幼女戦記 〜旗を高く掲げよ〜   作:猫敷

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閑話:レルゲンの日常1 後半2

 

 戻っていった、というより、無理やり戻したという方が正しい。国家保安本部側での確認を終えた以上、親衛隊への苛立ちを抱えたままでも、軍の机上は進めなければならない。輸送は感情で動かないし、倉庫の在庫は気分で増えない。腹が立とうが胃が痛もうが、空欄は埋めるしかない。

 

 執務室へ戻ると、空気が変わっていた。

 

 昼を越えた部屋は、朝とも正午とも違う。疲れが一段沈んで、代わりに諦めに似た速度だけが残る。机に向かう者は皆、あと何時間持てば今日が終わるかを計算している顔になる。そういう顔をした人間の群れは、見ていてあまり気分のいいものではない。だが、自分もその一員なのだろう。

 

 ハルマンが先に揃えていた補記用の束は、思ったよりましだった。雑材便の経路補足、差し替え理由、倉庫側の受領時刻。全部ではないが、必要な欄は押さえてある。

 

「フォルスター大尉の方は」

 

 レルゲンが椅子へ腰を下ろしながら問うと、ハルマンはすぐ答えた。

 

「試験場側の責任者欄、一次分は返ってきています。ただ、設備責任者の個人名を嫌がっているようで」

 

「嫌がる理由は」

 

「設備単位で人が入れ替わるので、固定名を出したくないと」

 

「固定名を出したくない、か」

 

 レルゲンは鼻を鳴らした。

 

「便利な逃げ方だな」

 

「はい」

 

「なら、固定名を出さなくていい。日単位の責任者欄を作れ。設備責任者と当日立会者を分ける」

 

 ハルマンがすぐに鉛筆を走らせる。

 

「その形なら通るかもしれません」

 

「通らせろ。今のままだと、向こうが勝手に欄を作る」

 

「分かりました」

 

 分かりました、と返るのはいい。実際に人を動かして欄を増やし、嫌がる技術将校を押し切れるかどうかは別だ。だが、少なくとも軍の側で手を打っていると見せることには意味がある。何もしていない机に比べれば、途中の机の方が守りやすい。

 

 レルゲンは差し替え便の補記へ赤を入れた。書き方が甘い。軍の補記は往々にして、自分たちだけが分かればいいという癖が出る。だが、今日からはそうも言っていられない。親衛隊の照合に備えるなら、軍の書面も外へ見せる前提で整えなければならない。

 

 それは屈辱に近い感覚だった。

 

 軍の文書を、軍の都合だけではなく、親衛隊の読解力まで意識して整える。少し前の自分なら鼻で笑っただろう。だが、笑える段階は過ぎている。向こうの書面がこちらより整理されているなら、軍の側が意地を張っても損をするだけだ。

 

 その時、執務室の外で妙に強い靴音が止まった。

 

「入れ」

 

 返事をすると、扉が開く。入ってきたのは軍需局の文官ではなく、兵器局寄りの技術将校だった。中年で、肩幅が広く、いかにも自分の部署だけは聖域だと思っていそうな顔をしている。名をブルナー少佐という。嫌いではないが、手間の掛かる相手だ。

 

「中佐、少しよろしいか」

 

「内容による」

 

「研究資材の件だ」

 

「なら座れ」

 

 ブルナーは腰を下ろす前から不満顔だった。

 

「親衛隊が試験場の責任者欄へ首を突っ込んでくるという話は本当か」

 

「首を突っ込んでくる、ではなく、こちらが空けていた穴へ指を差し込まれている」

 

「言い方の問題ではない」

 

「言い方の問題でもある」

 

 レルゲンは一覧を机へ滑らせた。

 

「見ろ。設備責任者、当日立会者、搬出承認者。この三つがぐちゃぐちゃだ。試験場ごとに書き方が違う。これで『軍の領分だから黙っていろ』は通らん」

 

 ブルナーが一覧を見て、露骨に顔をしかめる。

 

「現場は忙しい」

 

「全員そう言う」

 

「事実だ」

 

「事実だとしても、欄が埋まる理由にはならない」

 

 ブルナーは机の端へ指を置いた。

 

「親衛隊の連中は保安の名目で研究に触りたがる。あれを許すと、次は試験内容、次は人員、それから配置まで来るぞ」

 

「分かっている」

 

「ならなぜ通す」

 

 そこでレルゲンは少しだけ声を落とした。

 

「通していない。入口を細くしている」

 

 ブルナーの眉が動く。

 

「何だと」

 

「向こうは今、保安監督と資材照合の窓口を欲しがっている。そこは拒み切れん。なら、逆にそこだけに押し込める。立入の理由、照合番号、対象資材群、全部を限定して、軍の側の責任者欄も先に揃える」

 

「それで止まるか」

 

「止まらないかもしれん」

 

「なら意味がない」

 

「意味はある。最初から全面戦争にしないだけましだ」

 

 ブルナーは不愉快そうに椅子へ体重を沈めた。技術将校らしい反応だ。親衛隊が嫌いなのは理解できる。だが、嫌いだからといって机上の現実が消えるわけでもない。

 

「中佐、親衛隊は軍の理屈を食うぞ」

 

「食わせないために欄を埋めている」

 

「そんな話ではない。奴らは理屈の上に権力を乗せる」

 

「知っている」

 

「ヒムラーの名が出たら、将軍だって顔色を変える」

 

 その通りだった。レルゲンは否定しない。

 

「親衛隊長官の威光で黙らせるのは、向こうの得意技だ」

 

 ブルナーが続ける。

 

「軍は軍だ。試験場の入口まであいつらに握らせてたまるか」

 

「だからその『握らせてたまるか』を文句で済ませるなと言っている」

 

 レルゲンは一覧の空欄を指で叩いた。

 

「ここが空いている限り、向こうは『軍の管理が曖昧だ』と言える。そうなれば、保安監督の理屈で入る。逆に、こちらで管理を明確にしておけば、向こうの手を狭められる」

 

「狭める、か」

 

「全部は無理だ。だが、狭くはできる」

 

 ブルナーはしばらく黙り、それから渋々と言った。

 

「……設備責任者欄は出す。だが、人員名簿までは渡さん」

 

「それでいい」

 

「本当か」

 

「本当だ。いま欲しがっているのはまず窓口だ。名簿は次だろう」

 

 次、という言葉が出た時点で、ブルナーの顔はさらに険しくなった。

 

「やはり来るのか」

 

「来る前提で考えた方がいい」

 

 レルゲンは言い切った。

 

「ヒムラーの力は、今さら見て見ぬふりで済む段階じゃない。党の高官へ噛みつくことも、警察を動かして軍の外縁を探ることも、あの男にとってはもう珍しくもない。親衛隊と警察の網が重なった時、研究みたいな機密の濃い場所は真っ先に狙われる」

 

 ブルナーは苦い顔で立ち上がった。

 

「気分の悪い話だ」

 

「気分がいい話をしているつもりはない」

 

「設備責任者欄は夕刻までに埋める」

 

「やれ」

 

 少佐が去る。扉が閉まると、執務室はまた数字の音へ戻った。紙が擦れ、鉛筆が走り、誰かが控えを束ねる。軍というものは、怒りや危機感があっても、その出力先の大半を欄の補記へ変換してしまう組織なのだろう。

 

 午後三時を回る頃、ようやくレルゲンは別の種類の疲労を感じ始めた。朝から続いている胃の重さとは違う。頭の内側が乾いていく感じだ。数字は追えている。理屈も繋がる。だが、人間の側が少しずつ鈍くなる。

 

 そのタイミングで、今度は上から呼びが掛かった。

 

「中佐、将官室です」

 

 当番兵が扉から顔を出す。

 

「今か」

 

「はい。研究資材の照会について、少し」

 

 少し、で済む話ではないだろう。だが、将官が「少し」と言う時に訂正しても意味はない。レルゲンは椅子を引き、必要な一覧だけ持って上階へ向かった。

 

 将官室にいたのは、補給総監部寄りの少将だった。年齢のせいか声は低く、感情を表へ出さない。だが、その分だけ質問が短い。

 

「親衛隊が研究資材へ入ると聞いた」

 

「入口の照合です」

 

「入口だけで済むと思うか」

 

「思いません」

 

 少将はそこでレルゲンをじっと見た。嘘をつかない返事は好まれることもあるが、時に上官の機嫌を悪くもする。今回は前者らしかった。

 

「なら、なぜ認める」

 

「拒めない部分があるからです」

 

「ヒムラーか」

 

「はい」

 

 少将は窓の外へ一瞬だけ視線を流した。

 

「親衛隊全国指導者の権限が軍の机まで伸びてくる時代か」

 

「もう来ています」

 

 レルゲンは一覧を差し出した。

 

「だからこそ、軍側で責任者欄と補記を整えています。向こうの理屈は『軍の管理が曖昧だから保安上の監督が要る』です。それを減らせるのは、こちらの書き方だけです」

 

 少将は紙を読み、すぐに返した。

 

「デグレチャフ少佐か」

 

 またその名が出る。

 

「おそらく」

 

「変な取り合わせだな。ヒムラーの威光と、あの黒服の小娘」

 

「見た目で判断すると危険です」

 

「していない」

 

 少将は短く答えた。

 

「お前の顔を見れば分かる」

 

 それは褒め言葉ではない。だが、間違ってもいなかった。レルゲンがここまで胃を痛める相手は、無能ではあり得ない。

 

「軍の面子は守れ」

 

「はい」

 

「ただし、無駄な正面衝突は避けろ」

 

「そのつもりです」

 

「できるのか」

 

「努力します」

 

 少将が鼻を鳴らした。

 

「努力、か。参謀らしい返事だな」

 

 将官室を辞した時には、外の光がだいぶ傾いていた。執務室へ戻る途中、レルゲンは廊下の窓から中庭を見下ろした。輸送車両が一台、荷を半分降ろした状態で止まっている。兵隊が二人、伝票を突き合わせていた。何の変哲もない光景だ。だが、こういう場所の一つ一つが、今は少しずつ親衛隊の照合対象へ変わるかもしれない。

 

 軍は前線だけではない。前線へ至るまでの線全部が戦場だ、と誰かが言ったことがある。正しい。だが今は、その線の上を歩いてくる別の足音がある。

 

 執務室へ戻ると、フォルスター大尉から設備責任者欄の修正版が届いていた。嫌々書いたのが字面に出ている。だが、個人名が入っただけでも大きい。立会者欄も日ごとに分けてある。よろしい。軍は嫌がりながらでも直せる時は直る。それが唯一の救いだ。

 

 レルゲンは補記と一覧をまとめ、夕方までに出すべき分を二つに分けた。一つは軍内の共有。もう一つは国家保安本部側へ返す照会補足。文面は短くする。余計な感想は入れない。向こうへ渡る文書に感情を混ぜても、使われるだけだ。

 

 鉛筆を置き、万年筆へ持ち替えた時、ふと別紙の端へ目が留まった。午後一時の確認時に、ターニャが一瞬だけ見せたあの疲れたような笑みが、なぜか頭の隅へ残っていた。

 

 あれは何だったのか。

 

 親衛隊の少佐が、軍の参謀に対して見せる表情としては妙に人間臭かった。いつもはもっと乾いている。乾いていて、冷たくて、まるで相手の体温へ興味がないような顔をしている。そのくせ、話すべきことはきっちり拾い、欄が埋まるまで帰さない。

 

 嫌な相手だ。だが、ただ嫌なだけではない。

 

「まったく」

 

 レルゲンは小さく呟いた。

 

「どうしてああいうものが出来上がる」

 

 誰に聞かせるでもない問いだった。親衛隊の環境がああしたのか、ヒムラーが育てたのか、それとも最初からそういう質なのか。興味はある。だが、知ったところで得をする気もしない。

 

 夕刻、国家保安本部側へ補足文と責任者一覧を回した。走らせたのはハルマンだ。戻ってきた時の報告は簡潔だった。

 

「受領は記録班です。番号確認済み」

 

「何か言っていたか」

 

「通常照合の補足として扱うとのことです。緊急照合とは分けるそうです」

 

 セレブリャコーフの案がそのまま使われたのだろう。レルゲンは短く頷いた。

 

「結構だ」

 

 それだけ言うと、ハルマンは少しだけ息を抜いた。今日のこの部署は、朝から誰もが緊張の持続時間を試されているような顔をしている。軍の参謀仕事は派手ではないが、人をすり減らす種類の消耗がある。

 

 時計はもう勤務の終わりに近い時間を指していた。だが、机の上にはまだ北方向けの積み替え一覧が残っている。燃料配分の再計算も、完全には片付いていない。帰れる時刻ではある。だが、帰ったところで明朝の自分が困る。

 

 レルゲンは椅子を引き寄せ、もう一度台帳を開いた。

 

 数字の列は冷たい。ありがたいくらいに冷たい。人間関係も権力も、最終的にはこの列へ影を落とす。だから、ここを見ている限り、まだ踏み外しにくい。

 

 窓の外が暗くなり始める頃、執務室の灯りが少しだけ黄色味を増した。部屋の隅で、誰かが喉を鳴らして咳払いをする。別の机では、紙紐で束を括る音がした。一日が終わる音だ。だが、完全には終わらない。

 

 レルゲンは最後の欄へ数字を書き込み、そこでようやくペン先を置いた。

 

 軍の午後は終わった。

 

 終わったが、親衛隊の影は机の上に残っている。責任者欄の整備、照合番号の整理、通常と緊急の切り分け。たかが書式、されど書式だ。こうして軍の内側の書き方まで変えさせている時点で、ヒムラーの力はもう単なる政治的威圧ではない。運用へ浸み込み始めている。

 

 そこを認めるのは不愉快だった。

 

 だが、認めなければ次に遅れるのは自分の机だ。

 

 レルゲンは立ち上がり、窓の鍵を一つだけ確かめた。何の意味もない習慣だが、帰る前に確認しないと落ち着かない。

 

 扉のところでハルマンが言った。

 

「中佐、本日はもう上がられますか」

 

「そうしたいところだな」

 

「まだありますか」

 

「ある」

 

「では、私も残ります」

 

 レルゲンは少しだけ眉を上げた。

 

「残らなくていい。お前は明朝の便確認に回れ」

 

「ですが」

 

「今日は十分だ。残っても精度が落ちる」

 

 自分にも言い聞かせている言葉だ。ハルマンは一瞬だけ迷い、それから頷いた。

 

「承知しました」

 

 部下を先に下げる。残るのはいつも、判断を遅らせた人間の仕事だ。

 

 一人になった執務室で、レルゲンは最後にもう一枚だけ紙を引いた。明朝の自分へ向けた短い覚え書きだ。試験場責任者欄の再確認。保安照合番号の軍側控え。北方向け便の積み替え。研究関連の追加照会に備え、倉庫と試験場の接点を先に見る。

 

 書き終えたところで、彼は小さく肩を回した。疲れている。だが、頭はまだ動く。動くうちに区切っておいた方がいい。

 

 灯りを落とし、扉を閉める。

 

 廊下は静かだった。昼間の慌ただしさが嘘みたいに、人が少ない。足音だけが長く響く。帰路の途中、別棟へ続く通路の前で一瞬だけ足を止めた。向こう側には国家保安本部がある。黒服の少佐がまだ机に向かっているかもしれないし、もう次の控えへ赤を入れているかもしれない。

 

 考えたところで仕方がない。だが、思い出す。

 

 険悪だ。好感など持っていない。親衛隊という組織そのものに対して、レルゲンは基本的に嫌悪しかない。だが、話が通じる相手が向こうにいるという事実まで嫌うと、仕事そのものが回らなくなる。

 

 だから、そこだけは切り分ける。

 

「まったく、嫌な合理だ」

 

 小さく吐き捨て、彼は外へ出た。

 

 夜気は冷たかった。だが、昼間の重さを少しだけ剥がしてくれる冷たさでもある。今日もまた、弾薬や燃料や輸送ではなく、欄と責任者と照合で一日を削った。軍人らしいかと問われれば、答えに困る。だが、この時代に参謀である以上、そういう日もある。

 

 いや、むしろそういう日の方が多いのかもしれなかった。

 

 ヒムラーの権力は広がっている。親衛隊は研究と保安の周りを囲い始めている。軍の側はそれを嫌いながら、書き方を変え、欄を埋め、責任者を明確にして対抗する。何とも不毛で、何とも現実的な戦いだ。

 

 そして、その最前列に、黒服の少佐が立っている。

 

 レルゲンは宿舎への道を歩きながら、ひどく面倒なものを相手にしていると改めて思った。だが同時に、その面倒がただの政治ごっこではないとも知っている。そこが、一番厄介だった。

 

次に読みたい展開はどちらですか?(※構成上、前後する可能性あり)

  • イギリス戦方面
  • 帝国内政(モレル関連)
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