レルゲンの朝は、胃の重さと一緒に始まることが多かった。
別に、病的な何かがあるわけではない。軍人としては不名誉だが、彼は自分の体質をよく知っていた。面倒な案件が増えると胃が重くなる。輸送表と在庫表と作戦日程が三つ巴になり、そこへ別系統の組織が「重要案件」と称して割り込んでくると、胸焼けに似た感覚が朝一番から喉元の下に居座る。
軍務とはかくあるべし、と嘯く気にはなれない。
数字を扱う人間の体は、案外、精神論では動かない。眠りが浅ければ頭は鈍るし、食事を抜けば判断が荒れる。そういう当たり前の事実を無視して英雄気取りをするほど、レルゲンは若くも愚かでもなかった。
まだ外が明るみ切る前に、彼は寝台の上で一度だけ目を開けた。時計は六時少し前を指している。起床時刻としては早い。だが、今日は遅いくらいだった。
昨夜の時点で、机へ残してきた束の中に二つ、明らかに朝一番で見なければならないものがあった。北方関連の輸送振替表と、警察系統から流れてきた「要確認」印付きの回付物である。後者の時点で嫌な予感はしていた。警察系統、という言い方は実に便利だ。便利な分だけ、その内訳はだいたいろくでもない。
毛布をはね上げ、足を床へ下ろす。冷たい。冷たいが、目は覚める。洗面台で顔を洗い、鏡を見る。見栄えのいい顔ではない。軍人としても、参謀としても、そこに特筆すべきものはなかった。あるのは、目元の疲れと、寝不足を認めたくない中年の意地くらいだ。
制服へ着替え、襟元を直し、机上の手帳を開く。
午前の最初に輸送振替表。次に燃料配分の再計算。中庭倉庫からの不足申告。昼前に軍需局との短い打ち合わせ。午後は装甲車両用の部材便の確認と、北方向けの積み替え状況。その合間に、親衛隊側から何か飛んでくる可能性が高い。高い、というより、昨日のうちに既に匂いはしていた。
ヒムラーの権限が広がるたび、軍の机には別種の手間が増える。
親衛隊全国指導者兼全ドイツ警察長官。あの長い肩書が単なる飾りでないことを、レルゲンは嫌というほど知っていた。誰が署名し、どの経路で回り、どこまで警察と親衛隊と保安が混ざっているのか。そこを軍の参謀が完全に把握しきれる時代ではなくなりつつある。軍の命令だけで兵站が完結した時代は、少なくとも今この瞬間にはもう存在しない。
ヒムラーの手は長い。
それも、ただ長いだけではなく、妙に粘ついている。警察、党、親衛隊、そして保安機関。どこから伸びてくるのか分からないのに、気付けば輸送表の端や、人員照会の欄や、倉庫立入の許可印のあたりへ指先が掛かっている。
そして、その先端に、ときどきあの黒服の少佐が立っているのだ。
レルゲンは手帳を閉じ、小さく鼻を鳴らした。
「朝から顔を思い出したくない相手というものもある」
言いながら、完全に否定できない自分が腹立たしい。あの少佐――ターニャ・デグレチャフは、軍にとって厄介な存在だ。親衛隊の制服を着ている。しかも例外的に黒い。子供じみた体格に見合わない視線の冷たさがあり、こちらの事情に同情しない。そのくせ、理解は早い。理屈が通ると、通る方向へ最短で線を引いてくる。
敵か味方かと問われれば、どちらでもない。
味方ではないのは確かだ。だが、完全な敵でも困る。そういう相手が最も胃に悪い。
食堂へ向かう廊下はまだ静かだった。早朝の宿舎には、軍人の足音と、遠くの配膳音が控えめに響く。レルゲンは途中で部下の下士官とすれ違った。若い男で、昨夜の遅番にも入っていたはずだ。にもかかわらず、襟はきっちり締まっている。結構なことだ。若い頃に覚えるべきは気合より整頓だと、レルゲンは本気で思っている。
「おはようございます、中佐」
「おはよう。倉庫の不足申告、朝のうちに原票を持ってこい」
「はい。第三中庭倉庫の分でよろしいですね」
「それと予備燃料庫の再点検表もだ。昨日の数字が揃っていない」
「承知しました」
返事が早いのはいい。仕事が早いかどうかは別だが、朝の時点ではそこまで贅沢を言わない。
食堂はまだ混み切っていなかった。パン、薄いスープ、卵料理らしきもの、黒い飲み物。軍の朝食としては標準的だ。豊かではないが、欠けてもいない。今の時代、それだけで褒めるべきなのかもしれない。
レルゲンは盆を取り、窓際へ近い席へ座った。食事は早い方ではないが、遅くもない。必要な分だけ口へ入れ、頭が動く程度に胃へ落とす。それで十分だ。味に文句を言うのは、物資が余っている時代の人間の趣味である。
スープを一口飲み、パンをちぎる。固い。だが、許容範囲だ。
食事をしながら、彼の頭はもう午前の順を追っている。燃料配分の再計算には列車便の優先順位が絡む。そこへ北方向けの積み替えが食い込む。さらに、港湾経由の臨時便が前日夜に入っている。どこか一つを押し込めば別のどこかが凹む。参謀の仕事というものは、理想的な配分表を作ることではなく、どこを犠牲にするか決めることに近い。
そこへ警察系統や親衛隊が横から「保安上の理由」を持ち出してくる。
保安上の理由。実に便利だ。便利すぎる。しかも、その言葉を背負って来る相手が、親衛隊長官の命令系統に連なるとなると、軍側としては「不要だ」と一蹴しきれない。
彼はそれが気に食わなかった。
軍には軍の論理がある。前線へ届く弾薬の数、燃料の滴数、橋を渡る車両の重量。そこに政治と保安の理屈が割り込めば、計算は簡単に崩れる。もちろん、国家として見れば軍だけが正しいわけではない。諜報も警察も必要だ。必要だが、それが理解できることと、好きになれることは別である。
食事を終え、まだ温かい飲み物を一口だけ残したまま、レルゲンは席を立った。食堂の係が盆を受け取る。顔なじみの女だった。
「今朝は早いですね」
「今朝も、だ」
「そうでした」
「そちらも早い」
「私たちはいつもですよ」
もっともだ。レルゲンは短く頷き、そのまま執務棟へ向かった。
軍の執務室は、国家保安本部の部屋より少しだけ粗い。並ぶ机は頑丈だが装飾はない。椅子は実用本位。書類棚は背が高く、ところどころ補修の跡がある。見栄えより機能だ。少なくとも、そういう顔をしている。ただし、中身までそうかと言われれば怪しい。機能的な部屋ほど、中にいる人間の不手際がそのまま目立つことも多い。
自席へ着くと、想像通り、書類の束が増えていた。
昨夜の退室後に置かれた分だろう。上から順にざっと目を走らせる。第三中庭倉庫の不足申告。装甲車両用部材の便変更通知。軍需局からの照会。そして、問題の警察系統からの回付物。
封を切る前から嫌な匂いがした。いや、封の有無で匂いが変わるわけではない。ただ、そういう言い回しをしたくなる程度には、内容が見える気がしたのだ。
開く。
案の定、研究関連の戦略資材に関する立入照会だった。名目は機密保持と照合補助。発信元は警察系統を通しているが、背後にあるのは親衛隊だろう。しかも、曖昧な問い合わせではなく、どの倉庫、どの試験場、どの責任者欄へ照会を掛けるかまで半分決まっている。
レルゲンは眉をひそめた。
「早いな」
昨日のうちに、何かが動いていたのだろう。軍需局から直接ではない。研究者の発想だけでもここまで整わない。となると、やはりあの少佐が一枚噛んでいる。
彼は紙を置き、指先で机を軽く叩いた。
親衛隊はいつの間にそこまで手を伸ばしたのか。
いや、伸ばしてきたのは今に始まったことではない。だが、以前なら、もう少し乱暴だった。党の意向、警察の必要、保安の懸念。そのどれか一つだけを振り回して、軍の机をひっくり返しに来る。今は違う。最近の親衛隊系統は、こと研究と資材に関しては、少しずつ手順を覚え始めている。
それが誰の入れ知恵かは、考えるまでもなかった。
ドクトルのような研究屋が夢を語り、ターニャがその夢から使える骨だけを抜く。そういう組み合わせなら、ああいう照会文は確かに出てくる。厄介極まりない。
「中佐」
扉のところで声がする。入ってきたのは、先ほど食堂の前で会った下士官ではなく、別の部下だった。こちらは年長で、補給計算を担当している。顔色は冴えないが、数字は信用できる男だ。
「第三中庭倉庫の原票です」
「置け。予備燃料庫は」
「再点検表はまだです。担当が、昨夜の便差し替えの影響で――」
「言い訳はいらん。いつ出る」
「三十分以内には」
「二十分にしろ」
「やってみます」
「やれ」
部下は頷き、すぐに出ていった。やってみます、という返事は好きではない。だが、できる、と言って遅れるよりはましだ。現実を知っている人間の返答としては、むしろ信用できる。
レルゲンは第三中庭倉庫の不足申告へ目を落とした。数字そのものは小さい。だが、小さい不足ほど扱いが面倒だ。大きな不足は誰が見ても大きい。だから優先順位を動かしやすい。小さい不足は「何とかなるだろう」で後回しにされ、そのくせ累積して後から効く。
彼は鉛筆で端に簡単な計算を書いた。補填は可能。ただし、港湾経由の雑材便から一部を回す必要がある。そうすると今度は別の整備班が騒ぐ。そこへ親衛隊側から研究資材の照会まで入れば、ますます揉める。
「まるで綱引きだな」
しかも、綱の本数が多すぎる。
午前の前半は、ひたすら数字を捌く時間になった。燃料配分の修正。便別の優先順位の再確認。昨日から持ち越した部材便の遅れ。通信欄の補記漏れ。軍という組織は、戦場の華々しさの裏で、こうした細かい調整に膨大な人間を使っている。映画的ではない。だが、現実はだいたい映画的ではないものだ。
十時を少し回った頃、軍需局との短い打ち合わせが入った。相手は局付の文官で、軍人というより役人に近い顔をしている男だった。名をケーニヒという。冷静だが、責任の線を引きたがる癖があり、レルゲンとは相性が悪くない。
「北方向けの便差し替えですが、こちらは昨日の夜に指示が入っています」
ケーニヒは持参した台帳を開いた。
「問題は、そこへ研究資材の確認が重なったことです」
「親衛隊か」
「警察系統を経由していますが、実質はそう見ていいかと」
レルゲンは鼻を鳴らした。
「最近、あそこは研究の周りをうろつきすぎだ」
「ヒムラーの関心が強いのでしょう」
「関心で列車は走らん」
「ですが、関心で便は止まります」
不愉快なほど正しい。レルゲンは台帳の端を指で叩いた。
「正式照会か」
「まだ入口です。立入照会と責任者確認の段階ですね」
「なら今のうちだな」
「何を」
「軍側の経路を詰める。曖昧なままだと、向こうの文書の方が綺麗に見える」
ケーニヒは少しだけ笑った。
「それはあり得ます」
「あり得る、ではなく、もう起きている」
レルゲンは警察系統からの照会文を机上へ滑らせた。
「見ろ。軍の一部より、よほど読める」
ケーニヒが目を通し、眉を寄せた。
「……確かに、無駄がありませんね」
「無駄がないということは、誰かが削っている」
「デグレチャフ少佐ですか」
名前が出た。やはり同じことを考えていたらしい。
「たぶんな」
「親衛隊の調整官でしたか」
「それだけで済む顔ではない」
レルゲンは言い切った。子供にしか見えない外見と、そこに乗っている権限と、さらにその権限を使う時の躊躇のなさ。そのどれもが、普通の将校とは違う。軍の中にも冷たい人間はいる。賢い人間もいる。だが、あの少佐の異様さは別種だ。
理解は早い。情に流されない。相手の立場に同情しない。しかも、権限の出所が親衛隊長官に繋がっている。表面だけ見れば、ただの政治任用の飾りに見えるかもしれない。だが、中身は違う。何より厄介なのは、自分が置かれている立場の使い方を分かっていることだった。
ケーニヒが台帳を閉じる。
「ヒムラーの権限拡大は、軍の側でもかなり意識されています」
「意識していないなら阿呆だ。親衛隊全国指導者兼全ドイツ警察長官だぞ。警察と親衛隊を両手に持っている人間が、研究資材へ目を付けたらどうなるか、少し考えれば分かる」
「研究そのものを取るでしょうか」
「そこまではまだだ。だが、喉元は押さえに来る」
レルゲンは、自分でそう言ってから少しだけ嫌な気分になった。喉元。まさにその通りだ。便、倉庫、責任者欄、機密指定、立入許可。研究者は試験台を見ているが、組織はその外側を見ている。そして、外側を握る方が強い。
打ち合わせを終え、ケーニヒが去った後も、その感覚は残った。
午前の後半には、装甲車両用部材の便変更通知へ目を通し、予備燃料庫の再点検表を受け取り、北方向けの積み替え一覧へ赤を入れる。仕事自体は慣れたものだ。だが、紙の端に親衛隊系統の照会文が置かれているだけで、机上の空気が変わる。
その空気をさらに変えたのは、十一時半過ぎに入った一本の内線だった。
「中佐、国家保安本部側からです」
副官ではなく、当番兵が受話器を持ってくる。レルゲンは嫌そうな顔を隠そうともせず受け取った。
「レルゲンだ」
相手は知らない声だった。だが、口調が整いすぎている。国家保安本部の記録班あたりだろう。
「研究関連戦略資材の責任者照会につきまして、軍側窓口を確認したく――」
レルゲンは途中で切った。
「文書で寄越せ。口頭で責任者は決めん」
「既に照会文は出ております」
「なら再送しろ。番号を言え」
相手が番号を述べる。レルゲンは机上の照会文と突き合わせた。確かに同じだ。つまり、向こうはもう動く前提で人を押さえに来ている。
「分かった。軍側窓口は私の机を通す。他へ先に回すな」
「承知しました」
電話を切り、レルゲンはしばらく受話器を見ていた。
胃が、少しだけ重くなる。
「始まったな」
独り言に近かった。だが、そう言うしかない。
親衛隊は軍の全部を一度に奪いには来ない。そんなことは非現実的だ。軍は大きすぎるし、反発も強すぎる。だから彼らはもっと現実的な場所を押さえる。照会の窓口。責任者欄。立入権限。研究者の人員記録。そこへ保安の理屈を乗せる。やり方としては正しい。だからこそ厄介だ。
そして、その入口に立つのがターニャのような人間である以上、話はさらに厄介になる。あれがただの権力自慢ならまだいい。現実が見えているから困るのだ。
レルゲンは立ち上がり、窓の方へ歩いた。中庭ではトラックが一台、荷台の帆を揺らしている。兵隊が二人、木箱を運んでいた。どこにでもある光景だ。だが、あの木箱一つが、どこへ行くか、誰が先に触るか、その順番にいま親衛隊の指が掛かりつつある。
軍の側が鈍ければ、あっという間に持っていかれるだろう。
だから先に詰めなければならない。軍側の記録を揃え、責任者を明確にし、曖昧な欄を消す。要するに、親衛隊に使われる論理を、先にこちらで整えるしかない。
それは屈辱的でもあった。
軍の参謀が、親衛隊のやり方を意識して机を整えるなど、本来なら笑い話にしたい。だが、笑って済む段階ではない。ヒムラーの権力は広がっている。党だけでも警察だけでもなく、親衛隊と保安の網を重ねた時、その広がりは軍の古い感覚では測りきれないところへ来ている。
レルゲンは席へ戻り、空になったカップへ気付いた。朝の飲み物の残りをそのまま持ち上げるが、とうに冷えている。ひどい味だ。だが、捨てるほど贅沢な気分でもない。一気に飲み干し、机へ戻した。
すると、ちょうどその時、扉が叩かれた。
「入れ」
中へ入ってきたのは、軍需局付きの文官ではなく、灰色の制服を着た若い伝令兵だった。手には封筒が一つ。
「国家保安本部からです」
またか、と顔に出たのだろう。伝令兵が少しだけ肩を強張らせた。レルゲンは受け取って封を切る。中身は短い。研究関連戦略資材の照合について、午後一時を目処に軍側窓口と一度短い確認を行いたい、とある。
確認、か。
文面は穏当だ。だが、穏当な文面ほど怖い時がある。怒鳴ってくる相手なら拒否もしやすい。穏やかに条件を詰めてくる相手の方が、後で広げるのが上手い。
レルゲンはその照会文を机へ置き、下士官を呼んだ。
「ハルマン」
すぐに返事が来る。先ほどの補給計算担当ではなく、別の当番下士官だ。こちらは動きが速い。
「はい、中佐」
「午後一時の前後、私は外す。燃料配分の再計算をその前に上げろ。あと、研究関連資材の責任者一覧を軍需局から引っ張ってこい」
「研究関連、ですか」
「そうだ。倉庫、試験場、研究室、便の担当。親衛隊に先に揃えられるな」
ハルマンが表情を引き締めた。
「分かりました」
「分からないことがあればケーニヒを使え。今ならまだ動く」
「はい」
下士官が出ていく。
レルゲンは一度だけ目を閉じた。午後一時。確認。短い会話だろう。だが、相手が誰かはほぼ決まっている。あの少佐だ。
話は通じる。通じるが、胃は痛くなる。
それでも行くしかないのが、また腹立たしい。
昼の鐘が遠くで鳴った。執務室の何人かが席を立ち始める。レルゲンは立たなかった。昼食を取りに行く時間はある。だが、今ここで席を外すと、午後一時までに押さえるべき責任者欄が揃わない。
彼は机の端から別の台帳を引き、鉛筆を走らせた。
軍は軍で、自分の喉元を守らねばならない。
それが今日の午前の結論だった。
ドクトルが長くなりすぎたので、レルゲン編は4つに分けました
次に読みたい展開はどちらですか?(※構成上、前後する可能性あり)
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イギリス戦方面
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帝国内政(モレル関連)