幼女戦記 〜旗を高く掲げよ〜   作:猫敷

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閑話:SSの将校や兵から見たターニャ1 後半 『薄くなった封筒、夜番の記憶』

 

 それがこの場所の日常なのだと、兵たちは少しずつ覚えていく。

 

 ただし、日常という言葉には罠がある。慣れてしまえば、異様なものも異様に見えなくなる。黒服の少佐が廊下を通り、研究者が大げさに嘆き、副官が静かに控えを抱え、護衛が一定の距離を保つ。それを一日に何度も見れば、人はどうしても、そういうものだと思い始める。

 

 ロートは、そこが危ういと知っていた。

 

 国家保安本部では、慣れは油断に変わりやすい。油断は手元に出る。手元に出た乱れは、誰かの目に入り、やがて記録に残る。兵にとって、それは靴紐の緩みや敬礼の遅れだけではない。誰を通したか。誰を止めなかったか。どの封筒を先に通したか。そういう些細な順番の積み重ねで、人は後から責められる。

 

 夕刻の交代前、ロートは新任三人を詰所へ戻した。

 

 室内には湯気の消えかけたカップが三つあり、壁際の棚には当直用の腕章が並んでいる。外の廊下ではまだ人が動いていたが、詰所の中だけは一段落していた。窓の外は薄暗く、向かいの建物の壁に灯りが点き始めている。

 

 ヘニングは自分の襟元をもう触っていなかった。朝から何度も直したせいか、ようやく形が決まったらしい。シュトルツは配置表を見ながら、二階踊り場の追加人員の時間帯を確認している。クラマーは昼に比べると顔色が落ち着いていたが、まだ時折廊下の方へ視線を向ける。

 

 ロートは机の上へ当直記録を置いた。

 

「今日の分を確認する」

 

 三人が背筋を伸ばす。

 

「まず、正面階段。朝の混雑は想定より早く出た。クラマーを二階へ動かした判断は正しい。だが、次からは動かす前に、近くの職員の手荷物を見る。箱を抱えている者が多い時と、封筒だけの時では詰まり方が違う」

 

「はい」

 

「ヘニング。襟の件はもういい。直した後まで気にするな。気にしすぎると、目が前へ行かなくなる」

 

「はい」

 

「シュトルツ。笑いをこらえるなら、肩でこらえるな。顔より先に肩が動く」

 

 シュトルツが一瞬だけ固まった。

 

「申し訳ありません」

 

「謝るほどではない。だが、廊下では見られる側だと忘れるな」

 

「はい」

 

 ロートはそこで少し間を置いた。

 

「そして、今日のドクトルの件だ」

 

 三人の空気がわずかに変わる。やはり印象に残っているらしい。

 

「面白かったと思うか」

 

 誰も答えなかった。

 

「正直でいい」

 

 クラマーが恐る恐る口を開く。

 

「……少しだけ、そう思いました」

 

「そうだろうな」

 

 ロートは頷いた。

 

「だが、あれをただの面白い光景だと思うな。あの博士が持っていたのは、研究部門の控えだ。少佐はそれを廊下で広げさせなかった。封筒の角も見ていた。話はしていたが、手元は見ていた」

 

 ヘニングが目を伏せる。

 

「封筒が落ちれば、問題になりますか」

 

「中身による。だが、問題になると思って動け」

 

「はい」

 

「それと、少佐が笑わせていたわけではない」

 

 ロートは言葉を切った。

 

「少佐は、疲れていた」

 

 三人が少し驚いた顔をした。

 

「分かりにくいだろうが、あれは疲れている顔だ。だからといって、こちらが気を抜いていい理由にはならない。むしろ逆だ。疲れている時ほど、人は余計なものを切り落とす」

 

 シュトルツが小さく頷いた。

 

「少佐は、博士を怒っていたのでしょうか」

 

「怒っていたというより、うんざりしていた」

 

 ロートはそう言って、自分でも少し口調が柔らかくなったのを感じた。

 

「だが、相手はしていた。そこを見ろ。追い返せば楽だ。だが、必要な話なら拾う。不要なところは削る。そういう相手だ」

 

 若い兵たちは黙って聞いている。

 

 そこへ扉が開いた。

 

 入ってきたのはグライナー中尉だった。外套を片腕に掛け、もう片方の手に薄い板紙の挟みを持っている。表情はいつも通りだったが、目元に少しだけ疲れが見えた。

 

「曹長、夕刻配置の修正版だ」

 

「ありがとうございます」

 

 ロートは受け取り、中身を確認した。正面階段と二階踊り場の人員補正。それに、研究棟側通路の一時的な監視強化が入っている。

 

「研究棟側ですか」

 

「ドクトルがまた何か動かしたらしい。少佐の机から戻された控えが、研究棟へ行って、そこからまた倉庫へ回る」

 

「またですか」

 

「まただ」

 

 グライナーはそれ以上説明しなかった。説明しなくても、ロートには分かった。ドクトルの大げさな提案がターニャの手で薄くされ、使える部分だけが残り、それが今度は別の部署を動かしているのだろう。

 

 クラマーが思わず呟いた。

 

「三枚削られた案ですか」

 

 言ってから、しまった、という顔になる。

 

 グライナーは彼を見た。怒鳴りはしなかった。

 

「聞こえていたのか」

 

「申し訳ありません」

 

「謝る前に、聞いた内容を外で言うな。廊下で聞こえた冗談でも、元は機密に触れる場合がある」

 

「はい」

 

「ただし、覚えるところは覚えろ。博士の言い方に気を取られるな。少佐が何を残したかを見ろ」

 

 グライナーは挟みの端を指で叩いた。

 

「研究棟側通路の警備が一時間だけ増える。つまり、削った後でも動かす価値がある中身が残ったということだ」

 

 ヘニングが小さく息を呑んだ。

 

「では、少佐が通したのですか」

 

「通した、というより、使える形へ直したんだろう」

 

 グライナーは椅子へ腰を下ろさず、壁際に立ったまま続けた。

 

「お前たちは今日、偶然いいものを見た。黒服の少佐が怖いのは、親衛隊長官の後ろ盾があるからだけではない。厄介なものを、そのまま厄介なままでは終わらせないからだ」

 

 ロートはその言葉を聞きながら、昼間の光景を思い出していた。ドクトルの封筒。ターニャの呆れ顔。セレブリャコーフの平然とした「三枚削れ」。若い兵たちのこらえた笑い。

 

 あれは、たしかにほのぼのとして見えたかもしれない。

 

 だが、結果として配置が動いている。

 

 この建物では、和やかな会話も最後には警備表へ姿を変える。そこが国家保安本部らしかった。

 

 夕刻の配置が始まった。

 

 研究棟側通路は、昼間より人の流れが少ない。その分、通る者の顔ぶれが限られる。白衣に近い上着を着た技術者、書類鞄を持った研究員、警備の立入許可を掲げる倉庫係、そして時折、親衛隊の将校。

 

 ロートはヘニングとクラマーをそこへ回した。シュトルツは正面階段側へ残す。グライナーは全体を巡回する。夕方の一時間だけとはいえ、配置変更には意味がある。意味がある以上、兵にもそれを理解させた方がいい。

 

 研究棟側の通路は、国家保安本部の中でも少し空気が違う。紙とインクの匂いに、薬品と金属の匂いが混じる。兵営とも文書室とも違う。ヘニングは最初、その匂いに少し眉を動かしたが、すぐに戻した。朝よりは成長している。

 

 しばらくして、技術者らしい男が箱を抱えて来た。許可札はある。だが、箱の封緘に押された印が、配置表の備考と違っていた。

 

 ヘニングが一歩前へ出る。

 

「止まってください」

 

 男は不満そうな顔をした。

 

「急いでいる」

 

「封緘印を確認します」

 

「許可札は見せただろう」

 

「封緘印も必要です」

 

 ヘニングの声は少し硬かったが、崩れなかった。ロートは少し離れた位置から見守る。手を出すには早い。

 

 男は舌打ちこそしなかったが、露骨に苛立った。

 

「研究室で待っているんだ。遅れると博士に怒鳴られる」

 

「確認が終われば通します」

 

「君は新任か」

 

「本日の配置です」

 

「なら知らないのだろうが、この便はいつも通っている」

 

 そこでロートは一歩進んだ。

 

「いつも通っているなら、いつもの印が付いているはずだ」

 

 男がロートを見る。

 

「曹長」

 

「封緘印が違う。理由を言え」

 

「倉庫で貼り替えた」

 

「貼り替えた控えは」

 

 男が口を閉じた。

 

 数秒の沈黙。ロートは声を荒げない。横ではヘニングが緊張した顔で箱を見ている。

 

 やがて男は、鞄から小さな控えを出した。

 

「これだ」

 

 ロートは受け取り、確認した。確かに、倉庫側で封緘をやり直した記録がある。だが、通路側へ回す写しが欠けている。

 

「写しがこちらへ来ていない」

 

「それは倉庫の問題だ」

 

「こちらを通る以上、今はあなたの問題だ」

 

 男は不服そうだったが、引いた。ロートは控えの番号を記録し、通行を許可する。

 

「次からは、通路側の写しも持ってください」

 

「分かった」

 

 男が去った後、ヘニングが小さく息を吐いた。

 

「今のは、止めてよかったのですか」

 

「よかった」

 

「封緘だけで止めると、相手に怒られるかと」

 

「怒られることを恐れるな。理由があれば止めろ。理由がないなら止めるな」

 

「はい」

 

 ロートは通行控えへ番号を書き込んだ。

 

「少佐なら、たぶん同じことを聞く。封緘を替えたなら控えはどこだ、とな」

 

 ヘニングは少しだけ顔を引き締めた。

 

「はい」

 

 この一件は、小さい。実に小さい。箱は通った。技術者も戻った。誰も処分されないだろう。だが、今日の兵にとっては大きい。ターニャが言っていた「手元と動線を見る」という言葉が、自分の判断へ繋がった瞬間だったからだ。

 

 その後、ロートは通行記録へ短く補記した。

 

 封緘変更控えの写しなし。倉庫側控え確認後、通行許可。次回、通路側写し持参を指示。

 

 書いている途中で、彼は少しだけ笑いそうになった。

 

 これも、ターニャに見られれば「よろしい」と言われる類のものなのかもしれない。そう考える自分が、少し癪でもあった。

 

 夜番へ引き継ぐ時間が近づいた頃、国家保安本部の廊下は急に静かになった。昼間の人の流れが嘘のように減り、代わりに、少数の足音だけがよく響く。こういう時間は、警備にとって楽ではない。人が少ない分、一人の動きが目立つ。見逃しも目立つ。

 

 グライナーは夜番の将校へ配置を引き継ぐため、詰所で書類を揃えていた。ロートも同席している。ヘニングたちは一度外で待機させた。若い兵に一日の締めの会話を聞かせても、まだ消化しきれないだろう。

 

 夜番の将校は親衛隊少尉ベルンハルト・ザイデルだった。細身で、目が鋭い。日中より夜の勤務が似合う男である。

 

「研究棟側の増員は一時間だけですか」

 

 ザイデルが控えを見ながら言う。

 

「一時間だ。ただし、倉庫側の返答が遅れた場合は延長の可能性がある」

 

 グライナーが答える。

 

「デグレチャフ少佐の指示ですか」

 

「少佐の机を通った」

 

「なるほど」

 

 ザイデルはそれだけで察したようだった。

 

「では、延長前提で見ます」

 

「いや、前提にはするな。延びるなら控えが来る。来なければ切る」

 

「承知しました」

 

 その短いやり取りに、ロートは日中との違いを見た。夜番の将校たちは、ターニャの扱いに慣れている。恐れるというより、処理の仕方を知っている。彼女の名が入った時、勝手に広げず、しかし軽くも見ない。そこに経験がある。

 

 ザイデルはさらに続けた。

 

「今日の新任はどうです」

 

「初日としては持ちました」

 

 ロートが答える。

 

「一名、封緘変更の写し漏れを止めています」

 

「誰です」

 

「ヘニングです」

 

「記録は」

 

「あります」

 

「ならいい」

 

 ザイデルは控えを閉じた。

 

「明日、少佐が見れば拾うかもしれません」

 

 グライナーが言うと、ザイデルは肩をすくめた。

 

「拾うでしょうね。あの方は、そういう小さいものを拾う」

 

 その言い方には、嫌悪よりも諦めと評価が混じっていた。

 

 ロートは思わず尋ねた。

 

「少尉は、少佐をどう見ていますか」

 

 ザイデルは少しだけ目を上げた。

 

「どう、とは」

 

「兵には説明しにくい存在です」

 

「説明しなくていいのでは」

 

「それでは動きません」

 

「動きますよ。怖ければ」

 

「それだけでは長く持ちません」

 

 ザイデルは少し黙った。それから、珍しく丁寧に言った。

 

「なら、こう言えばいい。デグレチャフ少佐は、間違いを探す人ではなく、放置した時に大きくなるものを先に見つける人だ、と」

 

 グライナーがわずかに頷いた。

 

「悪くないな」

 

「もちろん、見つけられた側はたまったものではありませんが」

 

「それも言っておくか」

 

「言わなくても分かります」

 

 夜番の将校らしい冷静な返しだった。

 

 引き継ぎが終わり、ロートは外へ出た。廊下はさらに暗くなっている。壁の灯りが足元を照らし、窓の外はもう夜だった。

 

 その時、奥の方から小さな足音が近づいてきた。

 

 ターニャだった。

 

 今度はドクトルもいない。セレブリャコーフも少し後ろに控え、薄い封筒を抱えている。護衛は二名。昼間より少ないが、距離は近い。夜の移動だからだろう。

 

 ロートは姿勢を正した。グライナーとザイデルも同じように動く。

 

 ターニャは詰所の前で止まった。

 

「夕方の封緘変更の件はどこが止めた」

 

 ロートは即座に答えた。

 

「研究棟側通路でヘニングが止め、私が控えを確認しました」

 

「記録は」

 

「当直記録に補記済みです」

 

「見せろ」

 

 ザイデルが夜番用の控えを差し出す。ターニャは立ったまま目を通した。夜の灯りの下で見ると、黒服の輪郭が昼間より強い。幼さより先に、影が見える。

 

 数秒で読み終える。

 

「次回から、封緘変更の写しを通路側へ回すよう倉庫へ入れろ」

 

「承知しました」

 

 グライナーが答えた。

 

「止めた兵の名は」

 

「ヘニングです」

 

「初日か」

 

「はい」

 

 ターニャはほんの少しだけ考えた。

 

「明日の配置で同じ通路へ一時間置け。今日の判断を反復させる」

 

 ロートは驚きかけた。処罰でも移動でもない。反復。つまり、今日できた動きを明日もやらせるということだ。

 

 グライナーが頷く。

 

「承知しました」

 

「ただし、過信させるな。止めたことではなく、控えを確認したことを評価しろ」

 

「はい」

 

 その言い方に、ロートは内心で感心した。褒めるのではない。理由を教えるのだ。兵に「止めればいい」と思わせると、今度は何でも止める。そうではなく、控えを見たから通した。そこを覚えさせる。

 

 ターニャは控えを返し、セレブリャコーフへ目を向けた。

 

「倉庫側への補記を明朝の便に入れろ」

 

「はい。封緘変更時の写し回付を追加します」

 

「文は短くていい。現場が読めるようにしろ」

 

「承知しました」

 

 そのまま行くかと思ったが、ターニャは一度だけロートへ視線を戻した。

 

「曹長」

 

「はい」

 

「今日の新任は、夕方まで持ったか」

 

「はい。緊張はありますが、崩れていません」

 

「なら、明日は少しだけ負荷を上げろ。急に増やすな」

 

「承知しました」

 

「兵は、怖がらせるだけでは使えない」

 

 言い終えると、ターニャは歩き出した。

 

 ロートは返事をする間もなく、その背を見送った。

 

 兵は、怖がらせるだけでは使えない。

 

 その言葉は、思っていたより強く残った。黒服の少佐が、そんなことを言う。しかも、気休めでも説教でもなく、運用上の事実として言う。

 

 ザイデルが低く呟いた。

 

「また妙なところを突く」

 

 グライナーも同意するように息を吐いた。

 

「だから困る」

 

 ロートは何も言わなかった。

 

 夜番に入り、ヘニングは詰所へ呼ばれた。ロートは彼に、明日も同じ通路へ入ると告げた。

 

「処分ですか」

 

 ヘニングの顔が少し強張る。

 

「違う」

 

「では」

 

「今日の判断をもう一度やる。封緘を見る。控えを見る。理由があれば止める。理由がなければ通す」

 

 ヘニングは何度か瞬きをした。

 

「少佐が」

 

「そうだ」

 

「私は、何かまずいことを」

 

「していない。だから明日もやる」

 

 ヘニングはしばらく黙った。若い兵には、その意味をすぐに飲み込むのが難しいのだろう。叱られたわけでも、褒められたわけでもない。正しい動きを反復させられる。それは軍の訓練に近いが、ここでは廊下の運用として起きる。

 

「分かりました」

 

 やがて彼は答えた。

 

「明日も確認します」

 

「そうしろ」

 

 ロートは短く返した。

 

 詰所の外では、夜の廊下をターニャたちの足音が遠ざかっていく。ドクトルの声はもう聞こえない。代わりに、どこかで扉が閉まる音だけがした。

 

 その夜、若い兵たちは黒服の少佐について、また少し別の話を覚えた。

 

 怖い。

 

 厳しい。

 

 異様だ。

 

 それは変わらない。

 

 だが、封緘を止めた兵を翌日も同じ場所へ置く。襟を直した兵には次に視線を見るよう言う。ドクトルに振り回されて呆れ顔をしながらも、使える案だけは拾う。そういう細かな姿が、噂に混ざり始める。

 

 ロートは当直記録の最後へ、夜番への引き継ぎを一行だけ残した。

 

 新任兵ヘニング、研究棟側通路へ翌日一時間再配置。封緘変更確認の反復。

 

 書いてから、ペンを置く。

 

 たった一行だ。

 

 だが、その一行が、明日の配置を変える。

 

 ターニャが通った後には、そういう一行が残る。怒号ではなく、武勇ではなく、誰かの噂話でもない。配置と、控えと、次の運用。それが兵から見た黒服の少佐の正体に近いのかもしれない。

 

 ロートは灯りの下で自分の手を見た。今日だけで、何度この手で配置表を直しただろうか。朝は襟の乱れを見て、昼はドクトルの封筒を見て、夕方は封緘の違いを止めた。兵の一日は、思っていたよりずっと細かい。

 

 そして、その細かさを見逃さない上官がいる。

 

 厄介だ。

 

 だが、悪くはない。

 

 ロートはそう思いかけて、すぐに首を振った。良い悪いで片付ける相手ではない。ターニャ・デグレチャフ少佐は、兵の感情で測るには少し遠く、しかし日々の配置には近すぎる。

 

 だから、誰もが少しずつ覚える。

 

 黒服の少佐が廊下を通る時、顔ではなく手元を見ること。

 

 言葉が短い時ほど、理由が後から記録になること。

 

 ため息をついていても、見ていないわけではないこと。

 

 そして、怖いだけの上官ではないからこそ、余計に気を抜けないこと。

 

 夜の国家保安本部は、昼間より静かだった。だが、その静けさの中にも、明日の配置を変える一行がもう置かれている。若い兵たちがそれを知るのは翌朝だろう。

 

 ロートは当直記録を閉じ、紐を結んだ。

 

 明日もまた、黒服の少佐はこの廊下を通る。

 

 その時、兵たちは今日より少しだけ、見るべきものを知っているはずだった。

 

 

 翌朝、若い兵たちがそれを知るより先に、国家保安本部の空気が変わった。

 

 朝の通行量が増える時間よりも早く、廊下の角に立つ兵の数が一つ増えた。階段の踊り場に別の将校が立ち、詰所には普段より新しい控えが多く置かれている。大きな通達はない。だが、兵たちはそういう時ほど何かが来ると知っていた。

 

 ロートが夜番明けの記録を引き継いでいたところへ、グライナー中尉がいつもより早く入ってきた。

 

「曹長、正面からの来訪予定が入った」

 

「どなたでしょうか」

 

 グライナーは答える前に、扉を閉めた。

 

「親衛隊長官だ」

 

 詰所の中の空気が一段沈んだ。

 

 ヒムラー。

 

 その名を声に出さなくても、誰のことかは分かる。親衛隊全国指導者という肩書を長く並べる必要はない。ここで長官と呼べば、それで通じる。兵たちにとって、国家保安本部の廊下における権力の最上流の一つだった。

 

 ヘニングが顔を強張らせた。

 

「本部へ、ですか」

 

「立ち寄りだ。予定表では短い。だが、予定通りに短いかどうかは分からん」

 

 グライナーは机上へ新しい配置表を置いた。

 

「会議室内の扉側に、内側の門番を二名置く。外ではなく内だ。曹長、お前が入れ」

 

「私がですか」

 

「夜番の記録をまとめた者が必要だ。昨日の研究棟側通路の件も、少佐の話に繋がるかもしれん」

 

 ロートは一瞬だけ、喉の奥が乾くのを感じた。

 

 扉の内側。

 

 つまり、会議室の中に立つ。発言はしない。視線も動かしすぎない。だが、中で何が話されるかを耳が拾う距離にいる。これは名誉ではない。負担だ。

 

「承知しました」

 

 そう答えるしかなかった。

 

 グライナーはヘニングにも目を向けた。

 

「ヘニング、お前は外側の通路に立つ。昨日の封緘確認の反復だ。今日、余計な動きはするな。だが、見るべきものは見ろ」

 

「はい」

 

 ヘニングの声は硬い。無理もない。初日から黒服の少佐を見て、二日目に長官の来訪を迎える。親衛隊兵としては一生のうちにそう何度もない経験だろう。ありがたいかどうかは別として。

 

 その時、ロートはふと昨日のドクトルの姿を思い出した。封筒を抱え、大げさに歴史の扉だの研究の心臓だのと言い、ターニャに案を削られていた博士。

 

 まさか、と一瞬思う。

 

 だが、国家保安本部では、まさかと思うことほど、たいてい誰かの手で準備されている。

 

 午前のまだ早い時刻、会議室前の廊下は清められるように整えられた。大げさな装飾はない。余計な旗を増やすでもない。ただ、椅子の位置、卓上の水差し、灰皿、資料の置き場所、警備の立ち位置が一つずつ確かめられる。儀礼とは、派手なものばかりではない。間違いを出さないために、目立たない場所を削る作業でもある。

 

 ロートは会議室の内側、扉の横へ立った。

 

 同じく内側に立つのは、夜番のザイデル少尉だった。彼は目だけでロートへ合図した。動くな。聞こえても反応するな。必要なら扉を開ける。必要がなければ壁になれ。

 

 壁。

 

 こういう時の兵は、まさに壁だった。

 

 会議室には先にターニャが入っていた。黒服姿で、卓の片側に立ち、薄い控えを確認している。椅子にはまだ座っていない。セレブリャコーフは別の束を整えていた。EVAはいない。今日の場は、観測よりも儀礼と命令の気配が強い。

 

 ドクトルもいた。

 

 彼は、昨日削られたはずの封筒より、さらに薄い資料を持っていた。だが、その顔は妙に満足げだった。口元に隠しきれない期待がある。ターニャはそれを見ていた。

 

「ドクトル」

 

「何だね、少佐」

 

「これは偶然か」

 

「何がだ」

 

「今日の来訪だ」

 

 ドクトルは視線をほんの少し横へ逃がした。

 

「長官が近くを通られると聞いた。国家の未来に関わる案件が机にあるなら、近くにある耳へ届くのは自然なことだろう」

 

 ターニャの目が細くなった。

 

「お前、ここまでするか」

 

「私は研究者だ。使える経路は使う」

 

「私を巻き込むな」

 

「もう巻き込まれている」

 

「最悪だな」

 

「歴史の前では個人の不満は小さい」

 

「その歴史とやらを三行に削るぞ」

 

 ドクトルは胸の前で封筒を守るように持ち直した。

 

「それは困る」

 

 ロートは壁際に立ったまま、内心で息を呑んでいた。ターニャの顔は、昨日の呆れ顔とは違う。あれは明確に睨んでいる。ドクトルに対して、ここまで露骨に「やったな」と言わんばかりの視線を向けているのを、彼は初めて見た。

 

 それでも、ターニャは声を荒げない。

 

 荒げずに、目だけで刺す。

 

 ドクトルは刺されていることを理解している顔で、それでも満足そうだった。

 

 そこで、外の廊下が変わった。

 

 足音が増える。だが、雑ではない。先導する将校の低い声。扉前の兵が姿勢を正す音。ヘニングが外側で、かなり固く敬礼した気配がある。

 

 ザイデル少尉が内側から扉を開けた。

 

 ヒムラーが入ってきた。

 

 会議室の全員が一斉に姿勢を正す。腕が上がる。

 

「ハイル・ヒトラー」

 

 声は揃っていた。ロートも、ザイデルも、壁際で同じように右腕を掲げた。ヒムラーは短く返礼した。動作は大きくない。だが、その小ささが逆に重い。

 

 随行している側近たちは黒一色ではない。時代に合った勤務服姿で、書記役らしい者が控えを抱えている。過剰な見せつけはない。だが、扉が閉まった瞬間、部屋の中心がどこかは誰の目にも明らかだった。

 

 ヒムラーは卓の上を一瞥し、次にターニャを見た。

 

「デグレチャフ少佐」

 

「はい」

 

「例の研究資材の話か」

 

「はい。保安監督と資材照合に関する暫定案です」

 

 ターニャの声は、いつもよりさらに整っていた。最上段の丁寧な口調ではあるが、余計な敬意の言葉は重ねない。説明より先に、資料を差し出す。ロートはそれを見て、昨日の「結果で示す」というような姿勢を思い出した。彼女は忠誠を言葉で飾らない。提出物で示す。

 

 ヒムラーは控えを受け取り、椅子へ座った。

 

「座れ」

 

 命令だった。

 

 ターニャとドクトル、セレブリャコーフは座った。ロートとザイデルは立ったままだ。扉の内側の兵は壁である。座ることなどない。

 

 ヒムラーは資料を読みながら言った。

 

「軍の研究は散っている。陸軍、空軍、海軍、企業、大学、研究所。誰も全体を持っていない。そういう状態で大きな戦争に勝てると思っている者がいるなら、そいつは現実を見ていない」

 

 声は高くない。演説というより、机の前で命令を切る声だった。

 

 ドクトルが身を乗り出した。

 

「まさに、その点です。長官。研究には資材が要ります。人も、記録も、保全も要る。いまのままでは、各部門が自分の小さな王国を守るばかりです」

 

 ターニャが横から低く言った。

 

「ドクトル、王国という言い方はやめろ」

 

「では、小屋だ」

 

「もっと悪い」

 

 ヒムラーの目が、ほんの少しだけ二人の間を移動した。

 

「博士は相変わらずだな」

 

 ドクトルは少し胸を張った。

 

「私は変わらず、研究の未来を憂いております」

 

「憂うだけなら誰でもできる。形にしろ」

 

「そのために、少佐が削ってくれました」

 

 ターニャがドクトルを睨んだ。

 

 ヒムラーはそこを見て、短く鼻で息を抜いた。笑ったとは言えない。だが、わずかに面白がったようにも見えた。

 

「デグレチャフ少佐、説明しろ」

 

「はい」

 

 ターニャは資料を一枚抜いた。

 

「本案は、研究そのものを親衛隊へ移管するものではありません。現時点では、特定研究案件に関わる戦略資材の照合、搬出入経路の保安監督、責任者欄の統一を対象とします」

 

「現時点では、か」

 

「はい。範囲を広げるには、軍側と企業側の抵抗が強くなります。まず、重水を含む指定資材群から始め、保安上の理由を積み上げる方が現実的です」

 

「軍は嫌がる」

 

「はい」

 

「嫌がらせておけ」

 

 ヒムラーの返答は平然としていた。

 

「ただし、無駄に敵を増やすな。軍を正面から叩けば、時間を食う。喉を押さえろ。記録、資材、研究者の出入り。そこを押さえれば、軍は自分から書き方を変える」

 

 ロートは壁際で、その言葉を聞きながら背中に冷たいものを感じた。

 

 喉を押さえろ。

 

 軍を丸ごと奪うのではない。命令の通り道、資材の入口、研究者の出入り、記録の保管。そこを持つ。昨日まで兵たちが廊下で見ていたことと、会議室で語られていることが、急に同じ線で繋がった気がした。

 

 ターニャは頷いた。

 

「その方向で文言を整えます。ただし、最初から親衛隊による一本化を前面へ出すと反発が増えます」

 

「構わん。最初から全部取ろうとするな」

 

 ヒムラーは資料へ視線を戻した。

 

「重要なのは、国家にとって価値のある研究を、無能や利己心や不純な影響から守ることだ。研究者は放っておけば自分の机だけを見る。軍は自分の軍種だけを見る。企業は利益を見る。党の地方の連中は名誉と手柄を見る」

 

 彼はそこで少し間を置いた。

 

「そして、ユダヤ人の影響は、学術や企業の中へ入り込む。名を変え、仲介者を使い、金と縁故で腐らせる。ドイツの研究は、そういうものから切り離さねばならん」

 

 会議室が静まる。

 

 その言葉は、この時代のこの場所では珍しいものではない。だが、ロートは壁際で聞いていて、胸の奥が硬くなるのを感じた。思想の話になると、会議室の空気は別の重さを持つ。単なる資材照合や記録統一ではなく、誰を排除し、誰を選び、誰に研究をさせるかという話へ一気に移る。

 

 ヒムラーは続ける。

 

「これは単なる兵器の話ではない。民族の防衛だ。ドイツ人の頭脳、ドイツ人の血、ドイツ人の秩序。それを守るために親衛隊がある。警察も、保安も、研究監督も、根は同じだ」

 

 ターニャは表情を変えなかった。

 

 ただ、手元の控えへ何かを短く書き込む。ロートの位置から文字は読めない。だが、その動きはいつものものだった。大きな思想の言葉を、あとで使える文言へ変換するための手だ。

 

 ドクトルは少し興奮したように言った。

 

「そのためにも、研究者の出入りと資材の流れは一つにすべきです。長官。研究は大きくなればなるほど、机の上だけでは済みません。水、金属、燃料、特殊な試薬、そして人員。全部が別々の入口から来る。その入口を揃えなければ、いずれ敵に隙を与えます」

 

「博士」

 

 ヒムラーが言った。

 

「お前は研究の話になると広げる」

 

「必要だからです」

 

「必要でも、広げ方がある」

 

 ターニャがわずかにドクトルへ目を向けた。ほら見ろ、という顔だった。

 

 ドクトルはその視線を受けて、少しだけ口を結んだ。

 

 ヒムラーはターニャへ向き直った。

 

「少佐、お前は広げすぎるな。だが、狭くしすぎるな」

 

「はい」

 

「博士の案から、使える部分を拾え。軍の抵抗を見ながら、最初の対象を絞る。重水と関連資材。それに接続する研究室、倉庫、輸送便。そこを親衛隊の監督下に置く」

 

「命令文として出しますか」

 

「まだだ」

 

 ヒムラーは即座に答えた。

 

「まずは覚え書きだ。関係者に読ませる。誰が嫌がるかを見ろ。嫌がった者の理由も拾え」

 

「承知しました」

 

「ただし、ユダヤ人の関与、敵性の仲介、資材の不自然な動きが見えたら、その時は遠慮するな」

 

 その言葉に、会議室の温度が少し下がったように感じた。

 

 遠慮するな。

 

 それは、単に問い合わせを増やせという意味ではない。警察も保安も動かせる、という意味だ。ロートは壁際で、自分の背筋が固くなるのを抑えた。兵は壁である。壁は反応しない。

 

 ターニャは淡々と答えた。

 

「はい。対象が出た場合は、通常の照合と切り分けます。緊急系統の番号を別に付し、記録を混ぜません」

 

 ヒムラーは資料から目を上げた。

 

「よろしい。そこが大事だ。混ぜるな。混ぜると、後で弱くなる」

 

 その一言に、ロートは昨日の封緘変更の件を思い出した。通常と緊急を分ける。理由を残す。誰が止め、誰が通し、何の番号で動いたかを分ける。廊下の小さな運用と、会議室の大きな命令が、同じ思想で繋がっている。

 

 ドクトルが再び口を開いた。

 

「長官、研究者の選別についても――」

 

「今は急ぐな」

 

「しかし、そこを押さえなければ」

 

「博士」

 

 ヒムラーの声が少し低くなった。

 

「人間は後からでも動かせる。まずは資材と記録だ。金と物の流れを押さえれば、人は自分から姿を見せる」

 

 ドクトルが黙った。

 

 ターニャは目を伏せたまま、控えに短く印を入れる。その横顔は冷静だったが、ロートにはほんのわずかに呆れも混じっているように見えた。ドクトルが無理やり長官を立ち寄らせ、結果として自分の案が大きな思想と権力の中へ組み込まれていく。その流れを見て、彼女はたぶん、内心でこう思っている。

 

 ここまでするか、お前は。

 

 もちろん、声には出さない。

 

 ヒムラーは椅子へ深く腰を掛け直した。

 

「デグレチャフ少佐」

 

「はい」

 

「お前に期待しているのは、博士の夢を否定することではない」

 

「承知しています」

 

「夢は要る。兵器研究には狂気に近い熱も要る。だが、その熱だけでは国家の役に立たん。誰かが整理し、汚れを落とし、敵と不純物を切り分け、必要なものだけを前へ出す」

 

 ヒムラーの視線が、ターニャの黒服へ落ちた。

 

「お前は小さい。だが、そこに置くには都合がいい。軍の将軍どもは、最初はお前を見誤る。党の連中もだ。見誤らせておけ。その間に、署名欄と記録を取れ」

 

 ロートは息を止めそうになった。

 

 小さい。見誤らせておけ。

 

 親衛隊長官が、それを当然のように言う。ターニャも、当然のように受け止める。そこに慰めや配慮はない。道具の性質を確認するような会話だ。

 

 だが、ターニャは不快そうにはしなかった。

 

「はい。対象と期限を絞って進めます」

 

「よろしい」

 

 ヒムラーはセレブリャコーフの方へ視線を動かした。

 

「少尉」

 

「はい」

 

「この少佐が広げすぎた時は止めろ。博士が広げた時は先に削れ」

 

「承知しました」

 

 ドクトルが小さく抗議した。

 

「長官、私はそこまで広げては」

 

「広げる」

 

 ヒムラー、ターニャ、セレブリャコーフの三者が、ほぼ同じ空気でそう見ていた。

 

 ドクトルは黙った。

 

 ロートは壁際で、笑ってはいけないと自分へ言い聞かせた。ザイデルも無表情を保っている。兵にとって最も難しい任務は、こういう時に壁であり続けることかもしれない。

 

 ヒムラーは最後に資料を閉じた。

 

「覚え書きを今日中に整えろ。明朝、私の個人幕僚部へ上げる。軍へ出す文言は、いったん柔らかくしろ。柔らかい文言で逃げる者がいれば、その時は硬くすればいい」

 

「承知しました」

 

「博士は、根拠を出せ。夢ではなく実例だ。重複研究、資材の食い違い、記録の不一致。少佐が使える形で出せ」

 

「はい」

 

 ドクトルの返事は、いつもより少しだけ真面目だった。

 

 ヒムラーは立ち上がった。

 

 全員が同時に立つ。椅子の脚が床を擦る音が、短く重なった。

 

「ハイル・ヒトラー」

 

 再び腕が上がる。

 

「ハイル・ヒトラー」

 

 ヒムラーは短く返礼し、側近を従えて扉へ向かった。ザイデルが扉を開ける。ロートは壁際で姿勢を正したまま、親衛隊長官が通り過ぎるのを見送った。

 

 扉が閉まる。

 

 廊下の足音が遠ざかるまで、誰も動かなかった。

 

 最初に息を吐いたのは、ドクトルだった。

 

「……歴史が、少し前へ進んだな」

 

 ターニャがゆっくり彼を見た。

 

 その顔は、今日一番の呆れ顔だった。

 

「ドクトル」

 

「何だね、少佐」

 

「お前、後で覚えていろ」

 

「私は国家の未来のために」

 

「覚えていろ」

 

 声は荒くない。だが、ロートはその一言で、ドクトルが本当に少しだけ身を引いたのを見た。

 

 セレブリャコーフが静かに控えをまとめる。

 

「覚え書きは今日中です」

 

「分かっている」

 

 ターニャは額へ指を当てかけて、途中でやめた。兵の前でそこまで崩れるつもりはないのだろう。だが、十分に疲れているのは分かった。

 

「ドクトル、実例を出せ。重複研究二件、資材の食い違い二件、記録不一致二件。余計な形容は入れるな」

 

「六件か」

 

「お前が長官を呼んだ代金だ」

 

「高いな」

 

「安いくらいだ」

 

 ドクトルは封筒を抱え直した。今度は落としそうにはなっていない。

 

「少佐殿」

 

「殿を付けるな」

 

「私は少し感動しているのだよ」

 

「私はかなり迷惑している」

 

「だが、道は開けた」

 

「その道に私を投げ込むな」

 

「君は歩ける」

 

「お前が押したんだ」

 

 セレブリャコーフが、少しだけ視線を伏せた。笑いはしない。だが、彼女もこのやり取りに慣れているのだろう。

 

 ロートは壁際に立ったまま、二人の会話を聞いていた。先ほどまでの思想と権力の話が、急にいつもの鬱陶しい博士と呆れた少佐の掛け合いへ戻る。その落差が、かえって会議の重さを際立たせた。

 

 ターニャは最後に、扉側の兵へ目を向けた。

 

「曹長」

 

「はい」

 

「今の会議は、廊下へ出すな」

 

「承知しました」

 

「ただし、研究棟側通路の警備は予定通り延長する。夜番へ引き継げ。封緘、控え、通行者の手元を見ろ」

 

「はい」

 

「顔ではなく、手元だ」

 

 昨日と同じ言葉が戻ってきた。

 

 ロートは姿勢を正した。

 

「承知しました」

 

 ターニャは頷き、セレブリャコーフへ資料を渡した。

 

「行くぞ。仕事が増えた」

 

「はい」

 

 その言い方は、いつもより少しだけ疲れていた。

 

 ドクトルが嬉しそうに言う。

 

「国家が前進する時、仕事は増えるものだ」

 

 ターニャは歩き出しながら返した。

 

「お前のせいで増えた」

 

「それも歴史だ」

 

「黙れ」

 

 今度こそ、会議室の中にわずかな笑いの気配が落ちた。声にはならない。兵も将校も壁である。だが、空気だけは一瞬緩む。

 

 その後、ロートは夜番へ引き継ぐために詰所へ戻った。

 

 廊下の外側では、ヘニングがまだ立っていた。顔は硬いが、崩れてはいない。彼はロートを見るなり、小さく問うた。

 

「何か、変わりましたか」

 

 ロートは答えに迷った。

 

 変わった。

 

 だが、何がどう変わったのかを兵にそのまま言うことはできない。親衛隊が研究資材の喉元を押さえにいくこと。ヒムラーが思想と保安と兵器研究を同じ線で見ていること。ターニャがその実務の刃先に置かれていること。そんなものを廊下で若い兵へ説明するわけにはいかない。

 

 だから、必要なことだけ言った。

 

「見る場所が増えた」

 

「見る場所、ですか」

 

「研究棟側通路は、今夜も気を抜くな。箱の封緘、持っている控え、通行者の手元。それと、急に予定外の者が来たら、名前ではなく許可を見ろ」

 

「はい」

 

 ヘニングは頷いた。

 

「少佐も、同じことを」

 

「そうだ」

 

 ロートは短く返した。

 

 その夜、詰所の記録には新しい一行が加わった。

 

 長官来訪に伴い、研究棟側通路の警備を延長。封緘変更、照合控え、通行者手元の確認を強化。

 

 たった一行。

 

 だが、その一行の背後には、会議室の中で語られた思想と権力と研究の話が折り畳まれている。兵に見えるのは一行だけだ。だが、兵はその一行の上に立つ。

 

 ロートは記録を閉じながら、黒服の少佐がまた明日もこの廊下を通るのだろうと思った。

 

 きっと、疲れた顔で。

 

 きっと、ドクトルを睨みながら。

 

 そして、それでも、使えるものを拾って前へ進むのだろう。

 

 兵から見たターニャは、また少し形を変えた。

 

 怖い少佐。

 

 黒服の少佐。

 

 親衛隊長官の期待を背負う少佐。

 

 そして、厄介な博士に巻き込まれて呆れながらも、国家の会議を一枚の覚え書きへ変えてしまう少佐。

 

 そのどれもが、同じ小さな背中に乗っている。

 

 だから誰も笑わない。

 

 笑えるほど、軽い存在ではなかった。

 




そろそろ本編、始動せねば…汗

構想は練りましたが書く順番で迷ってます。

フランス戦後なのでそのままイギリス戦の話か、帝国内政のごちゃついた話か。
帝国内政については、案としてはモレルさんが出張ってくる予定です。


アンケート取ろうかなぁ。


あ、何気に長官初登場かも。

次に読みたい展開はどちらですか?(※構成上、前後する可能性あり)

  • イギリス戦方面
  • 帝国内政(モレル関連)
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