別棟へ繋がる通路は、軍の執務棟と国家保安本部側の空気をはっきり分けていた。距離としては大したものではない。数十歩もあれば着く。だが、その短い移動のあいだに、レルゲンは毎回、別の組織へ入る感覚を覚える。
軍の側は、雑でも勢いがある。靴音も怒鳴り声も隠さない。対して、あちらは違う。声量は低く、廊下を歩く速さまで揃っていて、誰もが自分の抱えた控えを落とさないように運んでいる。静かだから穏やか、というわけではない。むしろ逆だ。静かに整っている方が、後で大きく崩しにくる。
通路を抜けた先で、案内に立っていた若い職員が軽く頭を下げた。見覚えのない顔だ。新しいのだろう。軍の制服を見ると一瞬だけ肩が固くなったが、すぐに取り繕った。
「こちらです」
案内された部屋は大きくない。会議室というより、短時間の打ち合わせに使う控え室に近かった。窓は一つ。机は中央に一台。水差し、空の灰皿、簡素な椅子が三脚。無駄がない。いや、無駄がないように整えられている。
レルゲンが入ると、既にターニャは席についていた。
黒服は、やはり目に付く。時代にそぐわない色であることは、本人だって分かっているだろう。分かっていて、それでも着ている。象徴としてか、威圧としてか、あるいはその両方か。幼い顔立ちと、その黒が並ぶと余計に異様だった。まるで誰かが政治と恐怖と計算だけで一人分の人間を拵え、たまたまそれに子供の骨格を与えたような不調和がある。
向かいにはセレブリャコーフが立っていた。机の端へ控えを並べ、既に話を始める準備まで済ませているらしい。仕事が速い副官というのは、ありがたい反面、こちらの逃げ場も奪う。
ターニャが先に口を開いた。
「時間通りですね」
「確認だけなら遅れる理由もない」
「確認で済めばよろしいのですが」
「済ませるつもりで来た」
レルゲンが答えると、ターニャは一瞬だけ視線を上げた。あの目つきが好きな軍人はそう多くないだろう。敵を見るでもなく、味方を見るでもなく、ただ相手の机の上の弱点を探しているような目だ。
「では、本題へ入ります」
ターニャは机上の照会文を軽く押さえた。
「研究関連戦略資材の照合について、軍側窓口を一度明確にしたい。現状、倉庫、試験場、輸送、それぞれで責任者欄が揺れています」
「そこは今、軍側でも詰めている」
レルゲンは持参した一覧を広げた。
「これが現時点の整理だ。完全ではないが、窓口不明とは言わせん」
ターニャは受け取り、目を通す。読む速度が相変わらず速い。子供の手の大きさで大人の書いた一覧を追いながら、その実、こちらが見落とした箇所を拾ってくる。その光景のどこが不気味なのか、レルゲンにはうまく説明できない。ただ、普通ではないという感覚だけは毎回残る。
「試験場側がまだ荒いですね」
「分かっている。そこは午後中に埋める」
「午後中、ですか」
「できる範囲で、ではなく、埋める」
少し強めに言う。先手を打っておかなければ、向こうはその曖昧さを入口に使う。
ターニャは目を上げた。
「結構です。その言い方なら受け取れます」
「恩着せがましいな」
「軍側の事情に同情する立場ではありませんので」
相変わらずだ。助かるほど率直で、腹が立つほど愛想がない。
セレブリャコーフが控えへ何かを書き込む。レルゲンはちらりと見た。余計なことまで拾われている気がする。
「こちらの意図も申し上げておきます」
ターニャが続けた。
「研究そのものへ軍の指揮を奪う話ではありません。現時点では、機密保持、照合、搬出入経路の確認、その三つです」
「現時点では、か」
「先のことは、先で判断します」
「親切だな」
「誤解が少ないだけです」
レルゲンは椅子へ浅く腰を下ろした。ターニャは座ったまま、しかし気の抜けた姿勢は見せない。黒服の袖口から出た手は小さい。だが、その手が押さえている文書の内容は、軍の試験場の入口と倉庫の鍵に関わる。
「確認しておく」
レルゲンは一覧の一点を指で叩いた。
「倉庫と試験場の責任者照会には応じる。だが、研究内容そのものへの閲覧は別だ。そこは軍の所管だ」
「承知しています」
あっさり返す。返すが、承知している、と言われてそれで安心できる相手ではない。
「本当にか」
「はい。閲覧が必要になれば、別の理屈と別の文書で来ます」
レルゲンはそこで一瞬言葉を失った。あまりに率直すぎる。率直すぎて、かえってこちらの警戒が増す。
「……正直すぎるだろう、お前は」
「曖昧にしても意味がありません」
「軍人相手の会話としては嫌な部類だ」
「親衛隊相手の会話としては、むしろ誠実な方です」
そう言われると否定しにくいのがまた腹立たしい。
レルゲンは机上の水差しへ手を伸ばし、コップへ少しだけ注いだ。喉が渇いている。昼をまともに取っていないせいもある。だが、それを口に出すつもりはなかった。親衛隊の少佐に食事の話などしたくもない。
ターニャが別紙を一枚差し出した。
「こちらで把握している対象資材群の一覧です。軍側と齟齬がないか見てください」
受け取って見る。重水。関連試験材。保管指定品。搬出監視対象。思ったより範囲は狭い。狭いが、狭いだけに狙いがはっきりしている。全部を欲しがる案より、こういう細い入り方の方が怖い。
「最初から大風呂敷を広げないのは賢いな」
「広げると抵抗されます」
「最初から抵抗される前提か」
「当然です。軍はそういう組織でしょう」
「言うようになったな」
「言われるだけのことはされています」
レルゲンはコップを置いた。ここで言い返しても実りはない。向こうは喧嘩を売っているのではなく、手順として言っている。そういうところがまた面倒だ。
「ヒムラーの意向か」
短く問うと、ターニャは一拍だけ置いた。
「親衛隊長官の関心が強い案件であることは否定しません」
「否定しない、か」
「ですが、今ここで私が持っているのは照合と窓口の話です。命令の全文を振りかざす段階ではありません」
振りかざす段階ではない。つまり、段階が進めばやるつもりなのだろう。レルゲンは苦いものを噛んだ気分になった。
親衛隊長官という短い呼び方は、軍の古い将校たちが軽く使うには危険なほど重くなっている。以前なら、政治警察の長か、党の威光を背負った親衛隊の顔役か、その程度に分けて考えられた。いまは違う。親衛隊と警察の網が重なり、保安がそこへ絡み、しかも命令系統が机の上の照会文にまで降りてきている。
言葉を軽くしても、中身は軽くならない。
「軍としては、窓口を渡す代わりに条件がある」
レルゲンは言った。
「照合の範囲は指定資材群に限る。便全体へ話を広げるな。あと、立入は事前通知を必須にしろ。当日突然の確認は認めん」
「後者は場合によります」
「場合とは」
「保安上の懸念が急に浮上した時です」
「その便利な文言が嫌いだ」
「私も好きではありません」
「なら使うな」
「必要になれば使います」
はっきりしている。はっきりしているが、話が通じないわけではない。そこがまた奇妙だった。険悪ではある。互いに好んでいるとは言い難い。だが、論点の位置だけは共有できる。軍の中にだって、ここまで話の早い相手ばかりではない。
セレブリャコーフが静かに口を挟んだ。
「事前通知については、通常時の原則として文言を分ける形でいかがでしょうか。例外を設ける場合は、別系統の命令書番号を付す、という形なら整理できます」
レルゲンは彼女を見た。副官の口調は丁寧だが、中身はきっちりしている。
「別系統、とは」
「保安上の緊急案件を通常の照合と切り分けるためです。混ぜると、双方とも後で困ります」
「双方とも、か」
「はい。軍側にも、こちらにも」
レルゲンは短く頷いた。なるほど。悪くない。親衛隊側の副官に同意するのは気に食わないが、悪くないものは悪くない。
「それでいい」
「承知しました」
セレブリャコーフが即座に書き留める。その手つきまで落ち着いている。あの少佐の周りにいる人間は、どうしてこう無駄が少ないのか。いや、少ないように見えるだけで、裏では散々苦労しているのかもしれないが、少なくとも表には出さない。
ターニャが別の一枚を開く。
「もう一点。輸送経路の照合ですが」
「来たか」
「港湾経由便から北方向けへ差し替えられた雑材便、一部に対象資材と接触する可能性があります」
「可能性、だな」
「現時点では」
「だからその言い方が嫌いなんだ」
レルゲンは自分でも少し苛立っているのが分かった。苛立つ理由も分かっている。軍の便差し替えが親衛隊の照合理由に変わるのが気に食わないのだ。だが、気に食わないからといって、数字が消えるわけでもない。
ターニャは淡々と続けた。
「便自体を止めるつもりはありません。ただ、対象資材が近接経路を通る以上、照合の補記が必要です」
「補記だけで済むなら、こちらで書く」
「期限は」
「今日の夕方までだ」
「結構です」
結構です。まるで部下へ返事をするような口調だ。レルゲンは口の端を少しだけ歪めた。
「お前、軍相手にも全く遠慮がないな」
「遠慮で便は守れません」
「誰もそこまでは言っていない」
「では、何を言っていますか」
この手の応酬は、放っておくと長くなる。だが、レルゲンもターニャも、長引く前に切る癖がある。
「……いい。補記は出す」
「お願いします」
「お願い、で済ませるな。軍は命令系統で動く」
「なら、必要な命令書番号を付けてください」
「可愛げのないやつだ」
「今さらでしょう」
まったくだ。今さらだ。
会話の合間に、レルゲンは改めてターニャの顔を見た。年齢に見合わない、といった言い方では足りない。若いのではなく、小さいのだ。体が、顔が、手が。それなのに、机の向こうへ座らせると年齢という要素が消える。消えるというより、関係のない情報に思えてくる。
軍の将官の中には、この少佐を最初に見た時、子供の使いだと笑った者もいるらしい。レルゲンは笑わなかった。笑う気になれなかった。見た目に対して中身が合っていない人間はいる。だが、この少佐の異様さは「合っていない」で済まない。合わなさそのものを武器として使っているようなところがある。
黒服の子供。だが、話している内容は、倉庫の欄と便の補記と責任者の個人名だ。大人でも面倒がる場所へ、年齢も感情も削って入り込んでくる。それを見て、まともな感想が出るはずもない。
「どうしました」
ターニャが問うた。視線を向けたまま黙っていたらしい。
「いや」
レルゲンは首を振った。
「親衛隊も、ずいぶんと気の利く人材を抱えるようになったものだと思ってな」
ターニャの目がほんのわずかに細くなる。
「褒め言葉として受け取るべきでしょうか」
「好きにしろ。私は皮肉のつもりだ」
「なら、やはり受け取りません」
「そういうところだ」
セレブリャコーフが、おそらく必要以上に空気を動かさないためだろう、別の控えを差し出した。
「通常照合と緊急照合の切り分け案です。確認いただけますか」
レルゲンは受け取り、ざっと読む。簡潔だ。軍の文官に見せても読める程度には平易で、それでいて抜けが少ない。実に嫌な作り方だった。嫌だが、役に立つ。
「これを誰が書いた」
「叩き台は私です」
セレブリャコーフが答える。
「整えたのはこちらです」
ターニャが短く言った。やはりそうか。あの少佐は、人に書かせたものを使える形へ削るのがうまい。
「軍の書式よりましだな」
「珍しいことを言いますね」
「認めたくはないが、認めるしかない」
そこでターニャが、ほんの一瞬だけ、口元を動かした。笑いとも皮肉ともつかない。だが、少なくとも完全な無表情ではなかった。
「中佐」
「何だ」
「軍側が窓口を整えるなら、こちらも照合の口を広げすぎないよう抑えます」
「お前が抑えるのか」
「できる範囲では」
「上から来たらどうする」
「その時は別の文書で来ます」
またそれだ。だが、その答えが一番誠実でもある。親衛隊長官の意向が直で降りれば、この少佐の裁量は飛ぶ。飛ぶが、その前の段階では抑えられる、ということだろう。
レルゲンは低く言った。
「軍の将官連中は、いまだに親衛隊の力を『政治の飾り』だと思っている節がある」
「そうでしょうね」
「笑うな」
「笑ってはいません」
「声の調子だ」
「否定はしません」
ターニャは紙の端を揃えた。
「ですが、現実として、親衛隊の権限はもう装飾ではありません。軍の皆様が認めるかどうかは別として」
その言い方は、癪に障るほど冷静だった。感情の勝利宣言ではない。ただの現状説明だ。だから余計に腹が立つ。
「ヒムラーの名が入ると、警察も保安も一緒に動く。だが軍の倉庫係はそこへ慣れていない」
レルゲンが言うと、ターニャは即座に返した。
「慣れてください」
あまりに即答だったので、レルゲンは一瞬だけ唖然とした。
「簡単に言うな」
「簡単ではありません。必要だと言っています」
「必要論で人は動かん」
「だから文書にします」
そこまで言われると、もはや議論の余地が薄い。現に彼女はそうやって動いているのだ。必要と判断し、文書を作り、入口を整える。そういう動き方をする相手に、精神論や矜持だけでは勝てない。
短い沈黙が落ちた。
レルゲンは腕を組み、机上の一覧を見た。向こうの狙いは分かった。こちらの弱点も向こうは見ている。なら、軍の側がやるべきことは一つだ。欄を埋め、責任者を明確にし、便の補記を揃え、相手に使わせる隙を減らす。それだけだ。馬鹿らしいほど地味だが、結局そこへ戻る。
「よし」
レルゲンは言った。
「軍側窓口は私で受ける。ただし、照合番号は全部こちらへ通せ。倉庫へ直接飛ばすな。あと、試験場へ行くなら先に一報寄越せ」
「通常時は、ですね」
「そこをわざわざ確認するな。気分が悪い」
「誤解が減りますので」
「減らす方向がいつも嫌だ」
セレブリャコーフが控えを閉じた。
「では、その形で整理します」
会話としてはそれで終わりに近かった。だが、レルゲンは席を立つ前に、どうしても一つ聞いておきたいことがあった。
「デグレチャフ」
名前で呼ぶと、ターニャの目が少しだけ上がる。階級ではなく名で呼ぶのは珍しくないが、今は意味がある。
「何でしょう」
「お前、自分がどれだけ異様か理解しているか」
セレブリャコーフの手が一瞬だけ止まった。部屋の空気が少しだけ変わる。
だが、ターニャは表情を崩さなかった。
「文脈によります」
「文脈も何もあるか。黒服を着て、親衛隊の権限を背負って、倉庫の責任者欄と便の補記を子供みたいな顔で詰めに来る将校が普通なものか」
言ってしまってから、少しだけやりすぎたかと思った。だが、撤回する気もない。思っていることの一部ではある。
ターニャは数秒だけ黙り、それから静かに答えた。
「普通である必要を感じたことがありません」
短い。短いが、妙に残る返答だった。
レルゲンは鼻で笑った。
「そう言うと思った」
「期待通りで何よりです」
「喜んでいるわけではない」
「知っています」
そこでようやく、レルゲンは立ち上がった。長くいたくはない。だが、話すべきことは話した。
「軍側の補記は夕方までに回す。試験場の責任者欄も埋める。そっちは照合番号を整理して寄越せ」
「承知しました」
「あと、研究内容そのものへ首を突っ込むなら先に言え」
「必要になれば、そうします」
「気分の悪い誠実さだな」
「慣れてください」
またそれを言う。レルゲンは本当に顔をしかめた。
「その台詞は嫌いだ」
「記録しておきますか」
セレブリャコーフが真顔で言った。冗談なのか本気なのか分からない。レルゲンは思わず喉の奥で笑いそうになり、ぎりぎりで止めた。
「やめてくれ。余計な文書が増える」
「承知しました」
副官は即座に引いた。実に手際がよい。
レルゲンは扉へ向かいながら、最後に一度だけ振り返った。
黒服の少佐は机に残り、既に次の控えへ手を伸ばしている。会話が終わった瞬間に次の案件へ移る切り替えの速さも、やはり普通ではない。気持ちが悪いほど、迷いがない。
あれが親衛隊の顔になるなら、軍の古い感覚だけでは持たないだろう。
そう思う自分が、また腹立たしい。
部屋を出て、廊下の冷たい空気を吸う。軍の執務棟へ戻る足取りは重くない。軽くもない。ただ、やるべきことが明確になった分だけ、胃の重さが別の形へ変わっていた。
戻れば、試験場の責任者欄を詰め、補記を出し、燃料配分を動かし、将官連中へ余計な説明もしなければならない。親衛隊の照合に備えて軍の書式を整える、などと言えば顔をしかめる者もいるだろう。だが、やらないよりはましだ。
国家保安本部側の廊下を離れたところで、ハルマンが待っていた。手には新しい束。
「中佐、差し替え便の補記用です」
「早いな」
「戻る頃だと思って準備しておきました」
よくやった、とまでは言わない。だが、レルゲンは束を受け取りながら短く頷いた。
「その調子で続けろ」
「はい」
それだけで部下の顔色が少し変わる。若い人間は単純だ。いや、歳を取っても人間は案外単純なのかもしれない。少なくとも、自分も今、少しだけ気分が持ち直している。
昼は結局まともに取っていない。それでも、午後を切るだけの線は引けた。
険悪だ。親衛隊は気に食わない。ヒムラーの力が広がるのも面白くない。あの少佐の異様さは、見ていて本能的に警戒心を刺激する。それでも、話は通じる。そこだけは認めざるを得ない。
軍の午後は、そこからまた数字へ戻っていった。
次に読みたい展開はどちらですか?(※構成上、前後する可能性あり)
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イギリス戦方面
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帝国内政(モレル関連)