【挿絵表示】
※アニメ風
階級はSS少尉。
ターニャの副官設定のため肩には飾緒(しょくしょ/エギュイエット)を着用。
親衛隊(SS)において飾緒をつけることができる階級は、原則として少尉以上とされていました。
医務側からの正式回答は、期限より早く届いた。
早い返事には二種類ある。準備が整っている返事と、相手に先手を取られたくない返事だ。今回のものは、後者に近かった。
封筒は厚くない。表書きは丁寧で、文面も整っている。だが、整っているわりに中身は薄い。名称、数量、保管場所、受領確認。ターニャが求めた項目のうち、すぐに埋められる場所だけが埋められ、面倒な欄には「医療上の必要により随時」や「担当医師判断」といった言葉が入っていた。
つまり、答えたようで答えていない。
ターニャは、紙を机へ置いた。
「少尉、空欄扱いに戻せ」
「はい。『随時』と『担当医師判断』は、確認済みとして扱いません」
「そうだ。便利な言葉で埋められた欄は、空欄より悪い」
セレブリャコーフは、淡々と赤鉛筆ではなく黒鉛筆で印を入れた。赤を使わないのは正しい。赤は見る者の感情を先に動かす。ここで欲しいのは、感情ではなく説明だった。
EVAは、窓際に立っていた。手には、小さなメモだけを持っている。部屋へ入ってから一言も発していない。
ターニャは、医務側の回答をもう一度見た。
薬品名はある。
数量は曖昧だ。
保管場所は一部しか出ていない。
診療鞄の一括扱いについては、医療上の便宜とある。
開始時期は未記載。
指示者名もない。
これでは使えない。
いや、別の意味では使える。
答えられない場所が、はっきり見えた。
「医務記録係では限界だな」
「担当医師本人への確認に進めますか」
「進める。ただし、呼び出しではなく確認だ。こちらが裁く形にするな」
「場所はどういたしますか」
「総統随行区画の近くでいい。相手の仕事場に寄せる。逃げ道を残す代わりに、鞄と記録を持って来させろ」
「はい。確認事項は、搬入経路、受領場所、保管、診療鞄の中身、署名欄の五点でまとめます」
「体調説明の経路も入れる。ただし最後でいい」
セレブリャコーフが短く頷く。
ターニャは、机の右端に置かれた「同一署名者集中分」の束を見た。表紙にモレルの名はない。だが、束を開けば同じ筆跡が何度も現れる。そろそろ本人に見せてもよい。
本人は、まだ自分が見られているとは思っていても、どこを見られているかまでは分かっていないはずだった。
医療への干渉だと思っている。
だから、こちらは医療へ入らない。
薬の効き目ではなく、瓶の道筋を見る。
診断ではなく、扉の記録を見る。
処方の正しさではなく、持ち込まれた物の控えを見る。
それだけで、相手の足元は狭くなる。
「確認会は午後にする。朝に呼べば、相手が準備不足を理由に逃げる。夕方にすれば、誰かに相談される。昼過ぎがいい」
「午後一番で設定します」
「同席者は絞れ。こちらは私、少尉、EVA。相手側はモレル本人と記録係一名までだ」
「警護班は呼びますか」
「外で待たせる。中には入れない。相手が警護員の前で面子を保とうとすると、話が荒れる」
「承知しました」
セレブリャコーフは、すぐに連絡票を書いた。文面は簡単だった。診療記録および搬入控えに関する確認。医療判断への照会ではない。薬品搬入、受領、保管、診療鞄の一括扱い、入退室記録について確認する。担当医師は、関係する控えを持参すること。
丁寧だが、逃げる余地は少ない。
ターニャは、文面に一箇所だけ線を入れた。
「『担当医師』ではなく、『記録上の署名者』にしろ」
「モレル医師と名指ししませんか」
「しない。だが、本人には分かる」
「はい」
EVAが、ようやく口を開いた。
「来る」
ターニャは、目を向けた。
「根拠は」
「怒る」
「怒るなら来るか」
「来る」
それで会話は終わった。
EVAの言い方はいつも短い。だが、今回は間違っていないだろう。モレルが総統の信頼を盾にしているなら、親衛隊の少佐からの確認を無視することはできる。だが、無視すれば記録に残る。出てくれば、自分の権威を見せられる。そう考えるはずだ。
だから来る。
そして、おそらく軽く見る。
ターニャは、それでよかった。
軽く見られることは、不利ではない。相手が油断して口を滑らせるなら、むしろ助かる。
午後一番の確認場所は、総統随行区画から少し離れた小部屋になった。医務室ではない。国家保安本部の執務室でもない。警護記録を扱う臨時の確認室という名目で、机が一つ、椅子が四つ、壁際に記録箱が二つ置かれているだけだった。
部屋は狭いが、狭すぎない。相手を追い込むためではなく、余計な随員を入れないための広さだった。
ターニャは、机の向こう側に座った。セレブリャコーフは左側で控えを開き、EVAは壁に近い位置に立つ。外には護衛がいるが、扉の内側には入っていない。
机上には、三種類の文書だけを置いた。
薬品搬入票。
診療室入退室記録。
署名集中分の抜粋。
最初から全部は出さない。全部を見せれば、相手は一番弱いところではなく、一番反論しやすいところを選んで話し始める。だから、入口は狭くする。
約束の時刻より少し遅れて、廊下の向こうから足音が近づいた。
軽くはない。だが、軍人の足音でもない。靴底が床を押し、途中で一度止まる。誰かが護衛に何かを言ったのだろう。短いやり取りのあと、扉が開いた。
テオドール・モレルは、想像よりも派手だった。
白衣は上等な生地に見えた。仕立ても悪くない。中に着ている服も高価なのだろう。だが、清潔感とは別だった。布地の良さと身だしなみの良さは同じではない。袖口には薬品か何かの薄い染みがあり、襟元には香水の甘い匂いが強く残っている。
その香りの下に、薬品の刺激臭があった。
甘い匂いで隠そうとして、隠しきれていない。むしろ混ざって、余計に鼻へ残る。診療鞄も目についた。革は良い。手入れもされている。だが、不自然に膨れている。中に詰め込まれた瓶や器具の形が、革を内側から押していた。
モレルは、部屋に入るなり、ターニャの姿を上から下まで見た。
視線が黒服で止まり、襟元で止まり、最後に顔で止まる。
子供だと見たのか。
親衛隊だと見たのか。
その両方だろう。
「私を呼んだのは、あなたですかな」
声は柔らかい。だが、柔らかさの奥に、明らかな苛立ちがあった。
ターニャは、座ったまま返した。
「確認のためにお越しいただきました。医療判断についてではありません」
モレルは、小さく笑った。
「それは安心しました。親衛隊の少佐が、総統の治療にまで口を出す時代になったのかと思いましたよ」
「治療を止める話ではありません。瓶がどこから来たかを見るだけです」
笑みが少し薄くなった。
モレルは、鞄を椅子の横へ置いた。置き方がぞんざいだった。中でガラスが小さく触れ合う音がした。セレブリャコーフのペン先が、一度だけ止まる。
ターニャは、その音を聞いた。
聞いたが、すぐには触れない。
「総統は、私の治療を必要としておられます。毎日の激務、会議、軍事上の判断。健康管理は国家のためでもある」
「必要なら、なおさら記録が必要です」
「記録ならあります」
「では、確認します」
ターニャは、薬品搬入票を一枚前へ出した。
日付は直近のものではない。少し前の、会議前に診療が入った日だった。相手が即座に覚えていない程度に古く、だが記録としては十分新しい。
「この瓶は誰が運びましたか」
モレルは、紙を見た。
ほんの一瞬、答えが遅れた。
遅れは短い。普通なら見逃す程度だ。だが、セレブリャコーフのペンはその短さも拾った。
「通常の経路です」
「通常なら控えがあります。出してください」
「控えは医務側にあります」
「ここに提出された控えでは、搬入者が空欄です」
「総統の診療に必要な薬品です。いちいち全ての搬入者を細かく書くものではありません」
「それは、誰が決めましたか」
モレルは、口元に笑みを戻した。
「医療現場の運用です。緊急性がある場合も多い。書類より患者が優先されるのは当然でしょう」
「患者を優先することと、空欄を残すことは別です」
「あなたは医療の緊急性をご存じない」
「知りません。ですから、効能も診断も聞いていません」
ターニャは、もう一枚の紙を置いた。
診療室入退室記録。
「ここでは、診療室への入室時刻と処方控えの時刻が合っていません」
「診療は時計のために行うものではない」
「警護は時計で動きます」
モレルの笑みがまた薄くなった。
彼は椅子に深く座り直し、腹の前で手を組んだ。その指は太く、爪の周りに薬品の色が薄く残っている。瓶の栓を扱い慣れた手だった。診療器具の扱いに不慣れな者の手ではない。
その慣れが、悪いわけではない。
問題は、慣れすぎていることだった。
瓶が特別なものではなく、毎日の道具になっている。毎日の道具だから、記録が雑になる。雑になっても誰も止めない。総統に近い医師だからだ。
ターニャは、淡々と続けた。
「治療内容ではなく、通過記録を確認しています。この日は、薬品搬入の控えに受領場所がありません。診療室入室の記録とも合いません」
「忙しい日でした」
「忙しいなら、記録を簡略にしてよいという取り決めがありますか」
「取り決めというほどのものではない。実務です」
「では、実務の根拠を出してください」
モレルは、初めて明確に不快な顔をした。
「少佐、あなたは私の仕事を理解していない。総統のお身体は、通常の患者とは違う。私はその状態を毎日見ている。必要な時に必要な処置をする。それを、扉だの瓶だのと」
「扉と瓶を見ています」
「だから、それが医療への干渉なのです」
「違います」
ターニャは、短く切った。
部屋の空気が止まる。
モレルの目が細くなった。セレブリャコーフはペンを動かし続ける。EVAは壁際で変わらない。
ターニャは、声を荒らげなかった。
「私は、あなたの処方が正しいかを聞いていません。薬の効き目も聞いていません。聞いているのは、誰が運び、誰が受け取り、どこで保管したかです」
「それは医療の一部です」
「警護の一部でもあります」
モレルは、鼻で息をした。
「親衛隊は何でも自分たちの領分にしたがる」
「総統の部屋へ入るものは、警護の確認対象です」
「総統ご自身が私を信頼しておられる」
「それなら、記録で困ることはありません」
また、短い沈黙が落ちた。
モレルは、鞄に手を置いた。無意識なのか、見せつけるためなのかは分からない。革の表面がわずかに沈む。中の瓶が押し合う音がした。
EVAが、ぽつりと言った。
「空欄」
モレルの視線がEVAへ向いた。
「何ですかな」
EVAは答えない。
ターニャが代わりに言った。
「埋めてください」
「何をです」
「搬入者、受領場所、保管場所、診療鞄の一括扱いの根拠です」
「今ここで全てを?」
「分かる範囲で結構です。分からない場所は、分からないと書いてください」
モレルは、机上の紙を指で軽く叩いた。
「このような確認が、総統の診療を遅らせることになれば、責任はどなたが取るのですかな」
来た。
ターニャは、内心でそう思った。
総統の診療を遅らせる。
総統の健康を妨げる。
総統の信頼に逆らう。
おそらく、モレルが最も使い慣れている盾だった。
だが、その盾は医療判断に対して有効なのであって、記録の確認に対しては薄い。
「診療を止める指示は出していません。確認項目を埋めるだけです」
「それでも手間は増える」
「総統周辺の手間です。必要なら増やします」
モレルは、じっとターニャを見た。
初めて、子供を見る目ではなくなった。
ターニャは、もう一枚の紙を出した。
「この日、診療後に総統の面会順が変わっています。体調説明は誰を通しましたか」
「私は医師として必要な説明をしただけです」
「誰にですか」
「侍従を通じて、必要な者へ」
「必要な者とは誰ですか」
「その時々です」
「では、その時々の記録を出してください」
モレルは、口を閉じた。
今度の沈黙は、少し長かった。
ターニャは、追い詰めすぎないよう、紙を引いた。
「内容は不要です。誰へ伝えたかだけで結構です」
「総統の体調に関する情報です。慎重に扱うべきものだ」
「慎重に扱うために、経路を確認します」
「経路、経路と。医療は鉄道ではありませんよ」
「国家の中枢は、通った道を残します」
モレルの頬がかすかに動いた。
怒りだろう。
だが、まだ声には出さない。彼は自分が総統の近くにいることを知っている。その近さが、相手を退かせることも知っている。だから、怒鳴る必要がないと思っている。
ターニャは、その態度を見た。
総統に近いことが、本人の資格になっている。
医師であること以上に、総統が信頼していることが盾になっている。
厄介だった。
だが、同時に弱点でもある。
盾が強い者は、盾の外での準備を怠る。
記録の穴を軽く見る。
「モレル医師」
ターニャは、初めて名前を呼んだ。
モレルの目が動く。
「こちらは治療の可否を決めません。あなたが必要だと言う処置を、この場で止めるつもりもありません。ただし、薬品が総統随行区画へ入る以上、搬入、受領、保管、入退室、説明経路は記録へ戻します」
「戻す、とは?」
「抜けている欄を埋めるという意味です」
「それは私への疑いですか」
「確認です」
「疑いと確認は、便利に言い換えられる」
「疑いなら、先にあなたの名を表題に出しています」
モレルは黙った。
セレブリャコーフのペン先が、紙の上を静かに走る。
EVAが、目を伏せたまま言った。
「名前、ない」
モレルは、再びEVAを見た。だが、彼女はもう何も言わない。
ターニャは、机の上に置いた表紙をモレルへ向けた。
総統随行区画における搬入・入退室記録の照合。
そこには、モレルの名はない。
それを見て、モレルの表情がわずかに変わった。
名前がないことに安心したのではない。
名前がないからこそ、自分から医療への干渉だと騒ぎにくいのだと気づいた顔だった。
ターニャは、続けた。
「この表題で進めます。あなた個人ではなく、総統周辺の確認です」
「しかし、私の署名が多いのでしょう」
「記録上、そう見えます」
「なら、結局は同じことだ」
「同じかどうかは、記録を埋めてから判断します」
モレルは、深く息を吸った。
香水と薬品の匂いが、少し強くなった。本人が動いたせいか、鞄の中身のせいかは分からない。狭い部屋では、匂いが逃げない。
セレブリャコーフは、表情を変えない。
だが、ターニャは彼女のペンがほんの少し遅くなったのを見た。
不快ではあるのだろう。
不快であることを、記録にはしない。
モレルは、ようやく鞄を開いた。
革の蓋が上がると、瓶の首がいくつも見えた。布で包まれたもの、金属の小箱、小さな紙包み、注射器のケース。並びは雑ではない。むしろ、使い慣れている者の手で詰められている。どこに何があるか、本人にはすぐ分かるだろう。
それが余計に悪い。
慣れている。
総統の近くへ入る鞄として、あまりに日常的に扱われている。
「この中身を一つずつ書けと?」
モレルが言った。
「診療のたびに持ち込むものと、その日だけ持ち込むものを分けてください」
「そんな分類は医療上の意味が薄い」
「警護上は意味があります」
「あなたは、本当にそればかりですな」
「私の担当はそこです」
モレルは、瓶を一本取り出した。
動きは滑らかだった。瓶の首をつまむ指に迷いがない。ラベルを見る前に、中身を把握しているように見える。彼はそれを机に置きかけ、途中で止めた。
ターニャは、その止めた動きを見た。
「置いてください」
「壊れ物です」
「机は平らです」
モレルは、わずかに顔をしかめ、瓶を置いた。
小さな音がした。
EVAが言った。
「一本」
セレブリャコーフが記録する。
モレルは、次の瓶に手を伸ばした。
「これは常備しているものです」
「名称を」
モレルは答えた。
セレブリャコーフが書く。
「搬入控えでは、名称が別表記です」
セレブリャコーフが静かに補足した。
モレルは、すぐに言った。
「略称です。医療現場では通じます」
「正式名称に揃えてください」
ターニャが言う。
「いちいち正式名称で書いていては、手間が」
「総統周辺へ入るものです。手間は理由になりません」
モレルは、二本目を置いた。
また小さな音。
EVA。
「二本」
セレブリャコーフが書く。
三本目。
四本目。
紙包み。
小箱。
注射器のケース。
ひとつずつ机の上へ出されるたび、部屋の中の空気が変わっていく。モレルがいつも何気なく持ち歩いていた鞄の中身が、机上で数えられる物に変わっていく。医師の手の中では道具だったものが、警護の目では搬入物になる。
モレルは、それが不愉快なのだろう。
指の動きが少し荒くなった。
だが、止められない。
止めれば、なぜ止めたのかを聞かれる。
ターニャは、彼を急かさなかった。急かす必要はない。むしろ、ゆっくりでいい。時間がかかるほど、モレル本人がこの確認を面倒だと感じる。面倒だと感じれば、普段どれだけ簡単に通っていたかが見える。
「この紙包みは」
セレブリャコーフが聞いた。
「必要時に使うものです」
「名称をお願いします」
「今ここで必要ですか」
モレルの声が少し硬くなった。
ターニャは、紙包みを見た。
「必要です。名称が出せないものを総統随行区画へ入れる理由はありません」
「出せないとは言っていない」
「では、出してください」
また、沈黙。
短いが、重い。
モレルは、名称を言った。セレブリャコーフが書く。EVAが何も言わず、搬入票の一箇所を指で押さえた。
ターニャは、その箇所を見た。
空欄。
この紙包みの記載がない。
「この品は、搬入票にありません」
「常備品です」
「常備品の一覧を出してください」
「鞄の中身すべてを一覧にするのですか」
「はい」
「馬鹿げている」
「総統の近くへ入る鞄です」
モレルの目が細くなった。
「私は総統の健康を預かっている」
「だから、鞄も記録します」
「私が信用できないと?」
「信用の問題ではありません」
「信頼がなければ、医療は成り立ちません」
「記録がなければ、警護は成り立ちません」
言葉がぶつかり、そこで止まった。
ターニャは、相手の顔を見た。
モレルは、ようやくターニャを「親衛隊の子供」ではなく、自分の仕事場へ入り込んできた権限として見始めていた。まだ恐れてはいない。だが、軽く払えば退く相手ではないと理解した。
それで十分だった。
前半の目標は、排除ではない。
警戒させること。
相手に、自分の鞄がもう見られていると分からせること。
ターニャは、最後に一枚の搬入票を出した。
「この日の分です。会議直前に診療があり、薬品搬入の受領場所がありません。診療鞄の中身にも同じ名称のものがあります。どちらから使用しましたか」
モレルは、紙を見た。
今度は、答えるまで少し時間がかかった。
「記録を確認しなければ、正確には言えません」
「では、確認して提出してください」
「期限は」
「明日正午です」
「短い」
「総統周辺の記録です。長くは置けません」
「私は診療もある」
「診療は止めません。記録を出してください」
モレルは、机上に並んだ瓶を見た。
それから、ターニャを見た。
香水と薬品の匂いの向こうで、彼の表情から最初の余裕が薄れていた。怒りでも、侮りでもない。もっと実務的な警戒だった。
自分の通っていた道に、誰かが札を立て始めた。
そう気づいた顔だった。
ターニャは、セレブリャコーフへ視線を移した。
「今日の確認分をまとめろ。未回答は未回答として残す」
「はい」
EVAが、机上の空欄を指で押さえた。
「まだある」
ターニャは頷いた。
「埋めてもらう」
モレルは、返事をしなかった。
ただ、瓶を鞄へ戻す手つきだけが、来た時よりも慎重になっていた。
瓶を戻す音は、来た時よりも小さかった。
モレルは、一本ずつ確かめるように鞄へ収めていく。最初のような乱暴さはない。指先が慎重になったぶん、苛立ちが見えた。革の内側へ布包みを押し込み、留め金を閉じるまで、彼は一度もこちらを見なかった。
ターニャは、その動作を止めなかった。
ここで鞄を取り上げる必要はない。そんなことをすれば、医療妨害だと騒ぐ口実を与えるだけだ。今必要なのは、鞄の中身を奪うことではなく、鞄が無条件に通っていた事実を崩すことだった。
セレブリャコーフは、机上の控えをまとめていた。名称、数量、本人説明、搬入票との照合、未提出の常備品一覧。ひとつずつ欄に落としていく。復唱はしない。書くべき場所へ書くだけだ。
EVAは、モレルの鞄を見ていた。
見張るというほど強くはない。ただ、そこにあるものがもう見逃されていないと示すには十分だった。
モレルは、留め金を閉じたあとで、ようやく顔を上げた。
「これで満足ですかな」
「不足分があります」
ターニャは、短く答えた。
「常備品一覧、正式名称、搬入単位、使用分の出所。明日正午までに提出してください」
「私が診療より書類を優先するとでも?」
「診療は続けてください。提出もしてください」
モレルは、喉の奥で笑った。
笑いというより、息を押し出しただけに近い。
「実に親衛隊らしい。できるかどうかではなく、出せというわけですな」
「必要なものを求めています」
「総統は、私にそのような負担を望まれないでしょう」
「総統のお名前で、記載の省略は確認していません」
その言葉で、モレルの表情が変わった。
総統の名を盾にすることには慣れている。だが、その盾を紙の上へ置けと言われることには慣れていない。そういう顔だった。
ターニャは、机の端に置いた小さな票を前へ滑らせた。
「今後、診療鞄を持ち込む場合は、この持込目録を添えてください」
「今後?」
「はい」
「それは、あなたが決めることですか」
「総統随行区画へ入る物品の確認です。警護上の処理として行います」
モレルは、票を見下ろした。
紙片は大きくない。持込者、品目、数量、常備または当日追加、受領確認、立会者。欄はそれだけだった。医療の中身へ踏み込む言葉はない。だが、これを通されると、鞄はただの医師の持ち物ではなくなる。
持ち込まれる物になる。
モレルも、それが分かったはずだった。
「総統の診療は、軍用倉庫の出し入れとは違う」
「違います。ですので、診療を止める欄は作っていません」
「しかし、私の手間は増える」
「総統に近づく物の確認です。手間を理由に外すことはできません」
モレルは、票を手に取らなかった。
ターニャは、セレブリャコーフへ視線を向けた。
「写しを渡せ」
「はい」
セレブリャコーフは、同じ票の控えを一枚取り、机の上へ置いた。
「こちらが提出用です。控えはこちらで保管します」
モレルは、セレブリャコーフを見た。
「あなたも、これが現実的だと思うのですか」
セレブリャコーフは、丁寧に答えた。
「運用に必要な欄だけです。診療内容の記載は求めておりません」
「医療を知らない者は、そう言う」
「医療については判断いたしません」
その返しは、穏やかだった。
だが、逃げ場はなかった。
モレルは、今度はEVAへ目を向けた。彼女は何も言わない。名乗りもしない。肩書きも示さない。ただ立っている。説明のない相手ほど、相手にとっては扱いにくい。
モレルは視線を外した。
「総統の許可があれば、このような票は不要でしょう」
ターニャは、すぐに返した。
「総統本人の許可がある場合は、その旨を欄に書いてください」
「何?」
「本人許可。時刻。立会者。それで足ります」
モレルは、初めてはっきりと黙った。
総統本人の許可を否定するつもりはない。むしろ、書けと言っている。書けば、総統の名を使った時刻と場面が残る。書かなければ、許可があったと言えない。
ターニャは、そこまで説明しなかった。
説明しなくても、モレルには通じた。
「あなたは、随分と細かい」
「細かい場所から崩れます」
「崩れる?」
「手順の話です」
ターニャは、そこで会話を切った。
これ以上は、思想や感想の応酬になる。不要だった。相手に不快感を持たせることは構わないが、こちらが言葉を増やして論争に付き合う必要はない。
セレブリャコーフが、提出用の票を封筒へ入れた。
「こちらをお持ちください。明日正午までの提出分と合わせて、初回の持込目録として扱います」
「初回、ですか」
「はい。継続確認です」
モレルは、封筒を受け取った。
受け取り方は乱暴ではない。むしろ慎重だった。紙が軽いものではないと理解したのだろう。
彼は鞄を持ち、椅子から立った。白衣の裾が揺れる。高価な布に香料の匂いが移っている。部屋の空気は、彼が立ち上がっただけで少し重くなった。
「私は、総統の健康を守るために働いています」
「その前提で確認しています」
「その確認が、健康を損ねることもある」
「診療を妨げる指示は出していません」
「あなたは、そう言う」
「文書にもそう書きます」
モレルは、扉の前で足を止めた。
「総統にご説明する必要があるかもしれませんな」
「ご説明は自由です。こちらも確認票を同じ経路で上げます」
モレルは、振り返らなかった。
そのまま扉が開き、彼は廊下へ出た。
扉が閉じたあとも、香水と薬品の混ざった匂いだけが残った。窓のない小部屋では、しばらく消えそうになかった。
セレブリャコーフが、静かに息を整えた。
「確認票は受領されました」
「受け取った事実を残せ」
「はい。受領時刻、立会者、持参鞄ありで記載します」
「鞄の中身を全量確認したとは書くな。机上で提示された分のみだ」
「分けます」
ターニャは、椅子から立った。
部屋に残った匂いが、白衣の男の存在をまだ主張している。嫌われる理由は、分かりやすかった。身なりは高価だが、清潔な印象にはならない。薬品を扱う手つきは慣れているが、その慣れが周囲への配慮を消している。総統に必要とされているという自負が、警護員や記録係を軽く見る態度に出ている。
ただし、それだけでは切れない。
むしろ、それだけで動けば負ける。
嫌な男だから遠ざけたい。
臭いから排除したい。
態度が悪いから潰したい。
そんな理由では、総統の信頼を持つ医師には届かない。相手は、自分が嫌われていることなど知っている。知っていてなお、総統のそばにいる。周囲の嫌悪は、彼にとって新しい脅威ではない。
新しいのは、鞄の中身を数えられたことだ。
ターニャは、机上の控えを見た。
瓶の名。
包みの数。
小箱の有無。
正式名称不一致。
持込目録未提出。
本人許可欄新設。
これなら、本人の性格に触れない。
触れずに、本人の動ける範囲を狭める。
「EVA」
「はい」
「さっきの鞄、どう見た」
「多い」
「中身か」
「種類」
「分かった。種類別の欄を増やす」
「常備。追加。未記載」
「それでいい」
EVAは、それ以上言わなかった。
セレブリャコーフは、すぐに票の改訂版を作り始めた。常備品、当日追加、未記載品、使用済み、未使用。医療判断に入らず、物品管理として通る言葉だけを選んでいる。
ターニャは、その横へ補足を書いた。
診療上の緊急時は、事後記載を認める。
ただし、事後記載の時刻と理由を残す。
総統本人の許可がある場合は、許可時刻と立会者を記す。
薬品名の略称は、正式名称と対応表を添付する。
診療鞄に常備する品は、初回登録後、変更時のみ追記する。
ここまで書けば、相手は「毎回全てを書けと言うのか」と騒ぎにくい。常備品登録という逃げ道を作っている。だが、その逃げ道を通るには、最初に一覧を出さなければならない。
ターニャは、ペンを置いた。
「この形なら、相手も医療妨害とは言いにくい」
「初回登録後は変更分のみ、という建て付けですね」
「そうだ。手間を減らしてやる代わりに、最初の一覧を出させる」
「提出拒否の理由が弱くなります」
「拒否するなら、別の理由が必要になる」
セレブリャコーフは、清書に移った。
小部屋の外では、警護員が交代していた。扉の隙間から、短い声が聞こえる。モレルが出たあと、彼らの空気も少し変わっていた。露骨に安心しているわけではない。ただ、先ほどまで通るしかなかった鞄に、初めて票が付いた。それだけで、現場の視線は変わる。
ターニャは、扉を開けた。
廊下にいた警護員が姿勢を正す。
「先ほどの医師の通行記録を出してください」
「はい」
「今後、診療鞄については持込目録の有無だけ確認してください。中身の判断は不要です」
「中身は見なくてよいのですか」
「見なくていい。目録があるか、受領印があるか、本人許可の場合は立会者がいるか。それだけです」
警護員は、一瞬だけ戸惑ったあとで頷いた。
「承知しました」
「止めるためではありません。記録するためです」
「はい」
「判断に迷った場合は、鞄を止めずに、通過時刻と同席者を残してください」
「その場合、後でこちらへ報告でよろしいでしょうか」
「それで構いません。現場で医療と争う必要はありません」
警護員の顔から、わずかに力が抜けた。
それでいい。
現場に争わせてはいけない。警護員が医師と揉めれば、総統の近くで騒ぎになる。騒ぎになれば、モレルは自分が診療を妨げられたと言える。だから、現場は止めない。ただ、残す。
止めるのは、記録が揃ってからでいい。
ターニャは、小部屋へ戻った。
セレブリャコーフが改訂票を差し出す。
「持込目録の改訂案です。常備登録、当日追加、事後記載、本人許可欄を入れています」
「よい。これを初回票としてモレル側へ追加送付する」
「先ほど渡した票との差し替えですか」
「差し替えではない。補足だ。最初の票を受け取った事実を消すな」
「はい。補足票として出します」
EVAが、机の上に残った匂いの方を見た。
「残留」
「匂いの話は書かない」
「違う」
「何がだ」
「鞄の場所」
ターニャは、少し考えた。
モレルは鞄を椅子の横へ置いた。机上に出した品も、全てではない可能性が高い。鞄そのものが、診療室以外のどこに置かれているか。待機中は誰の管理下にあるのか。それが見えていない。
「鞄の保管場所か」
「はい」
EVAは、短く答えた。
ターニャは、票の下へ新しい欄を加えた。
待機中保管場所。
受け取り後の管理者。
移動時の同伴者。
「これも入れる」
「はい」
セレブリャコーフが即座に修正した。
モレル本人との初回確認は終わったが、終わったことで増えた欄がある。これは良い流れだった。本人に会わなければ見えなかったものがある。鞄の膨らみ、瓶を扱う手、総統の名を出すタイミング、本人許可を紙に残すことへの反応。
どれも、単独では決め手にならない。
だが、次の確認項目にはなる。
ターニャは、モレルが座っていた椅子を見た。
そこに人はいない。
だが、残った匂いと机上の控えだけで、十分に厄介な相手だと分かった。彼は愚かではない。自分の立場を理解している。総統に近いことを知り、それを仕事の一部として使っている。
過剰な悪役ではない。
むしろ、もっと面倒な種類の人間だった。
必要とされていると信じ、慣れた運用を当然だと思い、周囲が自分を嫌っていることを軽んじている。そういう人間は、悪意がなくても穴を作る。悪意がないぶん、本人は穴だと思っていない。
ターニャは、確認票を閉じた。
「戻る」
「はい。確認分は執務室で整理します」
「モレル側から反論が来る。医療妨害、総統の信頼、診療の遅延。この三つは先に返答案を作っておけ」
「作成します」
「文面は短くていい。治療には触れない。持込目録は警護確認。本人許可は記載。緊急時は事後記載可。それだけで返す」
「承知しました」
EVAが、扉の前で一度止まった。
「警戒した」
ターニャは、鞄の音を思い出した。
「そうだな」
「遅い」
「こちらがか」
「向こうが」
ターニャは、少しだけ口元を動かした。
確かに、モレルが警戒したのは遅い。彼は最初、親衛隊の少佐が医療へ口を出しに来たと思っていた。だから、総統の信頼を持ち出せば済むと考えた。だが、こちらは薬の中身ではなく、鞄の通り道を見ている。
そこに気づくまでに、瓶はすでに机へ並んでいた。
小部屋を出ると、廊下の空気は先ほどより軽かった。
ただし、それは解決の軽さではない。問題が形を持ったあとの軽さだ。霧のようだったものが、ようやく紙片と欄と票になった。形になれば、次は誰かがそれを嫌がる。
嫌がる者が出てからが、本番だった。
執務室へ戻る途中、遠くの会議室から笑い声が聞こえた。イギリス方面の話だろう。空軍の攻撃、海軍の条件、講和の可能性。大きな話は、いつも声が大きい。
ターニャは、その声を聞き流した。
大きな戦争の横で、小さな鞄が通っている。
その小さな鞄を見落とす国が、大きな判断を誤る。
彼女は、手元の票を見た。
持込目録。
言葉は地味だ。
だが、モレルはもう、この地味な紙を無視できない。
次に読みたい展開はどちらですか?(※構成上、前後する可能性あり)
-
イギリス戦方面
-
帝国内政(モレル関連)