幼女戦記 〜旗を高く掲げよ〜   作:猫敷

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セレブリャコーフの黒服イメージです。
【挿絵表示】

※アニメ風

階級はSS少尉。
ターニャの副官設定のため肩には飾緒(しょくしょ/エギュイエット)を着用。
親衛隊(SS)において飾緒をつけることができる階級は、原則として少尉以上とされていました。


第2節 白衣の寵臣は香水で隠す 前半

 

 医務側からの正式回答は、期限より早く届いた。

 

 早い返事には二種類ある。準備が整っている返事と、相手に先手を取られたくない返事だ。今回のものは、後者に近かった。

 

 封筒は厚くない。表書きは丁寧で、文面も整っている。だが、整っているわりに中身は薄い。名称、数量、保管場所、受領確認。ターニャが求めた項目のうち、すぐに埋められる場所だけが埋められ、面倒な欄には「医療上の必要により随時」や「担当医師判断」といった言葉が入っていた。

 

 つまり、答えたようで答えていない。

 

 ターニャは、紙を机へ置いた。

 

「少尉、空欄扱いに戻せ」

 

「はい。『随時』と『担当医師判断』は、確認済みとして扱いません」

 

「そうだ。便利な言葉で埋められた欄は、空欄より悪い」

 

 セレブリャコーフは、淡々と赤鉛筆ではなく黒鉛筆で印を入れた。赤を使わないのは正しい。赤は見る者の感情を先に動かす。ここで欲しいのは、感情ではなく説明だった。

 

 EVAは、窓際に立っていた。手には、小さなメモだけを持っている。部屋へ入ってから一言も発していない。

 

 ターニャは、医務側の回答をもう一度見た。

 

 薬品名はある。

 

 数量は曖昧だ。

 

 保管場所は一部しか出ていない。

 

 診療鞄の一括扱いについては、医療上の便宜とある。

 

 開始時期は未記載。

 

 指示者名もない。

 

 これでは使えない。

 

 いや、別の意味では使える。

 

 答えられない場所が、はっきり見えた。

 

「医務記録係では限界だな」

 

「担当医師本人への確認に進めますか」

 

「進める。ただし、呼び出しではなく確認だ。こちらが裁く形にするな」

 

「場所はどういたしますか」

 

「総統随行区画の近くでいい。相手の仕事場に寄せる。逃げ道を残す代わりに、鞄と記録を持って来させろ」

 

「はい。確認事項は、搬入経路、受領場所、保管、診療鞄の中身、署名欄の五点でまとめます」

 

「体調説明の経路も入れる。ただし最後でいい」

 

 セレブリャコーフが短く頷く。

 

 ターニャは、机の右端に置かれた「同一署名者集中分」の束を見た。表紙にモレルの名はない。だが、束を開けば同じ筆跡が何度も現れる。そろそろ本人に見せてもよい。

 

 本人は、まだ自分が見られているとは思っていても、どこを見られているかまでは分かっていないはずだった。

 

 医療への干渉だと思っている。

 

 だから、こちらは医療へ入らない。

 

 薬の効き目ではなく、瓶の道筋を見る。

 

 診断ではなく、扉の記録を見る。

 

 処方の正しさではなく、持ち込まれた物の控えを見る。

 

 それだけで、相手の足元は狭くなる。

 

「確認会は午後にする。朝に呼べば、相手が準備不足を理由に逃げる。夕方にすれば、誰かに相談される。昼過ぎがいい」

 

「午後一番で設定します」

 

「同席者は絞れ。こちらは私、少尉、EVA。相手側はモレル本人と記録係一名までだ」

 

「警護班は呼びますか」

 

「外で待たせる。中には入れない。相手が警護員の前で面子を保とうとすると、話が荒れる」

 

「承知しました」

 

 セレブリャコーフは、すぐに連絡票を書いた。文面は簡単だった。診療記録および搬入控えに関する確認。医療判断への照会ではない。薬品搬入、受領、保管、診療鞄の一括扱い、入退室記録について確認する。担当医師は、関係する控えを持参すること。

 

 丁寧だが、逃げる余地は少ない。

 

 ターニャは、文面に一箇所だけ線を入れた。

 

「『担当医師』ではなく、『記録上の署名者』にしろ」

 

「モレル医師と名指ししませんか」

 

「しない。だが、本人には分かる」

 

「はい」

 

 EVAが、ようやく口を開いた。

 

「来る」

 

 ターニャは、目を向けた。

 

「根拠は」

 

「怒る」

 

「怒るなら来るか」

 

「来る」

 

 それで会話は終わった。

 

 EVAの言い方はいつも短い。だが、今回は間違っていないだろう。モレルが総統の信頼を盾にしているなら、親衛隊の少佐からの確認を無視することはできる。だが、無視すれば記録に残る。出てくれば、自分の権威を見せられる。そう考えるはずだ。

 

 だから来る。

 

 そして、おそらく軽く見る。

 

 ターニャは、それでよかった。

 

 軽く見られることは、不利ではない。相手が油断して口を滑らせるなら、むしろ助かる。

 

 午後一番の確認場所は、総統随行区画から少し離れた小部屋になった。医務室ではない。国家保安本部の執務室でもない。警護記録を扱う臨時の確認室という名目で、机が一つ、椅子が四つ、壁際に記録箱が二つ置かれているだけだった。

 

 部屋は狭いが、狭すぎない。相手を追い込むためではなく、余計な随員を入れないための広さだった。

 

 ターニャは、机の向こう側に座った。セレブリャコーフは左側で控えを開き、EVAは壁に近い位置に立つ。外には護衛がいるが、扉の内側には入っていない。

 

 机上には、三種類の文書だけを置いた。

 

 薬品搬入票。

 

 診療室入退室記録。

 

 署名集中分の抜粋。

 

 最初から全部は出さない。全部を見せれば、相手は一番弱いところではなく、一番反論しやすいところを選んで話し始める。だから、入口は狭くする。

 

 約束の時刻より少し遅れて、廊下の向こうから足音が近づいた。

 

 軽くはない。だが、軍人の足音でもない。靴底が床を押し、途中で一度止まる。誰かが護衛に何かを言ったのだろう。短いやり取りのあと、扉が開いた。

 

 テオドール・モレルは、想像よりも派手だった。

 

 白衣は上等な生地に見えた。仕立ても悪くない。中に着ている服も高価なのだろう。だが、清潔感とは別だった。布地の良さと身だしなみの良さは同じではない。袖口には薬品か何かの薄い染みがあり、襟元には香水の甘い匂いが強く残っている。

 

 その香りの下に、薬品の刺激臭があった。

 

 甘い匂いで隠そうとして、隠しきれていない。むしろ混ざって、余計に鼻へ残る。診療鞄も目についた。革は良い。手入れもされている。だが、不自然に膨れている。中に詰め込まれた瓶や器具の形が、革を内側から押していた。

 

 モレルは、部屋に入るなり、ターニャの姿を上から下まで見た。

 

 視線が黒服で止まり、襟元で止まり、最後に顔で止まる。

 

 子供だと見たのか。

 

 親衛隊だと見たのか。

 

 その両方だろう。

 

「私を呼んだのは、あなたですかな」

 

 声は柔らかい。だが、柔らかさの奥に、明らかな苛立ちがあった。

 

 ターニャは、座ったまま返した。

 

「確認のためにお越しいただきました。医療判断についてではありません」

 

 モレルは、小さく笑った。

 

「それは安心しました。親衛隊の少佐が、総統の治療にまで口を出す時代になったのかと思いましたよ」

 

「治療を止める話ではありません。瓶がどこから来たかを見るだけです」

 

 笑みが少し薄くなった。

 

 モレルは、鞄を椅子の横へ置いた。置き方がぞんざいだった。中でガラスが小さく触れ合う音がした。セレブリャコーフのペン先が、一度だけ止まる。

 

 ターニャは、その音を聞いた。

 

 聞いたが、すぐには触れない。

 

「総統は、私の治療を必要としておられます。毎日の激務、会議、軍事上の判断。健康管理は国家のためでもある」

 

「必要なら、なおさら記録が必要です」

 

「記録ならあります」

 

「では、確認します」

 

 ターニャは、薬品搬入票を一枚前へ出した。

 

 日付は直近のものではない。少し前の、会議前に診療が入った日だった。相手が即座に覚えていない程度に古く、だが記録としては十分新しい。

 

「この瓶は誰が運びましたか」

 

 モレルは、紙を見た。

 

 ほんの一瞬、答えが遅れた。

 

 遅れは短い。普通なら見逃す程度だ。だが、セレブリャコーフのペンはその短さも拾った。

 

「通常の経路です」

 

「通常なら控えがあります。出してください」

 

「控えは医務側にあります」

 

「ここに提出された控えでは、搬入者が空欄です」

 

「総統の診療に必要な薬品です。いちいち全ての搬入者を細かく書くものではありません」

 

「それは、誰が決めましたか」

 

 モレルは、口元に笑みを戻した。

 

「医療現場の運用です。緊急性がある場合も多い。書類より患者が優先されるのは当然でしょう」

 

「患者を優先することと、空欄を残すことは別です」

 

「あなたは医療の緊急性をご存じない」

 

「知りません。ですから、効能も診断も聞いていません」

 

 ターニャは、もう一枚の紙を置いた。

 

 診療室入退室記録。

 

「ここでは、診療室への入室時刻と処方控えの時刻が合っていません」

 

「診療は時計のために行うものではない」

 

「警護は時計で動きます」

 

 モレルの笑みがまた薄くなった。

 

 彼は椅子に深く座り直し、腹の前で手を組んだ。その指は太く、爪の周りに薬品の色が薄く残っている。瓶の栓を扱い慣れた手だった。診療器具の扱いに不慣れな者の手ではない。

 

 その慣れが、悪いわけではない。

 

 問題は、慣れすぎていることだった。

 

 瓶が特別なものではなく、毎日の道具になっている。毎日の道具だから、記録が雑になる。雑になっても誰も止めない。総統に近い医師だからだ。

 

 ターニャは、淡々と続けた。

 

「治療内容ではなく、通過記録を確認しています。この日は、薬品搬入の控えに受領場所がありません。診療室入室の記録とも合いません」

 

「忙しい日でした」

 

「忙しいなら、記録を簡略にしてよいという取り決めがありますか」

 

「取り決めというほどのものではない。実務です」

 

「では、実務の根拠を出してください」

 

 モレルは、初めて明確に不快な顔をした。

 

「少佐、あなたは私の仕事を理解していない。総統のお身体は、通常の患者とは違う。私はその状態を毎日見ている。必要な時に必要な処置をする。それを、扉だの瓶だのと」

 

「扉と瓶を見ています」

 

「だから、それが医療への干渉なのです」

 

「違います」

 

 ターニャは、短く切った。

 

 部屋の空気が止まる。

 

 モレルの目が細くなった。セレブリャコーフはペンを動かし続ける。EVAは壁際で変わらない。

 

 ターニャは、声を荒らげなかった。

 

「私は、あなたの処方が正しいかを聞いていません。薬の効き目も聞いていません。聞いているのは、誰が運び、誰が受け取り、どこで保管したかです」

 

「それは医療の一部です」

 

「警護の一部でもあります」

 

 モレルは、鼻で息をした。

 

「親衛隊は何でも自分たちの領分にしたがる」

 

「総統の部屋へ入るものは、警護の確認対象です」

 

「総統ご自身が私を信頼しておられる」

 

「それなら、記録で困ることはありません」

 

 また、短い沈黙が落ちた。

 

 モレルは、鞄に手を置いた。無意識なのか、見せつけるためなのかは分からない。革の表面がわずかに沈む。中の瓶が押し合う音がした。

 

 EVAが、ぽつりと言った。

 

「空欄」

 

 モレルの視線がEVAへ向いた。

 

「何ですかな」

 

 EVAは答えない。

 

 ターニャが代わりに言った。

 

「埋めてください」

 

「何をです」

 

「搬入者、受領場所、保管場所、診療鞄の一括扱いの根拠です」

 

「今ここで全てを?」

 

「分かる範囲で結構です。分からない場所は、分からないと書いてください」

 

 モレルは、机上の紙を指で軽く叩いた。

 

「このような確認が、総統の診療を遅らせることになれば、責任はどなたが取るのですかな」

 

 来た。

 

 ターニャは、内心でそう思った。

 

 総統の診療を遅らせる。

 

 総統の健康を妨げる。

 

 総統の信頼に逆らう。

 

 おそらく、モレルが最も使い慣れている盾だった。

 

 だが、その盾は医療判断に対して有効なのであって、記録の確認に対しては薄い。

 

「診療を止める指示は出していません。確認項目を埋めるだけです」

 

「それでも手間は増える」

 

「総統周辺の手間です。必要なら増やします」

 

 モレルは、じっとターニャを見た。

 

 初めて、子供を見る目ではなくなった。

 

 ターニャは、もう一枚の紙を出した。

 

「この日、診療後に総統の面会順が変わっています。体調説明は誰を通しましたか」

 

「私は医師として必要な説明をしただけです」

 

「誰にですか」

 

「侍従を通じて、必要な者へ」

 

「必要な者とは誰ですか」

 

「その時々です」

 

「では、その時々の記録を出してください」

 

 モレルは、口を閉じた。

 

 今度の沈黙は、少し長かった。

 

 ターニャは、追い詰めすぎないよう、紙を引いた。

 

「内容は不要です。誰へ伝えたかだけで結構です」

 

「総統の体調に関する情報です。慎重に扱うべきものだ」

 

「慎重に扱うために、経路を確認します」

 

「経路、経路と。医療は鉄道ではありませんよ」

 

「国家の中枢は、通った道を残します」

 

 モレルの頬がかすかに動いた。

 

 怒りだろう。

 

 だが、まだ声には出さない。彼は自分が総統の近くにいることを知っている。その近さが、相手を退かせることも知っている。だから、怒鳴る必要がないと思っている。

 

 ターニャは、その態度を見た。

 

 総統に近いことが、本人の資格になっている。

 

 医師であること以上に、総統が信頼していることが盾になっている。

 

 厄介だった。

 

 だが、同時に弱点でもある。

 

 盾が強い者は、盾の外での準備を怠る。

 

 記録の穴を軽く見る。

 

「モレル医師」

 

 ターニャは、初めて名前を呼んだ。

 

 モレルの目が動く。

 

「こちらは治療の可否を決めません。あなたが必要だと言う処置を、この場で止めるつもりもありません。ただし、薬品が総統随行区画へ入る以上、搬入、受領、保管、入退室、説明経路は記録へ戻します」

 

「戻す、とは?」

 

「抜けている欄を埋めるという意味です」

 

「それは私への疑いですか」

 

「確認です」

 

「疑いと確認は、便利に言い換えられる」

 

「疑いなら、先にあなたの名を表題に出しています」

 

 モレルは黙った。

 

 セレブリャコーフのペン先が、紙の上を静かに走る。

 

 EVAが、目を伏せたまま言った。

 

「名前、ない」

 

 モレルは、再びEVAを見た。だが、彼女はもう何も言わない。

 

 ターニャは、机の上に置いた表紙をモレルへ向けた。

 

 総統随行区画における搬入・入退室記録の照合。

 

 そこには、モレルの名はない。

 

 それを見て、モレルの表情がわずかに変わった。

 

 名前がないことに安心したのではない。

 

 名前がないからこそ、自分から医療への干渉だと騒ぎにくいのだと気づいた顔だった。

 

 ターニャは、続けた。

 

「この表題で進めます。あなた個人ではなく、総統周辺の確認です」

 

「しかし、私の署名が多いのでしょう」

 

「記録上、そう見えます」

 

「なら、結局は同じことだ」

 

「同じかどうかは、記録を埋めてから判断します」

 

 モレルは、深く息を吸った。

 

 香水と薬品の匂いが、少し強くなった。本人が動いたせいか、鞄の中身のせいかは分からない。狭い部屋では、匂いが逃げない。

 

 セレブリャコーフは、表情を変えない。

 

 だが、ターニャは彼女のペンがほんの少し遅くなったのを見た。

 

 不快ではあるのだろう。

 

 不快であることを、記録にはしない。

 

 モレルは、ようやく鞄を開いた。

 

 革の蓋が上がると、瓶の首がいくつも見えた。布で包まれたもの、金属の小箱、小さな紙包み、注射器のケース。並びは雑ではない。むしろ、使い慣れている者の手で詰められている。どこに何があるか、本人にはすぐ分かるだろう。

 

 それが余計に悪い。

 

 慣れている。

 

 総統の近くへ入る鞄として、あまりに日常的に扱われている。

 

「この中身を一つずつ書けと?」

 

 モレルが言った。

 

「診療のたびに持ち込むものと、その日だけ持ち込むものを分けてください」

 

「そんな分類は医療上の意味が薄い」

 

「警護上は意味があります」

 

「あなたは、本当にそればかりですな」

 

「私の担当はそこです」

 

 モレルは、瓶を一本取り出した。

 

 動きは滑らかだった。瓶の首をつまむ指に迷いがない。ラベルを見る前に、中身を把握しているように見える。彼はそれを机に置きかけ、途中で止めた。

 

 ターニャは、その止めた動きを見た。

 

「置いてください」

 

「壊れ物です」

 

「机は平らです」

 

 モレルは、わずかに顔をしかめ、瓶を置いた。

 

 小さな音がした。

 

 EVAが言った。

 

「一本」

 

 セレブリャコーフが記録する。

 

 モレルは、次の瓶に手を伸ばした。

 

「これは常備しているものです」

 

「名称を」

 

 モレルは答えた。

 

 セレブリャコーフが書く。

 

「搬入控えでは、名称が別表記です」

 

 セレブリャコーフが静かに補足した。

 

 モレルは、すぐに言った。

 

「略称です。医療現場では通じます」

 

「正式名称に揃えてください」

 

 ターニャが言う。

 

「いちいち正式名称で書いていては、手間が」

 

「総統周辺へ入るものです。手間は理由になりません」

 

 モレルは、二本目を置いた。

 

 また小さな音。

 

 EVA。

 

「二本」

 

 セレブリャコーフが書く。

 

 三本目。

 

 四本目。

 

 紙包み。

 

 小箱。

 

 注射器のケース。

 

 ひとつずつ机の上へ出されるたび、部屋の中の空気が変わっていく。モレルがいつも何気なく持ち歩いていた鞄の中身が、机上で数えられる物に変わっていく。医師の手の中では道具だったものが、警護の目では搬入物になる。

 

 モレルは、それが不愉快なのだろう。

 

 指の動きが少し荒くなった。

 

 だが、止められない。

 

 止めれば、なぜ止めたのかを聞かれる。

 

 ターニャは、彼を急かさなかった。急かす必要はない。むしろ、ゆっくりでいい。時間がかかるほど、モレル本人がこの確認を面倒だと感じる。面倒だと感じれば、普段どれだけ簡単に通っていたかが見える。

 

「この紙包みは」

 

 セレブリャコーフが聞いた。

 

「必要時に使うものです」

 

「名称をお願いします」

 

「今ここで必要ですか」

 

 モレルの声が少し硬くなった。

 

 ターニャは、紙包みを見た。

 

「必要です。名称が出せないものを総統随行区画へ入れる理由はありません」

 

「出せないとは言っていない」

 

「では、出してください」

 

 また、沈黙。

 

 短いが、重い。

 

 モレルは、名称を言った。セレブリャコーフが書く。EVAが何も言わず、搬入票の一箇所を指で押さえた。

 

 ターニャは、その箇所を見た。

 

 空欄。

 

 この紙包みの記載がない。

 

「この品は、搬入票にありません」

 

「常備品です」

 

「常備品の一覧を出してください」

 

「鞄の中身すべてを一覧にするのですか」

 

「はい」

 

「馬鹿げている」

 

「総統の近くへ入る鞄です」

 

 モレルの目が細くなった。

 

「私は総統の健康を預かっている」

 

「だから、鞄も記録します」

 

「私が信用できないと?」

 

「信用の問題ではありません」

 

「信頼がなければ、医療は成り立ちません」

 

「記録がなければ、警護は成り立ちません」

 

 言葉がぶつかり、そこで止まった。

 

 ターニャは、相手の顔を見た。

 

 モレルは、ようやくターニャを「親衛隊の子供」ではなく、自分の仕事場へ入り込んできた権限として見始めていた。まだ恐れてはいない。だが、軽く払えば退く相手ではないと理解した。

 

 それで十分だった。

 

 前半の目標は、排除ではない。

 

 警戒させること。

 

 相手に、自分の鞄がもう見られていると分からせること。

 

 ターニャは、最後に一枚の搬入票を出した。

 

「この日の分です。会議直前に診療があり、薬品搬入の受領場所がありません。診療鞄の中身にも同じ名称のものがあります。どちらから使用しましたか」

 

 モレルは、紙を見た。

 

 今度は、答えるまで少し時間がかかった。

 

「記録を確認しなければ、正確には言えません」

 

「では、確認して提出してください」

 

「期限は」

 

「明日正午です」

 

「短い」

 

「総統周辺の記録です。長くは置けません」

 

「私は診療もある」

 

「診療は止めません。記録を出してください」

 

 モレルは、机上に並んだ瓶を見た。

 

 それから、ターニャを見た。

 

 香水と薬品の匂いの向こうで、彼の表情から最初の余裕が薄れていた。怒りでも、侮りでもない。もっと実務的な警戒だった。

 

 自分の通っていた道に、誰かが札を立て始めた。

 

 そう気づいた顔だった。

 

 ターニャは、セレブリャコーフへ視線を移した。

 

「今日の確認分をまとめろ。未回答は未回答として残す」

 

「はい」

 

 EVAが、机上の空欄を指で押さえた。

 

「まだある」

 

 ターニャは頷いた。

 

「埋めてもらう」

 

 モレルは、返事をしなかった。

 

 ただ、瓶を鞄へ戻す手つきだけが、来た時よりも慎重になっていた。

 

 

 瓶を戻す音は、来た時よりも小さかった。

 

 モレルは、一本ずつ確かめるように鞄へ収めていく。最初のような乱暴さはない。指先が慎重になったぶん、苛立ちが見えた。革の内側へ布包みを押し込み、留め金を閉じるまで、彼は一度もこちらを見なかった。

 

 ターニャは、その動作を止めなかった。

 

 ここで鞄を取り上げる必要はない。そんなことをすれば、医療妨害だと騒ぐ口実を与えるだけだ。今必要なのは、鞄の中身を奪うことではなく、鞄が無条件に通っていた事実を崩すことだった。

 

 セレブリャコーフは、机上の控えをまとめていた。名称、数量、本人説明、搬入票との照合、未提出の常備品一覧。ひとつずつ欄に落としていく。復唱はしない。書くべき場所へ書くだけだ。

 

 EVAは、モレルの鞄を見ていた。

 

 見張るというほど強くはない。ただ、そこにあるものがもう見逃されていないと示すには十分だった。

 

 モレルは、留め金を閉じたあとで、ようやく顔を上げた。

 

「これで満足ですかな」

 

「不足分があります」

 

 ターニャは、短く答えた。

 

「常備品一覧、正式名称、搬入単位、使用分の出所。明日正午までに提出してください」

 

「私が診療より書類を優先するとでも?」

 

「診療は続けてください。提出もしてください」

 

 モレルは、喉の奥で笑った。

 

 笑いというより、息を押し出しただけに近い。

 

「実に親衛隊らしい。できるかどうかではなく、出せというわけですな」

 

「必要なものを求めています」

 

「総統は、私にそのような負担を望まれないでしょう」

 

「総統のお名前で、記載の省略は確認していません」

 

 その言葉で、モレルの表情が変わった。

 

 総統の名を盾にすることには慣れている。だが、その盾を紙の上へ置けと言われることには慣れていない。そういう顔だった。

 

 ターニャは、机の端に置いた小さな票を前へ滑らせた。

 

「今後、診療鞄を持ち込む場合は、この持込目録を添えてください」

 

「今後?」

 

「はい」

 

「それは、あなたが決めることですか」

 

「総統随行区画へ入る物品の確認です。警護上の処理として行います」

 

 モレルは、票を見下ろした。

 

 紙片は大きくない。持込者、品目、数量、常備または当日追加、受領確認、立会者。欄はそれだけだった。医療の中身へ踏み込む言葉はない。だが、これを通されると、鞄はただの医師の持ち物ではなくなる。

 

 持ち込まれる物になる。

 

 モレルも、それが分かったはずだった。

 

「総統の診療は、軍用倉庫の出し入れとは違う」

 

「違います。ですので、診療を止める欄は作っていません」

 

「しかし、私の手間は増える」

 

「総統に近づく物の確認です。手間を理由に外すことはできません」

 

 モレルは、票を手に取らなかった。

 

 ターニャは、セレブリャコーフへ視線を向けた。

 

「写しを渡せ」

 

「はい」

 

 セレブリャコーフは、同じ票の控えを一枚取り、机の上へ置いた。

 

「こちらが提出用です。控えはこちらで保管します」

 

 モレルは、セレブリャコーフを見た。

 

「あなたも、これが現実的だと思うのですか」

 

 セレブリャコーフは、丁寧に答えた。

 

「運用に必要な欄だけです。診療内容の記載は求めておりません」

 

「医療を知らない者は、そう言う」

 

「医療については判断いたしません」

 

 その返しは、穏やかだった。

 

 だが、逃げ場はなかった。

 

 モレルは、今度はEVAへ目を向けた。彼女は何も言わない。名乗りもしない。肩書きも示さない。ただ立っている。説明のない相手ほど、相手にとっては扱いにくい。

 

 モレルは視線を外した。

 

「総統の許可があれば、このような票は不要でしょう」

 

 ターニャは、すぐに返した。

 

「総統本人の許可がある場合は、その旨を欄に書いてください」

 

「何?」

 

「本人許可。時刻。立会者。それで足ります」

 

 モレルは、初めてはっきりと黙った。

 

 総統本人の許可を否定するつもりはない。むしろ、書けと言っている。書けば、総統の名を使った時刻と場面が残る。書かなければ、許可があったと言えない。

 

 ターニャは、そこまで説明しなかった。

 

 説明しなくても、モレルには通じた。

 

「あなたは、随分と細かい」

 

「細かい場所から崩れます」

 

「崩れる?」

 

「手順の話です」

 

 ターニャは、そこで会話を切った。

 

 これ以上は、思想や感想の応酬になる。不要だった。相手に不快感を持たせることは構わないが、こちらが言葉を増やして論争に付き合う必要はない。

 

 セレブリャコーフが、提出用の票を封筒へ入れた。

 

「こちらをお持ちください。明日正午までの提出分と合わせて、初回の持込目録として扱います」

 

「初回、ですか」

 

「はい。継続確認です」

 

 モレルは、封筒を受け取った。

 

 受け取り方は乱暴ではない。むしろ慎重だった。紙が軽いものではないと理解したのだろう。

 

 彼は鞄を持ち、椅子から立った。白衣の裾が揺れる。高価な布に香料の匂いが移っている。部屋の空気は、彼が立ち上がっただけで少し重くなった。

 

「私は、総統の健康を守るために働いています」

 

「その前提で確認しています」

 

「その確認が、健康を損ねることもある」

 

「診療を妨げる指示は出していません」

 

「あなたは、そう言う」

 

「文書にもそう書きます」

 

 モレルは、扉の前で足を止めた。

 

「総統にご説明する必要があるかもしれませんな」

 

「ご説明は自由です。こちらも確認票を同じ経路で上げます」

 

 モレルは、振り返らなかった。

 

 そのまま扉が開き、彼は廊下へ出た。

 

 扉が閉じたあとも、香水と薬品の混ざった匂いだけが残った。窓のない小部屋では、しばらく消えそうになかった。

 

 セレブリャコーフが、静かに息を整えた。

 

「確認票は受領されました」

 

「受け取った事実を残せ」

 

「はい。受領時刻、立会者、持参鞄ありで記載します」

 

「鞄の中身を全量確認したとは書くな。机上で提示された分のみだ」

 

「分けます」

 

 ターニャは、椅子から立った。

 

 部屋に残った匂いが、白衣の男の存在をまだ主張している。嫌われる理由は、分かりやすかった。身なりは高価だが、清潔な印象にはならない。薬品を扱う手つきは慣れているが、その慣れが周囲への配慮を消している。総統に必要とされているという自負が、警護員や記録係を軽く見る態度に出ている。

 

 ただし、それだけでは切れない。

 

 むしろ、それだけで動けば負ける。

 

 嫌な男だから遠ざけたい。

 

 臭いから排除したい。

 

 態度が悪いから潰したい。

 

 そんな理由では、総統の信頼を持つ医師には届かない。相手は、自分が嫌われていることなど知っている。知っていてなお、総統のそばにいる。周囲の嫌悪は、彼にとって新しい脅威ではない。

 

 新しいのは、鞄の中身を数えられたことだ。

 

 ターニャは、机上の控えを見た。

 

 瓶の名。

 

 包みの数。

 

 小箱の有無。

 

 正式名称不一致。

 

 持込目録未提出。

 

 本人許可欄新設。

 

 これなら、本人の性格に触れない。

 

 触れずに、本人の動ける範囲を狭める。

 

「EVA」

 

「はい」

 

「さっきの鞄、どう見た」

 

「多い」

 

「中身か」

 

「種類」

 

「分かった。種類別の欄を増やす」

 

「常備。追加。未記載」

 

「それでいい」

 

 EVAは、それ以上言わなかった。

 

 セレブリャコーフは、すぐに票の改訂版を作り始めた。常備品、当日追加、未記載品、使用済み、未使用。医療判断に入らず、物品管理として通る言葉だけを選んでいる。

 

 ターニャは、その横へ補足を書いた。

 

 診療上の緊急時は、事後記載を認める。

 

 ただし、事後記載の時刻と理由を残す。

 

 総統本人の許可がある場合は、許可時刻と立会者を記す。

 

 薬品名の略称は、正式名称と対応表を添付する。

 

 診療鞄に常備する品は、初回登録後、変更時のみ追記する。

 

 ここまで書けば、相手は「毎回全てを書けと言うのか」と騒ぎにくい。常備品登録という逃げ道を作っている。だが、その逃げ道を通るには、最初に一覧を出さなければならない。

 

 ターニャは、ペンを置いた。

 

「この形なら、相手も医療妨害とは言いにくい」

 

「初回登録後は変更分のみ、という建て付けですね」

 

「そうだ。手間を減らしてやる代わりに、最初の一覧を出させる」

 

「提出拒否の理由が弱くなります」

 

「拒否するなら、別の理由が必要になる」

 

 セレブリャコーフは、清書に移った。

 

 小部屋の外では、警護員が交代していた。扉の隙間から、短い声が聞こえる。モレルが出たあと、彼らの空気も少し変わっていた。露骨に安心しているわけではない。ただ、先ほどまで通るしかなかった鞄に、初めて票が付いた。それだけで、現場の視線は変わる。

 

 ターニャは、扉を開けた。

 

 廊下にいた警護員が姿勢を正す。

 

「先ほどの医師の通行記録を出してください」

 

「はい」

 

「今後、診療鞄については持込目録の有無だけ確認してください。中身の判断は不要です」

 

「中身は見なくてよいのですか」

 

「見なくていい。目録があるか、受領印があるか、本人許可の場合は立会者がいるか。それだけです」

 

 警護員は、一瞬だけ戸惑ったあとで頷いた。

 

「承知しました」

 

「止めるためではありません。記録するためです」

 

「はい」

 

「判断に迷った場合は、鞄を止めずに、通過時刻と同席者を残してください」

 

「その場合、後でこちらへ報告でよろしいでしょうか」

 

「それで構いません。現場で医療と争う必要はありません」

 

 警護員の顔から、わずかに力が抜けた。

 

 それでいい。

 

 現場に争わせてはいけない。警護員が医師と揉めれば、総統の近くで騒ぎになる。騒ぎになれば、モレルは自分が診療を妨げられたと言える。だから、現場は止めない。ただ、残す。

 

 止めるのは、記録が揃ってからでいい。

 

 ターニャは、小部屋へ戻った。

 

 セレブリャコーフが改訂票を差し出す。

 

「持込目録の改訂案です。常備登録、当日追加、事後記載、本人許可欄を入れています」

 

「よい。これを初回票としてモレル側へ追加送付する」

 

「先ほど渡した票との差し替えですか」

 

「差し替えではない。補足だ。最初の票を受け取った事実を消すな」

 

「はい。補足票として出します」

 

 EVAが、机の上に残った匂いの方を見た。

 

「残留」

 

「匂いの話は書かない」

 

「違う」

 

「何がだ」

 

「鞄の場所」

 

 ターニャは、少し考えた。

 

 モレルは鞄を椅子の横へ置いた。机上に出した品も、全てではない可能性が高い。鞄そのものが、診療室以外のどこに置かれているか。待機中は誰の管理下にあるのか。それが見えていない。

 

「鞄の保管場所か」

 

「はい」

 

 EVAは、短く答えた。

 

 ターニャは、票の下へ新しい欄を加えた。

 

 待機中保管場所。

 

 受け取り後の管理者。

 

 移動時の同伴者。

 

「これも入れる」

 

「はい」

 

 セレブリャコーフが即座に修正した。

 

 モレル本人との初回確認は終わったが、終わったことで増えた欄がある。これは良い流れだった。本人に会わなければ見えなかったものがある。鞄の膨らみ、瓶を扱う手、総統の名を出すタイミング、本人許可を紙に残すことへの反応。

 

 どれも、単独では決め手にならない。

 

 だが、次の確認項目にはなる。

 

 ターニャは、モレルが座っていた椅子を見た。

 

 そこに人はいない。

 

 だが、残った匂いと机上の控えだけで、十分に厄介な相手だと分かった。彼は愚かではない。自分の立場を理解している。総統に近いことを知り、それを仕事の一部として使っている。

 

 過剰な悪役ではない。

 

 むしろ、もっと面倒な種類の人間だった。

 

 必要とされていると信じ、慣れた運用を当然だと思い、周囲が自分を嫌っていることを軽んじている。そういう人間は、悪意がなくても穴を作る。悪意がないぶん、本人は穴だと思っていない。

 

 ターニャは、確認票を閉じた。

 

「戻る」

 

「はい。確認分は執務室で整理します」

 

「モレル側から反論が来る。医療妨害、総統の信頼、診療の遅延。この三つは先に返答案を作っておけ」

 

「作成します」

 

「文面は短くていい。治療には触れない。持込目録は警護確認。本人許可は記載。緊急時は事後記載可。それだけで返す」

 

「承知しました」

 

 EVAが、扉の前で一度止まった。

 

「警戒した」

 

 ターニャは、鞄の音を思い出した。

 

「そうだな」

 

「遅い」

 

「こちらがか」

 

「向こうが」

 

 ターニャは、少しだけ口元を動かした。

 

 確かに、モレルが警戒したのは遅い。彼は最初、親衛隊の少佐が医療へ口を出しに来たと思っていた。だから、総統の信頼を持ち出せば済むと考えた。だが、こちらは薬の中身ではなく、鞄の通り道を見ている。

 

 そこに気づくまでに、瓶はすでに机へ並んでいた。

 

 小部屋を出ると、廊下の空気は先ほどより軽かった。

 

 ただし、それは解決の軽さではない。問題が形を持ったあとの軽さだ。霧のようだったものが、ようやく紙片と欄と票になった。形になれば、次は誰かがそれを嫌がる。

 

 嫌がる者が出てからが、本番だった。

 

 執務室へ戻る途中、遠くの会議室から笑い声が聞こえた。イギリス方面の話だろう。空軍の攻撃、海軍の条件、講和の可能性。大きな話は、いつも声が大きい。

 

 ターニャは、その声を聞き流した。

 

 大きな戦争の横で、小さな鞄が通っている。

 

 その小さな鞄を見落とす国が、大きな判断を誤る。

 

 彼女は、手元の票を見た。

 

 持込目録。

 

 言葉は地味だ。

 

 だが、モレルはもう、この地味な紙を無視できない。

 

次に読みたい展開はどちらですか?(※構成上、前後する可能性あり)

  • イギリス戦方面
  • 帝国内政(モレル関連)
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