幼女戦記 〜旗を高く掲げよ〜   作:猫敷

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閑話:ドクトルお仕置き編3 未来には戻し先が要る

 

 倉庫側確認は、研究室の棚よりも容赦がなかった。

 

 研究室では、混乱にもまだ言い訳の余地があった。着想、試行、途中経過、仮置き、急ぎの確認。そうした言葉で、多少は煙に巻ける。少なくとも、ドクトル自身はそう思っていた。

 

 だが、倉庫は違う。

 

 倉庫の棚には、夢も浪漫も入らない。入るのは箱であり、瓶であり、部品であり、台帳であり、封緘済みの容器である。棚番があり、数量があり、搬出日があり、受領者がある。そこから外れたものは、どれほど高尚な理由があっても、ただの不一致だった。

 

 ターニャは、その不一致を一つずつ拾った。

 

「この棚番は控えと違う」

 

「昨日の搬出時に仮で」

 

「仮なら仮の札を付けろ。空欄にするな」

 

「こちらの数量は」

 

「研究室側の受領控えと合わない。どちらかが一行ずれている」

 

「すぐ確認します」

 

「今だ」

 

 倉庫長は、研究室の者たちよりもずっと静かに追い詰められていた。彼は怠慢な男ではない。むしろ、真面目な部類だろう。だが、真面目であることと、誤差を出さないことは別の問題である。几帳面な人間ほど、前提がずれた時に同じ形式でずれ続けることがある。

 

 ドクトルは横で見ながら、何度か口を挟もうとして、そのたびにターニャの視線で止められた。

 

 余計な説明をするな。

 

 そう言われているのは明らかだった。

 

 セレブリャコーフは、午前から続く確認事項を一つずつ記録していた。研究室の棚、資材控え棚、倉庫の台帳、封緘変更、搬出控え、責任者欄。すべてが細く繋がり、やがて一枚の補正表へ移っていく。

 

 ドクトルは、初めのうちこそ芝居がかった不満を口にしていた。

 

「少佐、私の研究は倉庫番の試験を受けている気分だ」

 

「合格しろ」

 

「研究者の魂が棚番に圧迫されている」

 

「圧迫される場所に置くな」

 

「君は本当に一切の逃げ道を」

 

「棚の前では逃げるな」

 

 だが、時間が進むにつれ、彼の声は少しずつ静かになった。

 

 理由は単純だ。

 

 ターニャの指摘は、正しかった。

 

 棚番が違えば、部品は見つからない。数量がずれれば、次の試験が止まる。封緘変更の写しが回らなければ、通路の警備兵が止める。責任者名が部署名で済まされていれば、後で誰も自分の判断だと言わない。

 

 それは、研究の敵ではない。

 

 研究を前へ進めるために必要な足場だった。

 

 夕方近くになって、倉庫の確認はようやく一段落した。完了ではない。一段落だ。ターニャは完了という言葉を簡単には使わなかった。少なくとも、この日の倉庫に対しては。

 

「今日中に直るものと、明日以降に回すものを分けろ」

 

 ターニャは倉庫長へ言った。

 

「今日中に直るものは、棚札、封緘変更控え、床置きの解消。明日以降へ回すものは、旧台帳の再照合と、責任者欄の洗い直しだ」

 

「承知しました」

 

「ドクトル」

 

「何だ、少佐」

 

「研究室側も同じ分類で返せ。今日中に直すものと、明日以降の確認へ回すものだ。全部を一度に抱えるな」

 

「少佐、私は今、少しだけ君を尊敬している」

 

「やめろ。気味が悪い」

 

「ひどい」

 

「それより分類しろ」

 

「承知した」

 

 セレブリャコーフが控えを閉じた。

 

「本日の現場確認は、ここで一度切れます。残りは再確認表にまとめます」

 

 その一言で、場の空気がようやく少しだけ緩んだ。

 

 倉庫長は明らかに安堵していた。ヴェーバーとフェルスターも、研究室から引き続き付き合わされていたため、顔に疲れが出ている。ドクトルも同じだった。彼は変人である。変人であるが、無尽蔵ではない。夢や未来の話なら何時間でも語れるのだろうが、棚番と責任者欄と封緘控えを何時間も見せられれば、さすがに疲れる。

 

 ターニャは最後に、倉庫の通路を一度だけ見た。

 

「床は見えるな」

 

 ドクトルが苦笑した。

 

「今日の勝利は床か」

 

「床を笑うな。床が見えなければ、誰かが転ぶ」

 

「そうだったな」

 

 ターニャは何も返さず、倉庫を出た。

 

 廊下へ戻ると、夕方の光が細く窓から入っていた。研究棟と倉庫の間の通路は、昼間より静かだった。人の流れが減り、代わりに遠くの作業音だけが響く。金属が触れる音、台車の軋み、誰かが戸棚を閉める音。

 

 その中で、ドクトルがふと足を止めた。

 

「少佐」

 

「今度は何だ」

 

「コーヒーを飲まないか」

 

 ターニャが振り返った。

 

「何を言っている」

 

「見れば分かるだろう。私は疲れた。君も疲れた。少尉も疲れた。こういう時、文明人は熱い飲み物を口にする」

 

「文明人は、まず机を片付ける」

 

「片付けたではないか。少なくとも床は救った」

 

「救ったのは私たちだ」

 

「では、救済の祝杯だ」

 

「コーヒーを祝杯にするな」

 

 セレブリャコーフが控えを抱えたまま、少しだけ首を傾けた。

 

「少し休憩を取るのは、よいかもしれません。報告書へ移す前に、確認事項を整理できます」

 

 ターニャはセレブリャコーフを見た。

 

 セレブリャコーフは平然としている。だが、朝からずっと動き続けているのは事実だった。研究室、棚、倉庫。書き、見て、分け、また書く。副官の疲労は目立たない。目立たないが、ないわけではない。

 

 ターニャは短く息を吐いた。

 

「十分だ」

 

 ドクトルの顔が明るくなる。

 

「十五分にしよう」

 

「八分に減らすぞ」

 

「十分で結構だ」

 

 ドクトルはすぐに折れた。

 

 彼が案内したのは、研究室の隣にある小さな準備室だった。研究員たちの休憩にも使われているらしく、壁際に小さな棚と湯沸かし器があり、丸い卓が一つ置かれている。研究室本体に比べれば、驚くほどまともだった。

 

 ターニャは入ってすぐ、卓の上を見た。

 

「ここは片付いているな」

 

「私は休息の場には敬意を払う」

 

「研究室にも払え」

 

「今後は払う。少佐の監視があるからな」

 

「監視ではない。再確認だ」

 

「同じようなものだ」

 

「違う」

 

 ドクトルは白衣を羽織った。

 

 倉庫へ行く時は外していたが、準備室の壁に掛けてあったらしい。白衣を着ると、彼は急に研究者らしく見えた。いや、研究者なのだから当然なのだが、さっきまで棚と床と封緘に追い回されていた姿のせいで、白衣が少し芝居の衣装にも見える。

 

 セレブリャコーフが卓の端へ控えを置き、邪魔にならないよう揃えた。ターニャは椅子へ座る前に、部屋の空気を一度だけ見回す。

 

 大きな問題はなさそうだった。

 

 ドクトルは湯を沸かし、コーヒーを用意した。手つきは意外に慣れている。器具の扱いは雑ではない。研究室の棚とは違い、目の前で必要な作業についてはむしろ丁寧だった。

 

「砂糖は」

 

「不要だ」

 

「少尉は」

 

「少しだけお願いします」

 

「よろしい。少尉には少しだけ甘さを」

 

「余計なことを言うな」

 

 ターニャが即座に切る。

 

 ドクトルは肩をすくめ、カップを三つ置いた。

 

 コーヒーの香りが準備室に広がる。薬品と金属の匂いに混じっても、熱い飲み物の匂いは分かりやすい。ターニャはカップを受け取り、すぐには飲まず、湯気の立ち方を見た。

 

 セレブリャコーフは小さく礼を言って、席へ着く。

 

 ドクトルは白衣の袖を少し直し、自分も椅子へ腰を下ろした。

 

 数秒、誰も話さなかった。

 

 お仕置きが一休みした瞬間だった。

 

 その静けさは、国家保安本部の会議室の沈黙とは違っていた。誰かが責任を逃れようとしているわけではない。誰かが相手を試しているわけでもない。ただ、疲れた人間が熱い飲み物の前で言葉を選んでいる静けさだった。

 

 先に口を開いたのはドクトルだった。

 

「少佐」

 

「何だ」

 

「君は、未来をどう考える」

 

 ターニャはカップへ口を付けかけた手を止めた。

 

 セレブリャコーフも、わずかに目を上げる。

 

 ドクトルはいつものように大げさな身振りをしなかった。白衣姿で、カップを両手に包むように持っている。声も、先ほどまでの芝居がかった調子より少し低かった。

 

「意味は、だ。未来というものを、君はどう考えるかね」

 

「質問が大きすぎる」

 

「研究者は時々、大きな問いを持たなければならん」

 

「倉庫の棚も持て」

 

「持った。今日は十分に持った」

 

 そこで少しだけ、空気が緩む。

 

 だが、ドクトルはすぐに続けた。

 

「私は、未来を装置のように考えることがある。部品があり、熱があり、誤差があり、動く部分と壊れる部分がある。うまく組めば、人を遠くへ運ぶ。失敗すれば、作った者ごと吹き飛ぶ」

 

 ターニャは黙って聞いている。

 

「私はドイツを勝たせたい。これは本心だ。勝利がなければ、研究も国民も守れない。だが、勝てばそれでよいとも思っていない。勝っても、何も残らなければ意味がない。兵が戻り、工員が働き、子供が飢えず、研究者が次の机へ向かえる。そういう未来でなければ、勝利という言葉も痩せる」

 

 ドクトルはコーヒーを一口飲んだ。

 

「私は変人だ。これはもう否定できん。研究室の床も証明した。だが、変人なりに考えている。私にできることは、兵器を少しでもよくすることだ。兵を守る装置を作ることだ。敵より早く、敵より正確に、敵より遠くへ届くものを作ることだ」

 

 彼は、ターニャを見た。

 

「それが君たちを守ることにも繋がるなら、私は嬉しい」

 

 セレブリャコーフの指が、カップの取っ手に触れたまま止まった。

 

 ターニャは表情を変えなかった。だが、すぐには返さない。

 

 ドクトルは続ける。

 

「少佐、君は無茶をする。いや、無茶というより、無茶を無茶と認めない顔で机へ向かう。少尉も同じだ。静かに支えるが、静かだから疲れないわけではない。私は、それを横で見ている」

 

「見ているなら、少しは仕事を増やすな」

 

「そこは反省している」

 

「少しだけか」

 

「今日は、かなりだ」

 

 ドクトルは少し笑った。

 

「だが、私は君たちが倒れる前に、少しでも良い道具を渡したいと思っている。兵器と言うと物騒だが、要は道具だ。人を殺すためだけではない。味方を帰すための道具でもある。橋を落とすものは、橋を守る時間を稼ぐものでもある。防護装置は、誰かの肺や手足を守る。通信機は、無駄な死を減らすかもしれない」

 

 ターニャはようやくカップを置いた。

 

「ドクトル」

 

「何だ」

 

「お前の言う未来は、善意だけでできているわけではないな」

 

「もちろんだ。そんな薄いものではない」

 

「兵器は兵器だ。誰かを守るということは、誰かを殺すことと同じ線の上にある」

 

「分かっている」

 

「ならいい」

 

 ターニャは少しだけ視線を落とした。

 

「私にとって未来は、信じるものではない。残すものだ」

 

 ドクトルは黙った。

 

「選択肢が残っている状態を、私は未来と呼ぶ。勝つなら、勝った後に何を残すか。負けるなら、負ける前に何を残すか。戦争が長引くなら、どの資源を守るか。短く終わるなら、どの混乱を抑えるか。どの場合でも、選択肢がゼロになれば終わりだ」

 

 セレブリャコーフが静かに聞いている。

 

 ターニャは続けた。

 

「だから、私はお前の研究を否定しない。装置も兵器も資料も、選択肢になる。だが、使えない形の研究は選択肢ではない。探せない記録、届かない部品、責任者のいない資材、誰も読めない文書。そういうものは未来ではなく、ただの荷物だ」

 

 ドクトルはカップを見つめた。

 

「厳しいな」

 

「お前が聞いた」

 

「そうだな」

 

「ドイツが勝つかどうかは、私一人で決められることではない。お前一人でもない。長官一人でも、総統一人でも、実際にはすべてを思い通りにはできない。だが、机の上の一枚、棚の一つ、担当者の一名なら決められる」

 

 ターニャはドクトルを見た。

 

「未来を語るなら、まずそこを落とすな」

 

 準備室に、コーヒーの香りだけが残る。

 

 ドクトルは、しばらく何も言わなかった。

 

 いつもの彼なら、そこで大げさに拍手でもしそうなものだった。少佐殿、実に見事な現実主義だ、とでも言ったかもしれない。だが、この時だけは違った。

 

 彼は、真面目に受け取っていた。

 

「少佐」

 

「何だ」

 

「君は、未来をあまり信用していないのだな」

 

「未来という言葉を信用していないだけだ」

 

「同じではないのか」

 

「違う。未来を作る作業は信用する。言葉だけの未来は信用しない」

 

 ドクトルは深く息を吐いた。

 

「なるほど」

 

 セレブリャコーフが、静かに口を開いた。

 

「私は、未来は準備だと思います」

 

 二人が彼女を見る。

 

 セレブリャコーフは少しだけ戸惑ったようだったが、言葉を続けた。

 

「大きなことは分かりません。ただ、明日の予定を整えれば、朝に動けます。必要な控えがあれば、判断が遅れません。食事や休憩も、取れるようにしておけば倒れにくくなります」

 

 ターニャは何も言わない。

 

 ドクトルも聞いている。

 

「私は、そういう小さい準備の先にしか、未来はないと思います」

 

 言い終えてから、セレブリャコーフは少しだけ目を伏せた。

 

「すみません。大げさな話ではありませんが」

 

 ドクトルはゆっくり首を振った。

 

「いや、少尉。それはとてもいい」

 

 声は穏やかだった。

 

「少佐は選択肢と言い、君は準備と言う。私は装置と言った。なるほど、悪くない組み合わせだ」

 

「勝手に組み合わせるな」

 

 ターニャが言う。

 

 だが、声に棘は少なかった。

 

 ドクトルは白衣の袖を直し、少しだけ身を乗り出した。

 

「では、こうしよう。私が未来の種を作る」

 

「また種か」

 

「今回は棚番を付ける」

 

「よろしい」

 

「少佐は、その種を使える形へ削る」

 

「削る前提か」

 

「君は削る」

 

「否定はしない」

 

「少尉は、翌朝に動く形へ整える」

 

 セレブリャコーフが少し驚いた顔をした。

 

「私ですか」

 

「そうだ。君がいなければ、少佐の机はもっと荒れる」

 

「否定できない」

 

 ターニャが言うと、セレブリャコーフは困ったように微笑みかけて、すぐ真面目な顔へ戻った。

 

「必要であれば、整えます」

 

「必要だとも」

 

 ドクトルはカップを置いた。

 

「これは協定だ」

 

「大げさにするな」

 

「では、協力関係だ」

 

「それならまだ聞ける」

 

「私は夢と研究を出す。少佐は要件と責任へ落とす。少尉は実行できる順へ並べる。互いに相手の弱点を補う。どうかね」

 

 ターニャはすぐには答えなかった。

 

 窓の外では、夕方の光が薄くなり始めている。研究棟の準備室には、冷めかけたコーヒーと、棚整理後の埃っぽい空気と、少しだけ落ち着いた沈黙があった。

 

 やがて、ターニャは言った。

 

「条件がある」

 

「出たな」

 

「一つ。私の机へ持ってくる前に、棚番、担当、期限を付けろ」

 

「いきなり現実だ」

 

「二つ。比喩は別紙へ隔離しろ」

 

「隔離」

 

「本文に入れるな」

 

「研究の心が」

 

「別紙だ」

 

「……分かった」

 

「三つ。長官を勝手に呼ぶな」

 

 ドクトルは少しだけ視線を逸らした。

 

「それは」

 

「呼ぶな」

 

「場合によっては」

 

「呼ぶ前に言え」

 

「……努力する」

 

「違う。言え」

 

「言う」

 

「よろしい」

 

 セレブリャコーフが静かに言った。

 

「私からも一つよろしいでしょうか」

 

 ドクトルが向き直る。

 

「何かね、少尉」

 

「研究室の床を維持してください」

 

 ターニャがカップを持ったまま止まった。

 

 ドクトルも止まった。

 

 数秒後、ドクトルは声を出して笑った。

 

「少尉、君は最高だ」

 

「真面目に申し上げています」

 

「分かっている。だから最高なのだ」

 

 ターニャは呆れ顔で言った。

 

「少尉の条件が一番切実だな」

 

「はい」

 

 セレブリャコーフは真剣だった。

 

「床が見えなければ、確認に時間が掛かります」

 

「実に正しい」

 

 ドクトルは深く頷いた。

 

「では、それも協定に入れよう。床を維持する」

 

「協定に入れるほどのことか」

 

「私には必要だ」

 

「自覚があるなら直せ」

 

「これから直す」

 

 ターニャはしばらくドクトルを見ていた。

 

 白衣姿の変人。研究室を散らかし、長官を呼び、未来を語り、棚番で追い詰められ、なお懲りずに協定などと言い出す男。

 

 厄介だ。

 

 非常に厄介だ。

 

 だが、無価値ではない。

 

 むしろ、危険なほど価値がある。だからこそ、放置できない。

 

「分かった」

 

 ターニャは言った。

 

「協力する。ただし、お前の夢をそのまま通すとは思うな」

 

「もちろんだ。君は削る」

 

「削る。必要なら折る」

 

「折られるのは困る」

 

「折れない形で持ってこい」

 

「努力する」

 

「またそれか」

 

「持ってくる」

 

「よろしい」

 

 セレブリャコーフが静かに頷いた。

 

「では、今後の研究関連提出物は、ドクトルから事前整理済みで受領。少佐が要件化し、私が実行順へ整理します。研究室側の保管状態は三日後に再確認します」

 

「少尉、君はもう協定書を書いているような口ぶりだ」

 

「必要であれば作成します」

 

「作るな」

 

 ターニャが即座に言った。

 

「今は口頭で十分だ。紙にするとドクトルが飾る」

 

「承知しました」

 

「私は信用がないな」

 

「実績だ」

 

「今日は何度もそれを言われている」

 

「何度でも言う」

 

 ドクトルは冷めかけたコーヒーを飲み干した。

 

「よろしい。私は棚番付きの夢を持ってくる。少佐は未来を選択肢にする。少尉は明日の朝へ並べる。悪くない」

 

「最後だけ少し気取るな」

 

「少しは許したまえ」

 

「別紙へ隔離しろ」

 

「厳しい」

 

 準備室の空気は、最初より穏やかになっていた。

 

 外では研究員たちが棚の整理を続けている。倉庫では、封緘控えの写しが新しく作られているだろう。国家保安本部では、ターニャの机へ戻るべき報告が待っている。何も終わっていない。むしろ、明日から増える仕事の方が多い。

 

 だが、ただ増えるだけではない。

 

 少なくとも、三人の間には一つの線ができた。

 

 ドクトルは夢を見る。

 

 ターニャは形にする。

 

 セレブリャコーフは動かす。

 

 それは美しい友情ではない。馴れ合いでもない。互いに相手を面倒だと思い、時に容赦なく削り、時にため息をつき、それでも必要だと認める関係だった。

 

 ドクトルが立ち上がる。

 

「さて、協定の第一歩として、私は研究室の床を確認してくる」

 

「よろしい」

 

「少佐に言われて動くようで癪だが」

 

「なら自発的に動け」

 

「そうしよう。私は自発的に床を見る」

 

「言い方がもう駄目だ」

 

 セレブリャコーフが控えを抱えた。

 

「少佐、戻りましょう。報告書へ移す時間が必要です」

 

「ああ」

 

 ターニャも立ち上がった。

 

 準備室を出る前に、ドクトルがもう一度二人を見た。

 

「少佐、少尉」

 

 ターニャが振り返る。

 

「何だ」

 

「今日は、感謝している」

 

 珍しく、余計な飾りはなかった。

 

 セレブリャコーフは静かに目を伏せた。

 

「こちらこそ、確認にご協力いただきありがとうございました」

 

 ターニャは少しだけ間を置いた。

 

「次は、最初から協力しろ」

 

 ドクトルは笑った。

 

「善処ではなく、そうする」

 

「それでいい」

 

 白衣のドクトルは、研究室の方へ戻っていった。背中は相変わらず大げさで、歩き方にもどこか芝居がかっている。変人であることに変わりはない。変わりはないが、その背中が向かう先には、少なくとも今日、少しだけ床の見える研究室がある。

 

 ターニャはそれを見送り、短く息を吐いた。

 

「面倒な協力者を得たな」

 

 セレブリャコーフが答える。

 

「はい。ただ、必要な方だと思います」

 

「そこが一番面倒だ」

 

「はい」

 

 二人は研究棟を出て、国家保安本部へ戻る廊下を歩いた。

 

 外の光はもう夕方へ沈みかけている。今日もまた、机の上には仕事が残っている。報告書、補正表、再確認予定、長官へ上げる覚え書き。未来という言葉が、すぐに書類の束へ変わっていく。

 

 だが、それでいい。

 

 未来は、語るだけでは残らない。

 

 棚番と、担当と、期限と、使える研究と、明日の準備。

 

 そのすべてを繋いだ先に、ようやく選択肢が生まれる。

 

 ドクトルのお仕置きは、それで終わりではない。三日後には床が確認される。棚も見られる。比喩は別紙へ追いやられる。ドクトルはきっとまた大げさに嘆き、ターニャは呆れ、セレブリャコーフは丁寧に記録するだろう。

 

 だが、そこにはもう、単なる罰だけではないものがあった。

 

 厄介な研究者と、黒服の少佐と、静かな副官。

 

 それぞれが違う形で未来を見ている。

 

 そして、その違いを噛み合わせるための、小さな協力関係が始まっていた。

 




次回から本編14話スタートです。

次に読みたい展開はどちらですか?(※構成上、前後する可能性あり)

  • イギリス戦方面
  • 帝国内政(モレル関連)
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