「承知した、少尉。実に優秀なまとめ方だ。少佐、君はいい副官を持ったな」

 

「それは同意する」

 

 ターニャが即座に答える。ドクトルは思わず笑みを深くした。こういうところだ。大げさな賛辞は嫌うのに、事実だと思えば躊躇なく言う。だから厄介で、だから信用もできる。

 

 彼は封筒をまとめ、控えの写しだけ残して立ち上がった。

 

「では、私は研究の混沌へ戻るとしよう」

 

「混沌を増やすな」

 

「整理するために行くのだ」

 

「半分は信用してやる」

 

「十分だとも。少佐から半分も貰えれば、研究者としては大勝利だ」

 

「勝手に勝つな」

 

 ドクトルは扉の前で振り返った。

 

「明日は案を持ってくる。君がまた夢を切り刻む前に、少しは形にしてみせよう」

 

「最初から形で持ってこい」

 

「善処する」

 

「その言葉は信用しない」

 

「君たちは本当に容赦がないな」

 

 言い残して休憩室を出る。扉が閉まる直前まで、室内の湯気の匂いが追ってきた。

 

 廊下へ出ると、建物の空気はまた紙と歩調の世界へ戻る。だが、ドクトルの足取りは来た時より軽かった。理由は明白だ。話が通った。完全ではない。望んだままでもない。統括権を丸ごと手に入れたわけでもない。だが、窓口はできる。記録形式統一案も出せる。重水関連を足掛かりに、研究部門の雑多さへ楔を打てる。

 

 十分ではないが、上出来だ。

 

「さて」

 

 彼は封筒を脇へ抱え直した。

 

「混沌を統べる第一歩といこうじゃないか」

 

 大仰な物言いだと自分でも思う。だが、少なくとも今の彼には、そのくらいの調子が丁度よかった。

 

 研究棟へ戻る途中、倉庫長の顔を思い出し、助手の困り顔を思い出し、ついでにターニャのため息を思い出す。どれも今日の仕事だ。どれも面倒だ。だが、その面倒が一つの線で繋がった時、人は少し機嫌がよくなる。

 

 実に単純なことだった。

 

 研究棟へ戻ると、助手が扉のところで待っていた。

 

「博士、成績表の追記が一件だけ――」

 

「後だ。まず表を作る」

 

「表、ですか」

 

「そうだ。研究部門の雑多さを少しばかり締め上げるための表だよ」

 

「はあ……」

 

「いい顔をしたまえ。これは未来へ繋がる厄介事だ」

 

 助手は理解したのかしていないのか微妙な顔だったが、ドクトルは気にしなかった。理解は後から追いつけばいい。大事なのは、今動き出すことだ。

 

 彼は机へ向かい、新しい紙を引き寄せる。表題を書く。指定資材群の搬出入管理および記録形式暫定統一案。少々硬い。硬いが、あの少佐の机へ乗せる以上、最初の見出しはこのくらいでいい。中身で遊ぶ余地はまだある。

 

 ペン先が走る。倉庫側。研究室。試験場。責任者欄。受領欄。日付欄。搬出理由。残量確認。どこで誰が署名し、どこで誰が控えを持つか。項目を並べていくだけで、頭の中の混沌が少しずつ形を持ち始めた。

 

 そうだ。やはり、これが必要だったのだ。

 

 誰か一人が全体を見なければならない。理想を語る者、数字を守る者、責任を恐れる者、その全員を一枚の表へ乗せる仕事が要る。今日はその入口をこじ開けた。明日にはもう少し先まで行けるだろう。

 

 彼は書きながら、ひどく機嫌が良くなってきた自分に気付いた。

 

「少佐殿め」

 

 小さく呟く。

 

「まったく夢の削り方が上手い」

 

 だが、削られた夢の断面は案外きれいで、しかもそこから現実へ繋がる道が見える。だからこそ、また持っていきたくなるのだろう。厄介な相手だ。本当に。

 

 研究室の窓の外では、日が少しずつ傾き始めていた。これからまた、別の忙しさが来る。記録係への確認、倉庫長の再提出、助手の追記、そして明日正午に間に合わせるための削り作業。やることは多い。多いが、今のドクトルにはそれが少しも苦ではなかった。

 

 雑多な研究部門を統べる、などと口にすれば大袈裟に聞こえる。実際、大袈裟だ。だが、その大袈裟さを笑いながら要件欄へ落としてくれる相手がいる以上、夢を見ても罰は当たるまい。

 

 そうして彼は、再び紙と数字と着想の中へ戻っていった。今度は少しだけ、秩序の匂いを連れて。

 

 研究棟へ戻ってからのドクトルは、ひどく機嫌が良かった。

 

 機嫌が良い時の彼は、普通の人間が二つに分けて考えることを、一息で七つくらい同時に進める。机へ向かい、指定資材群の搬出入管理および記録形式暫定統一案と書き出したのもその一つに過ぎなかった。だが、紙へ最初の見出しを置いた瞬間、彼の頭の中ではもう別の歯車が回り始めている。

 

 重水を含む指定資材群の窓口統一。責任者欄の固定。搬出入記録の様式統一。そこまでは昨夜から考えていた線の延長だ。

 

 だが、その先がある。

 

 研究部門の雑多さを整理する。整理するだけでなく、どの研究が優先され、どの研究者が守られ、どの設備へ資材が先に流れるか、その入口と出口をまとめて押さえる。そうなれば、研究は変わる。速度も、機密も、資源の使い方も、全部だ。

 

 彼はそこでペンを止め、椅子へ深く腰を掛けた。

 

 窓の外はまだ午後の色を残している。だが、研究棟の机上では、昼も夕も関係なく思考だけが進む。

 

「ふむ」

 

 ひとりごちて、彼は机の端から別の封筒を引き寄せた。前にどこからか回ってきた対外情報の控えだ。海の向こう、合衆国が軍需研究へ巨額の予算を投じ、組織の連絡経路をまとめつつある、という断片的な情報。完全な全体像ではない。だが、十分だった。予算が大きいことも、窓口が少ないことも、研究にとっては暴力的なほど有利だ。

 

 ドイツは違う。

 

 陸軍は陸軍で抱える。空軍は空軍で抱え込む。海軍はまた別の理屈を振り回す。省庁、企業、大学、研究所、党の高官、軍の将官、そして親衛隊までが、それぞれに「国家のため」を掲げて手を伸ばす。国家のため、というのは便利な言葉だ。便利だからこそ、同じ言葉で違う方向へ綱を引き始める。

 

 結果、研究資材は途中で鈍り、記録は割れ、試験の優先順位は人間関係で揺れる。

 

 あまり美しくない。

 

 美しくないが、直しようはある。

 

 ドクトルは新しい紙を取り出し、今度は少しだけ筆圧を強くして表題を書いた。

 

 戦略研究資材の保全・審査・輸送経路統一に関する覚え書き

 

 その下へ線を引き、さらに小さく付け加える。

 

 ――国家保安および親衛隊監督下への段階的移管を含む案

 

 書いた瞬間、自分でも笑った。さすがに露骨だ。露骨だが、まずは本音の形を見ておかなければ、現実の文言へ削ることもできない。

 

 親衛隊に研究を巻き上げる。

 

 言葉だけ見れば、ずいぶんと乱暴だ。だが、彼に言わせれば、それは略奪ではない。保全だ。安全保障上の観点から見ても、研究の分散は愚かしい。重要資材は散らばり、研究者は勝手に競争し、記録は部署ごとに癖を持つ。そんなものは進歩の土台にならない。優秀な頭脳を集め、金をつぎ込み、保安と記録の窓口を一本化し、横槍を抑え込む。そのために一番向いている組織はどこか。

 

 彼は迷わず、親衛隊だと思っていた。

 

 いや、正確には、親衛隊全国指導者ヒムラーの手だ。

 

 あの男の持つ権力は、研究者のような机上の人間が軽々しく扱ってよい代物ではない。だが、強い。強すぎるほどに。党の高官であろうが、軍の将軍であろうが、その気になれば嫌疑を付け、保安上の懸念を立て、名誉も職も身柄もまとめて揺らせる。しかも、その脅しが単なる脅しで終わらない。

 

 ドクトルはそこに、他組織にはない実効性を見ていた。

 

 研究を進めるには金と物と人が要る。だが、それと同じくらい、「邪魔をどかす力」が要るのだ。天才が一人いても、横から将軍が優先順位を変え、党の役人が名誉を奪い、別系統の研究所が同じ資材へ噛みつけば終わる。ならば、最初から噛みつけないようにすればいい。

 

「なんとも健全な発想だ」

 

 もちろん皮肉だ。だが、研究というのは、往々にして健全では進まない。

 

 問題は、その大風呂敷を誰の手で現実の文書へ落とすかだった。

 

 ターニャである。

 

 あの少佐は嫌がるだろう。間違いなく嫌がる。しかめ面をし、まず最初に「何を企んでいる」と言うに違いない。だが、それでも聞くだけは聞く。そして、ヒムラーの命令、あるいはヒムラーへ持っていく価値があると判断した時点で、彼女は確実に動かざるを得ない。

 

 そこがいい。

 

 いや、よくはない。だが、使える。

 

 彼はしばらく机の前で唸り、書き、消し、また書いた。初稿はひどく長くなった。案の定である。親衛隊による研究保安の一元化、人員審査、輸送優先権の再設定、試験記録の統一、研究室間の重複排除、監督官制度の導入、企業と研究所の橋渡し、ついでに予算線の再編成まで入れたところで、さすがに自分でもやりすぎだと思った。

 

「これは少佐に殺されるな」

 

 正しくは、文書の半分を赤で切られる、だが。

 

 そこから削る。予算は一旦抜く。全部の兵器研究も広げすぎる。まずは「戦略性が高く、機密保持と資材管理を要する特定研究」に絞る。そこへ保安上の監督と資材照合を入れ、研究そのものは軍と既存機関へ残す。だが、人員と記録と輸送の喉元だけは親衛隊側が押さえる。

 

 奪うなら、中心ではなく動脈だ。

 

 その方が現実的だし、後から広げられる。

 

 彼はその一文を書いたところで、ようやく満足した。

 

 翌日の正午に、もう一度行く。

 

 昨日の休憩室の会話から、最初からそのつもりだった。責任者欄の洗い出しと、現場で読める程度まで削った統一案。それだけで終わるつもりなど毛頭ない。ドクトルは最初から、次の一手まで含めて昼の席を使う気だった。

 

 だからその夜も、彼は遅くまで机へ張り付いた。責任者欄の一覧を作り、倉庫側と試験場の記録例を抜き、どの研究室が誰の管轄にぶら下がっているかを図で結ぶ。研究棟の机上はますます混沌としたが、彼の頭の中では逆に形が見えてきた。

 

 陸軍兵器局。空軍技術局。海軍の独自案件。民間企業の試作部門。大学と研究所。そこへ親衛隊が横からではなく、保安と監督の名目で上から縄を掛ける。

 

 研究そのものを一夜で奪う必要はない。

 

 奪うべきは、拒否権だ。

 

 誰が関われるか、誰が記録を持つか、誰の便が先に動くか。そこを押さえれば、後は自然に流れが寄る。

 

 その発想に至った時、ドクトルは妙な高揚を覚えた。研究者としての興奮というより、盤上の駒が一気に見えた時の気分に近い。これだから官僚や保安の連中と付き合うのはやめられない。腹立たしいが、面白いのだ。

 

 そして翌日、正午。

 

 彼は約束通り、いや、約束以上のものを抱えて国家保安本部へ向かった。

 

 昼時の本部は前日と違う空気をしていた。人の流れはまだ多いが、午前の尖りは少し丸くなっている。昼食へ向かう者、昼食を諦めた顔で戻る者、手元の控えを抱えたまま歩く者。組織がひと息つく時間だ。だからこそ、少しだけ長い話が入り込む余地もある。

 

 彼は今回は最初から休憩室ではなく、ターニャの執務室を目指した。昨日の会話の延長なら、今日は逃げ道を塞いだ方がよい。休憩室で雑談に流されるより、机の前で文書として押し込んだ方が通る。

 

 扉の前で一度だけ呼吸を整え、ノックする。

 

「失礼する」

 

 返事は短かった。入れ、という意味だ。

 

 扉を開けると、ターニャは机に座っていた。昼食の痕跡はない。代わりに、湯気の薄くなったカップと、束ねられた回付物が二列。その横でセレブリャコーフが控えを仕分けている。

 

 ターニャが顔を上げる。

 

 その顔は、一目で分かるほどに「本当に来たのか、この男は」というものだった。呆れと警戒が半々で、しかも既に諦めも混じっている。昨日の時点で、今日また来ると察していたのだろう。

 

 ドクトルはわざと明るく口を開いた。

 

「正午だ、少佐殿。約束通り、現場でも読めるように削ってきたぞ」

 

「その呼び方をやめろ」

 

「景気づけだ」

 

「景気はいらん。内容を出せ」

 

 昨日より声が低い。だが、追い返してはいない。なら上々だ。

 

 ドクトルは机の前へ歩み寄り、今度は昨日より薄く、しかし密度の高い封筒を置いた。セレブリャコーフが無言で脇のスペースを空ける。実に気が利く副官だ。

 

「まず、昨日の約束分からだ。責任者欄の洗い出し。倉庫側、試験場、研究室、それぞれの署名箇所を一覧にした」

 

 ターニャは受け取り、目を走らせる。反応が速い。

 

「昨日よりはまともだな」

 

「褒め言葉として受け取っておこう」

 

「褒めてはいない」

 

「知っている」

 

 セレブリャコーフが横から補足した。

 

「記録形式の統一案もありますか」

 

「もちろんだとも。しかも、今回は人間が読める」

 

 ターニャがそこで小さく息を吐いた。

 

「前回は人間が読めなかったのか」

 

「研究者には読めた」

 

「それを人間以外と呼ぶ気はないが、現場の連中が読めないなら意味は同じだ」

 

 返しが容赦ない。だが、ドクトルはもう慣れている。

 

 統一案の方も机へ広げる。欄の名称、日付表記、搬出理由、残量確認、受領者、再配分時の追記位置。そこまでは昨日の延長だ。ターニャもそこは淡々と追った。

 

「ここまではいい」

 

 彼女が言う。

 

「少し長いが、削れば使える」

 

「ほう。では、ここからが本番だ」

 

 ターニャの眉が一つ動く。

 

「嫌な前置きだな、ドクトル」

 

「前置きではない。昨日の話の続きだ。研究部門の雑多さを整理するなら、記録形式の統一だけでは足りない。資材と人員と輸送の入口まで押さえる必要がある」

 

「言い方を変えただけで中身は同じだろう」

 

「なら、もっと分かりやすく言おう。ドイツの兵器研究を、このまま軍と省庁と企業に好き勝手やらせておくのは無駄だ。重要案件だけでも、親衛隊の監督下へ寄せるべきだ」

 

 部屋の空気が一段だけ静かになった。

 

 セレブリャコーフの手が止まる。ターニャは無言でドクトルを見た。数秒。短いが、その沈黙は十分に重かった。

 

 やがて彼女は、深くではなく、細く息を吐いた。

 

「やはりそっちへ来たか」

 

「昨日の時点で分かっていただろう」

 

「分かっていた。だが、期待はしていなかった」

 

「ひどい言い方だな」

 

「期待通りに面倒な方向へ進むな、と言っている」

 

 ドクトルは少し身を乗り出した。

 

「面倒ではあるが、理屈は通っている。見てみろ」

 

 彼は新しい一枚を差し出した。研究系統の簡略図だ。陸軍、空軍、海軍、大学、企業、研究所、試験場。矢印だらけで少し騒がしいが、彼なりに整理したつもりである。

 

「いまのドイツは、同じ時代の他国に比べて研究の窓口が多すぎる。向こうは巨額の予算を積み、組織の一本化を始めている。こちらはどうだ。軍が三つに割れ、企業が競り合い、各部門が成果を囲い、保安は後から追いかける。これで勝てると思うか」

 

 ターニャは図を一瞥し、次にドクトルの顔を見た。

 

「他国の話を持ち出す時は、比較の仕方に気を付けろ。規模も制度も違う」

 

「違うとも。だからこそ、今のうちに絞るんだ。全部は無理でも、重要案件だけでも窓口を一本にする」

 

「一本にしたいのは研究か、権限か」

 

「両方だ」

 

 即答した。

 

 ターニャの顔が、見るからに「こいつは本当に面倒だ」というものになる。眉間を押さえたいのを我慢している顔だ。そこまで表情が動くのは、相手がドクトルだからだろう。対外の会議では絶対に見せない種類の反応である。

 

「ドクトル」

 

「何だ」

 

「お前、兵器研究を親衛隊にくれてやれと言っているんじゃない。喉元を握らせろと言っているんだろう」

 

「くれてやれ、は少し乱暴だな。保全と統制だ」

 

「言い換えに意味はない」

 

「あるさ。全部を奪うつもりはない。軍に研究させればいい。企業に作らせればいい。大学に考えさせてもいい。だが、誰が関わるか、どこへ運ぶか、何を優先するか、どこまで秘密を掛けるか、そこは親衛隊が握るべきだ」

 

 セレブリャコーフが、控えへ何かを書き留める音だけが小さく響く。ターニャはカップへ手を伸ばしたが、結局飲まずに戻した。

 

「理由は」

 

「明白だ。軍の将軍は軍の都合で動く。党の高官は党の都合で口を出す。企業は契約と名誉を欲しがる。研究者は未来を優先して今日の帳簿を軽んじる。そこへ一つ、全員が下手な抵抗をしにくい権力を置く必要がある」

 

「ヒムラーか」

 

「そうだ」

 

 ドクトルはそこで、少しだけ声を落とした。

 

「親衛隊全国指導者の権力は強い。強すぎるほどだ。その気になれば、党の高官だろうが軍の将軍だろうが、やり方はいくらでもある。失脚させることも、拘束することも、保安上の理由で研究室ごと締めることすらできる」

 

 ターニャの目が細くなる。

 

「その言い方は好きじゃない」

 

「だが事実だろう」

 

「事実と、最初からそれを振り回す話は別だ」

 

「私は振り回せと言っているのではない。後ろ盾にしろと言っている」

 

「同じだ」

 

「違う。後ろに狼がいると分かっていれば、羊は最初から噛みつかない」

 

「その比喩も嫌いだ」

 

 ドクトルは肩を竦めた。比喩が嫌われたのではない。権力の見せ方があまりに露骨だからだろう。

 

「では、もっと事務的に言おう。重要研究案件に対して親衛隊側が保安・人員審査・資材照合・輸送監督の窓口を持つ。そのうえで、保安上の懸念がある部署には差し戻し、改善命令、必要なら捜査協力要請を掛ける。文言としてはこれで十分だ」

 

「最初からそう言え」

 

「そこへ至るまでに少し景気づけが欲しかったのでね」

 

「いらん」

 

 ターニャはそこでようやくカップを一口飲んだ。ぬるくなっているだろうに、それでも飲んだということは、完全に会話を切る気はないということだ。

 

「問題は三つある」

 

 彼女が言う。

 

「一つ。陸軍と空軍が黙って飲むわけがない。二つ。親衛隊が研究そのものへ手を突っ込むと、今度は現場が萎縮して速度が落ちる。三つ。ヒムラーの権力を前面に出しすぎると、保安案件ではなく政治案件になる」

 

「だからこそ、君がいる」

 

「そこで私を見るな」

 

「見るさ。君はその三つを文書で細くできる」

 

「細くするだけで消えるわけじゃない」

 

「消えなくていい。抵抗を遅らせれば十分だ」

 

 ターニャは無言でドクトルを見返した。その顔には、どう見ても「こいつは本当に何を考えているんだ」というものが滲んでいる。だが、それでも目を逸らしてはいない。

 

「ドクトル」

 

「何だ」

 

「お前は兵器研究を救いたいのか、支配したいのか、どっちだ」

 

「両方だ、と昨日も言った」

 

「今日は昨日より悪化している」

 

「進歩と言ってくれ」

 

「駄々をこねているだけに見える」

 

「駄々ではない。国家的要請だ」

 

「よくもまあ、そこまで大きく言えるな」

 

 セレブリャコーフが静かに口を挟んだ。

 

「少し整理しますか」

 

「頼む」

 

 ターニャが言う。

 

「ドクトルの言いたいことは、重要研究案件に限って親衛隊側へ保安監督と資材照合の窓口を置きたい、でよろしいですか」

 

「それだけでは足りない。人員審査と輸送優先、それから――」

 

「いまは二つで十分です」

 

 丁寧だが切り方が鋭い。副官として見事である。ドクトルは少し感心した。

 

「少尉、君は少し冷たいな」

 

「長くすると読めなくなりますので」

 

「ほら見ろ、ドクトル」

 

 ターニャが言う。

 

「これが読まれる文書の作り方だ」

 

「二人がかりで私の夢を削っているな」

 

「夢ではなく枚数だ」

 

「それも削る必要がある」

 

 やれやれ、とドクトルは天井を仰いだ振りをした。だが、内心ではこの流れを歓迎している。広げた話を二人がかりで削られるくらいで丁度いい。自分一人で組むと、どうしても全部を乗せたくなるのだ。

 

「分かった。では、まず保安監督と資材照合。この二つを軸にする。だが、将来的な拡張余地は残したい」

 

「将来的、が好きだな」

 

「研究者は未来で食べている」

 

「今の帳簿で生きろ」

 

「少佐、君は時々本当に夢がない」

 

「お前にだけは言われたくない」

 

 短い沈黙のあと、ターニャが指先で机を軽く叩いた。

 

「こうする」

 

 その声に、部屋の空気が少しだけ締まる。

 

「親衛隊による研究の一本化、という文言は使わない。代わりに『特定研究案件の保安監督および戦略資材照合に関する暫定調整案』にする」

 

「ぬるい」

 

「黙れ。続きがある」

 

 ドクトルは口を閉じた。続きがある時のターニャは、切る時より少しだけ話が長い。つまり、ちゃんと考えている。

 

「対象は当面、特定案件だけに絞る。重水を含む指定資材群、関連試験場、関連研究室。そこへ親衛隊側の監督官を置く。名目は機密保持、妨害防止、記録統一、輸送優先の照合だ」

 

「人員審査は」

 

「別紙で保留。最初から全部を出すな。欲張ると軍が身構える」

 

「だが、肝心なのはそこだ」

 

「知っている。だから二段階で取る」

 

 ドクトルはそこで、少しだけ目を細めた。なるほど。最初から全部を奪わず、保安監督と資材照合を入口にする。入口を握れば、次に人員審査や立入権限も理由を付けて広げられる。実にいやらしい。実に賢い。

 

「少佐」

 

「何だ」

 

「君、やはりかなり性格が悪いな」

 

「褒めているならやめろ」

 

「褒めているとも」

 

「やめろ」

 

 セレブリャコーフが、今度は確実に口元を伏せた。笑ったらしい。よろしい。少しは空気が柔らかくなった。

 

 ドクトルは身を乗り出した。

 

「では、ヒムラー長官へ持っていくか」

 

「持っていくかどうかは、まだ決めていない」

 

「ここまで話しておいてか」

 

「お前が危ない匂いを出しすぎるからだ」

 

「危ないのは時代の方だ」

 

「名言めいた言い方をするな」

 

「では平たく言おう。今のままでは兵器研究が遅い。遅い理由の半分は、研究室の能力ではなく、組織の割れ方だ。そこへ手を入れたい。そのためにヒムラーの権力を後ろに置きたい。私はそう言っている」

 

「分かっている。分かっているが、命令を出させるなら筋が要る」

 

「筋ならある」

 

「足りん。『親衛隊は強い』では筋にならない」

 

 痛いところを突く。ドクトルは少し黙り、すぐに切り返した。

 

「なら、こうだ。敵性諜報対策、研究妨害防止、戦略資材の横流し防止、重複研究の整理、研究案件の優先順位に対する監視。全部、保安上の理由になる」

 

「横流しの実例は」

 

「まだ薄い」

 

「重複研究の証拠は」

 

「洗えば出る」

 

「研究妨害の具体例は」

 

「芽はある」

 

「芽では足りない」

 

 ぴしゃりと切る。だが、否定だけでは終わらなかった。

 

「明後日までに、少なくとも重複と経路の食い違いを二件ずつ拾え。横流しは無理に盛るな。盛るとお前が死ぬ」

 

「おや、気遣ってくれるのか」

 

「死なれると面倒だ」

 

「実に素敵な理由だ」

 

「そうだろう」

 

 そのやり取りに、妙な気安さが滲んでいた。ドクトルはふと、それが嫌いではないと改めて思った。互いに遠慮がなく、しかし線は切らない。腹立たしいほど現実的で、だが完全に突き放しもしない。

 

 彼は封筒から最後の一枚を抜いた。

 

「もう一つだけ」

 

「まだあるのか」

 

「あるとも。重要だ」

 

「一枚までだ」

 

「十分だ」

 

 彼はその紙を机へ置いた。そこには、研究部門の系統図に加えて、小さく矢印が書き込まれている。陸軍、空軍、企業、大学、研究所。それぞれから戦略資材と記録の線が一度、中央の箱へ寄る形だ。

 

「ここだよ、少佐。私が欲しいのは研究そのものではない。少なくとも最初は。研究に関わる線を一度、ここへ集めたいんだ」

 

 ターニャがその図を見る。

 

「親衛隊保安監督窓口、か」

 

「そうだ。名前は君がもっとましにしてくれ」

 

「当然だ」

 

「そこへ記録、輸送、資材、立入、監査を通す。そうすれば、軍は研究を続けられる。企業も作業を続けられる。だが、全員が同じ喉を通ることになる」

 

「お前、本当にそこを握りたいんだな」

 

「握りたいとも。握らなければ、また今日みたいな帳簿のずれで資材が止まる」

 

 ターニャはしばらく無言だった。それから、カップを置き、静かに言う。

 

「分かった」

 

 ドクトルが目を上げる。

 

「条件付きだが、案としては面白い。長官へ直接持っていくかは、追加の材料を見て決める」

 

「本当か」

 

「ただし、お前の原稿のままでは無理だ。威勢が良すぎる。親衛隊による奪取計画にしか見えん」

 

「だいたい合っている」

 

「だから駄目なんだ」

 

 ターニャはそこで、珍しく口元に疲れたような笑みを浮かべた。ほんの一瞬だが、確かにそう見えた。

 

「ドクトル」

 

「何だ」

 

「お前は本当に、研究の話になると厄介さが三割増しになるな」

 

「三割で済むかね」

 

「自分で言うな」

 

 セレブリャコーフが控えをまとめる。

 

「では、追加の材料は明後日までに。重複研究の確認二件、経路不一致二件。案の文言はこちらで整理しますか」

 

「いや」

 

 ターニャが言った。

 

「最初の叩き台はドクトルに書かせる。自分の欲をどこまで削れるか見たい」

 

「ずいぶんと教育熱心だな、少佐」

 

「違う。自分で削らせた方が、後で文句が減る」

 

「減るかな」

 

「減らせ」

 

 ドクトルは観念したように両手を上げた。

 

「分かった。では、次はもう少し人間らしい枚数で持ってこよう」

 

「まず人間らしい見出しにしろ」

 

「それは少し難しい」

 

「そこからだ」

 

 会話が切れたところで、部屋の外から短いノックが入った。別件の回付らしい。セレブリャコーフが受けに出る。

 

 短い静けさが落ちる。

 

 ターニャはその隙に、ようやく茶を飲み干した。完全に冷めているはずだが、表情は変わらない。飲んでから、机の上の図をもう一度見た。

 

「ドクトル」

 

「何だ」

 

「一つだけ言っておく」

 

「聞こう」

 

「ヒムラー長官の権力は強い。強いが、それを万能の槌みたいに考えるな。殴れば通るものばかりじゃない」

 

「分かっている」

 

「本当にか」

 

「本当にだ。ただし、槌が後ろに立っていると知っていれば、話を聞く人間は増える」

 

「そこまでは否定しない」

 

「だろう」

 

「だが、最初から見せびらかすな。見せる時は最後だ」

 

 その言い方は、やはりあの少佐らしかった。権力を否定しない。だが、使い方に順番を付ける。感情ではなく運用の話として扱う。研究者からすると息苦しいが、実務としては正しい。そこがまた腹立たしい。

 

 ドクトルは少しだけ頭を下げた。

 

「心得た、少佐」

 

「本当か」

 

「たぶん」

 

「不安しかないな」

 

「そこを信じるのが腐れ縁というものだろう」

 

 ターニャの眉がぴくりと動く。

 

「勝手に縁へ名前を付けるな」

 

「だが否定もしない」

 

「否定するのも面倒なだけだ」

 

「つまり否定ではない」

 

「次にその論法を使ったら案を一枚減らす」

 

「やめたまえ、それは研究の損失だ」

 

「お前の文章量の損失だ」

 

 セレブリャコーフが戻り、卓上へ新しい束を置いた。休憩でも執務でもない、妙な中間時間は終わりらしい。

 

「次の回付です」

 

「置いてくれ」

 

 ターニャが短く言い、ドクトルの方を見た。

 

「今日はここまでだ。追加の材料を持ってこい。それまではヒムラーの名を前提にするな」

 

「厳しいな」

 

「そうしないと、お前は最初から王冠の話を始める」

 

「悪いかね」

 

「悪い」

 

 ドクトルは封筒をまとめ、満足げに頷いた。思ったより進んだ。親衛隊による研究奪取計画、などという露骨な形ではない。だが、保安監督窓口の設置と、指定資材群の監督。そこから先へ広げる余地。十分だ。十分すぎる。

 

「では、私は追加の餌を拾いに戻るとしよう」

 

「餌と言うな」

 

「説得材料と言い換えよう」

 

「最初からそうしろ」

 

「君たちは本当に細かいな」

 

「細かくないと、お前が大きくしすぎる」

 

 ターニャがそう言うと、ドクトルは思わず笑った。よく見ている。実によく見ている。

 

「少佐」

 

「まだ何だ」

 

「君がいると、面倒が少しだけ前向きになる」

 

「口説いているのか」

 

「まさか。感想だ」

 

「いらん」

 

「知っている」

 

 それでも、彼女は今度はため息を吐くだけで追い出しはしなかった。

 

 だからドクトルは機嫌よく部屋を出た。

 

 廊下へ出た時、手元の封筒は来た時より軽い。だが、頭の中には逆に新しい線が増えている。重複研究の拾い出し。経路不一致の実例。ヒムラーへ持っていくための筋。保安監督窓口という名の、研究を囲い込む細い縄。

 

 全部はまだ遠い。

 

 だが、入口は見えた。

 

 そして、その入口の前に、ため息を吐きながらも話を聞く少佐が一人いる。

 

「いやはや」

 

 小さく呟く。

 

「まったく、厄介な相棒を得たものだ」

 

 それが友情か腐れ縁か、あるいは単なる利害の一致かは分からない。分からないが、少なくとも研究の未来にとって無価値ではない。それだけで十分だった。

 

 ドクトルは足取り軽く研究棟への道を戻っていった。今度は昨日よりはっきりした獲物を抱えて。親衛隊の手で兵器研究を縛り直す。その野心はまだ紙の上に過ぎない。だが、紙の上へ乗った時点で、もう半分は現実だ。

 

 彼はそう信じていた。少なくとも、次にターニャへ持ち込むまでは。

 




ドクトル編が書いてて1番楽しかったという笑

次に読みたい展開はどちらですか?(※構成上、前後する可能性あり)

  • イギリス戦方面
  • 帝国内政(モレル関連)
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