…使い慣れてないかもですが、既存の話でアンケート更新しても反映されないという泣
前のアンケートも全消しして、再度アンケート作成しました。
二次創作の妄想ですが、平時でも平和でもない、
こんな時代に国に研究人生を捧げる人間ってこんな心情なのかなぁという妄想です。
それがどんな変人だとしても…。
それを踏まえてお楽しみいただければ。
ドクトルお仕置き編1 夢には棚番が要る
ドクトルが親衛隊長官の立ち寄りを手引きした翌朝、国家保安本部の一室には、妙に整った沈黙が置かれていた。
整った沈黙というものは、だいたい碌でもない。誰かが怒鳴っている時の方が、まだ分かりやすい。怒りには熱がある。熱があれば、冷める余地もある。だが、静かに机が片付けられ、椅子が必要な数だけ置かれ、インク瓶の位置まで揃っている時、人はむしろ警戒するべきだった。
ドクトルは、それを見てすぐに理解した。
これは歓迎の席ではない。
机の中央には、薄い封筒が一つ置かれていた。昨日、親衛隊長官の前で扱われた兵器研究関連の覚え書きではない。もっと別の、妙に実務臭い封筒である。表には細い字で、こう書かれていた。
研究関連提出物に関する補正作業予定
それだけなら、ただの事務である。
だが、その下に、別紙添付とあり、さらに小さく、ドクトル本人確認要、とある。
ドクトルは扉の前で足を止めた。
「これは、歓迎ではないな」
部屋の中で、ターニャが椅子に座ったまま顔を上げた。黒服の襟元はいつも通り整っている。机の上には控えが数束、右から左へ綺麗に並んでいた。セレブリャコーフはその横に立ち、手元の帳票を確認している。
ターニャは、笑っていなかった。
怒ってもいなかった。
ただ、昨日から持ち越した呆れを、朝の冷たい空気でさらに薄く研いだような顔をしていた。
「入れ、ドクトル」
「少佐、私は研究のために来た」
「知っている。だから呼んだ」
「呼んだ、というより、召喚に近い字面だったが」
「逃げると思った」
「私は逃げん」
「研究室の片付けからは逃げるだろう」
ドクトルは一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「それは戦略的後退だ」
「物は言いようだな」
セレブリャコーフが椅子を一つ引いた。
「ドクトル、こちらへお掛けください」
「少尉、君まで妙に丁寧だな」
「通常通りです」
「通常通りという言葉が、今日は少し怖い」
「通常通りです」
同じ返答を、同じ温度で返される。ドクトルは、これは逃げ道を塞がれているな、と判断した。セレブリャコーフは丁寧だ。丁寧だが、柔らかいとは限らない。あの少尉は、ターニャの隣に立つ時、実に正確に相手の逃げ口を折る。
ドクトルは椅子へ座った。
ターニャは封筒を指で押さえた。
「昨日の件についてだ」
「長官の件かね」
「そうだ」
「私は国家に資する行動を取った」
「私は、お前が私の机を踏み台にしたことを問題にしている」
「踏み台とはひどいな。橋と言ってくれ」
「なら、渡り賃を払え」
ターニャは封筒を開いた。
中から出てきたのは、薄い数枚の帳票だった。見出しはどれも簡潔で、余計な飾りがない。あまりにも飾りがないので、ドクトルはかえって嫌な予感を強めた。
一枚目。
研究構想実務化確認票。
二枚目。
現場説明用語置換表。
三枚目。
資材・記録・責任者照合同行予定。
ドクトルは目を細めた。
「少佐」
「何だ」
「これは、もしや」
「お仕置きだ」
あまりにも平然と言われたため、ドクトルは一拍遅れて反応した。
「……お仕置き」
「聞こえたなら復唱するな」
「君の口から、そのような言葉が出るとは思わなかった」
「私も使いたくない。だが、他に近い言葉がない」
「処罰ではなく?」
「処罰ではない。教育でもない。損害の回収だ」
ターニャは一枚目をドクトルの前へ滑らせた。
「お前が昨日、予定外に長官を引き込んだ結果、案件は前へ進んだ。そこは認める」
「ほう」
「得意げな顔をするな。問題は、前へ進んだせいで必要な実務が増えたことだ」
「進歩には痛みが伴う」
「その痛みを、なぜ私と少尉だけで引き受ける前提になっている」
ドクトルは胸の前で両手を広げた。
「私は発想を出す。君たちは現実へ落とす。美しい分業ではないか」
ターニャの目が、はっきり冷えた。
「ドクトル」
「何だ」
「その美しい分業は、今日で終わりだ」
セレブリャコーフが、二枚目の帳票を静かに出した。
「ドクトル、本日はまず、昨日の覚え書きに含まれる表現を現場用語へ置き換えていただきます」
「現場用語」
「はい。倉庫係、警備班、試験場の当直者が読める言葉です」
「少尉、それは私に詩を捨てろと言っているのかね」
「詩は提出先が違います」
ターニャが短く重ねる。
「ここへ持ってくるな」
ドクトルは天井を見上げた。
「私は研究の魂を守りたいのだが」
「魂は保管棚へ入らない。棚番を書け」
「棚番」
「そうだ」
ターニャは、さらに別の紙を出した。そこには、昨日ドクトルが使った表現の一部が抜き出されている。
研究の動脈。
未来の保全。
国家の知的火力。
純粋な探究のための聖域。
ドクトルは少しだけ目を輝かせた。
「我ながら悪くない」
「全部やり直しだ」
「なぜだ」
「倉庫係が読んでも何をすればいいか分からない」
「情緒は伝わる」
「情緒で箱は動かん」
ターニャは赤鉛筆を取った。一本ずつ線を引く。
「研究の動脈。これは『資材搬入経路』だ」
「味気ない」
「味はいらない」
「未来の保全」
「『指定研究記録の保管』だ」
「国家の知的火力」
「『優先試験案件』」
「純粋な探究のための聖域」
「削除」
「なぜそこだけ消える」
「危険だからだ」
ドクトルは本気で不服そうな顔をした。
「聖域という言葉は美しい」
「美しいだけに危険だ。軍も企業も研究者も、自分の机を聖域にしたがる。お前がそれを文書に書けば、全員が自分の部屋を不可侵と言い出す」
ドクトルは黙った。
セレブリャコーフが静かに補足する。
「実務上は、立入条件、閲覧条件、保管責任者の三つへ分けた方が扱いやすいと思います」
「少尉」
「はい」
「君も容赦がないな」
「必要な形にしているだけです」
「師に似たか」
セレブリャコーフは返答に困った顔を一瞬だけしたが、すぐに平静へ戻った。
「少佐は上官です」
「そうだな。似ていると言うと、少佐が嫌がりそうだ」
ターニャが赤鉛筆を置いた。
「言っておくが、私はお前と似ていると言われるよりはましだ」
「ひどい」
「比較対象が悪い」
ドクトルは軽く胸を押さえた。芝居がかっている。だが、ターニャは取り合わなかった。
そこからの作業は、ドクトルにとって想像以上に過酷だった。
彼は発想を語ることには慣れている。数字を広げることにも、仮説を伸ばすことにも慣れている。だが、自分の言葉を、倉庫係が誤読しない程度の短い語へ落とす作業には慣れていない。
ターニャは容赦しなかった。
「『研究環境の純化』とは何だ」
「不純な影響を排し、研究の質を」
「長い。何をする」
「人員の確認だ」
「なら『研究関係者の身元確認』だ」
「言葉が硬い」
「硬くていい。動けばいい」
「『敵性影響の排除』は」
「根拠なしに書くな。使うなら、調査対象、理由、担当部署を付けろ」
「少佐、君は思想の熱を冷ますのが早い」
「熱で火災を起こすな」
ドクトルが反論しようとすると、セレブリャコーフが別紙を置く。
「ドクトル、こちらに置換後の文言を書いてください」
「少尉、これは罰だな」
「補正作業です」
「罰と言ってくれた方がまだ潔い」
「少佐が先ほど言いました」
「では、二人がかりの罰だ」
「はい」
セレブリャコーフは、そこで否定しなかった。
ドクトルは目を丸くした。
「認めるのか」
「否定する理由がありません」
ターニャが低く言う。
「少尉、そこは少し隠せ」
「失礼しました」
「いや、今ので十分よく分かった」
ドクトルは半分呆れ、半分楽しそうだった。追い込まれているはずなのに、どこか楽しんでいる。その性質が厄介なのだ。
作業は続く。
机の上には、ドクトルの華やかな文言が次々と実務へ変換されていった。
独創的研究推進環境。
指定研究室の作業条件。
戦略的知性の集約。
研究者名簿の一本化。
国家的研究意思の貫徹。
監督部署の決裁経路。
学術的自由の保護。
外部干渉の制限条件。
ドクトルは一つ変換されるたびに、少しずつ肩を落とした。
「少佐、私の文章が骨だけになっていく」
「骨があれば立つ」
「肉も要る」
「現場へ回す文書に脂を付けるな」
「脂とは」
「お前の余計な比喩だ」
セレブリャコーフが、書き終えた置換表へ番号を振っていく。その手際は早い。番号、用語、実務上の意味、使用可否、補足条件。ドクトルの言葉が、まるで標本のように並んでいく。
彼はそれを見て、急に真面目な顔になった。
「少佐」
「何だ」
「これは、思ったより使えるな」
「今ごろ気付いたのか」
「私の言葉が殺されているかと思ったが、死んでいない。細くされているだけだ」
「現場で通すには、それでいい」
「なるほど。研究の熱は、細い管を通した方が遠くまで届くこともある」
「また比喩に逃げるな」
「分かった。では、輸送可能な圧力に整える」
「余計に悪い」
セレブリャコーフが一瞬だけ視線を伏せた。笑わない。だが、目元に少しだけ困ったような柔らかさがある。ターニャはそれを見て、ため息をついた。
「少尉、笑っていいぞ」
「いえ」
「我慢するほどのものでもない」
「勤務中ですので」
「真面目だな」
ドクトルが感心したように言った。
「少尉、君は本当に模範的だ」
「ありがとうございます」
「だが、模範的すぎると、少佐に似るぞ」
セレブリャコーフは、今度こそわずかに固まった。
ターニャが赤鉛筆を手に取る。
「ドクトル」
「何だ」
「今の一言で、午後の同行を追加する」
「同行?」
セレブリャコーフが三枚目の帳票を前へ出した。
「本日午後、研究棟、倉庫、試験場を順に回ります。ドクトルには、実際の現場で置換後の文言が通じるか確認していただきます」
ドクトルは動きを止めた。
「待ちたまえ」
「待たない」
「私は午後、研究室で成績表を」
「午前中に助手へ回せ」
「倉庫まで行く必要があるのか」
「ある。お前の文章が倉庫で使えるかを見る」
「試験場まで?」
「ある。お前の案が試験場で誤読されるか確認する」
「研究棟は私の領域だ」
「なら、お前が一番説明できるはずだ」
完璧に塞がれた。
ドクトルはしばらくターニャを見て、それからセレブリャコーフを見る。セレブリャコーフは丁寧に視線を返しただけだった。助け舟はない。
「少佐」
「何だ」
「これは、かなり本格的なお仕置きではないか」
「ようやく理解したか」
「しかも実務として無駄がない」
「罰に無駄を入れる趣味はない」
「そこが君の恐ろしいところだ」
「褒めるな」
「褒めているとも」
「ならやめろ」
午前の作業が終わる頃、ドクトルの封筒は別物になっていた。
華やかな表現は、ほとんど消えた。代わりに、現場で使える短い語が並ぶ。研究者名簿、指定資材、搬出理由、封緘変更、責任者署名、照合番号、通常確認、緊急確認、保管場所、再配分条件。退屈だ。退屈だが、動く。
ドクトルはその完成物を見て、妙な顔をしていた。
悲しいような、悔しいような、それでいて少し嬉しいような顔だった。
「私の夢が、軍靴を履かされた気分だ」
「履かせなければ歩けない」
「君はいつもそういうことを平然と言う」
「お前が裸足で走らせようとするからだ」
セレブリャコーフが完成した置換表を二部に分けた。
「一部は少佐の控え、一部はドクトルの現場確認用です」
「私が持つのか」
「はい。午後、各所で説明していただきます」
「私が?」
ターニャは立ち上がった。
「当然だろう。自分の案だ」
「少佐が整えた」
「元凶はお前だ」
「元凶」
「もっと強い言葉にしてもいい」
「遠慮しよう」
昼前、ドクトルは研究室へ戻る前に、一度だけ扉の前で振り返った。
「少佐」
「何だ」
「私は、少しだけ反省している」
「少しだけか」
「かなり、と言うには研究者の誇りが邪魔をする」
「その誇りも棚番を付けて保管しろ」
「……君は本当に、今日の調子が良いな」
「お前のせいで悪い」
「そうか」
ドクトルはなぜか満足げに頷いた。
「では、午後にまた来る。研究の軍靴を履いてな」
「その表現を午後に使ったら、倉庫で一時間延長だ」
「使わない」
「よろしい」
ドクトルが去った後、部屋に少しだけ静けさが戻った。
セレブリャコーフが置換表をまとめながら言う。
「午後の同行、研究棟からでよろしいですか」
「ああ。先に自分の巣を見せてもらう」
「研究室ですか」
「そうだ」
ターニャは椅子へ戻り、ドクトルが座っていた席を見た。
「まず、床が見えるか確認する」
セレブリャコーフは一拍置いた。
「……確認項目に入れますか」
「入れなくていい。見れば分かる」
「承知しました」
ターニャは深くはないが、確実に疲れの混じった息を吐いた。
「あいつは、放っておくと世界を語る。だが、必要なのは棚番だ」
「はい」
「夢を否定する気はない。だが、夢を運ぶ人間が転ぶなら意味がない」
「午後、現場で確認します」
「頼む」
セレブリャコーフは控えを抱え、静かに頷いた。
こうして、ドクトルへのお仕置きは、午前の机上作業だけでは終わらなくなった。
午後には、研究棟の床、倉庫の棚、試験場の記録台、そしてドクトル本人の言葉が、すべて同じ置換表の上で照合されることになる。
それは処罰ではない。
だが、ドクトルにとっては、怒鳴られるよりもよほど堪える種類の罰だった。
自分の夢を、自分の足で、現場の棚まで運ばされる。
ターニャは、それをお仕置きと呼んだ。
そしてセレブリャコーフは、丁寧に、そのお仕置きの時刻と経路を控えへ記した。
午後、ドクトルは約束の時刻より三分遅れて現れた。
遅刻と言うには短い。だが、ターニャの机の上には既に同行用の控えが揃い、セレブリャコーフは外套と筆記板を持って待機していた。つまり、三分の遅れは三分以上に見える。国家保安本部の執務室では、そういう小さな遅れほど目立つ。
扉を開けたドクトルは、午前よりいくらか身なりを整えていた。少なくとも、封筒の口は閉じている。控えも抱えるのではなく、鞄に入れていた。そこだけは学習したらしい。
「少佐、待たせたかな」
「三分だ」
「寛大な表現を期待したのだが」
「事実だ」
「三分程度なら、研究の世界では誤差の範囲だ」
「本部の同行予定では遅延だ」
ターニャは立ち上がり、机上の控えをセレブリャコーフへ渡した。
「行くぞ」
「もうか」
「お前が遅れた分、余白はない」
「余白という言葉に、今日ほど冷たい意味を感じたことはない」
「なら覚えておけ」
セレブリャコーフが扉を開けた。
「研究棟、第一研究室、資材控え棚、試験準備室の順です。その後、倉庫側へ移動します」
「少尉、君は予定を言う時に情け容赦がないな」
「経路確認ですので」
「いや、そういうところだ」
ドクトルは何か言い足そうとしたが、ターニャが廊下へ出たため、諦めて後に続いた。
研究棟へ向かう通路は、午前の国家保安本部側とは違う匂いを持っていた。書類とインクの乾いた匂いの向こうに、油、金属、薬品、暖房の煤のようなものが混じる。ターニャは歩きながら表情を変えなかったが、わずかに眉を寄せた。
「換気はしているのか」
「もちろんだとも」
「どこがだ」
「研究とは多少の匂いを伴うものだ」
「毒性と浪漫を混ぜるな」
「毒性はない」
「根拠」
「少なくとも私は生きている」
「却下だ」
セレブリャコーフが筆記板へ短く書き込む。
「研究棟換気状況、確認対象に加えます」
「少尉、そこまで書くのか」
「はい」
「私は墓穴を掘ったらしい」
「今に始まったことではない」
ターニャは前を向いたまま言った。
研究棟の入口では、若い助手が待っていた。午前にドクトルの指示で成績表をまとめていた男とは別人である。痩せた顔に大きな眼鏡を掛け、手には鍵束を持っていた。緊張しているのが分かる。
「博士、お待ちしておりました」
「よろしい。少佐と少尉を案内する。今日は研究の秩序が試される日だ」
助手の顔がさらに強張った。
ターニャはドクトルを見た。
「余計な圧を掛けるな」
「事実を少し飾っただけだ」
「飾るな」
ターニャは助手へ向き直った。
「氏名と担当を」
「ルーカス・ヴェーバーです。第一研究室の補助担当です」
「今日見るのは研究内容ではない。保管、記録、説明の三つだ。聞かれたことだけ答えろ」
「はい」
ヴェーバーは少しだけ安心したようだった。ドクトルの「秩序が試される日」より、ターニャの「聞かれたことだけ答えろ」の方がよほど分かりやすかったのだろう。
第一研究室の扉が開く。
ターニャは入った瞬間、足を止めた。
セレブリャコーフも一歩遅れて止まる。
ドクトルだけが堂々と中へ入ろうとして、二人が止まっていることに気付いた。
「どうした」
「ドクトル」
「何だ」
「これは研究室か」
「そうだ」
「倉庫ではなく」
「研究室だ」
「書庫でもなく」
「研究室だ」
「床はどこだ」
ドクトルは一瞬、視線を床へ落とした。
床は見えた。見えたが、通路として最低限の幅が残っているだけだった。机の下には箱、棚の前には未整理の器具、窓際には古い試験記録の束。椅子の上に上着が掛かり、その上に別の控えが置かれ、さらにその横に金属部品の小箱が載っている。
混沌という言葉をドクトルは好む。
だが、これは混沌ではない。単に片付いていない。
ターニャは無言で室内を見回した。
その沈黙が一番痛い。
「少佐、これは作業の途中で」
「途中のものが多すぎる」
「研究は連続する営みだ」
「足を引っかけたら連続が止まる」
セレブリャコーフが入口から室内を確認し、筆記板へ書いた。
「通路幅、要改善。資料と部品の混在。椅子上の保管物あり」
「少尉、それは報告書ではなく惨状の写生だ」
「確認事項です」
「せめて表現を柔らかく」
「現場で読めるようにします」
ターニャは部屋の中央へ進んだ。足元を見ながら、無駄なく歩く。小柄な体だから通れる隙間もあるが、それを良しとするつもりはなさそうだった。
机の上に置かれた束を一つ指で押さえる。
「これは何だ」
ヴェーバーが慌てて答える。
「前回試験の成績表です」
「この金属片は」
「別試験の測定部品です」
「同じ机に置く理由は」
ヴェーバーが言葉に詰まった。
ドクトルが助け舟を出そうとする。
「少佐、関連する着想が同じ場所に集まることも」
「聞いているのは保管理由だ」
ドクトルは口を閉じた。
ヴェーバーは小さく息を吸った。
「申し訳ありません。測定後に戻す予定でしたが、次の確認が入り、そのままに」
「予定はどこに書いた」
「……書いていません」
「なら、予定ではない。放置だ」
ヴェーバーの顔が赤くなる。
ターニャは責め立てるような声ではなかった。だが、言い逃れの余地がなかった。
「ドクトル」
「何だ」
「お前の研究室では、予定と放置が同じ机に載るのか」
「今日は特に悪い時を見られている」
「いつなら良い」
ドクトルは黙った。
セレブリャコーフが静かに言う。
「ドクトル、午前の置換表で言えば、『一時保管』と『未処理』の区別が必要です」
「……なるほど」
「一時保管なら期限と戻し先を記載してください。未処理なら、担当者欄へ移すべきです」
「少尉、君は私の研究室へ事務の旗を立てている」
「旗ではなく、札です」
「もっと乾いたものになった」
ターニャは机の上の金属片を見ながら言った。
「札を作れ」
「今か」
「今だ」
「少佐、研究室には札作成用の準備が」
ヴェーバーがおそるおそる言いかけると、セレブリャコーフが鞄から小さな無地の紙札と紐を取り出した。
「あります」
ドクトルが目を見開いた。
「なぜ持っている」
「必要になる可能性が高いと判断しました」
「私の研究室はそこまで信用がないのか」
ターニャが答えた。
「信用ではなく、実績だ」
「痛いな」
「痛むなら直せ」
セレブリャコーフは紙札を三枚、机の端へ置いた。
「一時保管、未処理、返却待ち。この三つで分けます」
「少尉、君は準備がよすぎる」
「ありがとうございます」
「褒めているのかどうか、自分でも分からなくなってきた」
ヴェーバーはドクトルとターニャを交互に見ていた。自分の研究室で、親衛隊の少佐と少尉が札を作っている。しかも博士は止められない。おそらく、彼の人生でもかなり奇妙な午後に入るだろう。
ターニャは金属片の隣へ札を置いた。
「これは返却待ちか」
ヴェーバーが答える。
「はい。測定室へ戻します」
「期限」
「本日中です」
「時刻」
「十七時までに」
「担当」
「私です」
ターニャはセレブリャコーフを見た。
「書け」
「はい」
セレブリャコーフが紙札へ書き込む。
返却待ち。測定室。十七時。ヴェーバー。
ドクトルはそれを見て、しばらく黙っていた。
「少佐」
「何だ」
「こうして見ると、単純だな」
「単純なことを放置するから複雑になる」
「研究者は複雑さを愛する」
「机の上で愛するな」
次に、ターニャは椅子の上の上着と控えへ目を向けた。
「これは誰の椅子だ」
ヴェーバーが答える前に、奥の机から別の研究員が顔を上げた。中年の男で、書類を抱えたまま固まっている。
「私のです」
「氏名」
「オットー・フェルスターです。試験記録の整理を」
「椅子は座るものだ。保管棚ではない」
「すぐ使うつもりで」
「すぐ、とはいつだ」
「……昼過ぎに」
「今は午後だ」
フェルスターは黙った。
ドクトルが小さく咳払いする。
「少佐、研究者の時間感覚は」
「言うな。悪化する」
「はい」
ターニャは椅子の上から控えを持ち上げた。表紙には試験番号がある。だが、紐が緩い。上着の上に載せられていたせいで端が曲がっている。
「この控えを曲げた理由は」
「理由はありません」
フェルスターは観念したように答えた。
「なら直せ。理由のない乱れは最初に潰せ」
「はい」
セレブリャコーフが別の札を出す。
「未処理、整理担当フェルスター、本日十六時半まで」
ターニャが頷く。
「それでいい」
ドクトルは、研究室の空気が変わっていくのを見ていた。
最初、研究員たちはターニャの黒服と階級に固まっていた。親衛隊の少佐が、研究室の机の上へ口を出している。しかもドクトルが止めない。その事実だけで十分に異常だった。
だが、数分も経つと、彼らは別の理由で緊張し始める。
何を聞かれるか分からないからではない。
聞かれることが、あまりに具体的だからだ。
これは何か。どこへ戻すか。いつまでか。誰がやるか。控えはあるか。理由は何か。
答えられないものは、全部、机の上に露出する。
ドクトルは、自分の研究室を初めて外から見た気分になった。美しい着想の巣だと思っていた場所が、ターニャの目を通すと、期限のない物品と戻し先の曖昧な記録が集まった部屋に見える。
腹立たしい。
だが、間違っていない。
「少佐」
「何だ」
「私は今、少し傷ついている」
「そうか」
「慰めは」
「ない」
「即答か」
「現場確認中だ」
セレブリャコーフが、机の端に置かれていた紙束を一つ持ち上げた。
「こちらは封緘されていますが、保管場所が机上になっています」
ターニャが見る。
「封緘済みを机に置くな。棚へ戻せ」
フェルスターが答える。
「棚が埋まっています」
「ドクトル」
「何だ」
「棚が埋まっているらしい」
ドクトルは少し顔を逸らした。
「研究の蓄積だ」
「死蔵の別名だろう」
「全部が死んでいるわけではない」
「では、生きているものを選べ」
「今か」
「今だ」
ターニャは研究室の奥にある棚を指した。
「上段から見る。不要なもの、別室保管に回すもの、継続使用するものに分けろ」
「少佐、今日は置換表の確認ではなかったか」
「置換表に『保管場所』がある。棚が機能していないなら確認対象だ」
セレブリャコーフが頷いた。
「棚の使用状況を確認します」
ドクトルは天を仰いだ。
「お仕置きが棚へ進軍してきた」
「棚を占領しているのはお前の資料だ」
「言い返せない」
「珍しいな」
研究室の棚は、確かにひどかった。
上段には古い試験記録が詰め込まれ、中段には部品箱と帳票が混在し、下段には何に使ったのか分からない試料容器が並んでいる。ラベルはある。あるが、書いた人間にしか分からない短縮語が多い。
ターニャは最初の箱を指した。
「これは」
ヴェーバーが覗き込む。
「前期の熱処理試験関連です」
「継続か」
「一部は」
「一部とは」
「追加確認の可能性が」
「可能性で棚を占領するな」
ドクトルが口を挟む。
「少佐、可能性は研究の種だ」
「種なら袋に入れて場所を決めろ。棚全体を畑にするな」
フェルスターが少しだけ咳をした。笑いをこらえたのかもしれない。ドクトルは彼を見た。
「フェルスター、君は後で覚えていたまえ」
ターニャがすぐに言う。
「私的制裁は禁止だ」
「冗談だ」
「お前の冗談は後で机を散らかす」
「ひどい信頼だ」
「信頼ではない」
セレブリャコーフは棚ごとに番号を振り始めた。
「上段一、旧試験記録。上段二、追加確認候補。中段一、部品箱。中段二、帳票混在。下段、試料容器」
ターニャはその分類を見て、すぐに指示を出す。
「旧試験記録は別棚へ移せ。追加確認候補は一覧化。部品箱は部品棚へ。帳票は机上ではなく記録箱へ。試料容器は中身と廃棄可否を確認」
「承知しました」
「ドクトル、お前が説明しろ」
「私がか」
「お前の研究室だ」
ドクトルは研究員たちへ向き直った。
普段なら、ここで芝居がかった一席を始めただろう。だが、ターニャの視線が刺さっている。今は余計な言葉を使えない。
「諸君」
それでも、少しだけ芝居が入る。
「この棚は、今日から生まれ変わる」
ターニャが背後から言う。
「事務的に」
「……事務的に生まれ変わる」
研究員たちの顔が複雑になった。
「古い記録は別棚へ移す。追加確認が必要なものは一覧にする。部品は部品棚へ戻す。帳票は記録箱へ。試料容器は中身を確認する」
ドクトルは言い終えてから、少しだけ眉を上げた。
「言えるものだな」
「やればできる」
ターニャが淡々と言う。
「少佐、私は子供ではない」
「子供の方が最初から言うことを聞く」
「今日二度目だぞ、それは」
「事実は反復される」
研究員たちは、ようやく少しだけ動き始めた。フェルスターが旧記録を抱え、ヴェーバーが追加確認候補を抜き出し、別の助手が部品箱の中身を確認する。最初はぎこちない。だが、動き出せば早い。つまり、今まで誰も最初の一声を掛けなかっただけなのだ。
ドクトルはその光景を見て、腕を組んだ。
「少佐」
「何だ」
「私は、少し不愉快だ」
「だろうな」
「だが、部屋が使いやすくなっている」
「なら続けろ」
「君は本当に慰めないな」
「慰める必要がない」
セレブリャコーフが、研究室内の通路を見た。
「床が見える範囲が増えました」
ターニャが頷く。
「確認項目には入れなくていいと言ったが、成果には入れておけ」
「はい」
ドクトルが苦い顔をする。
「床が成果になる日が来るとは」
「お前の研究室では大成果だ」
「反論できないのが腹立たしい」
そこからさらに三十分、研究室の棚と机は徹底的に見られた。
ターニャは研究内容には踏み込まなかった。計算式や理論に口を出すことはない。だが、記録の置き場所、部品の戻し先、試料の中身、机と棚の役割には容赦なく踏み込む。ドクトルは最初こそ大げさに嘆いていたが、やがて自分から研究員へ説明し始めた。
「その箱は部品棚だ。いや、そこではない。少佐に見られる前に戻したまえ」
「ドクトル」
「何だ」
「私に見られるかどうかで動くな。次に使う者が見つけられるかで動け」
「少佐、君は私の言葉をいちいち正す」
「間違えるからだ」
「よし、諸君。次に使う者が見つけられるよう戻したまえ」
研究員たちの動きが少しだけ揃う。
セレブリャコーフがその様子を記録する。
「説明語句、修正後は通じています」
「よろしい」
ターニャは短く答えた。
午後の光が窓から斜めに入り、棚の埃が少しだけ浮かび上がる。研究室はまだ整然とは言えない。だが、最初に入った時とは違う。通路が通路になり、椅子が椅子になり、机の上で何が作業中なのか分かるようになってきた。
ドクトルは椅子の背に掛けられていた上着を、自分で壁の掛け具へ移した。
ターニャがそれを見る。
「今のは良い」
ドクトルは少しだけ目を瞬かせた。
「褒めたのか」
「事実を言った」
「少佐、今のは保存したい」
「保存するな。次もやれ」
「厳しい」
「一回で終わるなら、お仕置きではない」
ドクトルは苦笑した。
「なるほど。これは継続案件か」
「当然だ」
セレブリャコーフが研究室確認表の最後へ書き込む。
「第一研究室、暫定整理完了。継続確認、三日後」
「三日後?」
ドクトルが声を上げた。
「また来るのか」
ターニャは当然のように言った。
「戻っていないか見る」
「信用がない」
「実績だと言っただろう」
ドクトルは肩を落とした。
「三日後まで、床を守る戦いが始まるわけだ」
「大げさに言うな」
「少佐、これは私にとって大きな戦いだ」
「なら勝て」
それだけ言って、ターニャは次の控えを見た。
「次は資材控え棚だ」
ドクトルは一瞬、研究室を振り返った。研究員たちはまだ棚の前で動いている。ヴェーバーは追加確認候補の一覧を作り、フェルスターは椅子の上から救出された控えを束ね直している。
彼は小さく息を吐いた。
「少佐」
「何だ」
「私は、少しだけ感謝している」
「言うなら作業で返せ」
「情緒の入り込む余地がないな」
「研究室には余地が足りていない。情緒を置く場所もない」
「それは上手い」
「褒めるな。移動だ」
ターニャは扉へ向かった。
セレブリャコーフが控えを抱え直し、ドクトルが後に続く。
研究室を出る直前、ヴェーバーが小さく頭を下げた。
「少佐、ありがとうございました」
ターニャは足を止めた。
「礼は不要だ。三日後に戻っていなければ、それでいい」
「はい」
「ドクトルの言葉が分からない時は、現場の語に直して聞き返せ。雰囲気で頷くな」
ヴェーバーは真剣に頷いた。
「分かりました」
ドクトルが少し傷ついた顔をした。
「少佐、私の言葉はそこまで難解か」
ヴェーバーが固まる。
ターニャは即答した。
「難解ではない。長い」
「それも傷つく」
「短くしろ」
今度はフェルスターが、机の向こうで小さく頷いてしまった。
ドクトルはそれを見逃さなかった。
「フェルスター」
「いえ、博士、作業に戻ります」
「よろしい」
ターニャは呆れた顔で扉を出た。
研究棟の廊下へ出ると、空気が少し冷たく感じた。研究室の中が人と物と紙で詰まっていたせいだろう。ターニャは一度だけ息を整え、次の目的地へ向かう。
ドクトルは隣を歩きながら言った。
「少佐、私は今日、研究者としての誇りを何度か棚に移された気分だ」
「保管場所が決まって良かったな」
「君は本当に容赦がない」
「まだ始まったばかりだ」
ドクトルは足を止めかけた。
「まだ?」
セレブリャコーフが丁寧に答える。
「はい。次は資材控え棚、その後、倉庫側確認です」
「少尉、君の声は丁寧なのに逃げ場がない」
「ありがとうございます」
「褒めていない」
「承知しています」
ターニャは振り返らずに言った。
「行くぞ、ドクトル。夢には棚番だけでなく、戻し先も要る」
ドクトルは一瞬だけ黙り、それから苦笑した。
「少佐、君は今日、ずいぶん洒落た罰を思いついたものだ」
「お前が昨日、長官を呼んだ代金だ」
「分割払いは」
「認めない」
廊下の先には、資材控え棚へ続く扉があった。
ドクトルのお仕置きは、研究室の床を取り戻しただけでは終わらなかった。むしろ、そこからが本番だった。研究の夢は、棚の前でさらに現実へ近づけられることになる。
彼がどれほど嘆こうと、ターニャは止める気がなかった。
そしてセレブリャコーフは、次の確認欄へ、既に日付と時刻を書き込んでいた。
ごめんなさい、ターニャとドクトルの絡みが好きなんです泣
今回は前後の2話で終わる予定です。
次に読みたい展開はどちらですか?(※構成上、前後する可能性あり)
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イギリス戦方面
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帝国内政(モレル関連)