軍は軍で、自分の喉元を守らねばならない。
当たり前の話だ。だが、その当たり前をわざわざ机の上へ書き直さなければならない時点で、状況はもう気持ちのいい段階を過ぎている。
レルゲンは新しい台帳を引き寄せ、責任者欄の洗い直しを始めた。戦略資材と呼ばれるものは、使う側の思い入れに比して、書面上の扱いが雑なことが多い。現場は現物を見ているから、箱がどこへ動き、誰が触り、どれだけ減ったかを感覚で掴む。だが、その感覚は欄へ落ちる途中で曖昧になる。担当者名を部署名で代用し、受領者を部屋番号で済ませ、照合責任者の欄へ「当直」などと書く。
それでは駄目だ。
軍の中ではそれでも回ることがある。誰が見ても、だいたい誰のことか分かるからだ。だが、外から入ってくる連中――とりわけ親衛隊や保安側の人間――は、そこを狙う。曖昧な欄は、そのまま踏み込む口実になる。
彼は鉛筆で表を引き直した。
倉庫。試験場。輸送。受領。照合。立入許可。そこへ現行の署名者と、実際に手を動かしている担当を並べる。欄としては似ていても、中身が違う項目が少なくない。そういう箇所ほど後で揉める。
扉の外で足音が止まり、補給計算担当の下士官が入ってきた。先ほどとは別の束を抱えている。
「中佐、予備燃料庫の再点検表です」
「遅い」
「申し訳ありません。元の数が現物と一致せず――」
「一致しない理由は」
「昨日の差し替え便で、一部が前倒し搬出になっています。帳簿の転記が追いついていません」
「前倒しを決めたのは」
「第六輸送班の当直将校です」
レルゲンは表へ目を落としたまま聞いた。
「名前」
「ヴァイス大尉です」
「なら大尉の署名を追加させろ。現物と帳簿がずれたまま、後から兵隊に押しつけるな」
「はい」
下士官はすぐ返事をした。こういう時、反論しない部下は使いやすい。納得しているかどうかは別だが、少なくとも順番は守る。
レルゲンは再点検表の余白へ小さく印を付けた。前倒し搬出。転記未済。責任者追記。たったそれだけの補記で、後から誰がどこで止めたのかが見えるようになる。軍務というのは、英雄的な決断の連続というより、責任の所在を見失わないための地味な目印を積み上げる作業に近い。
下士官がまだ立っていた。
「他にありますか」
「あります」
レルゲンは顔を上げた。
「研究関連資材の責任者一覧だが、軍需局から回ってくるのを待つな。こちらで持っている分を先に抜け」
「倉庫系統だけでなく、試験場側もですか」
「全部だ。向こうが照会文を整えてきている以上、こちらが『確認中です』では話にならん」
「承知しました」
「それと、所属名だけで済ませている欄があるはずだ。個人名へ直せ」
「反発があります」
「あるだろうな」
「特に試験場の技術将校が」
「知るか。反発があるということは、そこが今まで緩かったというだけだ」
下士官は口をつぐみ、敬礼して出ていった。
反発はある。レルゲンも分かっている。現場からすれば、余計な欄を増やされたようにしか見えないだろう。だが、今ここで個人名へ落とさなければ、午後には国家保安本部側が「責任者不明」を理由にさらに広い照会を掛けてくる。そうなる前に軍側で線を引くしかない。
机上の時計は十二時へ近づいていた。昼食の匂いが廊下の向こうから薄く漂ってくる。腹は減っている。減っているが、いま席を立つ気にはなれなかった。今日の昼は、食堂へ行くより机の前で数字と格闘していた方がまだ胃に優しい。
別の扉が開き、今度は軍需局付きの文官ケーニヒが再び顔を見せた。台帳ではなく、薄い封筒を手にしている。
「追加です」
「悪い追加か」
「たぶん」
レルゲンは受け取って中身を見た。研究関連の保管資材に関する「参考一覧」だった。差出元は軍需局名義だが、作り方が違う。項目の立て方、括弧書きの置き方、責任者欄の切り分け。軍の書き方ではない。
「……向こうの手が入っているな」
ケーニヒが机の端へ腰を寄せた。
「私もそう見ます。親衛隊側に見せる前提で体裁を整えたのでしょう」
「誰がこんな気の利いた真似をした」
「局内ではありません。たぶん、外から戻された形です」
外、という言い方で十分だった。レルゲンは鼻の奥で短く息を鳴らした。
「デグレチャフか」
「かもしれません」
「かもしれない、で済ませたくはないがな」
一覧の体裁は見事だった。見事であることが気に食わない。軍の側が持っている原票より、よほど目的がはっきりしている。どこを押さえれば立入照会が通り、どの欄が空いていれば監督の名目を差し込めるか、そういう目線で整理されていた。
あの少佐は、やはりただの使者ではない。
親衛隊の黒い制服と、幼い顔立ちと、妙に落ち着いた話し方。そこまでは飾りでも通る。だが、実際の厄介さはそこではない。彼女は相手の机の弱い場所を見ている。しかも、それを感情ではなく運用として処理してくる。怒鳴りつければ済む相手の方がどれだけ楽か。
ケーニヒが一覧の上を指した。
「この括り方なら、相手は研究そのものではなく、保安監督と資材照合を名目に入ってきます」
「そこから先で広げる気だ」
「ええ」
「露骨にやらないだけ始末が悪い」
「同感です」
レルゲンは封筒を閉じた。
「軍側の責任者一覧、急がせろ。あと、試験場ごとの搬出記録の書式を一枚で比べたい。ばらつきがあるなら先に潰す」
「時間がありません」
「だから今やる」
「分かりました」
ケーニヒが出ていく。
その背を見送りながら、レルゲンは椅子へ深く腰を預けた。親衛隊が研究へ手を伸ばしている。軍にとって気分のいい話ではない。だが、軍の側も隙が多い。そこも腹立たしい。相手が強いだけでなく、こちらが古い癖のまま緩んでいる。認めたくないが、事実だ。
彼は机の端に肘を置き、指先でこめかみを押した。
ヒムラーの力が広がっている。党の高官たちが思う以上に、軍の将官たちが認めたがらない以上に。親衛隊全国指導者兼全ドイツ警察長官という肩書は、長いだけの飾りではない。警察、人員、保安、監視、そしてそれを支える紙の流れ。全部を繋げられる人間が一人いる。そして、その命令を運ぶ側が、あの少佐のように現場の帳簿の癖まで見ている。
厄介だ。実に厄介だ。
だが、無能ではない。
そこがまた胃に悪い。
十二時を少し回った頃、ようやく責任者一覧の叩き台が集まり始めた。倉庫側、試験場、便担当。だが、予想通り、試験場側の欄が一番荒れている。責任者が技術少佐で止まっているもの、当直将校扱いのもの、室長としか書いていないもの。これでは向こうに「軍は自分の入口も把握していない」と言ってくれと頼んでいるようなものだ。
レルゲンはそのうち二枚を抜き、当番兵へ渡した。
「フォルスター大尉を呼べ」
「試験場のですか」
「そうだ。今すぐ」
しばらくして現れたフォルスターは、細身で神経質そうな男だった。技術系にありがちな、細部へ強い代わりに全体を面倒がる顔をしている。
「何でしょうか」
レルゲンは一覧を机へ置いた。
「これは何だ」
フォルスターが見下ろし、少しだけ顔をしかめる。
「試験場の責任者一覧ですが」
「見れば分かる。問題は、責任者が責任者になっていないことだ」
「試験場では、設備によって管理が分かれています」
「なら分けて書け。『試験場』で済ませるな」
「現場はその方が早いので」
「早いのはお前らだけだ。外から照会が入った時、誰が何を止める」
フォルスターは黙った。レルゲンは容赦しない。
「親衛隊が研究資材へ入る気だ」
「……親衛隊が?」
「正確には、保安監督と資材照合の名目だ。今のお前らの書き方では、丸ごと口を開けて待っているのと同じだぞ」
そこでフォルスターの顔色が変わった。ようやく話が伝わったらしい。軍の技術将校は、軍需局の叱責より親衛隊の立入の方がよほど効くことがある。
「では、どう書けば」
「責任者名を個人で落とせ。設備責任者、搬入確認者、搬出承認者、立入許可者。この四つを最低限分けろ。今日中だ」
「今日中に、ですか」
「嫌なら午後一時にそのまま説明しろ」
「……やります」
「最初からそう言え」
フォルスターが一覧を抱えて出ていく。若い将校を怒鳴りつける趣味はない。だが、相手が危機感を持たないなら、こちらで危機を具体化するしかない。
レルゲンは時計を見た。
まもなく一時だ。
昼食は結局、パンを一片つまんだだけで終わった。空腹は残る。だが、ここで胃に物を詰めるより、少し空いた方がまだ頭が冴える気もする。気のせいかもしれないが。
机の上をざっと整える。警察系統からの照会文。軍側の責任者一覧。保管資材の参考一覧。試験場側の未整備箇所。北方向け輸送表。必要なものだけを抜く。相手に見せるもの、見せないもの、こちらで押さえておくもの。その区別は参謀の仕事の基本だ。
そして、こういう時ほど、あの少佐は無駄に目がいい。
レルゲンは自分でも気付かないうちに口元をしかめた。ターニャ・デグレチャフ。黒服の少佐。親衛隊の子供。だが、子供と呼んで油断すると足元を掬われる類の人間だ。軍の将校には珍しく、彼はあの少佐を年齢で侮る気がなかった。見た目の異様さは最初に来る。だが、本当に異様なのはそこではない。
あれは、自分がどう見られているかも、自分の後ろに何が立っているかも、全部知った上で机へ向かっている。
子供の顔で、年寄りじみた損得勘定をし、しかもそれを恥じない。普通ならどこかで歪むものだが、あの少佐は歪みをそのまま運用へ変えてくる。実に気持ちが悪い。実に有能だ。そして、その両方が同時に成立している。
「嫌な時代だ」
小さく呟き、彼は席を立った。
午後一時の確認は短く終わるかもしれない。だが、短く終わるからといって楽だとは限らない。むしろ、あの少佐との会話は短い方が密度が高くなる。
扉のところで、ハルマンが戻ってきた。
「中佐、責任者一覧の残りです。試験場側、まだ一部抜けがあります」
「分かっている。そこは後で詰める」
「会議室は押さえてあります」
「会議ではない。確認だ」
「失礼しました」
「いや、いい。どのみち揉める」
ハルマンが少しだけ困った顔をした。レルゲンは書類を抱え直した。
「私が戻るまで、燃料配分は止めるな。差し替え便の方を先に回せ」
「はい」
彼は頷き、そのまま執務室を出た。
廊下の先、別棟へ繋がる通路の向こうに、国家保安本部側の空気が待っている。紙の匂い、靴音の揃い方、そして黒服の影。
昼はもう過ぎている。だが、一日はまだ長かった。
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