資材控え棚の扉は、研究室の奥にあった。
正確には、奥と言うより、研究室と倉庫の境目に押し込まれた小部屋である。厚い木扉には古びた札が掛けられ、そこには資材控え棚とだけ書かれていた。だが、扉の前に置かれた小箱、壁際へ立て掛けられた使途不明の棒状部品、床に置かれた空の容器を見る限り、控え棚というより、研究室から追い出されたものが最後に流れ着く河口に近かった。
ターニャは扉の前で止まった。
ドクトルも止まった。
セレブリャコーフは筆記板を構えた。
誰もまだ扉を開けていない。
だが、既に結果は半分見えていた。
「ドクトル」
「何だ、少佐」
「開ける前から嫌な予感がする」
「研究者の勘かね」
「違う。床に置かれた箱が証拠だ」
「これは一時的な退避で」
「その言葉は午前で死んだ」
ドクトルは少しだけ口を閉じた。
セレブリャコーフが床の小箱へ視線を落とす。
「札がありません」
「昨日まではあった」
ドクトルが言う。
ターニャは彼を見た。
「昨日までは、という答えは保管理由にならない」
「今日は手厳しいな」
「昨日、長官を呼んだ男に優しくする理由がない」
「それを言われると、私は少し弱い」
「少しで済むのが問題だ」
ターニャは扉を指した。
「開けろ」
ドクトルは鍵を取り出した。鍵束の中から一本を選ぶまでに少し時間が掛かる。ターニャは何も言わなかったが、その沈黙が痛い。
ようやく鍵が回り、扉が開いた。
中の光景を見て、ターニャは無言になった。
無言になった時のターニャは、怒鳴る時より怖い。
小部屋の中には棚が三列あった。棚そのものは頑丈で、使い方次第では十分に機能したはずだ。だが、現実には、箱、瓶、封筒、布で包まれた器具、古い台帳、使用済みの測定器、予備部品が混在していた。棚札はある。あるが、ところどころ古い札の上へ新しい札が重ねられ、その新しい札も端が剥がれている。
床に箱がある。
棚に空きがある。
空きがあるのに床に箱がある。
ターニャは、その三つを順番に見た。
「説明しろ」
短い。
ドクトルは小部屋を見回した。
「ここは、研究の呼吸を支える場所で」
「説明しろと言った。飾るな」
「……資材の一時保管場所だ」
「一時保管に期限は」
「あるべきだ」
「実際には」
「曖昧なものもある」
「よろしい。認識はあるな」
「よろしいのか?」
「第一歩としてはな」
セレブリャコーフが記録する。
「資材控え棚、期限不明の一時保管あり。棚札の重複あり。床置きあり」
ドクトルが少し顔をしかめる。
「少尉、君の筆は容赦がない」
「見た通りに書いています」
「見た通りという言葉は、ときに残酷だ」
「はい」
否定しない。
ターニャは小部屋へ入った。奥へ進む前に、足元の箱を指す。
「これは何だ」
ドクトルが覗き込む。
「試験用の接続部品だな」
「なぜ床にある」
「棚へ戻す前に、別の確認が入って」
「担当」
「ヴェーバーか、フェルスターか」
「お前の研究室だろう。誰が置いたか分からないのか」
ドクトルは黙った。
ターニャはセレブリャコーフを見た。
「未確認扱いだ。中身、担当、戻し先、期限の四項目を付ける」
「はい」
セレブリャコーフは紙札を取り出した。午前に使ったものと同じだ。ドクトルはそれを見て、少しだけ悟った顔になった。
「少尉、まだ札を持っていたのか」
「はい」
「どれだけある」
「必要数です」
「数を言わないところが怖いな」
「不足すれば追加します」
「夢も希望もない」
「棚には札が必要です」
ターニャは箱を持ち上げようとして、重さを確かめただけで手を離した。
「重い。床に置いた理由は理解した」
「では」
「理解と許容は違う。腰を壊す位置に置くな。下段棚を空けろ」
「少佐、今度は棚の再配置か」
「お前の罰は進化する」
「研究のようだな」
「罰に誇りを持つな」
ドクトルは口をつぐみ、箱の置き場を探した。だが、下段棚には古い台帳が詰まっている。
ターニャがそこへ目を向ける。
「この台帳は」
「古い試験記録だ」
「使うのか」
「参照する可能性が」
「また可能性か」
「研究とは可能性を追うものだ」
「なら、可能性にも場所を決めろ。ここは重い部品の棚へ変更する。台帳は記録棚へ移せ」
ドクトルは少しだけ抵抗するように台帳を見た。
「少佐、それは簡単に移せるものではない。古い記録には、当時の試行錯誤が」
「読める状態で別棚へ移せと言っている。捨てろとは言っていない」
「……なるほど」
「感傷で床を塞ぐな」
その言葉に、ドクトルはふと黙った。
感傷。
ターニャは、何気なく言ったのだろう。だが、ドクトルには少し刺さったようだった。
セレブリャコーフも、その沈黙に気付いた。筆記板へ目を落としながら、書く手をわずかに緩める。
ターニャは棚を見たまま言う。
「何だ」
「いや」
ドクトルは台帳の背を指先で撫でた。
「古い記録というものは、失敗の墓標でもある。誰かが寝ずに書き、誰かが怒鳴り、誰かが手を焼き、そして成果にならなかったものだ」
「だから保管するなとは言っていない」
「分かっている。だが、時々思うのだよ。こういう失敗を無駄にしたくないと」
ターニャは少しだけ目を細めた。
ドクトルは、いつもの芝居がかった調子を保っていた。だが、言葉の底に少し違うものが混じっている。
「ドイツが勝つためだ、と言えば簡単だ。実際、私は勝たせたい。軍が勝ち、国家が生き残り、研究が踏み潰されずに済む未来が欲しい」
ドクトルは台帳から手を離した。
「だが、それだけではない。私はこの国の人間が、ただ無策で砲弾に晒されるのを見たくない。兵が、技術者が、工員が、子供までが、後から『もっと早くできたはずだ』と言われる未来は嫌だ」
セレブリャコーフの手が止まった。
ターニャも何も言わなかった。
ドクトルは少し照れたように肩を竦める。
「もちろん、私は変人だ。そこは否定せん。研究室もこのざまだ。少佐に床を叱られる程度には、生活能力に疑問がある」
「疑問ではなく事実だ」
「そこで刺すかね」
「話を逸らすな」
「逸らしてはいない。私は、自分にできることが研究しかないと思っているだけだ」
ドクトルは、少し遠くを見るような目をした。
「誰かが前線へ行く。誰かが書類を整える。誰かが警備に立つ。少尉のように、上官の動線まで整える者もいる。少佐のように、嫌な顔をしながら国家の面倒を背負う者もいる」
セレブリャコーフは少しだけ目を伏せた。
ターニャは無表情に近い顔のままだったが、完全には切らなかった。
「私は、私の机でできることをしたい。変人なりにだ。君たちが明日も机に座れるように、兵が少しでも余計に帰れるように、国民がただ殴られるだけで終わらないように。そう思うことくらいは、研究者にも許されるだろう」
小部屋の中が静かになる。
薬品の匂い、古い紙の匂い、金属の冷えた匂いが混じる。棚はまだ散らかっている。床にも箱がある。美談に変わるような場所ではない。
だからこそ、ドクトルの言葉は少しだけ素直に聞こえた。
ターニャはしばらく黙っていた。
やがて、短く言う。
「なら、なおさら棚を整えろ」
ドクトルが目を瞬かせた。
「少佐」
「お前が守りたいと言うなら、守れる形にしろ。研究が必要なら、必要な時に部品が見つかるようにしろ。失敗を無駄にしたくないなら、失敗記録を読める棚へ入れろ。兵を帰したいなら、試験資材を床で眠らせるな」
声は厳しい。
だが、軽くはなかった。
「志は認める。だから、形にしろ」
ドクトルは黙った。
セレブリャコーフも、静かに頷いた。
「私も、そう思います。ドクトルの研究が必要なら、後で誰かが引き継げる形で残すべきです」
「少尉まで」
「はい。気持ちは、分かります。ですが、探せない記録は使えません」
ドクトルはしばらく二人を見ていた。
それから、小さく笑った。
いつもの大げさな笑いではない。少し困ったような、少し嬉しそうな笑みだった。
「なるほど。私は今、ひどく正論で殴られている」
「殴ってはいない」
「では、棚で殴られている」
「棚の方が迷惑だ」
ターニャがそう返すと、空気が少しだけ緩んだ。
ドクトルは台帳を両手で持ち上げた。
「よろしい。旧記録は記録棚へ移す。ただし、廃棄はせん」
「廃棄しろとは言っていない」
「追加確認候補には一覧を付ける」
「期限もだ」
「分かっている。期限も付ける。少佐、君は本当に逃げ道を残さない」
「逃げるからだ」
「否定できない」
ドクトルは小部屋の外へ声を掛けた。
「ヴェーバー、フェルスター、二人とも来たまえ」
廊下の向こうから、先ほどの二人が顔を出した。
「博士、何か」
「この棚を直す。旧記録は記録棚へ移す。追加確認候補は一覧化する。重い部品は下段へ。床の箱は今日中に消す」
ヴェーバーは目を丸くした。
「今日中に、ですか」
「そうだ。今日中だ」
フェルスターが少しだけドクトルを見た。
「博士が、そう仰るのですか」
「私が言っている。聞こえただろう」
「はい」
ターニャが横から言う。
「今の指示を紙にしろ」
フェルスターが慌てる。
「はい」
「ドクトル、もう一度言え。今度は書ける速度で」
ドクトルは少しだけ胸を張った。
「よろしい。諸君、これは研究の未来を守るための」
「ドクトル」
「……棚整理だ」
「最初からそれでいい」
ヴェーバーが、ほんの少し笑った。
ドクトルは気付いたが、怒らなかった。むしろ、少しだけ満足そうだった。
「旧記録は記録棚へ移す。追加確認候補は一覧にする。重い部品は下段へ置く。床置きは本日中に解消する。これでどうかね、少佐」
「よろしい」
「よろしい、を貰ったぞ。諸君、これは珍しい」
「騒ぐな」
「はい」
セレブリャコーフが記録する。
「資材控え棚、整理方針確定。旧記録移動、候補一覧化、重量物下段、床置き解消。本日中」
ターニャは小部屋の奥へ進み、棚札を一つ剥がれかけたまま指で押さえた。
「札が古い。貼り直せ」
「はい」
「略語は使うな。誰が見ても分かる名称にしろ」
フェルスターが問う。
「研究室内の略称も不可ですか」
「不可だ」
ドクトルが少しだけ惜しそうな顔をした。
「便利なのだが」
「部外者が読めない便利は、事故の種だ」
「少佐、君の言葉は今日、倉庫係の魂を持っている」
「余計な魂を増やすな」
作業が始まった。
旧台帳が棚から降ろされ、別棚へ移す束と、追加確認候補の束に分けられる。部品箱は重さを確認され、下段へ移る。床の箱には札が付き、中身と戻し先が記録される。フェルスターは最初、少し不満そうだったが、作業が進むうちに表情が変わっていった。
「博士、この方が探しやすいですね」
「言うな。私も今、それに気付いている」
「はい」
「そこは気付いていないふりをしたまえ」
ヴェーバーが今度ははっきり笑いそうになり、慌てて棚へ向き直った。
ターニャは呆れ顔で見ている。
「部下に気を遣わせるな」
「研究室にも繊細な上下関係がある」
「今のは繊細ではなく茶番だ」
「少佐、君はほのぼのした空気にも刃を入れる」
「作業中だ」
セレブリャコーフが紙札を配りながら言う。
「ですが、作業速度は上がっています」
「少尉、そこは見逃してくれるのかね」
「必要な進行であれば」
「寛大だ」
「時間内に終わる範囲であれば」
「条件付きだった」
ターニャは棚の整理が進むのを見ながら、ふとドクトルへ言った。
「さっきの話だが」
「どれだ」
「守りたい、という話だ」
ドクトルの手が少しだけ止まった。
「何かね」
「言う相手を選べ。会議で言えば、利用される」
声は低い。
ドクトルは、しばらくターニャを見た。
「心配してくれているのか」
「実務上の注意だ」
「少佐らしい」
「茶化すな」
「分かっている」
今度の返事は、いつもの調子より少しだけ静かだった。
「私の言葉が、誰かに都合よく切られることはあるだろう。研究を守ると言ったはずが、別の何かを押し通す旗にされることもある。それくらいは分かっているつもりだ」
「ならいい」
「だが、それでも何も言わずに研究だけを抱えるのは、私には難しい」
「だから棚から始めろ」
「そこへ戻るのだな」
「そこからしか始まらない」
ドクトルは棚札を貼り直しながら、小さく頷いた。
「よろしい。私は国家を救う前に、この棚を救う」
「順番としては正しい」
「少尉、記録してくれ。ドクトル、本日、棚を救う」
「その文言は記録しません」
「残念だ」
セレブリャコーフは淡々と答えたが、目元は少しだけ柔らかかった。
作業はさらに続いた。
やがて、小部屋の床から箱が消えた。完全に整ったとは言えない。だが、通路は通路になった。棚札は貼り直され、旧台帳は別棚へ移され、重い部品は下段へ収まった。追加確認候補には一覧作成中の札が付いた。
ターニャは小部屋の入口に立ち、全体を見た。
「よし」
短い一言だった。
ドクトルは少しだけ胸を張った。
「少佐、これは褒められていると解釈していいかね」
「半分だけ」
「残り半分は」
「三日後に戻っていなければ加算する」
「点数制か」
「減点制より優しいだろう」
「確かに」
ドクトルは棚を見た。
先ほどまで雑然としていた場所が、少しだけ別のものに見える。美しい研究の聖域ではない。だが、必要なものが必要な場所へ戻り始めた場所だ。
「少佐」
「何だ」
「私は変人だが、馬鹿ではないつもりだ」
「そこは認める」
「珍しいな」
「変人で馬鹿なら、ここまで相手にしていない」
「それは喜んでいいのか」
「好きにしろ」
ドクトルは少し笑った。
「では、喜んでおこう」
セレブリャコーフが時計を見た。
「次は倉庫側確認です。予定より十二分遅れています」
「原因は」
ターニャが問う。
セレブリャコーフはドクトルを見た。
「棚の救出作業です」
「少尉、君までそう言うのか」
「ドクトルの表現を参考にしました」
「少尉が冗談を覚えた」
ターニャがすぐに言った。
「お前のせいだ」
「名誉なことだ」
「不名誉だ」
空気が少しだけ緩む。
しかし、ターニャはすぐに次の控えを見た。
「倉庫へ行く。ここから先は、研究室内の甘えは通らん」
ドクトルは頷いた。
「分かっている」
「本当にか」
「本当にだ。棚で少し学んだ」
「少しで足りるかどうかは倉庫で見る」
ターニャは歩き出した。
ドクトルも続く。
セレブリャコーフは最後に小部屋を一度確認し、扉横の札を見た。資材控え棚。その下へ、ヴェーバーが新しい小札を足していた。
床置き禁止。
セレブリャコーフはそれを見て、わずかに頷いた。
ドクトルのお仕置きは、少しずつ研究室の形を変えていた。
だが、本当に問われるのは次だった。
研究者の言葉が、研究室を出て、倉庫の台帳と棚番の前で通用するかどうか。
そこでは、ドクトルの変人ぶりも、ターニャの容赦のなさも、セレブリャコーフの丁寧な逃げ道封鎖も、さらに別の形で試されることになる。
お仕置き編は全3話でその後本編です。
次に読みたい展開はどちらですか?(※構成上、前後する可能性あり)
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イギリス戦方面
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帝国内政(モレル関連)