幼女戦記 〜旗を高く掲げよ〜   作:猫敷

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閑話:SSの将校や兵から見たターニャ1 前半 『黒服の少佐、廊下の噂』

 

 国家保安本部に配属された兵が最初に覚えることは、廊下の歩き方だった。

 

 大声を出すな。立ち止まるなら壁際へ寄れ。回付箱を抱えた職員の前を横切るな。封筒の封緘が赤なら、相手が誰であれ余計な質問をするな。将校が来たら敬礼する。だが、敬礼の角度よりも先に、自分が何の前に立っているかを確認しろ。

 

 国家保安本部の廊下は、兵営の廊下とは違う。

 

 兵営では怒鳴り声が支配する。中庭では号令が空気を切り、階段では靴音が揃う。失敗すれば誰かが怒鳴り、分からなければ誰かが殴る勢いで教える。単純だ。荒いが、分かりやすい。

 

 だが、ここでは怒鳴り声よりも静かな控えの方が怖い。

 

 壁際の掲示板には当直表と通行区分が貼られ、廊下の角には警備班の立哨位置が細かく決められている。持ち込み許可、立入許可、移送許可、閲覧許可。許可という言葉が多すぎて、新しく来た兵は最初の数日で自分が何を許されているのか分からなくなる。

 

 親衛隊員だから自由に動ける、などという考えは、ここでは三日で死ぬ。

 

 そして、四日目に大抵の者が聞く噂がある。

 

 黒服の少佐に気を付けろ。

 

 それは最初、ただの冗談に聞こえる。黒服、と言われれば古い礼装か、何かの儀礼か、あるいは大げさな象徴としての話だと思う。少佐という階級も、親衛隊の中では珍しいほどではない。ところが、噂にはいつも妙な付け足しがあった。

 

 子供だ。

 

 黒服の少佐は、子供に見える。

 

 だが、誰もそこで笑わない。笑った者がどうなるかという話も、たいてい一緒に付いてくる。怒鳴られた、というなら分かりやすい。殴られた、というなら兵営の延長だ。だが、実際に聞こえてくるのは違った。

 

 署名欄を見られた。

 

 担当者名を聞かれた。

 

 報告書を差し戻された。

 

 警備配置の根拠を三行で説明させられた。

 

 そして翌日、当直表が変わっていた。

 

 若い兵たちは、その話のどこが怖いのか最初は分からない。分からないまま、先輩の下士官に肩を叩かれる。

 

 そのうち分かる、と。

 

 親衛隊曹長エーミール・ロートは、そうした説明を何度もしてきた男だった。年は三十代半ば。戦場帰りというほど武勇を誇る立場ではないが、兵営と本部勤務の両方を知っている。国家保安本部の警備班へ移ってからは、若い兵の顔色を見れば、相手が何を誤解しているかだいたい分かるようになった。

 

 その朝も、ロートは警備室で新しく回された兵たちへ配置の説明をしていた。

 

 相手は三人。親衛隊兵のヘニング、シュトルツ、クラマー。三人とも若い。制服は整っているが、目がまだ兵営のそれだった。つまり、強い相手は声が大きく、偉い相手は体が大きく、怖い相手は怒鳴ると思っている。

 

 国家保安本部では、その認識は半分しか役に立たない。

 

「正面階段は七時から九時まで人の流れが増える。書類室へ向かう職員と、第四局から来る連絡員がぶつかりやすい。立つ位置を一歩引け」

 

 ロートが言うと、ヘニングが頷いた。

 

「通行人の確認は、階級優先ですか」

 

「違う」

 

 ロートは即座に返した。

 

「通行区分だ。階級が上でも、立入許可がなければ止める。止め方は丁寧にしろ。乱暴にすると、こちらが後で面倒を見ることになる」

 

「親衛隊の将校でもですか」

 

「親衛隊の将校だからこそだ」

 

 ヘニングは少し戸惑った顔をした。ロートはそれを見て、やはり最初にそこからかと思った。

 

「ここでは、制服より経路を見る。誰の部屋へ行くか、何の用か、許可はあるか。そこを外すと、後で上から下まで全部が痛む」

 

 シュトルツが小さく眉を動かした。

 

「上から、というのは」

 

「親衛隊全国指導者の名が入る場合もある」

 

 それだけで三人の背筋が伸びた。若い兵でも、その名の重さは知っている。親衛隊全国指導者兼全ドイツ警察長官ヒムラー。その肩書は長いが、長いだけではない。警察も、保安も、親衛隊も、別々の顔をした命令が同じ影から伸びてくることがある。

 

 ロートは言葉を続けた。

 

「長官の名が入った命令は、ただの紙ではない。誰かの机を飛び越える時がある。だからこそ、扱いを間違えるな」

 

 クラマーが喉を鳴らした。

 

「例の黒服の少佐も、長官の――」

 

「そこまでにしろ」

 

 ロートは低く切った。

 

 警備室の空気が一瞬止まる。若い三人が同時に口を閉じた。ロートは声を荒げていない。だが、そういう言い方の方が効くことを知っている。

 

「噂話は食堂でやれ。勤務前にするものではない」

 

「失礼しました」

 

「ただし、知らないまま立つのも危ない。だから必要なことだけ言う」

 

 ロートは机の上に置いた配置表を指で押さえた。

 

「デグレチャフ少佐が通る時、止める必要はない。だが、護衛と随行者の動線は空けろ。近づきすぎるな。見下ろすような態度を取るな。階級を呼ぶ時は一度でいい。珍しそうに見るな」

 

 ヘニングが少しだけ目を丸くした。

 

「珍しそうに、ですか」

 

「そうだ」

 

「そんなことをする者がいるのですか」

 

「いる。たいてい一日目だ」

 

 ロートは淡々と言った。

 

「そして二日目には、別の配置へ移っている」

 

 三人は黙った。冗談ではないと分かったのだろう。

 

 実際、珍しそうに見る者はいる。黒服の例外、幼い外見、少佐の階級、ヒムラーの後ろ盾。どれか一つでも目を引く。全部揃えば、見てしまうのも無理はない。だが、見られる側がそれをどう処理するかは別問題だ。

 

 ターニャ・デグレチャフ少佐は、見られること自体には慣れているように見える。だが、観察と無礼の差には敏感だった。笑った者をその場で怒鳴るような真似は少ない。だが、その兵がどこの配置で、誰の部下で、何時からどの立哨だったかを一度で把握する。翌日、警備配置の控えへ赤い線が入る。理由は「視線管理不適」。若い兵には意味が分からない。上官には意味が分かる。

 

 だから、噂になる。

 

 ロートは配置表を畳んだ。

 

「とにかく、余計なことはするな。挨拶は短く、道は空ける。許可のない者は止める。これだけでいい」

 

「はい」

 

 三人の返事が揃った。兵営のように響きは強い。だが、国家保安本部ではそれも少し大きい。

 

「声量を落とせ」

 

「はい」

 

 今度は低くなった。ロートはそれでよしとした。

 

 警備室を出ると、廊下には既に朝の流れができ始めていた。文書係が小走りで階段を上り、黒い書類鞄を持った将校が反対側から来る。制服は以前の黒一色ではない。日常勤務では、フィールドグレーや新しい制服の方が目立つ。黒服は、いまや特別な意味を持つ。礼装、象徴、例外。簡単に着るものではない。

 

 その例外が、廊下の向こうから現れた。

 

 最初に見えたのは護衛だった。二名。距離を詰めすぎず、しかし離れすぎない。動きが静かだ。兵営の見せるための行進ではない。人の流れを割り、視線を拾い、通路の角を先に見るための歩き方だった。続いてセレブリャコーフ少尉が控えを抱えて歩く。さらにその前、黒服の小さな影が進んでいた。

 

 ターニャだった。

 

 ロートはすぐに姿勢を正した。若い三人も同じように動く。幸い、声は出さなかった。いい判断だ。

 

 ターニャは歩きながら、廊下の左右へ目を動かしている。歩調は速すぎない。だが、遅くもない。周囲が勝手に道を空けるから、結果として真っ直ぐ進める。帽子の下の顔は幼い。背丈も低い。だが、その幼さは廊下へ入った瞬間に役に立たなくなる。彼女の前では、年齢をどう扱えばよいのか誰も分からない。分からないから、結局、階級と権限を見る。

 

 ターニャがロートたちの前を通り過ぎる直前、足を止めた。

 

 若い三人の肩が小さく固まる。ロートは内心で、動くな、と念じた。

 

 ターニャの視線はヘニングの襟元へ向いていた。わずかに襟章の角度がずれている。大きな乱れではない。だが、近くで見れば分かる。

 

「曹長」

 

「はい」

 

 ロートが即座に返す。

 

「新任か」

 

「本日より正面階段側へ立たせます」

 

「そうか」

 

 ターニャはヘニングへ目を向けた。

 

「襟を直せ。ここでは小さな乱れの方が先に見られる」

 

「はい」

 

 ヘニングの声が少し硬い。だが、裏返らなかった。よし、とロートは思った。

 

 ターニャは続けなかった。説教もしない。ただ、セレブリャコーフへ視線を移す。

 

「警備配置の新任名簿を後で確認する」

 

「承知しました。午前中に回します」

 

「頼む」

 

 それだけで、ターニャは再び歩き出した。護衛が後に続く。黒服の小さな背中が廊下の角を曲がり、足音が遠ざかる。

 

 数秒してから、若い三人が息を吐いた。ロートはその反応を見て、少しだけ呆れた。

 

「今ので済んでよかったな」

 

 ヘニングは慌てて襟元を直した。

 

「……思ったより、声が静かでした」

 

「静かな声ほど聞き逃すな」

 

「はい」

 

 シュトルツが小さく言った。

 

「本当に、子供に見えますね」

 

 ロートはすぐに睨んだ。だが、シュトルツの声には嘲りではなく、困惑があった。ならば、一度だけ説明してもいい。

 

「見えるだけだ」

 

「はい」

 

「見た目で判断するな。あの少佐は、たぶんお前たちが思っているよりずっとこちらを見ている」

 

 実際、そうだった。ターニャは廊下をただ通るだけでも、壁の掲示、立哨位置、通行の詰まり、兵の襟元、職員の抱えた箱の重さまで見ているように思える。何も言わず通り過ぎる時もある。だが、何も見ていないのではない。言う必要がないから言わないだけだ。

 

 それが分かるようになると、余計に怖い。

 

 午前の中頃、ロートは警備班の控え室で配置表の修正をしていた。正面階段の人の流れが朝の想定より早く増えたため、二階の踊り場へ一名ずらす必要があった。普通なら当直将校の判断で済む。だが、今日はターニャが新任名簿を見ると言っていた。ならば、動かした理由を残しておくべきだ。

 

 親衛隊兵からすれば面倒だ。だが、理由を残しておくと、後で問われた時に救われる。

 

 ロートは配置表の端に短く書いた。

 

 八時四十分、二階踊り場通行量増。正面階段側から一名移動。対象、クラマー。理由、回付箱持参者との接触防止。

 

 こう書いておけば、少なくとも「なぜ勝手に動かした」とは言われない。

 

 扉が開き、親衛隊中尉ヨハン・グライナーが入ってきた。警備班の上に立つ将校の一人で、年齢は四十前。声は低く、無駄な怒鳴りを嫌う。ロートにとってはやりやすい上官だった。

 

「曹長、朝の新任はどうだ」

 

「一名、襟の乱れを少佐に指摘されました」

 

「もうか」

 

「はい。ただ、注意だけで済んでいます」

 

 グライナーは机の端へ手袋を置いた。

 

「なら幸運だな」

 

「本人にもそう言っておきます」

 

 グライナーは配置表を覗き込む。

 

「二階へ一名動かしたのか」

 

「通行量が増えました。回付箱を抱えた職員と接触しかけています」

 

「理由は書いたな」

 

「はい」

 

「よろしい」

 

 その一言だけで、ロートは少し安心した。ここでは、正しい判断でも理由がなければ弱い。理由のない善処は、後で責任逃れと区別が付かなくなる。そういう場所だ。

 

 グライナーは椅子へ座らず、立ったまま言った。

 

「デグレチャフ少佐が午後に警備配置の控えを見る。新任名簿も一緒だ」

 

「承知しています」

 

「曹長、お前から見てどうだ」

 

「若い兵には、まだ少し緊張が強いです。ただ、軽く見ている者はいません」

 

「軽く見ないなら、まずはいい」

 

 グライナーは廊下の方へ目を向けた。

 

「最初に来た頃は、そうでもなかった」

 

 ロートはその話を聞いたことがある。ターニャが今ほど本部内で知られていなかった頃、見た目で侮った者が何人かいた。直接の処罰ではない。だが、その後の配置、報告、当直の組み替えを見れば、上がどう見たかは分かる。笑った者ほど、細かい仕事で自分の首を絞めることになった。

 

「今は違います」

 

 ロートが言うと、グライナーは頷いた。

 

「今は、誰も笑わん」

 

 その言葉には、少しだけ別の感情が混じっていた。恐怖だけではない。評価とも違う。強いて言えば、理解できないものを理解できないまま扱うための警戒だ。

 

 グライナーは国家保安本部に来る前、別の親衛隊部署で勤務していた。そこでは権力はもっと直接的だった。声の大きさ、肩書、隊列、儀礼。そうした分かりやすいものが、少なくとも表面上は機能していた。だが、ターニャは違う。小柄で、声を張らず、怒鳴りもしない。なのに、周囲が先に道を空ける。

 

 それは、彼女の背後にヒムラーの影があるからだけではない。

 

 確かに、親衛隊全国指導者の目に留まった者というだけで、十分に特別だ。しかも、国家保安本部付の調整官として、警察や保安の文書に触れる。護衛も付き、黒服の例外まで許されている。その外形だけでも、若い兵には圧になる。

 

 しかし、本当に厄介なのは、その外形に中身が追いついていることだった。

 

 ターニャは、ただの飾りではなかった。

 

 彼女は警備配置を見れば、人の流れと死角を指摘する。護衛増員案を見れば、危険情報の根拠を区別しろと言う。新人兵の襟元を見れば、そこから新任名簿の確認へ繋げる。何か一つを見ると、その奥の手順へ入ってくる。

 

 グライナーは、それを怖いと思う。

 

 そして、同時に、羨ましいとも少しだけ思う。若さへの羨望ではない。権限への羨望でもない。あれほど迷いなく、必要と不要を切り分けられる頭への感情だった。

 

「少佐は、今日も午後に本部長階へ上がるのですか」

 

 ロートが問うと、グライナーは首を振った。

 

「いや。今日は警備と記録室の確認だけだ。ただし、ハイドリヒの名前が絡む控えも見るらしい」

 

「国家保安本部長官の」

 

「そうだ。あの辺りは近づきすぎるな。警備班は廊下を空けるだけでいい」

 

「はい」

 

 グライナーは手袋を取り、扉へ向かった。

 

「新任に言っておけ。デグレチャフ少佐を見る時は、顔ではなく手を見ろ」

 

「手ですか」

 

「何を持っているか、どの控えを押さえているか、誰に渡すかだ。顔を見ても分からん」

 

 それだけ言って、彼は出ていった。

 

 ロートは少し考えた。顔ではなく手を見る。なるほど、と思った。

 

 ターニャの顔は異様だ。幼く、冷静で、年齢と役割が合っていない。そこへ目を奪われると、肝心の動きが見えなくなる。彼女が何を持ち、何を置き、誰へ渡すか。そこを見る方が、よほど実態が分かる。

 

 午後前、警備班の詰所では兵たちが昼前の交代準備をしていた。朝より空気は少し緩い。だが、完全には緩まない。国家保安本部の中で、気を抜いてよい時間などほとんどない。

 

 ヘニングが襟元を何度も触っている。ロートは見て見ぬふりをした。気にしすぎているが、最初はそのくらいでいい。

 

「曹長」

 

 クラマーが控えめに声を掛けた。

 

「何だ」

 

「デグレチャフ少佐は、戦場へ出る方なのですか」

 

 ロートは少しだけ答えに詰まった。

 

 戦場。若い兵にとって、戦場とは銃声と砲声の場所だ。泥と血と命令が目に見える場所だ。だが、ターニャの戦場は違う。彼女がいるのは、会議室、記録室、署名欄、回付箱の前。そこで人を動かし、手順を変え、部署の言い逃れを塞ぐ。

 

 それをどう説明するか。

 

「前線の将校ではない」

 

 ロートは言った。

 

「だが、戦場を知らない人間とも違う」

 

「では、何を」

 

「命令の通り道を見る人だ」

 

 クラマーは少し首を傾げた。

 

「通り道、ですか」

 

「命令は書けば終わりじゃない。誰が受けるか、どこで止まるか、誰が責任を持つか。そこを見ている」

 

「それは、将校の仕事ですか」

 

「ここでは、かなり重要な仕事だ」

 

 ロートはそう答えながら、自分でも少し奇妙な説明だと思った。だが、間違ってはいない。ターニャは前線で銃を撃つ将校ではない。少なくとも、今の彼女はそうではない。だが、命令の形を変え、配置を動かし、資源の流れを揃える。それはそれで、別種の戦場だった。

 

 若い兵にそこまで分かるかどうかは別だが。

 

 昼近くになり、国家保安本部内の人の流れが一度変わった。食堂へ向かう者、外部との面談へ出る者、午後の控えを運ぶ者。廊下の角で一瞬だけ混み合い、ロートはクラマーへ手で合図した。二階踊り場へ動かす。朝の配置変更が役に立った。

 

 そこへ、ターニャがまた現れた。

 

 今度は朝より足取りが少し速い。セレブリャコーフが横に付き、薄い青い紐で括った控えを持っている。護衛は一名増えていた。朝と違う。つまり、午前中に何か警戒度を上げる理由が入ったのだろう。ロートはそこへ目を留めたが、顔には出さない。

 

 ターニャは角の混雑を見て、即座に立ち止まった。

 

「そこは詰まる」

 

 短い一言だった。

 

 クラマーが動こうとしたが、ロートが先に手を上げた。

 

「こちらで流します」

 

 ターニャは頷く。

 

「階段側の職員を先に通せ。箱を抱えた者を止めるな」

 

「はい」

 

 ロートが合図を出す。ヘニングとシュトルツが片側を開け、クラマーが二階踊り場から降りる職員を一度止める。数秒で流れが戻った。

 

 ターニャはその様子を見ていた。褒めはしない。だが、余計な指摘もしない。

 

「朝の配置変更はお前か」

 

 ロートへ向けた言葉だった。

 

「はい。通行量が増えたため、一名を二階へ動かしました。理由は控えに記載しています」

 

「よろしい」

 

 その一言だけだった。

 

 だが、ロートは背筋に妙な緊張が走るのを感じた。叱られたわけではない。むしろ認められたに近い。なのに、軍で上官から褒められる時とはまったく違う感覚があった。

 

 よろしい。

 

 たったそれだけで、朝の判断が後から文書に耐える形になった気がする。そう感じてしまうこと自体、彼女の持つ権限の異様さなのかもしれない。

 

 ターニャは続けて、ヘニングへ目を向けた。

 

「襟は直っている」

 

「はい」

 

「次は視線だ。見るなら相手の顔ではなく、手元と動線を見ろ」

 

 ヘニングが一瞬だけ驚いた顔をした。朝、グライナーが言っていたことと同じだ。いや、順序が逆なのかもしれない。グライナーも、ターニャを見てそれを学んだのだろう。

 

「はい」

 

「よろしい」

 

 ターニャはそれ以上言わず、再び歩き出した。

 

 黒服の背中が通路の奥へ消えていく。若い兵たちは、今度は息を吐かなかった。少し慣れたのか、それとも息を吐く余裕もなかったのか。どちらにせよ、朝よりはましだ。

 

 ロートは配置へ戻りながら思った。

 

 兵から見たターニャは、恐怖だけではない。

 

 もちろん怖い。彼女の背後には、親衛隊長官の権力がある。国家保安本部の文書室がある。警察と保安の経路がある。小さな一言が、翌日の配置表や任務分担へ反映されることもある。普通の将校に叱られるのとは違う。彼女に見られると、自分の失敗が感情ではなく記録になる。

 

 それは怖い。

 

 だが、同時に、彼女は理不尽ではなかった。少なくとも、ロートが見た範囲では、気分で兵を潰す人間ではない。理由があれば聞く。手順が通っていれば通す。危ないところは指摘するが、直っていればそれ以上追わない。

 

 それが余計に異様だった。

 

 権力を持つ者は、もっと無駄に振り回すものだ。若い兵たちはそう思っているし、実際にそういう将校もいる。だが、ターニャは権力を刃物のように扱う。抜きっぱなしにはしない。必要な時だけ出し、使い終えれば鞘へ戻す。だから、次に抜く時が怖い。

 

 午後の交代が一段落した頃、グライナー中尉が戻ってきた。手には薄い控えがある。

 

「曹長」

 

「はい」

 

「少佐から警備配置について補足が入った」

 

 ロートは内心で身構えた。

 

「不備でしょうか」

 

「不備ではない。二階踊り場の人員を、午後の一時間だけ正式に増やす。理由は通行量と回付箱の接触防止」

 

 グライナーは控えを見せた。そこにはターニャの手が入った短い文言があった。必要最低限だが、理由は明確だった。

 

「朝の判断が、そのまま運用になった」

 

 ロートは一瞬だけ黙った。

 

「……そうですか」

 

「ああ」

 

 グライナーは控えを畳む。

 

「だから言っただろう。あの少佐は、見ている」

 

 ロートは頷いた。

 

「はい」

 

「兵にも伝えろ。正しい判断なら、記録に残せ。残せば使われる」

 

「承知しました」

 

 それは、兵にとって悪い話ではない。国家保安本部では、記録に残ることは必ずしも処罰だけを意味しない。正しい動きも、残れば次の運用になる。そう考えると、ターニャの視線はただの監視ではなく、ある種の制度化でもあった。

 

 もっとも、若い兵にそう説明しても難しいだろう。

 

 だからロートは、もっと簡単な言葉で伝えることにした。

 

 午後の配置前、彼は三人を呼んだ。

 

「朝の配置変更が正式に入った」

 

 ヘニングが驚いた顔をする。

 

「正式に、ですか」

 

「そうだ。二階踊り場の増員だ。理由も残る」

 

「少佐が?」

 

「そうだ」

 

 クラマーが小さく息を呑んだ。

 

「怒られたわけではないのですね」

 

「怒られるだけが上から見られることではない」

 

 ロートはそう言ってから、少し考えた。

 

「いいか。あの少佐は、怖い。だが、見ているのは失敗だけではない。使えるものも見る。だから、動いた理由を残せ。後で自分を守る」

 

 三人は真剣に聞いていた。朝とは違う顔だ。噂としての黒服の少佐ではなく、実際に自分たちの配置へ影響を与える存在として、ターニャを理解し始めている。

 

 それでいい。

 

 ロートはそう思った。

 

 兵にとって、将校は遠い存在である。しかも、ターニャのような立場ならなおさらだ。ヒムラーの名、国家保安本部、黒服、護衛、書類、署名欄。全部が遠い。だが、二階踊り場の配置変更という形になれば、急に近くなる。自分の立つ場所を変える人間として認識できる。

 

 恐怖も尊敬も、そこからしか始まらない。

 

 夕方に近づく頃、国家保安本部の廊下は再び忙しくなった。昼間に外へ出ていた者が戻り、午後の照会が返り、夕方までに出すべき控えが急に増える。警備班にとっても油断ならない時間帯だ。朝の通勤とは違う。夕方の人間は疲れている。疲れている人間は、手元も足元も甘くなる。

 

 その時間帯に、ターニャは三度目に通った。

 

 今度は一人ではない。セレブリャコーフのほか、EVAも後ろにいた。EVAは無言だった。薄い灰色のファイルを抱え、視線をほとんど動かさない。彼女が通る時、廊下の空気が少し別の形で冷える。ターニャとは違う。ターニャは見る。EVAは、見ているのか見ていないのか分からないまま、何かを持っていく。

 

 若い兵たちは、今度こそ余計な視線を向けなかった。手元と動線を見る。朝の指摘が効いている。

 

 ターニャはそれを一瞥しただけで通り過ぎた。何も言わない。だが、ロートにはそれで十分だった。

 

 何も言われないことが、ここでは一番の合格である場合もある。

 

 その日の終わり、警備班の詰所でロートが当直記録を締めていると、グライナーが最後に一言だけ言った。

 

「曹長、今日の新任は持ちそうか」

 

「はい。最初よりは」

 

「少佐を見て逃げないなら、まずはいい」

 

「逃げるほどではありません。ただ、かなり緊張はしています」

 

「緊張する相手だ。正常だな」

 

 グライナーは窓の外を見た。夕方の光は薄く、建物の外壁を鈍く照らしている。

 

「私も、最初はそうだった」

 

「中尉もですか」

 

「当然だ」

 

 グライナーはあっさり言った。

 

「あんなものを最初から平然と見られる方がおかしい」

 

 ロートは少しだけ笑いそうになったが、こらえた。

 

「今は」

 

「今も平然とはしていない。ただ、扱い方は少し分かった」

 

「どのように」

 

 グライナーは少し考えた。

 

「階級ではなく、流れを見る相手だと思えばいい。あの少佐は、自分が偉いから従えとはあまり言わん。だが、流れを示してくる。ここが詰まる。ここが曖昧だ。ここに署名がない。そう言われると、こちらは従うしかない」

 

「確かに」

 

「だから怖い」

 

 グライナーの声は低かった。

 

「権力だけなら、反感を持てばいい。だが、筋が通っている権力は面倒だ。反発するには、こちらも筋を持たなければならない」

 

 ロートは当直記録の紐を結んだ。

 

「兵には、難しい話です」

 

「だろうな」

 

「ですが、分かるところから覚えます」

 

「そうだ。まずは襟と視線だ」

 

 その言い方が妙に可笑しく、今度はロートも少しだけ口元を緩めた。

 

 ターニャは、親衛隊の将校や兵から見れば、単に恐れられる存在ではなかった。もちろん、恐れはある。黒服の例外。親衛隊長官の影。国家保安本部の権限。幼い外見と、そこに似合わない判断の冷たさ。噂だけで人を黙らせるには十分な材料が揃っている。

 

 だが、廊下で彼女を見る者ほど、恐怖だけでは片付かないことを知る。

 

 彼女は、兵の襟を見る。通路の詰まりを見る。配置表の理由を見る。護衛の距離を見る。書類を抱えた職員の足取りを見る。そこから必要な線を引く。

 

 その線が、翌日の配置へ変わる。

 

 だから兵は、黒服の少佐をただの噂としてではなく、自分たちの立つ場所を変える存在として覚えていく。

 

 そしてその時、誰も笑わなくなる。

 

 笑えるほど、遠い存在ではなくなるからだ。

 

 

 その認識が、さらに少し変わったのは、その日の勤務が終わる直前だった。

 

 夕方の廊下は、昼の張り詰めた流れとは違っていた。人の足取りがわずかに乱れ、抱えた控えの位置が低くなる。朝は胸の前できちんと持たれていた封筒も、夕刻になると肘へ寄る。疲れは姿勢に出る。兵でも職員でも、それは変わらない。

 

 ロートは詰所の入口で当直交代の確認をしていた。ヘニング、シュトルツ、クラマーの三人は、ようやく本部の廊下に慣れ始めたところだった。慣れた、と言っても、声を落とすことを覚え、通行人の顔ではなく手元を見るようになり、封筒の色で不用意に道を塞がない程度だ。だが、最初の一日としては上出来だった。

 

 そこへ、研究棟側の通路から妙な声が響いた。

 

「少佐殿、待ちたまえ。これは歴史が扉を叩いている音だ」

 

 ロートは顔を上げた。

 

 廊下の向こうから、白衣ではないが白衣の幻が見えそうな男が歩いてくる。ドクトルだった。片腕に封筒を抱え、もう片方の手で大げさに空中へ何かを描くような仕草をしている。その前を、ターニャが歩いていた。

 

 ターニャは足を止めなかった。

 

「その扉は私の机ではない。別の場所へ持っていけ」

 

「つれないな。君の机は現実へ通じる門だ」

 

「詩を読むな。要件を持て」

 

「要件ならここにある」

 

「では、手を振るな。落とすぞ」

 

 ドクトルは抱えていた封筒を少し持ち直した。たしかに、片方の角が危なかった。見ていたクラマーが小さく息を呑む。封筒が落ちれば中身が散る。中身が散れば、誰かが拾う。誰かが拾えば、控えの順番が狂う。それはこの廊下では小さな事故では済まない。

 

 だが、ターニャは怒鳴らなかった。ただ、歩きながら横目で一度だけドクトルを見た。その顔は、朝に兵の襟元を見た時のものとは違った。冷たいというより、疲れた人間が何度も同じ戸棚を閉め直しているような顔だった。

 

 ヘニングがその表情を見て、思わず眉を動かした。

 

 怖い少佐、という噂の中にはなかった顔だ。

 

 ドクトルは少しも悪びれず、ターニャの横へ並びかけようとする。護衛の一人がわずかに位置を動かした。制止ではない。ただ、距離を測っている。

 

「私は昨日、かなり譲歩したのだよ。研究者としては、身を切る思いだった」

 

「削ったのは余白と装飾だ。身ではない」

 

「君は夢を削る時、ためらいがない」

 

「夢なら寝て見ろ」

 

「研究者は起きて夢を見る」

 

「それで現場が寝不足になる」

 

 ドクトルが楽しそうに笑った。

 

「見事な返しだ、少佐殿」

 

「殿を付けるな」

 

「では少佐」

 

「用件」

 

「研究資材の照合窓口について、追加で二点だけ」

 

「二点と言ったな」

 

「三点に増える可能性はある」

 

 ターニャはそこで立ち止まった。

 

 廊下の空気がぴたりと止まる。ロートは若い三人へ目だけで合図した。動くな。余計な視線を向けるな。だが、見るなと言っても見てしまう。ドクトルとターニャのやり取りは、兵が想像していた「親衛隊の権限」や「国家保安本部の恐怖」と少し違っていた。

 

 ターニャはドクトルを見上げた。体格差だけなら、大人と子供だ。だが、ドクトルの方が言い訳を探しているように見えるのだから奇妙だった。

 

「ドクトル」

 

「何だね」

 

「二点と言ったなら二点にしろ。三点目は明日の自分に押しつけろ」

 

「明日の私は今日の私より忙しい」

 

「今日の私も忙しい」

 

「知っているとも。だから廊下で済ませようとしている」

 

「廊下で研究方針を広げるな」

 

 ターニャの声は低いが、完全に冷えてはいない。呆れている。かなり呆れている。それは兵にも分かった。ヘニングは、少佐もあんな顔をするのか、という顔をしていた。ロートは咳払いをしたくなったが、こらえた。

 

 ドクトルは封筒から一枚だけ抜き出そうとして、危うく別の控えまで引っ張り出しかけた。

 

「待て」

 

 ターニャが即座に言った。

 

 ドクトルの手が止まる。

 

「そこでは抜くな。机へ置いてからだ」

 

「少佐、私はそこまで不器用ではない」

 

「昨日、試験成績表の間に昼食の包み紙を挟んでいた男の言葉とは思えない」

 

「それは分類上、同じ机にあっただけだ」

 

「同じ机にあったものを全部一緒にするな」

 

 セレブリャコーフが横で静かに視線を落とした。笑ってはいない。だが、明らかに聞き覚えのある話なのだろう。

 

 シュトルツが口元を引き締めた。笑ってはいけないと分かっている顔だ。ロートはその横顔を見て、少しだけ同情した。確かに、笑うなという方が難しい。

 

 ドクトルは胸を張った。

 

「研究室には研究室の秩序がある」

 

「床が見えるか」

 

「場所による」

 

「答えになっていない」

 

「見える場所もある」

 

「それは床ではなく通路だろう」

 

 今度こそ、クラマーが小さく肩を震わせた。ロートはすかさず横目で止める。クラマーは姿勢を戻した。だが、廊下の空気は朝よりほんの少し柔らかかった。

 

 ターニャはその反応に気付いたのか、兵たちの方へちらりと目を向けた。クラマーの肩が固まる。しかし、ターニャは叱らなかった。ドクトルへ向き直る。

 

「見世物にするな」

 

「私のせいか」

 

「お前のせいだ」

 

「手厳しい」

 

「現実だ」

 

 その言い方に、ロートは妙なものを感じた。普段のターニャは、人前ではもう少し線を引く。会話も判断も短く、相手に隙を見せない。だが、ドクトル相手には少し違う。鬱陶しがっている。確かに鬱陶しがっているのに、完全には追い払わない。ため息をつきながら、相手の封筒の持ち方まで注意している。

 

 それは、怖い少佐の噂には含まれていなかった種類の姿だった。

 

 グライナー中尉も、少し離れた場所からその場面を見ていた。彼は歩み寄ることなく、壁際で止まる。親衛隊の将校として、いま割って入るべきではないと判断したのだろう。

 

 ドクトルはようやく封筒を抱え直した。

 

「では、机で話そう。君の机で」

 

「私の休憩を侵食した次は、机か」

 

「休憩室よりは正式だ」

 

「正式に迷惑だ」

 

「迷惑も文書化すれば業務になる」

 

「するな」

 

 ターニャは今度こそはっきりため息をついた。

 

 それは深く、疲れたため息だった。だが、その顔にはわずかな諦めと、ほんの少しだけ人間らしい緩みがあった。怒っているというより、また来たか、と受け止めている顔だ。

 

「少尉」

 

「はい」

 

「十分だけ取る。十分を超えたら、ドクトルから三枚削れ」

 

「承知しました」

 

 セレブリャコーフの返事は平然としていた。

 

 ドクトルが慌てる。

 

「待ちたまえ。三枚とは何の三枚だ」

 

「お前の持っている案の三枚だ」

 

「それは痛い」

 

「なら十分で済ませろ」

 

「研究には呼吸が必要だ」

 

「換気なら窓を開けろ」

 

 ロートは、若い兵たちが今度こそ危ないと思った。ヘニングが完全に口を結んでいる。シュトルツは視線を床へ落としている。クラマーは耳まで赤くなっている。笑ってはいけない場面で笑いを我慢することほど、若い兵には難しいものはない。

 

 だが、ターニャは彼らを責めなかった。むしろ、自分でも少しだけ呆れ顔のまま、ドクトルを先に歩かせた。

 

「先に行け。歩きながら手を振るな」

 

「私はそこまで子供ではない」

 

「子供の方が言うことを聞く」

 

「ひどいな」

 

「事実だ」

 

 ドクトルは何か言い返そうとしたが、セレブリャコーフが静かに封筒の角を見た。

 

「博士、右側が開きかけています」

 

「む」

 

 ドクトルは今度こそ大人しく封筒を抱えた。

 

 ターニャは目を細める。

 

「ほら見ろ」

 

「今のは封筒が悪い」

 

「封筒に責任を押しつけるな」

 

 そう言って、ターニャたちは廊下の奥へ向かった。護衛が後に続き、EVAはいない。今回は単なる研究絡みの押しかけらしい。単なる、というには周囲の緊張を奪う力がありすぎるが。

 

 黒服の背中が角を曲がった後、廊下に残された兵たちは、しばらく黙っていた。

 

 最初に口を開いたのはヘニングだった。

 

「……少佐も、ああいう顔をされるのですね」

 

 ロートは少し考えてから答えた。

 

「人間だからな」

 

 言ってから、自分でも妙な返答だと思った。だが、今日見たものを説明するには、それが一番近かった。

 

 クラマーが恐る恐る言う。

 

「怒っているのとは、違いました」

 

「呆れていたな」

 

 シュトルツが低く言った。

 

「ですが、追い返しませんでした」

 

「追い返していないだけで、歓迎はしていない」

 

 ロートが言うと、三人は少しだけ納得したような顔になった。

 

 グライナーが近づいてきた。

 

「今日見たことは、食堂で面白おかしく喋るな」

 

「はい」

 

 三人がそろって返事をする。

 

 グライナーは続けた。

 

「ただ、覚えておけ。あの少佐は、誰にでも同じ顔を見せるわけではない」

 

「はい」

 

「ドクトル相手のあれは、例外に近い。だからといって軽く見るな。むしろ、ああいう相手にも最後は要件へ落とす」

 

 ロートはその言葉に頷いた。

 

 確かにそうだった。ドクトルは大げさに話し、封筒を危うく落とし、廊下で研究の未来を語りかけていた。ターニャはうんざりしていた。兵から見ても分かるほどにうんざりしていた。それでも最後には、時間を切り、枚数を削る条件を出し、机へ移した。

 

 追い払うより、処理する。

 

 それがターニャのやり方なのだろう。

 

 ヘニングが襟元を一度だけ触った。今度は乱れを気にしたのではない。ただ、何かを落ち着かせるような仕草だった。

 

「黒服の少佐は怖いだけだと思っていました」

 

「怖いぞ」

 

 グライナーが即答した。

 

「そこは間違えるな」

 

「はい」

 

「だが、怖さにも種類がある。怒鳴る怖さ、殴る怖さ、黙って記録する怖さ。それから、面倒な相手を見捨てずに処理してしまう怖さもある」

 

 若い兵たちは、その最後の意味をすぐには掴めなかったかもしれない。だが、ロートには少し分かった。

 

 処理してしまう怖さ。

 

 相手がドクトルだろうが、軍の将校だろうが、親衛隊の兵だろうが、書類を抱えた職員だろうが、ターニャは最後には何らかの形へ落とす。注意、差し戻し、確認、配置変更、時間制限、枚数削減。彼女の周囲にいると、人間の行動が少しずつ欄へ変わっていく。

 

 その中で、ふと人間らしい呆れ顔が見える。

 

 だから余計に、兵たちは彼女をどう扱えばいいのか迷うのだ。

 

 怖いだけなら簡単だった。嫌うだけならもっと簡単だった。だが、廊下でため息をつきながらドクトルの封筒を気にし、鬱陶しそうにしながらも十分だけ相手にする姿を見てしまうと、噂の黒服の少佐は少しだけ違う形になる。

 

 遠くの権力ではなく、同じ廊下を歩く上官になる。

 

 それは兵にとって、単純な恐怖よりも扱いが難しかった。

 

 しばらくして、廊下の奥からまた声が聞こえた。

 

「少佐、これは削るべきではない。研究の心臓だ」

 

「なら心臓を三行で書け」

 

「無茶を言う」

 

「命が惜しければ縮めろ」

 

「私の命ではなく案の命だ」

 

「同じだ」

 

 声だけが廊下へ漏れてくる。ロートは思わず目を閉じた。若い兵たちがまた笑いを堪えている気配がする。グライナーも、今度は少しだけ口元を引いた。

 

「……聞こえないことにしろ」

 

「はい」

 

 兵たちは返事をした。

 

 国家保安本部の廊下には、恐怖だけがあるわけではない。時々、こういう妙に間の抜けた声も響く。ただし、それもまた、この建物の中ではすぐに文書へ吸い込まれていくのだろう。

 

 十分後、ドクトルは本当に三枚ほど案を減らされたらしく、少し不満そうな顔で戻ってきた。

 

 その後ろからターニャが出てきた。疲れた顔だった。はっきり言えば、かなり呆れた顔だった。だが、手元には薄くなった封筒が一つある。ドクトルから削り取ったものではなく、使える部分だけを抜いたのだろう。

 

 ロートたちの前を通る時、ドクトルが楽しげに言った。

 

「諸君、研究は犠牲を伴う」

 

 ターニャがすぐに返した。

 

「犠牲になったのは余白だ」

 

「余白は精神の庭だ」

 

「雑草だ」

 

 ドクトルは大げさに肩を落とした。ターニャは完全に呆れた顔で前を向いている。

 

 若い兵たちは、今度は笑わなかった。

 

 ただ、少しだけ、黒服の少佐を見る目が変わっていた。怖いものを見る目ではある。だが、それだけではない。あの小さな背中が、面倒な研究者を引きずりながらも、必要な部分だけを拾って進んでいることを、彼らは見てしまった。

 

 ロートはその変化を見て、これも教育の一つだと思った。

 

 国家保安本部では、上官の怖さも、兵の緊張も、研究者の大げさな言葉も、すべて廊下で少しずつ混ざっていく。そして、そうしたものの中心を、黒服の少佐がため息をつきながら通り過ぎていく。

 

 それがこの場所の日常なのだと、兵たちは少しずつ覚えていく。

 

次に読みたい展開はどちらですか?(※構成上、前後する可能性あり)

  • イギリス戦方面
  • 帝国内政(モレル関連)
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